ジオターゲティング
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2006年05月31日(水) 22時36分55秒

体力の限界に…

テーマ:ブログ
今日まで、二泊三日で教区総会に出席してきました。本日程は昨日今日だったのですが、今年、私は設営委員の一人になってしまい、月曜日からの参加でした。

今の教会に赴任してきた時には、28歳だった私ももはや35歳。一年に一度しか合わない方々ともお会いする機会です。何となく、お互いに最初にあった時のイメージが抜け切れませんので、現実を認識する機会も多くなります。

まず、食べ物の嗜好の変化。会議が終わった後、みんなでラーメンを食べに行ったりするのですが、数年間そう言うことを続けていますと、「俺、今日はいいや」なんて、発言が聞こえるようになってきます。「なんか最近はラーメンより蕎麦の方が好きなんだよ」「そうそう、焼き肉なんかあんまり食べたいとも思わなくなってきたよ」などと話が盛り上がります。「脂肪肝だって言われてさ」なんて人まで出てくる始末…。毎日の生活では気が付かないことでも一年ぶりにあったりすると、「ああ、お互いに歳をとったんだなあ、中年になったなあ」としみじみ思いを巡らすことになります。

同じように、歳を感じるものに子供の成長があります。その子と会わない期間が長ければ長いほど驚きも大きくなりますし、その驚きによって自分自身の歩んできた人生の道程を味わう事になります。

牧師の仕事をしていると、月日の経つのは速いものだと実感させられることがしばしばです。ほとんどの信徒さんとは一週間に一度しかお会いしません。これって、年間でも52回しかお会いしないと言うことです。私の人生、今まで何日なのかと調べてみたら、今日で13、052日でした。一日一日で考えたら長い一生のような記がしますが、週で考えると10年でも520週。もし、一年に一度のクリスマスなんて行事で、私はクリスマスの説教を死ぬまでに、多く考えたとしてもあと40回しかできないかなあなんて思うと、一回一回、一日一日がとても大切なものだと言うことに思い至ります。

何事にも終わりはあります。いつまでも続くものなど何もありません。その中でも私達が意識的に見つめていかなければならないのは、私達の人生のいずれの日にか必ず訪れる死…これを見据えようとしなければ、人生は砂漠の中を歩むような悲しみと渇きばかりの歩みになってしまうでしょう。

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2006年05月30日(火) 01時48分52秒

一位を目指して

テーマ:ブログ
天賦の才というのは誰にでもあるものだと思います。
いろいろなところでトップクラスの人がいますが、その人たちには、天賦の才というものがあるのだと心から思います。

天賦の才…それを教会では賜物と言う風に言います。神様が下さった素晴らしいものという意味で使う言葉です。

でも、賜物だけでトップになれるわけではないことも知らされます。チャンスとそれを掴む努力が大切なのだと良く言われます。

例えば私の場合、自分に才能がないと言い切って、与えられているはずの賜物にさえ気がつこうとしない自分に気がつきまました。これって、極論すれば自分を信じることができていないということ、更に言えば自分を活かそうとしていない、自分を愛せていないと言うことにもなってしまっているのではないかと思うようになったのです。
トップランナー達は、自分に才能がない部分を悔しがるのではなくて、自分の才能をどうやって生かすか考えて、様々な努力をしています。これって、自分の才能が開花することの本当の価値と楽しみを彼らが知っていると言うことなのだと気が付きました。

賜物は神様によって与えられたものであるはずです。その賜物が一体何をもたらすかは突き詰めてみなければ解りません。

でも、トップランナーの輝く姿を見るとき、自分に与えられた賜物を突き詰めることの楽しさだけは解るような気がしてきます。とりあえず、もっと欲を持っていろいろやってみようかなと思っています。
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2006年05月28日(日) 23時55分27秒

教会に来る人々 その17

テーマ:教会に来る人々
先ほど、外に出ていましたら、飲み屋帰りのおじさんが声をかけてくださいました。

「ここの先生かい?」

「先生と言うほどのものでもないですが、この教会の牧師です。」と答えると、「私は宗教ってものが嫌いなんだけど、昔教会に行ったこともあってね」と彼は話し始めました。教会の玄関前の会談に座り込み、30分ほども話したでしょうか?

この様に、飲むと宗教の話なんかが大好きになる人って結構多いようで、夜11時をすぎたあたりに教会の前でタバコなんかを吹かしていたりすると、時々、こういう人が声をかけてくるんです。

「宗教というのは嫌いなんだよ。失礼だけど、所詮キリスト教だって元は問題起こしてる宗教と変わらないと思うんだけど…」いきなり挑戦状ですね。受けて立ちましょう。(^^;根っからこういうのの話し相手になるのは大好きな私だったりします。

「宗教はいつも民衆を煽って戦争を起こすから嫌いなんだ」とその方。「だとすれば信心深い人ほど戦争が大好きって事になりますけど…」と私。

「イスラム教なんかそうじゃないか」とその方。「イスラム教の大多数を占める穏健派の人たちは、相手が何教徒だろうが助けてくれますよ」と私。

「それはその人との人柄だろう」とその方。「その人柄の裏付けとなるのはその人の信仰以外の何物でもないのですよ」と私。

「そう言えば、学生の時に先生が教えてくれた『天は自ら助くる者を助く』って言葉が私の人生の基本だなあ」とその人。「そうでしょう?それこそがお宅様の信仰で、それは他の人がどう言おうと譲れない部分でしょ?」と返すと、「そりゃそうだ。私は宗教なんか嫌いなんだけどね、でも、楽しいねこんな話。今度は昼間にでも遊びに来ますよ。いいですか?」

どうぞどうぞ。今度はコーヒーでも飲みに来てください。(^^)/

信仰というのは、その人にとって譲れない価値観と言うことができます。そして、先人達のそう言う価値観を学び、後世に伝えていくことこそが信仰だと思います。世界にも日本にも、すばらしい先達が沢山いました。その人達の生き様を学び、吸収し、次の世代に伝えていく事ってとても大事なことだと思うし、そう言う話って本当に楽しいものなんですよ。

群馬県太田市に来られたときには是非、私たちの太田八幡教会にお寄り下さい。一緒にコーヒーでも飲みながらいろんな話を聞かせていただけたらと心から願っています。

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2006年05月27日(土) 23時55分52秒

教員免許

テーマ:教育
教員免許の書き換え制のことが27日の新聞に書かれていました。新聞の記事によれば、免許の有効期間を10年ほどに設定し、大学などで30時間程度の研修受ける事によって更新を可能とする事を中教審が答申として提示したという事でした。

正直言って愕然としました。それは、私も教員免許を持っているからです。もし、この答申の通りだとすれば、私も近々、免許を失う事になるでしょう。でも、免許を失うから愕然としたのではありません。それは、私の教員免許に対する思いにあるからです。

以前、私がある中学校の宗教科の非常勤講師として働いていた事はこのブログでも何度か書きましたが、この学校は私の家から電車で二時間のところにありました。私の受け持ちは、中学二年生の四クラス。私には本業がありますから、火曜日に4時間の授業を行いました。最初の年は1時限目から4時限目まで連続の授業でした。同じ授業を4時間連続でするという事は非常に疲れるものです。

本業があるのですから、別に引き受けなくても良かったのですが、せざるを得なかったのは、事情がありました。それは、教師数の不足でした。専任で雇う予算は無いが頭数が足りないという事で、パートタイムの教師を入れる…それが非常勤講師というものです。それこそ、宗教科なんて教科の教師を専任で複数人雇い入れる経済的余裕なんて多くの学校ではありませんから…。そこで活躍するのが非常勤講師という訳です。また、病気や妊娠、育児休業などで長期休業しなければいけない先生や、突然死した先生の代わりとして、定年退職した教師を非常勤講師として迎え乗り切るなんて事はよくある事です。

私が教員免許を持っているのは、正にそう言う場を想定しているからなのです。しかしながら、この中教審の答申の通りになるとすれば、私だって「30時間の大学での研修を受けること」なんか出来っこありませんから、教員免許は捨てざるを得なくなるだろうと思うのです。大学だって、「集中的に30時間の講習を行え」なんて言われたら困るに違いないと思います。そもそも30時間の講習って一体何をするのでしょう。一日5時間の講義を受けても6日もかかるのです。

それとも、企業出身の校長なんかが生まれて来ている現状から前向きにとらえてみて、大学で30時間の研修を受ける事で誰でも教師になる事が出来るという事なのでしょうか?

教師の指導力不足が問題となっている事はニュースなどでもよく報じられておりましたが、こんな更新制を設けただけで、指導力不足などというものが改善されるのかは、私としては甚だ疑問だからです。そもそも、教師の指導力って、免許を取ってから落ちていく技能なのでしょうか?大学出たて、教師免許を取得したての教師と、その道30年のベテラン教師とどちらが技能が高いと言えるのでしょう?学校教育が塾を頼らなくてはならないほどに、学力低下が進んでいるこの日本で、不思議な事に塾の講師は大学生のアルバイトなんてことは日常茶飯事です。それなのに、学校の先生の免許だけは更新制にしなければ行けないというのは、学校教育をさらに衰退させる以外の何物でもないと思います。

僭越な話になりますが、教師というのは全体のトータルバランスが必要な職業だと思います。才能の必要な業種だと思うのです。免許というのはそういうトータルなバランスに対して与えられるものでなければならないと私は思います。

昔の勉学…勉強というのは、極度に専門的で、閉鎖的で、個人的なものでした。江戸時代などは、徒弟制度と、一門主義によって独占されていたのです。それを子供たちに教えたいと、せめて、読み書きそろばんだけでも出来る様になればと願う人達によって寺子屋が営まれました。

教育というのは、情熱と愛情とを必要とします。子供のために命をかける事が求められるのが教師という仕事です。しかし現実には教員採用試験に於いてはそんな事は問われないのが現実です。採用試験の成績が良いかどうかのみが判断の基準になるのです。「教師は食いっパグレが無いからな」と言いながら教師になっていく学生たち、そして成績のみを見て採用していく事こそが問題なのだと思うのです。

教員免許の更新制にしたところで「教師はおいしい仕事」と思っている人達は更新をし続ける反面、定年退職した経験豊かな元教師たちは免許を失い、教育現場から姿を消していく…。非常勤すら利権の巣になっていくようなシステムに過ぎないと思うのですがいかがでしょうか?

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2006年05月26日(金) 14時35分27秒

非常

テーマ:ブログ
夕方などは、教会の前に出ています。教会学校に来る子供たちと出会ったり、散歩や買い物で歩く人たちとも挨拶が出来るようになってきました。そして、物騒な昨今は、こんな私でも立っていれば、児童連れ去り事件などに対する抑止効果が少しでもあるのではないかと思うわけです。

ところで、先日も小学生の帰宅時間にも教会の前に立っていたわけですが、携帯型防犯ブザーの音が甲高く響きました。しかも一台ではなく、三台ぐらいの音が聞こえます。「何事!!」とそちらに目を向けますと、5、6人の小学生の一団から音が聞こえてくることが判りました。試しに鳴らしているようでした。彼らはワイワイと騒ぎながら私の前を通り過ぎていきましたが、彼らの会話から推測するに、どうもその日に小学校で防犯訓練が行われ、さらに、一人一人に防犯ブザーが配られたらしいと言うことが判りました。

その後も彼方此方から防犯ブザーの音が聞こえてきましたから、子供たちの立場に立ってみると、貰った防犯ブザーを鳴らしてみたいというのは、ごくごく自然の欲求なのだと言うことに気がつきました。一昔前なら非常ベルと言ったものですが、それが犯罪の多発を受けて防犯ブザーとなったわけです。でも、その実、非常時に鳴らすから非常ベルという本質は変わっていません。それが、あちこちから聞こえてくるようでは、慣れてしまい本当の非常の時には、役に立たなくなってしまう恐れがあるわけです。正にイソップ童話のオオカミ少年と同じ事になってしまうのではないかと心配になってしまいます。

その数日後、今度は、小学生の5人組が日中に教会の前を通りかかりました。見た目からして5、6年生だと思います。どうも彼らは、通学路のチェックを行っているようでした。教会の玄関を指さして、「ここは安全。何かあったらここに飛び込めばいいよね」と言って通り過ぎていきました。

昨日、小学2年生の女の子が機転を利かせて、誘拐未遂犯のバイクのナンバーを携帯電話のカメラを使って撮影したと言う報道がありました。それから、JR新大久保駅では、韓国人留学生が線路に転落した人を助けたというニュースもありました。

非常の時にとっさに反応することが出来るというのは、実は普段の心がけが大事だと言うことはよく言われる話です。新大久保駅で人命救助をした人がどちらも韓国人留学生であったことは、ひょっとしたら徴兵制度によって、その様な行動を叩き込まれていたからなのかも知れません。いくら、防犯ブザーを身につけていたって、非常に対する備えをキチンとそれぞれが頭に叩き込んでおかないと、世の中って言うのは良くなる切っ掛けさえ出来ないのではないかと思います。

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2006年05月24日(水) 23時38分04秒

教育って…

テーマ:教育
教育基本法について国会がついに動き始めましたが、ニュースなどでは、教育基本法の改正案というものの存在も、「愛国心」という文言を入れるか入れないかと言うような事が中心で語られています。そして、政治家は今の教育基本法が時代にマッチしていないから教育が崩壊したと言い立てる人が目立ちます。

一体、この教育基本法とは一体なんなんだろうと首を傾げたくなってしまいます。そもそも、私たちは一体教育基本法の何を知っているのでしょうか?実を言うと私も宗教科の教員免許を持っていますが、教育基本法に付いては全くと言っていいほど知りませんでした。

ですので、せっかくですから調べてみました。対照表で比較しているホームページがありますので、ご覧いただければいいと思います。結局、「何が明確にかわるのか」はよく判らない内容でした。逆に言えば、今日の世の中の乱れの全てを、現行の教育基本法のせいにして、新しい法律を作ろうとしているようにも思えてきます。

例えば、「愛国心というものに触れていなかったから、若者たちが無気力、無責任の快楽主義者になったんじゃないかとか」、「家庭や親の役割を規定していなかったから虐待が行われたり、放任になってしまうのではないか」と言いたいのでしょう。

父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。なんて書いてありますが、親になる身として受け止めると、なんか責任ばっかりを求められているような気がします。国が親に対し「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努め」なさいと正面から要望し、その上に国の教育は成り立つのだと言わんばかりです。逆に言えば、今までの教育の荒廃の原因は現行の教育基本法とそれによって教育を受けた親にあると言いたいのでしょう。

教育勅語の素晴らしさ、重要性を説く人たちもいます。明治神宮のホームページなどにも、「戦後に教育勅語が排除された結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横溢し、教育現場はもとより、地域社会、家庭においても深刻な問題が多発しています。」なんて書いてありますが、本当にそうなのでしょうか。戦前の様に学校で毎日朗読させて、全ての子供たちに暗唱させればそれで日本の国はよくなるんでしょうか?

政治家や右翼の方々がどう思っているかは判りませんが、聖書に基づいたって、愛国心、正義は大切な事には間違いがないのです。ただ、その愛国心や正義は「政府のえらい人が言ったというだけで無条件で引き受けるというものであってはならない」とは思います。既製品の正義や愛国心を押し着せるのでは、結局は無責任な全体主義者の集まりが国という事になってしまうのではないでしょうか。ソビエトの様に体制が崩壊したのは、国民に愛国心や正義がなかったからだと言えるでしょうか?多様性の中で論議を重ねて歩んでいくからこそ、民主主義なのです。

私も教師の端くれとして、二年間、教壇に立ちました。聖書科の教師と言う珍しい立場で教育現場に関わった訳ですが、教育とは一体何かという事は常に考えさせられました。特に、私の受け持った科目は人間らしさや、道徳心と言ったものを養うことが重要になる科目です。しかしながら、その一方で、この科目は受験などには必要ない科目です。もし、道徳や宗教で成績をとれないからといって落第させれば非難囂々でしょう。

今必要なのは、家庭と学校、教師と保護者の間の尊敬に基づいた協力関係です。その協力関係を構築する働きを政治家に私は求めたいのです。私は教壇に立った2年間、生徒とともに電車通勤をしました。親も、専任教員も知らない生徒たちの姿がそこにはあります。親しげに話しかけてくる生徒と話す事もよくありましたが、その一方で、イジメや喫煙、マナー無視など「彼らの学校の教師です」とは到底名乗りたくないような場面に何度も出くわしました。

政治家も、親も、そして教師さえも子供たちの姿に目を留める余裕がなくなっている事だけは確かです。そんな中で、政治家は親と教師に問題があると言い、親は教師と政治家に問題があると言い、そして教師は政治家と親が悪いと言います。そんなたらい回しの言い分が教育基本法改正の動機のように思えてなりません。


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2006年05月23日(火) 22時42分51秒

雀の死から

テーマ:ブログ
日曜日、我が家の猫が雀を捕ってきました。そういえば、雀の巣立ちの季節。うまく飛べない巣立ったばかりの雀が猫などに捕まってしまう季節です。その一羽が我が家の猫に捕まったわけです。

猫の方は上機嫌。「いや~久しぶりのヒットですわ~♪」と得意満面で雀をくわえて帰ってきました。家に帰ってからゆっくりと…というのが彼の魂胆のようですが、こっちは「それだけは勘弁」と、取り押さえたら口からポトリと落としました。まだ生きています。

「さあ困った」…死んでいるなら死んでいるで、猫に持たせて外におっ放り出すのですがなまじっか生きているだけに大騒ぎです。拾い上げて見ると、恐怖と疲れからかうとうとしています。礼拝開始の時間が迫っていた事もあり、小箱を用意してその中に入れておく事にしました。

「消毒したらだめ?」妻が心配そうに覗き込みます。元々巣立ち際に猫に捕まるような雀は体力が弱いと聞いた事があります。それに、ついさっきまで自分の何十倍の大きさの猫と格闘を演じていた訳ですから、体力の限界にも達しているでしょう。こうなってしまったら雀の生命力に賭けるしかありません。そのように妻に告げると、妻はその箱を抱いて礼拝に参加していました。礼拝後覗くと雀はひっくり返っていました。もはや虫の息…「ああ、死んじゃう」って思って見ていると、弱く数回羽ばたいて、まるで地上を見回すように首をゆっくり巡らし息絶えました。

「きっと夢の中で空を自由に飛んでいたに違いないよ」私は妻にそう言いました。妻も頷きました。昨日、利根川の河原に大きな木の根元、花が咲き鳥の声であふれる場所を見つけ、妻が「ここがいい」と言いました。そこにその雀を葬ってきました。

妻の腹の中では新しい命が元気よく動き回っています。しかし、その一方で私たちの目の前で新しい命が失われていきました。命って何だろう、生きるって何だろう、死ぬって何だろう。私たちが抱く共通の疑問です。しかし、その一方で私たちは共通して答えを見出せません。そこには、ただ「私たちがどう信じるか」だけが問われているのだと思い当たりました。あの雀はあの時、夢の中で空を飛んでいたのでしょうか?事実はわかりません。でも、私たちはそうだと信じたかったのです。

私たちの家庭に、もうすぐ与えられる新しい命…。その命が長いのか短いのかはわかりません。ただ、それを待つ私たちとしては、その命が少しでも長いものであってほしい、そして充実したものであってほしいと願わずにはいられません。「生きる事」も「生かす事」も正に「命懸け」なのです。

なのに、ニュースで報じられるのは、子供をモノとしてしか見る事のできない世の中の風潮、そして欲望、その結果の子供たちの死…。なんとも遣る瀬ないものを感じます。嫌な時代の始まりかもしれません。でも、今だったら、まだ引き返せるかも知れません。

まずは「命懸け」で生きてみましょう。「命懸け」で生きている人たちと出会いましょう。そして応援し合いましょう。サッカー日本代表を応援するのも大事ですが、「命懸け」で生きている人を応援する事はもっと大切だと思うのです。今日も「命懸け」で生きている人たちがいるのですから…。


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2006年05月20日(土) 23時37分53秒

病は気からか

テーマ:ブログ
五月病なんて言葉が聞こえる季節になりました。

就職や昇進、進学したひとたちが新しい環境に馴染もうとしてプレッシャーなどに押しつぶされてしまい、やる気がなくなったり、塞ぎ込んでしまう症状が五月病です。ただ、このストレス社会…五月病は5月に限った事ではないという風に言われています。

5月と言えば、どんな人でも大忙しの時期です。その中でちょっとぐらい塞ぎ込んでいたからって、気がつかない場合も多いでしょうし、たとえ気がついたとしても「ああ、あいつは五月病だから大丈夫大丈夫」とか「放っておいたほうがいいよ」なんて思ってしまいがちですし、本人も「五月病なんだから少しすれば大丈夫」なんて軽く見ているときもあるようです。

でも、ご用心。五月病ですんでいる場合はいいのですが、その先に待っているのは鬱病と言う病気です。こうなると手に負えません。それにしても、この5月は気候も変ですよね。暑くなったかと思えば、急に冷え込み、しとしと雨が続いたりという風に安定しない気候は、この五月病の症状を更に深刻にしているような気がします。

五月病から鬱病に悪化してしまわないようにするためには、本人がストレスを解消するのがもっとも大切な事なのですが、周りのケアがあればとても楽に解消できるのです。軽いストレスの間にきちんと解消する事が大事なのです。「ちょっと飲みにいくか」「一緒に出かけない?」など、周りが声をかける事も大切ですが、そう言うストレスに見舞われている自分からそう誘う事も大事じゃないかと思います。

もちろん、そういう方にお付き合いするのも私の重要な仕事の一つですから、私達の教会に来て下さっても構いません。信者にならなくたって、良いお友達が見つかるかも知れません。「病は気から」とよく言いますが、そう言う人達を病気にしてしまうかどうかは、実はこの世の中に生きる私達に共通して問われているものなのだと思います。

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2006年05月17日(水) 23時46分18秒

報徳思想

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二宮尊徳
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この写真は、今話題の太田国際アカデミーという学校です。英語教育特区という特区制度を利用して設立され、学校内の授業などは、原則的に英語で行うという方針の学校です。この学校に入学するため、全国から逆単身赴任の形で、太田に引っ越してくる人も多いと聞きます。

さてはて、今朝は、散歩がてら、この学校の前を通りかかったのですが、ある物に気がついて写真を撮りました。この写真の左側に注目していただきたいのです。何と、二宮尊徳の像がありました。これにはびっくりしました。何ともミスマッチな気がしたのです。

この読書をしながら薪を背負って歩く二宮尊徳の像は、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから(この理屈もなんだかなと思いましたが、私が子供のときにそのように注意されたのも事実です)、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去されてきたそうです。しかし、最近、彼の説いた報徳思想が現代に必要だということで、再度脚光を浴び、設置する学校も増えてきたと聞いていましたが、まさか、このような学校にまであるとは思っても見ませんでした。

因に報徳思想をWikipediaフリー百科事典で調べてみると『報徳思想(ほうとくしそう)は、二宮尊徳が説き広めた思想であり、経済学説のひとつ。経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く。』

なるほど。確かに、これから育つ子供たちにも、現代を生きる私たちにとっても大切な思想です。それを二宮尊徳は、実践し、そして大きな成果を上げた事も重要ですね。彼は、百姓の子として生まれ、そして14歳で父親と、そして16才で母親とも死別するという苦難から立ち上がり、苦学を重ね、最後には天領の経営までまかされて、没後には従四位にまでなった人です。そしてその成功は、「徳に報いる」という彼の独特の思想によって支えられていたという事を今の子供たちに知ってほしいのでしょう。

そういえば、最近、私たちの周りからは伝記や偉人伝と行った類いの本も姿を消したような気がします。一昨日、「『雨にも負けず、風にも負けず』は新島襄だっけ?」「何言ってんの…福沢諭吉だよ。」と教会の前で話していた女子高校生に、思わず「そりゃあ宮沢賢治だよ」と教えてあげたくなっちゃったりしましたが…。そんな世の中になってきたんだなあとつくづく思わされました。

さて、この太田英語アカデミーの二宮尊徳像はこれから、子供たちのどんな姿を見守っていくのでしょう。何はともあれ、元気に、そしてまっすぐ育ってほしいものです。

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2006年05月16日(火) 23時37分58秒

愛の序列

テーマ:ブログ
うにゃ~~~うっかり消してしまいました。

後で、復旧しておきます。失礼しました。

m(__)m

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