ジオターゲティング
2006年03月30日(木) 23時13分53秒

キャンプ…疲労困憊

テーマ:ブログ
月曜日から2泊3日でキャンプのスタッフをやってきました。このキャンプは、教区が主体で行う高校生向けのキャンプで、群馬、茨城、埼玉、栃木、新潟の5地区から合計29名の参加者を得て行いました。このキャンプの特色は、消灯時間を特に決めないと言うこともあり、信徒スタッフも含めて、私たちスタッフにとっては肉体的限界に挑むような側面がかなりあります。因みに私の合計睡眠時間は5時間でした。(--;

当然疲労困憊。帰りの車の運転は睡魔との戦いに終始し、やっと家に帰り着いてベットへ直行、気を失うように爆睡したのはご想像の通りです。しかも、予算的にも厳しいキャンプで、スタッフは自費参加分として五千円を持ち寄っての参加です。ボランティア的な要素が強いですね。

でも、そんなこんながあっても、スタッフはやる気満々。高校生たちは、今、青春の真っ最中。悩み事も恋愛問題から、地球環境問題まで様々です。彼らはそれを必死に考え、アドバイスを求める子、徹夜で遊びたい連中も居ます。彼らと付き合ってみて、現代の高校生も大変だなあと思いました。私が高校生だった頃とは全く違う環境なのでしょう、夜遊び、恋愛などの問題は、想像もつかないほどです。しかし、その一方で、心の方はひょっとすると高校時代の私よりも純真無垢な感じですから、その中で翻弄される高校生たちの心は結構ぼろぼろなのかも知れません。

そんなこのキャンプに対して、スタッフたちは身を粉にしてみんなで支えます。そんな彼らが、このキャンプで、何か大切なことを見つけることができたら、彼らが人生の糧を得ることができたら、それが私たちの最大の喜びなのです。子供が子供として生きにくい世の中です。でも、だからこそ、このキャンプの大切さを覚えて、そうやって働くスタッフがいるのです。

すべての子供たちの未来に神様の祝福がありますようにと、心から祈っています。

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2006年03月23日(木) 23時18分10秒

ナルニア国物語

テーマ:ブログ
先日、妻と二人で映画「ナルニア国物語」を見に行ってきました。とても良い出来の映画になっていました。

このナルニア国物語の映画化に際しては、教会に月一度やってくるキリスト教書店の販売員も様々な関連本、果ては前売りチケットなども持ってきていました。実は教会にとってもうれしいニュースだったのです。それはこの本を書かれた経緯に由来します。作者のC.S.ルイスはキリスト教神学者としても有名で、ナルニア国物語は、子供たちに信仰を伝えるという目的を持って書かれたものなのです。その結果、教会としては色めき立つわけで、「ナルニア国物語は聖書を基礎としているのですよ」と声高に言いたい部分でもあります。…そんなことを言っていますが、実は私は飛ばし読み程度で、ナルニア国物語をほとんど読んだことがありませんでした。

その販売員さんが持ってきた本の中では、「ナルニア国物語は聖書を土台としている」なんて書いてある本もありましたが、でも、実際に見て思ったことは、たとえ聖書を読んだことのない人がこの映画を見たとしても、受ける感動というのは変わらなかったのではないかと言うことです。

聖書を勉強することが生業である私にとっては、それぞれのシーンで、元ネタの聖書記事はどこなのかと言うことを知っていますので、どういう風に表現されているかと言う点については興味がありますが、見る人が例えそんなことを知らなかったとしても、キリスト教信仰の重要な部分について、共感し、感動し、更には希望を持って強く歩むことができるだろうと思います。なんか、「もともとこの本はキリスト教信仰を土台としており…」「○○は××を意味しています」なって訳知り顔の解説なんかなくたって十分にそういうものを知ることができるでしょう。

とにかく私は、先週末は「ある人の死」によって相当な挫折感を味わっていましたが、この映画に力づけられた思いでした。ぜひ多くの人に見ていただきたいと思う映画でした。

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2006年03月22日(水) 21時02分25秒

教会に来る人々 その16 「ある人の死」

テーマ:教会に来る人々
私のところに通帳と印鑑があります。ある70歳の男性から「仕事の給料が振り込みなんで、この通帳と印鑑を預かって欲しいと思って…」と半年ほど前に預かったものです。

事業が失敗して蓄えも底をつき、たまたま通りかかった教会に寄ったそうで、それが私のところでした。今から3年前のことです。一緒に仕事を探しに行ったり、生活を立て直す手だてを探りましたが、高齢と年金、保険、税金の不払いでどうしようもありませんでした。去年の秋、クレジットカードのリボルビング払いで遂ににっちもさっちもいかなくなりました。「東京で仕事があるそうだからそっちに行ってみます」と言っていましたが、そうこうしているうちに連絡が取れなくなりました。「夜逃げしたのだろう」…以前にもそういう人が居ましたので、そう考えていました。

先日、彼の仕事探しで世話になった人と会いましたので消息を訪ねてみましたら、声を潜めてこう言いました。「彼、亡くなったんだそうですよ。警察の方が調べに来ました。私も事情はよくわからないんですけど。」

急いで、預かっていた通帳と印鑑を持って警察に駆けつけました。「じゃあ、遺族から連絡してもらいます」と警察の方。翌日、ご兄弟から電話が来ました。「自殺です。スーパーの駐車場で、車内で練炭を焚いて死んでいたそうです」

…言葉が出ませんでした。牧師って一体何なんだろう?と力が抜けてしまいました。「我慢して、がんばれ」とそればっかりしか言うことができなかった。「もっとしなくてならないことがあったのではないのか?」と自問自答しました。お金があるわけでもなく、権力があるわけでもありません。そんな中で何ができたのかと言えば、自分のお小遣いから僅かばかりのお金を渡したこと、それから一緒に仕事を探しに行ったり、励ましたり、彼の話を聞いたりすることだけでした。

その一方で、不謹慎にもホッとしてしまった自分が居ることを認識しました。「結構お調子者で、昔からお金を無心されていたもので、縁が切れていました。多分そちらの教会にもだいぶご迷惑をかけたのだと思います。」と兄弟の方は言っていました。この男性の死を知らされたとき、私は「もう彼のことで頭を悩ませなくていいんだ」と、そう頭の片隅で思っていることに気が付きました。

先日も「500円ばかり助けてください」とホームレスがやってきました。「そんな生活を止めたいと思わないかい?」と問うと「そう思います」と答えます。「じゃあ、明日、色々やってみようよ。明日朝9時においで」…しかし、その人は来ませんでした。

この教会を訪れるホームレスのうちには、既に亡くなった方もいます。路上で凍え死んだとか、病気で死んだとかその消息を聞かされるたびにドキッとしていました。彼らが、「暖かい布団で寝る」とか「暖かい食事を食べる」とか、人間らしい生活を取り戻す日は果たして来るのでしょうか?人一人の力では如何ともしがたい世界に生きている彼らのことを思うとき、果たしてどうすればいいのだろう?とやりきれない思いで一杯になります。「暖かい食事、寝床」を刑務所に求めて罪を犯す人々も多いと聞きます。そして、そんな彼らの家族の中には、彼らの死によってホッとしてしまう人がいるのは仕方のないことだろうと思います。

自殺を勧める訳ではありません。しかし、そんな彼らに対して「死ぬな、がんばれ」と言い続けることは、そのことによって増し続ける責任の重さに耐え続けるということであり、また、それ以上には何もできないということは、結果的に無責任以外の何ものでもないと思うのです。結局私は、無責任に自己満足な行為を行っているだけの存在だったのかもしれません。でも、やっぱり死なないで欲しいというのは私の切なる願いです。それが、たとえ私の無責任だと、自己満足だと言われても人生はやり直しがきくものだと信じたいし、やり直しをさせてあげたいと願っています。すべての人の魂に平安が与えられますように…。
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2006年03月21日(火) 23時13分41秒

苗床教会

テーマ:ブログ
なんか、最近更新ペースが保つことができないでいます。実生活の方が大分忙しく、なかなかパソコンに向かうことすらできないのです。その上、この四、五日風邪にやられてしまいました。で、今日は教会に来ている子供たちを遠足に連れて行かなくてはなりませんでした。

私たちの教会では私が赴任してから毎年、春分の日を絡めて毎年春の旅行を企画します。この企画のメインは教会訪問。私たちの教会では、子供たちは高校を卒業すると、進学するにしても就職するにしても、ほとんどが太田の地を離れてしまいます。あるところまで育てると引き抜かれてしまうという言う意味で、こんな私たちのような教会を“苗床教会”と言うのだそうです。

そこで、そんな彼らが行った先の教会に馴染めなかったりしないように、子供の時から近隣の教会を中心に遠足がてら訪問に行くのです。もっとも「教会を訪問する」というだけでは、子供たちだってあまり魅力を感じませんので、遊園地に行ったり泊まりに行ったりという子供たちにとっての魅力的なプログラムも当然あり、それで「春の旅行」となるわけです。

今年は、華蔵寺公園(http://www8.wind.ne.jp/kezouji/)と伊勢崎教会に行って来ました。華蔵寺公園は市営の公園と言うことで、非常に懐かしい感じの遊園地です。観覧車やジェットコースター、お化け屋敷などがありますが、入場料など存在しない昔懐かしい感じの遊園地。アトラクションに乗る分だけの出費で済む遊園地です。そしてどのアトラクションも何とも平和なアトラクションばかり。子供たちにとっては、気楽に遊べる遊園地です。

午前中2時間ちょっとの間、華蔵寺公園で遊んだあといよいよメインの伊勢崎教会訪問です。伊勢崎教会は創立120年ほどの古い教会。現在の礼拝堂も建築から70年ほどを経ている建物で、私たちの教会の建物にはない雰囲気があります。伊勢崎教会の牧師先生に礼拝堂を案内してもらって、自分たちの教会と違うところを見たり、質問したりして帰ってきました。

それにしても今日の天候はすばらしかったです。昨日だったら強風と寒さで、遊園地のアトラクションなんてほぼすべて止まっていたと思います。特に私たちが行った午前中は風もほとんどなく、ポカポカと暖かい日よりの中でほぼすべてのアトラクションを楽しむことができました。

私たちは寂しさを覚えながらも自信を持って、これから私たちの教会を旅立つ子供たちが豊かに育ちますようにと祈りつつ彼らを送り出します。これが私たち苗床教会の幸せです。

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2006年03月13日(月) 23時44分31秒

命の奇跡

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何だか暇をにおわすような文章を書いた途端、大忙しの毎日で、なかなか更新が出来なくなっていました。この仕事の一番難しい所は、突然忙しくなる所でしょう。しかも、他人様が暇なときに忙しくなるのがこの仕事の一番辛い所です。

前任地の教会は結構大きな教会でしたので、名前もある程度通っていたためか、夜中に突然、「悩んでいるんですけど…」という匿名の電話がかかってきます。夜中の2時とかに…。

「死にたくなっちゃったんだけど、話を聞いて下さい」っていうのがほとんどでしたが、ある時などは、電話の向こうで一言も話さずにただ泣きじゃくっている声が聞こえ、10分ほどでぷっつりと電話が切れて、そのままになってしまったことがあります。そうなるともうその晩は寝ていられません。

こんな人達のために24時間専任のボランティアを常駐させて電話対応している「いのちの電話」「自殺防止センター」などのボランティア団体もあります。そちらにかけて頂きたいのが本音の部分ですが、現実問題としてそうは問屋が卸さないのは、「いのちの電話」や「自殺防止センター」などに電話が殺到してしまって繋がらないときです。

で、たいていの場合、「じゃあ教会に電話をかけてみよう」ということになるようで、そうすると大きそうな教会、有名な教会などにかけることになるのでしょう。20分おきに電話がかかって来て結局徹夜になってしまったこともあります。「今、睡眠薬をたくさん飲んだ所。眠りにつくまでの間話し相手になってくれませんか?」っていう電話が来た時には、さすがに弱りました。何とか住所を聞き出して事無きを得ました。そういう風にお役に立てて良かったと思う反面、問題は、そう言う人達になかなか解決が与えられないことです。

丁寧に話を聞き、自殺を思いとどまらせたとしても、次の晩、また次の番と毎晩かけてくるような人が増えています。借金でもなく、格別苦労している訳でもないのに、「生きていく価値がない」「私なんか死んだって誰も悲しんでくれない」といって電話をかけてくる人達が増えているのです。

確かに、その一人ひとりの心の傷は、深く大きいものです。そう言う電話に応対していて気がつくのは「死」そのものがその人達の中で「安らぎ」「眠り」等の意味合いに置き換わっていることです。「きれいに、楽に、迷惑をかけずに死ぬ」ということが、彼らの大きな関心事になっています。

「生きる」ということは考えてみれば危険の連続を乗り越えて来たということです。病気、怪我、様々な犯罪、失敗のリスクを乗り越えて来たということです。しかし、リスクを避けることばかりに気が回って行き着いた時には、何をすることも出来ず、また、何をしても充実感がえられないのかも知れません。

「生きている」ということは、それだけで奇跡です。お互いに生きていることを感謝できることが、まずは大切なのです。「生きていてくれてありがとう」と目の前にいる人に感謝を出来ることが自分の命を大切にする根本にあるのだと思います。

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2006年03月05日(日) 23時55分46秒

プライバシー

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「教会で暮らすということは金魚鉢に住むということ」と言った先輩牧師がいます。教会では、牧師家族の居住エリアは教会に隣接しているか、教会建物の一部になっているために、牧師一家のプライバシーが守られないということを揶揄しての発言でした。確かにそう言うことを見て言えば、そうかも知れません。

でも、私などはこの教会に赴任してから結婚するまで6年間は一人暮らしでした。そうすると、プライバシー云々よりも孤独という方が大変だったと思います。私が在籍しているような教会の場合、人の来る日の方が少ない場合が多く、一週間のうち礼拝のある日曜日と、聖書研究のある水曜日以外の日は誰も来ないなんてことがちょくちょくありました。

そうすると、自分の存在の意味というものを考えざるを得なくなってきます。牧師になりたいと思ったのは、「他人を助けることができる仕事、他人に必要とされる仕事」だと思ったからですが、赴任してすぐなどは特に仕事も少なく、その実「ああ、今日も誰も来なかった」「今日も、何も人の役には立たなかった」と孤独感を深めていたことがありました。

一ヶ月ほどの間はそんな感じで過ごしていたのですが、ある日、教会の床下から子猫の鳴き声が聞こえてきました。最初は「迷子かな?」などと思っておりましたが、三日目ぐらいになるとさすがに心配になってきました。で、捕まえることにして、何とか捕まえてみれば、産まれて一ヶ月ほど…手のひらに乗るほどの小さい子猫でした。結局この猫を飼うことにしました。

背中が茶虎、腹は真っ白でしたが、机の下に丸くなっているのを見て何回かダスキンのモップと見間違えたために名前は「ダス」と命名しました。すると、教会員さんが「先生、あの子猫飼うことにしたんですって?」「ダスちゃんに会いに来ました」と、なんでもないのに教会に顔を出して下さる様になりました。それどころか、猫にお中元やお歳暮(猫缶)が届いたり…。

教会に住むということは、私に起こった出来事について、多くの人達が関心を持つということだと思います。でも、それこそが「愛される」ということなのだろうと私は思います。多くの人達が関心を持って関わって下さるってことは、本当に嬉しいことなのだと思っています。

プライバシーって何でしょう?昔の日本の田舎は、その社会が小さかった故に情報が早く、また、秘密なんて持とうとしても無駄でしたから、鍵さえかけずに、開けっぴろげで暮らすことが出来たことを思う時に、プライバシーの名の下に自分の心にさえ鍵をかけてしまう現代の社会にある孤独は深く人間を蝕むものでありかねないと思わされます。

「知って欲しい情報だけ知って欲しい」、「関わって欲しいときだけ関わって欲しい」という私達の我侭が「プライバシーの保護」になっていないでしょうか?隣人の存在が鬱陶しくなっていないでしょうか?「向こう三軒両隣」「遠くの親戚より近くの他人」…こんな言葉が死語になりかけている悲しい現代の姿を憂えます。

「愛する」ということと「深く関わる」ということは対になる事柄です。深く関わるには愛が必要であり、愛するには深く関わる必要があるのです。「プライバシーの保護」とは、この「愛」と「関わり」の関係そのもののことなのだと思います。

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