ジオターゲティング
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2006年02月27日(月) 23時33分11秒

飢餓感

テーマ:ブログ
1月の中旬から、一人の教会員が入院しています。最近では、大分調子も良くなってきているのですが、一番病状が悪かった時には、5分間話すのも大変そうな感じでした。一週間以上飲食を禁止されていた時は、見舞いに行くのも、気の毒でした。

現在では、お粥と細かく刻まれている副食を彼は食べていますが、そろそろ普通の食生活にならないかなあと、彼は期待しているようです。「歯触りって大切なんだと初めて知りました」と彼は言っていました。

ところで、私、学生時代に、ふと「飲まず食わずでどれだけ生きていくことが出来るだろうか」と思い、突然絶食をはじめたことがあります。自分の意志で食べないわけですから、空腹感との闘いでした。段々、何をしていても集中できなくなってきます。イライラしたりもします。

そこで、テレビでも見て気を紛らわそうとしたですが、実はこのテレビがくせ者でした。グルメ情報、料理番組は見ないように避けていればいいのですが、一番大変なのは、テレビコマーシャル…。勿論売る方も必死ですから、見るからにおいしそうな映像です。そして、そう言う状況の中で見て思ったことは、食品類のコマーシャルの多いこと多いこと。多分、コマーシャルの半数はお菓子や食品なのではないでしょうか?

以前、末期の胃癌患者のお見舞いに行った時に、その人は飲食禁止になってから暫くになっていました。この人も「テレビのコマーシャルって、食品のコマーシャルが多いのよ。どれを見てもおいしそうで、最初は困った」と言った上で「でもね、最近、治ったらアレを食ってやろうって思って頑張ってる」と話してくれました。

「飢え」を知らない私達は、「飢え」というものを理解する必要があるように思います。食糧不足に陥っている庶民を見て「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」とマリー・アントワネットが言ったという伝説(これはデマのようです)がありますが、今の日本では、私達それぞれがそんなことを言いそうな世の中です。

以前、コンビニでホワイトバンドを見つけ、私は早速購入しました。でも、実際ホワイトバンドを手にした時、これを身に付ける勇気がありませんでした。私達の食生活を飢えている人たちに見せられないと思ってしまったからでした。教会に伝えられる「主の祈り」という祈りの中で、「我らの日用の糧を 今日も与え給え」と祈りますが、糧を与えられた事に感謝を持っていない時が多いことに気が付きました。

「全ての人にその日の糧がありますように」と祈ることだけでも実は大変なことなのだなあと思っています。

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2006年02月25日(土) 23時59分06秒

楽しい人生

テーマ:ブログ
大学時代は、いろいろと貧乏を楽しみました。私は京都で学生時代を過ごしたわけですが、京都は大学生活を楽しみやすい都市の一つだと思います。

私は留年などを含めて、都合7年間大学にいたのですが、その7年間はワンルームマンションには一度も住みませんで、下宿で通しました。最初は大学の目と鼻の先。隣には大きなお寺があり、いかにも京都という雰囲気で充満していました。

トイレ、洗濯機は大家さんのを使わせてもらう間借りでした。もらい物の炊飯器、前の人が置いていった机、タンス、ベット…。テレビは拾ってきたテレビで画像が妙に歪んでいたっけ…。

自分の部屋に行くには玄関を入り、大家さんがいる居間の脇を通り抜けるのですが、その時に「おかえり」とか「ちょっと寄って飲んでいきよし」なんて声を掛けられました。そのうち、大家さんのお孫さんが部屋まで遊びに来たりと楽しかったのですが、ちょっと、家賃が高くなった…といっても2万7千円ほどでしたが、引っ越すことにしました。

次に引っ越したのが、1万3千円の下宿でした。長屋の一番奥、玄関脇の六畳間を借りました。鍵なんてものはありませんでしたので、友達が勝手に上がり込んでいたりしましたが、取られるものなんて何もありませんし、気にもなりません。ここも台所、トイレ、洗濯機が共同でした。

この下宿は目の前に豆腐屋さんがあり、よく、鍋を持って買いに行きました。熱々のご飯に豆腐をそのまま乗せて醤油を垂らして食べるのがおいしいんですよ。

そう言えば、おかずがなかった時、友達が残していった「かっぱえびせん」をおかずにしたことがありました。皿に並べてみるとおかずらしく見えます。「これはエビ天だ」と強引に解釈して食べました。大学の学食では漬け物、牛丼屋では紅ショウガを山ほど取って腹を満たしていました。アルバイトは当然食事付きを選びます。山盛りにしてたくさん食べさせてもらいました。

ある日、「飯を食いに行こう」と友達に誘われました。「明後日までは厳しいんだ」と断ると彼は「富は分かち合わなあかん」とご馳走してくれたこともありました。

どちらの下宿も風呂はありませんでしたが、京都には銭湯が至るところにあります。私も学生時代の7年間は銭湯に通いました。気が向けば、自転車でちょっと遠くの銭湯まで行ったり…。春夏秋冬四季折々、風呂道具を抱えて銭湯に通うのは、今から考えると何とも優雅な体験でした。

あの時の体験の一つ一つは、今、私の人生の大切な思い出です。どれも貧乏暮らしの経験なのですが、とても楽しい思い出として残っています。そしてこの経験があるから、今の私があるのだと思います。

若い時の貧乏や粗食は体験するに越したことはありません。それは後の人生での自信に繋がります。「良いものを食べさせ、苦労をさせない」で育てられてきた子供達がかわいそうに思えます。拝金主義に陥ってしまうのは当然でしょう。

苦労を乗り越えた人だからこそ、自分の人生を楽しみ、他人を愛し、他人を尊敬できる人間になるのではないでしょうか?。

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2006年02月24日(金) 13時34分12秒

トリノ・インプレッション

テーマ:ブログ
芸術関係の英才教育ではよく、「はじめから良いものを与える」「ホンモノを体験させる」ということがよく言われます。確かに、その様な教育の仕方をすれば、まがい物などに騙されることもないでしょう。一流の教育とはそう言うものだと私も思っておりました。

でも、最近思うことは、そう言うことばっかりになってしまうと受け身の姿勢でしか物事を判断できなくなってしまうのではないかと言うことを思うようになりました。物事の善し悪しはわかれども、その良さに感動することが難しい人間になってしまうのです。

料理にしても、妙な御託を並べ立て、調理人や素材を語る一方で、「おいしい~♪」と素直に表現することが難しいことが良くあるように思います。その中では、値段がその料理の価値として示され、「高価な食材」=「おいしい」という妙な理解の中、「究極の料理」と名が付けば、「一番高価な食材を、一番高給取りの料理人に料理させること」と勘違いしているような場面をあちこちで見受けます。

国民総評論家の世の中になりつつあります。価値を追いかけすぎて、そのものの素晴らしさにまで気が回りません。できあがりだけを眺めて、価値があるか無いかだけが判断の基準になっていることが少なくありません。

今回のオリンピックを見ていて、自分もそう言う風になっていることに気が付きました。何でも「価値」というものを気にしている自分がいます。「メダル!メダル!」、「メダルが全てとは言いませんが、でもメダルをとって欲しい」なんて言っているメダル獲得レースに終始しているテレビの悪口は言えませんね。

メダルが取れないことから、「トリノ・ショック」との言葉が出ています。

でも、私の感想で言えば「これまで私が見た冬季オリンピックで一番感動したのは、このトリノ・オリンピックだ」と思います。このオリンピックで「トリノ・ショック」ではなく(トリノの印象とか感動とか言う意味合いで)「トリノ・インプレッション」とでも言うべきものを私は受けましたが皆さんは如何ですか?心の中で「金メダルをあげたい」と思う選手がたくさんいるんではないでしょうか?それこそが私達の「心」であり、本当に大事なものは「自分の感性」であり、「物事に感動する心」なんだと思います。

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2006年02月22日(水) 23時54分04秒

感動をもらいながら思うこと

テーマ:ブログ
いつの間にか10000ヒットを達成していました(^^;去年の7月にカウンターを設置して以来、こんなにはやく10000ヒットを越えるとは思いませんでした。これも皆様方のお陰と感謝しております。これからもよろしくお願いします。m(__)m

…とはいえ、更新が滞りがちな今日この頃…。理由はと言えば、会議などに出張することが続いたからと、もう一つは…冬季オリンピックのせいです。

カーリング女子の大活躍は拍手を送る思いでしたし、フィギュアスケート女子の活躍に期待し、その一方で日本勢はどうしてメダルが取れないのかとハラハラ考えてみたりと、結局のことオリンピックから目が離せなくなってしまっているわけで…でも、ブログを読んでいる皆さんも結局そうではないだろうか?とちょっと同意を求めてしまいたかったりします。

ところで、冬季五輪で活躍している人たちを見て思うのは、「自分もやっておけば良かった」という思いです。カーリングのことをインターネットで調べた人もいらっしゃると思います。私もそうですから(^^;で、何となく思うのは、「チャンスがあれば…」ってぼやいてしまうことです。

でも、ちょっと考えただけで、それって甘い考えだと言うことに気が付きます。出場選手達は自分のやっていることが大好きだから、面白いからやっています。それは確かなことです。でも、それだけではないはずです。あとは運でしょうか?それも必要ですが、もっと必要なことがあります。それは、信念とでも言うもの…それに全てをかけても惜しくないという強い思いです。

愛という言葉が当てはまるかも知れません。彼らは自分の愛すべきものをそのそれぞれの競技に見つけました。強くなれるのであれば、辛いトレーニングもなんのその。お金がなければ自費で賄い、暇さえあれば、そのものに没頭していく人たちです。

そんな彼らが、「自分たちを見て多くの人たちがやってみたいと思って欲しい」と彼らは言います。それによって自分より強い人が出ることも覚悟の上で、彼らはそう言いきります。その競技を愛しているからこそ、独占するのではなく、みんなも一緒にやろうよと彼らは声を大にして呼びかけるのではないでしょうか?彼らが一流の競技者である証は、そんなところにあるのではないでしょうか?

「大好きなことが大勢の人と一緒に出来るんだったら、お金なんか必要最小限でいい。自分の得意なもので人に役立つことが出切ればそれで幸せ」彼らはお金が無くたってなんだって、その競技を愛し、その競技を極めたいと思う人たちです。そしてそれが結果的に私達に感動を与えたのだと思います。

「彼らに対する支援が少ない。お金を含めてもっとしっかり支援しなければいけないのだ」という声を多く聞きます。今回のトリノオリンピックを見ていて、選手の皆さんはたくさんの人に夢を与え、幸せを与えてくれたことを考えると、この意見は正しいと思います。私達が感動するのは、メダルの数ではありません。

金メダルを取る、取らないの問題ではないのです。選手であれば誰だって、オリンピックのメダルが欲しいのは当たり前ではないですか。彼らは常に全力を尽くしてオリンピックに臨んでいます。彼らが全力を尽くすその姿に感動をするのです。オリンピック観戦の秘訣はそこにあると思います。

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2006年02月19日(日) 21時07分01秒

思い遣り

テーマ:犯罪
ムハンマドの風刺画問題が今、世界を揺るがしています。反発が強まる中、その反発に対して更に挑発して儲けている人までいるようですし、その一方で激昂して暴徒化しているイスラム教徒の話も聞いています。「言論には自由がある。それを力で封じ込めるのはおかしい」と言う一方で、でも「言葉の暴力はどうなんだ」という問いもあります。自由と配慮のバランスを取ることが難しいのが現代の姿です。特にマスコミが絡む問題では、この辺りのことがいつも問題にされます。

 最近、様々な事件の犠牲者たちとその遺族に対する過当な取材合戦が問題視され、この報道のあり方が問われることが多くなりました。遺族の家には等しく「家族の気持ちを察して頂き、取材等をご遠慮いただきます様お願い致します」と書かれた紙が張り出されます。なぜ被害者たちがこんなことをしなければいけないかと言えば「嫌ならいやと断って下さい。そうでないと判りませんから取材してしまいますよ」という姿勢が取材陣に見え見えだからです。

 最近、人の痛みを理解しないことで起こる問題が沢山あります。当然、犯罪はそのようなことから起るのですが、私達の日常自体にもそのようなことが言えるのではないでしょうか?周囲の人に思いを巡らすことがなくなり、見えることだけで判断してしまう世の中になってしまっています。「判ってたらしなかったのに」という言葉が私達の世界の理論の根本になっています。

思い遣りとは文字通り「思い」を「遣る」こと。気持ちを、心を向けるということです。人に思いを向けず、ひたすら、正当性や興味よってのみ突き動かされる世界は殺伐とした世界だろうと思います。想像力をほんのちょっとでいいから、周りの人に向けましょう。その人たちの素晴らしさが見えてくるはずです。

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2006年02月16日(木) 23時53分54秒

個と全体と

テーマ:ブログ
マクロとミクロという言葉があります。マクロは「極めて大きいもの、巨大」という意味で、ミクロはその反対に「極めて小さいもの、微小」という様に広辞苑では、解説されています。そして、それぞれ経済学ではマクロ経済学、ミクロ経済学と言う言葉が使われています。

国全体の規模での経済活動を分析する経済学がマクロ経済学、家計や企業などの経済活動を分析することにより経済全体の分析を行うの経済学がミクロ経済学です。

私の妻が属しているサークルがあります。「友の会」http://www2.ocn.ne.jp/~zentomo/といいます。「婦人之友」http://www.fujinnotomo.co.jp/という本の読者が結成してできたサークルで、もう80年ほどの歴史を持っている団体です。この「友の会」が言っているのが、「家計簿の大切さ」です。それぞれの家計を健全化することが、国や団体の健全化にも繋がるというのが主張のようです。黒田清子さんが結婚する時に、家計簿がプレゼントされたのもこの「婦人之友」が刊行している家計簿一式でした。

ところで、マクロ…つまり、国の観点から経済を見てみると国債、地方債などの借金、様々な無駄遣いが指摘されて久しくなっているほどにガタガタです。借金は国民一人当たり700万円を超えているということも聞きます。

この経済バランスは、国を運営している人達の経済感覚がやはりおかしくなっているのではないかと思うときがしばしばです。談合や汚職、マネーゲームなどを通して大きなお金が、個人に痛みを感じさせることなく搾り取られていくシステムがあちこちに溢れています。今日も、144億円が消えたというニュースが報じられていました。

ミクロのはずの個人が、マクロに直接繋がってしまい、個人の感覚がおかしくなっています。そして、それが全体に蔓延しています。クレジット社会という名の借金漬け、投機という名のギャンブルが奨励される一方で、第一次、第二次産業が軽んじられてるのがその証拠です。

更に言えば、これは経済だけではありません。政治や思想でもそういうことが言えると思います。個人のレベルの感情と、国の政治や外交との関係もそうでしょうし、私の職分でいけば、信仰とは、個人の問題でミクロ神学、しかしながらその信仰者が集まると、個人とは違った動きになる…これをマクロ神学ということが出来るかも知れません。

神学の世界だって、経済と同じことが起きる可能性は十分にあります。団体の理論が個人を縛り、仲良く暮らしている人達の間に亀裂を作ることがあります。その場合の問題は、マクロという全体主義に、ミクロが食い潰されてしまうこと。

私達は、自らを見失わないこと。全体が大きくなればなるほど、力を持てば持つほど、このことが大切なのだと思います。

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2006年02月13日(月) 23時19分22秒

スローライフ運動を加速化する?

テーマ:ブログ
「決して後悔しないと思って決めた」という言葉が「自己責任」と共に格好良いとして広まっているように思います。先日、タトゥー(入れ墨)は是か非かという特集の中で、タトゥーを入れている女性が言ったのもこの言葉でした。

若い頃にやりたいと思ったことをやる時には、「後悔しない」というのが決め台詞ですね。これが格好いいように思うのですよ。でも、その一方で、35歳のこのごろ、「ああ、あの時ああしなければ良かった」とか「やりたいと思ったけど、やらなくてもよかったな」と思うことが多くなってきました。

血気盛んなあのころは、私は「未来を自分で勝ち取る」と思っていました。でも、それから10年あまりたって当時のことを考えてみると、「自分が今あることの危うさ」というものを思わされます。自分が血気盛んな分だけ、主に周りの大人の人が慎重に私を見つめて、導き、食い止めてくれていたことを思わされます。「自己責任」「後悔しない選択」という言葉に踊らされ、若者は人生の全てを注ぎ込むことを厭いません。

今、「石橋を叩いて渡る」という生き方は物笑いの種になりかねません。チャンスを見つけたら瞬間で掴め、逃すな、ぐずぐずしては行けない。こういうかけ声が国の内外に満ち始めました。

スローライフが提唱されて久しいですが、そのスローライフでさえ「後悔しない人生」と「自己責任の追求」というものがメインテーマになりつつあります。「スローライフの考えに基づけばこうしなければいけない」というスローライフの運動を加速化しようとしてしまうのです。

本当の人間の生き方とは、周囲の人を愛し、周囲の人を受け入れ、共に歩んでいくというものではなかったでしょうか?それを忘れた時、どの様な高尚な理論であっても、それほど覚悟をもってやったとしても、何の意味があるのでしょうか?

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2006年02月11日(土) 23時57分21秒

勘違い

テーマ:教会あれこれ
教会って言ったって、所詮人の集まりですから、いろんな対立だって起こります。みんなが右向け右で動くわけではありませんし、牧師が「こうしよう!」って言ったってそうなるとは限りません。「良かれと思って提案する」に対して「良かれと思って反対する」…端から見ているとそれって当然のことだと思うのですが、その渦中にいる時には、「なんでみんな反対するんだろう」って思うことが少なくありません。そうなってくるとブツブツ言い出したくなりますし、現にブツブツ聞こえ始まります。

そんな中で、下記の聖句で説教を作りました。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネによる福音書15章5節)

「木の枝が、一つの方向にだけ出ていたらおかしいじゃないですか。北にだって西にだって、東にだって南にだって枝は伸びていくんです。あいつは違う方向だからと目くじらたてたって仕方がないですよね。枝があっちにこっちに大きく張り出していくから木は太く、上を、天を目指して伸びていくのです。」

「先生感激しました」…大好評でした。

後日、道端の街路樹にぶどうの木が絡みついていたのを見て、「あ!!」って思いました。<(1)ブドウ科のつる性落葉木本。西アジア原産。果樹として古く中国を経て渡来。葉は掌状。巻きひげは葉と対生。雌雄異株または同株。五、六月、開花。八~一〇月、球形の液果が房状になる。果皮は黒紫色・黄緑色・紅紫色など。果実は多汁で甘く生食のほか、ジュース・ジャムなどに加工、また葡萄酒を作る。エビカズラ。[季]秋。<三省堂国語辞典より>

ぶどうは、つる性落葉木…。木は上を目指して伸びることは出来ない木…横に、そして多の木などに寄りかかりぶら下がって伸びていく植物でした。

…あははは…orz

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2006年02月10日(金) 23時56分00秒

健さんが来た

テーマ:ブログ
ある教会員から、「ご夫婦で言って下さいよ」コンサートのチケットを頂きました。健は健でも将軍様ではない健さん…錦織健さんのコンサート。午後7時から9過ぎまでの熱唱でした。さすがに世界で活躍するの名テノールです。当然、歌の技術は申し分なく、それだけでも満足だったのですが、歌っている錦織健さんもとても楽しそうでした。

私達夫婦は彼のコンサートは初めてだったのですが、こんなに楽しい者だったとは思ってもいませんでした。逆に言うと、この楽しさに惹かれてファンになり、何回も足繁く通っている人もいらっしゃるようでした。

こういう芸を見て感心するのは、何度見ても、何度聞いても飽きないと言うことがあります。何度聞いても飽きが来ないから更に楽しみになる…。漫才、落語なども同じネタを楽しみにするものです。そういえば、お寺の読経なども、毎回違えばありがたみがないような気がしませんか?

ところで、では私の仕事の場合はどうでしょうか?説教だって「何度聞いても飽きの来ない」側面が必要なのではないかとこのごろ思い始めています。その場その時におもねない
大切なメッセージがあるはずではないか、そしてそれこそが説教を聞く人たちにとって最も大切で、楽しみなものである必要があるのかなあって考えています。

でも、考えはしたのですが、それが一体何なのか、どういう事なのかと言うことは、実は今の私にはさっぱり判りません。もっと経験を積めばそういうものが見つけられるでしょうか?

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2006年02月09日(木) 23時59分11秒

靖国神社がもつ問題

テーマ:埋もれた歴史
昨日、ムハンマドの風刺画問題について書きましたら、早速以下のような質問が来ました。

>日本の首相が、私的な立場であっても、靖国神社へ参拝する
>ことに対しては、中国、朝鮮半島からの反発が出ていますけ
>れど、外交の力関係と利害がが絡む問題なので難しい、です
>よね。
>文化の違いだとは片付けられない気がしますが・・。相手は、
>はっきり不快に思っている状態で、理解してほしい、といっ
>て、日本人が靖国に参拝することをひたすらわかってもらう
>ことを期待する首相のやり方を、どのように思われますか?

これって本当に重要なことです。首相の靖国神社公式参拝について、是非の声が入り乱れていますが、どうも、中国や韓国、北朝鮮などの反応が過剰に見える人が多いためか、それに不快感を示す中で靖国神社公式参拝は国のプライドの問題の様に理解して支持される方も居られるようです。小泉首相は「心ならずも戦争によって命を失った人々に哀悼の意を示すとともに平和を祈念するため」と言っていますが、しかし、それだけでは済まされない問題も沢山あるのが靖国神社問題です。

靖国神社の歴史を靖国神社のホームページhttp://www.yasukuni.or.jp/annai/qanda.html
を参考にしすると、靖国神社は戊辰戦争によって戦死した兵士たち7751柱を祀ったことが始まりだそうです。ただ、幕末の戊辰戦争の戦死者が7751名というのは少し少ない気がしましたので、こんどはフリー百科事典「ウィキベディア」で調べてみますと、祀られた人達は官軍側の兵士だけだということになっています。つまり、奥羽越列藩同盟側(いわゆる幕府軍)の戦死者は賊軍であるとの理解から祀られていません。このことはその後の西南戦争の時にも同じ事が言えます。西郷隆盛、白虎隊の隊士、新撰組などは賊軍とされ、祀られていないのが実情なのです。未だに、戊辰戦争の「官軍vs幕府軍」の構図を「善vs悪」として受け止めているのが靖国神社の歴史観です。ここに一つの問題があります。

また、「国のために殉じる」という概念自体を軍事行為のみに限定しているのも特徴です。結果、靖国神社創建以来に合祀された人たちは2004年10月17日現在全部で、246万6532人とだそうです。一方、日中戦争・太平洋戦争時の英霊として祀られたのは232万5165人です。ところがです、太平洋戦争と日中戦争に於ける日本陸海軍軍人と軍属の戦没者の合計が213万余人と言うことになっています。つまり、そのほとんどは、太平洋戦争で命を落とした軍人軍属なのです。そして、その他に従軍看護婦、従軍記者、消防士、動員学徒、女子挺身隊、対馬丸の疎開児童の方々が数えられます。

「心ならずも戦争で無念の死を遂げた人」と小泉首相が言っていますが、実はその人たちの代表者である戦争被害者(都市爆撃などで命を失った人たちなど)は含まれないのです。さらに、「国のために殉じる」訳ですから祀られる人は全て日本国民(死亡時に日本国民であった人を含む)である必要があります。

敗戦により、政教分離の原則から国家との関係は断たれ、靖国神社は宗教法人となりました。靖国神社は、神社の教団に当たる「神社庁」には属しない単立神社です。国家との関係は絶たれましたが、その結果この神社が誰を合祀するのかと言うことは神社側の判断のみで行われ、その一方で、その判断が「国のために尽くしたか否か」を決める基準になってしまっていることも問題です。このことは特にA級戦犯の合祀の時に表面化しました。その一方で、命を賭してこの戦争に反対した人たちは当然この中に合祀されるはずもありません。

さて、ところで戦争に対する理解なのですが、軍人、軍属の遺族にとっては「名誉の戦い」ですが、その一方で空襲などの中を命からがら逃げ回った人たちに取っては「おぞましい記憶」でしかありません。彼らにとっては戦争はどんなものであっても賞賛には値しないものなのです。

合祀されている人たちの遺品、戦争で使用した武器、零戦、人間魚雷「回天」、必勝祈願の血染めの日章旗や「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と書かれた阿南陸軍大臣の血染めの遺書などが展示されている遊就館という靖国神社の博物館を見る時に、戦争そのものを憎んでいる人たちにとっては、靖国神社自体が戦争を肯定している(若しくは賞賛している)と捉えてしまっても止むを得ないと思います。

靖国神社に合祀された「英霊」の子孫にとっては靖国神社は大切なところです。先祖の「名誉の戦死」を保証するものだからです。しかし、その一方で空襲で、機銃掃射で、原爆で亡くなった人たちにとって戦争で死ぬと言うことは、人間性や尊厳のかけらもない惨めなものでしかないのです。また、戊辰戦争や西南戦争で賊軍とされた人たちの子孫や、合祀されない人たちの遺族にとっては、靖国神社とは戦争の矛盾を示しているものでしかありません。

さて、ここまで来て、私の考察を述べさせて頂ければ「名誉の戦死」というのは子孫である私達の「幻想」でしかないと思います。「お国のためだ」「名誉なことだ」とどんなに取り繕ったとしても、戦争に行ってしまえば「人を殺して死ぬ」ことが「名誉の戦死」の実体なのです。この表現はご遺族にとっては残酷なことです。受け入れられないことかも知れません。しかし、戦争の現実とはそういうものです。それを私達は直視しなければいけません。

詩与謝野晶子は、弟の出征に際して「君死にたもうことなかれ」という詩を作りました。この詩について「反戦詩ではない。戦争は武士がするものであり商人の子がする事ではない、あなたは生きて帰ってきなさい、というだけの事だ」と主張している人たちも居ると聞いてびっっくりしますが、
全文http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yosanoakiko.htm
を見てその理解には無理があると思いました。

「アメリカとの戦争など勝てる見込みは全くない」「自分が討ち死にする頃には東京当たりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう」と言っていたのは山本五十六。現在の右翼からも圧倒的に支持されるこの軍人が、戦前は非戦親米の巨魁と言われ、主戦派や右翼に命を付け狙われていたというのはよく知られていたことです。また真珠湾攻撃成功を受けて彼の郷里で提灯行列が行われたと言う話を聞き「フン、その連中がな、そのうち俺の家に石投げに来るよ」と言った話は有名です。そんな彼が、果たして靖国神社に入るのを潔しとするのかどうなのか、想像力を巡らせてみる必要はあるでしょう。

日本はあの戦争で数百万という人々の命をかけて何を守ることが出来たでしょうか?理念でしょうか?家族でしょうか?主義でしょうか?信仰でしょうか?

国が敗れた時、国は疲弊し、多くの人は住む家もなく、食べるものにも事欠く有様でした。アメリカなどからの支援がなければ日本は立ち直ることは難しかったでしょう。私達の国は、たくさんの人々の命を犠牲にしても国としての体面をかろうじて守りきることしかできませんでした。だからこそ、そんな国を引き継いだ私達は、私達が生活を営んでいるこの国が官軍、賊軍、軍人軍属、一般人…多くの人々を犠牲にして歩んできたことを知るべきです。

以前紹介した内村鑑三が書いた「デンマルク國の話」の中の「戦争に敗れても国は亡びません」というの言葉が響きます。私達の国は多くの命を犠牲にしても、あの戦争に敗れたのです。それでも日本は亡びませんでした。奇跡的な復興を果たしました。今、私達は曲がりながらも平和な豊かな国として生活を営んでいます。

国の舵取りは難しいものです。その難しさを知った一国を預かる首相が、太平洋戦争の導いた結果を振り返り、自分を戒めるために靖国神社に詣でたいというのであれば、私はそれは良いことだと思います。でもそうだからこそあの戦争と靖国神社の関係を見つめて欲しいと思います。

お参りしたいのであれば、すればいいのです。「いついつ行く」「他国の内政干渉など受けない」などと大見得を切って多くの人たちの心をかき回す必要なんてありません、行きたければ行けばいいのです。仕事の合間や、前を通りかかったその時に参拝したっていいのです。そして参拝するのであれば「みなさんをはじめとして多くの人々の人生、家族、財産、命を奪ってまで何も得ることのなかったあの戦争のような過ちは繰り返しません。その為に全力を尽くします。心配しないで、安らかに眠ってください」と誓うことが国を代表する者の務めではないかと私は思います。

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