ジオターゲティング

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2017年11月05日(日) 08時49分27秒

教会と保育所と

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先日、幼稚園団体から「保育所から学ぶ」というテーマで話してほしいとのご要望を頂き、講演の準備をしている中でハタと気付いたのが、この教会を挟んだ幼稚園と保育所の関係は、いわゆる「伝道」と「宣教」に対応するのではないかということでした。

 

教会が主の愛を伝える教育に専念してきた歴史は様々な教会史の中でも語られていますが、その一方で、万人愛に立脚した主の御業の実践については、実は体系立った研究はあまり積極的に展開されて来なかったような印象を私は持っています。

 

それは、それぞれの歴史の長短も大きく関係しているでしょう。日本最古の幼稚園は130年あまりの歴史を数える一方で、保育所は戦後というほぼ現代史に於いてのみ語られる場合が少なくありません。また、幼稚園が教会の次世代育成を主体的に担ってきたと評価される一方で、保育所は教会が行う幼児伝道の副次的な事業としてしか見られて来なかったように思います。

 

幼稚園が教育をうたうことができる一方で、保育所は行政の措置を執行する機関という位置付けを与えられたに過ぎなかったわけで、保育所が教会の主体的な技だと捉えられなかったのは、必然だったのかも知れません。

 

斯くして、幼稚園と保育所は教会を挟んでその対照的な位置関係から、互いに対する誤解を解く術さえなく、ただただ表面的なことばかりを批判し合うという悲劇的な現代を迎えるに至ったのだと思っています。

 

しかし、社会福祉的な目線で考えた時、教会の思想の体現をしていったのは、保育所であったということは否定のしようがない事実です。現に、家庭や地域などの様々な事情の中で幼稚園には入れないお子さんを受け入れているわけですし、幼稚園どころか他の保育所からも受け入れてもらえない障害や慢性疾患を持っているお子さんたちを受け入れることは、キリスト教主義保育所の使命だと思って歩んでまいりました。事実、木造保育所はこれまでも障害を持っておられるお子さんを受け入れてきましたし、今は一型糖尿病のお子さんを受け入れています。さらに木造保育所では卒園児の支援を付帯の訪問看護ステーションなどと連携して行っています。


特にこれから先のことで考えれば、圧倒的な少子化の中で、保育所がその立ち位置を大きく変貌させて行かざるを得ないことです。特にこれから先のことで考えれば、圧倒的な少子化の中で、保育所がその立ち位置を大きく変貌させて行かざるを得ないと思います。

 

次期の子ども子育て支援五カ年計画は、フィンランドのネウボラという制度などを手本に総合こども園への展開などが予測されています。保育所はこれから大きく変貌していくでしょう。そして、それを支える教会が問われることは子ども子育て支援のどの部分をどの様に担うかということです。その意味で、教会と保育所はもっと手を取り合うべきであろうと思います。主体を奪い合うのではなく、責任を押し付け合うのでもなく、地域の人々と一緒に支えることが私たちの未来に期待されていることだろうと思います。


「ふつう」「くらし」「しあわせ」の頭文字を合わせて福祉なのだと教えられたことがあります。この日本にも、学校に行けない子がいます。夏休みに痩せる子がいます。親の愛を知らない子がいます。そして、その子達のために私達がいる、保育所はそう思ってこれらの業務に専念してきましたし、用いられることを願っています。そのためにお役に立てることであれば、大いに使っていただきたいと願ってきました。


そして何よりも地域の人たちが暮らしの中で幸せを実感していただけることが教会の宣教の業として、今まで保育所を導いてきたのだと感謝しています。教会だけではなく、地域の人々とともに形作られるこの業に、主の救いは豊かに示されていると信じています。

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2017年10月08日(日) 08時27分18秒

Jアラートを耳にして

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例えば、園児たちを連れての散歩中にJアラートが鳴ったとする。悠然と散歩を続けていたらどうなるか。ネットなどで袋叩きにあうかもしれない。じゃあ逆に、近くの建物などに駆け込んだり、その場に伏せたりしゃがみ込んだりして「落下地点が特定され、危険がないとの情報があるまでは、最寄りの避難所に留まる」べきなのだろうか。駆け込んだりして怪我をしたり、伏せたりしゃがみ込んでいる間に車に轢かれたりしないか。だとすれば、車も即座に路肩に停車し、安全が確認されるまで動けないとしなければ、逆に避難・防御行動をとったほうが危険である。


 例えば、職員の早番職員の通勤時間帯にJアラートが鳴ったとする。職員の避難行動によって、保育所を定時に開けられなくなったとするとそれは、認められることなのか。「落下地点が特定され、危険がないとの情報があるまでは」と施設の閉鎖を決め込み、園児を自宅待機とするべきなのか。

 

 例えば、登下校時間帯にJアラートが鳴ったとする。「子供達は避難行動をとるように努めるとともに、周囲の大人の誘導に従う」と教えられている。しかし、その場に居合わせた「周囲の大人」が本当に彼らを誘導できるのか、また、その誘導に従うべきなのかどうかは大きな問題である。そのゆえに事故が起こった場合に、「その場に居合わせた」だけの大人が責任を負わされるのは、酷ではないか。

 

 例えば、道ゆく人々はJアラートの音を聞きつけた時に、最寄りの建物であれば、一般家庭であっても助けを求めて飛び込むのは有りや、無しや。しかし、本当に危機的な状況であれば助けを求めて飛び込んでくる人々を受け入れる義務が家主に発生せざるを得ないだろう。Jアラートが鳴ったことを受け、私は保育所に直行し保育所を解放した。それが準公共事業を担う施設の義務だと思っているからである。しかし、有事というのは、こう言うことが日常茶飯事で起こる状態のことを言う。Jアラートは、国民保護情報である。定められた行動を取らなければ、命を失っても文句は言えないというものであろう。しかし、定められた行動はあやふやである。

 

 Jアラートは「ミサイル発射。今すぐ、近くの頑丈な建物や地下(地下街や地下駅舎などの地下施設)に避難して下さい。 」と警告する。しかし、世の中は、そんなことは構っていられない。それは日本が現在、有事ではなく日常だからだ。

 

 もし、その状態を平和ボケというならJアラートが鳴った時に車を走らせている「一般人」は厳しく罰を受けるべきだし、その時点で自宅にいる人々は自宅待機が義務になるし、外にいる人たちに対する保護責任は、地域全体の連帯責任を求めなければいけなくなってしまうだろう。果たして、それを求められる覚悟を持って、今の状態を「平和ボケ」と表現する人が何人いるのだろうか?

 

 相手を自分より劣等だと見做すようになると人間は、残虐性を発揮する。先日もたった一人で数百人を死傷させた事件が、護身用の銃を持つことを許されているアメリカで起こった。強力な兵器や軍隊を持てば、犯罪や殺人や戦争を抑止できるという考えの方がよっぽど平和ボケだと思う。安部首相が一時期好んで使った、「積極的平和主義」は国連の議題の中の最重要課題であって、それは「戦争の原因に成り得る全ての貧困や国際格差、差別など」や「資源の奪い合いなど」を解決していこうとする行動のことであって、軍事的恫喝や軍事的抑止を指すものではないことは以前にも指摘した。過去に人類を何十回も滅亡に追い込むほどの核兵器を積み上げてきた。 しかし、現代、技術は進歩し新しい世界が現出しようとしている。私たちがするべきことは、新しい時代に思いを馳せ、互いに思いやり、労わりあうことによってのみ平和が形作られることを何度でも再確認する事なのだ。

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2017年09月02日(土) 17時16分16秒

国が大人が義務を負うのが義務教育

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今の子供達の悲劇の根底には、義務教育が基本教育となっていない現実があると私は思っている。文字は知っている、計算はできる、歴史は知っている。でも、現代の複雑な仕組みを理解しようとしないし、できないと信じ込んでいるよう見える。そして、「(主体的に)生きること」を知らないし、そんなことしなくても生きていけると思い込んでいるように見える。

 

この国は、誇り高い国であろう。しかし、その誇り高さの反面、影に紛れた落とし穴はひっそりと獲物を狙って口を大きく開けている。


若者を破滅に追いやるのは、色々だ。様々な誘惑ばかりではない。借金、突然の災害や病気、事故、そして対人関係での悩み。最近では労務環境が槍玉に挙げられているのは新聞などで報じられる通りだ。いじめやハラスメントを苦にした自殺が後を絶たない。それらを避けることができたとしても、親や子供などの家族の介護だって同様だ。複雑で余裕のない現代においては、セーフティーネットや福祉リソースの利用が避けられない。しかし、現実は生存のための情報やリソースは日々高度化し、高尚化し続けている。

 

逆に言えば、泥臭さを忘れた生き様が賞賛される。何事にも理由が必要とされ、細かな約束に緩やかながらしっかりと縛り上げられ、大切な部分から目をそらされ続けながら人生を歩む子供達の姿はさしずめ、目隠しされ、手足を縛り上げられて綱渡りをさせられているように私には見える。一歩踏み外せば奈落の底に落ち込んでしまうことを知らずに、そして周囲に追われていることさえ知らずに生きている若者をよく見かける。自分の生存に関わる部分が脅かされていることも知らずに、更には自分の生活に当然のごとく存在する成病老死からさえも目をそらし、否定しながら生きている姿を垣間見る。

 

義務教育とは一体なんだろうか。成人になるまでに受けさせるべき教育のことだろう。成人とは成長期を終えた成体のことを言うのではないのだ。私たちは、小、中学校時代に一体彼らに何を望み・望まれ、何を教え・教えられて来たであろうかと痛切に反省しなければなるまい。


共に生きると言うことはどう言うことなのか、次の世代を育むと言うことはどう言うことなのか、そして自分はなぜ生きていくのかと言うことを考える機会はついぞ与え・与えられて来なかったのではないか。国を構成する一員として数えられるはずなのに、国が備えている福祉リソースやセーフティーネットなど存在はほとんど知らずに学校を終える。そして遠慮と思い込みだけで突っ走り、辿り着いたその先は破滅まであと一歩というところだったりする。

 

キリスト教に照らして考えれば、人間が生きるために必要なものをパウロは、信仰と希望と愛の三つだと言った。キリスト教の義務教育はこの三点を基礎とするはずだと私は思う。一人一人、それぞれが、自分が召された自覚、周囲の人と歩むべき生き様、そして、周囲の人との支え合いが、教育で伝えられなければいけないものの核心であるべきだと私は思っている。この世界で生きるための力をしっかりと養い、分かち合い、引き継いでいくことのできる存在をキリスト教では成人というのだ。これを一般的には全人教育という。

 

義務教育とは全人教育であるべきであったし、キリスト教主義は、この信仰と希望と愛をしっかりと伝え続けることなのだ。

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2017年08月06日(日) 09時22分47秒

光栄ある席?

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先日、東京出張の帰り、飛行機に乗ろうとしたら、座席に「非常口座席のお客様へ」と書かれたカードがついていました。

 

それがこれ。


 

非常口の前の座席に座った場合、緊急脱出時に乗務員の手助けをすることになっているので、協力してほしいという依頼文な訳ですが、この書き方がどうにも興味深い書き方でした。

一部を引用いたしますが、「迅速な脱出の援助をしていただくため、非常口座席に着席されるお客さまには、万一の場合、客室乗務員の指示のもと、緊急脱出時の援助をお願いいたします。なお、当てはまらない項目がある場合、非常口座席の着席ができません。」つまり、非常時には、乗務員の指示に従い、乗客の脱出を手助けすることが求められているわけです。ですから、荷物も足元には置けない、リクライニングやテーブルは使えないということになります。また、緊急脱出の時などは、他の乗客を静止したり、脱出を助ける義務を負うわけですから、その分、生存率も低くなるかもしれません。

普通に考えれば制約が多いわけですから、少しは見返りをつけても良さそうなもんですが、文章ではその逆で、「緊急脱出の援助を実施することに同意」しないとその座席には座らせることはできませんよというなんだか高飛車な感じの書き方で驚いたわけです。

 

どうしてこのような発想なのかと辿ってみれば、欧米流の考え方がその中心を占めているからだということができます。もともと旅客機の歴史は欧米で熟成されてきました。そして、欧米の考え方の中心にあるのは「市民」という考え方でした。この場合の市民とは、自治体のことではなく「主体的に政治や社会に参加する人」、「近代社会を構成する自立的個人」、「政治参加の主体となる者」という意味で使われます。憲法で保障される主権在民の「主権者」たる人々が市民です。「特別ではないが、知識や人格、力などを備え持ち、他の人々を助けることは自分の当然責務だと考えている人」のことを「市民」というわけで、「あなたは、尊敬されるべき人であり、そうだからこそこの席に座ることができるのです。そういう方でなければお座りいただけませんよ」というのが、このカードの考え方な訳です。

こう考えると、この席に座るのはなんとも誇らしい気持ちにもなれるから不思議なものです。

 

このような考え方は、教会の歴史とも重なります。なぜ、教会は今日まで存在してきたのでしょう。週に一度の休みに、献金を持って教会に集い、面白くもない説教を聞くっていう作業を毎週繰り返すことは、世の人々から見れば不思議なことでしょう。でも、教会は、2000年もの間、先達たちが「神の国」に国籍を持つ者、主の業を担うことを許されている光栄を想いながら歩んできた歴史でもあります。「主がご入用です」との言葉に衝き動かされ、見返りを求めずに主の業と信じる良き行いを当たり前のこととして行ってきたのではなかったでしょうか。

 

私たちには人に与えられた義務や責務とは別に、自らの命と直結する何かがあることを感じています。それに対して「何故?」と問いつつも、最後にはそれが志に変えられ使命とされて行くのであろうと思います。人々とともに平和を作り出すということは、武力によって押さえつける者ではないのです。一人一人に与えられた志や使命に基づいて手を取り合って行くことから平和は形作られて行くのです。

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2017年07月03日(月) 13時43分39秒

お節介と「めやぐ」

テーマ:説教

私が面白いと思っている津軽弁の一つが「めやぐ」と表記されるものです。当然「迷惑」の津軽弁化したものなわけだけど、その用法が気に入っています。何でかといえば、感謝の思いを込めていう言葉だからです。標準語では、「迷惑だよ」と言えば「止めてほしい」となるわけですが、津軽弁では「迷惑を掛けたね。ありがとう」とう意味合いで使われるからです。その一方で、遠慮をする時にも「ご迷惑」と言う用い方もあるようで、そこが興味深いことでもあります。


津軽の人付き合いは、「つうと言えばかあ」と言う言葉で言い表せるかもしれません。この「つう、かあ」も昭和40年代から使われるようになった言葉だそうですが、その語源は「~~つぅことだ」と言った相手に対し「そうかぁ」と答え、内容を言わなくても伝わ関係を表しているとする説が有力なのだそうです。

 

つまり、相手がやって欲しいと思いながらも言えないでいる事柄を気を利かせて行うと言う文化が成り立っていたからこそ「めやぐ」が感謝の言葉に置き換わって行ったと言うことなのでしょう。逆に言えば「~~しましょうか?」と言えば「ご迷惑」と言われて断られるので、知らないうちにやってやろうという精神文化が営まれてきたということでもあるでしょう。それに対して、その行為を受けた人は喜びながらも、そうさせてしまったことに恥じ入りながら感謝をしていたので、「メヤグ」というわけですな。ややこしいと言えばややこしい、まどろっこしいと言えばまどろっこしいと思いますが、だけど、そういう文化は、とても味がある文化でもあります。冬にでもなれば、地吹雪に巻かれるような地域でおいそれと人に頼むことは、その人の生死に関わるわけですから頼めない。だからできる人は気を利かせて勝手にやってあげる。それが地域の人を結び合せ、地域を動かしてきたのでしょう。自分の出来ることで他人に貢献するという、そいういう文化なのでしょう。津軽のような文化の中では、責任なんて概念がなかったはずで、みんながそれぞれにできることをやってきたという証明として「めやぐ」を見ることができると思うのです。

 

しかし、一方で、現代の日本では、「本人がして欲しいとを言わない限り、してやることはダメなこと」が一般的になってきました。昔は当然だった事柄にも、お金が付きまとい、その結果、責任が付きまとい、そして自主的な思いやりは潰れてきています。互いに見逃しあっていた部分に目くじらを立て、声を出す事が求められ続け、その結果は「助けて」と言えない人々が干されていく時代になってきたということでもあります。

 

教会教職者となってから22年、牧師として相談に乗る時、多くの人が異口同音に語るのが、見捨てられた体験です。「誰も助けてくれない、どうしたらいいんだろう」と相談に来るのです。教会が世に提示していかなければならないことは、津軽流のお節介なのかもしれません。隣人たちの様子を見守り、声なき声に耳をそばだて、平時は「見ざる聞かざる言わざる」を貫きながら、支援が必要なことに気がつけばお節介に走る…そういう事です。

 

神様から教会とそこに集う私たちが求められた持つべきものは研ぎ澄まされた感性なのです。そして、聖書はその感性を磨く指針であろうと思います。

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2017年05月29日(月) 13時04分07秒

狼と蛇と鳩

テーマ:説教
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(マタイ福音書10章16節)
 
先日面白いニュースがありました。
 
ご存知の方も居られるかも知れませんが、ある強盗犯が追っ手を振り切るために車を捨て山に逃げ込んだそうです。警察は捜査が難航すると覚悟したとも思いますが、実はあっさりと捕まりました。なんと、強盗犯が向かおうとする先に熊が現れたからです。そりゃあ、熊だったら殺されますが、警察だったら殺されるまではしないわけで、強盗犯が追っ手の警官に助けを求めて捕まったというものです。「蛇のように狡賢い強盗が鳩のように素直になった瞬間」っていうこともできるかも知れません。
 
でも、熊をはじめとする動物にとっては人間は油断のならない、ズル賢い動物だとしか思えないでしょうね。金になると思えば、絶滅するまで取り尽くし、愛情を注いだかと思えばそれまでの愛情と引き換えに「命を頂く」。住むところを焼き払い、人間に害をなすという理由だけで駆除する。そして、それに飽き足らず、それを国家や人種、さらには主義主張の違いだけで、人間同士にまで同じことを展開する…。蛇だって、人間の狡賢さには到底叶わないって言ってるんじゃないかと思います。
 
今、卒園児達に本当に送りたいみ言葉はこれだ!と今の私は思っていますし、「蛇のように賢く、鳩のように素直」は私たちの保育でもあるはずだと思い始めました。卒園後の小学生も預かりながら思うのは、保育とは綺麗事だけを教えるものではないということです。人に渦巻く様々な欲望を知らせつつ、その中で「鳩のように素直」に生きなければならないのです。そうでなければ、純粋さ、素直さは単なる綺麗事にされてしまう。
 
事実、自主事業の保育支援事業を立ち上げ、支援事業を展開してきたこの5年間を振り返ると、「狼の群れの只中」で、「身を竦ませざるを得ない状況」になっている保護者さんやお子さんと向き合わせられ続けた5年間でした。
 
卒園式の年度末、入園式の年度始めをつつがなく終えてた一方で、保育の環境はなお一層厳しさを増してきました。教育や保育の質だけを考えればいい時代ももはや遠い過去の話。理事長や園長にとっては、受難の時代を迎えたと言っても過言ではりません。「生き残りだ」「差別化だ」を大義名分にして、昨日の友は今日の敵みたいに園児どころか保育士さえも奪い合いっていう状況です。そんな状況にハタハタ嫌気がさした私は実は、今年度限りで、木造教会と木造保育所辞することにいたしました。
 
保護者さんに「今度の園長はいつまでいる?」と問われ、「最低10年はいます」と答えたたのが10年前の今頃でした。後進に道を譲る準備も、もうすぐ完了というところまで辿り着きました。先日、木造教会の役員会に任期をあと一年としたいと申し出まいした。そして、その時に示されたみ言葉が、今日の聖句「MAT10:16  「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」でした。
 
国の情勢を見ても、この国は本当に大丈夫なのか?と考え込んでしまうような状況です。卒園という区切りが、私たちが育て上げた園児を「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とすればどうでしょうか?
 
私が住んでいるところは青森県つがる市木造というところになります。大森めぐみ教会員であられた森田キヨ先生は、1945年11月に農繁期などの時に持て余されたり、労力として駆り出される子供達の姿を見かねて、また、「次代を担う子供達を守り育てる」という理念のもと保育所を立てたのが木造保育所の全身でした。その後1952年の社会福祉法児童福祉法成立に伴って、運営法人としてその土地建物を寄付されて立てられたのが木造教会です。旧西津軽郡最初の認可保育所として、当時は公立保育所の設置などにも尽力したそうです。
 
保育所の名前は、「宗教法人日本基督教団木造教会立木造保育所」ですが、その実態は、「木造保育所立木造教会」だったわけです。
 
ところで、つがる市にイオンモールがあります。なんとも中途半端な大きさで、以前住んでいた地域のイオンモールに比べれば正直モール?と疑問に思う向きもあります。しかし、話を聞いてびっくりしました。全国のイオンモールのプロトタイプがこのイオンモールつがる柏なんだそうです。それ以外にもあります。数年前、スターバックスが青森に初出店したのは、隣の市の五所川原市。さらにセブンイレブンが去年青森県に初出店しましたが、その時にも一号店はつがる市柏。実は、この人口3万4千人ほどのつがる市を中心にでき始めています。今話題の「企業主導型保育事業所」も御多分に洩れず、青森県では青森とこのつがる市柏にできました。
 
園長になって10年目。色々なものを見聞きし、最初はわからなかったこのつがる市柏の優位性がだんだん見えてきました。それは、この地域が、ある意味日本の最前線を行っているからなんだということです。そうです。つがる市では少子高齢化が進み、人口は減少するのに世帯数が増えるというちょっと考えるとわけのわからない状況に陥っています。園児の減少は著しい一方で、赤ちゃんの待機児童が発生しかけている状況。バスも汽車も1日数本。高齢化も著しいそういう地域です。でも、逆に言えば、この状況の中で、つがる市は大都市などの10~20年先を体験していると考えることもできるのではないでしょうか。そんな10年先を歩んでいるつがる市で園長をやってたら腹黒くもなりますよ。でも、その一方で腹黒さだけでは全滅するって事も気づきました。
 
理事長、園長って相当腹黒くなければ、これからの時代はやれないかも知れません。皆さんは、どうかわかりませんが、私は相当腹黒くなったと自覚しています。だったら、腹黒さを素直に受け入れて、鳩の皆さんたちを助けたいと思うようになりました。
 
腹黒い私から見たら、狼には、皆さんは美味しそうな羊に見えますよ。
 
じゃあ、狼の中でも、狼に食べられない方法を考えましょう。
 
ひたすら、忍従のシンデレラ作戦だけでもないでしょう。子供たちの中に飛び込むおむすびころりん作戦。僕よりもっと大きい美味しそうなのがきますよってのがガラガラドン作戦。呉越同舟のブレーメン作戦。
 
なんだ、保育の世界にこそ、蛇のように賢く鳩のように素直に生きるすべはもはや示されて居ましたね。
 
私たちが、本分に忠実に保育に関わり続ける限り、楽しく、明るく、そして賢く、素直に神様の導きに支えていくことはこれからもできそうです。皆様のお働きに、主の祝福がありますように。
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2017年05月07日(日) 07時04分16秒

隣人のために身を削る

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 東京に行った折、知人たちと飲みに出て聞こえる他の席からの話は、東京の人たちが相当驕り高ぶっていると嘆きたくなるような内容ばかりです。でも一方で、彼らは自分たちが日本の中で勝ち組の地位にいて、地方を負け組にして踏みつけていることさえ自覚していないことも聞き取れます。そして、これは地方に至っても当てはまります。地方は同様に自分たちより田舎を踏みつけて行きます。負け組は頑張るのが当たり前。衰退しているのは、頑張りが足りないからだというわけです。


 日本の政策や経営はどれも、総花的です。そして中央と呼ばれる組織に属する人たちは、何事も努力と根性と気合があれば困難は乗り越えられると信じている。国際化、スポーツの振興、学力向上、技術の開発・獲得、食糧の自給、少子化の克服、高齢者の介護、防衛力の強化、福島第一原発の廃炉作業、そして更には膨大な国債の償還…。その総花主義は深刻な少子高齢化の中では、若者の生き方に総花主義を求め、文武両道、従順の代償が高給という形でまとめてしまった。でもその中でも、また勝ち組と負け組に細分化されて行行きます。
 内田樹神戸女学院大学名誉教授が神奈川新聞に寄稿した「『属国』直視から」の中で「日本ははっきりいって末期的である。これから急激な人口減局面を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。日本はこれから長期にわたる『後退戦』を戦わなければならない。」とあります。


 保育業界に身を置いていると、この「後退戦」とは本当に骨の折れる仕事だとつくづく思わされます。まず全体にその危機感をもたらし、共有することがまずただ事ではありません。ある人たちは食うや食わずやの状況に追い込まれている一方で、ある人たちは優勢に戦いるわけだから。


 無論、どんな状態にしたって、食うや食わずやの悲壮な状況の中で戦わざるを得ない部分は必ず出るに違いない。好景気の時だって倒産する会社はあるわけだから。すると、「本当に撤退戦が必要なの?」という問いが出る。優勢な人たちからすれば「創意工夫が足りない」、「仕方がない」などの言葉が思い浮かぶ。その故に「足を引っ張るな」と感じてしまうでしょう。結果、勝ち組は驕り、負け組は切り捨てられる。そうなると、「後退戦」は一層難しくなってしまいます。


 少子高齢化への対応という「後退戦」は、放って置いても自然に小さくなっていくパイをどのように切り分けるのか、ということで、気合いや自己責任論では行き詰まります。内田氏は「後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、『起死回生の突撃』のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である」と書き、更に「指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持(きょうじ)を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない」と綴ります。


 信仰は隣人と次世代への遺産であり、それは高い倫理性と人間性に裏付けられた社会の構築の業です。私たちはそのために福祉を向上させ、教育を充実させる矜持と責任を神様の御業として担って行くのです。

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2017年04月16日(日) 07時54分44秒

社会をどうする?

テーマ:ブログ

資本主義社会では、リーダーには賞味期限がある。
 

リーダーは自分の生存をかけて社会を守らなければならないからだ。

それは、長期間そこにとどまることを意味するのではなく、自分がリーダーになって気がついたリソースの欠けを補うために任期を区切るということ。その人がリーダーから外れてからこそ、その人がリーダーであったことの価値が現出する。


つまり、リーダーそのものも一つのこなさなければならないキャリアに過ぎないということ。


もし、仮にその職位に満足し、天職だと思い、そこに長く留まることを許されてしまえば、組織の大小に関わらず傲慢にもなるし、独裁も自ずから求めてしまう。


キャリアは半自動的に次に譲っていかなければならないものなのだし、だからこそ、その組織の構成員は、誰がリーダーになっても、たとえ、リーダーがいなくても動くことができるようにキャリアの構築を求められる。

コンプライアンスとガバナンスの構築は、そのようなスタイルを構築すること。


それが市民教育と言われるものであるし、それが義務教育の必要性にも繋がる。

アメリカ市民はその辺をしっかり理解している。

何も、日本がアメリカ流になれという話ではない。でも、アメリカに追従する限り、私たちは「真の資本主義社会」になるために、今まで保ってきたことを捨てることをこれまで以上に求められるのは受け入れるしかない。

もし、それが嫌なら、私たちは人間というものの罪深さに向き合いながら自分達で自分達を処するやり方を、紡ぎださねばならない。

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2017年04月02日(日) 08時43分01秒

赦された者として

テーマ:説教

 自らの破滅を感じ取りそれに囚われた人の醜い姿を、私たちはテレビなどを通じて見せられ続けています。ああはなりたくないものだなあと眺めつつ、なんでそんなことになっちゃうんだろうとぼんやり考える今日この頃です。

 

 誰だって破滅は恐ろしいと考えるものです。信仰者だってそれは同じことです。イエス様だって「御心ならばこの苦い盃を取り除けてください」と祈ったほどです。

 

 キリスト教信仰の奥義の一つは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10章10節)です。義とされることと救われることは同時に行われるわけではなく、段階を踏んでいることが解ります。

 

 信じるとは、自分が赦(ゆる)された者であることを信じることです。この「赦し」ですが条件や対価を求める「許す」とは真逆の「対価や条件を問わない、温情的な行い」を指します。つまり、この信仰は最終的にはそれぞれの甦りを約束します。そして、この甦りを「口で公に言い表」すことを通して私たちは救いに至ることができるわけです。多くの人々が困難や破滅に立ち向かっていきました。その原動力は、自分がここにいることの意味なのだということです。「善行の結果が救いを導く」ではなく「私たちの救われた確信が私たちの善行を導く」からだと信じるからです。だからこそ信仰の先達たちは、その破滅に立ち向かっていくことができたのでしょう。いや、立ち向かったというより立ち向かわざるを得なかったというべきでしょうか。それは、愛そのものに裏付けられていたからということなのでしょう。「六千人の命のビザ」で有名な杉原千畝は、「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言っています。

 

 私が私であることは、私を今まで支えてきた全ての総称としての「神の意思」ということができるでしょうか。「神に背く」という言葉は実に「自己否定」としての意味にも聞こえてきます。赦された者として歩むことは、大切なことなのです。

 

 報酬を期待して善行を行うのなら、その報酬を得た時点で、善行ではなく仕事と呼ばれるでしょう。しかし、私たちが神様から託された私たちの存在理由はそういうものではありません。サービスとしての代替えが聞く労働者としての存在ではなく、神様の赦しに基づいた私たちらしさこそが大切なのだということです。だから、この受難節の期間に私たちは一体何を赦されているのかを感じ取らなければなりません。

 

 過去を恥じるのではなく、過去を問うのでもなく、また、未来を案じるのではなく、今、この場所での最善を行うことが私たちに赦されているのです。

 

 私たちの世界はこの数十年で大きく無信仰化してしまったようです。信仰さえ、対価を求める時代になってきました。その中では、過去を問いあげつらい、未来に責任を求めて、今なすべきことを見失っているようにも思えてきます。
 

 木造教会は今年度65周年を迎えます。そしてこの65年の歩みはいつもその時成すべきことをを忠実に成し遂げてきた積み重ねでもあったことを思い返したいと思います。この一年度もその時成すべきことに信仰を注ぎ、言い表し、歩み続けるものでありたいと願っています。

 

 皆様の歩みの上に、主の赦しと導きと祝福が豊かなありますようにお祈りします。

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2017年03月03日(金) 11時56分32秒

ガバナンスとコンプライアンスと

テーマ:ブログ

組織は、定期的にトップを入れ替えなければ、窒息します。だから、アメリカの大統領だって2期8年の任期を終えれば何歳であっても年金生活者にならざるを得ないのです。

 

「あの人以外の誰にトップを任せられる?」

 

そういう言葉をよく耳にするけど、本当は誰でもできるようにしなければならないのが組織のガバナンスとコンプライアンスを構築ということです。

 

「あの人」以外にできる人がいないのであれば、その組織は、その組織の構成員が無責任に「任せる」という状態に陥り、他律主義の自動思考に陥っているということを意味します。

 

その中で「(任された)あの人」は組織を維持するために、その責任に応えるために冷徹に振る舞い続けなければなり、一方で、自分を無条件に受け入れてくれる人を渇望するようになります。

 

結果は4年ほどで誰でも独裁者になってしまうでしょう。

 

でも、それで痛い目に遭ってしまったとしても、一度他律主義の自動思考に陥ってしまった人たちは、自分の立ち位置と価値を認識することはとても難しいのです。結果的に、新たに独裁者を求め、育成してしまいます。

 

今、その必要を認知され、構築を求められるガバナンスもコンプライアンスも、それぞれが自身の立ち位置を熟知し、その立ち位置でそれぞれが最高のパフォーマンスを提供するために必要な仕組みなのです。

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