ジオターゲティング

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2017年05月29日(月) 13時04分07秒

狼と蛇と鳩

テーマ:説教
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(マタイ福音書10章16節)
 
先日面白いニュースがありました。
 
ご存知の方も居られるかも知れませんが、ある強盗犯が追っ手を振り切るために車を捨て山に逃げ込んだそうです。警察は捜査が難航すると覚悟したとも思いますが、実はあっさりと捕まりました。なんと、強盗犯が向かおうとする先に熊が現れたからです。そりゃあ、熊だったら殺されますが、警察だったら殺されるまではしないわけで、強盗犯が追っ手の警官に助けを求めて捕まったというものです。「蛇のように狡賢い強盗が鳩のように素直になった瞬間」っていうこともできるかも知れません。
 
でも、熊をはじめとする動物にとっては人間は油断のならない、ズル賢い動物だとしか思えないでしょうね。金になると思えば、絶滅するまで取り尽くし、愛情を注いだかと思えばそれまでの愛情と引き換えに「命を頂く」。住むところを焼き払い、人間に害をなすという理由だけで駆除する。そして、それに飽き足らず、それを国家や人種、さらには主義主張の違いだけで、人間同士にまで同じことを展開する…。蛇だって、人間の狡賢さには到底叶わないって言ってるんじゃないかと思います。
 
今、卒園児達に本当に送りたいみ言葉はこれだ!と今の私は思っていますし、「蛇のように賢く、鳩のように素直」は私たちの保育でもあるはずだと思い始めました。卒園後の小学生も預かりながら思うのは、保育とは綺麗事だけを教えるものではないということです。人に渦巻く様々な欲望を知らせつつ、その中で「鳩のように素直」に生きなければならないのです。そうでなければ、純粋さ、素直さは単なる綺麗事にされてしまう。
 
事実、自主事業の保育支援事業を立ち上げ、支援事業を展開してきたこの5年間を振り返ると、「狼の群れの只中」で、「身を竦ませざるを得ない状況」になっている保護者さんやお子さんと向き合わせられ続けた5年間でした。
 
卒園式の年度末、入園式の年度始めをつつがなく終えてた一方で、保育の環境はなお一層厳しさを増してきました。教育や保育の質だけを考えればいい時代ももはや遠い過去の話。理事長や園長にとっては、受難の時代を迎えたと言っても過言ではりません。「生き残りだ」「差別化だ」を大義名分にして、昨日の友は今日の敵みたいに園児どころか保育士さえも奪い合いっていう状況です。そんな状況にハタハタ嫌気がさした私は実は、今年度限りで、木造教会と木造保育所辞することにいたしました。
 
保護者さんに「今度の園長はいつまでいる?」と問われ、「最低10年はいます」と答えたたのが10年前の今頃でした。後進に道を譲る準備も、もうすぐ完了というところまで辿り着きました。先日、木造教会の役員会に任期をあと一年としたいと申し出まいした。そして、その時に示されたみ言葉が、今日の聖句「MAT10:16  「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」でした。
 
国の情勢を見ても、この国は本当に大丈夫なのか?と考え込んでしまうような状況です。卒園という区切りが、私たちが育て上げた園児を「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とすればどうでしょうか?
 
私が住んでいるところは青森県つがる市木造というところになります。大森めぐみ教会員であられた森田キヨ先生は、1945年11月に農繁期などの時に持て余されたり、労力として駆り出される子供達の姿を見かねて、また、「次代を担う子供達を守り育てる」という理念のもと保育所を立てたのが木造保育所の全身でした。その後1952年の社会福祉法児童福祉法成立に伴って、運営法人としてその土地建物を寄付されて立てられたのが木造教会です。旧西津軽郡最初の認可保育所として、当時は公立保育所の設置などにも尽力したそうです。
 
保育所の名前は、「宗教法人日本基督教団木造教会立木造保育所」ですが、その実態は、「木造保育所立木造教会」だったわけです。
 
ところで、つがる市にイオンモールがあります。なんとも中途半端な大きさで、以前住んでいた地域のイオンモールに比べれば正直モール?と疑問に思う向きもあります。しかし、話を聞いてびっくりしました。全国のイオンモールのプロトタイプがこのイオンモールつがる柏なんだそうです。それ以外にもあります。数年前、スターバックスが青森に初出店したのは、隣の市の五所川原市。さらにセブンイレブンが去年青森県に初出店しましたが、その時にも一号店はつがる市柏。実は、この人口3万4千人ほどのつがる市を中心にでき始めています。今話題の「企業主導型保育事業所」も御多分に洩れず、青森県では青森とこのつがる市柏にできました。
 
園長になって10年目。色々なものを見聞きし、最初はわからなかったこのつがる市柏の優位性がだんだん見えてきました。それは、この地域が、ある意味日本の最前線を行っているからなんだということです。そうです。つがる市では少子高齢化が進み、人口は減少するのに世帯数が増えるというちょっと考えるとわけのわからない状況に陥っています。園児の減少は著しい一方で、赤ちゃんの待機児童が発生しかけている状況。バスも汽車も1日数本。高齢化も著しいそういう地域です。でも、逆に言えば、この状況の中で、つがる市は大都市などの10~20年先を体験していると考えることもできるのではないでしょうか。そんな10年先を歩んでいるつがる市で園長をやってたら腹黒くもなりますよ。でも、その一方で腹黒さだけでは全滅するって事も気づきました。
 
理事長、園長って相当腹黒くなければ、これからの時代はやれないかも知れません。皆さんは、どうかわかりませんが、私は相当腹黒くなったと自覚しています。だったら、腹黒さを素直に受け入れて、鳩の皆さんたちを助けたいと思うようになりました。
 
腹黒い私から見たら、狼には、皆さんは美味しそうな羊に見えますよ。
 
じゃあ、狼の中でも、狼に食べられない方法を考えましょう。
 
ひたすら、忍従のシンデレラ作戦だけでもないでしょう。子供たちの中に飛び込むおむすびころりん作戦。僕よりもっと大きい美味しそうなのがきますよってのがガラガラドン作戦。呉越同舟のブレーメン作戦。
 
なんだ、保育の世界にこそ、蛇のように賢く鳩のように素直に生きるすべはもはや示されて居ましたね。
 
私たちが、本分に忠実に保育に関わり続ける限り、楽しく、明るく、そして賢く、素直に神様の導きに支えていくことはこれからもできそうです。皆様のお働きに、主の祝福がありますように。
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2017年05月07日(日) 07時04分16秒

隣人のために身を削る

テーマ:ブログ

 東京に行った折、知人たちと飲みに出て聞こえる他の席からの話は、東京の人たちが相当驕り高ぶっていると嘆きたくなるような内容ばかりです。でも一方で、彼らは自分たちが日本の中で勝ち組の地位にいて、地方を負け組にして踏みつけていることさえ自覚していないことも聞き取れます。そして、これは地方に至っても当てはまります。地方は同様に自分たちより田舎を踏みつけて行きます。負け組は頑張るのが当たり前。衰退しているのは、頑張りが足りないからだというわけです。


 日本の政策や経営はどれも、総花的です。そして中央と呼ばれる組織に属する人たちは、何事も努力と根性と気合があれば困難は乗り越えられると信じている。国際化、スポーツの振興、学力向上、技術の開発・獲得、食糧の自給、少子化の克服、高齢者の介護、防衛力の強化、福島第一原発の廃炉作業、そして更には膨大な国債の償還…。その総花主義は深刻な少子高齢化の中では、若者の生き方に総花主義を求め、文武両道、従順の代償が高給という形でまとめてしまった。でもその中でも、また勝ち組と負け組に細分化されて行行きます。
 内田樹神戸女学院大学名誉教授が神奈川新聞に寄稿した「『属国』直視から」の中で「日本ははっきりいって末期的である。これから急激な人口減局面を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。日本はこれから長期にわたる『後退戦』を戦わなければならない。」とあります。


 保育業界に身を置いていると、この「後退戦」とは本当に骨の折れる仕事だとつくづく思わされます。まず全体にその危機感をもたらし、共有することがまずただ事ではありません。ある人たちは食うや食わずやの状況に追い込まれている一方で、ある人たちは優勢に戦いるわけだから。


 無論、どんな状態にしたって、食うや食わずやの悲壮な状況の中で戦わざるを得ない部分は必ず出るに違いない。好景気の時だって倒産する会社はあるわけだから。すると、「本当に撤退戦が必要なの?」という問いが出る。優勢な人たちからすれば「創意工夫が足りない」、「仕方がない」などの言葉が思い浮かぶ。その故に「足を引っ張るな」と感じてしまうでしょう。結果、勝ち組は驕り、負け組は切り捨てられる。そうなると、「後退戦」は一層難しくなってしまいます。


 少子高齢化への対応という「後退戦」は、放って置いても自然に小さくなっていくパイをどのように切り分けるのか、ということで、気合いや自己責任論では行き詰まります。内田氏は「後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、『起死回生の突撃』のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である」と書き、更に「指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持(きょうじ)を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない」と綴ります。


 信仰は隣人と次世代への遺産であり、それは高い倫理性と人間性に裏付けられた社会の構築の業です。私たちはそのために福祉を向上させ、教育を充実させる矜持と責任を神様の御業として担って行くのです。

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2017年04月16日(日) 07時54分44秒

社会をどうする?

テーマ:ブログ

資本主義社会では、リーダーには賞味期限がある。
 

リーダーは自分の生存をかけて社会を守らなければならないからだ。

それは、長期間そこにとどまることを意味するのではなく、自分がリーダーになって気がついたリソースの欠けを補うために任期を区切るということ。その人がリーダーから外れてからこそ、その人がリーダーであったことの価値が現出する。


つまり、リーダーそのものも一つのこなさなければならないキャリアに過ぎないということ。


もし、仮にその職位に満足し、天職だと思い、そこに長く留まることを許されてしまえば、組織の大小に関わらず傲慢にもなるし、独裁も自ずから求めてしまう。


キャリアは半自動的に次に譲っていかなければならないものなのだし、だからこそ、その組織の構成員は、誰がリーダーになっても、たとえ、リーダーがいなくても動くことができるようにキャリアの構築を求められる。

コンプライアンスとガバナンスの構築は、そのようなスタイルを構築すること。


それが市民教育と言われるものであるし、それが義務教育の必要性にも繋がる。

アメリカ市民はその辺をしっかり理解している。

何も、日本がアメリカ流になれという話ではない。でも、アメリカに追従する限り、私たちは「真の資本主義社会」になるために、今まで保ってきたことを捨てることをこれまで以上に求められるのは受け入れるしかない。

もし、それが嫌なら、私たちは人間というものの罪深さに向き合いながら自分達で自分達を処するやり方を、紡ぎださねばならない。

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2017年04月02日(日) 08時43分01秒

赦された者として

テーマ:説教

 自らの破滅を感じ取りそれに囚われた人の醜い姿を、私たちはテレビなどを通じて見せられ続けています。ああはなりたくないものだなあと眺めつつ、なんでそんなことになっちゃうんだろうとぼんやり考える今日この頃です。

 

 誰だって破滅は恐ろしいと考えるものです。信仰者だってそれは同じことです。イエス様だって「御心ならばこの苦い盃を取り除けてください」と祈ったほどです。

 

 キリスト教信仰の奥義の一つは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10章10節)です。義とされることと救われることは同時に行われるわけではなく、段階を踏んでいることが解ります。

 

 信じるとは、自分が赦(ゆる)された者であることを信じることです。この「赦し」ですが条件や対価を求める「許す」とは真逆の「対価や条件を問わない、温情的な行い」を指します。つまり、この信仰は最終的にはそれぞれの甦りを約束します。そして、この甦りを「口で公に言い表」すことを通して私たちは救いに至ることができるわけです。多くの人々が困難や破滅に立ち向かっていきました。その原動力は、自分がここにいることの意味なのだということです。「善行の結果が救いを導く」ではなく「私たちの救われた確信が私たちの善行を導く」からだと信じるからです。だからこそ信仰の先達たちは、その破滅に立ち向かっていくことができたのでしょう。いや、立ち向かったというより立ち向かわざるを得なかったというべきでしょうか。それは、愛そのものに裏付けられていたからということなのでしょう。「六千人の命のビザ」で有名な杉原千畝は、「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言っています。

 

 私が私であることは、私を今まで支えてきた全ての総称としての「神の意思」ということができるでしょうか。「神に背く」という言葉は実に「自己否定」としての意味にも聞こえてきます。赦された者として歩むことは、大切なことなのです。

 

 報酬を期待して善行を行うのなら、その報酬を得た時点で、善行ではなく仕事と呼ばれるでしょう。しかし、私たちが神様から託された私たちの存在理由はそういうものではありません。サービスとしての代替えが聞く労働者としての存在ではなく、神様の赦しに基づいた私たちらしさこそが大切なのだということです。だから、この受難節の期間に私たちは一体何を赦されているのかを感じ取らなければなりません。

 

 過去を恥じるのではなく、過去を問うのでもなく、また、未来を案じるのではなく、今、この場所での最善を行うことが私たちに赦されているのです。

 

 私たちの世界はこの数十年で大きく無信仰化してしまったようです。信仰さえ、対価を求める時代になってきました。その中では、過去を問いあげつらい、未来に責任を求めて、今なすべきことを見失っているようにも思えてきます。
 

 木造教会は今年度65周年を迎えます。そしてこの65年の歩みはいつもその時成すべきことをを忠実に成し遂げてきた積み重ねでもあったことを思い返したいと思います。この一年度もその時成すべきことに信仰を注ぎ、言い表し、歩み続けるものでありたいと願っています。

 

 皆様の歩みの上に、主の赦しと導きと祝福が豊かなありますようにお祈りします。

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2017年03月03日(金) 11時56分32秒

ガバナンスとコンプライアンスと

テーマ:ブログ

組織は、定期的にトップを入れ替えなければ、窒息します。だから、アメリカの大統領だって2期8年の任期を終えれば何歳であっても年金生活者にならざるを得ないのです。

 

「あの人以外の誰にトップを任せられる?」

 

そういう言葉をよく耳にするけど、本当は誰でもできるようにしなければならないのが組織のガバナンスとコンプライアンスを構築ということです。

 

「あの人」以外にできる人がいないのであれば、その組織は、その組織の構成員が無責任に「任せる」という状態に陥り、他律主義の自動思考に陥っているということを意味します。

 

その中で「(任された)あの人」は組織を維持するために、その責任に応えるために冷徹に振る舞い続けなければなり、一方で、自分を無条件に受け入れてくれる人を渇望するようになります。

 

結果は4年ほどで誰でも独裁者になってしまうでしょう。

 

でも、それで痛い目に遭ってしまったとしても、一度他律主義の自動思考に陥ってしまった人たちは、自分の立ち位置と価値を認識することはとても難しいのです。結果的に、新たに独裁者を求め、育成してしまいます。

 

今、その必要を認知され、構築を求められるガバナンスもコンプライアンスも、それぞれが自身の立ち位置を熟知し、その立ち位置でそれぞれが最高のパフォーマンスを提供するために必要な仕組みなのです。

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2017年02月07日(火) 18時33分29秒

時代だなあ。

テーマ:ブログ
先日、ままごとコーナーの園児の仕草が目に付きました。

赤ちゃん役の年少子を年長児が、寝かしつける素振りで添い寝をしていました。右手でトントンしながら、左手には、紙で作ったスマートフォン。

時代だなあ。

「だから保育所は頑張らなきゃ」と思う出来事。
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2017年02月04日(土) 15時39分19秒

自らをひっぱたきたい…学び続ける理由

テーマ:ブログ

「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を読みました。衝撃的な文章でした。


この文章を書いたフリーライターの赤木智弘さんは、「平和な現代」が「流動性」を欠いたものであって、「社会の格差」を「大きく、かつ揺るぎないもの」にしている時代であるととらえています。そして、その解決策として彼は、「極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する」と論を進めていきます。

 

そして、

 

「国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる『持つ者』の傲慢であると受け止められるのである。」

 

と語ります。

 

タイトルは軍国主義の日本を批判した社会学者であり東京大学卒の丸山眞男が、二等兵という軍隊では最も低い階級で徴兵され、当時の中学校も出ていない上級兵にいじめられたという戦中の話に由来したもので、赤木さんは「一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光」と彼は言います。それは、復讐とも呼べるものなのでしょう。

 

私たちは、この文章に対してどう答えるべきなのでしょうか。「言っていることは分かる気がするけど、何かが違う」と思うのは私だけでしょうか。

 

彼はこの文章の中で「窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう」と語ります。それはその通りでしょう。

 

しかし、私には、それを得るための手法論が間違えていると思えてなりません。つまり、その根底にある思想には「愛」という概念が決定的に欠けていることに注目したいと思うのです。「窮状を脱する」ためには、誰かからの愛される必要があるでしょうし、「社会的な地位を得る」にも、「家族を養う」にも周囲の人を愛する必要がありますが、彼の文章には、全く愛の存在が感じ取れません。「迷惑をかけも、かけられたくもない」というのが彼の意味する「尊厳」なのではないかと思えてなりませんが、それは孤立でしかありません。

 

尊厳とは自らが尊いと思うものを、自身の全存在をかけて護り、育て続けることであり、愛そのものだからです。家族然り、仕事然り、地位然りです。故に私たちはいかに「平和な時代」なのだと言われても愛し、愛される者として学び続けざるを得ないですし、その結果「社会の流動性」は担保され続け、私たちはその中で愛し、愛される者としての尊厳を担保されるのです。だから私たちは、経済ではなく、自分自身を成長させ続ける必要に目を逸らせないのです。

 

愛の中に身を置き、多くの人々と交わることは、私たちの生涯を通じて絶えず問いかけられ続ける課題なのですから。

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2017年01月01日(日) 00時00分00秒

人生の転機に向かって

テーマ:説教

調べてみると、1月1日が日曜日になるのは直近では、1989年、1995年、2006年、2012年だそうです。1989年は、私が高校を卒業した年、1995年は最初の教会に伝道師として赴任した年。2006年は息子が生まれ、2012年は保育支援事業を始めた年でした。今年2017年は社会福祉制度改革が行われる年であり、福祉のあり方が大幅に変わるであろうことが言われています。こんなふうに考えてみるとなんか特別な人生のように思えてきますが、でも、人生というのは、転機の連続です。望んだもの、望まなかったものをひっくるめて私という人間を導いていきます。無論、忘れてしまいたい経験も含めて、私という人間を形作ったものは、もはや忘却の彼方にその大半が押しやられているでしょう。

 

「あけましておめでとうございます」という挨拶の後には「今年もよろしくお願いします」という挨拶がつけられるのが、定番になっています。何をよろしくとするのかと考えてみれば、それは、逆にこれから起こるであろう転機に対して、お世話になるであろうことを予測しての話だろうと思うのです。正月を無事に迎えても、その一年が自分の最後の年になるかもしれない…私たちの人生は、そういう風に儚いものでしかありません。

 

何をするにしても誰かは喜び、誰かは傷つくのが人生ということができるでしょう。これからも私たちは、できれば可能な限り最小の迷惑と、可能な限り最大のお役立ちを目指して歩んでいくものであり続けるしかないのでしょう。

 

新しい一年という括りをみるときに、私たちは、その年に希望を抱きます。しかし、その希望を抱けない人々が大勢いることを忘れることは許されません。ある人は、死に至る病の宣告を受けるでしょう。生きる望みを奪われている人もいるでしょう。毎日が不安の中にいる人もいるのです。年齢を重ねる毎に忍び寄る死に向かって、私たちは生き続けるのです。

 

「もういくつ寝るとお正月」と正月を楽しみにする子供達を見ると、大人が生きるということは、彼らに希望を示し続けることなのだろうと思うのです。子供の姿は昔から変わりません。遊ぶ道具が電子化されようとも、家族が縮小しようとも、面倒を見る人が変わろうとも、子供は子供の夢を見ます。しかし、その一方で、大人は本当に子供達の夢や希望に向き合っているかととわれればお恥ずかしい現実であったと思わされます。「子供は黙っていなさい」、「言われたことをしていれば良い」とそのように振舞っていたのではないでしょうか。

 

大人はいつの間にか、子供の希望や転機を奪って消費していく世の中になってきたように思います。

 

「お金がないなら子供を産むな」とか「面倒を見られないなら子供を産むな」とか言われる昨今、子供達は保育所や学童クラブなどに押し込められ、しかし、自分たちの転機を探し、待っています。そんな彼らに私たちができることは、精一杯彼らを尊重することです。共に生きる相手として、祝福し続けることでしょう。そして、それは私たちに帰ってくるのです。

 

子供達に「あけましておめでとう。今年もよろしくね」と私たちはどのような想いを込めて言うのか考えてみればわかるでしょう。彼らは私たちをいつも見ているます。そして私たちを求め続けるのです。彼らに恥じない歩みを進めていきましょう。

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2016年12月04日(日) 09時02分13秒

当たり前にはありがとう

テーマ:説教

 当たり前が当たり前じゃなくなると、私たちはとても大きな混乱に陥ることは衆知の通りですが、当たり前って当たり前じゃ無いんだということを最近、しみじみと感じております。当たり前は、長い間をかけて形作られるものです。そして、その長い間には、多くの人たちの途方もない努力が存在しています。無論、その当たり前を維持するためにも多くの人たちが人知れず努力を重ねています。そんな人たちの事を私たちは知る由もありません。少しだけ垣間見ることができるとすれば、それはお金の動きということになるかも知れません。

 

 「当たり前」の語源を調べると「当然の当て字で当前となった」という説と「一人当たりの分け前のこと」という説があるそうで、どちらにしても「当然=まさにそうするべし(本当にそうあるべき)」という単語と重なったのであろうと思います。微妙なニュアンスで考えれば「当然」は与える方で「当り前」は受ける方という感じで広まったようですね。そう考えれば、今私たちが言う「当り前」は、受ける方としての自覚が強く働いていると言うことが言えます。しかし、その一方で私たちはお互いに授受を繰り返す社会の一員であるわけですから、与える方にも目を向けなければいけません。平和は当り前が狂う中で崩れていきます。お金の動きは、それを如実に示しています。

 

 デフレと言われ久しい昨今ですが、デフレとは「デフレーション」の略で、経済の解説では「簡単に言えば物やサービスの値段が下がっていくこと」です。でも、心理的には逆で「お金の価値が上がっていくこと」であろうと思います。何としてもお金を掻き集めようとして、安売り合戦が始まりますし、その結果、将来の需要までも食いつぶしてしまいます。その一方で、多くの人々は将来への不安や備えからお金を溜め込み始めます。

 

 たとえ一千万円の貯金があったとしても来年クビになるかも知れないと思えばお金を使うことなんてできないわけですから、なるべく倹約して少しでもお金を蓄えようと必死になるでしょう。つまり「世の中は金が全て」と多くの人が思い始めるとデフレは起こります。当たり前は崩れ去り、その崩れたところに人々は殺到します。

 

 こうなってくると当たり前は当たり前として機能しなくなります。当たり前が当たり前ではなくなりますので、分かりやすい金銭の授受に人々の関心はさらに集中していきます。当たり前は当たり前では無いので、色々なことにお金が必要になってきます。そして「お金が無ければいきていけない」ということが当たり前だということになると更にデフレは進行していきます。

 

 当り前とは、私たちが黙々と重ねる努力ということができます。私たちそれぞれが当り前のことを常に意識しつつ、互いに感謝を持って生きていくことによって日本が日本であり続けられるのです。

 

 「ありがとうございます」と笑顔で言うと、相手は笑いながら「いえいえ、当然のことをしたまでですよ」と答える、こんなやりとりが実は世界を支えていたのです。ヨセフとマリアを馬小屋に泊めた宿屋だってこう言ったでしょう。「ありがとう」と言う感謝の言葉はその「当たり前」と言う行為が、多くの人々の努力によって成り立っていることを忘れないための呪文のようにも思えてきます。皆様のお働きに主の祝福がありますように祈っています。

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2016年11月13日(日) 09時22分30秒

「生き残る」ではなく「生きる」

テーマ:説教

最近、様々な現場で「どう生き残るべきか」なんて言葉を耳にします。自然に考えれば「生き残」れなければ、死ぬしかないという事になりますが、なぜ、そんなに生きることが難しいのだろうと不思議に思ってしまいます。もはや世の中はそんな生存競争をしなければならないほど一人一人が追い詰められているのでしょうか?

 

確かに、私たちは世界の激しい変革に晒されていると感じる場面は多くなりました。求められる事が増大し、それに追いつくのに必死である事は否定できません。でも、その変革そのものは、私たちが望んでいる事であったはずです。

 

私たちには、得手不得手があります。そしてそれが私たちの個性であると考えて今まで歩んできました。しかし、その一方で、その得手が通用しない時代の入り口に立っている様な不安を抱いているのが現実だという事が出来るのでしょう。

 

結果として、自分の取り分を守りたいという過剰な反応が出てきます。「ウチよりあっちがひどい」と互いに互いを貶め合う事しかできなくなります。更に言えば、「何もしない事が何よりも大切」だと思い込んでしまう場合だって出てくるわけです。そうなってしまえば、自分の全てが秘密の対象になってしまいます。出来ること、出来ないことを混ぜこぜにして全てに沈黙をしてしまわざるを得ないでしょう。目立たない、やらない方が意味のある時代に向かっています。制度が複雑化すれば、理念や希望といったものは忘れ去られてしまうでしょうし、これまで蓄積した常識などが通用しなくなるのですから「やらない方」を選びたくなるのは人情です。しかし、だからこそ、そこからの選択が大切なのです。複雑化したり陳腐化した制度を前に、「どうやって生き残るか」と問う人の多くは、そもそも、現状にさえ、他者の存在に対してさえ、満足していない事が多い様に思います。

 

「もっと良い世界に!」と他者に望む一方で、自分には変わる余地がないと堅く信じている人たちを多く見受けます。「生き残り」を求める人たちの多くが、実は自分の現状を変えたくないと思っていたりするのです。ですから「生き残らなきゃ!」と考え始めると、他人のことは構ってられなくなります。強がり、突き放し、迷惑をかけること、かけられることが苦痛になります。生きることは迷惑をかけたりかけられたりすることそのものなのにです。

 

迷惑をかけない、かけられたくないという思いは、私たちに、他に出し抜かれる事を恐れを抱かせ、その結果私たちは他を出し抜く事しか考えられなくなってしまうのです。他人の善意さえ悪意と捉えざるを得なくなります。

 

でも本当は、猜疑心が諸悪の根源である事は歴史によって証明されています。その事は人間社会が始まって以来繰り返され続けた大きな過ちなのに、猜疑心に支配された結果、多くの人を巻き込んだ自滅に行き着いてもなお、自分は被害者であると思い込ませられ続けます。

 

こんな現在に立つ私たちがやならければいけない事は、理念や希望、夢を語り合う事です。「これから失うだろうもの」に目を向けるのではなく、「これまでに失ってきたもの」に目を向けるべきなのです。失ってきたもの…それは、「生きることの喜び」です。「生きることの喜びと」は、他者と交わり支え、支えられて歩むことだったはずなのですから。

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