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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)


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「さきたま文庫」は、変型B5版の40頁に満たない小冊子である。

たまたま秩父神社に詣でた際、社務所で販売しているのを見つけてもとめた。

昨年のことである。


なんでもそうだが、知識というものは、一つのことばかり学んでいたのでは、わけがわからない。

いろいろな事象が寄り集まって、形になるのだと思う。


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『旧事記[くじき]』「国造本紀[こくぞうほんぎ]」に初代知々夫国造[ちちぶくにのみやっこ]に関する次のような伝承記録がある。


知々夫国造


瑞蘺朝[みずがきのみかど](崇神[すじん]天皇)御世 八意思金命十世孫知々夫彦命、定賜国造、拝祠大神。

ここに見える「大神」は国造の祖神「思金命」であろうとする信仰的見解と伝承から、社[やしろ]の成立は第一〇代崇神天皇時代とされている。 創立に関してはこのほかに年代を異にする伝承が二種類ある。 いずれも神話時代の成立を伝え、信仰的起源の古さを思わせる。

(『秩父神社』千島壽著、さきたま文庫2、1989年初版発行第10刷、10頁)


とある。


今の埼玉、栃木、東京あたりは、その昔「武蔵」と呼ばれていた。


山本健造氏の説を参考にすれば、
「八意思金命(オモイカネノミコト)」は、「アマテラス」の夫にあたる。


上記に「八意思金命十世孫知々夫彦命」とあるので、ヒダ族直系の子孫が国を開いたところであろう。

武蔵国の中心は秩父だったのかもしれない。


近くに日高市もあり、被差別部落も存在する。

出身地の名前を写したのだとすれば、飛騨=日高ともとれる。


その日高市には高麗神社もあり、高句麗から唐と新羅に追われた高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)が祀られている。 高麗人がこの地に多く移住していた。
韓流ブームにのっかって、近年参拝者が増えたようだ。


ヤマトの都で権力を握っていたシラギ系と違っていた、ツングース系の高麗人は関東へ移住していたヒダ族の近くに居を構えていたのかもしれない。


武蔵の国(埼玉)にある三峰山の三峰神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、「イザナギ・イザナミ」を祀ったところ・・・



景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向かわれる途中当山(引用者注;三峰山のこと)に登られました。」


尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二伸をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創りであります。(三峰神社由緒パンフレットより)



平安の時代末期、当時秩父を支配した平姓秩父氏の武士団が、秩父神社の東方・宮地町内に妙見大菩薩を祭神とする妙見宮を祀った。


●平姓秩父氏
桓武平氏(かんむへいし)流で坂東平八氏(ばんどうへいはちし)の祖とされる平良文(たいらのよしぶみ)の孫、平将恒(まさつね)が秩父に土着して、「秩父氏」を名乗ったことにはじまる武士団。その子・武基(たけもと)は、「秩父別当」と称したとされる。主流(亀山氏)は平安末期から鎌倉初期にかけて武蔵国留守所総検御校職(るすどころそうけんぎょうしき)にあった。分派した氏姓に葛西・江戸・豊島・河越・渋谷・小山田などの諸氏がある。


●妙見信仰の流入
平良文流の主流・千葉氏の伝承記録によると、良文が同族の平将門(まさかど)を平定する折り、上野国群馬郡の花園妙見の加護を受けたことから、この神を氏神として信仰するようになったという。 良文は各地を転々と移動し、その都度氏神を祀ったとされ、秩父への流入も良文によるとされている。 千葉氏は妙見神を一族結束の象徴としたことで知られる。

(『秩父神社』千島壽著、さきたま文庫2、1989年初版発行第10刷、11頁)


平安貴族政治に、東から反旗を翻した平将門。

平将門が妙見信仰だったということは、最近知った面白い話だった。

徳川家もまた妙見信仰。■

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「砂の器」がドラマ化されてテレビ朝日で放映[9月10,11日]された。

3月に放映される予定だったのが例の地震騒ぎで半年遅れての放映だった。


私が知っている「砂の器」は、1974年映画化された丹波哲郎、加藤剛主演のものだけ。

その前後にも何度か制作されているということを、調べてみて分かった次第なのだが、見たことはない。 ついでに原作も読んだことはない。


今回、このドラマを見てみる気になったのはその前回見た映画「砂の器」の印象があまりにも強く残っていたためで、その記憶を確認したかったからだ。


もちろん、テレビドラマと映画とでは設定や時代に合わせて変更はあったものの、一番気になっていた所はあまり変わっていなかった。


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写真拝借;http://blogs.yahoo.co.jp/sonogono_pony/35706541.html


東北地方と出雲地方とでは同じズーズー弁を話すということ。


同じではないが音韻が同じだから、同じように聞こえるらしい。

当時どうしてこれが気になったのだろう。


だからといって、この問題の明確な解答がなされているとは思えない。


今では、一つ思い当たることがある。

山本健造氏の「ヒダ族」の話である。


地球の気温が現代より高かった時代、多くのものは、ヒダから北の方へ移動移住していたという。

だから東北地方は、古くから縄文原住民が住み着いたところであるという。


出雲はなにかというと、スサノオの尊が国を治めたところである。

スサノオの姉にあたるヒルメムチの尊(アマテラス)は、ヒダ地方を治めていた。

故にいずれも同族が住み着いている地域である。


そのうち気温が寒冷化して雪が降り、さらに積もるようになると、ヒダからヤマトの方にクニを移した。


それ以前から渡来人が上陸するようになり、クニ固めする措置もあってマツリゴトの中枢機関をヤマトに移したのだ。

渡来人の勢力が強くなりヤマトに渡来人が多く住むようになると、コトバにも影響するだろう。


東北地方と出雲に似たような音韻が残ったのはなぜか、山本健造氏の説をもとにひとつ想像してみた。


そのような渡来人が上陸、定住する前に生活していた人たちが、移動することなく外部からの流入も少ないため音韻が残ったのではないか。


そのうち、被差別扱いになり、そのまま隔絶されることになったのかもしれない。


スサノオはシラギからヨメを貰ったではないか、というかもしれないが、そのころはまだ親戚関係が成立していて、人数も習慣も圧倒的にヒダ族の方が優勢だったのかもしれない。


渡来系の権力志向型はみな中央に集まってくる。


このころの中央はヤマトである。


そうしたら、ヒダ族もズーズー弁を話していたということだろうか?


現在の飛騨地方のひとに聞いてみたら、ズーズー弁とは言わない。 しかし、その方が青森へ行ったとき音に違和感がなかった、と言っていた。


コトバは時代によって変化している。

現代でも「コトバが乱れた」とよく話題になる。


しかし、音韻は…音韻はそれほど変わらないのではないだろうか。■


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写真拝借;http://d.hatena.ne.jp/los_endos/20110828/1315145760


それにしても、映画『砂の器」(1974)に出てきた日本の風景は、現代とだいぶ様変わりをしているのではないだろうか。

小道具も懐かしい。

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神々の遺産―岩録文像(ロックイメージ)の謎
吉田信啓著
中央アート出版(1997年)


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著者の肩書に「国際岩石芸術学会日本代表」「日本ペトログラフ協会会長」とある。


この「ペトログラフ」は「ペトログリフ」の間違いじゃないかな……とまずここで引っかかる。

これは今回どうでもいいことなのだが、だいたい聞きなれたコトバがそのまま定着して、それが主人のように居座ることはよくあることだ、と考える。


だから、「ペトログラフ」といおうが、「ペトログリフ」といおうが、和製英語ならどっちでもいいのだろう、ということで一件落着。


ところで、「ペトログラフ」がどういうものか私は知らない。


本書の冒頭にグラハム・ハンコックの「神々の指紋」(大地舜訳、翔泳社、1996年)の引用があるので、そこらあたりが詳しいと思うので、これ以上知ったかぶりをしないことにする。


私がここで引用しようと思ったのは、


飛騨位山の「ムーの表象ペトログラフ」


という小見出しがあったからだ。
このタイトル通りだったら、引用することもなかったが、次の箇所、


岐阜県大野郡宮村のスノーパーク入り口には高さ三メートル、直径一メートルの立岩(たていわ)がある。
その岩の北面に長さ百四十センチで、頭の直径が二十五センチの蛇神(ジャスラ)が刻まれているのを、岐阜県先史文化研究会の副会長三木九郎左衛門氏(省略)らが見つけていた。(53頁)


説明をはさむと飛騨位山はアマテラスオオミカミのご神体としての山である。
近年、パワースポットとして人気があるが、地元の人にはひんしゅくを買っている。

ある新興宗教の信者かと間違えられたからそういっているのではない。


そんな由緒ある山であっても、観光客誘致のためにスキー場を位山斜面に造ってしまった。

現実では生活が優先する。


しかも位山という昔からの名前があるのにモンデウスと洋風の名前を付けてある。

恐竜の名前かと思ったら、

モンブランのモン。
デウス、ディオス、ゼウス、から「神の山」とつけた。

どうしてそうなったのかは、トリビアになるのでこちらの関知するところではない。


話を戻すと、そのスキー場入り口にペンションや道の駅が建ち、そのわきにここに書いてあるような蛇神を刻んだ石碑がたっているというのだ。本書から続きを書くと、


問題の「ジャスラ(大地母神)線刻文様」を検分してみると、それは双頭の蛇神であることが分かった。その反対側の岩の先端部には直径二十五センチほどに二重円が線刻されているのに私は気付いた。


「太陽神を表す線刻のある岩に、蛇神があり、その蛇神の尾に当たる個所にも丸い円があるのは、ちょうど安芸の宮島の獅子岩で、女優の高田真由子さんが発見した太陽と蛇神の組合せと同じですよ。ムー大陸ではサ・ラ・ムー(聖ムー神)の表象である太陽にヘビが迫る時、ムーに大災害が起きると信じられていたから、太陽から蛇が遠ざかる意匠で獅子岩には線刻されていましたよ。この線刻もそれと同じ思想の反映と見ることが出来ましょう。これは宮島に対比されるムー・ペトログラフですよ」


と私は説明した。それを聞いて三木氏は微笑した。


「実は、この岩については古い伝承があるのです。この地の隣の大池に住んでいいた大蛇が災いをするので、どこかの地においやることになり、山の神がその大蛇を追っ払ったところ、ここを通りかかって位山の麓に大蛇が住み着こうとした。そこで大蛇の嫌いなものを村人がたくさん持ってきて大蛇が落ちつけないようにしたので、大蛇は去って行ったというのです。そこで村人は二度と大蛇がこの地に戻ってこないように祈念して岩を建立し、日の神にささげたというのです。この立岩の線刻は見事にその伝承に一致しているでしょう。これはうれしい発見です」(53~54頁)


実は、昨年ペトログラフも知らずにこの場所に行ってきたのだが、この本が書かれた1997年ごろ、なにかしら証明されていれば手を加えて大事にしようというものを、現在はツタが絡みついており、保存しているようには見えなかった。


ペトログラフの研究家と地元の研究家のコトバをどううけとめるかである。


早とちりは蛇の「ジャスラ(大地母神)」が日本にいた、ということになるだろう。


中国や西洋の知識と相交えて、想像力を働かせて、日本にもなにがしかの神々が…とひけをとらぬよう創作するかもしれない。


今の流行でいけば、イルミナティにあやかりたいとする。



「裏古事記」の著者、故山本健造翁の口頭伝承の信憑性として素直に聞けば、


私は単純に、地元の人の伝承の方を重視して、先祖は蛇を追っ払った、とうけとめた。
追っ払ってもう二度と来ないように岩を建立した。


いつ建立したのかはわからないが、自然の大岩がごろごろ転がっているところにしては、人工的に装飾された立岩であった。線刻は浅く判別がつかなくなっている。


ペトログラフの研究がどこまで進んでいるのかわからない。

だけど、この蛇が何を例えていたにしろ、


蛇を追っ払った、追っ払って二度と来ないように祈念して岩を建立した…


というのが日本人らしくて愉快でたまらない。■

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被差別部落


ここまで読まれた方には、うすうす感じておられるかもしれない。


はじめに「被差別部落」へ落とされたのは、シラギ神もしくは出雲神を崇拝しなかった日本人たちであった。


「暴かれた古代史」の極めつけは、このことである。


先祖を川の流れに例えて、上(かみ)と敬い自分は下(しも)であり、自分の子孫から見れば自分は上(かみ)であるのです。苦労して土地を開いてくださった御恩ある先祖ですから、その土地の上(かみ)です。またその土地を拓いてくださった神の子孫は、先に居た人達であり「ところづき」と敬われたのです。


先祖を祀り感謝を捧げて祈るのはそれは宗教的な宗教ではなく素朴な道徳的な祈りなのです。そこには教祖もなく、教義もなく、排他性もありません。
(『暴かれた古代史』、378~379頁)


「被差別部落」を研究する方が、日本原住民のことを念頭においたのかどうか知らない。


縄文日本人の思想はどのようなものなのか、それに反する思想はどこからもたらされたのか、原点はどこなのか。


シラギ神を崇拝する者たちは、大陸から渡ってきたものはもとより、日本人の中にも感化され、その思想に沿って行動し、宗教的に乗っ取られそうになったのではないか、と考える。


「被差別部落」を奴隷階級と変えるとわかりやすい。


オリエント神の影響を受けた大陸思想は、今まで散々見てきたように、権力志向、植民地化、相手を隷属するようになる。


古代史はそんな昔のことではないし、

また、夢のような話でもない。

現在でも続いていることである。

汽車ぽっぽ5ぽっぽ3ぽっぽ4

昭和40[1965]年、「同和対策審議会」の木村会長が、
「同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく,疑いもなく日本民族,日本国民である」

との調査結果を述べられたのは、何を根拠にそう言われたのかは定かではない。


しかし、ここに出てくる地域別調査結果は、「暴かれた古代史」で書かれた縄文日本人が開拓した地域と重なっているのが、ある事実を裏付けているようだ。


坂口安吾氏(1906~1955)が疑問に思い独自に調査し自由に書いた文章が残っている。

安吾の新日本地理
飛騨・高山の抹殺――中部の巻――
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45907_37863.html

もちろん彼は、飛騨の口碑なぞ知らない。


さて、「同和対策審議会」の前に「明治4年太政官布告第61号」があったと書いてある。

[太政官第488号、布告8月28日]
[太政官第489号、布告8月28日]府県

ともいう。


このふたつの法令を、「解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」と呼んだ瞬間に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を暗黙裡に容認したことになります。(『いま部落史がおもしろい』(解放出版社)の著者・渡辺俊雄)
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/118147/105861/8703557


この文章こだけみればこの通りといえる。


差別をつくりだすのは、差別思想をもつ側にあるからだ。


そうすると現代の学者が主張する学術的分類法は、差別思想の延長線上にある。


自分たちは差別されていると訴えるのも差別思想を持つがゆえである。


これでは差別はなくなるわけがない。

抹茶色紫色えんじ色

人権や差別を発明したものがいる。


自分を有利に見せる為の思想戦略である。


「被差別部落」だとか「同和部落」だとか聞くと、現代では在日問題かと思っていしまうくらい、そっちの問題ばかりである。


「被差別部落」のはじまりは、日本人だったなんて、誰も知らない。


「差別だ」なんて騒いだものがいたのだろうか。


もともと持っていないので、そんな気持ちはみじんもない。


日本人がガマンしているのは、「差別思想」に嫌悪感をいだくから黙っていたのではないのか。


日本人がガマン強かったのは、2000年もガマンしていたからなのだろうか。

もちろん現代は「ガマン」は死語になりつつある。



学術的分類法でどこかにあてはまると考える人が増えたことで「差別」が蔓延した。


「差別」は悪いものだと思うようになった。


現代では、ユダヤ思想、西洋教育を学んでいるので、人権だと勘違いしているものも多くなっている。


ユダヤを差別していると思われたら、制裁を受ける。


一方的利益を主張するので差別が生まれる。


差別は自然に存在するものである。


現代の日本人がどのような考えを持ち行動する民族かはっきりしないのは、縄文日本人がどのような人間であったのか隠されているからである。



「第489号は、禁制幕藩体制下の「穢多非人等」の戸籍と税制上の優遇制度の廃止という極めて具体的な威容です。…背後に、明治政府の隠された意図がありそうです。」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/118147/105861/8703557?page=2


明治維新政府の性格を考えるならば、なぜこのような布告をしたのか勘ぐるところでは、後に控える戦争のために“日本人”増産をしたかったのだと思えてならない。


ひとつに軍事力増強の時代であった。


移民がはじまったのは、江戸幕府とイギリス人ブローカーとの契約で明治元(1868)年にハワイに労働力として送られた。


その後政府公認で移民政策が本格的に始動した。


「日本人を根こそぎにしろ」とどこかの誰かに命令されてやった可能性も頭の片隅に残しておこう。◆

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資料「同和対策審議会」


まず、「近世賤民社会の基礎構造」、荒井貢次郎著、明石書店、1987年。
第一章 序説から引用する。


この章の各節について述べるに先立って被差別部落、就中、差別部落研究の前史的説を形成するところの人類起源説を述べる。


「同和対策審議会・答申」(昭和四十年八月十一日、同和対策審議会会長から内閣総理大臣佐藤栄作への答申)の「第一部・同和問題の認識 一、同和問題の本質」において次のようにいう。


  この「未解放部落」または「同和関係地区」(以下単に「同和地区」という。)の起源や沿革については,人種的起源説,宗教的起源説,職業的起源説,政治的起源説などの諸説がある。


と諸説の名称を挙げている。そして、人類起源説については、次のように批判する。


  ただ,世人の偏見を打破するためにはっきり断言しておかなければならないのは同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく,疑いもなく日本民族,日本国民である,ということである。


と明確に断言している。しかし、本審議会は、特に学説を打ち破るほどの説明を展開していない。これを弁明するために予めいう。すなわち、


  本審議会は,これら同和地区の起源を学問的に究明することを任務とするものではない。


と言う。そこで、同和地区にまつわる問題を、さらに述べる。


  同和問題は,日本民族,日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である。同和地区は,中世末期ないしは近世初期において,封建社会の政治的,経済的,社会的諸条件に規制せられ,一定地域に定着して居住することにより形成された集落である。封建社会の身分制度のもとにおいては,同和地区住民は最下級の賤しい身分として規定され,職業,住居,婚姻,交際,服装等にいたるまで社会生活のあらゆる面できびしい差別扱いをうけ,人間外のものとして,人格をふみにじられていたのである。


しかし、筆者(荒井貢次郎)は、独自の分類をしてみた。それは、部落発生学説を次のようにとらえた。すなわち、「未開放部落」「被差別部落」の発生・成立に関する学説を大雑把に分類して、次の六群に分けてみた。


①民族起源説(人種説)‐〔注詳細は省略〕
②職分起源説(社会経済史的にみて、職業分化以前の職能者から起源を求める説)
③職業起源説(職業分化が行なわれた以後に発生した階層を問題とする。封建職分説を含む)
④宗教起源説(穢タブー説を含む)
⑤権力説(制度、国家権力説、分裂支配説、法権力説)
⑥法民俗説


私(荒井貢次郎)の近世賤民、近世被差別部落民をとらえる学説は、三つの説の組み合せ説(鼎説)を唱えるものである。すなわち、

(1)穢多・非人制度を「法権力説」によって裏付け、経済関係については、上部構造の制度に対する経済関係の構造をもってこれを下部構造と規定する。


(2)明治以降の被差別部落(未開放部落)は封建遺制として、法民俗学的にとらえる説、すなわち、法民俗説。


(3)賤民をささえるものとして、穢[けがれ]の思想をもってする禁忌[タブー]説(宗教説)。

によって、三説が、組み合わさったものである。


(『近世賤民社会の基礎構造』第一章 序説 3~5頁)


「同和対策審議会答申」というものがあったのを初めて知ったわけである。


浅学がばれてしまうが仕方がない。


ヒトは興味を持った時から学問を開始するものだと思う、と言い訳しつつ…


荒井貢次郎氏が引用した個所が、引用者自身の都合で分断し文章を入れかえられている。


たぶん学術的自説を唱える上でのまえがきに使っているので、印象がだいぶ変わっている。


ここでは、目的が違ってくるので、荒井貢次郎氏の註釈をぬかして本文を掲載する。


『この「未解放部落」または「同和関係地区」(以下単に「同和地区」という。)の起源や沿革については,人種的起源説,宗教的起源説,職業的起源説,政治的起源説などの諸説がある。


しかし,本審議会は,これら同和地区の起源を学問的に究明することを任務とするものではない。


ただ,世人の偏見を打破するためにはっきり断言しておかなければならないのは同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく,疑いもなく日本民族,日本国民である,ということである。


すなわち,同和問題は,日本民族,日本国民のなかの身分的差別をうける少数集団の問題である。


同和地区は,中世末期ないしは近世初期において,封建社会の政治的,経済的,社会的諸条件に規制せられ,一定地域に定着して居住することにより形成された集落である。


封建社会の身分制度のもとにおいては,同和地区住民は最下級の賤しい身分として規定され,職業,住居,婚姻,交際,服装等にいたるまで社会生活のあらゆる面できびしい差別扱いをうけ,人間外のものとして,人格をふみにじられていたのである。


しかし明治維新の変革は,同和地区住民にとって大きな歴史的転換の契機となった。


すなわち,明治4年8月28日公布された太政官布告第61号により,同和地区住民は,いちおう制度上の身分差別から解放されたのである。


この意味において,歴史的な段階としては,同和問題は明治維新以後の近代から解消への過程をたどっているということができる。


しかしながら,太政官布告は形式的な解放令にすぎなかった。


それは単に蔑称を廃止し,身分と職業が平民なみにあつかわれることを宣明したにとどまり,現実の社会関係における実質的な解放を保障するものではなかった。


いいかえれば,封建社会の身分階層構造の最底辺に圧迫され,非人間的な権利と極端な貧困に陥れられた同和地区住民を,実質的にその差別と貧困から解放するための政策は行なわれなかった。


したがって,明治維新後の社会においても,差別の実態はほとんど変化がなく,同和地区住民は,封建時代とあまり変らない悲惨な状態のもとに絶望的な生活をつづけてきたのである。』


「同和対策審議会答申」の全文はこちら
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/jinkyo/pdff/houritu/douwataisakusingikaitousin.pdf

『同和対策審議会』は、政府主導の会だったようだ。


[以下インターネット内から引用]
1961(昭和36)年、政府は同和対策審議会を発足させ、内閣総理大臣は「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策について」諮問しました。審議会は全国調査や精密調査を行ったり、総会を42回、部会を121回、小委員会を21回開催したりするなど、4年間にわたって慎重に審議を重ね、1965(昭和40)年8月11日に答申しました。


 答申は第一部「同和問題の認識」、第二部「同和問題の経過」、第三部「同和対策の具体案」の三部構成になっています。
[引用ここまで]


同和対策審議会
会長 木村 忠二郎


とある。


はっきり出てこないが、たぶん、この会の方針上からこの方ではないかと考える。


◎木村 忠二郎 (1907-1978)∥キムラ,チュウジロウ

◎木村氏は厚生事務次官・全国社会福祉協議会副会長などを歴任し、戦後における社会福祉のターニングポイントでも中枢の立場で活躍。
引用元;http://www.jcsw.ac.jp/library/bunko.html

◎木村忠二郎(同和対策審議会会長) 昭和52年11月3日 旧・勲一等瑞宝章受章者。


◆◇◆◇◆

参考;
近世賤民社会の基礎構造、明石書店、1987年
荒井貢次郎
1914年、東京に生まれる。
この本の出版当時、東洋大学法学部教授を経て、大正大学講師。

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