やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)/小学館

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まあ、なんでこんなものを読んだかというと、これのアニメが大好きだから。「続」の京都修学旅行編とか、8話周辺とか何回も見た。そんでもってキンドルアンリミテッドでその原作の1巻が読めるようだったので、ものはためしと読んでみる。

ラノベを読むのは、たぶん人生で二回目だと思うのだけれども、たぶんこれは対象年齢が限られているんだろうな。「俺ガイル」のアニメはすごく楽しく見れるのに、ラノベ原作のほうだといちいちアラが目立つというか、くだらなさがさきに立ってまじめに読めない。
 それでも1巻を読むことでいろいろ再確認することができた。

 第一に、アニメ化(映像化)が成功する作品は原作が単純であることのほうが多い理論がどうやらまたもや補強されたこと。スティーブンキングの映画化があんなに評価されているのは原作が大衆小説、あるいはより正確にはパターン化されたホラー小説だからだし、キューブリックをとっても、『ロリータ』より『時計仕掛け』のほうが面白いけれども、バージェスをナボコフよりも評価する人なんていないだろう。
 第二に、アニメ俺ガイルの映像の情報量がとんでもなく大きいということ。ラノベではあのいらっとするテンプレの文体でうだうだと書かれた(妙な比喩を駆使して)情景描写や登場人物たちの心の機微が、ちょっとした瞬きや首の傾きで表現されつくされていて、アニメではまったくそういったストレスを感じずに済む。
 つまり、どういうことかというと、ラノベでは主人公の心の声というものが、ほとんど作家による地の文と融合しているから、いちいちまだるっこしいなあっていう印象を感じてしまうのだが、それはアニメではすべて「映像(作画)」と「演技(声優)」の仕事へと丸投げされているから、「言葉」が大幅に削減されている。そしてその「言葉」は主人公の独白を除けば、基本的に対人関係を前提としてそれぞれの語り手によってその場にあうように「変化」させられた言葉であり、レトリックがそぎ落とされた、それでもその裏にあるものを感じさせる「せりふ」だけが残るのだ。
 第三に、ラノベは普通の小説よりもはるかに、舞台の脚本に近い。つまり、ラノベにはすでにその場面にいる人物、セリフ、動きがすべて含まれている。だから、完全にアニメ化を最終目標としたものであると考えられる。だから、個人的には全く専門外の演劇を読むのと同じくらいの読みにくさを感じる。なぜかというと、演劇というのはその時代と場所に特有のものであって、そこにいる観客にだけわかる(シェイクスピアでいう「グローヴ座」のダジャレとか)言い回しや、あるいは16xx年のロンドンの住人が共有していた情報(時事問題、劇場前の美味い飯屋)なんかを含むわけで、現代に文章として読む我々は膨大な注がなければ当時の観客が当然理解できたことを理解できない。それと同様に、どうやらラノベにも、「こんなセリフの女の子は、こんな声音で、こんなキャラで(声優は誰タイプで)」とかそういった共通認識があるに違いない。おそらくは。個人的にはアニメ版の俺ガイルでも最初の方のテンプレめいたところはあまり好きではないので(好きなのはホワイトアルバムを彷彿とさせるあたり)、もしかすると、もっと後の巻、ラノベテンプレが終わって、物語が自発的に動き出してからは面白くなるのかもしれないけれども。つまり、ラノベを読むためには、常に脳内で映像化させながら読まないといけない。
 うーん。とはいえ、それは例えばハリーポッターとどう違うのか。ハリーポッターは、特に4巻以降は映像化には向かないと思うがなぜかというと、それは長い(時に1000ページ)分の物語が、すべて頭から読まないと理解できないように構成されているから。好きなところだけ切り取って2時間半で収めても、原作読んでいる人からすれば要約版にしか見えないだろうし、映画だけ見る人からは暗いシーンとアクションシーンばかりが印象に残ることになるだろう。一方の、ラノベはこれは明白にアニメ化に向いている。一つのエピソードはせいぜい50ページくらいで一通りの結論が出るし、つまりアニメでは二話程度に収まるだろう。それをいくつも繋げていくわけだが、そのスケジュールづくりのためにも「学校」という舞台はとても都合がいい。
 まあいろいろ文句を言ったが、アニメの俺ガイルは何度繰り返して見ても新たな発見がある素晴らしく丁寧に作られた作品だ(特に続)。そのための土台を提供したという点ではもちろん、原作は価値がある。ただそれでも、アニメ「俺ガイル」の最大の素晴らしさは、「筋」にはないということを結論としたい。