2009-01-13 02:46:55

白村江の戦

テーマ:日本古代史

 「白村江(ハクスキエ又はハクソンコウ)の戦」について、日本書紀では、天智二年(663年)八月二十七日~二十八日、朝鮮で起きた白村江の海戦で、日本・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗を喫したとだけ書いてあって、それまでの経緯やその後の顛末について、納得の行くような記述は全く無い。然しこの事件は、東洋古代史上、特筆すべき出来事であったと、東洋史研究家の小林恵子(やすこ)は云う。何が特筆に価するのかと言えば、この事件は、中国、朝鮮、日本の三国の史書に、同時に記録されているからで、これらを比較検証することにより、より真実に迫ることが出来るということである。


 七世紀の中国では、隋が滅び、唐という巨大統一国家が出現し、所謂唐文化が花開いた時代である。その頃の唐、朝鮮三国(百済、高句麗、新羅)と日本との関係はどうであったか。唐では二代・太宗が即位し、国内が漸く安定するや、遠交近攻策により、周辺諸国に侵略の手を延ばし始めた。先ず、比較的遠い新羅とは手を結び、より近い国・高句麗への侵攻を始めた。612年のことである。 然し、高句麗の頑強なゲリラ戦的抵抗に手古摺り、戦況が泥沼化する内、645年、太宗が死去したため高句麗攻めは一時頓挫する羽目となった。


 その間に高句麗は、百済、倭と手を結び、唐の手先である新羅を挟み撃ちしようとした。新羅では、654年、13代・武烈王(金春秋)が即位し、高句麗、百済が新羅北部を侵略したと唐に訴えたので、唐の高宗は、大軍を以って高句麗、百済攻めを開始し、660年、百済の首都を陥落させ百済を滅亡させた。然し百済の旧臣たちが百済の再興を図るため蜂起し、倭国に援軍を求めて来た。倭国から3万近い援軍を派遣し、白村江という所で、唐・新羅の連合軍と戦い、百済・倭国の連合軍は将軍も戦死、全滅に近い大敗北となり、これで百済は完全に滅亡した。


 問題はその後、倭国と唐の関係はどうなったか。その頃、日本列島には、倭国と称する列島を代表する九州政権があり、大和政権は九州政権とは別に近畿地方に勢力を張る地方政権であった。その頃、唐と倭国間の力の差は、太平洋戦争時の日米の差以上に大きかったと思われる。敗戦した倭国には、唐から数千人の役人が大和政権にやってきてGHQを構え、九州政権を統治下に置いた。それを取り仕切る役所を設置したのが「大宰府」の始まりである。


 日本列島に、七世紀末まで、九州王朝があって倭国と呼ばれていたのは間違いない。魏志倭人伝に画かれた倭国は九州王朝の姿である。九州政権と大和政権が戦火を交えたのが、527年、26代継体天皇と筑紫君磐井との戦である。大和政権は次第に力を付け、列島を代表する政権となり、唐に対しては、毎年遣唐使を送り唐との交流を絶やさず、律令制など唐文化の吸収に努めた。やがて唐文化の模倣による大化の改新が行なわれ、大和政権は初めて年号を建て、「大化」と称したが、これに続く白雉、朱雀、白鳳などの年号は、なんと九州王朝の年号を盗んだものであった。「白村江の戦」と敗戦後の日唐関係が、太平洋戦後の日米関係とそっくりのようなきがする、歴史は繰り返すとはよう云うた。






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