2008-07-31 11:09:15

継体・磐井戦争

テーマ:日本古代史

        

        (福井市に立つ継体天皇像)


 再び、「森浩一が語る日本の古代」へ戻る。今回は、527年頃起きた継体天皇と九州の豪族・筑紫君磐井の戦争がテーマ。 大和政権を揺るがした672年の壬申の乱と並ぶ古代最大の争乱、それが継体・磐井戦争であった。その模様を語る前に、26代継体天皇が出現する六世紀始め頃の日本列島内外の情勢について振り返ってみたい。


 21代雄略天皇が、ヒトラーみたいな独裁主義者で、意に添わない多くの皇族、豪族を滅ぼしたため、これまで大和政権を支えてきた有力者達は、畿内から手の届かない地方に離散し、大和政権はすっかり力を失ってしまった。その間に、九州の豪族・磐井が勢力を伸ばし、朝鮮半島との交易を独占しようとしていた。一方、朝鮮の新羅が磐井と同盟を結び、北九州の一部を領土にしようと画策していた。まさに大和政権としては最大のピンチで、強力なリーダーシップが必要であった。


 日本書紀では、継体天皇の前・25代武烈天皇のことを暴逆な天皇で、数々の非道を行い民を苦しめたと記述している。武烈二年九月、妊婦の腹を割いて胎児を取り出して見たとか、武烈三年十月、人の生爪を剥がして山芋を掘らせたとか、武烈四年四月、人の頭の毛を抜いて樹の上に登らせ、樹を切り倒し人が死ぬのを見て喜んだとか、ブログにも書きたくないようなもっと酷い事もしている。これは継体が立派な天皇であることをPRするためかもしれない。


 武烈天皇には、男の子も女の子も無かったので、大和王朝の皇統は、25代の武烈で一旦途絶えた。そこで、大伴、物部、蘇我、巨勢など大和の豪族達は、次の王を誰にしようかと相談をした。雄略で懲りているから、独裁者では困る。色々探した挙句、越前三国の豪族の王で、応神天皇五世の孫とかいう男大迹大王(おおどのおおきみ)なる王に白羽の矢を立て、大和の大王になってほしいと懇請した。


 此処で、男大迹大王の出自について、若干触れてみたい。記紀では、25代武烈天皇までは、真偽は別として、詳しい系図が記されているのに、応神から継体までは,不詳を示す△が四個並んでだけで、五代目に継体の名が出てくる。記述も五世孫とあるだけで、その間が全くぼかされている。そのため、継体の出自に色々疑問が生じた。しかし継体の父・坂中井彦主人(さかないひこうし)が、近江の息長(おきなが)氏系の豪族で、母は朝鮮・伽耶国の出身という説が有力である。息長氏については、別の機会で触れる積りであるが、百済との交易で鉄の輸入を独占していたらしい。


 男大迹大王が、当時、大和朝廷の実力者・大伴金村に説得されて、河内の楠葉宮で即位したのが507年であるが、大和へ入ったのは、19年後の526年である。これは、大和の豪族の一部が継体に反対したからだと考えられる。継体が大和入りをした二年後に、大和政権の命運を賭けた、磐井・新羅連合軍との戦争が起きた。


 戦争が始まった切っ掛けは、新羅が任那などを含む伽耶諸国を併合しようとしたので、任那が大和に助けを求めてきたからである。継体天皇はこれに応じ、近江毛野臣(おうみけのおみ)に六万の兵を持たせ、任那に向かわせた。新羅が筑紫君磐井にこれの妨害を依頼し、磐井は大陸への海路を抑え、毛野臣軍の通過を遮った。そこで継体は、物部大連(もののべのおおむらじ)に磐井討伐を命じ、527年6月、磐井との戦が始まった。翌年11月、両軍は、筑紫の御井(みい)という所で決戦し、その結果、磐井が敗北し、筑紫君は殺された。(一説では、逃げ延びたともいう)。継体も531年2月に没した。


 古墳時代に築かれた数多くの前方後円墳の中で、被葬者が分かっているのは二基だけで、その二基というのが、奇しくも継体・磐井戦争の勝者と敗者の墓であると森浩一は指摘する。即ち、勝者・継体天皇の墓は、大阪府高槻市の今城塚古墳(宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳としているが考古学的には間違い。)で、敗者・磐井の墓は福岡県の岩戸山古墳である。


  


 

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