倉敷市林

撮影
カメラ
:
レンズ
2012年04月12日
PENTAX
_K-m
TAMRON
_AF_28-300mm_MACRO
TAMRON SP AF17-50mm F2.8 Di
(歪み修正・色調補正:GIMP Portable Ver.2.6.11 使用)



修験道総本山五流尊瀧院


修験道
自然・水源など生命の恵みへの感謝から森羅万象に生命が宿るとし、神と崇
めた古神道の一つ、山岳の雄大さや厳しい自然を畏れ敬う感情などから発祥
した山岳信仰と大陸から伝来した仏教を習合、
さらに道教・陰陽道などの要素
を取り入れて確立した
日本独自の宗教です。

深山幽谷に分け入って厳しい修行で超自然的な能力
.「験力」.を得て、民衆の
救済を目指した実践的な宗教として奈良時代に確立したとされ、開祖
役小角
(後述)が終生を在家のまま通したという伝承から在家主義を貫いています。
修行者のことを
.「修行して迷妄を払い験徳(霊験)を得る」.ことから.「修験者」
また山に伏して修行する姿から
.「山伏」(やまぶし).と呼ばれています。

1613年、江戸幕府による修験道法度により本山派(天台宗系)と当山派(真言
宗系)に分類され、五流修験は、本山派修験に属しましたが、古神道と仏教を
習合、さらに道教・陰陽道などの要素を取り入れて確立した修験道は、
.「一宗
一派に片寄らず、行動し体験する中で以心伝心のうちに本来の悟りを開く道」

.
とされています。

五流修験
(別称:児島五流・熊野五流、等)
飛鳥時代の701年、修験道の開祖
役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)
門弟により紀州熊野本宮
(十二権現)の御神体を遷し(うつし)祀り、創建され
た熊野神社
.(日本第一熊野十二社権現本宮).修験道の総本山(本拠)とし、
五大門弟が五院
(尊滝院・太法院・建徳院・報恩院・伝法院).を設け、修験道
の行法秘事等を各々説法伝授しました。(五流修験の起源

熊野神社((日本第一熊野十二社権現)

拝殿、五流修験長床.(修験道場)
江戸時代、1768年建造(再建)の長床
(修験者の寄宿所を兼ねた修験道場)


役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)の五大門弟が設けた五院、尊滝院(義
玄)・太法院
.(義学)・建徳院.(義真)・報恩院(芳玄)・伝法院(寿玄)を管長と
する.五流長床衆.は、朝廷(御皇室)から尊崇され、上皇の熊野詣をはじめ
御歴代天皇・御皇族・貴人の熊野行幸・参拝時の先達(道案内、道中・参拝の
作法伝授)を勤めました。
管長(かんちょう).=.最高位の教導職(宗教指導者の役職)
熊野権現.(栄華と衰退)
熊野神社(熊野権現)は御歴代天皇が児島全土を神領として寄進、児島一円

から備中吉備津に至るまで熊野社、多数の分社・関係社が建立されるなど

験道の本拠地
熊野信仰の中心地として栄華を誇りましたが、その後の乱世、
戦国の世に神領・寺領が幕府により次々に削減、戦火に焼失。
朝廷に仕えた紀州熊野藩別当(紀州熊野三山(本宮・新宮・那智)を統轄・管
理した僧)、南朝に仕えた児島の僧・縁族も敗れ、勢力が衰退しました。



御庵室



鎌倉時代の1220年、法親王(
ほっしんのう:出家して僧籍に入られた男子御皇
)として児島に下向された後鳥羽上皇.(第82代天皇).第三皇子桜井宮覚仁
親王
は、ここ尊瀧院を庵室(お住まい)とされ、五流山伏(児島山伏)による熊野
三山の検校(監督・統轄・先達)を再興されました。

翌1221年、同じく法親王として下向された第四皇子、
冷泉宮頼仁親王も尊瀧院
を庵室とされ、覚仁親王とともに衰退していた熊野権現
.(神社・寺院)・五流修
験(五院)を再興されました。

上皇の熊野詣をはじめ御歴代天皇・御皇族・貴人の熊野行幸・参拝の先達(道
案内、道中・参拝の作法伝授)を勤め、後鳥羽上皇
.(第82代天皇).皇子、冷泉宮
頼仁親王の血脈
.(後述).を継ぐ皇統の五流山伏.児島山伏)は、宗教界はもと
より朝廷にも大きな発言力を持ち、「
公卿山伏.とも称されました。
公卿(くぎょう)
古代日本の律令制に基づく国の政
.(まつりごと).を担う最高職位の公家









1247年、冷泉宮頼仁親王、御薨去。
尊瀧院の大僧正.(管長).として五流修験.(五院).を再興された冷泉宮頼仁
親王の御墳墓は、ここから約2km南 (新熊野三山の新宮、諸興寺跡)にあり
ます。(冷泉宮頼仁親王御陵)

冷泉宮頼仁親王の実子
道乗が、嗣子(しし:跡を継ぐ子)がなかった桜井宮覚
仁親王の跡を継いで尊龍院大僧正(管長)となり、五院各々を子息(下記)に継
がせ、五流院を再興されました。

尊瀧院(頼宴大僧正)伝法院(親兼権僧正)太法院(隆禅権僧正)
報恩院(澄有大僧都)建徳院(昌範僧正)
僧正・僧都.=.僧と尼を統括する僧侶の官職(僧官)・階級
1263年、桜井宮覚仁親王、御薨去。
熊野権現
.(神社・寺院).を再興された桜井宮覚仁親王の御墳墓は、熊野神
社境内西、行者池ほとりの桜井塚 にあります。(桜井宮覚仁親王御墳墓)

桜井宮覚仁親王御墳墓

後鳥羽上皇
.(第82代天皇).皇子、冷泉宮頼仁親王の子孫・末裔が歴代大僧正
(管長)
を務められる皇統の寺院.「五流尊瀧院」.は、修験道の開祖、役小角の
五大門弟がこの地で開いた五流修験
.(五院).の中で現在唯一、奈良時代に確
立された日本独自の宗教
.「修験道」の総本山、管長寺院として伝統を継承され
ています。



御庵室から護摩堂(後述)へ向う小路の傍ら
冷泉宮頼仁親王歌碑
この里にわれ幾年を過してむ
乳木の煙朝夕にして
乳木(ちぎ・にゅうぼく).=.護摩(下記)に焚く木。
護摩(ごま)、護摩行(ごまぎょう)
燃え上がる炎(天の口:仏の智慧の象徴)の前で供物である護摩木を炎の
中に投じ(天の口に捧げ)ながら全身全霊願いを込めて念仏を唱え、煩悩
を炎とともに焼き尽くす修行、祈願。

護摩堂へ向う小路の傍ら.(冷泉宮頼仁親王歌碑の横)
石碑.「児島高徳誕生之地」

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍し、「南朝の忠臣」.と讃えられた
武将、児島高徳
.(こじま たかのり).は、この地で冷泉宮頼仁親王の曽孫(そ
うそん・ひまご)
として生まれました。
(冷泉宮頼仁親王の子、道乗大僧正の子、頼宴大僧正の子(三男))
元弘の乱(1331年)以降、第96代、後醍醐天皇(南朝の初代天皇)への忠勤
に励み、南北朝分裂後も一貫して南朝に仕えました。



五流尊瀧院護摩堂
御本尊.=.神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)=.修験道開祖、役小角
脇侍
(きょうじ).=.不動明王



役小角.(えんのおづの、えんのおづぬ).御尊像
634年、大和国葛木上郡茅原(現、奈良県御所市茅原)出生。飛鳥時代から
奈良時代の呪術者。
修験道の基礎を築き、神仏調和を唱えました。701年07月16日没
平安時代、山岳信仰の隆盛とともに
.「役行者(えんのぎょうじゃ).と呼ばれる
ようになり、1799年、第119代
光格天皇より.「神変大菩薩(じんべんだいぼさ
つ)
」の諡(おくりな)を贈られました。

後鳥羽天皇、皇子ゆかり「熊野権現」
熊野権現の御由緒・歴史、五流修験(児島山伏)の起源・歴史等)

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