倉敷市林

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熊野権現.(熊野神社).につきましては、岡山の風(HP版)開設の年、前記事で
ご紹介しました
.「旭川さくらみち」.に続いて、お参り・撮影に訪れました。
その御由緒・歴史につきましては、岡山の風(2006年
01月20日、HP版開設)の
サブサイトとして2009年
08月27日に開設(公開)しました.岡山の風郷土史
.「児島半島の誕生、歴史」.に次いで記述・作成、2009年09月25日に公開、ご
紹介しました。

児島半島に並ぶ【
岡山の風(及び私)の原点である.熊野権現.につきまして
下記年月日にお参り、撮影しました写真の一部を選りすぐり、【
郷土史.で公開、
ご紹介しました御由緒・歴史のうち、御皇室(朝廷)・
.後鳥羽上皇.(第82代天皇)
皇子、皇孫にゆかり深い事項を中心に記述、ご紹介します。


撮影
カメラ
:
レンズ
2006年04月16日
PENTAX
_*istDS2
PENTAX
.DA.18-55mm
TAMRON
_AF_28-300mm_MACRO
*
2012年04月12日
PENTAX
_K-m
TAMRON
_AF_28-300mm_MACRO
TAMRON SP AF17-50mm F2.8 Di













後鳥羽上皇.(第82代天皇).皇子、皇孫ゆかり
「五流修験」.発祥の地


熊野神社((日本第一熊野十二社権現本宮)






所在地 : 岡山県倉敷市林684
: 郷社
御創建 : 701年03月 3日(現、5月18・19日:春季大祭)
日本第一熊野神社公式サイト
御祭神
第一殿
熊野牟須美神(くまのむすみのかみ) =伊弉冉大神(いざなみのおおかみ)
日本神話
.「古事記」・「日本書紀」.国生みの女神。伊奘諾の妻。
泉津事解之男神
(よもつことさかのをのかみ)
第二殿

伊奘諾大神(いざなぎのおおかみ)
日本神話.「古事記」・「日本書紀」.国生みの男神。伊弉冉の夫。
速玉之男神
(はやたまのをのかみ)
第三殿(
主祭神
家津御美子大神(けつみみこのおおかみ)=素戔鳴尊(すさのおのみこと)
伊弉冉・伊奘諾の御子。
第四殿
天照坐皇大御神(あまてらします.すめおおみかみ):日本民族の総氏神
第五殿
忍穂耳尊(おしほみみのみこと)
第六殿
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
第七殿
彦火火出見尊
(ひこほほでみのみこと)
第八殿
鵜草葺不合尊
(うがやふきあえずのみこと)
第九殿
軻遇突智尊(かぐつちのみこと)
第十殿
波邇夜須毘賣神(はにやすびめのかみ)
第十一殿
罔象女尊(みつはのめのみこと)
第十二殿
稚産霊尊(わくむすひのみこと)

歴史概略
飛鳥時代
701年、修験道(下記)の開祖、役小角
(えんのおづの、えんのおづぬ)の門弟
が、北は吉備の穴海(現、岡山平野)南は瀬戸内海に抱かれていた吉備児嶋の
福岡の里(現、倉敷市林)へ紀州熊野本宮(十二社権現)の御神体を遷し
(うつ
し)
祀り、紀州熊野本宮を遷座されました。(御創建

ここ児島を
修験道の本拠(総本山)とし、役小角の五大門弟、義玄・義学・義真・
芳玄・寿玄は五院(尊滝院・太法院・建徳院・報恩院・伝法院)を設け、役小角
の験道・行法秘事等を継承伝授しました。(
五流修験の起源
児島から任命された他の門弟たちは紀州熊野本宮へ戻り、参拝入山者を監督
管理する諸役に就きました。

五院、尊滝院(義玄)・太法院(義学)・建徳院(義真)・報恩院(芳玄)・伝法院
(寿玄)を管長とする
.五流長床衆.は皇室に尊崇され、年中行事化していた
上皇の熊野詣、行幸をはじめ、天皇・御皇族・貴人の熊野行幸・参拝時の先達
(道案内、道中・参拝の作法伝授)を勤め、一般民衆との関わりも深かった修験
者(山伏)は重要な役割を持ちました。

奈良時代
740年、第45代、聖武天皇より児島全土を熊野神社の神領として寄進され、第
46代、孝謙天皇(女性天皇)より紀州熊野権現とともに「
日本第一大霊験根本
の称号を奉られました。

761年、紀州熊野本宮に模した社殿(十二社権現宮)、伽藍を造営。
児島郡木見村(現、倉敷市木見)の諸興寺(江戸時代に廃寺)、山村(現、倉敷
市由加)の那智堂(現:由加神社、蓮台寺)を合わせ、
新熊野三山と称しました。

熊野詣が盛んになるにつれ、奉幣所(天皇の命による幣帛を奉献する寺社)、
王子権現(参詣者の守護を祈願する熊野修験により組織された神社一群)を
建立、付近の50余ヵ院を出仕寺院(山伏、僧を派遣する寺院)としました。

鎌倉時代
1205年、後鳥羽天皇の第一皇子、第83代
土御門天皇が児島一円を神領とし
て再度寄進。紀州熊野から執務・統治全般の諸役が多数が派遣され、神領と
しての政
(まつりごと)を行い、紀州との交流も盛んに行われました。

新熊野三山周辺に王子権現
(前述)等の熊野社、児島一円から備中吉備津に
至るまで多数の分社・関係社が建立され、ここ福岡の里(現、倉敷市林)は熊野
信仰の中心地
修験道の本拠地として栄華を誇りました。

鎌倉幕府成立後、東日本を領地する武家政権と、西日本を領地する公家政権
との二頭政治が続いていましたが、日本国史上初めて朝廷(天皇・上皇の詔・
命)に逆らった幕府軍の反乱による承久の乱
(じょうきゅうのらん)以後、乱世
の戦火、政治の実権を握った幕府により、南北朝時代から室町時代にかけて
新熊野三山の神領・寺領が次々に削減されました。

1220年、後鳥羽上皇の第三皇子、
桜井宮覚仁親王が児島に下向。
尊瀧院を庵室
(お住まい)とされ、五流山伏を熊野三山の検校(事務の監督職、
熊野三山の統轄・白河上皇の熊野詣に際しての先達)として登用されました。

1221年、後鳥羽上皇の第四皇子、
冷泉宮頼仁親王が児島に下向。
桜井宮覚仁親王と同じく尊瀧院を庵室とされ、衰退していた熊野神社と寺院を
再興されました。

1247年、冷泉宮頼仁親王が薨去され、長男の道乗が五院(尊瀧院・伝法院・
太法院・報恩院・建徳院)各々を子息に継がせ、五流一山を再興されました。

室町時代
応仁の乱(1467年~1477年)以後、戦国時代に突入。
尊皇派の戦国大名
大内義興、戦国武将毛利家の守護を受けましたが、
児島一円の領地は3ヵ村に減じ、安土桃山時代の1582年、毛利家への恩義
から備中高松城の水攻めに加勢しなかったため、羽柴秀吉の弾圧を受けて
神領を失いました。

江戸時代
1613年、江戸幕府による
修験道法度により、修験道が本山派(天台宗系)と当
山派(真言宗系)に分類され、熊野(五流)修験は、本山派修験として聖護院に
属しました。

1647年、神道を中心とする政策、神仏分離を行った備前岡山藩初代藩主、池
田光政が十二社権現の御由緒を尊び、「
備前藩特別崇敬社」とされ、現在の
社殿を造営。
更に、吉備津彦神社の祠官(神主)氏族、大守大藤内の弟に移住を命じ、神前
祭祀に専従させる等、厚い保護の下に明治に至りました。その一方、廃仏毀釈
によりの多くの寺院が廃絶・還俗させられました。

明治時代

1868年(明治元年)の神仏分離令により、十二社権現は熊野神社、寺院(尊瀧
院)は天台宗寺院になりました。
(詳細・ご参考:岡山の風 郷土史.【日本第一熊野十二権現】.<年表>

後鳥羽上皇御影塔
1239年02月20日に隠岐の国で崩御された後鳥羽上皇の一周忌に際し、御供養
のため覚仁・頼仁両親王が建立されました。(五流尊瀧院三重塔、南側奥)

桜井宮覚仁親王墳墓
(境内西側)

修験道
森羅万象に命、神が宿るとする古神道の一つである山岳信仰と仏教を習合、
さらに道教・陰陽道などの要素も取り入れて確立した
日本独特の宗教です。
深山幽谷に分け入って厳しい修行で超自然的な能力「験力」を得て、民衆の
救済を目指す実践的な宗教として奈良時代に成立したとされ、開祖
役小角
(役行者)が終生を在家のまま通したという伝承から在家主義を貫いています。
修行者のことを
.「修行して迷妄を払い験徳を得る」.ことから.「修験者」、また
山に伏して修行する姿から
.「山伏」(やまぶし).と呼ばれています。






御庵室
児島に下向された後鳥羽上皇第三皇子、桜井宮覚仁親王、第四皇子、冷泉宮
頼仁親王が庵室
(お住まい)とされ、熊野三山の検校(監督・統轄)、熊野権現・
五流修験(五院)を再興されました。

五流尊瀧院護摩堂
御本尊:神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)=.修験道開祖、役小角
脇侍
(きょうじ):不動明王



役小角.(えんのおづの、えんのおづぬ).御尊像
634年、大和国葛木上郡茅原(現、奈良県御所市茅原)出生。飛鳥時代から
奈良時代の呪術者。
修験道の基礎を築き、神仏調和を唱えました。701年07月16日没(伝)
平安時代、山岳信仰の隆盛とともに
.「役行者(えんのぎょうじゃ).と呼ばれる
ようになり、1799年、第119代
光格天皇より.「神変大菩薩(じんべんだいぼさ
つ)
」の諡(おくりな)を贈られました。

1973年.(昭和48年)08月へ時空の旅

拝殿、五流修験長床.(修験道場)







こちらの撮影年月は不詳ですが、本殿前の狛犬・鐘堂・改築中の三重塔と・・・
幼少
少年期の私です。f(^_^)

幼少の頃より、春・秋のお彼岸、お盆、墓参の際に、伯父・伯母・従兄姉、両親
と(当時は遊び場気分で)訪れ、お参りし、先代の神主
****哲様ご夫
妻へご挨拶。伯父・伯母・両親が神主ご夫妻とお話をしている間、境内・境内近
くの公園で従兄姉に遊んでもらっていました。夏は神主の奥様が盆に載せて持
って来て下さったスイカを美味しく頂いた記憶が昨日のように甦ります。

この後々、小学校の自由研究(郷土史研究)で、「児島湾干拓」・「熊野神社」
.
テーマにし、中学校の郷土史研究で、五流修験(児島山伏)について
たいへん
詳しかった大叔父
(父親の叔父)に関連文献を見せてもらい、書き写させてもら
い、教えてもらい、「五流長床衆」
.の墓標など現地調査にも付き合って頂きなが
.「熊野神社の歴史」.を調べまとめました。

それからウン十年
「身近」
.をテーマに風景撮影を再開、「児島」.を原点にした.岡山の風.・・・
晴れの国おかやまの風景のご紹介とともに、思い起こせば小学校の自由研究
「児島湾干拓」・「熊野神社」から始まった郷土史研究の軌跡を思わずたどって
いました
oo(^◇^)o


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