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2014-04-10 17:06:27

箱崎炎上 4月10日 2014年

テーマ:箱崎炎上シリーズ
4月10日
 とりあえず進学した。新しい生活も始まったことだし、これからはしっかりとブログを付けて、日々の備忘録を付けていかないとな。

 まず、これまでの経緯のまとめ。
 高校生活を振り返れば、何と言うか、碌なことが無かったなと。まず部活に入らなかったのが痛かった。放課後の練習風景やら、学園祭の風景やらが見ていて辛いのは、まさにそのせいで、その上クラスの主流グループに入っていける程の要領も能力も持ってなかったから、意図せず外れてしまった。話すのが苦手だとは自分では思ってないんだけどなあ。何でだろ。無力感漬けの日々だった。やること無いから勉強とか、あと本を読むか(でも面倒臭いんだよなあ、ちゃんと色々目配りしながら読むのは。国語の授業じゃないんだし自由に読みたいとか思っちゃうけど、そしたら今度は散漫になりすぎるもの)、マンガを読むか、それか音楽を聴くか。くそ、映画を見ておくべきだったな。運動部的な方向に頑張れないので、文化方向に伸びていくしか無いんだって、早くに気付いていたんだがなあ。
 高校で一番頑張ったのは、まあCD集め?親に貰った昼食代をCD買うのに回したりして、頑張ってお金を作ったからね。でも、それだって結局金持ちには勝てやしないし、結局ぼくが飛び抜けて人以上に頑張ったことって無いよなあ。この辺、結構うんざりしてくる。
 あと、そんなに多くない高校からの友達と学部が別なのも不安。なんか工学部とかばっかりだもんなあ。みんな西に行ってしまった。こっちに住んでるのってひょっとして僕くらいか?文系の人だってみんな上京しちゃうし。やっぱり受験しておくべきだったかなあ。まあ、もう入学してしまったので、こうして博多北区下呉服町に部屋を借りてしまったので、もうどうしようもないのだけど。

 とりあえず、流石に大学生活も高校と同じように無力な日々を送りたくはないので、努力をしなくちゃなあとは思う。だから、僕はまず、どう努力すればいいかを知らなければならない。そのためにはまず、何をしたいか考えなければ。なんかとても漠然としてて不安だ(笑)
 そもそも、一人暮らしだ。数日やってみて分かったことだけれど、僕はあんまり甲斐性がない(笑)料理を作るのもなんだかもう面倒臭い。早くもスーパーの惣菜コーナーに引き寄せられそうで、ははは、どうなっちゃうんだろう。
 まあ、どうせなるようにしかならないだろうなあとは思う。だから、なるべく努力して、そのなるようにしかならなかったことをここに書いていけたらなあと、思う。ああ、でもこういう努力ってなかなか面倒臭いよなあ。そもそもこれはどういうモチベーションで書いてるんだ(笑)自分のモチベーションの分析とか、なんかしたくないなあ。
 でも、こうやって考えていることをタイプするのもまた、面倒臭いなあ。打ってる間に忘れてしまうし(笑)とりあえず、何ヶ月これを書き続けられるかしら。そしてこれを見てくれるような知り合いが出来るでしょうか。ああ、他人事ならいいのに、僕が頑張らなきゃならんのだよなあ。
 大体、ここはどこだよ(笑)府玖丘市についてだって、僕は赤ん坊くらいのことしか知らないし、どうしたもんでしょう。とりあえず、自転車でも買おう。学校に行くのが早くも面倒臭くなっている。地下鉄でいちいち往復400円取られるのは嫌だしなあ。歩くのも、ねえ。

 という訳で、日記頑張ります。ああ、これ誰に向けて言ってるんだろ(笑)見てくれる人、ありがとね。そして将来の僕がまだこのブログを書いてたなら、そしてこの記事を読み返しているなら、少しはこの僕に感謝したらどうだい?これでも何かを始めるには大きなエネルギーが要るんだから。物理やってたんだから分かるでしょ?それとも何だ、もうそんなことも忘れちゃったかい?まあ、別にどうでもいいことなんだけど。将来の僕は今の僕とは関係ない訳だし。もしかしてこういう考えっていうのは、危ういのかしら?なら失礼。
 まあ、頑張ってくれたまえ、明日以降の僕よ。これからスーパーで晩ご飯のおかずでも探してくるからさ。

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2009-11-05 02:41:20

WESTERN DEVELOPMENT 初期稿 第一

テーマ:WESTERN DEVELOPMENT
…………ブウウ———————ンンン———————ンンンン…………。

 丸い電球ひとつだけの暗い部屋に一組の男女がいる。若い男女で、背もたれの大きな木の椅子に座って向かい合っている。冷たい部屋で、男も女も厚めのコートを着たまま見つめ合っている。窓の外は夜の景色で、近くを流れる川の向こう遠くに都心部のビルの光の群れが見える。静かな夜・静かな部屋、時計の針の音が聞こえて来る程、その静けさに魂ごと吸い込まれていきそうな程。
 私が言えることは以上で、あとはもうさよならだ。皆様に会うことはもう無いだろう。最後にひとつ付け加えるのは、私はピストルを構えて引き金を引くことである。

「お兄様、地の文が自殺しましたわ。」
「そのようだね。ところでどうしよう。カメラはあちらだ。一応礼でもしておいた方がいいのかな。」
「お兄様、わたしたちはそういう儀礼的なことをする為にここにこうしている訳ではなかったはず。夜が開けるまでの時間も無限ではありませんので、すぐにでも始めなければなりません。」
「ああ、そうだったね。……しかし、何から始めようか。どうもこのような部屋では重っ苦しく感じられてしまって仕方が無いよ。若干息苦しい気さえする。しかも部屋の寒さのせいもあって、先程から身体の震えが止まらないんだ。ああ、お前だって震えているじゃあないか。いやはや、ここは寒過ぎるだろう。」
「そう言いましても、わたしたちは今夜、他に行くところがありますかしら?わたしも自分の身体の様子は自分で分かっています。わたしたちに出来ることは、このような状態も気にしないで済むようなことを、夜が開けるまでし続けることだけです。」
「だろうね。……そうだ、ぼくたちは始めなければならないな。何がいいだろうな。ここにはぼくとお前しかいない。部屋があって、窓があって、カーテンがあって、僕とお前が座っている椅子があって、この電灯があって、その他には何も無い。このままだと幾らお前がぼくの傍にいたとしても、ジリジリと凍えて死ぬのとどことなく心細くて死ぬのを同時に得なければならなくなる。きっと夜明けまで持たないだろう。何かいい考えはあるか?」
「お兄様、こういうのはどうかしら。トランプのゲームは幾つもありますけれど、ダウトというのはご存知?数字を正しい順番に重ねて、もしくはでたらめな数字をこっそりと重ねて、もし相手がでたらめなカードを出していたら「ダウト」と唱えて、相手の出した伏せたカードを開き、それがちゃんと順番通りならダウトを唱えた者が、でたらめならそのでたらめなカードを出した者がペナルティを受ける、大体そんなゲームですわ。」
「モヨコ、幾らぼくだってそれくらいは知っているさ。しかし、ダウトをするならそれもいいが、ここにはトランプなどありはしないだろう。勿論ぼくも持ち合わせていないよ。まさかお前は持っているのか?」
「いいえ、何も持っていませんわ。だって今夜はそういう決まりでしょう?わたしだってそれくらいのことはちゃんと分かっているつもりです。……要するに、カードの代わりがあったら良い訳ですから、お兄様、こういうのはどうでしょうか。つまり、カードの代わりに、わたしとお兄様の妄想を重ねていくというのは。」
「妄想……か。つまり、ぼくとお前で順番に妄想のエピソードを重ねていき、それに関してダウトを掛ける訳だな。成る程な、それならばカードは要らないだろうし、今ここにおいて自分の身くらいしか持たないぼくたちでも可能だろうな。」
「しかし、これを始めるにしても、何も無いところから始めるのは気が進みませんわ。適当でとりとめのない妄想ほどつまらないものはありません。わたしたちはこれからダウトをちらつかせて妄想を重ねていくのですから、その重ね方には整合性が、妄想なりの構築が必要です。そのためにも、まず根本的なテーマといいますか、わたしたちの妄想の始まり、すなわちトランプのダウトで言いますところのエースが何か欲しいところですわ。」
「そうか。それだったらぼくが出そう。そうだな、ぼくの記憶から考えて……こんなのはどうだろう。ぼくたちのこの街のとある一角に存在する、いや、かつて存在していたある小さなレコード会社についての話だ。」
「成る程。テーマは決まりましたが、それがどこから、そしてどちらの方向に向かっていくのでしょうか。」
「そのレコード会社は小さいながらも素敵な会社で、その周りにいた人達の輝かしい時期というのも存在した。しかしその栄光が次第に陰り、衰え、そして遂には無くなってしまう。……その終局的な破綻へ向かう際の最重要な転換点は、ある男の死なんだ。ぼくはそこから話を進めていきたいと思う。これでいいかい?」
「素敵ですわ。……しかし、こんなに静かな部屋で、そんな音楽的なことについて思いを巡らせていくのも不思議な感じがします。」
「それについては大丈夫だろう。ぼくたちのこのゲームがその集中の度合いを高めていくならば、次第にそこには音楽も、他のここに一切存在していないものや人なども、ぼくたちの中に育つだろう。……それだけに、ダウトのタイミングが幾らか難しくはなるだろうが。」
「それは仕方がありません。何しろ、今からわたしたちがするのは、今わたしたちがこうしていることや、そしてその集中に足るだけの価値を持ったものでなければならないのですから。」
「ああ、そうなんだろうな。……テーマを出したのがぼくだから、先にぼくから始めさせてもらおう。準備ができたら始めようと思うんだが。」
「準備も何も、ここには何もありませんわ、わたしとお兄様以外。そしてわたしは準備すべきものを何一つ持っていませんので。どうぞ……。」
「そうか……。なら、早速だけど、始めよう……。」

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2009-10-05 04:26:27

脳髄垂れ流しビーム 3:傲慢編

テーマ:脳髄垂れ流しビーム
 未来のことを考えたら気持ちが落ちる、先行きの不透明具合、混乱し複雑化しながらも表層はまるで整然を装うような社会、ぼんやりとした不安。ただこれは、単に僕個人の未来についてだけではない。それは幾つかの職業や幾つかの危機的状況な若者、幾つかの自治体、及び国、そしてほぼ思いつく限り全ての友人についても、非常におせっかいながらそれらの未来を勝手に、しかもかなり悲観的に想像しては、うわあ、そんな風になるところは見たくねえなあ、でも個人や個集団が頑張るだけじゃあどうしようもない状況って多いからなあ、大丈夫だろうか、上手く職を得た知人たちは社会の大きな変革や黄昏れに巻き込まれて失職して地を這いつくばったりしないだろうか、今は繁栄しているああいう職業もこれからの世界情勢においてどう変化していくだろう、ああいうタイプの自営業ってこれからどうなるんだろう、この街って財政とかヤバいけれど解決する日は来るんだろうか、これ以上発展することが出来るのか、また発展してもそれが周辺地域に及ぼす害悪とは、ああ、この国は結局世界においてどのような地位に就くべきで、しかしそれも多くの利害関係が絡むから不可能で、これからゆっくりと国家の黄昏れをなどなどなどなど、そのように多種多様な適当な推測によって落ち込んでいるのである。
 「人のこと心配していないで自分のことを心配しろよカス」と言われれば確かにそれもそうなのだが、正直なことを言うと、僕はどうも数年後よりも先のことを考える能力をあまり持ち合わせていないので、幾らかの漠然とした不安はあっても、または幾つもの僕の没落を投影した未来予想図を用意しても、確かにその瞬間は不安になるけれど、やがてその遠い先の暗闇は遠ざかってしまい、せいぜい数日後・数ヶ月後くらいまでの大量の不安に取って代わられてしまう。それに僕は短期的には非情なペシミストだが、長期的には色々と非常に楽観的過ぎるビジョンも用意していて、そういうのを漠然とベッドの中で考えていると少しばかり気も収まるのである。まあ捕らぬ狸の皮算用過ぎる話ではあるが。
 あと、将来のことについて他に思うのはみっともなさについてである。子供の頃僕が育った街は、今見たらなかなかに寂れた部分が多くて痛々しかった。そして今住んでいる大きな街に来て、確かに華やかなところも幾らか見たが、それ以上にろくでもないところや切なくなるようなところ、まるで救いの無いような風景というのを沢山吸引した。ぼくの血の中にはそのみっともなくて心がじわりと滲んでしまいそうな風景が原始以下のレベルで溶け込んでいる、と信じている。どうも世間というものは、上を見ればそれも十分きりが無いが、それにも増して下を見ると、どこまでも果てしなく闇が続き、果たして底なんてものはあるんだろうかと思う。そのような世界においてはみっともなさというのもまた無限に続いていくもので、そしてそのみっともなさも、確かに暗部かもしれないが間違いなく社会の一部なのだ。ああ、僕は沢山のホームレスを見て来た。都心の駅の人波の中でぶっ倒れている、もしかしたら死んでいたかもしれないホームレスを見たとき、僕の中で何かが弾け飛んだ。ボロボロの髪、汚れ切った肌には沢山の皺、冬なのに擦り減ったサンダルを履き、変に黄色いベストなどを着込んでいた。倒れている彼の傍を通る大量の人達は見て見ぬ振り、かくいう僕だって面倒ごとは避けたいのだ、こういうことに回す分の正義感というのはおよそ持ち合わせていないのだ。僕は自己を批判すべきか?しかしそしたらあの無数の群衆をも批判しなければならない。それは非常に面倒で神経を使わなければならない作業だ。そんなことをするくらいならさっさと考えを切った方がいい。
 そう、そして僕はそのように彼を無視した。ならばきっと将来僕がああいう人達の様になって倒れても、きっとみんな見て見ぬ振りをして通り過ぎていくだろう。それについて何の怒りも沸かない、むしろその無情さを都会のファッションと考えることさえも出来そうなくらいに、まだ若過ぎる僕は考えてしまっている。それにああいう風になるのが恥ずかしいならそれこそ現実逃避の死を用いればいいし、そうしなくても、街のホームレスの人々を眺めていると、確かに悲惨だがそれでもどうにか人目に耐えて、というかそういう死がらみから抜け出して豪快に振る舞っている人も多い。もし僕がホームレスになっても、いやむしろホームレスになったら失うものが無くなる訳だから恥も外聞も無くなって、むしろ今よりも遥かに大胆に活動することが出来るかもしれないと考えると、想像し得る限りのみすぼらしい未来も意外と受け入れることが出来るかもしれないとか思ってしまう。もちろんそれらを望む訳ではないし、一応僕にも目標としている超楽観的な未来があるから、それに向けて頑張りたいとは思っているのだが。
 ただ、将来のみすぼらしい僕の想像は気にならないが、それが他人のそれになると話は全く変わってくる。特に、知り合いの人々が路頭に迷っているところを想像すると、不安だけでなくその他多様なタール的感情がふつふつと沸き上がり、鳥肌が立ちそうになる。僕は友人たちが年老いてみすぼらしくなった顔や格好を想像する。僕はその想像した姿の悲惨さに耐えることが出来ない。そしてそのような酷い想像をしてその人を貶めた自分の罪悪を思い、そのくせどうやってその人が落ちぶれていくかその過程まで考え出し、無駄に凝った悲劇やだらだらとした堕落を付け加えてしまう。それがその人によく似合っていればいるほど僕が背負う罪の意識もまた肥え太る。僕はその罪を生み出した僕を許せないだろうし、自分に対して自身の怒りを結集してぶつけることを躊躇しないだろう、少なくともそうありたいものである。そう、やはり知り合いにはそれなりに素敵な未来を送って欲しいのである。まあ大成功したりしたら妬むかもしれないが。そして立派な大人になった友人たちとすっかりみすぼらしくなった僕という未来がやって来たら、その友人たちは僕のことを奇麗さっぱり忘れてくれないだろうかと願う。そうすれば僕も妙に感情のこもった人目などを気にすることも無く、惨めに生き続けていくことが出来る。
 没落というある種の重力による運動というのは物語的には大きな魅力があって、しかしそれが現実において同じ様に機能するとは限らない。逆に言えばどんなに惨めな没落でさえ、物語の中でならば輝く可能性があるということだ。本当は現実だって視点の置き方や考え方によってはみっともなさが美しく見える瞬間というのはあるだろうが、しかし現実の人間というのは実際に生きている、自分の意志と欲望と肉体をもって生きていて、死なない限りは生活をしている。物語に対して申し訳無いけれど、やはり重みというものが全く異なる。物語と現実の間で、美しさと重みというのは交換することの出来ないカードなのだ。
 ああ、それと僕の一番楽観的なところを述べると、とことんまで惨めな人生を送れば、多くの人が「うわあ……社会の底辺かあ」と思うような状況に置かれれば、その人はまさにこの世の地獄の一端を見た訳で、僕が思うに、彼はそれをなんとかして語るべきだと思うのだ。どういう人間の欲求なのかはよく知らないが、社会にはそういう本当に惨めな世界をより深く知りたいと思う人間がそれこそ多く存在する。彼はそういう人達を満足させるような告発を作成出来るかもしれないのである。どうせ堕ちるならとことんまで堕ちろ、前人未到の深さまで堕ちたらそれはその人だけの風景。なんとか原稿用紙とペンを用意しろ。プロットや下書きを捨ててある新聞紙や雑誌などの上に書きながら、自分が見て来た地獄を伝えるんだ、どうしても伝えるんだと奮闘し、そしてそれが上手いこと行けば出版されてヒットして金が入って来てホームレス脱出やったあしかも地獄を見たということでトークやコラムの持ちネタも出来て、まさかこんな大逆転劇があったなんて、そして若者にさもアウトロー気味でしかもずしりと重みのありそうな言葉を投げかけてみるのである。
 まあ、実際にホームレスにまで堕ちたならば、そういう類の活力というのは全く失われてしまって、それこそただ生きている状態になるのだろうから、結局駄目なのかもしれないが。いやでももし仮に何らかの転機でもってしなびたホームレスの心に訳の分からない明かりが点いたら、などと考えるのは夢想のし過ぎだろうか。でも想像の中なら、理論上は可能なはずだ。
 海沿いのホームレス集積地を自転車に乗って散歩しながら、彼等の惨めさを観察しながら、そんなことばかりを考えてしまう僕は多少傲慢かもしれない。しかしなんて言ったってまだ若いのだ。ろくに社会を知らないクズガキの戯言でしかないかもしれないが、とりあえず僕はこの自分の考えが全くクズだとはまだ思えないでいる。若さか、愚かさか、傲慢か、無知か、そのようなものは僕を眺める僕と僕を眺める他人が決めることである。あっ、無視は一番辛いです。そうそう、見るに耐えない愚か者は常に視界から消すに限る。だのに見てしまうあなた、もしかしたら凄くいい人かも知れません。

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2009-10-04 17:26:55

脳髄垂れ流しビーム 2:嫉妬編

テーマ:脳髄垂れ流しビーム
 主に買い物と散歩、主にこの二点において僕は社会を実際にこの目で見る。それなりに立派に都会なところに住んでいるので、それだけでも様々な人々を見かけることが出来る。僕のよく行くスーパーがオフィス街にあることで、特に様々なサラリーマンを見ることが出来ている。どうも僕は、彼等の健全かつ大胆な活動(のように僕からは見える)を見ていると、自分の存在が酷く卑小であるように思えてしまい、しかし一方で彼等を徹底的に見下しているようでもあるのだ。何故だろう、彼等のその日常的な活動こそが世間を支えているのは明らかでありそのことを認めなければならない、そして本来ならばオレ自身もそうでなければならないと考えていながら、そのすぐそばで彼等の均一性やその仕事の内容(何も知らないのだけれど)を酷く嫌悪もしている。
 このような状態が社会一般的に健康と言えるはずもなく、このように彼等を嫌悪しながらも引きこもる様はまさに社会不適合と言っても良いのではなかろうか。少なくともそう言われても仕方がないとは思っているし、ある程度自分自身をそう見ているつもりでもある。面倒なのは、今自分が抱いている価値観の多くをそっくり捨てて普通に働き普通の生活を送るという事態を非常に恐れ、そんな方向に向かうのならば今すぐ死んだ方がマシだと思う気持ちが僕の中で大きな位置を占めていることである。「そんな訳無いだろう。もっとまともに考えろよ」という気持ちもあるのだが、「まとも?何がまともだと言うんだ?連中のように社会の歯車となって隷属することがまともだって言うのか?お前の言いたいことを説得力を持って多くの人に伝えられずに、その辺の一般大衆と同じような生活をして人生を終えるのがまともか?嘔吐、嘔吐、嘔吐。」などと叫びだすものがあり、それに対して「社会の歯車にすらなれない奴が何を言う!責任について考える権利も持てないような奴が何を言う!」とああもうこの後は果てしなく泥仕合。
 何よりも恐ろしいのが、こういった独善的のように思える軽蔑やら何やらが、実は非常に月並な、大学生のうちのそれほど少なくは無い考え方一般をそれほど大きく逸脱していないのではないかということである。こういうことを幾ら書き連ねても、それが実は全く月並なことであるなら、それはまるで存在価値を失ってしまう訳だし、僕のこのがむしゃら気味な努力もこの広い社会においては全く特別でないならば、なんとも虚しい存在となってしまうのである。そういった事態を避けようと難しく考え、更に生活を先鋭化させようとすると今度は生活が破綻してしまう。なんだかんだ言って僕は生活を破綻させるのが恐ろしくて、どうしても消極的になってしまう。先日お月見の際に友人が精神診断なるものの話をしていて、その中で「消極的社会不適合」という項目があると述べていた。ああ!なんと!もしかしたら僕の事態もこの一言で全て回収されてしまうのではないか、いや間違いなくあっけなく回収されてしまうだろう、ということ。大体、「消極的」という漢字三文字が全てを表しているのではないか!ああ、しかしならばどうすれば「消極的」から「積極的」になれるのだろうか。その手段が今ひとつ掴めずに、今までずっと苦しんで来た。割と無様な暮らしを送って来た。
 「積極的社会不適合」とはどのようなものだろう。少なくとも単なる引きこもりでないことは確かだ。思いつく限りを挙げ連ねていくと、まず思いつくのがやくざであった。次に犯罪者、女買い、ギャンブラーなどが思いつく。おお、おお、確かにどれもこれも駄目だが積極的な気がする。確かにそのようなものについての憧れがゼロということは無い、けれどもさしてそういうものになりたいとも思えない。だってこれらのものはあまり格好良さそうにも賢そうにも思えない。どうにか女買いが耽美的な匂いを持っているだけで、しかもそれも財が必要であるからもし仮に僕が実行してもどうにもこうにも。借金をすればいいか?いやいやそれで滅亡してしまったら身動きが取れなくなる。あれれれ、「積極的社会不適合」ってあんまり良く無いじゃん、どうしたことか?
 結局のところ、僕みたいな奴が憧れるような社会不適合というのはもっと瞬間の美しさ的なものなのかもしれないというところに着陸する。それは「消極的」「積極的」で簡単に測ることの出来ない位置に存在している。引きこもりの少年が殺人を犯すケースなどは、その行為は「積極的」と言えそうだがそれに至るまでの過程は「消極的」な事柄の積み重ねである。まあ、消極的社会不適合が生活の破綻まで辿り着いた時に「積極的」な行動に走るとも言えるが。
 で、この「積極的」行為や瞬間に関して、やはりひときわ妖しい魅力を放つものが自殺であろう。何故自殺はこうも甘美なのか。自殺はファッショナブルなのだ。太宰治をはじめとする多くの自害した文豪の評価は未だに一般的に高いと言えるだろうしその生き様はどこかロマンチックですらある。『若きウェルテルの悩み』をはじめ多くの文学作品では繊細な青年が煩悶の積み重ねの後に絶望でもって自分の命を害し、それに至る過程の多くは詩的な美しさや悲劇によるうすら甘い香りを放っている。ミュージシャンならカート・コバーンをはじめ……という様に、自殺による魅力を纏ったものというのは枚挙に暇が無い。
 しかし、ここに大きな落とし穴が存在する。何故、それらの自殺が素敵に思えるのか。繊細だから?美しいから?それよりも大切なことは「多くの人に知られているから」ではないか?例えば今すぐここで僕が死んだってそんなに有名な訳でもないしその自殺が美しいと多くの人に訴えかけるだけの業績がまるで無い。そういう死こそまさに「社会に埋没した大衆的に無価値に近い、薄められてしまう死」である。もちろん普通の死というのは取り上げてどうこう言うようなものではなく、むしろ慎みを持って扱うべきだし、別に埋没というのも何の問題も無いだろう。ただ、ここでの自殺というのははっきり言ってしまって「人の目を引くこと」を目的にしている訳である。「美しさ」を求める気持ちの幾らかに、そういう評価を他人から戴きたいという願望が混じるのはよくあることだと思っている。そういう意味で言えば、多くの評価を得られそうにも無い世間に埋没した一青年が死んだところで、誰が評価してくれようか。隣人の悲しみしか残らない。そもそも有名人であってもその自殺を崇拝するのはどうだろうってこともあるというのに、それが卑小な人間ならなおさらである。
 そういうことを考慮すると、詩的理由をもとに自殺することは非常に困難なのである。目的が達成出来る確率は相当低いのである。大体、目標を達成したところでその評価を自殺した当人は受け取ることが出来ないのだ。ああなんと馬鹿らしい!
 しかし意外と、こういう詩的理由から自殺を考えることは大切かもしれない。そういった気持ちの混じった自殺というのは、以上に挙げた適当な論理からも証明されるような不可能性がある故に、どうも実行に踏み切れずに、そのまま流れてしまうからだ。これがもし純粋に現実逃避の最果てとして実行されるのならば、当人はただ逃げ出したい、全てを放り投げたいだけなので素直に死んでしまうだろう、しかしここに名誉欲という非常に馬鹿らしいウイルスが混入することによって、自殺する大義名分が不透明になり、遂には自殺は避けられるのである。そう、ある種のナルシズムは自殺を抑制するとも言えるだろう。
 僕はこれをある日、近所の橋の上でぼんやりと川の水面を眺めている時に思いついた。そうだ、まだオレには死ぬほどの価値が無い、どうせ死ぬならもっと美しい時期があるはずだ、今は最良のチャンスじゃない、むしろ比較的死ぬには向いていない日だ、というかそういう意味ではまだオレは全然努力が足りてないではないか、ああ、どうせいつか死ぬならそういう付加価値を付けてから死ななければ、よし、ここはひとつ素敵に死ぬ日の為に色々と頑張らなくては、そういうことを考えよう。こうして僕はあっさりと川を後にした。もっとも、多分その橋から飛び降りてもまず死ねないのだが。しかし狂言自殺をするにしてもちょっと死ぬ可能性があることを考えると踏み切れない。ああ、やはり僕は「消極的社会不適合者」なのかもしれんね。ははは。それはそれとして頑張るべきことを頑張るべくそれを模索し、そして言いたいことや別にそんなに言いたくは無いけれどそれなりに言う価値はありそうなことをひたすら書き連ねることで一時的な精神の安定を図る、そのために色々と部屋の中や三歩中に考え、そして必死にワードに向かっていくのであった。ああそうだ、この分の最後にもなんか意味ありげな即席の格言でもくっ付けておこう。
「自殺願望者よ、美意識を持て!自分の死による波紋を見よ!……本当に、今でいいの?」
 ああそれにしてもやっぱり自殺に憧れる一青年としては、二度も死に損なってそれによる「みっともない美しさやらやるせなさやらそういうもの」を生きて手にすることが出来た太宰治には、正直嫉妬してしまう。ああ、あなたの様に生きれたら!と勢いで言ったはいいが、パクリは良く無い。パクリは評価されないからな。太宰を目指すのならば、太宰とは違う方向で目指さなければならない。まあ僕別に女たらしじゃあないんで色々と無理ありますけど。大体太宰を目指すなんておこがましい!とかこんなこと言ったらどうなってしまうのかしら。すんすんすん。

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2009-10-04 13:39:45

脳髄垂れ流しビーム 1:暴食編

テーマ:脳髄垂れ流しビーム
 気がつけばラーメンに五百円以上を出すのにさえ痛みを覚えるようになって久しく、僕は頼りの無い日々をどうすれば生活に掛かるお金を擦り減らすことが出来るか、どうすれば生活を簡略化していくことが出来るかについてばかり考えるようになった。何故だか分からないが様々なことが面倒に思えるようになり、最近は遂に自分の部屋でゴキブリを見ても諦めがつくようになってしまった。僕はベッドの中でひとり、そうなってしまった自分を密かに悲しく思うものである。
 しかし意外と吝嗇というのも楽しみがいのあるもので、買い物に行くたびにその前後数日の食費平均のことを考え、それが一日平均千円をどれほど下回っているかによって、どこかまやかしじみたささやかな満足を貪るのである。ただし、自炊をするという考えは僕の中に存在しない為、それはカップ麺や冷凍食品、そして飲み物やお菓子などで構成される。
 大体、家のフライパンがいつの間にか訳の分からない具合に痛み、一番最近に、このままでは吝嗇にも限界がある、これでは不味いと思い、珍しく野菜炒めを作ろうと奮起し、豚肉をそのフライパンで熱してみようとすると、豚肉はフライパンに惨めったらしくくっつき、それがしかもなかなか剥がれず、焦げてしまうのを防ぐべく強引に剥がそうとすると肉自体が分解して細切れが更に細切れになってしまうので、結局出来る野菜炒めは肉がボロボロで小さくてなんとも満足のいかないものなのである。そういえば塩胡椒も賞味期限を見るとおよそ四年前に数値が設定されていて、そのせいかまだそれなりに存在するはずの中身が変に固まってしまって、一生懸命に振っても全然出ないのである。仕方が無いからその辺にあった麺つゆで野菜炒めを味付けするのだが、この麺つゆがまた妙に酸っぱくて、何だおい、これも賞味期限が切れているのかと腹を立ててラベルを見るが、しかしそこにはおよそ一年後の日付が記してあり、あれれじゃあ何でこの麺つゆは酸っぱいのだろうと考え、しばし困惑する。麺つゆが酸っぱいなど、あってはならないはずの事態である。お陰で野菜炒めも酸っぱい出来となってしまい、微妙に気持ちの悪いその料理でもってご飯を食し腹を満たす訳であったが、それで十分な満足が得られる訳も無く、大変居心地の悪い気分と理解に苦しむ状態の麺つゆに対する行き場の無い怒りを抱えたまま、しかしそんな状況では何をするにも身体にも心にも力が入らないので、布団に潜り込み、色々と問題の追求や本日の反省などをぼんやりする頭の中で展開しながら、とりあえず眠るのである。眠りによって自意識が発散するより前に、とりあえずあの麺つゆがおかしくないのであれば、正常であるのならば、もしかしたらオレの調理方法が駄目だったのだろうか、それとも異常はオレの舌の方であろうか、ああそういえば今日は少し身体の調子が思わしくないところがあったような気がしないでもないかしらと、その辺りまでは考えていたと思う。もっと多くを考えていた気もするのだが、そういったものは全て眠りのへらによって悉く捨象されてしまった。それらの考え事はどこへ行くのだろうか。もしかしたらいつの日か不意に脳裏にふわっと現れるのだろうかと思い、それを楽しみにすればいいのか、それとも案外大したことの無い考えであって大きな期待はずれを食らうことになるのだろうかと、やはり思いまどってしまうので、もうこの日の食事のことは考えないようにした。ともかくそれ以来、あの部分的に何故か茶色く変色した気味の悪いフライパンは使用していないのであった。
 このままではいけない、調理を全くしないのは食の喜びの多くを知らずに死ぬまで生きることであり、それを回避すべく心機一転一念発揮、我が食卓に我が手によって美味しい料理を運ぼうではないか、そのためにはまずフライパンを購入すべきであり、オレはその予算を出すべきである、と、僕の中で厚生省辺りが声高に叫んでいるのだが、しかしそれを冷徹に突っぱねるのが我が自慢の大蔵省であった。すなわち僕のフライパン購入計画はその案件提出のおよそ二秒後には、いや、そんなのに金出すのって嫌だしと一蹴された。それに続いて労働省が、それにフライパンを買ってしまったら料理をしないといけないではないか、そんな面倒が許されると思うのか、大体フライパンを買いに行くまでの手間はどうなるんだ、などと怒鳴りつける。そうした意見が僕の中を席巻し、結局フライパン購入の発案者は背中を小さく丸めてその場に俯いてしまったのであった。おお、哀れ哀れ。
 そんな食無精の僕ではあるが、それでも外すことの出来ないものが幾つかある。それはクッキーとコーヒー牛乳の存在である。クッキーについては常備二種類、どちらもブ○ボンの、片方はバタークッキー、もう一方はチョコチップクッキーであり、これらを大体一度につき五枚食べる。どちらかを三枚、もう一方を二枚食べるのである。この二つのクッキーは大体スーパーで百円で買え、一箱十五枚であるためこの方法では六回食べることが出来る。そしてこれに合わせて嗜むのがコーヒー牛乳であった。僕は買い物無精でもあるため、買い物は近所のとある二十四時間スーパーで全て済ませてしまうのだが、そこで売っているパックのコーヒーと牛乳をいつも用いている。このコーヒーは単体で飲むと数秒ほど笑った後にじわりと苦みを感じるほどに美味しく無く、純粋にコーヒーを求めているとしたら個人的には落第としか思えないのではあるが、これがコーヒー牛乳においてはそれほど差し障りが無くなるから不思議だ。コーヒーと牛乳を茶渋のびっしりついて取れなくなってしまった正直汚らしいコップに、半々の割合で注ぎ、その程よいコーヒー牛乳色に出来上がったコーヒー牛乳をクッキーと一緒に食す。僕にとってクッキーとコーヒー牛乳は、かなり分けて考えることの出来ない関係になってしまっている。この二つはどんなに食費をケチろうと頭を回した時も決して失われることはない。むしろ逆に、この二つが失われてしまう時こそこの今の僕の性質が失われてしまった時であるかもしれない。残念なのは、それが失われたところで何か悪いことが起こるのだろうかということである。何故か僕はこの嗜みが失われてしまうことを恐れているし、今の生活が続けば、誰かに取り上げられない限りはこのような軽食をずっと続けていくのだろうと思う。ちなみにこのセットは朝ご飯や夜食などになる。もう一つつけ加えるなら僕の朝ご飯は昼ご飯を兼任することが多い。
 最近はこのような甘いものばかりに満足出来ず、遂にカラ○ーチョなどというものに手を出してしまった。これがまた魔性の食べ物であり、適度に辛くて美味しいその味で僕をたぶらかすのであるが、このスナック菓子はスナック菓子であることや、その辛みの成分のせいか、非常に口の中が荒れ易いのである。僕がかつて長男として在籍していた家族は何故か皆口内炎患いで、割と幼い頃から母が口内炎で苦しんでは妙な薬やビタミン剤を買って飲む姿を眺めて育った。酷い時は喉にも口内炎が出来るらしく、その痛みは何をどうしても回避することが出来ず、その苦痛がしびれによって紛れるのをただ待つことしか出来ないそうだ。僕はその苦しみをはっきりと自覚したことはまだないが、ひょっとしたらあの時のあれって喉の口内炎かしら、という症状が出た時は何度かあったような気もする。ともかく、そんな家庭にあった僕もやはり口内炎が非常に出来易く、特に季節の変わり目などは鼻水とともにどこからともなく現れて僕の生活を自堕落なものにしてしまうのである。そこにおいて、このスナック菓子はその魅力と弊害とを両手に持って、まるで性根の悪い魔女のごとく僕に語りかけるのである。その甘辛い声、多くの場合僕は誘惑に敗北する。そして口内炎も省みず、ただバリバリと貪り始めてしまうのであった。後日日中ずっと口内炎に悩まされることは言うまでもない。
 ああ、それにつけても食というものは面倒臭い。何故こんなものが必要で、しかもこんなものによって快楽を得てしまうのか。本能と直結する三大欲求というものの恐ろしさか、それともそうでもしないと満足を得ることの出来ない我が身の不甲斐無さか、よく分からないが、こうやって文章をひねり出そうとするといつもこういう普段は全然考えていないどうでもいい問題ごとに行き着くのであった。ああ、このどうでもいい悩みはどこに伸びていくのだろうか。もしこの悩みを追えばいつかニューヨークにでも辿り着くのならば、このような文章を幾らでも書き続けることが出来るかもしれないが、到底そのようには思えないし、大体いい加減面倒臭くもなって来たので、もうこの辺で筆を放り投げてしまうのである。もっともパソコン全盛のこの時代、僕は久しく実際の筆を握っていないのではあるが。比喩の筆であろうか。あらやだわ。

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