“自称滋賀のヨン様”の捲土重来リスコミブログ

私たちは、生きる中でいろいろなリスクに直面したいへんな状況になることが多い。まさに一寸先は闇だ。どんな逆境や苦難の道であっても再び立ちあがるという志だけは持ち続けたいもの。そんな気持ちをブログに書き綴っていきたい


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荘子には、「明鏡止水」という言葉が書かれています。これは何かというと、かつて勝海舟は、「一切の思慮を捨ててしまって妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。すなわちいわゆる明鏡止水のように、心を磨き澄ましておくばかりだ」と言ったように、老荘の無為自然の大切さを教えてくれています。現実の厳しい世界に耐えていくには、必ず自分の中に明鏡止水の心を宿らせる場所と時間が必要なのですね。


今日、東京から柏に行き、また舞い戻ってきます。

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昨年、福島で放射能による汚染が発生して以来、除染を行なうための事業をいろいろ検討してきました。


しかし、ポジション(福島は滋賀からはあまりにも遠い)、資金、技術、人材などを考えた場合、「弱者の論理」で進めていかないと全く勝負にならないと思っていました。昨年の夏、大阪でシンポジウムの事務局長を仰せつかい、いろいろと放射能問題の勉強し話を聴く中で、この「弱者の論理」は何なのかを理解することから始まったのです。


放射能の除染の仕事は、基本的には現地の事業者が行うべきもので、またプラントを作って減溶化することになるとゼネコンの業務となります。


■除染を進めるための“除染液”の開発に特化すること。

■国立大学や大手研究機関の指導を仰ぎ協業できること。

■大手企業、或いは専門企業と共同で技術開発ができること。

■福島の市民や行政に信頼され、福島の事業者に買ってもらえる除染液であること。

■国からの適正な評価を受け、大手事業者に買ってもらえる除染液であること。


これらの考えを取りまとめ、セシウムを取り除く「除染液」を様々な優秀で有能な人たちと協力し合い作り上げてきたのです。


現場では、これまでのように高圧洗浄で水を大量に使用し、セシウムを含んだ水を拡散させる方法ではなく、極力水を使わず、セシウムを一所に集め固めていく工法が求められてきました。


セシウムで汚染された建物(屋根・壁・塀など)、道路(アスファルト・コンクリートなど)、車両類、道具類、森林の木や葉など、土壌以外セシウムが付着しているこれら対象物の除染を行うための除染剤と、それを噴霧する機械類、ブラッシング工法、そしてセシウムを含んだ水やゲルを捕集する方法に一定の目途がつきましたが、もう半年が経過してます。


商品としての除染剤は90%程度完成できたものの、事業全体としてはまだまだ50%程度でしょうね。これからが本当に大事です。生産システム、マーケティング、サプライチェーン、資金面、人材確保、やるべきことがあまりにも多い。


しかし、「福島の再生が日本の再生となる」という野田総理の言葉の通り、福島に行けば、そしてその土地の人たちと話せばそれが正しいことと理解できます。福島の復興を急がねばなりません。観光や農作物の輸出など今後の日本の成長は福島の再生にかかっているいっても言い過ぎではありませんからね。


韓国のことわざに、「シジャギ パニダ」というのがあります。これは「始めれば半分終わったようなものだ」という意味です。つまり、「何よりも行動が大事だ」という意味で、いかにも韓国らしい言葉ですね。“とにかく始めよう”ということですから。


さきほど除染液やそのシステムの完成がほぼ出来上がったとしても未だ50%と言いましたが、これを韓国的に考えると、75%まで成功率が上がることになります。かといって、残りの25%が本当にたいへんなことだと気を引き締めなければならないので、パーセンテージなんぞはあまり意味がありませんね。


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中国春秋戦国時代の思想家、老子と荘子のことを少し話しをします。


孔子や孟子の儒教は、人の規範として仁、義、礼、信、智などあり、またそれを体得するためにいろいろな“しきたり”があります。しかしこれを続けるとなるとややもすればたいへん息苦しくなってしまいます。儒教が表の道徳なら、もっと自由にのんびりと生きたいという願いがあり、これが裏の道徳、つまり道教なのです。


道教はこの老子と荘子の思想が主になっています。有名な言葉として“無為自然”というのがありますが、「人は自然のままに生きること」これを最大の徳目としています。


実は、老子と荘子とではその説く方向は少し違うようです。老子はいたって「寡黙」で、広い大陸で大地の底から漏れてくるつぶやきのような感じです。方や荘子はたいへん「饒舌」で話をおもしろおかしく畳みかけるという感じでしょうか。


かつて、日本の総理大臣の指南役であった安岡正篤さんは、孔子と老子と荘子の違いを医者になぞらえて、3つのタイプに分類していました。それがこれです。


★★★


「孔子型の医者は、見るからにまじめな医者で、容貌から服装から全て整い、患者に対しても礼儀正しい。口数は少ないが、注意は行き届いていて、要点をはっきりさせる。どんな患者でも一度で信頼と経緯とを感じさせられる良い医者。」


「老子型の医者は、おっとりとして柔和な、屈託のない、よく練れた紳士。風采も別に構わないようで、なかなか垢抜けている。たいていの患者をいつも子供のように手軽くあしらって滅多に特別改まった態度を見たことはないが、稀に生真面目な顔をして応答をしながら、ずばりずばりと客の意表に出るような口をきく人である。医者でありながらあまり薬をくれない。むしろ、人を診たがらない。医者以上というか、以外というか、何だか型にはめきれない闊達なものを感じさせる。」


「荘子型の医者は、これはまた手荒い医者だ。いがぐり頭をふりたてて、ネクタイのひん曲がった、いかにも辺幅を飾らぬ無造作な格好の男。

“何、薬?あんまり薬なんて飲み物じゃないよ。薬は毒だよ。”

“何日ぐらいで直りましょうか?”“さあ、そのうち直るだろうよ。大したことはないよ。人間はちと病気があったほうが、悪い事せんで良いかもしれんで。”

つまり、どこまでも口は悪いが、人はすごく善い。」


さすが、安岡正篤さん。実にうまく表現していますね。これだけで、老子とか荘子がどんな考え方をしているか、よくわかるでしょう。


この老子と荘子が残した、実におもしろく、愉快で、孔子や孟子、韓非子や洪自誠とはまた違う“生きる力”となる言葉がたくさんあります。これからこのブログでも少しづつ紹介していきたいと思います。



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