*以下は、2001年よりも前に書いたものであり、現在の時点では不適切な内容を含むかもしれません。また、テレビアニメしか見ていません(映画版第1作は「少し」見た)ので、その後の展開については反映されていません。ぜひともこの機会に、吉本隆明「共同幻想論」を読んでいただきたいと思います。

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アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、従来の意味での「物語」としては、破綻を来たすことによって、かえって多様で大量の読解や論評を産出させることに成功した。

 

だが、これまでのエヴァ読解において最も見落とされてきたのは、エヴァの物語が、日本的なるもの、いいかえれば、日本的な共同幻想の、きわめて現代的な表象である、という視点である(といっても私はほとんどエヴァ論を読んだことがない。唯一、永瀬唯「喪失の荒野『新世紀エヴァンゲリオン』」(谷川渥監修『廃墟大全』トレヴィル、所収)が印象に残るくらいである)。

単にエヴァの物語を、西洋的な神話=幻想の次元においてのみ解釈する立場においては、聖書や死海文書、精神分析的な概念が作品中に散りばめられているという理由から、その概念的な類推によって物語の構造を把握する傾向にあるが(構造主義的読解)、鹿野秀明監督ならびに作品の生まれた土壌としての日本、また、われわれ視聴者/読者の置かれている土壌としての日本という見地からいえば、そういった解釈の枠組みが、ある「時代精神」「潮流」「流行」といった広がりのやや先、つまり、一種の「時代の普遍性」、21世紀に生きる私たちにとっての「普遍性」に到達していることを表わしているのではないか、と私は考える。しかし、とはいえ、そう言っただけでは、過剰な情報量を誇る作品の表層の解釈に横滑り的に繋がるだけで、さらにもっと奥底に流れている時代の雰囲気や現在的状況との連関からみていくには不十分であるといえる。


本論は、そういった一面的な読解の風潮に風穴を開けるべく、吉本隆明が描き出した『共同幻想論』に依拠して、日本の社会イメージをベースにしたエヴァが描いている日本的な神話、物語として解読していく基本枠を提示することによって、より一層のある種の「普遍性」の課題を提起してみたい。

 

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碇シンジ。14歳。

 

主人公なのに、主人公ではない。


すくなともヘーゲルのいう「主人」と「奴隷」の二項対立における、「主人」公のイメージには、ほど遠い。


彼は、社会関係や人間関係に不信感を抱きながらも、父のため、世界のため(=みんなのため)に、おのれの生命を賭けて、得体の知れない「敵」である「使徒」と戦い続ける。


その姿は、痛々しいと同時に、「未成熟」な少年にたいする「苛立ち」の感覚を、読者に招くものである。


大人たちは、一体何をしているのか。そういう疑問がただちに沸いてくる。


大人たちも、実は、シンジとほぼ同じような次元で「未成熟」に存在しているがゆえに、このシンジに対する「苛立ち」は、その他の大人たちにも向けられる。


父であるゲンドウ、ミサト、加持、etc.彼らもまた、ある種の「答え」もって生きているのではなく、それぞれ心の傷を癒すべく、彷徨しているだけなのだ。


いずれも「大人」のような素振りや行為は行なうが、どことなく幼稚だ。


「大人」のふりをしているだけの存在、もしくは「大人」というカテゴリーがない世界。


ただ、命令や権威を振るう存在。


もしくは、ただ敵対するか友好関係にあるか、それだけの存在。


極めつけのシーンは、シンジたちが学校の授業を受けているもので、学校にいる「先生」は、通常私たちの知っている教師と何ら変わらずに、世間とは無関係に与えられたテキストを、義務として子どもたちに伝えているのだが、そこでの知識は、「セカンドインパクト」にたいする歴史の教師の説明にあるように、いわゆる「公式」な記録であって、「真実」ではないのである。


つまり、教える側も学ぶ側も、「公式」な記録の授受をしているのであって、そこに「正しさ」「真実」にたいする「問いかけ」はないのだ。


そのなかで、ゲンドウだけが、何かをつかんでいるように見える、もしくは、「見える」かのような設定がなされているが、彼もまた実は、自分の亡き妻の残像を求めているだけであり、世界とは無関係に自己の内面の欠如に対する充足を目指している存在であるようにも見える。


このように、ほんのわずかでも、登場人物の心の動きをふりかってみるならば、エヴァの世界においては、社会の秩序、心の秩序が、すべてが不安定であることがわかる。


しかし、なぜ心の秩序が不安定なのだろうか。オイディプス・コンプレックス的な関係性からいえば、子どもにたいして、母と父との関係は、その人間の心理を安定させるうえで重要な三角形を形成する。


だが、シンジには、母はいない。


そして、父ゲンドウは、子シンジをつきはなしている。


世界のなかで、一人の人間が生きていくとき、もしも支えとなる他者が不在となっているとすれば、ただ一つ残された根拠は、「自己」となるほかないのは、ある種の必然である。


そして、「それでは「自分とは一体何?」と、問いつめられていくことは目に見えている。


このような事態は、何も現実的に「母が不在」である、という問題ではなく、現在においては、これまでの「父/母/子」のトライアングルが壊れているということにおいて見れば、全く現在の親子関係そのもののシンボリックな状況であるといえる。


さらにまた、他者関係においても、大人たちの共同体は、何を求めているのかがわからないまま、無理矢理その秩序にかかわることを強制されているという意味において、これもまた現在の社会状況を反映しているともいえる。


では、社会の秩序は一体どうなっているのか。〈世界〉の〈制度〉はどうなっているのか。


エヴァをつくりあげていることからわかるように、現時点での科学技術開発力にまして、世界規模の大プロジェクトが実施されているということは、それに相応な社会システムが形成されていると考えられる。


ゼーレ? ネルフ? 国連? 国家???? このなかではまだ、インターネットが存在していない。


ゼーレやネルフ、国連、国家行政をはじめとして、学校制度や医療体制など、さまざまな社会的構築物に関しては、この作品では、既存の制度がそのまま現われ、きわめて曖昧な形態を伴っている。


いいかえれば、この社会的イメージを曖昧にさせることよって、エヴァは「物語」としての多様さを維持している、といえる。

 


入眠幻覚としての〈使徒〉

〈使徒〉が何の目的で登場しているのか、それは基本的にはわからない。


少なくとも、実際に〈使徒〉に直面するシンジ、レイ、アスカらには、まわりのみんなが「倒すべき相手」として述べる「敵」「悪者」であるという理解のほかには、何も存在しない。


ゲンドウと冬月、そしてゼーレには、それぞれある「計画進行表」に則った予定通りの存在として、とらえられているが、その内容については、大部分の登場人物には知らされていない。


そこで、あくまでも作品を客観視できる立場からではなく、登場人物の心象からとらえるならば、たとえば、シンジ自身にとって〈使徒〉とはどういう存在かを考えた場合、そこには、明らかなる幻想の〈恐怖の共同性〉が存在することがわかる。


何よりも毎回現われる〈使徒〉が何時、何を目的としていて、どういう形態であるか、どういう攻撃をしかけてくるのかが──その目的は物語が進むかで、次第に明らかになっていくが──、全くわからないまま立ち向かうのだ。


さらには第一話ではシンジは、何の経験も予備知識もないまま、強大な敵である〈使徒〉に一人で闘わねばならないという事態に陥る。これほど不条理なことがあるだろうか。


その理由はただ、父の命令、と母の分身であるかのような負傷した少女レイの代わりとして、というだけである。


ここで現れる、シンジを通じて表現されている、使徒にたいする〈恐怖の共同性〉は、大きく分けると次の三つの位相をもつ。

 

1 〈使徒〉という存在そのものにたいする曖昧さ、不明瞭さへの恐怖がある

 

2 〈使徒〉と闘う自分の体験が、エヴァという媒体を通じているために、もちろん痛みを感じているものの、間接的な体験となっており、自問自答をしていくなかで、それがさまざまな選択可能な現実の一つであり、逆にいえば、その体験自身が夢か現実かわからないという恐怖がある

 

3 〈使徒〉を中心に構成している別の世界が、自分たちには不可抗力な、どうすることもできない世界なのだという恐怖がある

 

1は、民俗学では、山人譯における〈入眠幻覚〉の恐怖として理解されているものである。


テレビドラマの最終話に至った段階でエヴァの物語は、何一つ確かさをもたないまま、人の心の内面性の葛藤へと落ち込んでいったことからもわかるように、〈使徒〉の存在は白日夢のごとき意味しかもたない。


〈使徒〉によって肉体的に傷つくのは、ただレイのみであり、レイの存在自体の虚ろさが物語においては重要な起点を形成しているとしても、それ以外の人々が肉体的に傷つくのは、むしろシンジ自身によって、というよりも初号機の物理的な作用によってであって、誰一人肉体的、物理的な直接的作用を受けることなく、ある種の遠隔操作的な力によって関係がとられているため、実感やリアリティがあるようでない経験を積み重ねているのである。


これはある種の〈既視体験〉でもある。


〈使徒〉の不確かさが、一種の〈幻想〉の共同性であるとしたならば、シンジにとってこの〈既視〉体験としての〈使徒〉は、共同的な幻想を個人幻想として体験したということにほかならない。
きわめて簡潔にいってしまえば、ここでは〈使徒〉は不確かな存在であるがゆえにリアリティがある、といえるのではないだろうか。


言い換えれば、ここでシンジは、自分のなかの不確かさを実感するとともに、(世界)の不確かさをも、実感しているのだ。この不確かさえを感じることのなかにこそ、現代における生のリアリティがある。


2にたいしては、〈出離〉の心の体験、というべきものである。


シンジにとって自分を支えてくれる社会的共同体は、当初存在しなかった。


両親と離れていたという理由もあるが、それだけではなく、自分が暮らしていた地域社会のコミュニティ崩壊が、現時点で生じている問題がそのままに、この作品には投影されていて、アイデンティティをもつことのできる「生まれたまち」「育ったまち」「暮らしている町」にたいする愛着や嫌悪といった感情が、まったく作品には現われてこない。


この感覚は、逆に、どこにも所属できないでいるシンジの心の不安としてとらえれば、ある共同体から離れてしまった者には、恐ろしい目に遭ったり不幸になったりするという、〈恐怖の共同性〉が象徴されている。


共同の禁制でむすばれた共同体の外の土地や他者は、未知の恐怖がつきまとう異空間であり、心の体験としてみればそれは〈他界〉との遭遇にほかならない。


シンジの意識においては、(世界)という(空間)は、地理的な空間としての「内」と「外」がなく、ただ曖昧に拡がっているものである。


そして逆にネルフという一つの共同体、そこはゲンドウが「父」であると同時に「族長」であることから、父親にたいする拒絶以上にそこに同化することによって、その共同体の一員であることによる平安を求めていくのは、逆説的に、ネルフ共同体から逃げてはいけない、という不安感と恐怖心の裏返しであるのだ。


これは、現代社会に形成されている固有の禁制の世界にとりかこまれて身をしめつけられている、私たち自身の感性に訴えるものである。


さらにまた、ここには貧弱な共同体としての〈日本〉が〈世界〉との関係のとり方として選択している意志のありようを、知ってか知らずか表象している、というとらえ方もできる。

 


エヴァへのシンクロと憑依

 

エヴァとシンクロできる人間は、きわめて限られている。


物語上それは、14~15歳の少年少女、しかも母親のいない存在が、「チルドレン」として選ばれる。


言葉はハイカラだが、これは「憑依」体験と同じである。


憑依体験にはいくつかの位相があり、シンジとエヴァのシンクロの変化は、この位相に基づいてとらえることができる。


まず、第一の位相は、心的な自己喪失を代償として対象に移入できる能力である。


第一話では、シンジは当初、何の疑問ももたずに、自らの意志によってというよりは、自らの恐怖心、レイが危ない、という感性から、初号機とシンクロし初号機の腕が動いた。


これは、シンジが動かしたいと思って操作したのではなく、自らの恐怖心が「無意識」に動かしたものである。


いわば狐が憑依してしまうのと同じ次元にある。


ましてやシンジが「失神」した後、エヴァが暴走するが、これはまさしく、シンジにエヴァが憑依したのであり、シンジはキツネにとり憑かれたにすぎない、ということを示している。


それにたいして第二の位相は、自らの意志に基づいて対象に移入し、対象そのものの操作を可能とするものである。


シンジは、次第に自らの意志によってエヴァを操縦することができるようになるなかで、エヴァに意志的に憑依し、コントロールする。


だがこれは、エヴァに乗ることが自分の意志であるというよりもむしろ「みんなが望むから」「父親がほめてくれるから」「正しいことだから」という理由からであり、そこにはネルフという共同体の利害と密着しており、自分の幻覚を意図的に獲得し、これをネルフの共同幻想に集中同化させる能力、すなわちエヴァとのシンクロ能力が、一つの職業、一つの技術、専門性として分化していったということである。


ゲンドウと亡き妻との対幻想が、ネルフという共同幻想の象徴である。そして、この対幻想は消滅することによって、共同幻想に転化した。


そこにネルフの共同幻想にたいして、ネルフで働く男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相があり、これこそ、まさしく共同体のなかで〈家族〉がどのような本質的なあり方をするかを象徴している。


実際問題、どのような科学力は全く分からないが、ゲンドウの妻の「魂」の入っているエヴァの存在とは、対幻想の喪失を憑依化させることによって共同幻想へとずらすゲンドウの幻想の産物にすぎない。


言ってみれば「共同ゲンドウ」という幻想がここにあるのである(オヤジギャグです。鼻で笑ってください)。

 


巫女としての綾波レイ

 

ゲンドウの幻想性のもとで存在理由を見出し、自らの生命にたいする執着をもたなかったレイ。
「どうせ私は捨てられる」と自らに言い聞かせながら、忠実にゲンドウの命令に従っていくレイ。
物語上は彼女の存在は、ゲンドウの妻、碇ユイの魂を持っていることになっているが、むしろ魂の脱け殻のように振る舞う。


レイはゲンドウの意志に憑依しているのだが、強くゲンドウの意志を体現しているというよりは、ゲンドウの意志に支えられて存在させられているかのようである。


巫女としてのレイの役割は、シンジにとって反発の対象にすぎない父に対して、その思いを反発させずに受容させることであり、あくまでも「媒介」にすぎない。物語の前半でシンジが父親や他の大人や社会や使徒に向かう意志や意欲をもっていったのは、レイとの出会いがあったからであろう。明らかにシンジもしくは作者は、前半においては確実にレイをシンジと対的な関係として描いている。


だが、巫女としてのレイは、ある意味では、母の代理であって、他者としての対ではない。そこに登場するのが、アスカである。

 


NERVという此岸と他界

 

シンジが何度か「逃げる」。


どこへ?


それは、父や寝る府といった共同幻想の悲願への脱出である。


だが最終的にはどこにも逃げ場がないことに気づく。


使徒の世界もまた他界である。


また第25-26話における心理劇における、「もう一つの世界」「別の世界」の可能性を見出すのも、他界である。


一度他界に疎外されることによって、現実の共同体のいびつさを自覚し、そこで生きる自分の意志を決定させていく構造がここにある。

 


〈生誕〉〈死〉〈復活〉の農耕民族の生活サイクル

 

エヴァとシンクロするシンジの葛藤は、いうなれば、母体内にいる胎児の感覚から世界に疎外されていく、子どもが自らの意志で生きていくことの自覚をえていくまでの、他者との関係意識の問題であり、父にたいする不安定な関係意識、すなわちある意味では母親を求め合う男と男の戦いであるのだが、これを、最終的には、シンジがエヴァに乗り続けることは、成人への成長を拒むものである。

 


〈母制〉としてのレイ、マギー

 

シンジはレイに母親の匂いをかぎとる。


レイはシンジに母親的な関係をとり続ける。


だがいずれもリアルな母子関係ではない。


女性たちもまた「母親」を求めている。


結果的にアスカにとってもエヴァは母親であった。


とある女性科学者の母親の魂はコンピュータという形で具象化されている。


だが、この物語に本当の〈母親〉は存在しない。


ただ、男と女たちが〈母親〉を求めている。

 


アスカとシンジにおける対幻想

 

シンジにとってアスカは、自分を否定する他者として存在している。


自分が他者から否定されることによって、はじめて家族と共同体とは別な新たな対関係を、シンジは形成することができる。


しかし、シンジは映画では、アスカとの関係のとり方において未熟なままであったことがわかる。
すなわち、アスカの裸体にたいして自慰という形でしか関係がとれなかったのである。


それ以前にもシンジは、キスをしようとしたものの、アスカの寝言「ママ」によって、アスカにたいしても彼女の幻想の対関係、ならびに共同幻想から引き離すことができずに、アスカを自滅させていく一つの原因を形成している。


物語の構成上、アスカとシンジは、新たな対関係を形成していく運命にあるにもかかわらず、その契機が引き伸ばされることによって、物語は、終焉を迎えることなく、延長されていく。


逆にいえば、アスカとシンジの対関係が成就されたときに、はじめてエヴァの物語は、一つの結末を形成することができたはずなのだ。


だが庵野はそうしなかった。なぜか?


この構図は、アニメのみならず広く「物語」が形成されていく上での、中心的な戦略の一つであるという見方もできるが、シンジにとって全くの他者であるアスカの存在は、唯一、この物語においては、もっと大きな意味がある。


映画では、シンジはアスカにたいして「僕をいじめて」と言明し、アスカの裸体を前にして、接触することなく、自慰に走るシンジは、やはり、アスカとの距離感をとったまま、対関係を形成しようとしており、自分が傷つきたくない、そして他人も傷つけたくない、といった関係性を維持している。
そこでなぜアスカは立ち直ったのか?


いや、実はアスカは何も解決されていないままなのではないか?


この物語の中では、誰も他者を救済しないのだ。


ミサトはシンジにもアスカにも、「子ども」としての関係性をとらない。


ゲンドウも、レイとシンジにたいしては、一切の「甘え」をもたない。


ここでは日本社会の親子関係、大人-子ども関係がつくりあげている甘やかしの論理が切り捨てられている。


それは子ども同士でもそうである。


傷ついたアスカに、誰も手をさしのべない。


シンジでさえ、自慰はしても、アスカを助けようとしない。


アスカはただ一人、廃虚の風呂につかっている。


NERVの人々は、ただ任務をはたし、虚ろに登場してくる。


仕事にどっぷりと浸りきったワーカホリックなのか、時折「あなたと一緒なら」という言葉によって伝えられる、ほんの微妙な対関係をとりつつ、誰もが自閉的な世界にとどまっているかのようである。


そのなかで、ただ一人、他者の心に「優しさ」を投げかけていた人物がいる。


彼は菜園をつくり、ミサトの心を癒し、シンジにたいしても適切なアドバイスを与えていたし、NERVとも日本政府とも、すべてにたいして等距離を保っていた。


しかし、そういった人物は消される運命にある。


彼のみが一般人であり、常識人であり、「成熟した大人」のシンボルであった。


彼だけが、幼少期のトラウマや家族関係、親子関係の物語が展開されない。


それは克服されていたのだ。


しかし、彼が生きられない世界は、みなが自閉している。


自閉した世界をつき崩すこと、それが「人類補完計画」であったとしたら、それは、大がかりな仕掛けであるというよりも、未熟な子どもたちの寄り集まった不気味な世界である。


それは、単に庵野のインナースペースの自閉性であるというだけではなく、現在世界そのものの自閉性を象徴しているといえるだろう。


ATフィールドという心理的な壁は、現在世界では、接触恐怖、清潔恐怖症となって現われている(鷲田清一氏の一連の仕事を参照)。


自分が好きになれない登場人物たちは、同時に他者も好きになれていない。


対関係が発生することによって、この世界が変わりうるにもかかわらず、発生しない。


アイを叫ぶが、自分であるところのIしか見いだせず、愛は、そこにはない。

 


罪責と同性愛的感覚

 

カオル君を殺害してしまったシンジ。


その心には「罪責」感にたいする始末の仕方が表象されている。


カオルとシンジは、ある種兄弟姉妹的な関係をもち、同時に同性愛的な感情の萌芽が見られる。


物語の構造でいえばカオルがもう少しシンジとともにあるのなら、〈鏡〉としての他者との対話によってシンジは、もう少し成熟できたはずなのだが、庵野の恐ろしいところは、いともたやすく、そういった〈救い〉〈逃げ〉をつくらず、たやすくカオルを〈消去〉してしまった点である。


逆説的にいえば、この〈消去〉こそが、罪責、すなわち 原罪 なのだ。

 

奇しくも、この物語でもっとも美しく、浄化したイメージを遺したのが、カオルとシンジとの出会いだった。絶対的な他者ではなく、むしろ、全面的に自己を受け入れてくれる、絶対的な同一者がそこにある。

 


規範としてのゲンドウ

 

この物語においてすべてのルールを決めているのは、ゲンドウである。


人類補完計画その他の仰々しい計画もまた、すべてゲンドウのインナーワールドである。


ゲンドウは庵野である。


庵野はこの物語を強引に進行させるとともに、完結させることなく破綻させていく。


これが庵野の規範である。

 

残念なことにシンジは、ゲンドウと対等な関係、つまり、相互の信頼や理解が可能な関係に至ることができない。これは、「規範」というものが、勝手に上から舞い降りて自身の生活や慣習や思考を束縛していると考える庵野の基本的な意識が表象されている。

 

では、これは「強い」父親像なのだろうか。フロイトがこだわったような「父権」「家父長」の権力なのだろうか。たとえば旧約聖書にあるように、アブラハムが息子イサクにたいして、神の命を受けて殺害を決意するような、絶対的な権力なのだろうか。

 

否。ゲンドウが見せているのは、単に、強がりのようなものである。あまり、確固たるものがみえない。それは、彼の言葉づかいが、いつもあいまいで、何らかの「信念」や「信条」「思想」といったものがあるようには見えない。

 


起源と紀元

 

今の時代に生きるわれわれにとって、エヴァが投げかけている問いは、きわめて深刻かつ本質的なものである。


21世紀の日本を舞台にしていながら、そこに存在するのは、エヴァをはじめとした科学技術的なオブジェと都市空間を除けば、現時点での日本の風景であり、日常性である。


あまりにも日常的すぎるがゆえに、われわれはここに現在のわれわれの心情と、シンクロさせて見ることができるのである。


われわれは、知らぬ間に、今日もまた、得体の知れない〈使徒〉を相手に〈戦う〉のだが、その戦いはまるで、降り注ぐ雨のように、

 

シトシトシト、

 

と間断なく続き、また、突然に幕を下ろすのだった。

 

(未完)

 

 

 

 

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