読んだ本
環境と社会 ブックガイドシリーズ 基本の30冊
西城戸・船戸編 人文書院 2012.12
本日は第3部から第4部まで
***
第3部 環境を守る
桑子敏雄「環境の哲学」
西行、慈円、熊沢蕃山、延藤安弘、A.ベルクらの思想がふまえられ、哲学と土木工学に橋を架けている。
佐渡のトキの保護など実践活動にも積極的にかかわってきたという。
本書については、近いうちに読んでみたうえで記事を書きたい。
レオポルド「野生のうたが聞こえる」
土地(ランド)倫理を提起した環境思想の巨人で、自然保護運動にも大きな影響を与えてきた。
内山節や鬼頭秀一の議論と重なっている。
ブラムウェル「エコロジー」
エコロジーを主張することは一種の政治的、階級的な要素も含まれ政治的立場の主張に陥る危険性があるが、「地球を動かす新たな原動力となっていく可能性は残されている」(105ページ)。
レヴィン「持続不可能性」
静的安定状態を想定した「有機体的生態系観」から複雑系としての生態系へ。
指標は生物多様性、外来種。または、時間や空間といったスケールの多様性。
玉野井芳郎「エコノミーとエコロジー」
これまで経済的に反映されていない負の効果である外部不経済に目を向け、環境問題などにおける社会的費用を明確にしようとする。
ポラニーやイリイチなどをふまえ、エントロピーや生命系という概念をうちだした。
丸山康司「サルと人間の環境問題」
自然保護と獣害のはざまで、保護か駆除かの二項対立ではない現実をとらえようとする。
これは、動物愛護運動全般にも問題提起される内容である。
***
第4部 当事者性から考える
高木仁三郎「市民の科学をめざして」
本書ではこの本もしくは高木の考えについて「ポスト「フクシマ」の哲学」と評している。
聖書は核を予見したか(高木仁三郎)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11584999169.html
高木仁三郎・渡辺美紀子、食卓にあがった放射能、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-10979121192.html
市民の科学をめざして 高木仁三郎
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12145278270.html
平川秀幸「科学は誰のものか」
科学技術社会論の視点から不確実性の問題と、価値や利害の対立の問題をとりあげている。
というよりも、科学技術に普遍性はないし、価値中立性もないが、あたかもあるかのようにとらえられてきた時点で、すでに科学技術はかつての宗教と同じような立ち位置に入っていたということである。
そのなかではどうてもそうした対立や闘争の調停が必要になり、著者はそれは「科学技術のガバナンス」と呼んでいる。
鬼頭秀一「自然保護を問いなおす」
自然との共生といっても、自然は脅威でもありえ、また、自然破壊は何も現代社会特有の問題ではない。
大方の方向性としては「自然の価値として人間の関与しない「原生自然=ウィルダネス」を想定している」(144ページ)が、人間と自然は常に関係しあっているので、「社会的リンク」という考え方を鬼頭は導入する。
自然と人間との双方向の働きかけは、第一に、物質的な「社会的・経済的リンク」があるが、同時に、第二に、「文化的・宗教的リンク」がある。
こうしたリンクを前提としつつ、全体のバランスがとれることが望ましいと鬼頭は考えている。
松村和則、青木辰司編「有機農業運動の地域的展開」
原発事故と農の復興(小出裕章、菅野正寿他)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11941596682.html
フクシマの農業と向き合う農学研究――農と言える日本人(野中昌法)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11916984225.html
反原発の思想(現代思想、2011.10)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12017350460.html
古川彰、松田素二編「観光と環境の社会学」
「ノスタルジーの対象にされがちな農山村は、都市部と同様に構造的に疲弊している。」(158ページ)
そのなかで「観光」を地域住民たちが「資源」として主体的に活用しようとすることが何よりも現実的な方向性である。
しかしその際に「小さな共同体」もしくは「生活者」であることを無視してはならない。
環境と社会 ブックガイドシリーズ 基本の30冊
西城戸・船戸編 人文書院 2012.12
本日は第3部から第4部まで
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第3部 環境を守る
桑子敏雄「環境の哲学」
西行、慈円、熊沢蕃山、延藤安弘、A.ベルクらの思想がふまえられ、哲学と土木工学に橋を架けている。
佐渡のトキの保護など実践活動にも積極的にかかわってきたという。
本書については、近いうちに読んでみたうえで記事を書きたい。
レオポルド「野生のうたが聞こえる」
土地(ランド)倫理を提起した環境思想の巨人で、自然保護運動にも大きな影響を与えてきた。
内山節や鬼頭秀一の議論と重なっている。
ブラムウェル「エコロジー」
エコロジーを主張することは一種の政治的、階級的な要素も含まれ政治的立場の主張に陥る危険性があるが、「地球を動かす新たな原動力となっていく可能性は残されている」(105ページ)。
レヴィン「持続不可能性」
静的安定状態を想定した「有機体的生態系観」から複雑系としての生態系へ。
指標は生物多様性、外来種。または、時間や空間といったスケールの多様性。
玉野井芳郎「エコノミーとエコロジー」
これまで経済的に反映されていない負の効果である外部不経済に目を向け、環境問題などにおける社会的費用を明確にしようとする。
ポラニーやイリイチなどをふまえ、エントロピーや生命系という概念をうちだした。
丸山康司「サルと人間の環境問題」
自然保護と獣害のはざまで、保護か駆除かの二項対立ではない現実をとらえようとする。
これは、動物愛護運動全般にも問題提起される内容である。
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第4部 当事者性から考える
高木仁三郎「市民の科学をめざして」
本書ではこの本もしくは高木の考えについて「ポスト「フクシマ」の哲学」と評している。
聖書は核を予見したか(高木仁三郎)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11584999169.html
高木仁三郎・渡辺美紀子、食卓にあがった放射能、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-10979121192.html
市民の科学をめざして 高木仁三郎
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12145278270.html
平川秀幸「科学は誰のものか」
科学技術社会論の視点から不確実性の問題と、価値や利害の対立の問題をとりあげている。
というよりも、科学技術に普遍性はないし、価値中立性もないが、あたかもあるかのようにとらえられてきた時点で、すでに科学技術はかつての宗教と同じような立ち位置に入っていたということである。
そのなかではどうてもそうした対立や闘争の調停が必要になり、著者はそれは「科学技術のガバナンス」と呼んでいる。
鬼頭秀一「自然保護を問いなおす」
自然との共生といっても、自然は脅威でもありえ、また、自然破壊は何も現代社会特有の問題ではない。
大方の方向性としては「自然の価値として人間の関与しない「原生自然=ウィルダネス」を想定している」(144ページ)が、人間と自然は常に関係しあっているので、「社会的リンク」という考え方を鬼頭は導入する。
自然と人間との双方向の働きかけは、第一に、物質的な「社会的・経済的リンク」があるが、同時に、第二に、「文化的・宗教的リンク」がある。
こうしたリンクを前提としつつ、全体のバランスがとれることが望ましいと鬼頭は考えている。
松村和則、青木辰司編「有機農業運動の地域的展開」
原発事故と農の復興(小出裕章、菅野正寿他)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11941596682.html
フクシマの農業と向き合う農学研究――農と言える日本人(野中昌法)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11916984225.html
反原発の思想(現代思想、2011.10)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12017350460.html
古川彰、松田素二編「観光と環境の社会学」
「ノスタルジーの対象にされがちな農山村は、都市部と同様に構造的に疲弊している。」(158ページ)
そのなかで「観光」を地域住民たちが「資源」として主体的に活用しようとすることが何よりも現実的な方向性である。
しかしその際に「小さな共同体」もしくは「生活者」であることを無視してはならない。