読んだ本
原発死 増補改訂版
一人息子を奪われた父親の手記
松本直治
潮出版
2011年8月
(初版は1979年7月)
ひとこと感想
著者は戦後、新聞社で働いてきたのだが、原発の安全管理課で働いていた息子が舌がんを発症し早逝、その思い出を綴っている。自分の息子の若すぎる死への憤りは、痛いほどよく分かる。しかもそれを語る文章は、とても美しい。だが、原発問題は情緒では片付かない。
松本直治(MATSUMOTO Naoji, 1912-1995)は、富山生まれのジャーナリスト。東京新聞社、北國新聞社、北日本新聞社で働く。
***
本書には、「無情の風」と題した井伏鱒二の序文がある。
作者の松本直治と井伏とは、第二次世界大戦がはじまる前、互いに大阪の連隊に徴用されて知り合ったという。
つまり、二人は「戦友」であり、継続的に開かれている「マレー会」という会合で、しばしば旧交を温めていた間柄である。
松本は、戦後、富山に疎開し、新聞社で働いてきたのだが、原発の安全管理課で働いていた息子が舌がんを発症し、31歳にして死亡したため、その思い出を記録に残したのが、本書の成り立ちである。
したがって、本書では、原発で働いた一人の人間に焦点があてられつつ、「原発」の意味が問い直されている。
実際の、この著者の息子の「基礎データ」が記されている。
職歴
1968年11月~1969年3月 東海研修所
1969年4月~1972年5月 東海発電所安全管理課
*1ヶ月間だけ敦賀原発に応援
1972年6月~1973年4月 敦賀原発安全管理課
業務内容
放射線管理斑
・放射線汚染強度の測定
・放射能汚染機器の手入れ時の作業員の安全確保
被曝量
1969年度 11.1ミリシーベルト
1970年度 5.7ミリシーベルト
1971年度 1.7ミリシーベルト
1972年度 11.0ミリシーベルト
計 29.5ミリシーベルト
この被曝量について、松本のコメントは「検放射線量や法定許容量より低く、同業種内では中位」(19ページ)とある。
とはいえ、主治医は、彼の被曝の事実を知らずに治療を行った。
死亡後にその事実を知ったとき著者に「因果関係の立証を求められても困るが、そういう事実があれば大いに関係があると考えるのが自然ともいえましょう」(23ページ)と答えた。
一方、今ではとうてい考えられないことであるが、「息子が発病したこと、私は放射線にたっぷりつかっている息子でありながら、少しも疑問を抱かなかった」(51ページ)という。
つまり、ガン発病と被曝との関係について、である。
「疑問」を抱いたのは、姪の医療被曝事故がきっかけとなっている。
病院側が、妊婦であることに気づかずに子供と一緒にレントゲンを撮ったことにより、胎児に影響があり、人工流産させてしまう。
人手不足でなければ、母親ではなく病院の人間が行うべきところである。
読み進めると、話は遡り、息子が就職が決まった頃の回想。
息子は父に対して、原子力がいかにこれからの社会に必要なのかを訴えたり、実際に研修に入り、その実情をいろいろ手紙で伝えはじめる。
「息子そのものには危険があるとは考えられないが、放射線を浴びる下請けの第一線の労働者には文面から察する限りでは、必ずしも安全であるとは言い切れない。」(68ページ)
息子を失った親として、こうした不安な「感情」はわからないではないが、少々、追想的な説明のように読めてしまう。
「必ずしも安全であるとは言い切れない」のは、何も原発の現場だけではない。
もしこのことを真剣に考えるならば、医療機関における放射線の使用においても、同様の見解を呈することになるはずだ。
ただ、そのあと息子の披露宴で、彼の上司がわざわざ原発の必要性と安全性について、長々とスピーチしたことが、父親には腑に落ちなかった、というくだりは、何か悲劇的な印象を受ける。
原発関連にかぎらず、どこでも。披露宴で新郎新婦の会社の上司が、本人たちのことを祝福するのを忘れて、会社のPRにうつつを抜かすことがある。
これは、そういう類のものだろう。
要するに、披露宴という場所の本来もっている意味を考えずに、自分が呼ばれ、会社のために役にたつことをこの上司はしようとしているだけなのだ。
そしてこれは、つまり、「科学的事実」として、原発が安全なのか、従事者の健康を損なわないのか、ということではなく、「言説」として、「原発が安全である」ということを常に強調せざるをえない宿命にある、ということを意味している。
「ともすれば原発をよく理解しないで、あたかも原水爆、放射能、死の灰といったものに直接結びつけている方々が比較的多い」(71ページ)とその上司が語っているのは、原発に関する「適切な」言説生産を行おう(=誘導しよう)という意志が働いている。
しかしこうした戦略をとると、逆に、それを疑うことにもなる。
このあたりは、冷静に記述せねばならない。
また、話は戻るが、息子の発病は、東海原発で3年ほど働いたあと、敦賀に移ってしばらくしてから起こっている。
最初から「がん」とみなされたのではなく、「耳下腺炎」(おたふく風邪)と診断された。
一度退院したものの、健康がすぐれず、二週間後に再び入院する。
症状が改善しないため、転院してはじめて、そこの医者にがんであることを知らされる。
手術自体は、問題なく終わった。
しかし「舌がん」であることは、確かとなった。
「発がんは東海村ですよ。潜伏期間があるから、東海村ですでに発病していたのだろうって、そう先生が仰有っていました」(85ページ)ということであるから、わずか三年間の就労中に悪性腫瘍が増殖したということになる。
しかも、「転移するから五年持つのが20パーセントぐらい」(87ページ)と父親は考えた。
実際に、少したって検査の結果、再びしこりが生まれる。
顎の右側にできたこのしこりは悪性ではなかったが、反対側にも怪しい腫瘍が発見される。
しかし一応、注記しておきたいのだが、息子はこのがん治療にあたって、コバルトを照射する放射線療法を行っている。
この影響がない、とは言い切れない、と私は思うのだが、松本はそうは考えず、ともかく原発での「被曝のせいだ、そうに決まっている」(97ページ)と固執する。
また、本書で気づくことは、ここでは、被曝というと、ラジウムとコバルト、そしてわずか一ヶ所でセシウムとストロンチウムの話題で終わっており、ヨウ素が登場しない。
さらに、もう1点、内容について、よく分からないことがある。
冒頭(19ページ)で4年間に及ぶ被曝線量が約30ミリシーベルトと書いているにもかかわらず、別のところでは、「年間」30~50ミリシーベルトの放射線を浴びていた、と書いている(100ページ)。
後者は、何かの勘違いであろうか。
また、少なくとも「公式」の記録としての被曝量は、健康に影響ができるという確定性をもたないと言われている基準以下であるが、これに対して松本は、次のように述べている。
「1万人に1人でも死に至らしめるようなものは、どんなものでも人間の健康を破壊する毒物と考えるべきだろう。」(122ページ)
もちろん、子を持つ親としてはこうした気持はよく分かるし、こうした姿勢を間違っているとは言わない。
私もこうした「1万人に一人」ということに対して、大事にしなければと思っている。
しかしこれは、ジャーナリストとしては、すこし直情的すぎるように思う。
また、問題はここから「先」にある。
さすがに松本も、このあと、「息子」とは無関係に、ジャーナリストのまなざしとなっている。
松本が言うとおり、もし、現状の「基準」以下であっても、関係性が疑われる場合、その企業は、できるだけ「安全」を確保するべく努めるはずである。
それが「公益」を前提とする企業の「倫理」の「基体」であろう。
しかし、原子力業界では、それをしない。
なぜだろうか。
このことは、とても重要な指摘だ。
また、「因果関係」についても、次のように言えるという。
Aという条件があれば必ずBになる、というのでなくとも、Aという条件がなければBになることはなかった、ということが証明されればよい。
イタイイタイ病などの、これまでの公害訴訟が、こうした因果関係にもとづいている。
なるほど、この点において松本は、息子の死を「原子力公害」の被害者だとみなしているのである。
それならば理解できる。
いや、むしろ、こうした因果関係の重要性を、松本は大きく問うべきだったのではないだろうか。
原発死 増補改訂版
一人息子を奪われた父親の手記
松本直治
潮出版
2011年8月
(初版は1979年7月)
ひとこと感想
著者は戦後、新聞社で働いてきたのだが、原発の安全管理課で働いていた息子が舌がんを発症し早逝、その思い出を綴っている。自分の息子の若すぎる死への憤りは、痛いほどよく分かる。しかもそれを語る文章は、とても美しい。だが、原発問題は情緒では片付かない。
松本直治(MATSUMOTO Naoji, 1912-1995)は、富山生まれのジャーナリスト。東京新聞社、北國新聞社、北日本新聞社で働く。
***
本書には、「無情の風」と題した井伏鱒二の序文がある。
作者の松本直治と井伏とは、第二次世界大戦がはじまる前、互いに大阪の連隊に徴用されて知り合ったという。
つまり、二人は「戦友」であり、継続的に開かれている「マレー会」という会合で、しばしば旧交を温めていた間柄である。
松本は、戦後、富山に疎開し、新聞社で働いてきたのだが、原発の安全管理課で働いていた息子が舌がんを発症し、31歳にして死亡したため、その思い出を記録に残したのが、本書の成り立ちである。
したがって、本書では、原発で働いた一人の人間に焦点があてられつつ、「原発」の意味が問い直されている。
実際の、この著者の息子の「基礎データ」が記されている。
職歴
1968年11月~1969年3月 東海研修所
1969年4月~1972年5月 東海発電所安全管理課
*1ヶ月間だけ敦賀原発に応援
1972年6月~1973年4月 敦賀原発安全管理課
業務内容
放射線管理斑
・放射線汚染強度の測定
・放射能汚染機器の手入れ時の作業員の安全確保
被曝量
1969年度 11.1ミリシーベルト
1970年度 5.7ミリシーベルト
1971年度 1.7ミリシーベルト
1972年度 11.0ミリシーベルト
計 29.5ミリシーベルト
この被曝量について、松本のコメントは「検放射線量や法定許容量より低く、同業種内では中位」(19ページ)とある。
とはいえ、主治医は、彼の被曝の事実を知らずに治療を行った。
死亡後にその事実を知ったとき著者に「因果関係の立証を求められても困るが、そういう事実があれば大いに関係があると考えるのが自然ともいえましょう」(23ページ)と答えた。
一方、今ではとうてい考えられないことであるが、「息子が発病したこと、私は放射線にたっぷりつかっている息子でありながら、少しも疑問を抱かなかった」(51ページ)という。
つまり、ガン発病と被曝との関係について、である。
「疑問」を抱いたのは、姪の医療被曝事故がきっかけとなっている。
病院側が、妊婦であることに気づかずに子供と一緒にレントゲンを撮ったことにより、胎児に影響があり、人工流産させてしまう。
人手不足でなければ、母親ではなく病院の人間が行うべきところである。
読み進めると、話は遡り、息子が就職が決まった頃の回想。
息子は父に対して、原子力がいかにこれからの社会に必要なのかを訴えたり、実際に研修に入り、その実情をいろいろ手紙で伝えはじめる。
「息子そのものには危険があるとは考えられないが、放射線を浴びる下請けの第一線の労働者には文面から察する限りでは、必ずしも安全であるとは言い切れない。」(68ページ)
息子を失った親として、こうした不安な「感情」はわからないではないが、少々、追想的な説明のように読めてしまう。
「必ずしも安全であるとは言い切れない」のは、何も原発の現場だけではない。
もしこのことを真剣に考えるならば、医療機関における放射線の使用においても、同様の見解を呈することになるはずだ。
ただ、そのあと息子の披露宴で、彼の上司がわざわざ原発の必要性と安全性について、長々とスピーチしたことが、父親には腑に落ちなかった、というくだりは、何か悲劇的な印象を受ける。
原発関連にかぎらず、どこでも。披露宴で新郎新婦の会社の上司が、本人たちのことを祝福するのを忘れて、会社のPRにうつつを抜かすことがある。
これは、そういう類のものだろう。
要するに、披露宴という場所の本来もっている意味を考えずに、自分が呼ばれ、会社のために役にたつことをこの上司はしようとしているだけなのだ。
そしてこれは、つまり、「科学的事実」として、原発が安全なのか、従事者の健康を損なわないのか、ということではなく、「言説」として、「原発が安全である」ということを常に強調せざるをえない宿命にある、ということを意味している。
「ともすれば原発をよく理解しないで、あたかも原水爆、放射能、死の灰といったものに直接結びつけている方々が比較的多い」(71ページ)とその上司が語っているのは、原発に関する「適切な」言説生産を行おう(=誘導しよう)という意志が働いている。
しかしこうした戦略をとると、逆に、それを疑うことにもなる。
このあたりは、冷静に記述せねばならない。
また、話は戻るが、息子の発病は、東海原発で3年ほど働いたあと、敦賀に移ってしばらくしてから起こっている。
最初から「がん」とみなされたのではなく、「耳下腺炎」(おたふく風邪)と診断された。
一度退院したものの、健康がすぐれず、二週間後に再び入院する。
症状が改善しないため、転院してはじめて、そこの医者にがんであることを知らされる。
手術自体は、問題なく終わった。
しかし「舌がん」であることは、確かとなった。
「発がんは東海村ですよ。潜伏期間があるから、東海村ですでに発病していたのだろうって、そう先生が仰有っていました」(85ページ)ということであるから、わずか三年間の就労中に悪性腫瘍が増殖したということになる。
しかも、「転移するから五年持つのが20パーセントぐらい」(87ページ)と父親は考えた。
実際に、少したって検査の結果、再びしこりが生まれる。
顎の右側にできたこのしこりは悪性ではなかったが、反対側にも怪しい腫瘍が発見される。
しかし一応、注記しておきたいのだが、息子はこのがん治療にあたって、コバルトを照射する放射線療法を行っている。
この影響がない、とは言い切れない、と私は思うのだが、松本はそうは考えず、ともかく原発での「被曝のせいだ、そうに決まっている」(97ページ)と固執する。
また、本書で気づくことは、ここでは、被曝というと、ラジウムとコバルト、そしてわずか一ヶ所でセシウムとストロンチウムの話題で終わっており、ヨウ素が登場しない。
さらに、もう1点、内容について、よく分からないことがある。
冒頭(19ページ)で4年間に及ぶ被曝線量が約30ミリシーベルトと書いているにもかかわらず、別のところでは、「年間」30~50ミリシーベルトの放射線を浴びていた、と書いている(100ページ)。
後者は、何かの勘違いであろうか。
また、少なくとも「公式」の記録としての被曝量は、健康に影響ができるという確定性をもたないと言われている基準以下であるが、これに対して松本は、次のように述べている。
「1万人に1人でも死に至らしめるようなものは、どんなものでも人間の健康を破壊する毒物と考えるべきだろう。」(122ページ)
もちろん、子を持つ親としてはこうした気持はよく分かるし、こうした姿勢を間違っているとは言わない。
私もこうした「1万人に一人」ということに対して、大事にしなければと思っている。
しかしこれは、ジャーナリストとしては、すこし直情的すぎるように思う。
また、問題はここから「先」にある。
さすがに松本も、このあと、「息子」とは無関係に、ジャーナリストのまなざしとなっている。
松本が言うとおり、もし、現状の「基準」以下であっても、関係性が疑われる場合、その企業は、できるだけ「安全」を確保するべく努めるはずである。
それが「公益」を前提とする企業の「倫理」の「基体」であろう。
しかし、原子力業界では、それをしない。
なぜだろうか。
このことは、とても重要な指摘だ。
また、「因果関係」についても、次のように言えるという。
Aという条件があれば必ずBになる、というのでなくとも、Aという条件がなければBになることはなかった、ということが証明されればよい。
イタイイタイ病などの、これまでの公害訴訟が、こうした因果関係にもとづいている。
なるほど、この点において松本は、息子の死を「原子力公害」の被害者だとみなしているのである。
それならば理解できる。
いや、むしろ、こうした因果関係の重要性を、松本は大きく問うべきだったのではないだろうか。
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