読んだ本
GHQが封印した幻の潜入ルポ ナガサキ昭和20年夏
ジョージ・ウェラー
アンソニー・ウェラー:編
小西紀嗣:訳
毎日新聞社
2007年7月
First Into Nagasaki: The Censored Eyewitness on Post-Atomic Japan and its Prisoners of War
George Weller
Anthony Weller(ed)
2006
ひとこと感想
本書が重要なのは、この記者がナガサキだけでなく収容所にいた捕虜たちの取材も行っており、国内のみならずアジア各地で行われた日本軍のふるまいをも記録している点である。すなわちここには、加害と被害の両面から「ナガサキ」をとらえる視点があり、他の記録とは異なる性格を有している。私たちは、米国が、原爆投下という蛮行を認めないと非難する前に、捕虜たちに蛮行をふるったことを事実として認めるよう求めていると読むべきである。
目次
日本語版への序文 柳田邦男
はじめに アンソニー・ウェラー
第一部 長崎に一番乗りして(1966年 回想)
第二部 長崎発特派員速報(1945年9月6日~9日)
第三部 捕虜を訪ねて(1945年9月10日~20日)
第四部 ふたたび長崎へ(1945年9月20日~25日)
第五部 ウェーク島の二人のロビンソン・クルーソー
第六部 死の航海――地獄の七日間
第七部 ウェラー特派員報告の背景
ジョージ・ウェラーの子息、アンソニーの回想(2005年)
***
ジョージ・ウェラー(George Anthony Weller, 1907-2002)は、海外の民間人(ジャーナリスト)として最初に原爆投下後の長崎に入った人間であるが、その記事は陽の目をみなかった。
しかしその原稿の写しを彼は保管していた。
このあたりの事情については、すでにブログに書いた。
アメリカの中のヒロシマ・上(リフトン他)、を読む
本書は、当時書いた記事を中心にしつつ、ジョージ自身の回顧と、その息子で作家であるアンソニーの解説などが付されたもので、原爆投下から60年後に公刊された。
***
ジョージ・ウェラーはそれ以前は中国におり、フィリピン経由で1945年8月末に日本にやってきた。
8月31日の記事では、原爆についてふれている。まだ「放射線」の影響については理解されていないが、丸山定夫や園井恵子など、「一見健康そうな人々が、広島から遠く離れた場所で時間がたってから死亡」(215ページ)していることを伝えている。
こうした内容は当時の検閲を通過しているのだが、彼の送った原稿を「シカゴ・デイリー・トリビューン」は掲載しなかった。おそらく新聞社がマッカーサーに気を遣って自粛したのではないかと息子のアンソニーは推測している。
1945年9月6日、長崎にたどり着く。
すでにここは「自分がいること自体が禁じられている」(31ページ)場所である。
米軍は、記者たちに各地の捕虜収容所の取材を割り振り、日本軍の蛮行を明らかにしようとしていた。
しかし、それは東日本に集中しており、西日本は厳しく立入を禁じられていた。
なぜか1ヶ所、鹿児島の鹿屋にあった特攻基地の取材の申し入れがあった。
ここは唯一、給油基地として使用されたからだった。
ジョージは、そこから、長崎か広島に行けるのではないかと考え、この取材を引き受ける。
9月4日、鹿屋に飛行機で向かう。
その日は簡単に取材を終え、米人軍曹の協力者を得て、ジョージは作戦を決行することにする。
同行したパイロットが寝たすきに、小舟で川を渡り、高山(こうやま)駅で軍曹と落ち合い、その日の午後4時にようやく出発する「一番列車」に乗り込む。
日本で使える金ももっていないため、三等車を使う。
何度か列車を乗り換えながら、いよいよ長崎に行こうと決める。
彼らに質問をしてくる者がいたとしても「あなたの立場をお考えください」と言えば、誰もそれ以上追及はなったという。
その後、志布志、八代、鳥栖と列車の旅は続く。
夜が明け、しばらくして、肥前山口駅、ここまで出発して18時間。
ここで長崎行きの列車に乗るが、収容所から抜け出したオランダ人3人がジョージと同行することになる。
この奇妙な「共同調査隊」を正当化する手段として、全員の「階級」を偽ることにする。
ジョージは「大佐」を名乗る。
そして長崎に列車はたどり着く。
「自分は長崎にいる。長崎が記録されるのを待っている。そのために私がここにいるのだ」(39ページ)とジョージはそのときの高揚感を回想している。
彼らは日本軍の司令官を訪ね、自分たちが長崎での調査を行うにあたっての便宜をはかること(たとえば車を使うなど)を求め、成功する。
彼の比喩によれば長崎の市街は「炎熱で焼きりんごのようになった街」であった。
しかし「街には痛ましいという雰囲気はない。長崎は死者の街とは形容し得ない。日本人の、生存への飽くなき精神力が漲っているからだ。」(51ページ)
さらに、ジョージが長崎に滞在しているうちに、ティックス・マクラリーをはじめとした多くの記者を乗せた飛行機が長崎に到着する。
ジョージの記事よりも先に、彼らの記事が出回ることになる。
つまりこの時点ですでにジョージは「スクープ」を逃したのだ。
しかし「スクープ」でなくとも、ジョン・ハーシーのようなルポを残すべきではないか、と彼は考え、そのまま長崎にとどまる。
わずか数時間だけの「物見遊山」的な滞在では見えない「現実」をとらえようとしたのだ。
その結果、「壊滅は徹底的であり、原子爆弾が逃すものは何もない、という私の固定観念が絶えず修正されていく」(46-47ページ)という経験をする。
しかし一方では、爆心からわずか180メートルのところにあった防空壕にいた人々は死者がいなかったというのも事実で彼は混乱する。
しかし一度ここで、ジョージは、西日本の各地にある捕虜収容所がまだ解放されていないことを知り、それから1週間訪ねまわることにする。
大牟田の第17、第25、飯塚の第7、第23捕虜収容所にいた400名ほどから、どれだけひどい仕打ちを受けたのか、と原爆に対する考え、を聞いている。
「バターン、コレヒドールのあと、日本人の下での3年間の収容所生活以上につらいことが将来起こるなど想像もつかない」(139ページ)
私たちはおそらく、こうした「蛮行」の記録を読みたがらないであろうし、読んでも、大半は「捏造」や「虚偽」ではないのかと疑ってかかるかもしれない。
その感情は、おそらく米国でヒロシマやナガサキの被害をつきつけられたときの彼らのそれと酷似したものではないだろうか。
自分が被害者であるときの思いは、自分が加害者であるときの思いからふりかえるべきでものなのかもしれない。
さて、ジョージはその後、9月20日には、もう一度長崎に戻る。
海軍の医師たちが非公式に放射線の影響の調査を行ったと記されている。
その結果は、すでに土壌に放射能は存在しないし、晩発性の患者も激減している、というものだった。
「原子爆弾の放射線が致死的であるのではなく、上空を飛ぶアメリカ機がはっきりと見えているのに、市民が出されていた警報を無視して防空壕に入らなかったのが原因と言える。」(133ページ)
このように、ジョージは、基本的には米国側の「観点」から原爆をみているようである。
決して同情的ではない。
このあと、ジョージは怪我をし、そのために長崎から沖縄、サイパン、硫黄島、そしてグアムへと船で向かう。10月16日、グアムに到着。
その間に「死の航海」という論考を書きあげている。
「この航海は、200回余り行われた日本への捕虜輸送の中で最悪の結果をもたらした航海であった。」(163ページ)
「日本人のことを全て許すとしても、マニラから日本までずっと水をくれなかったことについては許しようがない。餓死した者、窒息死した者、衛兵に撃たれた者、日射病で死んだ者、寒さで死んだ者。こんなものはすべて意図的であり、避けることができた。だがそれにも増して、全員がのどを渇かしていた。常にのどが渇いた状態にさせられていたのだ。」(200ページ)
出発したときに1600人いた捕虜の人たちは、日本にたどり着いた時点で435人になり、その後161人が死亡、結局274人だけが生き延びたという。
「我々生き延びた約300人も悪魔でした。悪魔でなければ生き延びられなかったのです。」(211ページ)
***
さて、ジョージの書いた記事の第1報(1945年9月6日午後11時)はどういうものであったろうか。
それは、日本軍の司令部にいた中尉の証言を中心にしたものだった。
彼は「B29」2機が到来したのを双眼鏡で見ていた。
先行の飛行機はパラシュート3個を落としたという。
長方形の箱のようなものが傘にぶら下がっており、降下するのを追いかけていたとき、「突然炎が爆発した。ガスの光のような黄色をした炎が地上に向って円錐形で落ち始め、同時にそれが、すそを広げたスカートのように横に広がっていった。」(52ページ)
そして「炎のスカートが地上をひとなめすると、突如、黒い粉塵の積雲が上空に向けて爆発的に盛り上がった。」(52ページ)
***
第3報(9月8日午前1時)にはこうある。
「原子爆弾は無差別攻撃用の武器に分類できるが、長崎での使用状況は選択的で適正であり、このような巨大の武力のものとしてはきわめて慈悲深いものと言える。」(53ページ)
ジョージはこの時点ではまだ放射能のことを充分に理解していない。
「長崎では、その閃光の規模の大きさと与える打撃の大きさ以外に、原子爆弾が他の爆弾と異なることを説明できる人はまだ誰もいない。」(54-55ページ)
この考えが変わったのは、第6報からである。
「原子の分裂が人間の肉や血や骨に与える影響については、長崎の中心街にある二つの病院でなければ見ることができない。」(59ページ)
***
「X線の専門家たちから、放射線が血液と内臓にもたらす強烈な影響について説明を聞いた病院のことは忘れられない。白衣を着た小柄な人たちだったが、自分たちではなく、誰か他人に起きたことであるかのように冷静な分析をしていた。」(32ページ)
この「専門家」とは、中島良貞(NAKASHIMA Yoshisada, 1887-1971)である。当時九州大医学部放射線科の教授だった中島は郷里が長崎にあることもあり、調査団の一人として9月9日に長崎に来た。
中島は放射線について詳しいため、ジョージらが被爆地に入るにあたって、「あなたの履いているような底の厚い靴を履いていれば大丈夫です」(44ページ)と答えたという。
それゆえ「内科医たちが「被爆地に帰って来た人たちは、致死量の放射線を汚染された土壌から受けた」として日本政府に被爆地の封鎖を求めた」(63ページ)のに対しては中島は否定的な意見だった。
他、2名の内科医はコガ・ヒコデロウとハヤシダ・ウラジである(両者については詳細不明)。
また、長崎港にある第14収容所の連合国側の指揮官だったオランダ軍医ヤコブ・ウィンク中尉は、放射線の影響による死傷を「X病」と呼んでいたようである。
「爆弾投下後1カ月たった現在、こうした後発的症状で死ぬ人が、1日約10人いるという。」(61ページ)
また、「広島で助かった医者」という人物も登場する。彼は、血小板が死滅するという症状を発見する。
***
ヒロシマの取材記事を最初に書いたバーチェットとジョージは、1978年に会い、話を交わした。
***
アンソニーの書いた文章には、捕虜たちの不当な扱いや過酷な環境への強い非難が表明されており、その問題と、従軍慰安婦、そして、アジア人奴隷労働者たちへの扱いとが、「地獄のような船上で苦しみ死んでいった」という意味で連続している。
関係文書は大半が破棄されているため、「証拠」が少なくなっており、実証が困難になっている。
これは、そのような「証拠」はない、と主張する人たちへの反論である。
・・・こうした「問いかけ」を前にして、私たちは、いかなる思考をすべきであろうか。
私たちは、少なくとも、フクシマを経験することによって、目の前の「原発」や「放射線」が私たちの「生活」や「未来」を脅かすのを見てきた。
そしてそれが、単純な「科学技術」の問題ではなく、きわめて「政治」的な問題であることを理解してきた。
さらにまた、フクシマが単に「原子力の平和利用」の破綻というだけでなく、歴史的にみて、「原爆」や「米国」と深く結びついていたことも、おおよそ把握してきた。
しかし本書は、そのさらなる「もう一歩」を要求している。
一般的に「原爆」は「真珠湾」への報復という心理的側面をもっていると言われているが、本書を読むと、それだけではないことに気づかされる。
「戦争」を終わらせた原爆、その「被害者」であることからはじまった「戦後」の前に、「戦争」を引き起こした者としての「償い」、すなわち「加害者」として行ってきたことへの「償い」が、まず要請されている。
息子は言う。
「父はまた、原子爆弾を自分たちだけの聖堂に安置し、一見、世界平和と非核化を願っているようで、内実はそれをアメリカが最初に原子爆弾を使用したことへの非難に変えている日本人のプロパガンダを軽蔑していた。」(266ページ)
考えさせられる言葉である。
私たちは、もちろん近しい「犠牲者」のことを思うと、なかなか冷静にはなれない。
しかし、こうした「他者」、当時敵対していた「他者」の言葉にこそ、真剣に耳を傾けねばならないのではなかろうか。
GHQが封印した幻の潜入ルポ ナガサキ昭和20年夏
ジョージ・ウェラー
アンソニー・ウェラー:編
小西紀嗣:訳
毎日新聞社
2007年7月
First Into Nagasaki: The Censored Eyewitness on Post-Atomic Japan and its Prisoners of War
George Weller
Anthony Weller(ed)
2006
ひとこと感想
本書が重要なのは、この記者がナガサキだけでなく収容所にいた捕虜たちの取材も行っており、国内のみならずアジア各地で行われた日本軍のふるまいをも記録している点である。すなわちここには、加害と被害の両面から「ナガサキ」をとらえる視点があり、他の記録とは異なる性格を有している。私たちは、米国が、原爆投下という蛮行を認めないと非難する前に、捕虜たちに蛮行をふるったことを事実として認めるよう求めていると読むべきである。
目次
日本語版への序文 柳田邦男
はじめに アンソニー・ウェラー
第一部 長崎に一番乗りして(1966年 回想)
第二部 長崎発特派員速報(1945年9月6日~9日)
第三部 捕虜を訪ねて(1945年9月10日~20日)
第四部 ふたたび長崎へ(1945年9月20日~25日)
第五部 ウェーク島の二人のロビンソン・クルーソー
第六部 死の航海――地獄の七日間
第七部 ウェラー特派員報告の背景
ジョージ・ウェラーの子息、アンソニーの回想(2005年)
***
ジョージ・ウェラー(George Anthony Weller, 1907-2002)は、海外の民間人(ジャーナリスト)として最初に原爆投下後の長崎に入った人間であるが、その記事は陽の目をみなかった。
しかしその原稿の写しを彼は保管していた。
このあたりの事情については、すでにブログに書いた。
アメリカの中のヒロシマ・上(リフトン他)、を読む
本書は、当時書いた記事を中心にしつつ、ジョージ自身の回顧と、その息子で作家であるアンソニーの解説などが付されたもので、原爆投下から60年後に公刊された。
***
ジョージ・ウェラーはそれ以前は中国におり、フィリピン経由で1945年8月末に日本にやってきた。
8月31日の記事では、原爆についてふれている。まだ「放射線」の影響については理解されていないが、丸山定夫や園井恵子など、「一見健康そうな人々が、広島から遠く離れた場所で時間がたってから死亡」(215ページ)していることを伝えている。
こうした内容は当時の検閲を通過しているのだが、彼の送った原稿を「シカゴ・デイリー・トリビューン」は掲載しなかった。おそらく新聞社がマッカーサーに気を遣って自粛したのではないかと息子のアンソニーは推測している。
1945年9月6日、長崎にたどり着く。
すでにここは「自分がいること自体が禁じられている」(31ページ)場所である。
米軍は、記者たちに各地の捕虜収容所の取材を割り振り、日本軍の蛮行を明らかにしようとしていた。
しかし、それは東日本に集中しており、西日本は厳しく立入を禁じられていた。
なぜか1ヶ所、鹿児島の鹿屋にあった特攻基地の取材の申し入れがあった。
ここは唯一、給油基地として使用されたからだった。
ジョージは、そこから、長崎か広島に行けるのではないかと考え、この取材を引き受ける。
9月4日、鹿屋に飛行機で向かう。
その日は簡単に取材を終え、米人軍曹の協力者を得て、ジョージは作戦を決行することにする。
同行したパイロットが寝たすきに、小舟で川を渡り、高山(こうやま)駅で軍曹と落ち合い、その日の午後4時にようやく出発する「一番列車」に乗り込む。
日本で使える金ももっていないため、三等車を使う。
何度か列車を乗り換えながら、いよいよ長崎に行こうと決める。
彼らに質問をしてくる者がいたとしても「あなたの立場をお考えください」と言えば、誰もそれ以上追及はなったという。
その後、志布志、八代、鳥栖と列車の旅は続く。
夜が明け、しばらくして、肥前山口駅、ここまで出発して18時間。
ここで長崎行きの列車に乗るが、収容所から抜け出したオランダ人3人がジョージと同行することになる。
この奇妙な「共同調査隊」を正当化する手段として、全員の「階級」を偽ることにする。
ジョージは「大佐」を名乗る。
そして長崎に列車はたどり着く。
「自分は長崎にいる。長崎が記録されるのを待っている。そのために私がここにいるのだ」(39ページ)とジョージはそのときの高揚感を回想している。
彼らは日本軍の司令官を訪ね、自分たちが長崎での調査を行うにあたっての便宜をはかること(たとえば車を使うなど)を求め、成功する。
彼の比喩によれば長崎の市街は「炎熱で焼きりんごのようになった街」であった。
しかし「街には痛ましいという雰囲気はない。長崎は死者の街とは形容し得ない。日本人の、生存への飽くなき精神力が漲っているからだ。」(51ページ)
さらに、ジョージが長崎に滞在しているうちに、ティックス・マクラリーをはじめとした多くの記者を乗せた飛行機が長崎に到着する。
ジョージの記事よりも先に、彼らの記事が出回ることになる。
つまりこの時点ですでにジョージは「スクープ」を逃したのだ。
しかし「スクープ」でなくとも、ジョン・ハーシーのようなルポを残すべきではないか、と彼は考え、そのまま長崎にとどまる。
わずか数時間だけの「物見遊山」的な滞在では見えない「現実」をとらえようとしたのだ。
その結果、「壊滅は徹底的であり、原子爆弾が逃すものは何もない、という私の固定観念が絶えず修正されていく」(46-47ページ)という経験をする。
しかし一方では、爆心からわずか180メートルのところにあった防空壕にいた人々は死者がいなかったというのも事実で彼は混乱する。
しかし一度ここで、ジョージは、西日本の各地にある捕虜収容所がまだ解放されていないことを知り、それから1週間訪ねまわることにする。
大牟田の第17、第25、飯塚の第7、第23捕虜収容所にいた400名ほどから、どれだけひどい仕打ちを受けたのか、と原爆に対する考え、を聞いている。
「バターン、コレヒドールのあと、日本人の下での3年間の収容所生活以上につらいことが将来起こるなど想像もつかない」(139ページ)
私たちはおそらく、こうした「蛮行」の記録を読みたがらないであろうし、読んでも、大半は「捏造」や「虚偽」ではないのかと疑ってかかるかもしれない。
その感情は、おそらく米国でヒロシマやナガサキの被害をつきつけられたときの彼らのそれと酷似したものではないだろうか。
自分が被害者であるときの思いは、自分が加害者であるときの思いからふりかえるべきでものなのかもしれない。
さて、ジョージはその後、9月20日には、もう一度長崎に戻る。
海軍の医師たちが非公式に放射線の影響の調査を行ったと記されている。
その結果は、すでに土壌に放射能は存在しないし、晩発性の患者も激減している、というものだった。
「原子爆弾の放射線が致死的であるのではなく、上空を飛ぶアメリカ機がはっきりと見えているのに、市民が出されていた警報を無視して防空壕に入らなかったのが原因と言える。」(133ページ)
このように、ジョージは、基本的には米国側の「観点」から原爆をみているようである。
決して同情的ではない。
このあと、ジョージは怪我をし、そのために長崎から沖縄、サイパン、硫黄島、そしてグアムへと船で向かう。10月16日、グアムに到着。
その間に「死の航海」という論考を書きあげている。
「この航海は、200回余り行われた日本への捕虜輸送の中で最悪の結果をもたらした航海であった。」(163ページ)
「日本人のことを全て許すとしても、マニラから日本までずっと水をくれなかったことについては許しようがない。餓死した者、窒息死した者、衛兵に撃たれた者、日射病で死んだ者、寒さで死んだ者。こんなものはすべて意図的であり、避けることができた。だがそれにも増して、全員がのどを渇かしていた。常にのどが渇いた状態にさせられていたのだ。」(200ページ)
出発したときに1600人いた捕虜の人たちは、日本にたどり着いた時点で435人になり、その後161人が死亡、結局274人だけが生き延びたという。
「我々生き延びた約300人も悪魔でした。悪魔でなければ生き延びられなかったのです。」(211ページ)
***
さて、ジョージの書いた記事の第1報(1945年9月6日午後11時)はどういうものであったろうか。
それは、日本軍の司令部にいた中尉の証言を中心にしたものだった。
彼は「B29」2機が到来したのを双眼鏡で見ていた。
先行の飛行機はパラシュート3個を落としたという。
長方形の箱のようなものが傘にぶら下がっており、降下するのを追いかけていたとき、「突然炎が爆発した。ガスの光のような黄色をした炎が地上に向って円錐形で落ち始め、同時にそれが、すそを広げたスカートのように横に広がっていった。」(52ページ)
そして「炎のスカートが地上をひとなめすると、突如、黒い粉塵の積雲が上空に向けて爆発的に盛り上がった。」(52ページ)
***
第3報(9月8日午前1時)にはこうある。
「原子爆弾は無差別攻撃用の武器に分類できるが、長崎での使用状況は選択的で適正であり、このような巨大の武力のものとしてはきわめて慈悲深いものと言える。」(53ページ)
ジョージはこの時点ではまだ放射能のことを充分に理解していない。
「長崎では、その閃光の規模の大きさと与える打撃の大きさ以外に、原子爆弾が他の爆弾と異なることを説明できる人はまだ誰もいない。」(54-55ページ)
この考えが変わったのは、第6報からである。
「原子の分裂が人間の肉や血や骨に与える影響については、長崎の中心街にある二つの病院でなければ見ることができない。」(59ページ)
***
「X線の専門家たちから、放射線が血液と内臓にもたらす強烈な影響について説明を聞いた病院のことは忘れられない。白衣を着た小柄な人たちだったが、自分たちではなく、誰か他人に起きたことであるかのように冷静な分析をしていた。」(32ページ)
この「専門家」とは、中島良貞(NAKASHIMA Yoshisada, 1887-1971)である。当時九州大医学部放射線科の教授だった中島は郷里が長崎にあることもあり、調査団の一人として9月9日に長崎に来た。
中島は放射線について詳しいため、ジョージらが被爆地に入るにあたって、「あなたの履いているような底の厚い靴を履いていれば大丈夫です」(44ページ)と答えたという。
それゆえ「内科医たちが「被爆地に帰って来た人たちは、致死量の放射線を汚染された土壌から受けた」として日本政府に被爆地の封鎖を求めた」(63ページ)のに対しては中島は否定的な意見だった。
他、2名の内科医はコガ・ヒコデロウとハヤシダ・ウラジである(両者については詳細不明)。
また、長崎港にある第14収容所の連合国側の指揮官だったオランダ軍医ヤコブ・ウィンク中尉は、放射線の影響による死傷を「X病」と呼んでいたようである。
「爆弾投下後1カ月たった現在、こうした後発的症状で死ぬ人が、1日約10人いるという。」(61ページ)
また、「広島で助かった医者」という人物も登場する。彼は、血小板が死滅するという症状を発見する。
***
ヒロシマの取材記事を最初に書いたバーチェットとジョージは、1978年に会い、話を交わした。
***
アンソニーの書いた文章には、捕虜たちの不当な扱いや過酷な環境への強い非難が表明されており、その問題と、従軍慰安婦、そして、アジア人奴隷労働者たちへの扱いとが、「地獄のような船上で苦しみ死んでいった」という意味で連続している。
関係文書は大半が破棄されているため、「証拠」が少なくなっており、実証が困難になっている。
これは、そのような「証拠」はない、と主張する人たちへの反論である。
・・・こうした「問いかけ」を前にして、私たちは、いかなる思考をすべきであろうか。
私たちは、少なくとも、フクシマを経験することによって、目の前の「原発」や「放射線」が私たちの「生活」や「未来」を脅かすのを見てきた。
そしてそれが、単純な「科学技術」の問題ではなく、きわめて「政治」的な問題であることを理解してきた。
さらにまた、フクシマが単に「原子力の平和利用」の破綻というだけでなく、歴史的にみて、「原爆」や「米国」と深く結びついていたことも、おおよそ把握してきた。
しかし本書は、そのさらなる「もう一歩」を要求している。
一般的に「原爆」は「真珠湾」への報復という心理的側面をもっていると言われているが、本書を読むと、それだけではないことに気づかされる。
「戦争」を終わらせた原爆、その「被害者」であることからはじまった「戦後」の前に、「戦争」を引き起こした者としての「償い」、すなわち「加害者」として行ってきたことへの「償い」が、まず要請されている。
息子は言う。
「父はまた、原子爆弾を自分たちだけの聖堂に安置し、一見、世界平和と非核化を願っているようで、内実はそれをアメリカが最初に原子爆弾を使用したことへの非難に変えている日本人のプロパガンダを軽蔑していた。」(266ページ)
考えさせられる言葉である。
私たちは、もちろん近しい「犠牲者」のことを思うと、なかなか冷静にはなれない。
しかし、こうした「他者」、当時敵対していた「他者」の言葉にこそ、真剣に耳を傾けねばならないのではなかろうか。
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