読んだ本
空白の天気図
柳田邦男
新潮社
1975年9月

ひとこと感想
本書を読むと、原爆投下のあとの調査において気象台の関係者が、実はさまざまな貢献を行っていることがよく分かる。常に「天気」という非実体的なものを扱っているせいなのか、原爆の影響を確かめる調査の方法論の決定などがきわめて明解なのに、とても驚いた。

***

1945年8月6日、広島に原爆が落とされた。

そしてそれからおよそ1カ月後、9月17日、今度は枕崎台風が、広島を襲った。

本書はこの「9.17」に焦点をあてたノンフィクション「小説」である。

それゆえ、全体的に気象台の関係者の言動が中心となっているが、ここでは、ただ二つのことのみ、書きとどめておくことにする。

1)原爆被害のあとの台風の影響はどのようなものだったか

2)広島に調査に入った京大の人びとの消息

***

広島の気象台は、瀬戸内海寄りにある。

爆心地からみると、3.5キロ以上離れている。

1945年8月6日、中央気象台に「広島地方気象台からの気象電報が一日中届かないという事態が起こった。」(29ページ)

藤原咲平は、8月7日、全国の管区気象台長会議のあとに小日山運輸通信大臣より広島が原子爆弾を受けたという情報を得た。

もちろん大本営や新聞、ラジオはまだ「新型爆弾」としか伝えていなかったときのことである。

そして少し月日は流れ、9月17日、後に枕崎台風と呼ばれる大きな台風が九州、中国から一度日本海側に出て、さらに奥羽を横断した。

このときの被害は、九州よりも、広島市に集中していた。

 広島県の死傷行方不明 3,066名
   内訳 死者・行方不明者 2,012名
       負傷者 1,054名

「台風が広島を通過する頃には、勢力は上陸時よりかなり弱まっていた筈である。それにもかかわらず広島県下で最も大きな被害が出たということは、何を意味するのだろうか。」(40ページ)

台風が去ったあと、藤咲からの指示として、原爆災害と台風災害と、両方の調査命令が出る。

そこで、まず、台風災害をまとめ、その後、原爆災害の調査を行った。

「調査」と言っても、数値やデータが残されているわけではないので、多くの体験者に会って聞きとりをした。

その内容を地図にプロットした。

彼らの調査の主眼は、原爆と気象、である。

それゆえに、たとえば、「黒い雨」の実態などが、特に該当した。

また、爆心に関する情報は、他の研究者もそうであるが、最重要事項であった。

調査項目は、具体的には、以下のようなものであった。

・爆発当時の景況
 爆発の瞬間の火の玉
 キノコ雲の発生
 積乱雲の発達
・爆心の決定
・爆心地を中心に周辺の風がどう変化したか
・爆発後の降雨現象
 降雨域と降雨の強度
 時間経過に伴う雨域の移動
 黒い雨となった原因と黒い雨の性質
・飛撒降下物の範囲と内容
・爆風の強さと破壊現象
  爆心からの距離による破壊状況の変化
・火傷と火災
  熱線による火傷被害の範囲
  建物への自然着火状況
  延焼、火災の盛衰
  焼失地域

さて、この調査の過程で、大野陸軍病院に赴く。

爆心からは20キロ離れている。

ここには100名ほどの原爆被害にあった患者がいた。

また、病院関係者も100名ほど、そしてさらに、京大から原爆の影響に関する調査に来ていた人びと10人もそこにいた。

京大原爆災害綜合研究調査班
 理学部教授 荒勝文策
 医学部教授 杉山繁樹 

話は遡るが、京大の第一次調査団は以下

荒勝文策 教授
木村毅一 助教授
清水栄 講師
花谷一 大学院生

上田隆三 技術大尉*
石割隆太郎 技術中尉*
池野 技術中尉**
(*は、海軍航空技術、**京都師団(陸軍大6師団)兵器部から荒勝研に派遣)

杉山繁輝 教授 (以下は、医学部病理学教室)
島本光顕 講師
木村雅 助手

8月9日夜に京都駅を出発し、8月10日正午に広島駅に到着

駅北東の東練兵場の土を採取

比治山裏の焼け残った兵器補給廠で会議、仁科や陸海軍の専門家と合流

会議後、市内をまわり、人のふみつけていない場所を探し、10数か所から、放射能測定のための土を採集

夜行列車で京都に戻る

11日正午に京都大学に着く

ガイガーミューラー計数管で測定すると、爆心地に近い西練兵場の土が、平常の土の4倍のベータ線を出していたが、東練兵場等爆心地から離れたところでは、異常値は出なかった。

仁科が未使用のレントゲンフィルムの感光から早急に「原子爆弾」」と判定したのとは異なり、荒勝は「ある種の原子爆弾である可能性は極めて濃厚」(191ページ)というような、かなり慎重な表現を用いた。

また、8月12日には、清水講師を隊長とする9名を第二次調査隊を派遣した。

彼らは、13日、14日に、さまざまな資料を採集した。

・鉄板
・鉄磁石
・セメント
・アルミ板
・馬骨
・接着硫黄

この時点まで、「米軍は原子爆弾に見せかけて放射性物質をばらまいたのではないか」という推測が一部でなされていたが、この調査によって確実に爆発に伴って中性子が放出されたと断定した。

一次調査のおり、医学部チームは広島陸軍病院宇品分院に立ち寄り、患者をみ、そのあと、広島湾内の似ノ島に行き、8月10日から12にちにかけて三体の被爆者の遺体を解剖する。

1945年9月18日、つまり約1カ月後に大阪朝日新聞に杉山繁輝による報告が掲載される。

その内容

・「火傷が治療した場合においても傷痕から癌とか腫瘍とかの悪性変化を起こすかもしれず、今後大いに警戒を要する」(193ページ)

・「リンパ系も含めた全血液製造器官が侵された汎血液瘘ともよぶべき重大な変化が起こっている」(194ページ)

8月27日には、杉山のもとに、中国軍管区司令部の井街軍医少尉がやってきて、司令部軍医部長の駒田少将の依頼で、京大に協力要請がある。

8月28日 研究調査班の派遣が決まる

8月31日 調査班の編成がまとまる。40名以上。

9月1日 午後 杉山と島本からレクチャー 「中性子放射能による生物学的影響について」と「8月10日広島における被爆者の剖検所見について」

同 夜 順次広島へ出発

第1班 内科菊池教室
       大久保忠継 講師
     内科真下教室
       清水三郎 講師
     病理学杉山教室
       島谷きよ子 女医
    計14名

さて、運命はここで大きく変わる。

彼らが到着したとき、広島第一陸軍病院宇品分院に宿泊予定だったのだが、東大医学分の調査班が先に着き、入りきれなくなる。

最終的に、京大班は、9月3日に大野陸軍病院の担当となり、その日のうちに移動をする。

9月4日 菊池、杉山、舟岡、島本ら12名が到着(第一班ののこり?)

9月5日 重症患者の回診を開始

9月6日 被爆者の血液を調べはじめる
      外来の受付開始

9月10日 第二班到着 大久保ほか8名 
       人員が増えたので、市内の牛田診療所に10名のチームを出す
       佐々木貞二 専門部助教授ほか10名

9月12日 文部省学術研究会議が、原子爆弾調査研究特別委員会を発足
      荒勝と菊池がメンバーに

9月15日 第三次調査隊(荒勝研)
       木村毅一助教授を隊長、計6名

9月16日 大野陸軍病院に到着

9月17日 枕崎台風、山津波

「建物はあっという間に崩壊し、全員山津波の濁流に呑みこまれてしまった。」(202ページ)

助かった人
 木村毅一
 清水三郎講師 医学部
 西川喜良、高井宗三 (物理班、学生)
 木村雅
 森彰子、松本繁子
 那須貞二、中井武 助手
 安西助手

亡くなった人
 医学部8名、理学部3名

物理班
 掘重太郎(不明)
 村尾誠
 花谷
理学部
 島本講師(不明)
 原祝之
 平田耕造(学生)
 西山助手(下敷きになり死亡)
 島谷女医(下敷きになり死亡)
 真下教授(遺体で発見)
 大久保講師(後に遺体で発見)
 杉山教授(怪我が悪化し死亡)

つまり、京大の調査班は、何も調査ができず、遭難してしまったのだった。

***

フクシマとは順番は逆であるが、広島でも、原爆被害とともに、台風災害が重なったということは、忘れないでおきたい。

***

元に戻って、気象台による原爆災害調査のほうである。

・爆心地
 原爆ドームのすぐ南の墓地付近

・爆心の高度
 地上600メートル前後

・爆風圧
  風速700メートル前後

・黒い雨
  強い放射能を含んでいた
  爆心地付近では原爆炸裂後20分後くらいに豪雨
  1時間後には広範囲で雨が降り出す
  市の南部から東部では降らない
  西~北は市外に及ぶ(長径19キロ、短径10キロに及ぶ)

・熱旋風(竜巻)
  川沿いで発生
  関東大震災のときに発生したのと同じ
  鉄板やドラム缶等が舞い飛んだ

宇田道隆ら
日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編
「原子爆弾災害報告集」(1953)

菅原芳生
北勲
山根正演
中根清之
西川宗隆


これは一度1947年11月に市内の印刷所で500部ガリ版刷りされる。

ところがMPがそれをかぎつけ没収される。

北は100部だけ隠していたという。

 



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