既成事実という言葉がある。なし崩しという言葉がある。樫本喜一編による、坂田昌一「原子力をめぐる科学者の社会的責任」(岩波書店、2011年10月) を読むと、国内における原発導入の歴史は、いわば、この二つによって特徴づけられていたことに、あらためて思い知らされる。

昨日に引き続き、坂田昌一の発言を通して、戦後における物理学者の「核」に対するとらえ方を見直してみたい。

戦後における坂田の当初の思 いは、なによりも、核に関する研究には未来がある、ということだった。少なくとも、原爆被害に対して、これか危険すぎるので封印しようとは思わなったはず である。むしろ、正直に言えば、その破壊力のすさまじさに、核エネルギーにはかりしれない可能性がある、と胸躍ったことだろう。

しかし冷静な坂田は、そういった知的好奇心のままにこの研究に没頭することもまた、きわめて危険であるということを理解していた。そして、この研究は、国 や政府や企業の言いなりになることなく、研究者が学問として自主的かつ自由に行うべきものであると考えていた。とりわけ、戦争や軍事的目的のための研究開 発に関与してはならない、という強い思いを抱いていた。

その悪しき例が原爆であり、二度とそういったことに研究者が加担しないよう、注意深く動向を追いかけていた。

研究者の自主性、情報の公開性、そして民主的な手続き、を原則としてはじめて、核に関する研究は行いうるとした、いわゆる「三原則」は、こうした思いがこめられ、武谷とともに坂田が世に問うたものである。

今 では完全に形骸化してしまっているが、当時においては政府と対等に近い関係を持っていた学問における権威組織、日本学術会議があった。坂田はこのなかで、 責任ある立場で活動しており、少なくとも発足当初は、研究者が自主的に自らの研究方針や理念が討議されていた。三原則も、ここで打ち出されたものである。

しかし、戦後のわずかな期間に、核に対する坂田のような慎重な態度と三原則は、米国の意向とそれに従う政治家ならびに実業家(マスコミ)、研究者の手によって、もろくも突き崩されてゆく。

この間、二つの大きな波が押し寄せた。一つめは、1954年、原子力予算が国会を通ったことであり、二つめは、1958年、政府が英国と米国とのあいだで原子力動力協定に調印したことである。

いずれに対しても坂田は、原子力研究の推進自体を否定していたわけではなかった。その進め方がいつも問題であった。

たとえば、1949年には、日本学術会議第二回において仁科芳雄と荒勝文策が提案した、「世界の平和のため原子力の国際管理の実現を要望する」という声明が第四回総会で議決された。当時の物理学者たちの願いは、純粋に核の研究を行うことであり、そのためには、国による占有や軍事的利用などをなくさねばならないと考え、国家の上位機関による管理を期待していた。

だが、この内容は、ほとんど内外に影響を与えることはなかった。すでに米ソを中心とした国家ならびにその同盟国においてきわめて重要なものという認識があったからだ。

しかも、日本は敗戦により、連合軍の統治下に置かれ、当然のことながら、物理学や核の研究に対しても何らかの規制があるもと考えられていた。実際にGHQは 戦中に使用していたサイクロトロンの破棄を研究者たちに命令している。もちろん研究費も施設も装置も、何もかもが脆弱な状態にあった。

これが、講和条約発効を転機にして、大きく動きはじめる。基本的に原子力研究に対して否定的であると思われていたが、実際には「核兵器」開発への危惧が中心であり、物理学者たちは「平和的利用の核」の研究が可能であることを理解しはじめる。

坂 田は1952年に「日本にも原子炉を」という文章を書いているが、ここでは「一台の原子炉さえもたぬ国に科学や技術があるといえるであろうか」(9ペー ジ)と述べられている。GHQ統治下から独立するタイミングで、多くの物理学者が望んでいたことを、ここでは代弁していることだろう。「原子力の平和的研 究を開始するのに反対である人はおそらく一人もいないであろう。」(16ページ、「原子力問題と取り組む」1952年)と、当時の雰囲気を語っている。

こ のように、第一に強調せねばならないのは、湯川、朝永両氏もそうであるが、当時の物理学者たちは、核エネルギーのすさまじい力を知っていながら、いや、 知っていたからこそ、戦争や核兵器に嫌悪する一方で、原子炉の平和的利用には、強く魅惑されていたということである。言い方を変えれば、軍事的利用と平和 的利用といった区分をすることで、自分たちのしたい研究は可能であると考えたということである。

それにしても、核エネルギーの平和的利用について、彼らは、本当に自分たちでコントロールできると確信していたのだろうか。どこかで、研究のために原子炉をもつこと、そして、研究開発を推進すること、その魅力が優先されていたのではないだろうか。

先述したように、もちろん彼らは無条件に原子力研究を進めようとしたわけではない。その一つのあらわれが、三原則の提示であった。坂田はその意気込みを、たとえば次のような言葉にしている。

「原子力が何たるかを本当に理解している人間は、三原則を基盤としないかぎり原子力研究はけっして人類に幸福をもたらしえないものであることを熟知している。」(50ページ、「三原則と濃縮ウラニウム」1955年)

これはすでに予算が通ってしまった原子力研究に対する一種の警告でもあった。この三原則をふまえない科学者たちには、容赦のない非難を浴びせた。

彼らのしていることは「一歩誤れば、学問の独立を自ら放棄して政治の奴隷となし、学問の魂である自由を代償として研究費を獲得せんとする科学者の恥ずべき自殺行為となる危険をはらんでいる」(17ページ、「原子力問題と取組む」
  
「新しいエネルギー資源の開発などという甘言にだまされ、人類の破滅の深淵に導く悪魔に手を貸してはならない」(51ページ、同)

この言葉を坂田は本気で言っていたわけであるが、この真意は、当時において一部の学者をのぞいて、それほどはっきりと伝わったようには思えない。ましてや 一般人には、ほとんど伝わっていなかった。むしろ原子力は、「平和利用」というキャッチフレーズとともに、明るい未来へ希望を託されることになる。

坂 田らは、この三原則にすべての思いを集約させ、この旗印のもとで、核の研究が暴走しないように警戒していたわけであるが、事態は、まったく甘くはなかっ た。1955年、米政府が日本への濃縮ウラニウム提供を申し入れてきたのである。これは1954年にアイゼンハワーが「平和のための核」を訴えたことに端 を発したものである。

当初科学者らとしては、国際機関に各国の核物質を集め、それを国際管理し、世界の平和に役立てるという「夢」を抱いていた。

しかし戦後あっという間に、米ソによる核兵器を中心とした軍備競争は激化する。

こうした綱渡り的な状況のなかで、米国は日本に核の提供を申し入れたのだ。

ここで「三原則は厳しく侵されているのであるが、それでも一般的には当初掲げられた「平和のための核」という言葉がそうした思惑をカモフラージュすることになり、学術会議がうちたてていた三原則をなし崩しにする力をもってゆくのだった。

しかもこの経緯はほとんど会議で議論されることがなかった。米国からの核の提供の申し入れがすでに国内に入っていたことを、坂田はのちに知ることになる。 もちろん坂田はこの件について、三原則に反するということで異議をとなえたのだが、会議ではさまざまな力が働き、押し切られてゆくのだった。

このように、坂田にとって核エネルギーという対象は、科学者のものである、という信念を持っていたわけであるが、歴史が残した事実は、核エネルギーは、一 言で言えば、国家における政治的道具、軍事的な「武器」となっていたのであり、それは原水爆だけではなく、原発などの平和的利用も含めての話であった。科 学者が戦争や兵器を嫌っていることを逆手にとって、原発の配備という安全保障政策が着々と進んだ、とみることができる。


1950年の湯川のノーベル賞受賞。それは、原子力に打ち負かされた敗戦国日本が見出した、大 きな希望の光であったことだろう。しかし同時にそれは戦後の「核」に対する私たちの心性を分裂させる大きな出来事でもあったように思われる。つまり、原爆 による敗戦、占領というネガティブな意識と、核物理学における国際的な評価に基づいた原子力の平和的利用というポジティブな意識は、本来、少なくとも一度 は重なり合わねばならないにもかかわらず、米国が打ち出した、「平和のための核」を推進する動きに結局のところ同調することとなったことに、当時の人びと は十分に気を回すことができなかった。少なくとも、そのなかで、物理学者同士が、原発の実現に向けた流れのなかで重要な問題をめぐって対立していたとは、 一般庶民は知る由もなかったのである。


(なお、気になったのは、「素粒子論研究者のために読売奨学金がある」(39ページ、「科学者の苦悩」1954年)という内容である。「20名余りの研究 者に対し1ヶ月3,4千円程度の奨学金を大体1カ年与え得る程度」(同)であるとはいえ、すでにこの頃から読売新聞のオーナーであった正力松太郎は原子力 研究を奨励していたということに驚かされる。)


坂田昌一 原子力をめぐる科学者の社会的責任/坂田 昌一
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