鹿島茂の読書日記

鹿島茂公式ブログ。未来過去、読んだ書籍の書評をあげていく予定です。


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最後の転落 〔ソ連崩壊のシナリオ〕/藤原書店
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(続き)

残された道は経済自由化しかなかったが、ソ連指導者は頑(かたくな)にこれを拒んだ。
「なぜなら個々人の熱望の水準(、、、、、)は、生活水準(、、、、)より急速に上昇するからである。革命というものは、こうした初動的富裕化の局面で起こる傾向がある」
 ソ連指導者は民衆と革命を極度に恐れた。共産党の党是が「プロレタリア革命」で、民衆の識字化を促進し、無神論を掲げ、階級闘争を謳(うた)っていたため、この原則が再革命を用意しかねなかったのだ。そのため、民衆を奴隷状態に押し込めることにしたが、これには民衆の不満を抑え込む抑圧装置(KGBほか)が不可欠だった。ところが、ソ連の「第四次産業」と呼ばれたこの抑圧装置がひどく高くついたのである。その高コストを補うために民衆搾取がさらにひどくなり、結果、国営部門の非効率は増し、闇経済は活発化するが、ために、より大きな抑圧装置が必要になり……という悪循環が生まれたのである。また奴隷並の低賃金は産業の機械化を妨げた。機械より人間の方が安いからである。
 「共産主義経済には、技術的停滞への自動的傾向(、、、、、、、、、、、、)が存在する」

 この「高コストの抑圧装置のパラドックス」の拡大版が東欧の衛星国に睨(にら)みをきかせる目的で駐屯させていた赤軍で、ソ連経済はその経費で沈んだが、衛星国は抑圧装置を肩代わりしてもらったおかげでソ連より一足先に経済的テイクオフを開始することができた。ベルリンの壁はソ連が赤軍経費を支えきれないほど衰弱していたから崩壊したのである。

 同じことが軍拡についてもいえる。西側の自由経済の幻影に脅えたソ連は民衆から搾取した富を西側と唯一対抗可能な軍拡につぎ込んだのだ。「クレムリンの指導者たちにとって、軍事的攻撃性もまたイデオロギー的な防衛の一つの形」であったのだ。軍拡で西側を屈服させて軍縮を勝ち取るというソ連の矛盾路線はやがてレーガン大統領の登場で御破算に帰すこととなる。

 さて、一九七六年にトッドが行ったソ連分析はすでに「過去」となった「未来予測」にすぎないだろうか? その逆である。「ソ連の軍拡には唯一の原因があるわけではない。システムのすべての弊害とすべての弱点が、最速下降線をたどって、武器の製造と社会の軍国化の方へと押しやって行くのである」という指摘ほど、軍拡続行中の極東の共産国に当てはまるものはない。現代の解読には歴史学の方法が一番役に立つことを教えてくれる本である。(石崎晴己監訳)


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エネルギー節約と浪費の二重ベクトル理論が最初に提唱されたのはおそらくバルザックの『あわ皮』だろうが、その理論が最も雄弁な形で証明されるのは、ほかならぬバルザック自身の食生活であるというのがアンカ・ミュルシュタインの』(塩谷祐人訳 白水社 二二〇〇円+税)の主張。なぜなら、「食は人なり」と信じて登場人物の食べ方と食べものの執拗な描写を行ったバルザックは、制作中は禁欲に終始し、作品を書き終わると同時に猛烈な食欲を発揮して牡蛎を一〇〇個も平らげたからだ。食べることを夢見ているからこそ食べる場面を書けるのであって、その逆ではない。そして、それは性欲についても然りであった。「彼は食べ物のことを書いている時にものを食
べなかったのと同じく、愛について書いている時に、ことが必ずしも同時におこなわれていたとは限らない」。フランスの食文化を知りたかったら、バルザックを読め。そこには、「食」のすべてがある。 


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  かつて、日本が貧しい極東の国だった頃、芸術を志す若者はパリに憧れた。それはパリがエネルギー節約ベクトルの究極としてのアメリカとは別の、エネルギー発散ベクトルの究極の姿に見えたからにちがいない。パリに行けば「完全な自由」が手に入り。その「自由」によって自分の芸術は開花するはずだと信じて。
  日本画壇の最長老の一人で、九二歳のいまも旺盛な活動をつづける野見山暁治は名作『パリ・キュリィ病院』でも明らかなように素晴らしい名文家でもある。そんな著者のエッセイ集がみすず書房の「大人の本棚」の一冊『遠ざかる景色』(二八〇〇円+税)として再刊された。構成は一九五二年の渡仏以前のことを回想した「遠ざかる景色」、滞仏中の想い出とフランス再訪時の感想からなる「異国の人びと」、そして戦没画学生の遺作収集の旅の記録「ある鎮魂の旅」からなる。いずれも「天が二物を与えた」希有な芸術家の心に染みるエッセイだが、私が惹かれるのはやはり著者とフランスとのかかわり方である。
  
とくに二重ベクトルの観点から興味深いのが「パリ再訪」と「ライ・レ・ローズの家」という再渡仏時のエッセイ。というのも、自分がかって暮らしたパリと郊外を再訪したときに著者が感じた違和感にベクトル交錯があらわれているからだ。著者は十七年ぶりのパリでこんなはずではなかったのにと感じる。フランス人はいつからフランス人であることを忘れ、アメリカ人や日本人のようなエネルギー節約ベクトルに染まったのだと。では、著者がこれぞ《フランス》と感じたのはどんな人間関係だったのだろうか?ライ・レ・ローズの三階建ての家に下宿していたマドモワゼル・ベルピオという哲学者のような婆さんはそんな一人だ。彼女は一日中、本ばかり読んでいる。「どんな本?と尋ねると、彼女はこう言
う。ムッシウ、この本はとても面白い、だけどお前さんに話してあげることが出来ない。それはこの本を読まなきゃわかんないからだよ」。ヴァカンスに近くのパン屋が閉まると、彼女は隣村のパン屋まで買いにいく。「私」もそれにならったが、ついでに買ってきてあげようかと尋ねると、怪訝な顔をされた。「自分の食べたいものは自分で見つけてくるのがおいしい食事さ。彼女は頬っぺたを赤くして笑う。(中略)わたしはマドネワゼル・ベルピオの笑い声が好きだった。屈託がない。老いの不安や終末の予感といったものを、忘れてしまっているようだ」
  たしかにひと昔前まではこういうフランス人がいた。エネルギー節約のベクトルの究極形態である東京のど真ん中にいると、ベルビオ婆さんのようなフランス人に無性に会いたくなってくる。しかし、まだ、「ベルビオ婆さん」はフランスにいるのだろうか?
 
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 夏目漱石は「現代日本の開化」という講演の中で、開化や進歩をもたらしたのはエネルギー節約ベクトル(面倒くさいことは嫌いだ)とエネルギー浪費ベクトル(本能の命ずるままやりたいことをやる)という二つのベクトルの合力であると述べているが、これは絶対に当たっている。実際、どんなものでもこの漱石理論で説明できる。
 たとえばセックス。人は、文明開化の方向に進み過ぎると、相手を探し、セックスし、恒常的関係(結婚)を持つのを面倒くさいと思うようになる。男は趣味に生きてオタク化し、女は仕事と学問に生きてノン・セックス化する。よって、セックスは消滅し、少子高齢化が加速する。これが日本の現状で、おそらく文明開化の最終形態だろうと思っていたが、どうやら、もう一つ先があるらしい。
 ダニー・ラフェリエール『ニグロと疲れないでセックスする方法』(立花英裕訳 藤原書店 一六〇〇円+税)は、ヘンリー・ミラー、ブコウスキーの衣鉢を継ぐ前衛文学である。世界最貧国の一つハイチから移住してカナダのモントリオールで暮らす「おれ」は完全なオタクである。サン・ドニ通り三六七〇番地の狭いアパルトマンに引きこもり、ジャズを聞き、世界文学に惑溺しながら、ニコンやミシマの日本にあこがれ、チャスター・ハイムズと同じレミントン22で小説を書いている。同居人は『コーラン』とフロイトしか読まない仙人のような友人ブーバ。小説はこの二人の哲学的会話と、ときに「ニグロのペニス」目当てでアパルトマンを訪れてくる白人のインテリ女性との「交情」というかたたちで進行する。白人の女たちはみな凄い美人で、高学歴、高収入のスノッブばかり。「おれ」にはどうしてもわからない。なぜ、こんな女たちがそろいもそろって「おれ」のような「ニグロ」とセックスしたがるのか?「おれ」は自問する。「いいかい、彼女はマギル大学で勉学に励んでいるのだ。(金持ちが自分の娘を通わせる最高学府。そこで科学的明晰さ、分析、懐疑を学ぶ)。ところが、ニグロが現れるや、でまかせを言って娘をものにしてしまうのだ。どうしてなのか?それは、娘にそんな贅沢をする余裕があるからなのだ。(中略)ミズ・リテラチュアは、純真で、曇ったところのない、正直な良心を所有するだけの余裕がある。それだけの資力がある。おれの方は、そんな贅沢品に手を出してはいけないと悟るのに手間はかからなかった。良心などもってのほか」
 では、「おれ」が欲しいのは何なのかというと、物質的欲望がぎっしり詰まったアメリカだ。「身も蓋もない話ではある。おれはアメリカが欲しい。(中略)アメリカは一つの全体だからだ」。つまり、貧しいニグロの「おれ」が求めているのはエネルギー節約ベクルの究極形態としてアメリカなのだが、白人のインテリ女が求めるのエネルギー発散ベクトルの究極形態としてのニグロなのだ。かくて、「おれ」は結論する。
 「白人の女は白人の男よりも下で、ニグロの男よりも上なのだ。彼女がニグロとでなければ本当の快楽を感じないのは、そこに理由がある。不思議でもなんでもない。彼女はニグロとならとことん行けるのだ。真の性的快楽は不平等なところにしかない。白人の女は白人の男を楽しませなくてはならない。そしてニグロの男は白人の女を楽しませなくてはならないのだ。セックスの偉大な達人としてのニグロの神話はそこから来る」
  こんなことを考えながら、「おれ」は、「おれにフェラチオするミズ・リテラチュア」を眺めながら「世界の果てにある故郷を想う。村を出て行ったすべての男たちのことを想う。」白人のところに富を求め、手ぶらで戻ってきた男たちを」 
 文学は二つのベクトルが激しく交錯するところでしか顕現しないという見本のような傑作である。セックス描写も素晴らしい。
  
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  しかし、この本で一番おもしろいのは、こうした超実際的な語学的トラブル回避法もさることながら、日本人と付き合いたがるフランス男のタイプが分類されている第二部「〃フランス人との恋愛〃必勝マニュアル」である。
 この分類によると、フランスで日本人の女の子に声かけてくるのは、[A]「典型的フランスオトコタイプ」と[B]「日本・日本人オタクタイプ」に二分されるという。
 「A典型的フランスオトコタイプ」はようするに、日本の女の子がイメージするような女好きで、マメで、お洒落で、積極的に女の子にアタックしてくるタイプ。日本や日本人に特に関心も知識もないけれど、たまたま出会った日本人の女の子がかわいて感じが良かったため、好奇心から、深い考えもなくナンパしてくる。このナンパ術はさすがはフランス男で手慣れたものだから、日本人の女の子はコロリとまいるが、その後がたいへんだ。 「このタイプのオトコはあとのことを考えずに行動する傾向があり、相手の気を引いておいて、引っかかったところでいきなり手を離す(そんな悪意はないのだろうが・・・)。日本人女性がまじめにおつき合いをしようという態度を見せれば見せるほど、離れていく」 著者の意見では、この手のフラオ(フランス人オトコの略)は、普通はフランス映画によく出てくるような、「わがままでエゴイトでヒステリックなフランス人女性」が好きだから、たまにこうしたフランス女に振り回されてズタズタボロボロになったとき、「癒し」の必要から日本人に手を出すが、すぐに物足りなくなって捨ててしまう。
 いっぽう、[B]「日本・日本人オタクタイプ」は、アニメ、まんが、ゲーム、柔道、空手などの日本の文化に興味を持ち、日本人の女の子に興味を抱いている。彼らの日本人の女の子に対するイメージはかなりステレオタイプで、優しい、尽くしてくれる、慎み深い、気がきく、料理がうまいなどで、いささか紋切り型の古めかしい情報に依っている。
 しかも、このタイプはオタクの特性として、女の子に対して消極的で、気も弱い。「フランス人女性に相手にされず、優しい日本人女性に希望の光を見いだす」
 では、この手のオタクタイプを日本人の女の子はどう判断するかというと、以下の通り。
 「ただしこのタイプには、イケてないオトコが多い。よく〃日本人女性は外国でモテる〃なんて声を耳にするけど、実際、モテたって嬉しくないような男しか近寄ってこないのが現実だったりする。ごく稀にイケてるオトコもいるが、気が強いフランス人女性に相手にされないから、日本人に走るオトコが多いのも事実」
 なんのことはない、オタクは、どこの国籍だろうか、関係なく「モテない」のである。日本人の女性がこの手のオタクに泣かされることは少ないが、「いわゆる色気があって甘~い雰囲気のフラオではない」から、付き合っていても、つまんないのである。
 そこにあるのは、日本人とフランス人という違いではなく、女あしらいのうまいモテ男と、女よりもモノを好むオタクというグローバルな差異なのである。
 このグローバルな差異を見事に描き切ったのが、私がこのあいだフランスで見つけてきたカレスニコという漫画家の『通販花嫁 Mariee par Correspondance』。 どうやら、 作者はフランス人ではなく、アメリカ西海岸に住むカナダ人(?)のようだが、フランスでそのほとんどが翻訳されているところを見ると、問題意識を共有しているフランス人も少なくないらしい。
 カナダのハンクーバー近郊の小さな田舎町にすむモンティーはアンテーク・オモチャの収集が講じて、オモチャやコミックの店を経営している典型的なオタク。モンティーの願いは、アジアン・ポルノで見たようなアジア系の女の子と結婚すること。自我の強い白人女が嫌いなモンティーはついに決心して、アジアから「通販」で花嫁を紹介する組織「ピンク・ロータス」に入会し、韓国から花嫁Kyung Seo を迎える。 いっぽう、 カナダの白人と結婚するということで、 西欧社会への大きな夢を抱いて空港に現れたキュンは、 モンティーにつれていかれたその店を見て落胆する。 キュンからすれば、まったく意味のないオモチャが雑然と積み上げられた薄気味の悪い倉庫にすぎないからだ。
 田舎町の退屈な日常もキュンの期待を裏切る。 小汚いガキ相手の商売はさておき、 町のレストランに出掛けても、 そこにいるのは年寄りばかり。 モンティーは同年配の男女は、 高校でイジメにあった記憶が強いため大嫌いだと告白する。
  モンティーにとってキュンといる時間は至福であり、 「愛しているよ、 大好きだ」を連発して、キュンも自分と同じくらい幸せだと思い込む。キュンが韓国から持ってきたチマ・チョゴリを捨てようとしているのを見ると、「スバラシイ!」連発し、チマ・チョゴリ姿のキュンに激しく欲情する。
 そんな日常に倦んでいたキュンの前にある日、山の上の芸術家コロニーに住むカナダ生まれの女性韓国人カメラマンが現れ、「鉄と女」と題する写真を撮りたいのでヌードのモデルになってくれないかと誘う。退屈から抜け出したいと願っていたキュンはこの申し出にOKを出すが、写真展を見たモンティーは激怒し・・・。
 最後は、モンティーのことを「卑怯者」とののしっていたキュンが、モンティーから「自分のほうこそ韓国人であるというアイデンティティを消そうとしている卑怯者じゃないかと」反論され、愕然として、元の鞘に収まるというところで終わる。 
 なかなか、考えさせられる漫画ではないか。
 日本発のオタク文化は、それまで潜在的なレベルに止まっていた世界中の男のオタク性を顕在化させ、日本人を初めとするアジアの娘たちへの関心を引き起こしたが、アジアの娘たちは、だからといって「白いオタク」が好きになるわけではないのだ。
 オタクはどこにいっても救われない。この悲しい現実に、日本の元祖オタクは安堵すべきなのか、それとも慄然とすべきなのか。問題がグローバル化していることだけは確かなようである。
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 新刊書店でめったに見ない棚の一つに語学書のコーナーがある。一応、大学ではフランス語を教えてはいるが、いまさら英語をやってもはじまらないし、新しい語学にチャレンジする気力もない。専門のフランス語についていえば、日本で発行されてフランス語学書はほとんどが初級だから、フランス語の棚も見る必要がないのだ。
 ところが、先日、なにかの拍子で語学書の棚の前にたったら、情報センター出版局というところから出ている「旅の指さし会話長シリーズ」のバリエーションの一つ「恋する指さし会話長」の『フランス語編』(平澤麻理・西川薫著)というのが目にとまった。
 ようするに、フランス人の男と恋してしまった日本人の女の子が落いりやすい語学的トラブルに対するお助け本の一つであるのだが、きれいごとをいっさい排したその実践的な編集態度がまことに気持ちよく、いたく感心してしまった。これぞ便利本。フランスに行く女の子は必携である。
 たとえば、「エッチのトラブル」の章では、コンドームと「中出し」を巡る双方の言い分が日仏両国語でこんなふうにつづられている。
 「(日女)コンドーム持ってる?Tu as un preservatif?」「(仏男)いや、なんで?Non, pourquoi?」「(日女)なんでってどういう意味???Comment ,pourquoi???」「(仏男)大丈夫だよ。中出ししないから。Ne t'inquietes pas. Je vais me retirer」 
  ちなみに、 この(仏男)の最後にある「me retirer」とは、直訳すれば「(途中)で抜く)」ということである。 では「中出しする」というのはフランス語でなんというかというと、それは前のページの「ベッドにて」という章の用語編に「中出し jouir en toi」とちゃんと出ているから、 女の子は、 「中出ししないでね Ne jouie pas en moi」 というようにきちんと拒否することができるというわけだ。 すると、たいていのフランス男は「ピル飲んでないの? Tu ne prends pas la pillule?」と逆に尋ねるらしい。
 このピルという言葉には、文化的な背景からする詳しい注がついている。すなわち、フランスでは、女性はセックス年齢に達するとピルを飲むことが常識になっている。いっぽう、日本ではピルの普及はいまだしだからここにトラブルが発生する確率がきわめて高い。 
 
「フランス人の男性は、どこの国であろうと女性はピルを飲んでいると思いこんでいることが多く、そのため、セックスしているとき、何の了解も得ずに〃中出し〃する人がいるのだ。そういうことは、たいてい語学力が足りずに意志疎通ができていない人たちの間で起きる。『えっ、今、もしかして・・・!!!』と気づいたときには、もう遅い。聞き返す語学力も、非難する語学力もない。だから相手は、コトの重大さすらわからないことが多い。(中略)なんせ言葉がわからないから、『中で出していい?』と彼が聞いている意味がわからずに、まさか、そんなことを聞かれているとは思いもよらずに頷いてしまって、こういう一大事になるパターンが多い」  
 なるほど、これぞ国際「草の根交流」におけるトラブルの根源であり、ここを押さえずして、いかなる国際理解もありえぬわけだ。
 
  
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 すこし本格的に歴史をかじりだしたときに感じたことは、教科書で教えられる「一行歴史」というのは、いったいなんなんだということである。ある歴史的な人物に事件や事象についてわれわれが教科書から与えられたイメージは、実際のそれとえらく違っている。ときには、正反対のことさえある。極端なことをいえば、「教科書的な歴史」とは「偏見の歴史」の別名ではないかと感じることがある。
 たとえば、江戸時代の武士の生活だ。「五公五民」の税制で農民から米を取り上げることを制度的に認められた武士階級は特権階級として農民を搾取しつづけたが、商業経済の進展で生活が華美になったことから借金が増え、最後には何度も徳政令を出して救ってもらうほかなかった、云々。これがわれわれが普通に抱いている武士のイメージである。
 だが、磯田道史の『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』を読むと、たしかに上面はそうだが、そこに至る本当の道筋はかなり違っていることがわかる。
 まず、武士は自分の知行地がどこにあるかさえ知らず、ただ給料の形式として知行を拝領していた。とくに微禄藩士は、「生々しい現実の『土地と人民』を与えられているという感覚を持ちにくかった」。「近世武士にとって領地とは、結局、紙のうえの数字と文字のようなところがある」。明治維新で武士階級が簡単に崩壊したのは、ここにあったのである。
 また武士が貧乏したのは、贅沢をしたからではなく、構造的に貧困化する用になっていたからだ。つまり、お家断絶のための「保険」として養子を確保する必要から、親戚付き合いが濃密となり、その結果、交際費が家計で突出した。また、交際費負担で生じた家計のマイナスを補うために、親戚から借金しなければならなくなるため、親戚付き合いをさせに濃密にしなければならなかった。ひとことでいえば、武士の借金は階級的必然であったのである。
 ドナルド・キーン『明治天皇を語る』は、明治天皇が世界中の君主の中で最も禁欲的(ただし、女性関係を除く)な君主であったことを教えてくれる。皇居での華美を戒めるため改築もせず、衣服も修繕ですませたし、旅行中の苦痛には超人的な忍耐で耐えた。また、人間的な弱さを示すことを恐れて、子供たちには、とくに世継ぎの嘉仁親王(大正天皇)には、親密さをほとんど示さなかった。好きだった臣下は西郷、大久保、伊藤で、嫌いだったのは山県有朋、陸奥宗光、それに乃木希典だった。
 坂本多加雄『新しい福沢諭吉』は、福沢諭吉が社会の仕組みを説明するために使った「独立」と「情愛」、「智恵」と「徳義」が、われわれが想像するのとはちがった、現在の思想水準からしても、相当にユニークな理念であったと主張する。たとえば、福沢は儒教は情愛や徳義に基礎を置いているからダメなんだと批判する。なぜなら、「情愛」を支配理念として受け入れている限り、貸し借りの関係が生まれ、上位者と下位者の差が出てくるから、「同等同権」の「独立」は確保できない。同じように、「徳義」の及ぶ範囲は一家の内に限られるが、「智恵」の働きは広大な範囲に及ぶ。ゆえに、「徳義」に拠る政治よりも、「智恵」による政治のほうが優れている。
 このように、本物の歴史を学ぶことで、自分の教科書的な偏見が崩されていくのを見るのは、シャクだけれど、気持ちがいい。この気持ちの良さが歴史書を読む醍醐味なのである。
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 神保町に仕事場をもうけたのが去年の四月のこと。さくら通りから一つ入った築四十年のビルの五階だったが、今年の四月からは、すずらん通りに面した、これまた築四十年のビルの三階に引っ越した。
 引っ越しの理由は、同じすずらん通りにある東京堂を書庫にしてしまおうと考えたことである。おかげで、執筆中に「あっ、あの本が必要だ」と思ったときに、すぐに買いにいけるようになった。
 そればかりではない。仕事に飽きると、すずらん通りに出て、東京堂を一回りしてくるが、この特定の目的を持たない本の渉猟というのがまた楽しい。新刊書の棚ではなく、常設の棚も少しづつ動いているのが肌で感じられるからだ。
 とはいえ、楽しみのためにだけやっているかといえば、そうとも限らない。私は、図々しくも「職業的書評家」と名乗っているが、この「職業」にとって、新刊本の書店を循環していることは、アスリートにとっての筋肉トレーニング、日々のランニングに相当するからである。
 つまり、常に新刊に目配りする努力を怠ると、書評家としての眼力が落ちるのである。これは、私が信念にしている「質には量を」という法則から来ている。すなわち、ある程度の量をこなしていないと、質は確保できないということで、常にたくさんの本に接してカンを磨かいていないと、読まずに良書を見いだすことは不可能なのである。
 この点において、インターネットが普及した今日でも、私は断固とした「店頭派」である。本というのはやはり、現物を手に取ってみないかぎりわからない。タイトルから始まって、カバーのセンス、オビの謳い文句、紙質、目次、後書きといちいち検討していかなくては、それが買うに値する本か否かは決定できないのである。人よりは大量に本を買う職業的書評家だろうと、つまらない本、価値のない本に金は使いたくないのだ。
 しかし、こう書くと、私はあなたのような「職業的書評家」ではなく、平凡な一読書家にすぎないので、そのような筋トレ的な書店巡りをしている暇はない。なにかもっとてっとり早い方法はないでしょうか、少なくとも、小説だとかエッセイなどの善し悪しを見抜く方法は、という問いがなされるはずだ。
 こうした問いには、こう答えることにしている。
 本には、ある種の「匂い」があるんです。この「匂い」は、書店に常に足を運んでいないとかぎ分けられない。だから、書店に行く習慣のない人がいきなり、良い本に巡り合うなんてことは無理ですよ。それより、うちでテレビでも見ていたほうがいいんじゃないですか。あなたは本とは無縁の人のようだから。
 そうなのである。世の中の九割の人は本とは無縁の人なのである。本をよく読む人は、日本が百人の村だったとしたら、たったの十人しかいない。それも、本がなければ暮らしていけない人はたったの一人くらいの割合だ。これは統計的に厳然たる事実だ。この十人、あるいは一人が、日本の本を買い支えているのである。マーケッティグ理論には、二割の人が全売上の八割を購入している「二割・八割の法則」というのがあるのだそうだが、本の場合は、一割の人が全体の九割を購入しているのだから「一割・九割」の法則だ。
 ところが、ほとんどの出版社はこの事実を認識していない。とりわけ、最近は不況でやりくりが苦しくなってきて、一発大逆転を狙うしかなくなったせいか、どの出版社も、本をよく読む一割の人ではなく、本を読まない九割の人をターゲットにしようとしている。
つまりは、どれもベストセラー狙いで出版されているということである。
 しかし、少しでも考えてみればわかるように、書店に来ない九割の人たちに本を買わせるのは、天井から目薬を差すのよりも難しい。なのに、どの本もこの難しいことをしようとして悪戦苦闘しているのである。
 こうした「甲斐なき努力」にもかかわらず、いやそうした努力ゆえに、九割狙いの本にはえてして卑しい「匂い」がたちこめてしまう。それはハウツー本やビジネス本だけではなく、文芸書にもいえる。
 だから、ある意味で、書店で本を選ぶのはとても簡単なのである。卑しい「匂い」のする本を避けること。もっといえば、そうした「匂い」に満ちた大型書店には行かないこと。これに限るのだ
  

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 オペラの解説書などには、「パリのオペラ座というのは、オペラを見る場所であるという以上に、一つの社交場なのです」と書いてありますが、これは実際にオペラ座に足を運んで、オペラの上演に立ち会わないと理解できないものです。
 たとえば、舞台脇のボックス席。素人考えでは、一番、舞台が見にくい位置のはずですが、料金的に一番高いのがここです。しかし、客席が満席になってくるとようやく、その理由がようやくわかってきます。ボックス席というのは、「見る」ための席であるというよりも、「見せる」ための席なのです。そう、ボックス席を年間予約できるだけの余裕のある上流階級の人々が、そのボックス席に現れて、オペラを見るという口実のもとに、自分たちの着飾った姿を観客に「見せる」のです。昔なら、皇帝や王様あるいは大貴族、いまなら、その時々の成金やスーパースターがこの舞台脇のボックス席の常連で、他の観客から「見られる」という恍惚を味わうため、あるいは新しい恋人や愛人を「披露」するために、オペラ座にやってきます。
 もう一つは、幕間に観客が繰り出す、巨大なフォワイエ(休憩室)。ここは、いまでも、パリの貴顕男女が落ち合う最大な社交場で、シャンペン・グラス片手に粋な会話が交わされています。
 このほか、十九世紀には、もう一つの社交空間がありました。それは、舞台よりも少し下がった場所にあるボックス席です。ここに陣取った好色な紳士たちは、自分が「囲い者」にしようと狙う端役の踊り子たちを間近から観察し、舞台終了後には、定期会員用に特別に設けられた入口を通って楽屋に花束やプレゼントを届けたのです。
 この点を頭に入れておくと、『オペラ座の怪人』をよりよく理解できると思います。ガストン・ルルーの原作にも、「本物のパリシャンで、シャニイ伯爵のような地位にある男なら、姿を見せて当然な場所というものがあるものであり、当時、オペラ座のバレリーナの楽屋は、そうした場所のひとつだったのである」と書かれています。つまり、オペラ座というのは、金と地位に恵まれた男が、その財力と権力にあかせて、絶世の美少女をガール・ハントしにいく場所だったのです。
 『オペラ座の怪人』のおもしろさは、こうしたガール・ハントの場所である舞台袖のボックス席に、黒服に骸骨という異様な格好の怪人が現れて、歌姫クリイスチーヌを巡って、貴族の青年ラウルと恋の鞘当てを演じるところにあります。普通の男が相手ならなんとか対処のしようがありますが、ファントムがライヴァルでは・・・。
 もう一つの興味は、この怪人がオペラ座の外部ではなく内部、それも地下の巨大な空間に住み着いていて、そこから忽然とボックス姿を現したり、怪事件を起こす点にあります。オペラ座の地下には、われわれの与り知らない闇の世界が広がっていて、そこでは、地上とは別の法則が支配しているようなのです。
 じつは、このオペラ座の下の地下世界というガストン・ルルーの奔放なイマジネーションにはひとつの現実的な根拠がありました。
 それは1862年に始められた工事の途中、 オペラ座の地下に、 ローマ時代から削岩をつづけられてきた広大な採石場跡が見つかったことです。 地下は完全な空洞で、 そこには地下水が流れこんでつくられた「湖」さえあったのです。 その結果、 この「湖」の水をくみ出したり、浸潤を防ぐために何重にも隔壁を設けたりしたため、膨大な費用と手間がかかり、オペラ座の完成は一八七五年まで待たなければなりませんでした。その間には、パリ・コミューンの戦乱もあり、反徒が地下の迷路を使って逃げたなどの逸話も伝えられています。 ガストン・ルルーは、こうしたオペラ座の文化的な背景と伝説をうまく使って物語を組み立てています。オペラ座は、そこで演じられているオペラのほかに、伝説という「オペラ」を背負ったモニュメントですから、怪人(ファントム)が現れても少しも不思議はないのです。
 
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