こんにちは。
瞑想ヨーガセラピストの赤木 香苗です。
以前は運動量の多いヨガをしていたわたしですが、今はかなり変わってきています
その大きなきっかけとなったのが、最初の結婚でのつまづきでした。
それまではヨーガを指導しながら、ダンスも教え、かなりアクティブに日々を過ごしていました。
ですが、ある日、その時の相手との間に、かなりのトラウマとなるような経験をして、わたしはヨーガを練習することが出来なくなったのでした。
自分が練習できないと教えることもできません。
そのために指導からも離れて、いったん休養をすることにしたのでした。
ヨガをしていたつもりだったけど
その時のわたしは運動量の多いアシュタンガ・ヨーガという流派を練習していました
毎日マットの上に立つけれども、太陽礼拝までしかできませんでした
今はそれがなぜだかわかります
傷ついているから、胸を開きたくない
感じるには痛すぎるほど傷ついていて
身体を固めて、心を守るのに必死だった…
そんな日々が続き、わたしは途方にくれていました。
ヨーガは心のためのもののはずなのに、わたしには自分の心をどうしたらよいのかわからない
ヨーガの理解が圧倒的に足りてないのだ、と思いました。
そのとき、以前インドの先生を通訳したことを思い出しました。
その先生のお話は、2時間のワークショップの中で、ポーズの話から呼吸の話、瞑想から悟りの話、マントラの話、ナーダヨーガ(音のヨーガ)の話と多岐にわたり、その時のわたしにはついていくので精一杯。
先生はクラスの後に言いました。
「君は西洋でしかヨーガを学んでいないんだね。ヨーガはすべてが球体のように繋がっているのだよ。いつかインドでヨーガをきちんと学びなさい」、と。
その時はヨーガを教え始めて5年ほど経った頃。
西洋で教えられている様々な流派を学び、さらヨーガ通訳という現場を通して多くの教えを吸収して、身体も使えるし、ノリに乗っている頃で。
それなりに「知っているつもり」だったわたしには、十分に衝撃的なコメントでした。
その時のわたしの中では、ポーズ(アーサナ)、呼吸法、瞑想、哲学は、それぞれのカテゴリーに分けられるものだったのです。
それぞれを独立して理解していたことに、その先生のコメントで気付かされました。
それからまもなくしての、この状況。
それらの要素がどう体系的に繋がってくるのか、理解することなくプラクティスをしていた私は、だからこそ、こうして大きな壁にぶつかったのだ、と改めて認識しました。
そして、そのとき、「そうだ、インドへ行こう」と思いたち、片道切符を持って、先生探しの旅へと出かけたのでした。
呼吸がこんなに気持ちが良いものなんて!
~クリシュナマチャリアの教えとの出会い
目指したのは、インド東南部のチェンナイ。
それまでやってきたアシュタンガヨーガとアイアンガーヨーガ。
そこで上手く心の扱い方を学びきれなかったので、そのルーツを辿り知ったのがクリシュナマチャリアという現代ヨーガの祖、と言われる存在。
アシュタンガヨーガの創始者もアイアンガーヨーガの創始者も、クリシュナマチャリアのお弟子さんだったのです。
きっとよりルーツ的な、本質的な教えを頂けるのに違いない、とその教えを学ぶトレーニングに参加してみました。
そこでは、あの通訳をさせてもらった先生のように教えがドラマティックに有機的に繋がっていき。
ヨーガ・スートラという哲学の上に全てが合理的に体系的に積み上がっている教え、それがヨーガなのだということが、わたしの内側にズドンと入ってきました。
ポーズもなぜこのポーズを行うのか、その大きな目的が明らかになれば、その目的に添うようにその人の身体に合わせて修正していけばよいことが、見えてきました。
なによりも呼吸を丁寧にゆっくりと行うことの、気持ちの良いこと。豊かなこと。
最初は仰向けになって手を上げるというシンプルな動きでも、呼吸がガタガタとしていて、短くて。ゆっくりしようとすると苦しい状態でした…
でも、もっとゆっくりするにはどうしたら良いのだろうと、身体の緊張に気づいては緩めて。
その時出てくる感情に気づいては受け入れて。
時にはマントラと共に、それを祈りまで昇華させて吐き出して。
その積み重ねで、少しずつ、ゆったりと呼吸して、ゆったりと動くことの気持ちよさを感じられるようになったのでした。
そして、急行電車では見えなかった風景が、鈍行電車では見えてくるように、
ゆっくり動くことで身体への気づきが繊細で細やかになっていきました。
ああ、そうか、これでいい
そんなに頑張らなくても、ここにあったんだな
そんな言葉とともに柔らかい感覚が内側から湧き起こって
なんだか笑いながら泣いていました。
その時から、わたしのプラクティスはより内観的に、瞑想的に、繊細なものへとシフトしていったのでした。
今思えば、そこで立ち止まったことが必然であって
エゴが強くて、コントロールフリークで、でもどこかで自信のなさをもっていたわたし
立ち止まることがなければ、どんどん強さへと惹かれていたのかもしれない
また明日もゆっくり丁寧に呼吸をすることから始めてみよう
その丁寧で繊細な視線が、わたしを愛することでもあるから
おやすみなさい