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「I am Who I am」 わたしがわたしらしく生きるために

わたしがわたしらしく生きていくためのヨーガ/ヨーガセラピーと瞑想をお伝えしています。

こんにちは。
瞑想ヨーガセラピストの香苗です。

11月末から12月頭まで軽井沢に行っていました。

そこは何とも気持ちの良い冬景色で。



出会った方達も素晴らしかったです。

ですが、実は帰ってきてから体調を崩してました。

息子は発疹が出て、わたしは嘔吐・・・

ホメオパシーやハーブティーなどでデトックスするのですが、今回は1週間かかりました。

そして、昨日ようやく個人セッションができるまでになったところで。

エネルギーが部屋に停滞しているのを感じていたので、セージや音叉で場を整えて、そっと手をあてていく。

その方も停滞気味だったのですが、
その中でも必ず流れている内側の生命力があります。

そこに繋がっていくと
わたしの身体にも確かに流れているものと繋がることができました

チョロチョロとした流れから、それが少しずつ太いしっかりとした流れになっていくのを感じていって。

そこから身体に問いかけていくセッションは、とても愛おしい時間となりました。


彼女には大きな気づきが生まれ、わたしには身体の変化を手で感じながら、問いかけをしてカウンセリングをしていく、という新しいセッションの形が生まれていった瞬間でした。


どうしようもなく動けなくなったとき、

人と出会うということ、
触れていくことは、

一歩進めていく力になる。

それがセッションであれ、
おしゃべりの時間であれ、
無言のハグであれ…


もしも、
あなたの中のエネルギーが足りないと感じたとき、
前に進む力が足りないと感じたときは、


どうか誰かと出会ってみてください


その出会いからきっと何かの流れが生まれる

流れ始めると、動きやすくなります

自分とも向き合いやすくなります




わたしたちがしているアーサナ(ポーズ)もそういうことで

流していく

元々あった流れに戻していく

流れていく身体の中で、自分の本質と出会っていきます



先日個人セッションを受けてくださった方が、ブログにその経験を素敵にまとめて下さいました。


まもなくまた、モニターを募集する予定です。

申し込みは公式LINEから受けつけますので、LINE登録してくださいね!

それでは、今日も素敵な一日をお過ごし下さい。

香苗



こんにちは。


瞑想ヨーガセラピストの赤木 香苗です。


以前は運動量の多いヨガをしていたわたしですが、今はかなり変わってきています


その大きなきっかけとなったのが、最初の結婚でのつまづきでした。


それまではヨーガを指導しながら、ダンスも教え、かなりアクティブに日々を過ごしていました。


ですが、ある日、その時の相手との間に、かなりのトラウマとなるような経験をして、わたしはヨーガを練習することが出来なくなったのでした。


自分が練習できないと教えることもできません。


そのために指導からも離れて、いったん休養をすることにしたのでした。





ヨガをしていたつもりだったけど


その時のわたしは運動量の多いアシュタンガ・ヨーガという流派を練習していました


毎日マットの上に立つけれども、太陽礼拝までしかできませんでした


今はそれがなぜだかわかります


傷ついているから、胸を開きたくない

感じるには痛すぎるほど傷ついていて

身体を固めて、心を守るのに必死だった


そんな日々が続き、わたしは途方にくれていました。

ヨーガは心のためのもののはずなのに、わたしには自分の心をどうしたらよいのかわからない


ヨーガの理解が圧倒的に足りてないのだ、と思いました。


そのとき、以前インドの先生を通訳したことを思い出しました。


その先生のお話は、2時間のワークショップの中で、ポーズの話から呼吸の話、瞑想から悟りの話、マントラの話、ナーダヨーガ(音のヨーガ)の話と多岐にわたり、その時のわたしにはついていくので精一杯。


先生はクラスの後に言いました。


「君は西洋でしかヨーガを学んでいないんだね。ヨーガはすべてが球体のように繋がっているのだよ。いつかインドでヨーガをきちんと学びなさい」、と。


その時はヨーガを教え始めて5年ほど経った頃。


西洋で教えられている様々な流派を学び、さらヨーガ通訳という現場を通して多くの教えを吸収して、身体も使えるし、ノリに乗っている頃で。


それなりに「知っているつもり」だったわたしには、十分に衝撃的なコメントでした。


その時のわたしの中では、ポーズ(アーサナ)、呼吸法、瞑想、哲学は、それぞれのカテゴリーに分けられるものだったのです。


それぞれを独立して理解していたことに、その先生のコメントで気付かされました。


それからまもなくしての、この状況。


それらの要素がどう体系的に繋がってくるのか、理解することなくプラクティスをしていた私は、だからこそ、こうして大きな壁にぶつかったのだ、と改めて認識しました。


そして、そのとき、「そうだ、インドへ行こう」と思いたち、片道切符を持って、先生探しの旅へと出かけたのでした。




呼吸がこんなに気持ちが良いものなんて!

~クリシュナマチャリアの教えとの出会い


目指したのは、インド東南部のチェンナイ。


それまでやってきたアシュタンガヨーガとアイアンガーヨーガ。

そこで上手く心の扱い方を学びきれなかったので、そのルーツを辿り知ったのがクリシュナマチャリアという現代ヨーガの祖、と言われる存在。

アシュタンガヨーガの創始者もアイアンガーヨーガの創始者も、クリシュナマチャリアのお弟子さんだったのです。


きっとよりルーツ的な、本質的な教えを頂けるのに違いない、とその教えを学ぶトレーニングに参加してみました。


そこでは、あの通訳をさせてもらった先生のように教えがドラマティックに有機的に繋がっていき。


ヨーガ・スートラという哲学の上に全てが合理的に体系的に積み上がっている教え、それがヨーガなのだということが、わたしの内側にズドンと入ってきました。


ポーズもなぜこのポーズを行うのか、その大きな目的が明らかになれば、その目的に添うようにその人の身体に合わせて修正していけばよいことが、見えてきました。


なによりも呼吸を丁寧にゆっくりと行うことの、気持ちの良いこと。豊かなこと。


最初は仰向けになって手を上げるというシンプルな動きでも、呼吸がガタガタとしていて、短くて。ゆっくりしようとすると苦しい状態でした


でも、もっとゆっくりするにはどうしたら良いのだろうと、身体の緊張に気づいては緩めて。

その時出てくる感情に気づいては受け入れて。

時にはマントラと共に、それを祈りまで昇華させて吐き出して。


その積み重ねで、少しずつ、ゆったりと呼吸して、ゆったりと動くことの気持ちよさを感じられるようになったのでした。


そして、急行電車では見えなかった風景が、鈍行電車では見えてくるように、

ゆっくり動くことで身体への気づきが繊細で細やかになっていきました。


ああ、そうか、これでいい

そんなに頑張らなくても、ここにあったんだな


そんな言葉とともに柔らかい感覚が内側から湧き起こって

なんだか笑いながら泣いていました。


その時から、わたしのプラクティスはより内観的に、瞑想的に、繊細なものへとシフトしていったのでした。


今思えば、そこで立ち止まったことが必然であって


エゴが強くて、コントロールフリークで、でもどこかで自信のなさをもっていたわたし


立ち止まることがなければ、どんどん強さへと惹かれていたのかもしれない


また明日もゆっくり丁寧に呼吸をすることから始めてみよう


その丁寧で繊細な視線が、わたしを愛することでもあるから


おやすみなさい

ハートの質を見るリトリート、3日目。


自我とハートで感じることの関係を知っていく





わたしたちが大人になっていく成長の過程で


ある種の質が自分の中で大切な意味を持ち始めるという


それは

意志の強さだったり

愛することであったり

他者をサポートすることであったり


親や祖父母やその他の周りの誰かが持っている質で、それがいいと採用したこともあるだろうし


周りから与えられなくて、でも熱望しているものかもしれない


それを自我が理想と感じはじめて


一つの生きる上でのガイダンスになっていく


その一方で、それ以外のエッセンス、質は失われていく


いや、自分が手放していく


そして自我は求める理想像に向けて走り続ける


内なる批判者と言われるスーパーエゴ(超自我)に、まだまだ足りないと叱責をうけながら…



それと同時に

それは本当の自分ではないことを

わたしの魂は知っている


そこに生まれる空虚感、不足感


本質から隔てられることの痛み

しかもこれは自分が選んだことなんだ

自分が自分を裏切ったと言う事実


これは耐えられないほどの痛みで


だから、この痛みを感じないようにするために

自我は自分の理想とするものに向かって努力し続ける


エンドレスな学びの中毒


それは痛みへの恐怖なのかもしれない




「そうじゃない」という叫びと共に


わたしは、小さい頃から「そうじゃない」「これじゃない」という感覚を持っていて


与えられるもの、求められるものに

不満感をもっていた。


でも、それを表現することができなくて

わたしの中で記憶する範囲の1番幼いわたしは

すでに自分の気持ちを押し込めて

「それでいいよ」と言ってしまう自分だった。


「それがいい」がなくて

「それでいい」でしかないから


なんだかいつも満たされない想いを抱えていた。


それでも表面的に良い子ちゃんを繕い続けてたのだけど


大人って、ちっとも子供のこと見てないんだな、と感じるいくつかの出来事を経て


反発を始める。


満たされない想いが、

不満や不機嫌な態度として現れ


満たされない想いが、

過食症となって現れた。


他者や社会をジャッジすることで

自分を保とうとした


怒りで、その無力感や空虚感をコーティングして

なんとか生きていた気がする


そして生きる意味を求めて

自己探求という名の

学び中毒の旅をし続けてきた気がする


でも、外から見れば過不足なく、むしろ恵まれているように映るのを知っている。


だから、その空虚感をもっている自分を否定する自分がいて


それは味わってはならないものと捉えている自我がいた。


まずは、その空虚感、そしてそこから来る痛みを感じること。そこからハートが開き始める、と先生はいった。


わたしにとっては、それを持ってていいとされたこと、味わっていいとされたことで、自分の存在を許されたような気持ちになった。


それと同時に、その虚無感を真正面から感じることに、恐れを抱き続けてきたことを知る。


だから、それに蓋をして、なんとか生きようとする


でも、その生にはリアリティーを感じられなくて


まるで泥沼を歩き続けるような

重い足を引きずって歩き続けるような

そんな日々でもあった


ちょうどそんな時にこのOSHOのメッセージが目に入った


「死の恐怖は、時間の恐怖だ。
そして時間の恐怖とは、
深いところでは、生きられなかった瞬間への恐怖、生きられなかった生に対する恐怖だ。

ならば、どうしたらいい? 
もっと生きること、もっと強烈に生きることだ」


まずは、この虚無感、孤独感を味わいきることから

そこから生が始まっていく。




痛いなあ…


痛い…あせる




ハートを感じると言うことが、こんなに痛かったとは



真正面からハートを感じ、そしてその痛みと共にいるというプラクティスをしている。



その前には、痛みを感じることから、どうやって自分が逃げてきたか、そのパターンも観て。



痛みをなかったものにしたり

痛みを怒りでコーティングしたり

痛みを説明することで感覚から離れたり



ギュッと身体を固めたり

ひたすら寝たり

漫画を読んで、その世界に没頭したり(笑)



目の前の相手の痛みと共鳴しないように、感覚をオフにしたり

わたしはそれには耐える力がないと言い聞かせることで、逃げることを正当化したり





ありとあらゆる作戦をエゴが立てて

本当に真正面から痛みを感じることは避けてきた




インクワイアリーというメソッドを通じて

痛みを真正面から感じる

それと共に居る、ということを練習している



それは身体的な質感を伴って、そこに存在している



色んな記憶が蘇る



意識がぼんやりとして、フェードアウトしようとしている働きにも気付く



でも、目の前に場をホールドしてくれている仲間がいる



それによって、この痛みと共に居続けてみようとしてみる





開いたり、閉じたり、逃げたり


その動きとも共に居る




まだ2日目。




なんだか大きな壁を感じて、乗り越えられるのかなとも思っているマインドがいるけど


帰り道に思い出されたのは、茨木のりこさんの詩




「自分の感受性くらい、自分で守れ ばかものよ」




さて、明日も、そこにあるものと共に居てみますDASH!





茨木のりこさんの詩、全文はこちらダウン




 「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ



"This is it!"
ずっと探し求めていたものに出会ってしまった!ドンッ

そんな週末でした。

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こんにちは。

 

瞑想ヨーガセラピストの赤木 香苗です。

先週末の4日間は、クラニオ・セイクラルというボディーワークを学んできました。

これまで助産院や元パートナーなど、触れることが多かったクラニオ。
でも、その中にもいろんなスタイルがあるということ、その違いは、この講座で初めてしりました。

今回学んだのは、敬愛する加藤コマさんが主催の講座。
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスという手技を学びました。
 

身体の中には、生命を動かしている波のような運動があって、

一般的によく知られているクラニオセイクラル・セラピーは

60秒間に8~14サイクルで知覚される組織運動、特に骨の反復運動に働きかけるのに対し、

バイオダイナミクスでは60秒間に2.5サイクルというよりゆったりとした液と組織の運動から、
さらに100秒間に1サイクルという、とてもゆったりとした速度の生命運動の観察を主に行ないます。

最初はそんなことが知覚できるのかな、という不安も生じるのだけれども、
アシスタントの方々や共に学ぶ仲間たちとの助けもあり、
ただその可能性に開いて待っていると、

段々と感覚が開いていって、その繊細な波を知覚するようになってくる。

開いて、閉じていく。
その心地よい流れと共にそこにいると、
瞑想が深まったときのようなシンとした静けさが内側に起こり、そこからまた大きな更にゆったりとした流れが起こる。

満ちては引いていく、その大きくて広がりのある力、そしてしっかりとした求心力をもって戻っていくその力を通して、
生命の中には、確かに私たちを動かす力があること、
命に元々備わっている偉大なる治癒力があるのだ、ということを感じる。

一切の意図を手放して、そっと手をあてて、そこで起きていることに開いていくことで、
それが、わたしの中にも、そして目の前の相手のなかにもあることを、ただただ手を通して感じる。

生命の力に触れていくことで、さらに自分の内側も開いていく。

相手の存在と自分の存在が一体化していく
共鳴するってこういうことなんだな、と感じる。

そして、わたしは人と深いところで繋がりを持ちたかったんだ、という願いをもっていたことを知る。
ジャッジしない、されないところで、「ただ共にいる」、ということを体験したかったんだ、ということを知る。

相手の存在を通じて、生命を誕生させ、そしてこの命を育み続ける力が、内側にあることを知る。

 



これまでヨーガの哲学の中で習った「誰の中にも神性がある」という教え。
そしてそれが繋がっている、ということ、いわゆるワンネスというもの。
これまで、それをわたしは概念でしか理解できていなくて。

でも、それを理解したいと願うことはエゴの働きだと思って、手放そうとしてきたけれど。

ただ、体験として、そこにそれがあったから驚いた。

「ああ、そうなんだ」

というリアリティをもって知覚を通して体験させてもらった。

ああ、言葉が足りないなっ!
どうやったらこの感動を伝えられるのかなえーん

 

人に触れることの先に、あんな世界が広がっていて、

わたしがわたしを信じることや、相手を信じることを、

手が、体が、こんなリアリティをもって教えてくれるなんて知らなかった!!!

この素晴らしい体験ができるmodule 1がまた開催されます

リンクはこちらから



その中でプラクティショナーコースへ進んでいく方達と一緒に、わたしもそのあとの学びを一緒に進めていきたます!

本質的な学びを確かなリアリティをもって体感したい方。
是非一緒にこの学びを進めていきませんか!?

もうヨーガをしている方、全員に受けて頂きたい!(笑)

 

というわけで、1週間たっても興奮冷めやらず・・・

 

まだまだ未熟ではありますが、どんどん触れていくことで身に着けていきたいので、

公式LINEでは、体験モニターを募集しております。

こちらのご興味がある方も是非LINEに登録してくださいね。

 

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それでは!

素敵な週末をおすごしください音譜