『舟を編む』感想

テーマ:
監督:石井裕也
原作:「舟を編む」三浦しをん(光文社刊)
脚本:渡辺謙作
出演:松田龍平、宮﨑あおい、オダギリジョー、黒木華、渡辺美佐子、池脇千鶴、鶴見辰吾、宇野祥平、又吉直樹(ピース)、波岡一喜、森岡龍、斎藤嘉樹、麻生久美子、伊佐山ひろ子、八千草薫、小林薫、加藤剛、ほか
2013年

楽しみにしていたこの作品を早くも観ることができて、素直に嬉しい。上映劇場の大きなスクリーンでの試写会だったこともよかった。辞書作りに15年という歳月をかけたマジメで熱い人々の物語である。

全体的な印象は、予想通りの作品だったということだ。予告篇を見てこうだろうと想像できる範囲を大きく逸脱してはいなかった。大ベストセラーが原作だから、なかなか難しいだろうが、もしまだ原作を読んでいない方がいるなら、読まないで映画を観たほうが良いと私は思う。

ストーリーは非常に素直。営業部から辞書編集部に異動になった馬締光也(松田龍平)に、古参編集者・荒木(小林薫)が編集部のもろもろを案内したり、編集部のみんなが辞書編集の仕事の手順などを教えてゆくので、観客にも辞書編集というものがどういう過程を経るものなのかが無理なく伝わってゆく。辞書をはじめとする本の山や、膨大な用例採集カードなど、本当に丹念なセット作りに感心する。玄武書房の辞書編集部は、本館にはなく、隣の古ぼけたビルの、決して居心地がよいとは言えない煤けた一室。これを見るだけで、辞書編集部の玄武書房における立ち位置がわかる。こつこつと十年以上もかけて辞書を作ってゆく作業は、誰もが嫌がりそうな仕事だし、会社としても採算が合わない。

まもなく定年を迎える荒木は、なんとか辞書編集に向く人材を他の部署から引っ張って来ようとするが、最終的に連れて来た馬締は、口数が極端に少なく、何を考えているかわからなそうな、いかにも変人然とした青年だ。彼のコミュニケーション能力の低さに、誰もが最初はとまどうが、やがて言語に対する彼の感性を皆が認めるようになる。そして、彼自身も辞書作りと大切な人との出会いによって成長してゆく。馬締の成長の過程を見るのが、見どころのひとつとも言えるだろう。

まったく個人的な話になるが、私はある辞書編集に少しだけ携わったこともあり、本を作るというのがどういうことなのかは、一般の人よりやや詳しいほうだと思う。辞書に関してはフェチと言えるほど好きで、馬締の部屋と同じくらいは我が家に辞書はあるだろう。実際に毎日毎日辞書は使うから、この物語自体が極めて身近な世界に思え、それを描いてくれたことに素直に感動した。「三校」だの「四校」だのの印が押された校正刷り、それを留めるクリップ、校正に使う赤青の色鉛筆(ずいぶん前から色鉛筆は使わなくなって、今では赤ボールペンだが)、徹夜の校正作業、紙に対するこだわり、それらがとても親しいものであるだけに、観ていて「うんうん、そうそう」と頷くことばかりだ。

原作にどれだけ忠実かという点は、原作ものを観るときに判断材料にはしない主義だ。自分のイメージと違うとわめいても仕方がないことだから。ただ原作の良いところをどう映像化しているか、原作にない部分のふくらませ方がどれだけ自然かということはやはり気になる。本作では登場人物の個人的なエピソードは少しふくらませてあるが、不自然と思われるようなところはまったくない。ひとつだけ少し残念なのは、私が原作を読んで感じた“艶”というものが欠けている気がする。その理由は自分の中でははっきりしているが、ネタバレになるかも知れないので、ここでは書かないでおく。

キャストに関しては、松田龍平は納得の馬締光也だ。まほろ駅前の行天のようなエキセントリックな役柄のよく似合う俳優さんだと思っていたが、本作ではガラッと印象が変わる。不器用でマジメで、情熱が表に出ない男をうまく演じていて、まだ20代だとは思えないほどだ。オダギリは、映画を観るまでは、これほど出番が多いとは思っていなかったので、嬉しい誤算と言える。西岡なる人物は、お調子者に見えながら、自分でも気づかないうちに、周囲に優しさを振りまいてしまう愛すべき男だ。周囲が落ち着いた人物ばかりなので、このキャラクター設定は目立つし、オダギリもお得意のコミカルな部分をうまく出していたと思う。恋人の三好麗美(池脇千鶴)とのやりとりが一番面白かった。その池脇は、本作での私の一押しキャストだ。実力派という評価は定まっているが、シリアスな役ばかり観てきたので、この映画では彼女の新たな一面をみたような感慨があった。黒木華は、舞台挨拶のときの大人しいイメージとずいぶん違う役柄で、宮﨑あおいの語った“毒”という意味がわかるような気がする。そして麻生久美子。彼女が出演することは知ってはいたが、ああいう出演の仕方とは!

でも、この映画について一言、と問われたら、「トラさんがデカい!」かも知れない(笑) 予告篇やスチールを見ても、さほど大きい猫とは思わなかったのだが、実際には本当に大きな猫でびっくり。馬締がトラさんと毛布を抱えるシーンがあるのだが、腕の長い松田龍平がもてあましそうになっていたのだ。

テーマ自体が好きなので、作品の善し悪しを客観的に判断できない部分も実はある。もう何度か観て冷静になれたら、違う感想も書けるだろう。今のところ、とても丁寧に出来ていて気持ちのよい映画だということだけは言える。紙の辞書に興味のない人たちに、少しでも興味を持ってもらえればなと切に願う。

(2013.2.19 丸の内ピカデリー2にて)

-----以下ネタバレのため白文字に-----

私の言う“艶”というのは林香具矢のことだ。原作では、香具矢は相当な美人ということになっている。馬締はそんな美人に一目惚れしてしまうのだし、西岡はこんな美人なら彼女にしたいなと思うんじゃなかったっけ?本当に申し訳ないが、宮﨑ではその魅力が出ない。だから、この映画は“艶”が感じられず、地味に見えてしまう。

西岡と麗美とのやりとりをふくらませたのはよかったと思う。西岡の部屋で麗美とウダウダする西岡が可愛いし、酔ってプロポーズしてしまうのも、伏線となって、うまい創作だ。オダギリはこういう麗美とのシーンが一番新鮮でよかった。

臨終を迎えた松本先生の病室に置かれていた用例採集カードに思わずホロッとなったし、項目抜けのチェックが終わったときは私も拍手したくなった。

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