中断だよ、ハニー。確かなんかゲームの話とかしてたよなぁ、メンテナンスに託けて怠けるついでにうやむやかい?というわけではなく、先日堂々と今年はちゃんと読後感想文は、話の途中でも何でも読んだ本の数だけヤリまっせ、というような宣言をしてしまったので、まったく関係のない話でもないんですけど、一時中断です。
さて。
とは言いましても、全英オープンから始まる、不規則な生活の一番の難点は、午前中寝ている、あるいは、昼夜逆転している、というモノです。そもそも、本を読み始めると眠くなるのは、おそらく昔っから読書は寝酒と一緒で、寝る前に申し訳程度に読む、という習慣のせいだと思うのね。だったら、一番眠くないのは、午前中、というか起きて間無し。それが自然と午前中に読書、ということになって、それがすこぶる捗るのよ。
今度は寝起きに新聞を読む、そしておもむろに必要以上にリクライニングしている座椅子に寝そべって、本を読むというのが習慣になってしまって、それ以外の用事というか、ちょっとペースが乱れると一日不愉快。やっぱりね、午前中にしっかり読書をすると、こんな生活しているんだけど、いい朝を迎えられたというか、これから一日気分がいいね、という感じになるから不思議。
しかし、それをかき乱しているのは、ゴルフ中継だけではなく、それと重なる形で、ゲームをやり始めてコレがもうヤリコミ型なので、困ってしまう。当然、読書の時間が削られる。その合間を縫って、やっぱりいい一日を送るために、本を読む。何だかなぁ、と思う。もっと何というか、しなやかに、心の赴くままに、ってことがなんで出来ないんだろうか、と思う。まぁ、通常のペースだと、ほぼ二日に一冊読むような感じなので、そうなると二日に一度は読後感想文になって、このブログもいつの間にか読書ブログになる懸念もなきにしもあらず、というのもあったりして。
前置きがな長くなりましたが、ケンさんシリーズです。
そろそろこの際だから、ネットで漁って漁って、ケンさんの著作は何でも読んでしまおう、と考えてます。本日、コレを読み終えた後、チェックをしてみたんですけど、まだまだ読んでいないモノが多い。ここにもやはり、征服欲、的なモノが顔を出しております。
で、この本ですけど、いわば海外文学への誘い、というモノですが、私にとっては翻訳文学への誘い、なのですね。
以前、私はどうも、翻訳モノに手がでない、という話をしました。理由は簡単で、やはり原書がわからない限り、その真の表現というか、作者の意図というか、そのストーリーが持っている志、みたいなものはわからないんじゃないかな、とかなり原理主義的抵抗を持っているのね。結局、翻訳物は、その翻訳者の主観というか、原書に忠実に、といっても限界があるのかな、なんて思うのよ。
他方、私は日本語が好き、というのもあって、それは最近よく思う。言語っていうモノには、いろんな側面があって、ともすれば五感を刺激するくらいの奥深さを持っているんじゃないか、と思う。特に本を読むと、そのフォントにすら、意図が込められているのを感じると、なんだか感動してしまう。漢字とか、象形文字を通り越した視覚に訴える印象を、私達は絵画的に汲み取っているとすら思う。
ただ、私は日本語以外はしゃべれないから、他の言語のニュアンス、というようなところがわからない。でも、それが結構、表現というか、伝えるという行為の中で、とても大きな部分を占めていると思うのね。STONESの歌詞なんかそうだけど、ぱらっと読むその裏側に、隠喩や比喩が隠れていることが多い。それはやっぱり、英語がわからないと無理なんだろうな、と思うのね。
まだ中学生の頃、私が初めて英語の歌詞を訳したのが、ジョン・レノンの「ジェラス・ガイ」だった。というか、ロキシー・ミュージックがカバーしたヤツの歌詞が、来日記念版に入っていて、日本語訳がなかったので自分でやってみたのが最初。それはパズルみたいで、面白くなって、当時はいろんな曲の歌詞を訳してた。
ただ、やっぱり中学生だから、細かい所まではわからなくて、辞書で調べたモノを並べて、なんとなく文章らしい感じのニュアンスで訳していた。文法とか曖昧だけど、こんなコトを言ってんじゃね?ぐらいの感覚で、答合わせは、当時通っていた英語塾の先生にしてもらっていたのね。
つまり、そのニュアンス、っていう所から、英語に接しているので、そこに拘るのは仕方が無いのかな、ということを最近になって気が着いたり。もちろん、昔は翻訳物も読んでいた時期もあるし、そういう拘りがない時期もあった。ちょっと話は逸れるけど、ウチの家には昔、児童文学全集、みたいなモノがあって、それに水滸伝とか、ギリシャ神話、とかあったんだけど、アレっていわば原本があって、それを子供向けに手直ししたモノで、つまりは改ざんしたモノでしょ?確かに、子供には読みやすいのかもしれないけど、教育上は良くないんじゃないの?と思う。
それでも、そんな私でも、やっぱりケンさんに言われると、来年辺り、この本で紹介されているヘンリー・ミラーとか、ドストエフスキーとか、読んでみてもいいかな、と思うようになるから不思議(笑)。特にバタイユは私にピッタリのような気もするし。実は、今年の初め、というか春ぐらいなんだけど、中原中也の詩集を読んだのね。昔、もっと簡単なモノは読んだことあるんだけど、ほぼ全集的な感じの詩集は、今回が初めてで。その流れから行くと、やっぱりランボーは読んどかないと、とか思う。
この本でも、やはりこれだけは読んでおいた方がイイよ、というニュアンスで書かれるんだけど、それ以上に当時の文学シーンで、いかにその作者の作品達がセンセーショナルだったか、が述べられている。そのほとんどが、性的な表現に踏み込んだ、というようなことに集約されているのが、とても面白いと思ったのね。
というのも、最近の表現の中で、一番抑圧されているのが性的表現だと思うのね。ある種囲い込みをされて、明確に区分けされてのみ、存在している感もある。
でも、ちょっと考えてみてよ。
テレビで、お嬢さんのあられもない姿が見られなくなって久しいけど、その一方で、姉さん殺人事件です!バババ~ン、でハイ、死体。戦争でどっか~んとか、たとえ架空の絵空事でもね、コレっておかしくネ?
性というモノの方がずっと自分たちにとって身近で、根元的で、いわば誰でもが通り過ぎるモノで。コレは私の偏見だけど、死というネガティブなモノが平気で垂れ流されていて、性というポジティブなモノが規制されるのはどうも解せない。かなり端折って、その理由を述べるなら、たぶんきっと、男社会の弊害だと思う。
そもそも、私はお嬢さんの裸に劣情も感じるけど、それと同じくらいの重さで美しさも感じる。ただ、どうも、動画になるとその美しさも半減するような気がする。メディアがなんであれ、やはり静止画の裸体の美しさには、きっと誰も敵わないと思う。ともすれば、生身の裸でさえ、生々しすぎて美しさが失せてしまうと感じることすらある。
動く裸体の美しさを表現することに成功しない限り、やはりそれは劣情で片づけられてしまうと思うのね。その辺の努力が、きっと突破口になると思うんだけど。そしてそれはきっと、お嬢さん達の腕にかかっていると思うんだけどね。今はフェミニズム、というか女性上位運動、みたいになると結局、男になろうとするから全部失敗してしまう。
オオ、そういうようなこと歌った歌がエレクラにあったな。
プレミアム・ハッピー ←←←クリックしてね、久しぶりに。
話があらぬ方向に行ってしまったけれど、来年辺り、というか今読みたい本をだいたい読んでしまったら、きっとこの本をお手本に、ついに翻訳物に手を出すと思うのね。別に意志を曲げたわけでなく、面白そうだから。ただ、翻訳者には気を遣わないと、というのは相変わらずある。その辺の指標を、今の内から探しておこうと思うのね。
なんてね、でまた全米プロが今週末からだよ、って言ってみました。アメリカで試合がある時には、中継と更新の時間が被らないんで済むんですけど、結局中継の時間まで起きてしまって、気が着くと夜を明かしてしまうことになる。いつ寝るかが問題になるんだけど、めんどくせぇな、と思うのね。それに今ゲームに熱中してしまっているから、実は、読書もお休み、とか都合のいいこと言っているのね、ってコトで。
それでは今日はこの辺で、ごきげんよう。