■万事休す 第9章「無宗教者」

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雪原の中にポツンと一つ、煌々と明かりの灯る古いレンガ造りの建物。そこがいったいどんな場所なのか分らなかったが、ぼくにはその館が砂漠の中でようやく見つけたオアシスのように見えた。ぼくは最後の力をふり絞って、雪を踏みしめながらその建物に向かって歩みを進めた。



館の入り口にたどり着いたとき、ぼくの口からハアハアと吐き出される白い息が窓から漏れる明かりを受けて淡く輝いていた。

ぼくは一つ大きな息をついてから、玄関のドアをノックした。


しばらくするとドアがゆっくりと開き、初老の男が顔を覗かせた。無言のままこちらを見つめる男に、ぼくは言った。

「ステーションポリスで、ここに行けば泊まらせてもらえると聞いて来たのですが」

すると男はやはり無言のまま、中へ入るよう手招きした。



館の中は薄暗かったが、高い天井からぶら下がった古ぼけたランプの光が、ぼんやりと白い壁を照らしていた。零下数十度の世界で丸一日過ごしていたぼくにとって、館の中の暖かさは天国のようだった。


入口を入ってすぐ脇に、ホテルのカウンターのような木造りのデスクがあり、男はデスクの引き出しから何やらノートのようなものを取り出すとそれを広げ、ぼくのほうへ向き直った。

「名前は?」

男が訊ねた。

ぼくが名前を答えると、彼は矢継ぎ早にこう言った。

「国籍と職業、それから宗教は何だ?」

「日本人の旅行者。学生。 宗教は……」

一瞬考え、最初「Buddhist(仏教徒)」と答えようかとも思ったが、「Pagan(無宗教者)だ」と答えた。無宗教。何の神も信じていない者。無宗教者とは異教徒のことであり、また快楽主義者のことでもあるから、今思えば、その時のぼくにはピッタリの呼び方だったように思う。


男は顔色一つ変えずにそれらをノートに書き込むと、後ろの棚から何やらゴソゴソ取り出してきて、ぼくに手渡した。それは、きれいに洗濯された白いシーツと、枕と、毛布だった。

男は「ついて来い」と言ってゆっくりと歩きはじめた。長い廊下をわたり階段を昇り、二階に着くとまた長い廊下を進んで、廊下の奥にある部屋の前に着くと、男はぼくに「中へ入れ」と目くばせした。ぼくは男に言われる通り、部屋の中へ入った。


次の瞬間、たくさんの視線がぼくに向けられたのを感じた。見るとそこには67人の老人たちがベッドに横たわっており、彼らがいっせいにぼくを見つめていたのだった。

ベッドは全部で8つ。パイプ製のベッドが整然と並べられており、部屋の隅の少し高い位置にテレビが一つ置かれていた。テレビのブラウン管にはニュース番組のようなものが映し出されていて、女性アナウンサーが早口のドイツ語で何やらまくし立てていた。

一瞬、「病院の大部屋のようだな」と思ったが、その部屋にはベッドとテレビ以外なにも物らしい物がなかったので、明らかに病室とは雰囲気が異なっていた。



ぼくを案内してくれた男が、一つ空いている一番端のベッドを指さし、「これがお前のベッドだ。ここで寝ろ」と言った。

ぼくはそのベッドに、手にしたシーツを敷き、枕を置き、黒いコートと帽子を雪を払ってから脱ぎ、ベッドに横になった。部屋にいた老人たちは、最初こそ、このいきなり入ってきた謎の東洋人に好奇の目を向けていたが、すぐに何事もなかったようにテレビのニュース番組を観はじめた。



老人たちとは一言も言葉を交わすことなく、ぼくはベッドに横になって彼らに背を向け、少しヒビの入った白い壁を見つめながら、心の中でつぶやいた。

「ああ、やっと寝られる。俺は助かったのだ」

ここがどこだろうが、ここにいる老人たちが何者だろうが、そんなことはどうだっていい。とにかく暖かい室内でゆっくり眠ることができる。そして明日の朝には何か食べものをもらえるのだ。



ぼくは21年間のこれまでの人生で味わったことのない安堵感を覚えながら、ゆっくりと目をとじた。



つづく



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「このままここで寝たら、凍死するかも…」 本当にそう思った。


「よし、Polizei(ポリツァイ)へ行こう!」 ぼくは駅のホームの端の方にあるステーションポリスへ行き、明かりの灯った交番の中へ、少し遠慮がちに入っていった。

狭い部屋の中にいた屈強そうなドイツ人私服警官らしき男たちが、突然入ってきた謎の東洋人に向かって一斉に鋭い視線を向けた。



ぼくは自分を落ち着かせるために一呼吸ついてから、ゆっくりと英語で話しかけた。

「自分は日本人の学生で旅行者です。実は、旅行中に財布を盗まれてしまい、いま一文なしです。ここ数日ほとんど何も食べておらず空腹で、今夜泊まるところもありません。どうしたらいいでしょうか?」



「金を盗られた」と言ったのは、ここで、「実は、いまパリに住んでいて、女と旅に出たのですが・・・、かくかくしかじかこういう訳で、その結果このざまです」 などというお間抜けな話をしてもしょうがない、と思ったからだ。

すると三人のうちの一人が、不審そうな表情で「パスポートを見せろ」と言った。ぼくが差し出したパスポートを確認した三人の男は互いに顔を見合わせると、ドイツ語で何やら相談しはじめた。しばらく話したあと、一人がぼくに向かって言った。


「本来なら日本領事館へ行ってもらうところだが、あいにく今は金曜の午後7時だ。もう領事館は閉まってしまった。月曜の朝9時まで開かない」

「じゃあ、どうすれば・・・」 とぼくが言いかけたとき、別の男が言った。



「トーマスストラッセへ行け」

トーマスストラッセ? ぼくが首を傾げると、彼は机の上から一枚のメモ用紙をとり、ボールペンでそこに地図のようなものを書きながら、

「そうだ、トーマスストラッセだ。ここへ行けば、寝られる。食べものもある」と答えた。


彼は、トーマスストラッセがいったい如何なる場所なのか、については一言も説明してくれなかったので、一瞬、「そこはどんな所なんだ?」と思ったが、それがどんな場所であろうと、そのときのぼくにとっては、もうどうでもよかった。

ぼくは彼に向かってすがるように聞き返した。

「そこへ行けば本当に、ただで眠ることができて、食べ物も食べられるんですか?」

男は大きくうなづいて、「Yes」とだけ答えた。

そして彼は簡単な地図と、「ThomasStrasse」とだけ書かれたその紙切れを手渡しながら、念押しするように言った。

「ただし、月曜の朝9時になったら必ず日本領事館へ行け。いいな。月曜の朝9時だ」

ぼくは「ダンケ」と礼を言って、ステーションポリスを後にした。



「よし、なんとか助かりそうだ。とにかく、そのトーマスストラッセとやらへ行くのだ。そこへ行けば眠れる。食べものもある」
ぼくは渡された地図を手に、再び駅を後にし、吹雪の街へと歩き出した。道路にはさらに雪が降り積もり、足取りを重くした。

しばらく歩くと、道に迷ってしまったようだった。当たり前である、なにせその地図には、マル印と「ThomasStrasse」としか書かれていないのだ。途中の目印もなにもない。

仕方がないので、道行く人に、「すみません、トーマスストラッセはどこですか?」と訊ねた。そしてまた道に迷った。また人に訊ね、また迷った。またしても意識が朦朧としてきた。寒さと疲労と空腹は限界点を超えていた。

三人目に道を訊ねた若いブロンドの女性に、「警察から、トーマスストラッセへ行けと言われた」と説明すると、彼女は何か合点がいったかのように「トーマスストラッセに行けば、古いレンガ造りの建物があるから、この地図にマル印で書かれているのは、たぶんその建物だと思うわ」と教えてくれた。

そうか、古いレンガ造りの建物だな。ぼくは再び気力をふり絞って歩いた。彼女の教えてくれた方向へ向かって。そこはもう街のはずれだった。

すると、突然広い空地のような場所が目の前に広がり、その雪原のようなだだっ広い場所に、ポツンと一つ、煌々と明かりの灯る古いレンガ造りの建物が浮かびあがった。


ここだ! ここがあの警官が言っていたトーマスストラッセだ!


ぼくは歓喜に胸を震わせながら、最後の力をふり絞って雪を踏みしめ、目の前の建物を目指して足早に進んでいった。



つづく

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■万事休す 第7章「謎の東洋人」

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ぼくは極寒のドイツ、ボンの街で独りぼっちになってしまった。時刻は夕方。外は吹雪。気温はおそらく零下10℃以下。空腹。

さて、どうする? ぼくは自問自答した。このままここでじっとしていても始まらない。

ぼくは、おもむろに、駅を出て、吹雪の中に向かって歩き始めた。




駅の観光案内所のようなところで貰った地図を頼りに、ひたすら歩いた。目指すは幹線道路(国道)。そこまで行って、ヒッチハイクをするのだ。ヒッチハイクをしてフランスまで帰る。きっとなんとかなるさ。



1時間は歩いただろうか。やっと国道らしきところへたどり着いた。そのとき持っていた旅行鞄はなぜか荷物がいっぱいでかなり重く、衰弱しきった身体からさらに体力を奪っていた。ちなみにそのバッグはバックパックなどではなく、パリで買ったUpla(ウプラ)のちょっと小洒落たモスグリーンの本革製旅行鞄だった。こんなファッショナブルなバッグを持って一文無しで放浪している男がどこにいるだろうか。自分で自分が滑稽に思えた。



国道に着いたのは、おそらく夕方の5時過ぎくらいだったろうか。片側3車線の広い道路を大量の車が猛スピードで行きかっている。

ここに来るまで、どちらの方向を目指して、どこの街を目指してヒッチハイクするかは全く考えていなかった。「とにかくヒッチハイクをして、できるだけフランス国境近くまで移動する」。それしか頭になかった。

ぼくはここでもう一度地図を開き、いま自分がいる場所と、目の前の道路がどの方向にどのように伸びているのかを確かめた。そこで閃いた考えはこうだ。

「できるだけフランス国境に近い大きな街まで行く。そこへ行けば、たぶんフランス行きのトラックが多いはずだから、そこからまたフランスに向かってヒッチハイクをする」

地図を見ると、ここから一番近い大きな街はKöln(ケルン)だった。ふと、「ケルンといえば、オーデコロン(ケルンの水)の語源となった街だな」と思ったが、そんなことはどうでもいい。とにかくケルンを目指すのだ。


ぼくは手にしていた段ボール紙に、マジックで「Köln」と大書きした。しかし、あの時、あの段ボール紙とマジックをどこで手に入れたのか、今となってはまったく思い出せない。不思議だ。

ぼくは道端に立って、そのボードを両手で高々と掲げた。人生初のヒッチハイクだ。基本的に楽観的なぼくは、たぶんすぐに停まってくれる車が現れるだろう、と思っていた。

30分が経ち、1時間が経ち、やがて2時間近く経った。その間に何十台もの車が通り過ぎて行ったが、一台も停まってくれなかった。どの車も、停まる気配すら見せず、ぼくの目の前を猛スピードで疾走していった。


考えが甘かった。疲れた。気力も萎えた。あたりはすっかり夕闇に包まれていた。「もうこれ以上ここに立っていてもらちがあかない」。諦めたぼくは、またボン駅に向かって重い荷物を引きずるように歩きはじめた。

いま冷静に考えれば、このヒッチハイクはかなり無謀な行動だった。悪条件が重なり過ぎていたのだ。


まず、ぼくの風体。 

この辺りでは見かけない謎のアジア人。年齢不詳、国籍不明。しかも全身黒ずくめ。ちなみにその時の格好は、黒い山高帽を被り、黒いマフラーを巻き、黒いロングコートを羽織っていた。そして、これまた謎の大きな鞄。どう見ても普通の旅行者には見えない。誰が見ても怪しい。怪しすぎる。もし自分が運転手の立場だったら、こんな男は絶対に乗せないだろう。一分の迷いもなくだ。

さらに悪条件が重なっていた。それは曜日と時刻だ。金曜の夕方6時前後。おそらくほとんどのドライバーは週末気分で帰途につく時間帯。きっとトラックだって、早く仕事を片付けようと急いでいたにちがいない。そんなときに、余計なトラブルに関わりたくないと思うのは当然だ。よほど酔狂なヤツでない限り、誰だってそう思う。その意味で、あのときのドイツ人ドライバーたちはみな実に賢明であった。



駅に着いたとき、陽はすでにとっぷりと暮れていた。金曜の夜。駅構内を、大勢の人々が週末の華やいだ雰囲気を放ちながら楽しそうな表情で行き交っている。

「ああ、俺は今からどうしたらいいんだ」

しばらく考えたが、名案は浮かばなかった。「持っているモノを道端で売って金する」などという非現実的な考えも浮かんだが、すぐに頭から消えた。そして思った。

「よし、とにかく今夜は駅の地下道かどこかで野宿して、明日またヒッチハイクにチャレンジしよう」

寝るのにちょうど良さそうな場所を探して、あちこち歩き回った。しかし、歩いているうちに、少し冷静に今の状況を考えた。空腹、衰弱は極限状態。外気温はおそらく零下20℃近い。身体は冷え切っている。これから深夜にかけてさらに冷え込むだろう。意識は朦朧。

「このままここで寝たら、凍死するかも…」 真剣にそう思った。じゃあどうする?


その瞬間、ぼくは踵を返して駅のホームへ向かった。たしかホームの端の方に、ドイツ語でPolizei」と書かれたポリスボックスのようなものがあったはずだ。たぶん警察の施設だ。“ポリツァイ”と読むのだろうか? ドイツ語らしいカッコイイ響きだな、と思った。



「よし、Polizeiへ行こう!」

ぼくは足早にホームへ戻り、薄暗がりの中に煌々と明かりの灯ったPolizeiの中へ、少し遠慮がちに入っていった。

狭い部屋の中には、3人の屈強な体つきの中年男がおり、突然入ってきた謎の東洋人に向かって一斉に鋭い視線を向けた。




つづく

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ぼくは極寒のドイツ、ボンの街で独りぼっちになってしまった。

まあいい。今さらどうのこうの言っても始まらない。緊急に対処すべき問題は、今から自分がどうやってこの状況からサバイブするかだ。

とにかく一息入れよう。駅の構内に立ちすくみながら、ぼくは胸ポケットの中に入っているキャメルの箱を取り出し、マッチで火をつけた。最後の1本だった。旨かった。煙草の煙と、駅の外に見える吹雪の白が重なり、一瞬、とても綺麗な白色になって、消えた。

次に、財布の中身を確かめた。小銭が何枚かあったので数えてみたら、なんとかパンを一切れ買えるか、または煙草を一箱買えるか、といった金額だった。

普通、ここで考えるべきことはこうだ。


「この金で親か友人か誰かに電話して、銀行口座に金を振り込んでもらう」

ぼくもその時、そう考えたのだと思う。いや、考えたはずだ。しかし、そうしなかった。たぶん出来なかったのだ。理由は忘れたが、そうできたのなら、当然そうしていたはずだ。


確か、手持ちの小銭ではもはや長時間通話が不可能だった。そこで、コレクトコールで誰かに電話しようとした。しかし、当時ドイツからフランス、または日本へのコレクトコールシステムが出来ておらず、コレクトコールができなかった。


まあ、そんな感じだったと思う。

もちろん当時、携帯電話などというものも無かったし、貧乏学生の分際でクレジットカードなどというモノも持っていなかった。

とにかく万策尽きたわけだ。

さて、じゃあこの小銭をどうする?

人間、山で遭難したり、海で遭難したりした時、生きのびるために、どんな行動をとるだろうか。たぶん、まずは水と食料の確保だ。

ぼくは手のひらに載せた数枚のコインを見つめながら考えた。喉が渇いていた。そうだ、まずは飲み物だ。しかし、ここ数日ほとんどまともな物を食べておらず、腹も減っている。いや、煙草も吸いたい。でも三つ全部買う金は無い。

ぼくは迷った。ずいぶん迷った。迷った挙句、駅の売店買ったのは、コーラと、煙草(キャメル)だった。

なぜパンを買わなかったのだろう。

もし、死に際に「一つだけ、何を口にしたいか?」と尋ねられたら、その答えは人によって異なるだろう。食べ物、飲み物、煙草。今の自分だったら、たぶん、グラス一杯の冷えたビールだろう。

その時のぼくは、コーラと煙草を選んだ。とんだジャンキーである。

しかし、その時のコーラと煙草の一服はほんとうに旨かった。


時刻は夕方。外は吹雪。気温はおそらく零下10℃以下。空腹。

さて、どうする? ぼくは自問自答した。

このままここでじっとしていても始まらない。

ぼくは、おもむろに、駅を出て、吹雪の中に向かって歩き始めた。


つづく

さて、第4章「命のビザ」を書いてから随分と日が経つ。

この蒸し暑い梅雨空の下、極寒のドイツでの話を語るなど、まったくもって季節はずれこの上ない訳だが、やはり書き続けなくてはならない。


まあ、この駄文の読者が何人いるのか知らないが、例え読者がたった一人であったとしても、その人のために、ぼくは書き続けなければならない。それが物書きというものだ。

話は逸れるが、ぼくはここ何年か毎日、日記を書いている。一日も欠かさずにだ。以前、その日記の一部をこの場で公開したことがある。しかし、日記というものは、通常他人には見せない。この先何年も、何十年も書き続けても、その日記の読者はどこにもいない。


そう思いながら毎日、毎日徒然なるままに書き綴っているわけだ。だがしかし、書くと言う行為は、音楽や絵画、写真や映画といった芸術と同じく、それを受け取る人がいるから成立する創作活動だ。

そもそも芸術創作というものは、コミュニケーション手法の一つであろうと思う。それを観る、聞く、読む、または感じる人が居ないと、その存在意義がないからだ。


だからぼくは、日記を書く時、一応ある一人の読者を想定して書くことにしている。それは息子だ。息子は今日ちょうど7才になったばかりである。

ぼくが死んだ時、息子がこの日記を読んで、「ああ、親父もなかなか面白い奴だったな」、などと思ってくれたらそれでいい。その日のために、毎日粛々と書き続ける。


能書きはこれ位にして、本編に戻ろう。


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■第5章 「冷たい女」



ぼくとNは、西ドイツのフランス大使館から発行されたフランス再入国ビザを握りしめて、雪道をかき分け歩き、やっとボンの駅に着いた。寒さと疲労と空腹で意識も朦朧としていた。


ぼくらは、とにかくパリ行きの列車のチケットを買おうとした。財布の中からドイツマルク紙幣をかき集めた。

そして、ゆっくりとその紙幣の金額を数えた。嫌な予感がした。Nに、「おい、君、幾ら持ってる?」と訊くと、Nは手持ちの金額を答えた。ぼくはもう一度、自分の財布の中の紙幣を数え直した。

そして愕然とした。

パリまで行く、二人分の列車代がない…。


Nは、「どうしたの?」といった風に首を少し傾げて、こちらを見た。ぼくは、ゆっくりと説明した。いま我々の身に降りかかっている最悪の事態を。

その瞬間、Nの表情はたちまちこわばり、沈黙した。ぼくも沈黙した。

ここは冷静にならなければいけない場面だ。人間、最悪の事態に陥った時こそ、最も冷静にならなければならない。


もう一度、二人が持っているお金の合計金額を計算してみた。そしてあることに気が付いた。それは、「一人分のチケットだったら、買える」 ということだった。

ぼくはNの眼を見つめて、静かに言った。

「一人分のチケット代ならあるよ。つまり、君と俺のどちらか一人ならパリへ帰れるということだな」

その時、Nの瞳孔が一瞬パッと開いたのを、見逃さなかった。


ぼくはもう一度言った。

「どっちか一人なら帰れる。今なら」


当然、Nは逡巡するだろう、と思った。

しかし彼女は、間髪おかずに答えた。

「じゃあ、私帰るね」


その顔には薄らと笑みさえ浮かんでいたように思えた。

さらに、「だいたい、こんな事になったのは、あなたのせいなんだから」と詰(なじ)るように言った。

唖然とした。「おいおい、そりゃねえだろう!」と心の中で叫んだが、ぼくは心の動揺を隠して平静を装った。そして、ぼくも間髪おかずに言った。


「そうか。わかった。じゃあ君だけ帰れよ。まさに不幸中の幸いじゃないか。俺は一人でなんとかするから大丈夫だ」

彼女の冷徹な反応には一瞬びっくりしたが、その時はそう答えるしかなかった。

だってそうだろう。女と二人、海の中で溺れて死にそうな時に、1本のロープが差し出されたとする。誰だって当然、女に先にロープにつかまるよう促す。それがどんな悪女であったとしても、だ。


その時は、そんな心境だった。まったく交渉の余地はなかった。

なぜなら、極寒のドイツで、ぼくらは本当に寒くて、空腹で、疲労しており、肉体的にも精神的にも、もはや限界という状況だったから。どちらか一人が助かるのなら、生きのびるべきだ。



Nはすぐさまパリ行きのチケットを買い、列車に飛び乗り、振り向きもぜす去って行った。「冷たい女だな」と思ったが、そんな事は最初から分かっていたのだ。彼女を責めるよりも、そんな女に振り回された自分に腹が立った。


ぼくは極寒のドイツ、ボンの街で独りぼっちになってしまった。もちろん、ドイツ中を探したって、誰ひとり知り合いも友人もいない。“陸の孤島”とはこのことだ。



さて、どうする?


つづく









ぼくらは西ドイツの首都ボンの駅近くにある安ホテルにチェックインした。そしてその晩は二人とも疲れ果て、ぐっすりと眠った。




翌朝、ホテルで軽い朝食を済ませたぼくらは、外に出て1月の冷えきった空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

とりあえず市内を散策してみよう、ということになり、あてどなく初めて訪れるこの街をブラブラと歩いてみた。



駅前広場に行くと、ベートーヴェンの銅像がポツンとたっていた。

「そうか、ベートーヴェンは今から約200年前、この街で生まれたのだ」

ぼくはベートーヴェンはあまり好きではなかったので、特にこれといった感慨もなかった。これがぼくの好きなバッハの銅像だったら少しは感動したかもしれないが。

ボンは狭い街だった。「ここが本当にヨーロッパの大国の首都なのだろうか」と気抜けするほど、小さく、静かで、これといって何もない閑散とした感じの街だった。

ただ、悠久の歴史を経て何層にも積み重ねられた重厚で重苦しい空気だけがそこにあった。

ヨーロッパの街の多くが、様々な人種や宗教や、それらのぶつかり合いによって生まれた戦いや殺し合い、憎しみ、悲しみといった人間の業というか怨念のようなものが空気の中に浸み込んでしまっているような感じを受ける。

これは、同じく長い歴史を持つ日本の街では感じられない、独特の空気の臭いと重さだ。




ぼくとNはボンの街を小一時間散策した後ホテルへ帰り、一息ついた。

「さて、そろそろ帰り支度をしようか」

ホテルの窓から見える教会の赤い屋根をみつめながらぼくが呟くと、Nは、

「そうしましょう。この街、何も面白いものがないわ」

と無機質な声で答えた。

どうやら彼女にとってボンは、パリのような華やかさもなければ、ロンドンのような刺激的なものもない、何の意味も持たない街であるらしい。

「ほんとうに、いったい何のためにここまで来たんだ」と心の中で思ったが、口には出さなかった。


まあいい。とにかくこれでパリへ帰ることができる。ぼくらは早速、その日の午後、街の外れにあるフランス大使館へ出かけることにした。フランスへの再入国ビザを申請するためだ。



なぜ入国ビザが必要だったのかは、前述したようにパリでの爆破テロが原因だった。ぼくが渡仏した前年の秋時フランスは、3ヶ月以内の滞在であれば観光目的ということで、ビザ無しで入国することができた。ところが、突如始まった連続爆破テロのため、短期滞在であっても「全ての外国人に入国ビザが必要」とする法律が、フランス国会で一夜にして成立してしまったのだ。




ぼくらはビザ申請のため、フランス大使館へ足を運んだ。いろいろと面倒くさい書類に記入し、申請を終えホテルへ戻った。あとはビザ発行の連絡を待つだけだ。



当初、再入国ビザは申請してから23日で発行されると聞いていたので、数日後には連絡が来るだろうと考えていた。しかし、3日経っても4日経っても連絡がない。5日経っても6日経ってもまだ連絡がない。このままだとドイツ滞在資金が底をついてしまうかもしれないと思ったぼくは、「もっと安いホテルへ移ろう」とNに提案した。彼女は最初嫌がったが、ぼくの説得でしぶしぶ承諾し、ボン市内で一番安いホテルを探してそこへ移った。




そして1週間が経ち、10日が経った。しかしまだ大使館から連絡がない。「これはマズイな」と真剣に焦り出したぼくらは、食費の出費を減らすため、食事を11回に抑えるまでになっていた。もうすぐホテル代も払えなくなる…。不安と焦りと空腹のため、気力と体力がどんどん衰えていった。外ではしんしんと雪が降り続け、外気温は零下10℃以下だろうと思われた。



そんなある日、ついに大使館からビザが発行されたという連絡が来た。「助かった!」今度は声に出して叫んだ。


急いで大使館まで行ってビザを受け取った。まさに命のビザだ。ぼくらは、急いで旅支度をし、駅に向かうためホテルを出た。



雪道をゆっくりと歩きボンの駅に向かった。寒さと空腹で思うように体が動かなかったが、なんとか駅に着いた。疲れた。ぼくらは、すぐにパリまでの電車賃を調べた。そして、二人の財布から残ったドイツマルクをかき集めて、パリ行きのチケットを買おうとした。




しかしその瞬間、ぼくの背筋が凍った。またしても最悪の事態が起こった。

万事休すである。




つづく










ぼくはNとともにクリスマス明けのパリを後にした。自由と孤独に浸る放浪の旅になるはずが、期せずして女連れの旅になってしまったことは、ぼくの心を憂鬱にした。ドーバー海峡に面した港町カレーに向かう夜行バスに揺られながら心の中でつぶやいた。

「これじゃあ、まるで観光客じゃないか」


ロンドンに着いたぼくらは、ヴィクトリア・ステーション近くの、こじんまりとしたクラシカルな雰囲気のホテルにチェックインした。そして、恐れていた通りぼくらは翌日から完全な日本人ツーリストと化した。

タワーブリッジ、ロンドンタワー、シティ、ウェストミンスター寺院、セントポール大聖堂、バッキンガム宮殿、ノミの市、有名なブティックやロンドンパブへ出かけ、バレエの舞台を観たり大英博物館へ行ったりした。

さらに、バスツアーでオックスフォード、バース、ストーン・ヘンジ、シェイクスピアの生家があるストラトフォード・アポン・エイヴォン、へ。こうしてあっという間に1週間が過ぎ、ぼくらはロンドンで新しい年を迎えた。

ぼくはNに言った。


「もう、パリに帰ろう」

ロンドンで予想外の散財をしてしまい、旅の資金が残り少なくなっていたし、ぼくはもうこの旅に辟易していた。一刻も早くパリに帰りたかった。


しかし、ぼくらはドーバー海峡を渡り、ベルギーを経由してドイツ国境まで来てしまった。またしてもNの、「どうしてもドイツを一目見てから帰りたい」という主張に押し切られてしまったのだ。なぜNがそこまでドイツ行きを切望したのかは、今となってはよくわからない。



ベルギーとドイツの国境駅で国境警備隊が列車に乗り込んできたとき一瞬マズい、と思ったのは、単にフランス出国時のぼくのパスポートに押された出国スタンプの日付が、法律で定められた滞在期間を微妙に超過していたからだった。しかし、よくよく考えてみれば、第3国つまりドイツにとって、自国に入国する外国人が他国で不法滞在していようがいまいが、そんなことはどうでも良いことなのだ。


国境を舞台にした緊迫感あふれるシーンをドラマチックに描くためには、本来なら、「実はある国際犯罪に手を染めていてインターポールに指名手配されていた」、などといったストーリー展開が望ましいのであろうが、賢明な読者諸君ならこのような多少スベり気味のオチが持つある種奥深い世界観、妙味をご理解いただけるものと思う。


さて、とにかくぼくとNは極寒のドイツへ辿りついた。辿りついた、というか、来てしまった。もう後戻りはできない。

ぼくらは夜8時頃、ドイツの首都ボンの駅に着いた。
事前にマルク紙幣に換金していなかったので、英国ポンド紙幣と多少のフラン紙幣を手にして何軒かのホテルを回ったが、マルク紙幣でないとダメだと言われた。もうこの時間では、通貨換金施設は全て閉まっている。寒い。腹が減った。もう野宿でもするしかないか、と諦めかけていた時、一軒のホテルがポンドでもOKだと言ってくれた。


ああ、野宿せずにすんだ。ぼくらはそのホテルにチェックインした。疲れた。そして安堵感。フロントにビールをオーダーした。乾杯した。この時のドイツビールはこれまでの人生で3本の指に入るくらい最高に美味いビールだった。


しかし、ほっとしたのも束の間。翌日から、二人は予想外の展開へ、最悪の事態に向かって一気に転げ落ちていくのであった。


つづく

ベルギーとドイツの国境駅。雪の中、ぼくらが乗ったドイツ行きの列車がゆっくりと停まった。数人のドイツ人国境警備隊が乗り込んできた。「やばい!」と思った。大柄なドイツ人隊員がぼくの前に立ち、「パスポートを見せろ」と言った。

ぼくは、ゆっくりとコートの内ポケットからパスポートを取り出し、男に差し出した。心の動揺を隠すため、相手の目をじっと見つめ、首を少し傾げた。男のやや緑がかったダークブルー瞳はぼくに威圧感を与えた。男はぼくのパスポートを受け取ると、素早い動作で中を広げてパラパラとページをめくった。それはたった数秒のことだったが、とても長い時間に感じた。

男はぼくのほうに向き直り、口許に微かな笑みを浮かべながら低い声で言った。

「ヤパーナー(日本人)か。よい旅を。ダンケ」

隣に座っていたNもパスポートを差し出したが、男はほとんど形式的にチェックしただけだった。

やった、助かった! ぼくは大きくため息をついた。しばらくすると警備隊員たちは列車を降りていき、ゆっくりと列車が動き始めた。ぼくらは無事ドイツに入国できたのだ。車窓の外に広がる大雪原。国境を越えても風景はなにも変わらない。



ここで、なぜぼくが極寒のドイツに足を踏み入れたのか、なぜ国境警備隊に捕まるかもしれない、と思ったのか少し説明しておく必要があるだろう。



ぼくは、前年(1986年)の9月初頭にひとり渡仏し、パリに住み始めた。いわゆる遊学である。当時、ぼくは日本の大学で仏文科の学生だったが、文学青年ならば若いうちに一度はパリ遊学すべし、という慣例にならってフランス行きを決めたのだった。いってみれば永井荷風気取りである。

初めて訪れた初秋のパリ。空はどこまでも青く透きとおり、太陽は燦々と輝き、空気は冷たく凛と張りつめていた。やがて本格的な秋になるとリュクサンブール公園の枯葉が夕陽に照らされて、黄金色に輝いた。誰かの小説に書かれていた通り、黄色なんてもんじゃない。ほんとうに神々しいくらいに輝く金色なのだ。


ぼくは生まれて初めて住む異国での日々を満喫していた。

しかしある日を境に、パリの街が物騒なことになりはじめた。イスラム過激主義者による連続爆破テロである。街のあちこちでところかまわず大規模な爆破事件が起きた。街には自動小銃とサブマシンガンを手に完全武装した国家警察隊員(または国家憲兵隊治安介入部隊か?)があふれ、メトロの改札には必ず二人の武装警官が立っていて、外国人とみるやいきなり「carte d'identitéIDカード)を見せろ」と言われた。銀行の爆破が多かったせいか、銀行にお金をおろしに入るときなどは、警備員にすべての所持品をチェックされ、さらに全身を磁気センサーのようなものでくまなく調べられた。驚いたのはマクドナルドに入店する際にも、同様の身体チェックをされたことだった。マックへ入る老若男女ひとり一人の全身を厳重チェックしている様子はなんだか異常な光景であった。



そうこうしているうちにクリスマスになり、ぼくはヨーロッパを放浪する旅に出発したのだった。目的地はなく、ただ風の吹くまま気の向くまま、ヨーロッパをブラブラしようと思っていた。


「ぼくは」と書いたが、最初は一人で旅する予定だった。放浪の旅なんだから、一人に決まっている。孤独と自由を思う存分楽しみ、そして詩人になれる一人旅は若者の特権である。

しかし、ある女が一緒に行きたいと言った。Nである。ぼくは随分とそれは無理だと説得したが、最後には折れて承諾してしまった。ああ、女連れの旅なんてカッコわるくてしょうがねえや。と心の中でつぶやきながら、ぼくらはクリスマスの夜をパリで過ごし、翌日旅立ったのだった。


この旅にはさらに誤算が生じた。連続爆破テロの影響で、フランスの出入国に関する法律が、一夜にして変わってしまったのである。

フランスを出国し、また戻ってくる(再入国)ことにリスクが伴うことになった。しかしぼくらは、後先のことは考えず旅立った。その後、そのときの悪い予感が的中するとは思いもせずに。





つづく









人生には、「ああ、もうダメだ」、と思う瞬間が何度かある。いわゆる「万事休す」という状況である。



今回、関東甲信地方を襲った記録的な大雪。猛吹雪の中、降り積もった雪を一歩一歩踏みしめながら歩いていたら、ふと、「ああ、もうダメだ」と思った時の、遠い記憶がよみがえってきた。




あれは、ぼくが21才の頃だった。季節は1月。ぼくは独り、ドイツの首都ボンにいた。その年はヨーロッパに何十年ぶりかの大寒波が襲った年だった。しかも極寒のドイツ。大雪が降り積もり、気温はおそらく零下20℃は超えていたと思う。

誰ひとり知り合いも友人もいないこの地で、一文なし。宿なし。寒さと空腹で意識は朦朧。まさに陸の孤島とはこのことだ、と思った。



ぼくはそのとき、旅をしていた。当時パリに住んでいたのだが、クリスマスをパリで過ごし、翌日夜行バスに乗って旅立った。Nという年上の女と一緒だった。目的地はなかった。とりあえずロンドンを目指し夜行バスに乗り、その日の夜、カレーという街に着いた。カレーは、フランス北部のドーバー海峡に面する港街だ。


カレーの安宿で一泊したぼくらは、翌日フェリーに乗りドーバー海峡を渡り、イングランドに着いた。新年をロンドンで迎えたぼくらは、すぐにドイツを目指して再びドーバーを渡るフェリーに乗った。


だいたい物忘れの激しいぼくだが、あのとき船上のデッキから見たイングランド岸壁の白さと、海の深いグレーがかった緑色はいまでも忘れない。


ぼくはなぜだかわからないが、海に向かってコインを一枚投げ込んだ。コインはゆらゆらと、深い海の底へ沈んでいった。あのときのコインは今でもドーバー海峡の海底に静かに眠っていて、もう永久に誰の目にも触れることがないのだと思うと、世界中の誰も知らない秘密を自分だけが知っているような気がして、なんだかわくわくしてくる。



船はベルギーの港街に着き、ぼくらはすぐにドイツ行きの列車に乗った。列車が出発したのは、夕方だったような気がする。窓の外には雪が降っていた。

と、突然、ベルギーとドイツの国境付近の駅で列車が止まった。


何事かと思っていると、なにやら物々しい雰囲気で兵士風の男たちが数人乗り込んできた。ドイツの国境警備隊だった。彼らは乗客ひとり一人に、パスポートの提示を求めながらぼくらの方に近づいてきた。ぼくは少し血の気が引いた。「やばい、捕まるかもしれない……」と思った。

ぼくのパスポートに押してあるいくつかのスタンプに少々問題があったからだ。


大柄なドイツ人隊員の一人がぼくの目の前にやってきて、英語でゆっくりと、「パスポートを見せろ」と言った。




つづく


『葉っぱのフレディ』という有名なお話があります。

アメリカの教育学者、レオ・ブスカーリア(Leo F.Buscaglia)による、「いのち」とはなにか? 「いのち」はどのように巡っていくのか、というテーマを、小さな子どもが読んでもわかりやすく描いた絵本です。



お話しのあらすじは、こんな感じ。




春、大きな木の枝に生まれた葉っぱのフレディは、友だちの葉っぱたち、アルフレッド、ベン、クレア、そしていろんなことを知っているダニエルらと一緒に、元気に育ちます。フレディは、この若葉の季節を、葉っぱに生まれたことを心から喜びながら、思いっきり生きていくことを楽しむのでした。



夏、大きな葉っぱに成長したフレディは友だちたちと体を寄せ合い、憩いを求めて木の下に集まる人たちに木陰を作ってあげたりもしました。



そして季節は巡り、秋になりました。
フレディたちはさまざまな色に紅葉していきました。しかし、どれ一つとして同じ色はありません。このときフレディは、「個性」というもののすばらしさを学びます。


秋も深まり、友達のアルフレッド、ベン、クレア、そして他のたくさんの友だちは枝から離れて引っ越ししてゆきました。最後まで木の枝に残ったのは、フレディとダニエルの2人。しかしある日、ダニエルもフレディに「僕も引越しをしなければならない」と告げます。ついに「その時」が来たのです。


フレディは、ダニエルが「引越し」といった言葉の意味が「死ぬ」ことではないのかと気づきます。フレディは、「僕は死ぬのがこわいよ。だって、死んだあとどうなるのかわからないんだもの」、とダニエルに訴えますが、ダニエルは優しくフレディに言います。

「フレディ。僕らはだれだって、よくわからないことはこわいと思うものなのさ。それはあたりまえだ。でもきみは、春が夏になってもこわくはなかっただろう。夏が秋になったときもそうだったよね。季節が変わるのは、自然のなりゆきなんだ。だから、いつの日か僕らが死ぬ季節というのがやってきたとしても、こわがることなんかないんだよ。僕らがいるこの木もいつかは死ぬ。でも、この木よりもっと強いものがあるよ。それは “いのち”なんだ。いのちは永遠につづくんだ。そして僕らはみんなそのいのちの一部分っていうわけなのさ」。



そう言ってダニエルは去ってゆきました。



雪の降った翌朝、とうとうフレディも静かに枝を離れて旅立ってゆきました。

ゆっくりひらひら舞いながらフレディがたどり着いた先は、雪が降り積もってふんわりとした、木の根元でした。このとき初めてフレディは木の全体の姿を見ました。なんて大きく、立派な木なのでしょう。ふわふわ温かい木の根元の雪の上。そこは なぜだかやわらかくて、ぬくもりすら感じられました。 こんなに居ごこちのいいところは、はじめてでした。



フレディは 目をとじると、永遠の眠りにつきました。



春になって雪がとけ、フレディたち落ち葉は水に溶け込み、土に返り、木を育てて新たな葉っぱが生まれる力となるのです。大自然はこうして、これからもずっと命を変化させ続けていくのです。 (おわり)


さて、季節はいまちょうど、このお話のように綺麗に色づいた葉っぱたちが枝から離れて、地面に落ちてゆくときです。

私が住んでいるマンションには、ちょっと広めのパティオ(中庭)があり、そのパティオの真ん中に、大きなケヤキの木がそびえたっているのですが、そのケヤキはいま、とても綺麗な紅葉を見せながら、毎日すこしずつ葉っぱを地面に落としてゆきます。



先日、1111日には「木枯らし一号」が吹き、いつにも増して、たくさんの葉っぱが枝から離れてゆきました。その日はなんだかとても寒い一日でした。


そして、その日の夕方、突然、訃報が舞い込んできました。
同じマンションで親しくおつき合いさせて頂いていたごOさん夫妻のご主人が、その日の朝、突然亡くなった、というのです。

だいぶお歳を召したOさんは、以前から身体のあちらこちらを悪くされており、よく奥様と一緒に病院に出かける姿をお見かけしていました。
ちょうどその日から一週間ほど前にもパティオでご夫妻にお会いし、「ごきげんいかがですか?」「まあ、あいかわらずですよ」という何気ない挨拶を交わしたばかりでした。

その日の朝も、ご夫妻で病院に検査に行こうとタクシーを呼び、タクシーが着く頃にご主人が先に外へ出でいったそうです。しばらくして、奥様が後を追うように外へ出てみると、彼女はパティオの隅っこにある木のベンチで静かに横たわっているOさんを見つけました。しかし、Oさんは、その時すでに息を引き取られていたそうです。


おそらくOさんは、奥様が出てくるまでベンチに座って、秋の朝の澄んだ陽射しの中、赤や黄色に紅葉したケヤキの葉っぱが風に吹かれて静かに地面に落ちてゆく姿を眺めながら、その葉っぱたちと同じように、静かに安らかに旅立ったのでしょう。

私は、「死とはなにか」「いのちとはなにか」ということについて、要は『葉っぱのフレディ』で語られているようなことだ、と頭ではわかっています。
「死」はなにもこわいことでも、いやなことでもない、と思っています。いや、思っているつもりかもしれません。

ですから、Oさんが亡くなったときも、「ああ、その時が来て、自然の中へ静かに還っていかれたのだ」と思いました。けれども、その夜、陽もとっぷりと暮れて、息子を迎えに幼稚園へ向かって自転車をこいでいる途中、Oさんのことを思い出して、なぜだか涙が次から次へとあふれて止まりませんでした。


やはり、身近な人の死は悲しいのです。頭では「けっしてて悲しむべきことではない」と思っていても、感情の部分では、とても悲しいできごととして感じ、自然と涙があふれてくるのです。

人間とはそういうものだと思うのです。



翌朝、私はOさんが旅立たれたベンチに腰かけて、彼が最期の瞬間に見たであろう風景をぼんやりと見つめながら、いつまでもいつまでも、枯葉が落ちてゆくのを眺めているのでした。


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