AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

東京フォーク・ゲリラ

本稿の内容は、少なからず特定個人への批判になるし、本自体の評判も落としかねないことから公開を控えていたものだが、昨今のネット上での批評や、アマゾンの9月16日付レビューを読み、やはり誰かがはっきり書いておくべきであろうと思い、力不足ではあるが声を上げてみることにした。しかし、これが完全に正しいかと問われれば、一片の迷いも無く「そうだ」と言い切る自信はない。願わくば当時の事を知っている方々が、自らの体験に基づいて証言していただければと思う。

「1969新宿西口地下広場」を読んでいると、まるで小石の入ったパンを食べているかのような異物感を覚える瞬間がある。それは、なぎら健壱氏が寄稿した「フォークゲリラがいた」というエッセイに起因する。日本屈指のフォーク研究家としても知られるなぎら氏らしく、アメリカのフォーク・リバイバルの説明から始まり、それが日本に飛び火し、カレッジフォークから関西フォークへと発展し、その大きな流れの中でフォーク・ゲリラが登場したという時代背景が流暢な文章で綴られていく。ここまでが前半の6頁。もうこの時点で、ゴリッ、ゴリッと小粒の石を噛まされたかのようなひっかかりを感じる箇所があるのだが、それは後述するとして、異物感の正体である大粒の石は、エッセイの後半に登場する。

彼はこう書く。「そして7月19日、(中略)警察は数を増す聴衆にさらに危機意識を強め、2500人の機動隊を導入し『ここは広場ではありません。通路です。立ち止まらないで下さい』という言葉とともに排除を始めるのである。(中略)それ以来フォークゲリラは場所を変えてゲリラ活動をすることはなく、活動は終息することとなってしまったのである。(中略)ここで疑問に思うことは、新宿の西口広場での活動が違法だと言われるのならば、なぜ他に自分たちの思いを大衆に問う場所を見つけなかったのかということである。若者たちの心の中にあった鬱積がエネルギーとなり、聴衆を集めたはずではなかったのか?」。そして、この後は、毎度お馴染みの高石友也とゲリラとの対決話が続き、さらに、小室等・森達也両氏の対談(雑誌「東京人」)であったり、高田渡の「東京フォークゲリラの諸君達を語る」の歌詞であったり、同著「バーボン・ストリート・ブルース」における小田実批判の下りであったりという手垢の付きまくった引用が続いた後、「フォークゲリラは何をやりたくて群衆を引っ張っていったのか――何をやり遂げたかったのであろうか?(中略)あたかも実践に及んだ行動が、そこに理論だけを残して消えてしまったとしか言いようがない。現実として、時代の一過性以外の何ものでもなかったのである」と一方的に結論付けるのだ。何と凡庸で紋切型のフォーク・ゲリラ批判であることか。

いや、この際、凡庸でも紋切型でも一向に構わないのだ。なぎら氏の文章に名状しがたい違和感を覚えたのは、彼のフォーク・ゲリラ批判の大部分が事実誤認もしくは認識不足によるものだからだ。これは甚だ深刻で看過できない問題であると思う。何故なら、偽史に基づくねじ曲がった解釈であっても、“公式本”に掲載されることで、真っ直ぐな事実として一人歩きしてしまうからだ。それは許されてはならないことだ。歴史は美化されてもいけないし、根拠なく悪罵されてもいけない。このような考えに立ち、以下、反証を試みる。

まず、新宿西口地下広場から排除されたゲリラ達は、なぎら氏の書く通り「場所を変えてゲリラ活動をすることなく活動は終息」してしまったのかという点である。はっきり書いておかねばなるまい。これは全くの事実誤認である。ゲリラ達はその後も執念深く闘い続けた。地下広場を追われた彼らは、渋谷、吉祥寺と場所を変えて歌ったが、地下広場同様権力の容赦無い弾圧に遭い、暴力的に排除され、それでも9月には、新宿中央公園の噴水広場に場所を移し、毎週土曜日のフォーク集会を断固敢行したのである。当時の記録(週刊誌、月刊誌等)を辿ると、少なくとも1970年2月末まではコンスタントに集会が継続されていた様子を確認することができる。大方予想はつくだろうが、地下広場の時のような華々しさは全くない。寒風吹きすさび、私服警官やパトカーが監視する中、まばらな聴衆を相手に歌い続けた。このほか、10・10佐藤首相訪米阻止集会、10・21国際反戦デー、沖縄嘉手納基地の座り込みなど様々なデモンストレーションの先頭でギターを武器に闘うフォーク・ゲリラの姿を見ることができる。彼らは激動の1969年を駆け抜け、70年代まで歌い続けたのだ。「時代の一過性」のものとして泡のように消えたのは、ゲリラではなく、あの夏、地下広場に集まった数千人の群衆の方だったのである。

次に、「高石友也とゲリラとの対決」についても、正確な事実関係を書いておく必要があるだろう。対決の場となった69年8月8日大阪城公園での「ハンパク・フォーク・イン・ナイト」、そして8月11日の日比谷野外音楽堂での「フォークゲリラ大集会」については、本ブログでも既に扱ったところであるが、後者について、その後判明した重大な事実を書いておかねばならない。この集会は、当事者であるフォーク・ゲリラ達とは全く関係が無く、高石事務所(URCレコード)とビクターレコードが、姑息にも主催者や企画者の名を伏せて、いかにもゲリラ達の集会のごとく見せかけて開催したものであった。コマーシャルやマスコミの力で集められた10代の少年少女達で音楽堂は超満員。場内では、URCやビクターのレコードも堂々と販売され、テレビカメラも入るなど、商業主義の匂いがプンプンとする代物であった。これに異議を申し立てたのが、当時、吉祥寺駅を拠点に活動していた反戦フォーク集団「西部戦線」と東京フォーク・ゲリラの面々。詳しくは、今後「フォークゲリラを知ってるかい その20」で述べさせていただくが、結論から言うと、彼らの抗議はしごくもっともなものであり、「帰れコール」をした観客の方が「意識が低かった」と言わざるをえない。故にこの集会に参加しながら、一切の疑問も覚えず、それどころか、ゲリラ達の抗議行動に「怒りすら感じていた」と言い切るなぎら氏が、事の本質を理解していたとは到底思えないのだ。(この点は、2008年7月19日付の拙記事も同様のミステイクを犯しているので、深く反省するとともに、後日追記にて訂正させていただく。)

関連して、高田渡の有名な風刺歌「東京フォークゲリラの諸君達を語る」についても説明を加えておこう。以前にも書いたが、この歌を引き合いに出して、フォーク・ゲリラをくさす手合いの何と多いことか。そして、高田渡を神格化し、彼の意見は無条件で正しいと信じ込む「信者」気質のフォークファンが、自らの思考停止状態(すなわち内なるファシズム)に何と無自覚であることか。こういった連中は、高田渡の次の発言をどのように受け取めるのだろうか?
「まだ、内容みたいなものを、説明的にしか受け取れないんだね。ぼくの一連の歌が放送倫理規定にひっかかったけれど『フォークゲリラの諸君に』だけが通ってしまった。あれは何もフォーク・ゲリラだけを批判したんじゃないんで、そこらへんにいる人を全部、ひっくるめて歌ったのにね。(中略)『フォークゲリラの諸君に』を聞いて、右翼の人が気をよくしたらしいけれど(笑)、聞く人によっては、左の歌にも、右の歌にもとれるような歌がやっぱりいいね。(中略)誤解がおきやすいのが、一番いい詩なんだよ。」(季刊フォークリポート 1971年夏の号「松本隆・高田渡、お茶を飲みながら語る」より)

なお、この歌の一般に知られているバージョンは、69年8月17日、第4回関西フォーク・キャンプの打ち上げコンサート(京都丸山公園野外音楽堂)で歌われたものだが、最初期のバージョンが、その8日前、8月9日に岐阜県中津川市で開催された第1回全日本フォークジャンボリーで披露されている。高田渡は、「ゆうべ作ったばかりの歌をイッパツやってみたいと思います」と話した後、次のように歌う。

  これからちょいと フォークソングについて
  ひとこと話してみたいのさ
  何をブッ刺すかはわからない
  何しろ相手はフォークだから

  あんたらは知ってるだろう
  フォークゲリラという連中をさ
  あのイカす連中をさ
  あのエリートさん達をさ

  このあいだそのエリートの一人と話したのさ
  そしたら言っていたことがある
  自慢じゃないが 僕は今逮捕状が出ているのさ
  馬鹿げた話だよ

  またこんなことを言っていたよ
  今流行りの関西フォークソングは
  高石とか岡林の唄ってるフォークソングは
  そろそろ限界だとさ

  (会場爆笑。「何という(笑)」「意義ナーシ!」の声上がる)

  そして奴らは唄うのさ
  関西フォークのいにしえを


「正規版」との大きな違いは、「新宿の西口の」というフレーズ、そして、歌のオチでもある「カメラにポーズを取りながら『マスコミは帰れ』」の下りが丸ごと存在しないことである。ここで、高田渡のMC「ゆうべ作ったばかりの歌」という点を考察してみると、「ゆうべ」、すなわち、69年8月8日の夜に何があったのかというと、あの「ハンパク・フォーク・イン・ナイト」である。高石事務所所属のミュージシャンが勢揃いしたこのコンサートで、東京フォーク・ゲリラと高石・岡林との論争があったことは既に述べたとおりだ。(「フォークゲリラを知ってるかい その19」参照)。恐らくは、高田渡も出演者としてその場にいたのだろう。難解な言葉を使って高石らを追及するゲリラ達(渡氏の目には、お勉強の出来る忌々しい「エリート」として映ったに違いない)に違和感を覚えた彼は、持ち前の風刺精神を発揮して、その出来事を即興で歌にしたのではなかろうか。その後、推敲の段階で、「新宿の西口」や「カメラにポーズ」の下りを加え、マスコミとフォーク・ゲリラを揶揄する歌に改変したのであろう。このほか、なぎら氏が引用している渡氏の小田実批判も根拠の無い誹謗中傷の類と考えるが、この点は門外漢なので、論評は避ける。

最後に本エッセイの終盤にある「フォークゲリラは何をやりたくて群衆を引っ張っていったのか」との一文についてどうしても書いておかねばならないことがある。これは、あまりにもひどい見解だ。フォーク・ゲリラの本質を何一つ理解していない者の愚見としか思えない。小黒弘氏の「新宿西口裁判闘争」における血を吐くような訴えを引くまでもなく、あの集会を構成していた多くの人々は、同一の思想を持ち、一つの方向性を目指している人々ではなかったのである。彼らは自らの責任のもとに行動する主体的な一個人であったのだ。そんな人々が自由に討論し、発言し、歌う、それが西口フォーク集会であった。ゲリラ達は、その一人として、フォークソングを歌ったり、アピールをしたにすぎない。決して、指導者や扇動者のごとく、一定の方向に「群衆を引っ張っていく」存在ではなかった。このことは、フォーク・ゲリラについて論評する者なら、最低限知っておかなければならない基礎知識ではないのか。

なぎら氏は当時17歳のフォーク少年であったが、新宿西口地下広場のフォーク集会には一度も足を運んでいない。体験していない者が意見を述べる際は、何より謙虚に学ぶことから始めるべきであろう。かつて氏の著書「日本フォーク私的大全」を貪るように読み、また、名作「葛飾にバッタを見た」を愛聴した者としては、このような刺々しい文章を書くことは、身を切るように辛いし、悲しい。しかし、その辛さ、悲しさに留まっていてはならないのである。ここは替え歌を愛した東京フォーク・ゲリラの顰に倣い、「葛飾にバッタを見た」ならぬ「新宿にゲリラを見た」という戯れ歌で締めることにしよう。

  もしあんたが新宿にやってきたら
  西口の地下広場に来てみるといいよ
  高石も岡林もいないかわりに
  東京フォーク・ゲリラの一人も見られるかもしれないからさ

何というオソマツ。

葛飾にバッタを見た
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憲法!崖っぷち!私たちはおそれない

大木晴子さんの著書「1969 新宿西口地下広場」の発刊記念イベントが、昨日(8月16日)、新宿職安通り沿いの小さなライブハウスで開催された。この日はあいにく外せない用事が入ってしまい半ば諦めていたのだが、どうにかこうにか中抜けして参加することができた。

良いイベントであった。元NHKディレクター志村建世さんによる60年代当時の16ミリ映画撮影機(なんとゼンマイ式!)を実演しながらの映像論は大変分かりやすく、映画「地下広場」撮影時の苦労が伝わってきたし、何より「説明(啓蒙)するのではなく、各人に“気付かせる”のが良いドキュメンタリー」とのメッセージは、全ての表現や運動に通じる教訓として重たく胸に響くものがあった。

また、元べ平連事務局長の吉川勇一さんからは、フォーク・ゲリラにとって大きなターニングポイントとなった1969年6月28日の出来事、すなわち、機動隊が新宿西口地下広場の何千人という群衆めがけガス弾を一斉射撃し、フォークの広場が「怒声と涙の広場」と化したあの惨劇について新たな事実が報告された。これは、極めて重要な内容なので以下箇条書きにして記録しておく。

○新左翼党派(第4インターナショナル、共産主義労働者党など)は、新宿郵便局自動読取機搬入阻止闘争にフォーク・ゲリラを利用しようと考えていた。具体的には、闘争を土曜夜の反戦フォーク集会とぶつけることで、参加した数千の市民をデモに巻き込み、国家権力による郵便局合理化の企てを大衆的に粉砕しようと画策した。

○フォーク・ゲリラ側は、勿論、新左翼には利用されまいとした。悩んだ末、利用されるのでもなく、知らぬ顔をするのでもなく、「(機動隊を)監視に行く」という方針を決めた。しかし、結果は全部巻き込まれてしまった。フォーク集会に初めて暴力が持ち込まれ、怪我人も出て、フォーク・ゲリラが壊されるきっかけとなった。

○警察側は、新左翼党派の動きをあらかじめ察知しており、フォーク集会が闘争に巻き込まれることを「フォーク・ゲリラと地下広場を終わらせる千載一遇のチャンス」と考え、手ぐすね引いて待っていた。そして、警察の思惑通りになった。

○この重大な問題について当事者の間でいまだに十分な総括や検証が行われていないのではないか。

会場に一気に重たい空気が流れた。吉川さんの報告を受け、晴子さんは、「6月28日、私たちは本当に真剣に考えに考えて、人々に『見に行こう』と呼びかけた。(呼びかけた)ゴリちゃんは『何千という人たちがワーッと動き出した時、言葉の怖さを感じた。思い出すたびぞっとする』と言っている。彼は、その重さをいまだに抱えながら生きているのです」と話し、「利用というのは寂しい。左側にいた人たちも総括が必要ですね」とやや曇った表情を見せた。

イベントでは、このほか、「標的の村」を監督された三上智恵さんからの沖縄レポートがあり、それは、まさに、マスコミが報道しない国家権力による沖縄圧殺についてのリアルな現場報告であった。個人的に印象に残った話がある。基地反対闘争の最中、反対派住民が歌い出す。ウチナーンチュなら誰もが知っている沖縄民謡だ。その時、対峙する沖縄防衛局の職員も、実は心の中では「イーヤーサーサー」と合いの手を入れているのではないか。何故かって、彼らも同じウチナーンチュだから――。正確ではないが、概ねこのような話であった。歌が、闘争という極めて非日常的な場における敵と味方という硬直的な関係性を超えて、長い長い歴史を共に育んできた同胞の血と地と知の歴史を想起させる、そして人と人との関係性を紡ぎなおす、そのような手段として活きているのだということをあらためて認識させてくれるエピソードであった。

最後にどうしても書いておかなければならないことがある。それは、晴子さんの歌声の素晴らしさだ。この日、晴子さんは、60年安保闘争で命を落とした樺美智子さんに捧げる追悼歌「前進」を一番だけ無伴奏で歌ってくれた。高橋敬子さんの詩に中川五郎さんが曲を付けたこの歌は、静謐な曲調でありながらサビでやや強引な転調をみせるため、演奏無しに上手く歌いこなすのは難しい。それを、晴子さんは、まるで昨日まで地下広場で歌っていたかのように、正確な音程で、そして、説得力溢れる素晴らしい美声で歌ってみせたのだ。

  あなたがもう笑えないから
  あなたがもう愛せないから
  わたしはこんなにすすりなくのだ

当時、この歌はまだレコード化されておらず、晴子さん達は手作りの歌集と口伝えで曲を覚えたという。権力の嫌がらせが無かった頃、地下広場の小さな輪の中で何回も歌われた。そして、45年が経ち、今、新宿のライブハウスで歌っている。目を閉じて聴きながら思った。「歌声は最強の武器である」と。その武器を、彼女は何故封印してしまったのであろうか。
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東京フォーク・ゲリラ

「1969新宿西口地下広場」(大木晴子・鈴木一誌編著)で特に印象深く描写されるのは、東京フォーク・ゲリラの若者達が「歌の意味」について自問自答する姿だ。すなわち、歌は表現なのか、それとも、人寄せの手段なのか?
伊津信之介さんや堀田卓さんは「フォーク運動はそれ自体として独自の発展を遂げるべきであり、集会の前振りや宣伝として使われるのはおかしい」と主張し、一方で晴子さんは「討論の小さな輪こそ最終目的であり、歌が人集めの手段だと言われればまさにその通りかもしれない」と考える。
確かに当時の記録を読むと、ゲリラ達の内部で、「歌は表現か手段か」についての真剣な議論が交わされた様子が伝わってくる。しかし、結局ふたつの主張はまじわらず、巨大な人の渦の中で、「フォークの持つ音楽性は拒否され、フォークを包む周囲の状況の政治性だけが強調され」、ついには「フォークは運動のアッピールだ、集まってくれた人々が市民運動に立ち上がれば最高だ」という、いささか政治的に偏った結論に達してしまう。ぼくはそのことを批判するつもりは一切ないし、むしろ、当然の帰結点であろうとさえ思う。大木茂さんが的確に指摘されているように、「歌は表現か運動かという二者択一ではない」し、何より、1969年5月17日の機動隊の出動により、「事態があっという間に歌を追い越し」「いきおい歌は運動的にならざるをえなく」なってしまったのだ。
 
しかし、このような状況論的な考察は、ゲリラ達の真摯な自問自答の前ではあまり意味が無いようにも思える。何より大切なのは、地下広場でがむしゃらにギターをかき鳴らし歌った彼ら自身のフォークソングへの思いを確認することではないか。
その最良のテキストの一つとして、本書にも掲載されている小黒弘さんによる「プロテストソング」論を挙げることができるだろう。地下広場の歌の輪がせいぜい百人程度の牧歌的なサークルだった頃に書かれ、べ平連ニュース第44号(1969年5月1日)に掲載されたそれは、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディラン、IWWの「赤い小さな本(Little Red Songbook)」などを引きながら、無邪気なまでにアメリカン・フォークへの憧憬をあらわにする。この小論から浮かび上がってくるのは、難解な思想を振りかざす政治的な人間ではなく、ただフォークソングが好きでたまらず、だからこそ世の中の不正から目を背けることができない純粋で生真面目な音楽青年の姿だ。そして、小黒さんの高校時代の同級生であり、音楽仲間であり、フォーク・ゲリラに共に参加した伊津信之介さんもまた、ミシシッピ・ジョン・ハートに傾倒する筋金入りのフォークソング・マニアであった。さらに、全浪連を経てゲリラに加わった堀田卓さんは、マイク・シーガー率いるニュー・ロスト・シティ・ランブラーズなどのマウンテン・ミュージックを敬愛するバンジョー弾きであったし、晴子さんも、同世代の若者である中川五郎氏の作る新しい歌の数々に魅せられ、言葉の一つ一つを慈しむように大切に歌っていた。
皆、フォークソングを愛していた。それは、彼ら、彼女達の生活の一部であり、青春の叫びであり、自由を求める呻きでもあった。

1960年代の日本のフォークソング運動を牽引した詩人であり英文学者である片桐ユズル氏は、運動末期に次のような文章を残している。
「われわれはつねに、たのしみながら、ゆかいにやってきましたよ。うたがすきだからやってきたんだ――だから、われわれは歌を手段とする権利があると思うんだ。だけど、歌がすきでもないくせに、これは政治的に有効な手段だからつかってやろう、こういうかんがえのひとも運動の初期にはいましたよ。だけど、彼らはすぐに、それほど速攻性がないのでイヤ気がさして、やめてしまった。」
歌は表現なのか、手段なのか。ゲリラ達が自問自答の末に、納得できる答を見出したかどうかは分からない。しかし、片桐ユズル氏の含蓄に富んだ言葉に倣うなら、フォークソングを心底愛していた彼らには、間違いなく歌を手段とする権利があったと言えるだろう。


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地下広場

かねてよりお世話になっている“フォークゲリラの歌姫”大木晴子さんの著書「1969新宿西口地下広場」(新宿書房)がついに完成し、先週から予約分の発送が始まった。ぼくの手元に届いた真新しいインクの匂いのする一冊は、早速、付箋と書き込みでいっぱいになり、まだ一週間も経っていないのに良い感じで年季の入った本になってしまった。

それにしても、装丁、内容共に掛け値無しに見事な出来栄えである。付属DVDに全編収録されているドキュメンタリー映画「'69春~秋 地下広場」(大内田圭弥監督作品)も、晴子さんが大内田監督夫人から譲り受けた16ミリフィルムをクリーニングした結果、44年前の鮮明な映像を取り戻した。

映画「地下広場」については、すべての記録映画は中立ではありえず、キャメラを回す側、もしくはフィルムを編集する側の視点に影響されること、また、東京フォーク・ゲリラの2人の若者が70年代前半に孤独な闘いを強いられた「新宿西口広場裁判」との密接な関係性、すなわち、国家権力の弾圧という厳しい政治状況の下製作された映画であることを理解した上で観た方が違和感無く映像に入っていけるような気がする。この点は、85頁にわたって収録されている大木さん御夫妻(夫であるカメラマンの茂さんもフォーク・ゲリラの仲間であった)の秀逸な対談に詳しいので、是非、本書を一読してから、DVDを鑑賞されるようお勧めする。

書きたいことは山程あるが、残念ながら時間が無い。次回以降、個人的な感想を少しずつまとめたい。僭越ではあるが、少しばかりの異論も含めて――。
なお、本書はカバーを外すと、中から当時のガリ版刷りの歌集が登場する。鈴木一誌さんのアイデアだろうか。岡林信康の「友よ」、そして中川五郎の「うた」という定番の“選曲”も含め、ゲリラ達の歌声が聴こえてくるような実に素敵なデザインだ。

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大木晴子・鈴木一誌 編  3200円(税別)
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新宿西口フォークゲリラ集会で歌う中川五郎

誰かがうろ覚えで書いた頼りなげなエピソードが、別の誰かの文章に引用され、それがさらに孫引きされていくうち、もはや誰一人として疑う余地の無い強固な「史実」となってしまうことはままあるものだ。フォーク・ゲリラに関して最も広く流布していると思われる「新宿西口のフォーク集会に参加した高石事務所のアーティスト(もしくはプロ歌手)は一人もいなかった」という定説も、その典型的な例と言えるだろう。この点についてぼくはかねてから、フォーク・ゲリラについて些かなりとも真面目に知りたいと思う者なら、僅かばかりの金と労力を惜しむことなく、最低でもSMSレコードの「'69日比谷フォークゲリラ集会」位は中古盤屋で入手し、その中でゲリラ自身の口から発せられる「確かに高石友也は新宿西口に来て歌った」との証言と世に流布する定説との食い違いに少なからぬひっかかりを感じるべきだと思っていた。映画の撮影が絡んでいたとはいえ、高石が新宿西口地下広場のフォーク集会に飛び込んで歌ったであろうことは、ゲリラと高石とのやりとりを聴く限り、まず間違いない事実と思われるからだ。

そして、一昨年の10月に発行された「雲遊天下(111号)」で、中川五郎さんが、まさにこの定説を真っ向から覆す重大な新事実を明らかにされたことは、当ブログでも既に紹介したところである(「1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――」参照)。その紹介記事にぼくは、ある仮説の下、五郎さんと大変良く似た青年が東京フォーク・ゲリラの若者達と一緒に歌っている写真を2枚掲載した。これは、1969年の5月から6月のいずれかの土曜日に撮影された新宿西口地下広場のフォーク集会の映像に本当に一瞬(時間にして2、3秒程)映っていたものだ。

これについて、先週、五つの赤い風船で活躍されていたミュージシャンの長野たかしさんから、次のような貴重なコメントをいただいた。「五つの赤い風船に入る前、中川五郎さんと一緒にフォークキャンパーズで活動していた私なので、この写真は中川五郎さんに間違いないと思います」。驚いた。長野さんといえば、自らも書かれているとおり、1967年夏の京都の神護寺で行われた第1回関西フォークキャンプに端を発する音楽ユニット「フォークキャンパーズ」のメンバーとして、五郎さんを高校時代から大変良くご存じの方だからである。さらに、東京フォーク・ゲリラの中心メンバーであった大木晴子さんからも、「写真は五郎さんだと私も思います。でも広場には、歌う人、語る人、みんな同じ、誰だからなんて誰も思わないし、べ平連の良い心意気が活きていました。ゴリちゃんや吉田くん! いま思うとギターの上手な人が一緒に弾いて歌っていますね」という当事者にしか書きえない臨場感溢れるコメントをいただくことができた。

お二方のコメントで、ぼくは、ようやくこの写真に写っている青年が、19歳当時の中川五郎さんであることを確信することができた。そして、今日、友人Georgesさんから頂いたメールで、遂に決定打と言える証言を知ることができた。それは、2月16日に五郎さん御本人が発信された次のツイート。「1969年新宿西口フォークゲリラの集会で歌っているぼくの姿です。初めて見ました。ブログの文章もとても嬉しいです」。
中川五郎ツイッター
ありがとう、五郎さん! これで「定説」は完全に覆った。私たちは、高石事務所のアーティストであった五郎さんが、フォーク・ゲリラと連帯し、新宿西口で歌ったことを証明する揺るぎない“物証”を手に入れることができたのだ。

フォークゲリラに関しては、昨年、武蔵野フォークの源流であり、69年当時、吉祥寺駅を拠点に最も先鋭的に活動していた幻のフォーク集団「西部戦線」の元メンバーの方から貴重な証言を多数いただくことができた。それを1年以上経った今もまとめることができていないのは一重にぼくの怠慢ゆえであるが、敢えて言い訳交じりに書かせてもらうならば、個人的に検証し再構築した私論に近いエピソードが、自分の知らない間に引用され、小説等のモチーフに使われていくことへのある種の重圧感と恐怖心も筆を鈍らせた。しかし、意を決して、ぼくは飛んでみようと思う。4月を目途に。そして、その前に、フォーク・ゲリラと同じ1969年に活動した伝説のロック・バンド「エイプリル・フール」に関し新たに知ることができた二、三の事柄について記事を書かねばならない。
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AFTER THE GOLD RUSH-フォーク・ゲリラと歌う中川五郎? 昨年来、「雲遊天下 」というリトルマガジンを定期購読している。正直言ってあまり褒められた雑誌とはいえない。特集は、些か行き当たりばったり風であるし、読んでいるこちらが赤面してしまうような幼く拙い文章が堂々の連載記事であったりする。書き手に熟練したプロのライターが少なく、ミュージシャンや同人主体だからであろうか、それにしても、もう少し何とかならぬものかと、頁を捲る度ため息がこぼれる。


しかし、石の多いこの雑誌にも、確かにキラリと光る“玉”がいくつか混じっている。その一つが岸川真さんのエッセイであり、もう一つが、中川五郎さんの「現在(いま)を歌うフォークが未来をひらく」である。特に五郎さんの連載は、一昨年5月にスタートして以来、自らの音楽史を端正な文章で誠実に書き綴っており、その体験者にしか書きえないフォーク黎明期のいきいきとした描写は、読むたびに新たな発見がある。大いに興奮させられる。この連載を読むためだけに定期購読していると言っても過言ではない。


半年のブランクを経て先月下旬に発行された最新号(111号)の記事は、これまでにも増して一段と良かった。それは、フォーク・ゲリラについての極めて重要な一次資料とでもいうべき内容であった。五郎さんは、自らとフォーク・ゲリラとの関係について、「どちらかと言えば仲が良くて、比較的近い位置にい続けていた」「自然に素直に連帯することができた」と語る。そして、親友であった故高田渡氏の自伝「バーボン・ストリート・ブルース」を引用しながら、「渡さんは当時一緒に歌っていたフォーク・ソングの仲間でいちばん仲が良かったが、ことべ平連やフォーク・ゲリラに関しては、彼とはまったく話があわなかった」とし、渡氏の小田実批判や、かの有名な「東京フォーク・ゲリラの諸君を語る」で揶揄したフォーク・ゲリラ像を「捉え方や評価にとても誤解がある」とやんわり否定する。そのうえで、「フォーク・ゲリラは決してエリートでもヒーロー気取りでもなかったし、彼らが誰かに利用されていたり、逆に彼らがマスコミを利用していたようなことはなかったのではないか」との見解を示す。これはとても勇気ある発言ではないだろうか。少なくともぼくは、当時のフォークシンガー及びそのファン達が、フォーク・ゲリラについて腐すことこそあれ、弁護や共感の類の発言をする場面をこれまで見たことも聞いたこともない。そして、ぼくもまた、つい数年前まで渡氏の熱烈なファンであるがゆえの金縛り状態から抜け出せずにいた一人であったことを告白しよう。この五郎さんの見解こそ、ぼく自身、長い間胸につかえて吐き出せずにいた言葉そのものだったのだ。


AFTER THE GOLD RUSH-フォーク・ゲリラと歌う中川五郎? 今号では、フォーク・ゲリラに関する新事実も明らかとなった。それは、「新宿西口のフォーク集会に参加したプロ歌手はいなかった」という定説を真っ向から覆す証言である。五郎さんは、記事の最後を次のような驚くべき文章で締めくくっている。「ぼくは自分がプロかどうかということにはほとんどこだわっていなかったが、69年に新宿西口地下広場で新宿西口フォーク・ゲリラに参加して歌ったことがある」。これを読んで、ぼくの中でどうにも腑に落ちずモヤモヤしていた出来事が何となくすっきりとつながったような気がした。1970年2月、ほとんど敗戦処理といってもいい西口広場裁判の支援集会に高石事務所からただ一人五郎さんだけが参加し、歌で彼らを応援したこと。東京フォーク・ゲリラの実況録音ソノシート「新宿広場'69」に、ゲリラではなく五郎さん自身の歌声で「主婦のブルース」が収録されていたこと。もしかすると、1967年8月発行の「かわら版」に掲載されたという五郎さん作「Aちゃんのバラッド」も、あの「栄ちゃんのバラード」と何か関係があるのかもしれない。


そんなことを考えている中、ぼくは、テレビ(※)に偶然映し出されたフォーク・ゲリラの映像に、五郎さんとよく似た青年を見つけた。その青年は、大群衆で埋め尽くされた新宿西口地下広場、ハンドマイクを持つゴリさんの横で、背筋をピンと伸ばしてギターを弾きながら歌っていた。他人の空似かもしれない。しかし、顔立ちといい、下あごを少し前に突き出した特徴的な歌い方といい、ぼくには、この青年が五郎さんと大変よく似ているように思える。掲載した2枚の写真を見ていただきたい。皆さんはどう思われるだろうか。


※BS JAPAN「MUSIC TRAVEL」(11月19日放送)で、新宿西口地下広場でのフォーク集会の映像が30秒程使われた。

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AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク 1969年8月は、フォーク・ゲリラにとって転機となる3つの出来事があった。これまでの巨大なうねりが、国家権力との対峙によりうみ出された外側に噴出する開放的で祝祭的なエネルギーの結果とするなら、8月に起きた出来事はことごとく逆のベクトルに支配されたものだった。それは、ゲリラ自身、そして「うた」とその作り手が内包していた矛盾の噴出でもあった。プロテストソングはまるでブーメランのように回帰して、歌い手たちに鋭い刃の切っ先を突き立てた。そして、この気が滅入るような“内紛劇”は、すべてステージ上で起きた。路上を主戦場としていた彼らにとって、それは好ましい展開だったのだろうか? 善し悪しは別にして、今振り返ると、ゲリラとマスメディア、そして何より、何千という人々との関係に句点を打つために歴史が用意した、悲愴な“舞台”のようにも思える。


◆8月8日 ハンパク・フォーク論争
AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク05 ハンパクとは、「反戦のための万国博覧会」の略称。8月7日から11日にかけて大阪城公園で開催された。開催の経緯については、呼びかけ人でもある美術評論家の針生一郎氏の文章を引用すると、「反戦運動を文化創造の一環として捉え、フォークソング、詩、絵画、映画などを含む『反戦フェスティバル』を何度か催してきた南大阪べ平連の若者たちが、70年に大阪で行われる万国博に対して、反対の立場からの真の文化を対置しよう、と考えたのが発端」であり、69年2月に行われたべ平連全国懇談会で提案したところ、たちまち各地べ平連から積極的に支持され、全国的規模のイベントとなったという。歌あり、演劇あり、討論会あり、デモあり、そして、警察や全共闘を巻き込んでのハプニングありのこのイベントのアナーキーで自由な活力に満ちたイメージは、ハンパク協会の次のような参加呼びかけのアピールからも伝わってくる。


  思い切り大声で叫んでみたい“あなた”
  映画や芝居の好きな“あなた”
  絵や音楽を愛する“あなた”
  話好きの“あなた”
  モノを創ることが好きな“あなた”
  アンポをつぶそうとする“あなた”
  そしてなによりも戦争を憎み、自由を求める“あなた”
  ハンパクはそういう“あなた”自身の解放された広場です


AFTER THE GOLD RUSH O君、S子さんら、東京フォーク・ゲリラの若者達は初日から参加し、開会時にはファンファーレ代わりにギターを掻き鳴らして「ウイ・シャル・オーバーカム」を歌うなど、おおいに気勢を上げた。そして、2日目の夜、「関西フォークの終わりの始まり」として(悪名高く)語り継がれることとなる“フォーク論争”が勃発した。


発端は、ホットドッグ屋を巡る騒動だった。場内には、日に延べ1万ともいわれる参加者目当てに、屋台のホットドッグ屋が無許可で営業し、結構な売上をあげていた。専用の売店を用意していたハンパク事務局は、ただでさえ赤字なのに弁当類の売上が落ちることを恐れ、彼らに立ち退きを求めた。しかしホットドッグ屋(白いダボシャツにステテコ、毛糸の腹巻というテキ屋スタイル)は「うちらかて生活がかかってんのや」と一向に動こうとしない。そして、8日の夕方、誰が呼んだのであろうか、7名の制服警官が会場に立ち入り、ホットドッグ屋を排除しようとした。場内を見回っていた私服警官が、ホットドッグ屋を巡って揉めているのを見て、制服を呼んだという説もある。しかし、この時は、警官を導入したのは、西川と名乗る事務局関係者だという話が会場内にワッと広がった。


AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク04 「官憲を導入した者がいたことは、事務局の体質の問題ではないか。一体事務局は、ハンパクをどう位置付けているんだ!」。ヘルメット姿の日大全共闘のグループがマイクで激しく叫ぶ。事務局を糾弾する若者たちの数は500人余りに膨れ上がり、この夜のスケジュールの中心は、ホットドッグ屋と警官導入を巡る大衆討論へと移っていった。


丁度その折、場内の広場では、「フォーク・イン・ナイト」と銘打って、高石友也、岡林信康、中川五郎ら関西フォーク勢が出演する野外ライブが開催中であった。これに東京フォーク・ゲリラの面々が異議を申し立てた。


AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク06 ゲリラ「隣のテントでは、会場に警官が入ったことについて、皆真剣に討論をしているよ。それなのに、あなた達は何も無かったかのように歌い続けている。警官が入ったことの意味を議論もせずに歌い続けるプロテストソングって一体何ですか? そんなものに意味があるんですか?」
高石「自分にとっては『歌う』ということがすべてです。議論はステージが終わってからにしてほしい。」
ゲリラ「だから、あなたは『ステージ派』と言われるのだ。ぼくらは、あなた達とは違う。感度の良いマイクも無ければ、御膳立てされたステージも無い。でも、あなた達より、ずっと深く、民衆の中に入って歌っているという自負がある。ぼくらは、歌うことと行動とを一致させて考えている。大体、“座り込みをするのや、デモをするのはカッコが悪い”なんて歌を、座り込みもデモもしていないあなた達が歌っているということ、それ自体を矛盾と感じないのですか?」
岡林「矛盾はいつも感じとる。あんたの言っているのとは違う意味でな。悪いけどな、諸君らが新宿でやっている行動、あれは警察に対する挑発とちゃうんか。あれでは、大衆に反戦の意思を伝えることなどできんよ。」
ゲリラ「ナンセンス!フォークを歌う者なら、新宿西口で何が起こっているのか、真剣に考えるべきだ。」
ゲリラ「そうだ。あなた達は、まるで高石事務所の商業主義に毒された“操り人形”のようじゃないか。高石事務所の商業主義的なやり方は、フォークをやっている仲間の間でもかなり評判が悪いよ!」

AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク09
かみ合わない議論は明け方まで延々と続き、この夜、ゲリラ達の乱入で唐突に途切れた歌声は、二度と再開されることはなかった。残念ながら、ハンパク・フォーク論争については残された記録が極めて少なく、上記のゲリラと高石らのやり取りも、断片的な記録と伝聞をつなぎ合わせ、不完全ながら再現を試みたものだ。実際は、もっと激しく厳しい追及と批判に支配された、さながら「糾弾集会」の様相を呈すものであったと思われ、それは当時、現場にいた関係者の証言から窺い知ることができる。例えば、当日の出演者であり、目撃者でもあった中川五郎は、00年代に入ってから、この夜のことを次のように回想する。


AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク02 「僕が“関西フォーク終わったなあ”って意識したのは、69年にあった大阪万博に反対する一連のイヴェントで“反パク”っていうのがあったんですけど、そこで反戦運動してる人たちや社会的な活動している人たちから高石と岡林がものすごく批判されたときですね。商業主義的とかいろいろな面で。“反パク”での討論会でも消耗させられるようなことがいっぱいあって、特に高石、岡林はそのへんでガックリ来たんじゃないかなあって思いますね。」


詩人の片桐ユズル氏も中川と同様の感想を抱いたらしく、1975年発行の「思想の科学」に次のような文章を残している。
「関西フォークの第一の波は,フォークゲリラと、高石&岡林が激論をたたかわしたところでおわると、わたしは歴史をかきながらおもったが・・・」
「それはいつのことですか?」
「1969年夏、いわゆる反博のときだよ。この内ゲバは、それまでやさしいことばの思想できたフォークゲリラが、すごいむつかしいことばをつかうようになって、自分たちが反対していたはずの口先人間ペースにはまりこんでしまったということだ」
「口先人間というのは、だれのことですか?」
「口先人間というのは、なかみと関係なしに、ことばだけをうまくあやつることができるひとのことで、こういうひとは今の管理的世の中ではうまく出世して、他人を管理する立場につくようになるだろうね。学校の成績もいいだろうし、戦争だって何だって、うまい理由くっつけて正当化できちゃう。」

AFTER THE GOLD RUSH-ハンパク08
また、高石事務所の代表であった秦政明氏も、80年代半ばに黒沢進氏が行ったインタビューの中で次のような証言をしている。
「西口のフォークゲリラでも、あれなんかモロに僕なんかいろんな場面にぶつかっているし。万博の1年前に反パクってのが大阪城公園であったんですよ。あの時に僕らの事務所の連中がみんな出たんですよ。もちろんお金なんか一銭ももらってないですよ。歌ったりいろいろやったんですよ。その時に、どのグループかわかんないけども、歌をうたっている時じゃない、コンサートやめて討論集会に切り替えようっていう、よくあったパターンですけど。で、ホットドッグ屋さんがホットドッグ売りに中へ入ってきた、あれはヤクザの手先だっていうわけです(笑)。それで内ゲバになってね。岡林なんか手が早いから、ほんとに殴り合いやったんです。まぁ非常に彼らはしんどかったと思いますね。」(ただし、秦氏の話は信憑性にやや疑問が残る点があることも合わせて指摘しておく。)


この不毛な“フォーク論争”の翌日、8月9日の午後6時から10日の午前9時30分にかけて、岐阜県恵那郡坂下町の椛の湖畔で第1回全日本フォークジャンボリーが開催され、高石と岡林は、前夜の疲れを全く見せないユーモアと勇気に満ちた素晴らしいパフォーマンスで観客を魅了した。しかし、この日以降、2人が同じステージに立つことは無かった。終焉の時は、間違いなく、残酷なまでのスピードで迫っていたのだ。(つづく)


☆「ハンパク(反戦のための万国博)」については、倉田光一さんのHPに、臨場感溢れる素晴らしい写真が多数掲載されている。是非訪問して、43年前の夏の大阪城公園に現出した「ハンパク」のアナーキーな雰囲気を味わっていただきたい。なお、本稿で使用した貴重な写真は、倉田さんから承諾を頂き、掲載させていただいたものである。


倉田光一さんのHP「Welcome to Nico Photo Library」 http://www.nicophotolibrary.sakura.ne.jp/
ハンパクの写真はこちらから http://www.nicophotolibrary.sakura.ne.jp/title/archivestop.html


参考文献等
・週刊読売(1969年8月22日号)
・サンデー毎日(1969年8月24日号)
・現代の眼(1969年10月号)
・小中陽太郎「私の中のベトナム戦争」(サンケイ新聞社、1973年)
・思想の科学(1975年4月号)
・黒沢進「日本フォーク紀」(シンコーミュージック、1998年)
・レコード・コレクターズ(2003年4月号)
・その他、メールで情報提供をいただいた皆さん

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AFTER THE GOLD RUSH-渋谷ハチ公前の東京フォークゲリラ 新宿駅西口地下広場を追われたゲリラ達は、国電に乗り、第2、第3の「広場」の創出を試みた。例えば、渋谷駅ハチ公前広場。ここは、この年(1969年)の6月以降、慶応大や東工大のべ平連の学生達が、敷石に座り、のんびりとフォークソングを歌う場所で、「定価無料、カンパ50円」のガリ刷りの歌集が結構な売れ行きを見せるなど、買い物帰りの女性やアベックの人気をささやかに集めていた。しかし、この長閑な風景が一変する出来事が起きた。


8月2日、土曜の夕刻。待合せの男女でごった返すハチ公前に、新宿から流れてきた数人の若者がギターをかき鳴らしながら突如姿を現したのだ。「♪友よ、夜明け前の闇の中で――」。「私たちは東京フォーク・ゲリラです。今、新宿駅西口地下広場では機動隊が私たちの表現の自由を奪おうとしています。ここも“広場”です。皆さん、一緒に歌いましょう」。ハンドマイクを持った若者が群衆に呼びかける。ワっと沸き起こる拍手。通行人が足を止め、みるみるうちに、百人以上の人垣が出来る。渋谷駅一帯に熱気を帯びた歌声が響きわたる。


突然のゲリラ出没の報せに渋谷警察署は大いに慌てた。直ちに60名の署員が駆け付け、「通行の邪魔になる。移動しなさい」と説得にかかるが、聞き入れられないと、今度は強制排除の構え。腕をねじりあげ、力づくで連行しようとする。「おい、皆楽しんでるのに、酷いじゃないか!」「暴力反対!」。群衆の中から激しい抗議の声が上がり、それは程なくして「官憲帰れ」の大合唱へと発展。5百人以上の人の輪が、怒りに満ちたシュプレヒコールが、じりっじりっと警官隊を包囲する。ひるむ警官。「立ち止まらないでっ、歩きなさいっ!」と必死に警告するものの、増える一方の群衆には全く効果が無い。結局、この日、渋谷駅前では、夜8時過ぎまで反戦フォーク集会が続けられることとなった。


新宿から山手線外回りで5駅目の池袋にもゲリラは現れた。駅西口地下、東武ホープセンターの通称“オーロラプロムナード”前で、立教大べ平連を中心とした若者たちが、土曜の夜にフォークソングを歌い始めた。地下商店街の経営者らは、「フォーク集会の人たちと“対決”する気はないが、私たちは商売しているのだし、新宿のような状態になったら困る」と困惑顔。


ゲリラの中でも最も先鋭的で戦闘的なメンバーは、中央線の吉祥寺駅を新たな拠点とした。彼らは、あえて金曜午後6時から、駅北口改札前広場でフォーク集会を開催し、土曜は、機動隊で占拠された新宿駅へと“出撃”した。2千人の機動隊員に突き飛ばされ、蹴られ、追われながらも、アジるように歌い、叫び、そして、東口へ向かい、歌舞伎町のコマ劇場前小公園で反戦フォーク集会を敢行した。


このほか、有楽町数寄屋橋広場(ここは、69年春から東京フォーク・ゲリラが毎月第1土曜日にフォーク集会を開催していた)、蒲田駅西口、秋葉原駅、江古田駅等々、歌声は、国電や私鉄に乗って、都内各駅へと拡散していった。


都内だけではない。駅前フォーク集会は69年の夏以降、全国各地に広がったのだ。札幌の大通公園、金沢の中央公園、新潟の県民会館前広場、高松の瓦町駅前広場、盛岡駅前広場、そして、飛騨高山、会津、福岡、大牟田、熊本、栃木、鹿児島など、全国至るところの“広場”で反戦フォークの歌声が響き渡った。この時期、フォーク・ゲリラ発祥の地である大阪梅田駅地下街においても、活発でユニークな活動(通称「梅田大学」)が継続していたことも、書いておかねばなるまい。

AFTER THE GOLD RUSH-友部正人
そして、このムーブメントの中から、優れてオリジナリティに富み、抜きんでた才能を有した孤高のフォーク・シンガーが生れようとしていた。生来の破壊衝動を抑えられなかった「彼」は、高校時代、学生運動に関わり、名古屋市の本山交番を高校生安保闘争委員会の仲間達と火炎瓶で襲撃。鑑別所に入れられた経験を持つ。卒業後の69年春、交番襲撃事件で留置所から出られない仲間のためにカンパを始めようと、友人の竹内正美、朝野由彦らと名古屋市栄地区の路上で歌い始める。


「ぼくは名古屋の栄にあるオリエンタル中村というデパートの前ではじめてやってみた。誰も立ち止まる人もいないし、聞いてくれる人もいなかった。でも2回ぐらい日をおいてやったら、同じようにギターを持って歌う人たちが集まってきた。ボブ・ディラン以外にも歌のあることは知っていたけど、目の前でそれを聞いたのははじめてだった。それは、ジャックスだとか、岡林信康だとか、高田渡だとかだった。それから、ローリング・スト―ンズとか、バーズとかだった」。


「彼」は、居候していた劇団の謄写版で歌集を作った。表紙に大きく「栄解放戦線」と書き、それがいつしか彼らのグループの呼び名となった。毎週土曜の午後4時から6時まで栄の路上で歌う彼らの周囲には数百人の人の輪ができ、同時に警察の弾圧を受けることにもなった。「彼」は、「ゲバラのバラード」「石原慎太郎霊歌」などの自作のプロテストソングを作り、ギターを掻き鳴らし、ディランのようなしわがれ声で歌った。


 ♪忘れもしない大分前のこと お前さんは太陽族だった
  若者たちのアイドルだった 今じゃ軍国タカ派のアイドルさ
  お前さんも江ト君のあとを追って 今すぐに切腹しておくれ


この素朴で稚拙なプロテストソングが「彼」の原点だ。翌70年、20歳になった「彼」は、名古屋を離れ、10トントラックで大阪にやってきて、喫茶「ディラン」を拠点に活動を始めることになる。「彼」の名を、友部正人という。(つづく)


【追記(5/19)】
上記事の時系列に誤りがあったため訂正する。名古屋市千種区猫洞通の本山派出所が火炎瓶で襲撃されたのは、友部正人が高校卒業後の1969年8月22日のこと。当時の地元紙(中日新聞)によると、実行犯は、フォークゲリラ「栄解放戦線」の中心メンバーと高校生グループとあり、記事の扱いの大きさからも、フォークソングを愛好する高校生達が過激な行動に走ったことに、名古屋市民が大きな衝撃を受けた様子を窺い知ることができる。


なお、私が資料として参照した「1972春一番」ボックスのブックレットに、竹内正美氏(センチメンタル・シティ・ロマンス-マネジメント)が1976年に記した以下の文章が引用されている。「友部と初めて会ったのが、69年6月の名古屋・交番所を襲撃して留置所に入っているたまたま共通の知り合いがいて、そいつのために街へ出てカンパやろうというのがきっかけ。その時、高校時代の同級生でもあった朝野(由彦)も誘って、街の一角で歌い始めた」。上記ブックレットはここで終わっているが、原文では以下のような文章が続いている。「3人は8月に交番に火炎瓶を投げて鑑別所に入る」。


参考文献等
・毎日新聞(1969年7月4日)
・朝日新聞(1969年7月5日)
・読売新聞(1969年8月3日)
・日本経済新聞(1969年8月3日)
・週刊アンポ創刊号(1969年11月17日)
・友部正人「ちんちくりん」(ビレッジプレス)
・1972「春一番」ブックレット
・フォークゲリラ冊子集(遊撃隊/冥土出版)
・その他、メールで情報提供をいただいた皆さん

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AFTER THE GOLD RUSH-Folk Guerrilla しばらく中断していたフォーク・ゲリラに関する覚書を、次回からまた少しずつ書き進めていこうと思う。「うた」のあり方、「プロテストソング」のあり方、「運動の(ための)音楽」と「運動の中で生まれた音楽」の違い、「広場」とは何か、等々について、今一度、自分の頭を整理する契機としたい。


今、「うた」が必要だと感じる。啓蒙や、告発や、断罪の手段ではなく、新たなコミュニケーションの回路を人々の間に構築する「うた」。劇薬や爆薬ではなく、漢方薬のようにじんわりと効きながら、少しずつ体の構造を変えてゆく「うた」。心の内側から発する呻き声であり、叫び声であり、歓喜の声でありながら、当然のことながら、魅力的な「音楽」として成立している「うた」。フォーク・ゲリラと「うた」の関係性に、その成功と失敗の事例を見出すことができるかもしれない。


以下、これまでの記事と今後の予定を一覧にした。個人的な覚書、もしくはスクラップ・ブックとして始めたものなので、今となっては大幅な加筆修正を要する記事が大半なのだが、とりあえずすべて書き終えるまではこのままにしておく。文章の拙さについては、ご容赦願いたい。


1  その1 旗
2  その2 歌い創めたのは誰か
3  その3 1969年5月14日 合唱禁止令布告
4  その4 1969年5月17日 強制排除
5  その5 1969年5月24日 大集会へ
6  その6 1969年5月31日 ルポ・西口地下広場フォーク集会
7  その7 1969年6月7日~21日 高揚期
8  歌声vs国家権力
9  その8 1969年6月28日 衝突①
10 その9 1969年6月28日 衝突②
11 その10 1969年7月5日 ソフト規制と逮捕
12 その11 1969年7月12日 混沌の中で
13 その12 歌い創めたのは誰か~「なんだいべ」からの証言
14 その13 1969年7月19日 広場から通路へ
15 その14 フォークシンガーとの断絶
16 その16 高石友也との論争
17 日めくりタイムトラベル 「新宿西口フォークゲリラ」考
18 花束デモとフォーク・ゲリラ
19 栄ちゃんのバラード
20 その17 1969年7月26日~8月4日 真夏の夜の弾圧
21 その日、ギターは武器になったのか?
22 フォーク・ゲリラとブロードサイド・バラッドに関する一つの考察


(今後予定)
23 その18 歌は国電に乗って
24 その19 1969年8月8日~8月23日 内ゲバの季節
25 その20 西口広場裁判①~起訴
27 その21 西口広場裁判②~孤独な闘い
28 その22 西口広場裁判③~敗北
29 その23 いくつかのエピソード
30 最終章 旗~再び

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AFTER THE GOLD RUSH-フォークゲリラ・ビラ フォーク・ゲリラとブロードサイド・バラッドとの近似性に思いを巡らすようになったのは、神田の古書店で見つけた1枚のガリ版刷りのビラがきっかけだ。新宿駅西口地下広場の反戦フォーク集会で配られたと思しきそのビラは、上部に「一緒に歌い考えよう!」と運動のスローガンが大きく書かれ、左下の囲みには、日比谷野外音楽堂における「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15統一集会」の告知があるから、おそらく、1969年の5月末から6月上旬にかけて、東京フォーク・ゲリラによって撒かれたものだろう(詳細は左画像を参照。クリックすると拡大して見ることができます)。ここで、ぼくの目を引いたのは、中央に大きく書かれた「機動隊ブルース」の歌詞。「4・28 新橋で 暴力学生あばれたが 破防法が何になる」と時事ネタで権力を茶化した歌詞の上には、簡単なコード譜が書かれており、このビラは、情宣活動だけでなく、楽譜としても機能していたことが分かる。


これをブロードサイド・バラッドと結びつけるのは、やや強引で、こじつけめいているかもしれない。しかし、そう思わざるをえないのだ。まるで連想ゲームのように、ぼくの頭には、16世紀から19世紀にかけて英国で盛んだったブロードサイド・バラッドが浮かび、それが消えてくれそうにない。


ブロードサイド・バラッドとは、片面刷りのザラ紙に歌詞と楽譜を印刷して、路上で歌いながら売られたもの。時局の政治的、社会的事件を歌詞にして、すぐさま人々に伝えるという点において、今日の新聞の原型ともいわれる。19世紀に入ると、労働運動や反政府的な歌もブロードサイド・バラッドとして発表され、ブロードサイド売りは、検閲や弾圧とのいたちごっこを繰り返しながら、路上でしぶとく歌い、売り続けたという。彼らは、罰金刑を受け、時に投獄されもしたが、それでも懲りずに政治的バラッドを出版し続けた。


AFTER THE GOLD RUSH-the red megaphones
さらに、時代は進み、1930年代。後に英国フォーク・リヴァイヴァル運動の中心人物となるイワン・マッコールもまた、ブロードサイド・バラッドの精神を継承するかのような、歌によるゲリラ活動を展開していた。ストリート・パフォーマンス集団「レッド・メガフォン」を結成し、トラックで移動しながら、歌と劇を武器に権力と大いに闘った。例えば、工場の正門前にトラックを停め、警官が到着するまでの短い間に、資本家への皮肉を込めたバラッドを数曲歌う「歌い逃げ」は、彼らの十八番だったという。


ここで、冒頭のフォーク・ゲリラのビラに戻る。すでに書いたように、このビラは、1969年の5月末から6月上旬、具体的には、5月24日から6月14日までの間のいずれかの日に撒かれたものと推測できる。もっと絞り込むと、最初の弾圧以降に“土曜ショー”が行われた、5月24日、31日、6月7日のいずれかの日、と考えられる。(6・15集会の告知の文面からみて、集会前日の6月14日ではないと判断した)。あえて、日を絞り込んだのは、このビラがどのような状況下で配布され、どういう機能を果たしたか、を浮き彫りにしたかったからだ。つまり、次のような状況を想像することができる。土曜夜の新宿駅西口地下広場。数千人の群衆が集まり、人いきれでムンムンする中、このビラは撒かれ、受け取った人たちは、ビラの歌詞を見ながら、「機動隊ブルース」や「友よ」を合唱した。また、ビラにあるコード譜をたよりに、演奏に参加することもできた。


片面のザラ紙に歌詞と簡単な楽譜が書かれているという点、時事ネタで、民衆の視点に立っているという点、さらには、共に弾圧の対象であったという点で、フォーク・ゲリラのビラとブロードサイド・バラッドには、通低するものがあるのではないか。


AFTER THE GOLD RUSH-Broadside seller
もちろん、違いもある。例えば、フォーク・ゲリラは、「栄ちゃんのバラード」や「平和な国へ」など、数曲のオリジナルを除き、自分たちの歌をつくり出すことはできなかった。激動の1969年である。日々刻々と変化する政治情勢、例えば、大学立法、入管法、アスパック粉砕闘争、そして何より、広場における自らと警察との攻防戦について、機関銃に弾丸を込めるがごとく、スピーディーに言葉を紡ぎ、週替わりメニューで新曲を“連射”していたなら、その後の展開もまた違ったものになったのではないだろうか。ただし、この点については、三橋一夫氏の当時の証言によれば、「古いヨーロッパでは」の新しい歌詞がゲリラによって作られたりと、その萌芽はあったようだが、彼らを取り巻く緊迫した政治状況がそれを許さなかったらしく、オリジナルが少ないことをもって一方的にその価値を貶めるのは、フェアでないかもしれない。


むしろ、その政治性の高さとハプニング的要素から、イワン・マッコール率いる「レッド・メガフォン」との類似性を考察する方が、ゲリラの本質を掴むには有益という気もする。


AFTER THE GOLD RUSH-中川五郎と群衆 さらに、ブロードサイド・バラッドとフォークとの関係に戻り、もう一段、連想を進めると、一人のミュージシャンの名前が浮かんでくる。
中川五郎。異論を承知で書かせてもらうが、あの当時、ブロードサイド・バラッドの反骨精神を正しく受け継ぎ、街頭で、集会で、権力の急所を狙い撃つスナイパーのごとく、執念深くトピカルソングを歌い続けたミュージシャンは、中川五郎をおいてほかにいなかったのではないか。「殺し屋のブルース」「うた」「カッコよくはないけれど」「古いヨーロッパでは」等々、彼の歌は、時代に鋭く切り込み、ジャーナリスティックに告発し、聴く者を行動に駆り立てるという点において、他の追随を許さぬ唯一無二のパワーがある。そして彼が作り、もしくは、訳した歌は、どれも、ゲリラ達の重要なレパートリーとなった。


ここに、一つの円環が完成する。ブロードサイド・バラッド~中川五郎~フォーク・ゲリラ。これをこじつけと思うか、何か意味があると思うか。その判断は、この駄文を最後まで読んでくださった、奇特なあなたに委ねたい。

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