歌声vs国家権力 | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

The Strawberry Statement フォーク・ゲリラを語る上でしばしば引き合いに出されるのが、反戦フォーク集会を機動隊が何百発もの催涙弾とジェラルミンの盾で弾圧した、という「歌声vs国家権力」を象徴するエピソードだ。史実的にいえば、1969年6月28日夜の衝突をいう。初めてこの話を聞いた時、ぼくは次のようなイメージを思い浮かべた。


― 「ウイ・シャル・オーバーカム」を合唱し、肩を組んで座り込む何千人もの市民。そこに完全武装した機動隊がなだれ込み、立て続けに催涙弾をぶっ放す。歌声は止み、かわって怒号と悲鳴が広場を支配する。機動隊員はジェラルミンの盾とカシの棒を力いっぱい振り下ろし、座り込んだ無抵抗の市民は、血まみれになってごぼう抜きされていく……。それは映画「いちご白書」のラストシーン、― 大学の講堂に立て篭もった学生達が「Give Peace A Chance」を歌いながら、警官隊に殴られ、蹴られ、満身創痍の状態で排除されていく、あの絶望と感動に満ちた惨劇が、新宿駅西口地下広場でも繰り広げられたのだろうと思っていたのだ。

 

だが、当時の記録にあたってみると、どうも様子が違う。機動隊が催涙弾を打ち込みつつ排除しようとしたのは、本当に“歌声”だったのだろうか? そんな根源的な疑問さえ沸いてくる。誤解があると困るので、ここは強調して書いておくが、警察が地下広場から“歌声”を排除したがっていたのは紛れも無い事実だ。機動隊がガス銃の引き金を引きたくてうずうずしていたことも。さらにいえば、権力は、フォーク・ゲリラは極左暴力集団と同根という「ネガティブ・キャンペーン」を貼りたがってさえいた。だから「挑発行為」は当然あっただろうし、いわゆる「謀略」もあったかもしれない。しかし、“歌声”がいとも簡単に暴力に汚染されてしまった要因を、すべて敵の「挑発」や「謀略」のせいにするのは、事実を客観視できていない偏った見解というものだろう。

 

少なくとも、彼らはこの日、決定的な判断ミスで権力に付け入るすきを与えてしまった。ぼくにはそう思えてならない。ギターという“平和な武器”で闘おうと決意した“ゲリラ”たるもの、「挑発」や「謀略」などものともしない強固な精神性 ―暴力主義との完全な決別― と、より慎重な「革命的警戒心」が求められていたのではないか――。と書きつつ、一方で、若い彼らに数千人の群集をクールダウンさせる術などあろうはずもなく、それをもって断罪するのはあまりにも酷という気もする。評価に迷う。何よりこの日の出来事を正確に記録した資料が少ない。

 

話が少々先に進みすぎたようだ。ゲリラ達にとっても大きなターニングポイントになったであろう69年6月の最終土曜日。次回は、この日、地下広場で何が起こったのかを、当時の資料を辿ってぼくなりに検証してみたい。

フォークゲリラを知ってるかい? その8