2012-03-06 12:58:07

後に續く若き友らへ   山本 卓眞

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後に續く若き友らへ
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    山本 卓眞

[日本の獨立を守った先人の足跡}

學生諸君が、休日にもかかはらず、全國から集まって研修をされることに敬意を表します。

最初に、我が國の先人の足跡についてお話しいたします。

日本は聖徳太子の時代(6世紀末から7世紀)、隋に遣隋使を派遣し、皇帝煬帝に對して「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す」との國書を差し出します。

毅然として對等の國交をしてゐたのです。

また「四百餘州を擧る十萬餘騎の敵國難ここに見る弘安四年夏の頃」という歌がありますね、「元寇」です。

13世紀當時、アジア大陸かららヨーロッパまで、ほとんどの國がモンゴルに席卷されてゐた時代に、日本だけが敢然と戰って元軍(モンゴル軍)を撃ち拂ひました。

もちろん「元軍の船が夜停泊してゐた玄界灘に臺風が來た、嵐が吹いた」
といはれていますから、神風も吹いたのでせう。

しかし敢然と朝野を擧げて戰ったのです。

例へば、出羽三山に、時の上皇は元軍撃滅の祈りを捧げました。その記念の額は今でも殘ってゐます。

朝野を擧げて死に物狂ひで戰ったから、日本だけは他國の侵掠を免れたのです。次に17世紀の戰國時代の話です。當時はポルトガルやスペインを先頭に、ヨーロッパ諸國がアジアに攻め込んできた時代です。

マカオとか厦門(アモイ)、香港、シンガポール、マレーシア、インドネシア等散々やられてしまひました。

さういふ中、日本にも宣教師がやってきました。その宣教師が本國に書き送った文章の中に、次のやうにありました。「日本は平和のために、絶えず戰爭の練習をしてゐて、好戰的である。この國には攻め込まないはうがいい」と。

「好戰的」だといふ言ひ方は正確ではなかったと思ひますが、しかし外の國が武力を疎んじてゐた時に日本は、文武兩道だったのです。

武士が世の中の中核にゐたためといへますが、それが日本の獨立を支え統けたのです。

さらに時代は進んで19世紀の幕末になります。

生麥事件の後、イギリス軍が鹿兒島を攻撃しましたが、薩摩藩が降伏しないで戰ったのです。結果としては負けましたが、イギリス軍も薩摩を占領できず撤退しました。

その後下關で馬關戰爭が起こり、長州藩は四ヶ國と戰ひ、戰鬪には負けたのですが、戰ふ姿勢を示したため、幕末も日本の獨立が守られたのです。

そしてついに明治維新に入っていきます。

日本の武士たちは、大政奉還、武士階級の消滅、富國強兵の策をとり、近代國家建設を成し遂げました。
これが日本の近代化の車大な要素です。

その時にひとつ知っておいていただきたいことがあります。

頼山陽や坂本能馬、高杉晋作、眞木和泉守など、志士と呼ぱれる人たちは、西方の人が多くゐました。特に九州の人ですね。

上京する時には、みんな兵庫の湊川神社にお參りしてゐました。

そこに「嗚呼忠臣楠子之墓」といふのがあります。楠木正成を祀った墓です。九州から出てきた志士たちは湊川神社に詣でてゐるのです。

では、なぜ志士たちは漆川神社を詣でたのでせうか。南北朝時代のことを扱った國民文學に『大平記』があります。

この中に楠木正成が出てくるのですが、「智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古より今に至るまで、この正成程の者はなかりつるに…」
とあります。最高の褒め言葉ですね。

かうして日本の國民に、楠木正成の忠勇が傳はり續けました。

この『太平記』は南朝寄りの作品ですが、反對の北朝側の足利尊氏寄りの作品に『梅松論』があります。

楠正成にとっては、いわゆる敵方ですね。

その『梅松論』で、楠木正成のことを「誠に賢才武略の勇士とはこの樣な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と書いてゐます。

敵方であっても、楠木正成はこのやうに評價されてゐます。幕末の志士たちはかうした文學を讀み、みんな湊川神社を訪れたのです。

楠木正成の言葉に「七生報國」といふのがあります。七度生まれて國に報いる、といふことです。正成が湊川で戰死したのは兼武三年(1336年)ですが、500年以上を經て、明治の志士たちが楠木正成の後を繼いでいかうと起ちあがったのです。

かうした忠君愛國、國や公のために盡くすといふ心が日本を形成する中心にあるといふ心が非常に大きなことなのです。

[三つの世界史的偉業]

我が國の先輩たちは、近現代において三つの世界的偉業を成し遂げてゐます。

第一は日清・日露戰爭です。

日清戰爭は大したことがないやうに思はれてゐますが、それは今日から見た考へ方です。


當時清國は、「眠れる獅子」と言はれ、歐米も恐れたほどです。もちろん日本人も恐れてゐまし
た。

ところが日清戰爭の15年前ほどに、福島安正といふ情報將校が、朝鮮や中國本土に渡って、事情を調べました。そして「清は眠れる獅子ではない、眠れる豚だ」といふ報告を上げてゐるのです。

それを讀んだ伊藤博文などは、「眠れる獅子かと心配してゐたが、それならぱ戰ふか」といふことで日清戰爭に踏み切ったのです。

日清戰爭の數年前に、中國はドイツから「鎖遠」「定遠」といふ軍艦を買ひました。
そして長崎に來て、デモンストレーションを行ひ、暴れまはつたといふ有名な事件があります。

中國に武器を持たせるとろくなことがありません。

そのことは歴史的に證明されてゐるのです。

だから中國の鄰に位置する日本は、抑止力を持たなけれぱいけないといふのが、歴史的教へなのです。

ではなぜ、日清戰爭をせざるを得なかったのか。

それは清の背後にロシアの脅威があったからです。


もし日本が日清・日露戰爭を戰はなけれぱ、
韓國は今頃、みんなロシア語を話してゐたことでせう。

日本は日清戰爭に勝った上に、さらに日露戰爭にまで勝った。まさに大國との戰ひに勝ったのです。

この時の日本將兵の規律は世界に知れ渡りました。


特に北清事件の際、北京に駐留してゐる外國軍の中で、日本軍は際立って規律嚴正だったといふことが、北京にゐた英國の公使のレポートに記されてゐます。

英國公使は、本國に對して「手を握るのは日本だ」といふレポートを送ったのですが、それが後の日英同盟の基礎になったと言はれてゐます。

また日露戰爭の勝利で、世界に衝撃が走りました。インドやトルコ、フィンランドなど世界の諸民族が覺醒したのです。

平成3年(1997年)にOECDから頼まれて、私はフィンランドの國際會議に出席しました。用事が終はった後、フィンランドのリッポネン首柑を訪ねました。

私は首相に「日本人はフィンランド人に對して親近感を持ってゐます」
と言ひました。

と言ふのは、フィンランドはフン族といって、アジアの血が入ってゐる民族なのです。

當然、フィンランド側もそのことを知ってゐますから、説明しなくてもわかりました。

あとは會社の話やフィンランドにおける活動の話をして、「これからもよろしく」と傳へました。

それに對してフィンランドの首相は、「われわれフィンランド人は對馬以來、日本に對して特別の感情を持ってゐる」と答へました。「對馬」とは日露戰爭の日本海海戰のことです。

日本が日本海海戰を果敢に戰ひ、ロシアに勝利した。

それによってフィンランドも發奮し、ついにロシアからの獨立を達成したといふのがリッポネン首相の言葉でした。

アメリカのフロリダ大學のウィリアム・ウッドラフといふ歴史學の教授が、平成2年(1990年)に『現代を讀む世界近代史』(阪急コミ‐ュニヶーションズ)といふ本で日露戰爭を論評してゐます。

そこを讀みますと、「近代史において初めてアジア人がヨーロッパの強國を、陸と海で同時に打ち破った。

ヨーロッパ全能の神話が打ち彼られ、インド、ペルシャ、トルコのアジア民族主義にとてつもない刺戟を與えた。歴史の第一線へのアジアの囘歸が始まった」と書いてあります。

我々の先輩たちが日露戰爭を戰ったことでアジアの人たちを覺醒させ、彼らを奮ひ立たせたことが、このやうな形でも評價されてゐます。


[人類の基本道養の確立]

先輩方が成し遂げた世界的偉業の二つ目は、大東亞戰爭です。

これは敗れました。

敗れましたが、その結果どうなったでせうか。

世界では、人種差別が撤廢されるやうになりました。

もちろん名殘はありますが、建前としては人種差別が認められなくなりました。

さらに植民地もほとんど無くなりました。


つまり我々の先輩たちが大東亞戰爭を戰ったことで、人類の基本道義が確立されたのです。
これを偉業と呼ばずにをれるでせうか。

イギリスのアーノル卜・トインビーといふ世界的な歴史家は、『オブザーバー』といふ雜誌の昭和31年(956年)10月28日號に次のやうに書いてゐます。

「第二次大戰において、日本人は日本のためといふよりも、むしろ戰爭によって利益を得た國々のために、偉大なる歴史を殘したと言はねぱならない。

その國々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亞共榮圈に合まれてゐた國々である。

日本人が歴史に殘した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考へられてゐたやうな、不敗の半神でないことを明らかに示した點にある」。

トインビーはここに「短命な理想であった大東亞共榮圈」だと書いてゐます。ところがその後、日本を先頭にアジアは經濟發展したのです。


三つ目の倬業は、經濟發展です。平成2年(1990年)3月、沖縄にゐたアメリカ海兵隊司令官スタック・ポールは、アメリカの『ワシントン・ポスト紙』のインタビューに答へ、「日本は銃によらない大東亞共榮圈を作った」と答へました。

.彼は「在日米軍は日本の軍事力増強を抑制するための「ビンのふた」だ」とずけずけといふ男ですが、私も率直にさう思ひます。

そのスタック・ホール中將が言ふやうに、日本は、經濟發展でも多大な業績を上げてゐます。戰後、日本が急成長し、アジアの發展を觸發してきたのです。

平成17年(2005年)の8月の『タイム誌』(アジア版)に掲載された特集「モダンアジアの誕生」の卷頭コラムに、シンガポールのリー・クアンユー公共政策大學院院長のキショール・マブバニが、次のやうに書いてゐます。

「第二次大戰における日本の振る舞ひはひどいものだ。

しかし、もし日本が20世紀前半に成功しなかったら、アジアの發展はずっと遲れていただらう。日本がアジアの勃興を促したのだ。

日本の過酷な植民地支配を受けた韓國でさへ、日本といふお手本がなかったらあれほど早く飛び立てなかっただらう。アジアは日本に感謝状を贈らなければならない。

殘念なのは、アジアと西洋の間に引き裂かれた日本が、自らのアイデンティティに曖昧でゐる間は、さうした感謝の言葉を贈るわけにはいかないといふことだ。

中國人でさへ日本に感謝すベきだ。

第二次大戰中の暴虐行爲を再三否定する日本政府の態度は、中國との關係を複雜化させてゐる。

しかし、トウ小平が計畫經濟から自由主義耗濟ヘと移行する運命的な決斷をしなければ、今の中國はなかった。

トウ小平は、臺灣、香港、シンガポールで發展する華僑の姿を見て、思ひ切った決斷をするに至ったのだが、この三匹の虎と、四匹目の虎である韓國は、日本に刺戟を受けたのだ。


日本がアジア太平洋に投げ込んだ石は波紋となり、やがて中國の利益にもなったのだ」。

多少歴史觀の違ひはありますが、アジアでも、大東亞戰爭後、日本がアジアを覺醒し發展させた原動力となったといふ見方があるのです。


トウ小平は、昭和53年(1978年)10月に日本に來ました。中國に戻った後の12月、自由主義經濟に移るといふ決斷をしました。それから8年遲れてソ聯は、べレストロイカ政策に踏み切りました。

ロシアも、中國が發展し始めたのを見て、「これは大變だ」といふことで昭和61年(1986年)に動き始め、平成3年(1991年)にソ聯が崩壞します。かうして共産主義の計畫經濟は、完全に敗北しました。

日本が經濟發展し、アジア諸國を觸發して、自由經濟がいいといふことを證明し、世界を動かしたのです。日清・日露戰爭、大東亞戰爭―いづれも日本がほとんど單獨で行った大きな歴史的偉業であると言へます。


[日本の精神基盤]

ではなぜこのやうな偉業を成し遂げることができたのでせう。それは日本が道義を通したためです。自分だけの利益を求めたのではなく、アジアの繁榮、彼らの獨立を考へ、さらには經濟を發展させました。

日本の精神的根底にあるのは、日本書紀に出て來る「八紘一宇」の精神です。「八紘を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと」といふ意味です。
聖徳太子の十七條憲法で言ふところの「和を以て貴しとなす」ですね。平和を求める心が日本人の精神の根本にあるのです。

萬葉集の中に、「海行かぱ水漬くかぱね 山行かば草むすかぱね 大君の邊にこそ死なめ かへりみはせじ」といふ一節があります。忠君愛國と言ひますか、己のために生きるのではなくて、全體のために生きるといふ生き方が最高の生き方だ、といふことが萬葉の昔から言はれてきました。
このことを忘れるわけにはいきません。

それが先ほど述べました楠木正成の南北朝時代に始まって、戰國時代、江戸時代を通して、文武兩道を重んじる武士道に繋がりました。武士は單なる武力だけでなく、政治を預かってゐました。

これに對し韓國の李朝は文だけ尊重し、武を敬遠しました。その結果、亡國となったのです。清國も同じです。ところが今の共産中國は、武だけを増強してゐます。李朝や清國の歴史を見ても、文武兩道は非常に大事なことなのです。

では今の日本はどうでせうか。武を嫌ひ、「平和、平和」と叫び、「憲法九條を殘せばいい」と言ってゐます。冗談ぢゃないと私は言ひたい。

尖閣諸島を見て、北朝鮮を見て、竹島を見て、北方領土を見れぱ、日本の安全保障をきちんと考へ、防衞費を増やさないといけないことは.一目瞭然です。このあたりのことは、これから勉強してもらって、あなた方若い人たちに後を繼いでもらひたいと思ってゐます。


[アジアの獨立を願って]

大正八年(1919年)、日本は第一次大戰後のバリ講和會議で、人種差別撤廢を主張しました。實はこの時、過半數の國は贊成したのです。しかし、「全會一致でないと認められない」と言って反對したのはアメリカのウィルソン大統領だったのです。

アメリカの理念とか道義とかを否定するつもりはありませんが、アメリカの主張する理想の裏には必ず利益が絡んでゐたり、自分の主張だけがあったりするものです。しかし日本はさうではありませんでした。

そしてもう一つ、日本はアジアの獨立をも願ひました。岡倉天心や頭山滿、宮崎滔天、河口慧海などが中心人物です。特に河口慧海は、日露戰爭が終はった年にネパールに僭入したのですが、その時、ネパールの首相宛に英文の手紙を書いてゐます。

そこには「我々日本人は、アジアの人々が共に手を携へ協力し合って發展する姿を見たいのです」と書かれてゐました。まさに大東亞共榮圈ですね。共榮の考へです。そして彼はネパールの發展のために、教育や政治に對する提案をしてゐます。

河口慧海はアジアの發展に盡くした代表人物の一人ですが、明治時代、大正時代にわたって、我々の先輩たちは、アジアに對して深い愛情をもってきました。


[自主獨立の氣概]

さて、歴史上に見る、日本の素晴らしさをお話してきましたが、では今の日本はどうでせうか。一番の問題は自主獨立の氣概がないことだと思ってゐます。

私は借行杜という舊陸軍將校と自衞隊の元幹部目衞官の團體の會長をしてゐます。この問まで理事長を六年間務めてゐました。私が接してきた自衞官たちはとても立派です。後事を託すに足る存在です。一朝事ある時は命を懸けて戰ふことを決意してゐることを感じます。

しかし殘念なのは、今の自衞隊が全く米軍依存であることです。長年米軍と共にやってきたので、依存體質があるのは仕方がないことではあるのですが…。

これからどんどん米國の力が下かってきます。一方、色んな新興國が力をつけてくる時代になります。なかんづく中國ですね。そのやうな中にあって、日本はそのままでいいのでせうか。さうはいきません。

中國、ロシア、韓國、北朝鮮の動きをみてゐると、十年後、二十午後は恐るべき状況がやってきます。今から手を打たなけれぱいけないのです。

その基本は、自主獨立の氣概を持つことです。そのためにも、日本人から自主獨立の氣概を奪った憲法を直さないといけません。憲法を改正するために、絶えず聲を上げ續ける必要があると思ひます。

[道義國家]

日本はこれからどのやうに進めばいいのでせうか。基本は道義國家となることだと思ひます。しかし、文武兩道で、道義の裏には力がないといけません。つまり「抑止力」と「同盟」が必要なのです。

アメリカだけでなく、東南アジアやインドといった國々としっかりと同盟を結ぶ。これらの國々とはシーレーン同盟を結ぶのがいいと思ひます。
これは同時に經濟同盟でもありうるのです。

シーレーン同盟強化のためにも、インドと東南アジアの國々には強くなってもらはないといけません。經濟力もつけてもらはないといけません。
ですから、經濟協力と同時に、集團的目衞權を行使できるやうにすることが必要です。やっぱり經濟力といふのは最後にものを言ひます。

若い皆さんには、ぜひ日本の經濟を成長させていただきたいと思ってゐます。


[生きて祖國の再建に力を盡くせ]

最後に、私が人生の中で心に殘ってゐる訓示、教訓についてお話しします。

私は、昭和20年に陸軍航空士官學校を卒業し、その後4月に滿洲に渡り
ました。まだ基本の操縱しか習ってゐませんでしたから、滿洲に行って
空中射撃や空中戰の練習をしました。

さうしてゐるうちに8月6日に廣島に原爆が落とされました。部隊長は
我々を集め、引き締まった顏で「廣島に新型爆彈が落とされた、廣島は
ひどいことになってゐる。お前たちも覺悟をしろ」と言ひました。異樣
な緊迫感を持った訓示を受けた記憶があります。

そして九日。ソ聯との國境近くの北滿の練習場にソ聯が爆彈を落としま
した。直ちに集められ、部隊長から「只今から、奉天の南飛行場に移動
し、飛行機を改造する。練習用戰鬪機の機關銃では戰車攻撃ができない。
爆彈を積んでソ聯の戰車を攻撃しろ。そのために飛行機を持って、全員
奉天に移動せよ」といふことを言はれました。途中三回着陸して、奉天
にたどり着きました。

改造が終はり、部隊長のゐる北飛行場にみんなで合流しようと準備して
ゐたときに、玉音放送がありました。玉音放送はよく聞き取れなかった
のですが、その日の午後、部隊長から招集されて「日本は負けた」と言
はれました。そして、翌々日の朝早く「飛行學生は内地の陸軍航空士官
學校に戻れ。これは命令だ」と言はれました。そのあと訓示に移りまし
た。

「最後までお前たちには死ぬことを教へてきた。しかしこれからは死んで
はならん。地を這ひ、草を食(は)み、犬になっても、乞食になっても
生き拔け。生きて祖國の再建に力を盡くせ」。

これが部隊長の別れの訓示でした。そのあと部隊長が言ふには、「お前
たちには今まで衣食住はすべて、國家が支給してゐた。しかしこれから
お前たちは全部自分で賄はなけれぱならん。ところが生活の術を全く心
得てゐない」。

私なんか12歳くらいのころから軍の學校に入ってゐるので、生活の術は
全く知りません。飯盒炊爨くらいはできますが、しかし米をどう育てる
のかはわかりません。部隊長は「それを思ふと哀れで涙がでる」と言っ
たのです。

我々は貨物列車に詰め込まれて、朝鮮經由で日本に戻りました。間髮で
ソ聯が入ってくる前に朝鮮にれました。しかし部隊長は翌日、ソ聯に抑
留されて、シベリアに三年半くらい抑留され、昭和24年に日本に歸って
きました。

部隊長が「地を這ひ、草を食み」と言ったのは何だったのか。「すごい
こと言ふな」とは思ったのですが、その意味はよくわかりませんでした。

しかし部隊長は、「戰後、日本にアメリカ軍が入ってきて、こいつらは
捕虜になるだらう。食べるものもなく、着るものもない。だけど必死に
堪えて生き延びろ。生きて祖國の再建に力を盡くせ」と言ひたかったの
ではないかと思った時、自分たちのことをそこまで考へてくれてゐたこ
とに氣附いたのです。

指揮官たるもの、部隊長たるもの、一朝事あるときにまづ部下のことを
考へるのです。もちろん天下國家のことが先です。天下國家のために何
が必要かと考へた時、部隊長は、部下を早く日本に歸して國の建に役立
てようと考へたのです。

幸いにして無事に歸った私は、廣島で原爆の燒け野原の跡を見て、東京
の燒け野原を見て、やむなく九州の親父の實家に戻りました。家は百姓
だったのですが、土地がなかったので、私は東京大學第二工學部に入學
しました。

部隊長の離別の訓示-―これは終生忘れられないものです-―「祖國の再
建はできたのか」と今なほ問び統けてゐます。確かに日本は經濟發展で
きた。しかし中身はどうかと考へると、いつも鞭打たれる思ひがするの
です。

私の心に殘るもう一つの言葉は、尾高朝雄といふ法哲學の教授の言葉で
す。

東京大學法學部には妙な教授がいっぱいゐました。手のひらを返したや
うに、「アメリカは偉い」と言ひ始めたのです。そのやうな中で、尾高
教授からは「眞理の探求は生易しいことではない。簡單に結論淨し出す
な。諸君は色々な説を聞くだらうが、ちょっと話を問いただけで簡單に
のめりこむな。廣く學び深く考えよ」との教へをいただきました。

クラスメートは40人ほどでしたが、10年ほど前にみんなで集まったとき
に、あの言葉を覺えてゐるかと問いたら、みんなしっかり覺えてゐまし
た。

さらに、輕擧妄動して赤旗を振った奴は一人もゐなかったのです。當時
は、赤旗を振っての學生運動が盛んだったのですが、我々のクラスから
は、そんな學生は一人も出なかったのです。

終生心に殘る、訓示、教訓といふのはその時々にあるものなのです。

まだまだ、あなた方の人生はこれからです。日本のために大いに働ひて
もらひたいものです。殘念ながら日本はまだまだ力足らずで、この體た
らくです。我々も生ある限り努力は統けるつもりですが、ぜひ皆さんに
は後に續いてもらひたいと思ひます。


(著者は大正14年熊本縣生まれ。昭和20年陸軍航空士官學校卒。24年東
京大學第二工學部卒業後、富士通信機製造株式會社(現富士通株式會社)
に入社。

會社では56年代表取締役社長、平成2年同會長、9年同名譽會長、16年
顧問。また、同臺經濟懇話會會長、借行社會長、日本戰略研究フォーラ
ム顧問、特攻隊戰沒者慰靈平和祈念協會會長、國策研究會會長、日本會
議副會長など國事にも奔走された。勳一等瑞寶章受賞。著書に『志を高
く』(本經濟新聞社)『夢を形に』(東洋經濟新報社)など。)


付記

追悼山本卓眞先生

本會の副會長として長くご指導いただきました富士通株式會社顧問の山
本卓眞先生が、1月17日、肺炎のためご逝去されました。享年年八十六。

お父樣は軍人で、二つ上のお兄樣は、陸軍最初の特攻隊の隊長としてフィ
リピンで戰死されました。ご自身は滿洲で8月9日、突如侵攻してきた
ソ聯軍をくひ止めるベく對戰車特攻隊の一員として明日出撃といふとき、
終戰。

部隊長から「どんなことがあっても生き拔いて祖國の再建にカを盡くせ」
との訓示を受け、復員後は、富士通を一流企業に育て上げ、日本の復興
に盡くされました。コンピューター開發の礎を築いた富士通「中興の祖」
で、米IBMと互角に渡り合ったことは有名。

元陸軍將校出身經濟人の團體、同臺經濟懇話會の野地ニ見氏によると、
公私混淆を絶對にしない清廉な人柄は社内の尊敬を一心に受けてをられ
ました。

また、國事に奔走され、いくつもの團體を率いてをられましたが、日本
會議では副會長として、歴史觀や國防に關する運動、國際廣報戰略など
幅廣くご指導いただきました。常に背筋のピンと伸びたお姿が思ひ起こ
されてなりません。ご冥福をお祈り申し上げます。

ここに、最後のご講演と拜察される全日本學生文化會議主催の講演内容
を掲載し、先生をお偲び申し上げたいと思ひます。(平成23年10月10日、
明治神宮にて。同機關誌『大學の使命』平成23年12月號より轉載)


(日本會議機關誌『日本の息吹』平成24年3月號に轉載のものを表記を
修正して入力しメルマガに投稿することについては全日本學生文化會議
より許諾を得た。トウ小平のトウは登に邑。)(上西俊雄)

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2012-03-06 12:49:33

中国人が南京大虐殺をどう歪曲しているのか、とくと見てみよう

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頂門の一針↓

◎中国人が南京大虐殺をどう歪曲しているのか、とくと見てみよう―中国
2012年03月03日13時18分
提供:Record China

2日、中国のジャーナリスト、王錦思氏は「中国人が南京大虐殺をどのように歪曲(わいきょく)しているのか、とくと見てみよう」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した。

2012年3月2日、中国のジャーナリスト、王錦思(ワン・ジンスー)氏は「中国人が南京大虐殺をどのように歪曲しているのか、とくと見てみよう」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した。以下はその内容。

河村たかし名古屋市長が堂々と「南京事件はなかったのではないか」と発言し、中国各界から怒りと抗議が噴出している。だが、実は中国人自らが南京大虐殺を歪曲していることは、ずっと見過ごされてきた。まずはこうしたやり方を直さなければ、われわれが日本人を責め立てることはできない。

新中国成立後、最初に南京に建てられたのは、蒋介石に処刑された20万人の共産党員を祀る「雨花台烈士記念館」だ。

南京大虐殺記念館が建てられるのは、その30年後になる。いわゆる「文化大革命」の時代には国民党に虐殺された革命烈士への追悼がブームだった。

当時、中国人は広島の原爆犠牲者に祈りを捧げに行ったが、誰も南京大虐殺の犠牲者を弔おうとはしなかった。紅衛兵は「南京大虐殺は『国民党を殺した』もの」だと言い、遺跡を破壊し尽くした。

学術界でも、南京大虐殺の研究はタブーだった。そんな中、立ち上がったのが南京大学歴史学部の高興祖(ガオ・シンズー)教授だ。

1972年、鈴木明氏が「『南京大虐殺』のまぼろし」などの文章を発表。
1982年6月、文部省が教科書の記述を改めさせる。これに刺激を受け、中国の学者たちがようやく南京大虐殺研究を正式に申し出た。1983年、南京大虐殺記念館の建設案が浮上、1985年に完成。

だが、初期の研究は民族感情が入り込み過ぎていて、とても研究と呼べるものではなく、「民衆に偏った歴史観を植え付けることになる」と警鐘を鳴らす学者もいた。2007年、台湾の教科書から「南京大虐殺」の文字が消える。

中国人は、侵略行為を否定する日本に対し、常に感情論で反撃してきた。
例えば、日本人が犠牲者の数を30万ではなく20万ではないかと問えば、30万より少なければ、虐殺がなかったというのか?」「1人でも殺していれば殺人だ」などと巧妙に回答をはぐらかす。

だが、戦後間もないころ、日本の戦犯の公判でレイプされた女性が出廷した時には傍聴席から笑い声さえ聞こえてきた。

南京大虐殺をテーマにした映画を放映した時には観客から「看護士がレイプされるシーンが短すぎる、肌の露出も少ない」と苦情が上がったほどだ。

1985年~1997年、南京大虐殺記念館の参観者は延べ580万人、日本人は延べ18万人に上った。

なので、日本人が南京大虐殺を全く知らないという言い方は誤りである。

2002年、筆者が記念館に向かう途中に乗ったタクシーで、地元の運転手は「あの時30万人殺してもらってよかった。そうでなければ、今の南京はもっと人が多かった」と言っていた。

日本の旧軍人や中高生が記念館でひざまずいて大泣きする姿をしばしば見かけるが、中国人がそうしているのをあまり見たことがない。

泣けないのであれば、せめて笑うべきではないと思うのだが、中国人の参観者が笑っているのを見たのは1度だけではない。

広島には「被爆者白書」があり、犠牲者の数も25万3008人と正確な数字が出ているが、南京大虐殺で名前が分かっている犠牲者は3000人ほどしかいない

広島は1946年から毎年8月6日に追悼式典を行っているが、南京で追悼式典が始まったのは1985年。広島には毎年首相が出席しているが、南京では市長さえも毎年来るか来ないかといった感じだ。

2001年12月13日、筆者は南京の追悼式典に出席したが、他の参列者はまるで縁日にでも来ているかのようにガヤガヤとうるさく、悲しみなど微塵も感じなかった。

そこにいる全員が涙を流す必要もないが、せめて静粛にできなかったのか。筆者はその後、2度と記念館には行っていない。行くなら雨花台と決めている。

無数の血や涙が流れた南京にも平和が戻ってきた。そして、彼らは日本語を学び、日本資本を受け入れ、世界に向かって突き進んでいる。(翻訳・編集/NN)

●王錦思(ワン・ジンスー)

吉林省出身、北京在住のジャーナリスト。北京大学でメディア学を専攻。
日中歴史問題や抗日戦争史を研究課題としている。著書に「日本行、中国更行」。11年3月に日本で「中国『反日』活動家の証言」を出版。

※本記事は筆者の承諾を得て掲載したものです。

〔情報収録 - 坂元 誠〕

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王錦思(ワン・ジンスー) さん本人も

あんまり南京のことを分かっていない感じ。ここだけ重要。↓


「南京大虐殺で名前が分かっている犠牲者は3000人ほどしかいない。」








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2012-03-06 12:44:04

宮崎氏のメルマガについていた読者の声

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読者の声1)名古屋市の河村たかし市長による「南京大虐殺」否定発言、日本国内ではたいして問題にもならず時代の変化を感じます。


中国側の報復措置も南京市で行われる予定だった日中文化交流(ジャパンウイーク)の中止といったもので、なんとか穏便に済ませたい中国側の思惑が見え隠れ。



中国の反応を探していたら「天涯社区」のサイトに東京新聞のニュース日本語原文と中国語訳、さらに日本のネット世論と中国語訳が載っていました。


こんなことまで書いていいのかと心配になるほど日本人の本音を紹介しています。
以下、日本側の反応から。


「よろしい、このままま関係の冷却を続けよう」
「日本軍が市民を虐殺してる時、中国軍は何をしてたんですか?」
「中国軍弱ぇぇぇ」
「むしろ30万人だか殺されたっていう相手国の都市と、姉妹関係だった方がびっくり」
「やりかねないのは中国軍だな 日本軍は一番やらなさそう 」
「当時でいうなら、黄河決壊事件。11都4000村が水没?水死者100万人とか、もう規模が違う」
「しかも目的だった日本軍にはなんらダメージ無しだと言うんだから、マジで自国民を苦しめているだけだ」
「それで現在でも揉め事の種として活用し続ける、その民族性が最低だと気付かない愚かさよ。中国人は、銭金と暴力でしか物事を判断しないから仕方なかろう」
「というか、中国人と朝鮮人は入国禁止にしろよ。あんな犯罪者民族どもは世界から隔離しろ」

http://www.tianya.cn/publicforum/content/worldlook/1/442645.shtml

江蘇省は公務員の愛知県への渡航禁止などと発表していますが、南京市はインチキ記念館の影響で日本企業が進出に消極的なだけにあまり事を荒立てたくはないというのが本音でしょうね。
 (PB生、千葉)


(宮崎正弘のコメント)南京の例の記念館、小生は改築前と新築後と二回行って、細かいレポートを書いています。それをどの単行本に収録したか、忘れましたが。ともかくご指摘のように日本のマスコミも騒がないのは、いまや大虐殺など無かったことを百も承知だからです。普通ならここぞとばかり河村市長攻撃にまわる朝日も、中日新聞も、いったいどうしたのでしょうね
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2012-03-06 12:37:34

産経新聞で、「父たちの満州、『建国』から80年」の連載が始まっていた。

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西村真悟 誇るべき満州
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二月二十五日、大阪で満州の方の話しを聞く機会があった。期せずしてその日、産経新聞で、「父たちの満州、『建国』から80年」の連載が始まっていた。
数年前、中共がウイグルに対して強圧的弾圧を開始し、三千人以上のウイグル人を殺戮した時、(その責任者が、この度アメリカに行って大統領と会いニコニコしていた習近平)、東京で、その中共の武力支配に対する抗議集会が開かれた。
その集会に集まった中共に弾圧されている各民族は、もちろん、ウイグルを筆頭に、チベットそしてモンゴルであるが、そこに満州も加わっていた。

満州、マンチュリアンの参加を知ったとき、驚きまた新鮮な思いがすると共に、それが、戦後の日本の歴史教育の欠落に由来する驚きであることを感じた。何故なら、戦後日本では、満州を満州として教えず、中華人民共和国(中共)の東北部として教え、そこを日本が侵略したとしか教えないからだ。



万里の長城は、南のイナゴのような支那人が、満州族の故地である満州に北上して雪崩れ込んでこないように築かれたのだ。



我が国で教えているのとは、反対だ。(ちなみに、今のアセアン諸国では、中共の問題を「南下問題」と呼ぶ。つまり、支那人が、金と不道徳を持って南に降りてきて地域に利権の根を張ってゆくゆゆしき事態のことをアセアンでは南下問題といっている)



チベットやウイグルに中共が武力侵攻してそこを奪ったように、満州も中共に奪われた。

満州は、中共の東北部ではなく満州である。

満州を侵略したのは、日本ではなく、中共である。


話しをしてくれた満州の方は、日本に住んでおられる。印象に残ったことを記しておきたい。


我が家は、奉天に住んでいました。

私の祖母が、一番嫌ったのが支那人でした。

その次に嫌ったのが朝鮮人でした。


私も、中華料理は嫌いで、何時も自分で満州の料理を造って食べています。


中共の支配によって、満州語を語る人が少なくなりました。

このままでは、もうすぐ、満州語がなくなってしまいます。

現在、満州やモンゴルの歴史研究の第一人者は、和歌山県出身で京都大学に学んだ宮脇淳子氏だと思うが、先日、彼女と話しをすると、日本の大学で、この分野の講座を設けるところがなく、大学で教鞭を執る機会がないということだった。


しかし、振り返れば、古代からの我が国と大陸との交流として、学校では、ただ遣隋使や遣唐使を教えるだけであるが、その北の満州や渤海との交流こそ、古く根深いものがあり、日本人のフロンティアの心を揺さぶってきたのではないか。


源義経が、樺太から沿海州に渡りジンギスカンになったというような伝説が今に伝わること自体、その方面への日本の夢・あこがれを前提にしているのだと思う。

この伝統を基にして、昭和七年からの満州国建設があり、そこが一挙に秩序が保たれた豊かな大地に変貌していくことになる。


昭和十一年二月二十六日の2・26事件直前に、日本特派員を命ぜられたル・モンド誌記者のロベルト・ギランは、ヨーロッパからシベリア鉄道を経て満州に入り日本へ来た。 


彼は、シベリアと満州の国境の街、満州里に入ったとき、文明の世界に戻ったと感じる。

何故なら、そこには秩序があり、ル・モンドもワシントンポストもニューヨークタイムズも読めたからである。


またナチスドイツがポーランドに侵攻し、全ヨーロッパを席巻した時、ヨーロッパのユダヤ人の多くが目指したところは、シベリア鉄道を経て満州に入ることだった。


昭和十七年に、七歳の時、両親に連れられてシベリアから満州に入り、日本海を渡って敦賀に上陸し神戸に来た婦人に、二年前エルサレムで会った。

彼女は、満州に入ってからの両親の安堵と神戸で日本人から示された親切の数々を涙をにじませて語ってくれた。

つまり、満州国は、当時、ユーラシア大陸で、最も秩序が保たれた地域であり文明の行き渡る地域であったのだ。

満州国建設とその発展の歴史を見直すことは、我が国が、世界に誇る歴史の回復だと思う。


アメリカの大統領、ルーズベルトが、満州への野望を逞しゅうして日本との戦争に入りたいという欲望に駆られた狂人(フーバー大統領回顧録)ではなく、我が国が大東亜戦争に負けなければ、中華人民共和国は誕生せず、満州国は肥沃な「王道楽土」となり、東アジアの全ての人民の幸せを確保する「大東亜共栄圏」を牽引していただろう。
以上、満州国建設に夢を抱いた、「父たちの満州」に触発されて。 
     ○ ○○ ◎◎ ◎

これが分かれば、中共のウイグル弾圧反対の東京集会に、満州族が参加していたことも分かる。
即ち、チベットやウイグルやモンゴルが支那ではないように、満州も支那ではない。
つまり、北が南に侵入するのを防ぐのではなく、南が北に侵入するのを防ぐのが、万里の長城だ。
戦後日本では、日本は満州をすばらしい農業と工業の盛んな豊かな大地にした、満州国が建設されてから、満州では鍵をかけずに家を空けても安全になった、とは教えない。従って、我々が再び、満州を自覚することは、中共を知ると共に、日本の歴史を回復することでもある。その意味で、産経新聞の「父たちの満州」連載は、封印された歴史の扉を開く大変有意義な企画だ。

そもそも、万里の長城は何の為に築かれたのか。これを正確に教えられないのが我が国の戦後教育である。現在、児童生徒には、万里の長城は北の騎馬民族が南に侵入してくるのを防ぐために造られたと教えられている。
しかし、これでは、万里の長城が、北の満州族によって建てられた王朝である清朝によって強化され補強されたことを説明できない。
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2012-03-06 12:35:50

あれっ?チュウゴクは、この程度で終わらす気なんだ。

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交流イベント「日本週間」延期=名古屋市長発言への批判受け―中国・南京
時事通信 3月1日(木)19時30分配信
 【上海時事】中国江蘇省南京市で9日から開催予定だった日中共催イベント「南京ジャパンウイーク」の延期が、1日決まった。1937年の南京事件を否定した名古屋市の河村たかし市長の発言に対する批判が中国国内で高まる中、交流イベントの開催は困難と判断したとみられる。
 上海の日本総領事館は「日中双方で協議した結果」と説明。共催する南京市人民対外友好協会は「延期を決定し、日本側に通知した」としている。河村市長の発言をめぐっては、名古屋と姉妹都市の関係にある南京市政府が発言翌日に交流一時停止を発表。2日にロサンゼルス五輪金メダリストの山下泰裕さんを招いて南京で開催予定だった柔道の交流イベントも中止が決まっており、発言の余波が続いている。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120301-00000147-jij-int
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2012-03-06 12:30:06

「体を張る内容だと出演者が張り切ってしまう。」フジテレビの豊田皓社長

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億単位の賠償金も…?
フジテレビの危険ロケで重傷を負った「ずん」のやすの深刻度
- 日刊サイゾー(PC)
http://www.cyzo.com/2012/02/post_10012.html
フジテレビの豊田皓社長は24日の定例社長会見で、お笑いコンビ「ずん」のやすが同局のバラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の収録で腰の骨を折る重傷を負ったことについて「2月3日に新潟から東京都内の病院へ搬送して手術した。手術は成功したと聞いている。現在は回復に向けて治療中」と報告。「けがをされたご本人、関係者のみなさんには大変ご迷惑をお掛けした。普段から番組を応援してくださっている視聴者のみなさんにもおわびしたい」と謝罪した。
 やすは今月2日、新潟県内のスキー場で、ゲレンデを水上スキー用のゴムボートに乗って滑走しタイムを競うゲームの最中に腰を強打。県内の病院に搬送され、診察を受けた結果、「第2腰椎破裂骨折、第1腰椎両側突起骨折など」と診断されていた。
 豊田社長は今回の事態を受けて「体を張る内容だと出演者が張り切ってしまう。そこをどうやって抑えればいいか。なかなか難しい問題ですので、当面は体を張るような番組、企画についてはやめております。現場で論議を深めて安全に収録できるようになるまでは、いわゆる体を張った企画をやめようではないかということ」とコメントした。
 気になるその後のやすの経過について、お笑い関係者は「腰椎損傷でなんらかの後遺症が残る可能性が高いそうです。現在もベッドの上から自力で起き上がることはできず、ようやく自分の意思で親指を動かせる程度の状況らしい」と沈痛な面持ちで語る。
「やすさんは『芸人として飯を食べている以上、仕方ない』と話しているが、とんねるずを始め、現場は申し訳ない気持ちでいっぱいのようです。フジテレビも治療費だけでなく、後遺症が残った場合の生活費や慰謝料など、億単位の賠償金を視野に入れているそうです」(別のお笑い関係者)
 今はとにかく、回復を祈るしかない。
~~~~~~~~~~~~~~~

いつか、誰かが大怪我をするまで

フジテレビは芸人に無理をさせ続けただろう。

「ずん」のやすがその「誰か」になった。

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2012-03-06 12:28:24

民主党は天下りを止めていない。逆に民主党になって天下りは増えているらしい。

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<AIJ問題>旧社保庁OB600人天下り 厚生年金基金に
毎日新聞 3月5日(月)15時0分配信
 投資顧問会社「AIJ投資顧問」の企業年金消失問題に絡み、旧社会保険庁(現日本年金機構)幹部23人の厚生年金基金への再就職が判明したが、ノンキャリアを含めると05年当時、全国約500の厚生年金基金に600人以上の同庁OBが天下っていたことが、毎日新聞の入手した資料で分かった。その約7割は資産運用の責任者を務める常務理事だった。AIJは同庁OBのネットワークを営業に利用したとされ、小宮山洋子厚生労働相は実態を調査する方針を示しているが、その大枠が判明した。

 社保庁OBらでつくる親睦団体が05年12月に作成した内部資料を毎日新聞が入手した。

 05年度末時点で厚生年金基金は全国に687あったが、内部資料によると、このうち約500の基金に旧社保庁職員600人以上が再就職。その約7割が、通常は基金の運用責任者を務める常務理事、約2割は事務長や事務局長で、複数のOBが同じ基金に再就職していたケースもあった。

 厚労省は、天下りの社保庁職員が退任した後は公募に切り替えるよう厚生年金基金に指導しているが、強制力はなく、現在も相当数のOB職員が在籍しているとみられる。

 AIJの企業年金消失問題では、10年度末時点で同社に運用委託をした企業年金84基金のうち74基金が厚生年金基金だった。また、99~10年に旧社保庁幹部23人が全国の厚生年金基金の常務理事などに就いていたことが明らかになっている。

 旧社保庁職員は資産運用経験がない場合がほとんどとされるが、中小の同業者でつくる「総合型」の基金では年金の実務や制度に詳しい人材が必要になるため、運用経験が乏しくても旧社保庁OBに頼らざるを得ない面もあったとみられる。【石川隆宣、松田真】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120305-00000043-mai-soci
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2012-03-06 12:25:56

「木登り上手にできた」と小学生を抱きしめ、キス… 71歳男を逮捕

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「木登り上手にできた」と小学生を抱きしめ、キス… 71歳男を逮捕
産経新聞 3月5日(月)16時52分配信
 公園で遊んでいる小学生の女児に抱きついたなどとして、警視庁子ども・女性安全対策室(愛称・さくらポリス)は、強制わいせつの疑いで、東京都品川区大井、無職、吉川智容疑者(71)を逮捕した。同署によると、吉川容疑者は、「木登りが上手にできたのでキスしたが、性的な意図はなかった」などと供述しているという。

 同署は、吉川容疑者が数年前から、大田区内の区立公園で指導と称し、木登りをして遊ぶ女児の尻を触ったり、木登りができた女児に抱きついてキスをしたりしていたとみている。

 逮捕容疑は、昨年11月中旬、同区南千束の区立公園で、小学5年生の女児(11)に抱きつくなどのわいせつな行為をしたとしている。

 事件は昨年12月末、同庁に保護者から相談が寄せられ、発覚した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120305-00000549-san-soci

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2012-03-06 12:23:58

韓国に「東日本大震災復旧」の求人、作業内容不明で波紋広がる

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2chでは、「また後で強制連行されたから

賠償金よこせと言ってくるんだろう!」

などという意見が多かった。↓


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韓国に「東日本大震災復旧」の求人、作業内容不明で波紋広がる

2012年03月05日15時30分
提供:韓フルタイム
韓国に「東日本大震災復旧」の求人、作業内容不明で波紋広がる
朝鮮族を支援する韓国の民間団体が、東日本大震災の福島原発付近で復旧作業にあたる人材を募集していることが分かった。募集要項には、労働時間や月給の記述はあるが、どこでなにをするのかについては一切不明なことから波紋を広げている。

韓国メディア「ソウル新聞」によると、求人を出したのはソウル九老区加里峰に事務所を構えるA団体。無料法律相談所などを運営しており、韓国での生活を希望する朝鮮族たちを支援している。

募集している人材の条件は、年齢1958~1988年生まれの、韓国国籍を取得する男性。「韓国国籍を取得する男性」とあるが、これは韓国で生まれ育った韓国人というよりも、韓国国籍を取得した朝鮮族が主な対象だという。

労働時間は1日8時間。25日勤務で、月給450万(約33万円)前後。滞在期間は基本6カ月で、延長も可能だとしている。団体側は、航空運賃、健康診断、書類代として120万ウォン(約9万円)が事前に必要になると説明。現時点ですでに30~40人の応募があり、来月末には第一弾が日本に向けて出発する予定という。

A団体は、日本の団体から下請け契約を結んで人材を募集しており、人材を日本に送ると会員費の名目で手数料を受け取れるのだという。

だが、肝心な作業内容はよく分かっていない。A団体の関係者は、同紙の取材に「福島原発から50~70キロは慣れた場所なので危険性は無い」と繰り返すばかりで、具体的な作業内容については明らかにしていない。

韓国のインターネット上では、「いくら給料が良くても放射能を浴びる可能性も否定できない。詳しい情報を公開すべきだ」などの声が上がっている。

参照:ソウル新聞

(文:林由美)
http://news.livedoor.com/article/detail/6339269/

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