徒然草 第240段 | 古文教室オフィシャルブログ

古文教室オフィシャルブログ

面白いことと、古文とかをのせていきまーす。
漢文もね。
無料メルマガもよろしくでーす。
http://melma.com/sp/backnumber_197937/

古文解釈 はじめの一歩 (駿台受験シリーズ)/駿台文庫
¥799
Amazon.co.jp


しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。

世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人(あづまうど)なりとも、賑ははしきにつきて、『誘ふ水あらば』など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、『分け来し葉山の』なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。

すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくく、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。

梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、ただ、色好まざらんには如かじ。


現代語訳


海岸で人目を忍んで好きな女に逢おうとしても、他人の見る目は煩わしいもので、闇に紛れた山で女に逢おうとしても、山守りの目線があったりもする。そう考えると、無理をしてまで女の下へ通っていく男の心情には深くしみじみとした哀れさがあるものだが、その時々で忘れられない事というのも多いだろう。だが女の親・兄弟から関係を許されて、ただ自分の家に引き取って生活の面倒を見てやるだけというのは、余り輝かしい(喜ばしい)ものでもない。

世渡りに困ってあぶれた女が、自分の年齢に似つかわしくない老人や、怪しげな関東人などであっても裕福であるのに惹かれて、『誘う水あれば(小野小町作の歌 わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば 往なんとぞ思ふ)』などと言えば、仲人は双方ともに奥ゆかしい人のように言いくるめて、お互いに知らない人を引き合わせることにもなるが、これは何ともつまらないことだ。こうして仲人によって結び合わせられる男女は、初めにどんな言葉を口にするのだろうか。それよりも気楽に合えなかった年月のつらさを、『分けて来た葉山の(筑波山 端山繁山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり 新古今和歌集)』などと言ってお互いに語り合えるような関係のほうが、話の種が尽きることが無いだろう。

すべて、本人ではない人がお膳立てしたような結婚は、何とも気にくわない事が多いものだ。仲介者が素晴らしい女を紹介してくれても、その女よりも身分が低く、容姿が醜く、老いてしまったような男だと、こんなつまらない自分のためにあんなに素晴らしい女性が人生を無駄にすることになるのではないかと考えてしまう。自分と女の落差から自分に自信が持てなくなり、我が身に向かう時には、鏡に映る自分の影すらも恥ずかしく思えてしまうのである。ひどく味気ない人生である。

梅の花が薫る夜に、朧月の下で恋人を求めて彷徨い歩くのも、恋人の住む家の垣根の辺りを露を分けて帰ろうとする夜明けの空も、これを我が身のことのように思えない人は、恋心は分からないし恋愛に夢中にならないほうが良いだろう。