[承前]


【6】いかなる運命も偶然に発する。そして偶然が集積し、もはやただの偶然とは思われない不可思議な連鎖を作り出し、やがて一個の物語と化したとき、人はその物語的な必然性を畏怖と感嘆を込めた神秘の名「運命」をもって呼称する。

 〈運命〉とは何か。通俗的な、しかし真実の実感の籠もったその定義は、〈偶然から生まれた必然〉である。この定義は別に間違いではない。だが、それは非常に舌足らずであるように思われる。言わんとすることを、真にその最後まで言い得ていないのだ。わたしは更に一歩踏み込んで、こう言い切ってしまわねばならない。

 運命とは、もはやそこに偶然も必然も無いところのもの、むしろ不可能性の成就なのだ。運命とは、全くありえないものこそがそこにある、という奇蹟の創造の事件であり、だからこそ、運命の物語は人の魂を震撼させ、その心を強烈な感動で満たすのだ。

  *  *  *

 〈運命〉の観念の真相は、不可能性の様相のうちに全き仕方で現れる。それは、実は〈運命〉というものが、偶然性にも必然性にも還元不可能な、両者を完全に超越した次元にその思想の核心をもつということである。

 〈運命〉というこの比類なき形而上学的虚構は、不可能性を直視し、それを直接的に端的に肯定するものの前にしか、その奥義の処女なる姿を顕現させることはない。〈運命〉は、偶然か必然かの低次元な言葉の水掛け論に遊び戯れる者の手を滑り抜けるのは勿論のこと、それを大掛かりに偶然と必然の弁証法的綜合というような観念論的詐術で出来た蜃気楼のようなバベルの塔を積み上げて、その余りに高い天の秘密を暴こうとする賢しい企みをも、言葉を乱す混乱の風の魔法によって実に簡単に打ち破ってしまうものなのだ。

 〈運命〉は端緒において、たしかに不可思議な偶然の出来事として到来する。しかし、それをそのままただの偶然として見過ごしてしまうなら、それは大いなる運命には到らない。出来事をそもそも偶然として評価する者は、実はその時点で、運命という観念を〈ありえないもの〉として否定しているのである。運命を発見するためには、人は出来事を偶然と見てはならない。むしろそれを奇蹟として見出していなければならない。偶然の観念は、端的に出来事の奇蹟性の否定である。そのような精神の持ち主に、聖なるものは侵入しても、心の中にその透明な姿を捉えることはできない。

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[承前]


【5】かつて、わたしは〈無〉を二つに区別 して、可能性としての〈無〉を〈夢〉、不可能性としての〈無〉を〈鬼〉と名づけたことがある。また、これとは別に不可能性に二つの貌をなお識別して、否定的な不可能性を〈鬼〉と呼び、肯定的な不可能性を〈 〉と呼んだ。

 いまここに〈花〉と呼ばれて呼び起こされるものは、この〈夢〉〈鬼〉〈神〉の様相性の三つの顔に顔を並べるものである。それは〈偶然性 〉にわたしがつけた贈り名に他ならない。そして、それは〈偶然性〉の形而上学者・九鬼周造の思想に受けたわたしの感銘をそのままシンボリックに言い表したものであり、それ自体が九鬼周造その人を黙示録的に象徴するその異名なのである。
 同様にして明かすならば、わたしは、〈夢〉というとき夢野久作を、〈鬼〉というとき埴谷雄高を、〈神〉というときシモーヌ・ヴェイユ(時にはレヴィナス)を強く想起しながら語っている。

 同時に〈花〉とは、別の系列として、アリストテレスと世阿弥を共に強く意識しつつ、〈風〉〈花〉〈実〉の三つのフェーズをくぐってわたしが展開しようと思っているアニマ論の第二フェーズとして重要な意味をもつものだ。「アニマ論」といってもユング心理学でいうアニマの問題とは一次的には関係ない。わたしが計画しているのはむしろアリストテレスの『デ・アニマ(魂について)』にあたるものであって、形而上学的生命論とでもいうべきものである。しかし、論の性格は全く異なるが、扱う主題はユング心理学に恐らく大きく重なっていく筈である。というのは、これは通常の意味での生命論ではなく、むしろ運命論であり、より厳密にいうと、〈運命〉と〈生命〉を繋ぐ〈命〉の意味を問い直すための哲学になるはずだからである。

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[承前]


【1】出来事は出来する。そして〈わたし〉は起きる。それは〈怒りの神〉の生誕である。
 しかし、それにもかかわらず、まず〈笑い〉がある。小さな子供の弱々しく微笑む顔が風のなかに忽然と現れる。これが〈花〉である。〈花〉である小さな子供の微かな〈笑み〉は、風にこぼれて、風にひろがる。崇高で峻厳なものではなく、可憐にして優美なものが、すなわち〈鬼〉ではなく〈花〉が、まず風の真上に咲きこぼれねばならない。それは〈神学〉ではなく、〈美学〉がまず生まれ出なければならないということと別ではない。

【2】〈花〉とは〈風〉の化したものである。
 しかし、それは風化したものではない。風化したものは、必ずや一方で石化したものである。風化と石化のあいだには、まさにそれこそが〈死〉であるような引き裂かれた時間がある。或いは時間それ自体が実は分裂に他ならないような、宇宙に開いたカマイタチの裂傷、暗黒の真空の断崖なのだ。それは〈深淵〉である。或いはむしろ〈深淵〉であることをその本質として顕現するような〈瞬間〉の問題なのだ。
 ドイツ語で〈瞬間〉はアウゲンブリック、すなわち〈目〉を開いて凝視することと呼ばれている。風化と石化の分裂した〈時〉のあいだの裂傷のなかに開かれるのは〈目〉であって〈花〉ではない。けれどもそれは出来事の擦過によって〈わたし〉に最初に起きること、すなわち、ねむりからの目覚めである。〈目〉とはそれ自体がむしろ〈目覚め〉という名の出来事なのである。
 〈目覚め〉のなかで、わたしは起きる。それは〈目〉のなかにわたしが起き上がるという事件であり、出来事である。この出来事において、何よりもまず留意しておくべきことは、それはまだ〈見ること〉も〈見えること〉も起きていない間に起きることであるということだ。

【3】ここに〈風〉といい、〈花〉というのは、いずれもがそれ自体としては形而上学的〈様相〉の概念である。形而上学的な〈様相〉の概念を、或るときは〈風〉、或るときは〈花〉と言い表すことのなかで、わたしは思考それ自体を違った風に、すなわち異なる様相へと転移し変異せしめようとしている。そこで遂行されているのは、概念をその出来合いの勿体振った哲学用語の裡への呪縛から解放して、生き生きと生きてうごめく言の葉の運動空間へと翻訳していくことであり、それと同時に、わたしたちのこの生を異なる仕方で表現しつつ、やはりみにくく勿体振った大衆的語調の支配によって息苦しく塞がれている文化の呪縛の閉塞から解放しようとする、思考の闘争の実践に他ならない。したがって、ここにはその一見それがあるかのように紛らわしく錯覚されるであろう〈詩学の製造〉は本当は為されていない。つまりここには詩人は全くいないのだ。ただ、まるで詩人であるかに見えてしまう哲学者が、〈詩学〉をそのうちわから打ち砕き、混乱させ、そしてついには粉微塵に粉砕するために、あらゆる詩作を不可能にするために、実はきわめて物騒な〈美学〉という名の爆弾テロの破壊工作を着々と進めているに過ぎないのである。
 しかし、この詩とは全く異なる思想の詩は、それにもかかわらず、戦略的に詩を擬態するし、詩と錯覚されたままに読まれて人の心に侵入することをこそ期待するものである。そうすることを通して、わたしは、いわばイメージやシンボルのカプセルに包んだ概念を読み手の心のもっとも深いところに伝え届けようとしているのである。この概念はしかしそれを摂取したからといって、物がより一層わかりやすくなるような〈答〉の様相の概念ではない。逆にそれは物や世界を一層わかりにくくしながら、実は逆にわかりやすい解説によって著しく損なわれてしまっている、その本来あるべきいきいきとした尽きせぬ謎のきらめきに満ちた心の宇宙を取り戻すための〈問い〉の様相の概念、生ける世界の全体を問い直して、全てが全く他のようでもありうることを、いつの日にか、その心の全域に対して啓示するための〈問い〉の照明弾を身内に含むものである。


【4】〈物の現れ〉である〈もののあわれ〉を見て、アウゲンブリックはギョッと目を剥く。それは、事物を出来事を白眼視すること、睨むこと、そして〈死〉の様相においてそれを捉えようとすることである。そのような存在の無気味性(Unheimlichkeit)は、しかしそれ自体が味気無いもの、無味乾燥なもの、無意味なものであるに過ぎない。何故というに、まさにその意味するものは〈無〉(das Nichts)だからだ。
 哲学の始まりにある形而上学的驚嘆(タウマゼイン)は、このようなドイツ観念論の悪霊である〈虚無の悪魔〉とのゴシックホラー的出会いとは、実はまるで異なる次元、異なる感性において描き直されねばならない。
 そして全く異なる哲学の言葉が、存在論の恐怖に凍った重苦しい思考の氷山を打ち砕き、真に驚嘆して目を瞠るべき春の美しい花園を描く言葉として召喚され直されねばならない。
 〈もののあわれ〉を異形の観念の怪物として無骨に描き出すことで、観念論は世界の全てを彼が〈絶対精神〉とやらいう、冷え冷えと冷え切った、黒く凍った〈知〉の冷蔵庫にフリーズドライしてしまっただけである。
 わたしは、むしろ幼稚なロマン主義で行こうと思う。物々しくご大層な議論を積み重ねるだけで、一向に、生き生きと生きてうごめくきらめく現実を、その〈知〉の無駄口の重圧から解氷しようとしない哲学という名の名ばかりの悪趣味にほとほとウンザリしてしまったからだ。
 わたしは彼らの重苦しくて騒々しいだけのブサイクな知の悪趣味なファッションセンスが心底大嫌いなのである。それは単に無様で滑稽なだけだ。きらめくヒューモアも鋭いウィットも片鱗も見られない。要するに〈ダサい〉のである。
 むしろ、幼稚なロマン主義こそが〈いき〉である。何故なら、哲学の始まりにある形而上学的驚嘆を能く為し得るのは、〈もののあわれ〉を見て暗くメソメソ泣いた揚句に全てを惨めで哀れにするだけのアイロニーの感傷主義に毒された大人の〈絶対精神〉などではなく、むしろ〈もののあわれ〉に出会ってそれを〈可笑し〉と思い、まずキラキラと笑ってみせる小さな子供のきらめくまなざしだけだからだ。
 〈風〉の真上にふわりと現れる妖精のような〈花〉の微笑みは、そんな小さな子供の顔である。それは〈汝殺す勿れ〉と叫ぶレヴィナスの大きな〈顔〉のイメージに代わる、凛々しくきらめく小さな〈顔〉である。それは〈顔〉のもうひとつの異貌、純粋理性の顔である。
 純粋理性は〈童心〉である。〈童心〉は破壊を好む。それが破壊するのは、世界を巧妙にその否定性の内なる財産に死蔵して、そうすることの実にみにくい罪と恥を知らない、厚顔無恥なる〈知〉の信者どもの、生気を無くした観念の帝国なのだ。

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◆もうかれこれ9年前位になるが、「形而上学的〈風〉についての考察 」というものを書いた(このブログにもバックアップあり)。こんど、「形而上学的〈花粉症〉についての考察」とでもいうべきものをその続きとして書きたいと思う。これはギャグではない。結構、大真面目なのだ。

◆風の本質は爆発にある、と僕は考えている。そこで、それが身体的な出来事として起きるとすれば、それは「咳」であったり「くしゃみ」であったりするのだといえる。そう、それは風の爆発という事件が人の身に起きることなのだ。
 バタイユやベルグソンは「笑い」について考察した。「笑い」は風の精神である「風流」あるいは「ヒューモア」の問題であるといってよい。この「笑い」の極限は、多分「爆笑」を越えて、「くしゃみ」や「咳」のようなもの、すなわち人の中で「風」が爆発し、それが破裂して、人を打ちのめすにまで到る何かなのではないかと思うのだ。
 それは「息」の出来事なのだが、この「息」となって侵入してくる風の爆発的風核こそが、風の爆発の火種であるところの形而上学的〈花粉 〉なのではないかと思うのである。
 まさしくそれは破壊=触発する不可視の風のそのもの自体――すなわち、風の強度の爆弾としての超新星爆発的結合体の問題を提起するものであると思われるからである。

 。。などと、冗談みたいにして始まるけれども、僕はかなりマジである。それは今年とうとう花粉症になってしまったかもしれない身の不運を無理矢理に笑いによって抑圧したいと思っているからなのではない。

 例えば、アントナン・アルトーは、器官なき身体について語るとき、それを何よりもまず、「放屁」の爆発として考察している。この凄まじい形而上学的屁理屈の向うを張ろうと思うからには、僕のなかに落ちてきた、あの偉大な哲学的飛降自殺者の持病であった「喘息」の問題から出発する他にないように思えてならないのである。

 というわけで、続く 。。かもしれない。

 だが、今日はもう遅いので寝なければならない。