二値論理学は、[存在/無][真/偽][肯定/否定][自己/他者][現実/非現実][A/非A][1/0]というような、二項対立的=第三項排除的図式によって全てを割り切る選言的な二元論である。
 これを根底的に成り立たせているのは自同律・矛盾律・排中律の三つの論理律である。

 それはパルメニデスの命題「存在は存在する」に表されるような存在の自己同一性の思想に淵源している。
 そして、パルメニデスの存在の自己同一性の思想は、思考と存在の同一性の思想を前提にしている。

 思考と存在の同一性は存在の自同律に先立ち、それと同じ水準にはないものである。
 また同一性の意味も違っている。

 存在の自同律は、存在がそれと同一者であるところの存在と同一であること、つまりA=A(A→A)である。
 これを水平的同一性と仮称するとすれば、思考と存在の同一性は垂直的同一性としてそれを下から上へ支え根拠づけている超同一律であるといってよい。

 そこでは思考という存在とは明らかに異なるものが存在へと「理由-帰結」の仮言的分節構造をとりながら同一化を果たしている。つまりX=A(X→A)である。
 これに対し、存在の自同律のA=Aは定言的である。
 また仮言的に見える思考と存在の超自同律は、非在ではなく存在を選び取る選択的な同一化であることを当然に含ませているからには選言的である。

 思考と存在の同一性(X=A)であって思考と非在の同一性(X=非A)なのではない。
 思考は己れと同一者として何を選ぶかという選択問題に対して、
 
 ①何も取らない(φ)
 ②存在を取る(A)
 ③非在を取る(非A)
 ④存在と非在を取る(A、非A)

 の四通りの答え方をすることができたと考えられる。

 つまり、

 ①存在も非在もしない
 ②存在する
 ③非在する
 ④存在し且つ非在する

 のどれか一つである。

 ここで①と④は実際上は同じことである。
 存在しないことは取りも直さず非在することである。
 非在しないことは取りも直さず存在することである。
 何故なら存在と非在は矛盾概念だからである。
 矛盾概念であるからには両者の間に共通部分があるわけはない。
 そして存在と非在の総和は全体にそのまま一致するので、存在と非在のどちらにも属さない外部があるわけではない。
AD

《存在者(on)ということは様々に語られる。しかしそれはある一つのもの及びある一つの本性(physis)に関係してであり、同名異義的(homonymos)にではない。それはあたかも健康的なるものがすべて健康に関係しているのと同様である。》(アリストテレス『形而上学』第4巻第2章1003a 岩崎勉訳)

 これは、アリストテレスの有名な
 存在の意味の多義性、あるいは
 存在の多義的言表可能性に言及した箇所である。
 存在については多くの仕方で語り得る、
 ただし同名異義的にではなく。
 ちなみに同名異義的にいえば、
 「存在」にあたるギリシャ語「オン」とは、
 ヘリオポリスの太陽神をも意味してしまう語である。

 非存在(me on)はこれに対して様々な様相を取る。
 しかしそれは様々な様相にも拘わらず
 すべて一様同様に「ない」という一義的な語において言い切られる。

 それは否定が一義的でしかありえないからである。
 否定は非存在を一様に無化して無の闇の淵に投げ込む。
 しかしそれはある一つのものや
 ある一つの本性に即しているのではなくて、むしろそれに反し背いている。

 否定は一義的な響きをもつが、その一義性は非存在に感染してはいない。
 否定のもつ明瞭で厳格な一義性、
 存在のもつ類比的に統一された多義性に対して、
 非存在の様相的で無根拠な多元性は
 一義的でもなければ多義的でもなく無意義に接している。

 それはしかし完全に無の純然たる一性に還元され切ることはない。
 否定によって非存在は同じ無の名の下に置かれることになるのだが、
 無いということにおいて同じでも
 同じように無いのではないし、
 無は非存在を類比的に統一するような
 一つの共通した本性の通底力を欠いている。

 非存在は一でもなく多でもなく
 その無について同名異義的な多元的な様相である。

 それは寧ろ純然と無数無限に異なる
 不規則で不自然で相互に切り離された
 様々な断片からなるざわめく渾沌である。
 この渾沌の絶間無く変幻する影が無の月の鏡に映り込む。

 存在は多義的な意味をもつが、無は多くの異なる顔をもつ。
 存在の多義性は、いわば同一人物の同一の顔の上に
 様々に現れる豊かな表情であるといえるが、
 無の方は一個同一の顔というより顔を映す鏡であって、
 表情が変わるのではなく、
 その表情を乗せる土台の顔自体が変わるのである。

 表情のほうは寧ろ変化なき無表情に
 凍りついているといってもいいだろう。
 無においては同一の表情を浮かべた
 多くの別人の顔が絶間無く入れ替わるのである。
 そしてついにそこには誰もいない。

 鏡とは誰もいない空虚な場処だが、
 そこには同一の表情を浮かべた
 多くの異なる顔がその中に次々に浮かびあがるのだ。
 それは実在しない己れの虚像(非存在)を眺める虚像である。

 鏡は、それ自身は、
 全き透明性へと消えうせた無であり
 自己の純粋欠如だが、
 己れが無となることを通して
 他を非存在へと引き込む奇妙な平面である。

 人は鏡の前に立つとき、無のなかに滑り込んで非存在へと変容する。
 それは或る意味では存在するのを止めること、
 その居るところに居なくなって
 その居ないところに非存在し現前しはじめるということである。

 存在は現前することではない。むしろ非存在こそが現前する。

 存在はその同一の居場所に定位(position)され定立されているが、
 非存在はその居場所から切り離された非-場所の内に
 存在と同じものとしての自己を
 虚像的に現前させ提示(proposition)させるのだといってもよい。

 現前とは非存在の特性である、
 というより存在の非存在化こそが現前なのである。

 非存在は存在と無に於いて同一化するが、
 それは無によって存在を侵食することである。

 自己とは自己同一的なものであり
 その核心的意味は同一ということである。
 それは存在と非存在の分裂の統合である。

 ところで、冒頭に掲げたアリストテレスの言葉において
 《一つのもの・一つの本性に関して多義的である》というのは
 存在の類比的統一性を言い表している。
 存在の多義性は類比的に一なる原理的なもの、
 自然・本性・本質・中心に統合されてゆく。

 存在は多くの仕方で語られ得るが
 それは何か同じ一つの事柄を巡って話されているのである。
 つまり存在には表面には現れていないが
 その多様な現れを奥深く統制している
 一つの同じ伏在する本質がある。それが類比的一性である。

 存在の多義性は類比的一性と表裏一体である。
 一なるものが多くの意味の様態をもつ。
 生成変化の根底に同一物が存続する。
 多様なものが一なるものに取り集められる。
 一なるもの、同じもの、それが多様な展開をみせるが、
 それは一なるものが分裂したり消滅したりすることではなく、
 同じものが全く異なるものや全く他なるものに
 不連続的に変化してしまうことではない。

 生成変化・多様性は同一者の同一性において
 その身に起こる出来事であって、
 その同一性を失わせる出来事ではない。
 それは同一性に帰属し、
 それに内包され内面化されて
 同一性を内側から豊かにするような差異である。

 類比的一性は厳密で排他的な一性ではない。
 アナロジカルな一性は、
 デジタルでストリクトな一性とは違うものである。

 アリストテレスは類比的同一性を
 同名異義性の紛らわしさから区別すると同時に
 余りに厳密に過ぎる同一義性・一義性からも区別する。
 類比的同一性は、
 同名異義(homonyma)と同一義(synonyma)の中間に位置付けられる。

 同一義なものは共通の名前と共通の定義を有し、
 同名異義なものは名前のみ共通で定義が異なる。

 人間で言うと同一義的なものとは、例えば一人の同一人物である。
 同名異義とはその人物と同姓同名の別人である。
 それは同じ人間ではない。
 わたしは或る一人の人を呼び止めようとして彼の名を呼ぶと、
 思わぬことに二人の人が振り返る。
 二人は同名異人(homonym)であり別人である。

 いうまでもなくその一方は
 わたしが意図し目指した他者とは違う人であり、「偽者」である。
 他者には真の他者と偽の他者であるその別人がいる。

 別人というのは或る種の非存在である。
 それは類比的同一性とその展開である多様性に
 含まれることがありえない外部性である。

 それはいわば外側から類比的同一性=多義性を危うくするような
 溶解的な類似性、不吉な類似性を告げている。

 同名異人・同名異義的なものは
 殆ど全く差異とはいえないような差異であるが、
 それにも拘わらず差異であり人違いである。

 同名異義的なもの・別人的なものは
 類比的同一性=多義性を成立させるためには
 最初に排除しなければならない。

 それは単にオンの同名異義語である
 ヘリオポリスの太陽神や
 英語の前置詞の〈on〉や
 真言密教のマントラに出てくるオンとの紛らわしさを
 排除しなければならないというだけの話ではない
 (ところで、同名異義語が必ずや
 同一言語内にあるものだけを
 数えればいいという思考は安易である)。

 むしろ問題であるのは
 そのように言語的な同名異義性ではなくて、
 類比的同一性=多義性の秩序に何かしら根本的に背くもの、
 同一的でも多義的でもありえないような似て非なるもの、
 例えばこの別人のような非存在の排除が問題なのだ。

AD
 九鬼はアリストテレスの命題論における対当関係の方形によって
 四様相性の相互関係を説明しようとしている。

 そこで、必然性は全称肯定(略号A)
     不可能性は全称否定(略号E)
     可能性は特称肯定(略号I)
     偶然性は特称否定(略号O)に該当する。

 このことは矛盾律の発生を考える上で非常に興味深い。

 正常な四様相性の真偽値はその質(肯定か否定か)に対応して定まる。

 必然性は全称肯定であるから真。
 不可能性は全称否定であるから偽。
 可能性は特称肯定であるから真。
 偶然性は特称否定であるから偽。

 という風に、正常な真偽値は定まっている。

 では、どの様相性から出発して
 他の様相性を正常な値に確定できるかの思考実験を行ってみよう。
 
 まず必然性がその正常値・真をとると、
 反対対当の不可能性は偽。
 矛盾対当の偶然性は偽。
 大小対当の可能性は真となり、全ての真偽値は確定する。

 次に不可能性がその正常値・偽をとると、
 反対対当の必然性は真偽不定。
 矛盾対当の可能性は真。
 大小対当の偶然性は真偽不定となり、可能性しか確定できない。

 次に可能性がその正常値・真をとると、
 小反対対当の偶然性は真偽不定。
 矛盾対当の不可能性は偽。
 大小対当の必然性は真偽不定となり、不可能性しか確定できない。

 最後に偶然性がその正常値・偽をとると、
 小反対対当の可能性は真。
 矛盾対当の必然性は真。
 大小対当の不可能性は偽となって、全ての真偽値は確定する。

 必然性か偶然性かから出発した場合のみ、
 全ての真偽値の確定に成功する。
 可能性や不可能性から出発すると、
 可能性と不可能性が矛盾律によって値を定めるだけで、
 共に必然性・偶然性の真偽値を確定できない。

 では逆の場合を考えてみよう。
 様相性が異常値をとった場合にはどうなるか。
 単純に上の結果が逆さまになるだけである。

 まず必然性がその異常値・偽をとると、
 反対対当の不可能性は真偽不定。
 矛盾対当の偶然性は真。
 大小対当の可能性は真偽不定となり、偶然性しか確定できない。

 次に不可能性がその異常値・真をとると、
 反対対当の必然性は偽。
 矛盾対当の可能性は偽。
 大小対当の偶然性は真となり、全ての真偽値は確定する。

 次に可能性がその異常値・偽をとると、
 小反対対当の偶然性は真。
 矛盾対当の不可能性は真。
 大小対当の必然性は偽となり、全ての真偽値は確定する。

 最後に偶然性がその異常値・真をとると、
 小反対対当の可能性は真偽不定。
 矛盾対当の必然性は偽。
 大小対当の不可能性は真偽不定となって、必然性しか確定できない。

 可能性か不可能性かから出発した場合のみ、
 全ての真偽値の確定に成功する。

 必然性や偶然性から出発すると、
 必然性と偶然性が矛盾律によって値を定めるだけで、
 共に可能性・不可能性の真偽値を確定できない。

 二つの矛盾概念対「必然性-偶然性」と「不可能性-可能性」が
 正常値・異常値のそれぞれの相関関係の中で
 決定的で主導的な役割を果たしているのが分かる。

 「必然性-偶然性」は現実性の様相である。
 これに対し「不可能性-可能性」は非現実性の様相である。

 しかしわたしは寧ろこの非現実性を
 もう一つの対等な現実性であるという積極的な意味をこめて
 反現実性の様相と呼びたい。

 真偽値がすっかり裏返ったこの様相の別世界では
 寧ろ不可能性が必然的であり、可能性が偶然的である。

 九鬼は現実的様相空間の中に基本的に定位している。
 そこから見ると非現実性の領域は
 反現実的というよりもむしろ無現実的である。

 九鬼は「現実-非現実」の
 単純な二項対立(二値論理)には収まり切らない
 様相空間の背後からの溢れ出しを看取していた。

 様相空間のなかにこの現実を置き据え直すことは
 それを通してこの現実の真相を問い直す
 形而上学的反省の契機となる。
 そのことは過小評価されてはならない。

 しかし狭隘な二値的現実主義から超現実的に脱出して
 九鬼が見いだした様相空間はいまだ現実的様相空間であったに過ぎない。

 わたしは九鬼の脱俗風流の姿勢をよりラディカルに徹底させたい。
 現実的様相空間に留まることなく
 更に反現実的様相空間にまで突き抜ける突風となってこそ風流である。
 更に反現実的様相空間のから現実的様相空間を覆しつつ
 現実性の不可能性の核心へむけて
 熾烈に破壊触発する疾風怒涛の爆風となってこそ「いき」である。
AD
 九鬼の欠性的無・積極的無・消極的無の意味を
 別の方面から理解するために、作業仮説として
 現実的存在・可能的存在の二分法へと単純化した存在の概念を
 今度はその正負の様相(肯定か否定かの〈質〉)において掛け合わせて、
 四つの概念積を作ってみよう。

 すなわち、
 現実的可能的存在、
 非現実的可能的存在、
 現実的不可能的存在、
 非現実的不可能的存在という四つの存在様相が出来上がる。

 すると非現実的可能的存在に該当するのが積極的無、
 非現実的不可能的存在に該当するのが消極的無であることは
 立ち所に明瞭である。

 現実的可能的存在は
 現実的存在としても可能的存在としても
 どちらの側面から見ても「存在」である。

 最後の現実的不可能的存在に該当するものが欠性的無である。

 これを整理すれば、

 (1)現実的可能的存在  =存  在=必然的存在
 (2)現実的不可能的存在 =欠性的無=偶然的存在
 (3)非現実的可能的存在 =積極的無=可能的存在
 (4)非現実的不可能的存在=消極的無=不可能的存在

 という対応関係があることが分かる。

 ここで特に注目しなければならないのは
 欠性的無と偶然性の密接な関係である。

 『文学概論』において
 九鬼は欠性的無を論理的には単なる否定であるが
 現実的にはそれなりの積極的有をもつものであるとして、
 本来の無とはいえないものと判断を下し、
 無の分類から外し、これを現実的存在に分類している。

 一見すると九鬼はそこで欠性的無を非常に軽くあしらって、
 それを無のなりそこない呼ばわりしているかに映る。

 しかし、欠性的無は、
 裏を返せば現実的には単なる存在であるが
 論理的には虚無としかいえないさかしまの積極的無
 (九鬼のいう「積極的無」とは勿論全く違う意味で)をもつもの、
 寧ろ恐るべき無の現実的存在であると見るべきである。

 寧ろそれこそが本来の無の鮮烈な目撃である。

 欠性的無とは現実的な出来事となって襲い掛かる無の様相、
 存在の全き不可能性の現実性であると見るべきである。
 そうであるならば寧ろ欠性的無こそが最も重要な無なのである。
 何故ならまさにそれこそ九鬼のいうところの
 「偶然性の問題」に他ならないからである。

 そこにこそ欠性的無と偶然性の問題を連絡する隠された核心的意味がある。
 しかしその核心はいわば不可能性の核心である。
 すなわち欠性的無と偶然性の問題は、より核心的に言えば、
 「不可能性の問題」なのである。

 『文学概論』では九鬼は無を非現実性の意味において捉えている。
 無は非現実存在としての非存在である。
 しかし不可能性の意味における無、
 不可能存在としての非存在を
 無ではなく現実的存在だから存在であると性急に断定するべきではない。
 それはイデアールな可能的存在の側面から見れば
 非存在・無でしかありえないのだから。

 九鬼は「現実-非現実」の対立軸と「存在-非存在」の対立軸を
 同一の言明性(実然性)の軸の上に重ね合わせ癒着させてしまっている。

 しかし、この二つの言明性の対立軸は
 同一線上にあるとは言えないものだ。
 むしろ「存在-非存在」の対立軸は
 「現実-非現実」の対立軸と直交的に交差する筈である。

 しかし、無論、そのことに九鬼は無自覚であったのではない。
 むしろそれを痛切に意識していたと言わなければならない。

 通常の言明性の軸は
 「現実=存在-非現実=非存在」へと紛らわしく一本化されている。
 しかし、そこから「存在-非存在」という
 形而上的言明性の対立軸が分離・逸脱して飛び出し、
 それと直交するという事態が起こる場合がある。

 否、むしろそのような場合にのみ、
 わたしたちは「存在-非存在」というような
 形而上学的離接の地平を垣間見るのだといわなければならない。
 まさにそれこそ九鬼が
 『偶然性の問題』で問題にしようとした根本問題であった筈である。

 九鬼にとって、形而上学的次元とは、
 「現実-非現実」の単純な二項対立の言明性の軸のなかには収まり切らず、
 それには還元不可能な、
 必然性・偶然性・可能性・不可能性の四方位からなる様相空間の、
 忽然たる背後からの現出に他ならなかった。

 むしろ四様相性の側からの逆光を通して、
 この現実世界を他のようでもありえた
 可能世界の内から選ばれた一選択肢として捉え直し、
 その意味を問い直すことが初めて可能となる。
 それこそが生き生きと生ける形而上学の意味であり、価値である。

 偶然性の基本的意味は論理と現実、確証性と言明性の齟齬である。

 九鬼は確証性を必然性と不可能性の対立的一組において捉えている。
 そして通常は論理と現実、確証性と言明性は一致している。
 つまり先程の表現で言えば、
 「必然-不可能」の確証性の対立軸は
 「現実-非現実」「存在-非存在」の二つの言明性の対立軸と
 同一線上に重なってしまっている。

 より分かりやすく言うなら、
 「現実-非現実」「存在-非存在」の
 二つの可能的には異なる言明性の対立軸が
 互いに見分けがつかないように一つに縒り合わさっているのは、
 それに寄り添ってそれを支える
 「必然-不可能」の確証性の対立軸が
 その二本の言明性を一本に同一化するために
 外からグルグル巻きにきつく縛り上げているからである。

 つまり二つの言明性の同一方向への癒着は、
 実は二つの言明性と一つの確証性の三本柱の三位一体の結合なのである。

 この緊密な結合体は
 「現実=存在=必然」と「非現実=非存在=不可能」の
 垂直的・硬直的・非対称的な対立構造をもっている。
 それは存在と無の二値論理によって全てを割り切っている。
 
 それと同時にそれは
 存在の無への優位、
 現実の非現実への優位、
 必然の不可能への優位をいわば固定化している。

 この硬直性はいうまでもなく論理的確証性から来ている。
 論理的確証性の核心的意味は必然性である。
 論理的確証性は必然性優位でしかありえない。
 論理的必然性とは必然的に真であることである。
 論理的不可能性とは必然的に偽であることである。
 従って不可能性は論理的確証性の内部では
 必然性に勝ち目などもとよりある筈がない。

 逆にいうと、論理的確証性は必然性がつねに真であり、
 不可能性がつねに偽とされるような仕組みに他ならないのだ。
 それは必然性を恒真として肯定し、
 不可能性を恒偽として否定する必然性である。

 いうまでもなく、このように
 論理的確証性=必然性によって締め付けられた
 上方硬直的な不動の対立構造のなかでは
 可能性としての可能性が窒息してしまう。
 むしろ可能性は全く問題にすらなりえないというべきである。
 可能性は必然性に呪縛され限界づけられた法則性の内部にしかありえない。

 九鬼にとって偶然性とは、論理と現実、
 確証性(必然性)と言明性(現実性)の齟齬をつきつけることによって、
 この三位一体の軸を一瞬突き崩し、
 「存在-非存在」の言明は他のようでもありうるという可能性を
 問い直させる積極的な契機に他ならなかった。

 偶然性は、必然性に違背する現実をつきつけて
 この軸を揺さぶる不可能性の反乱である。

 絶対的な相関ないし取押さえ(absolutes Verhältnis)として
 現実を規定的に支配する必然性は
 己れに反対するものを悉く不可能にし否定する。
 そこでは無闇に多くの可能性が
 否定された可能性として
 不可能性のなかに押し込められているのかもしれない。

   *  *  *

 九鬼は『文学概論』において
 非現実性としての無を本来的な無であるとし、
 欠性的無を現実的存在に分類して無の分類表から外している。
 しかし、われわれはこれとは逆に
 欠性的無こそ本来的な無ではないかと主張する。
 また積極的な無の名に相応しいのは欠性的無であることを主張する。

 非現実性としての無は単に言明性のレベルで
 無と言われているに過ぎない相対的概念、
 相対無であるに過ぎない。

 厳密な意味において無といえるのは必然的な無、
 確証的な無としての無である不可能性である。

 不可能性はどこまでも無でしかありえないような無、
 存在へと転化することの不可能な無、
 絶対無よりも絶対的な超越的な無、
 真の意味での絶対無であるところの超越無である。

 九鬼は欠性的無の概念を斥ける際に、
 カントの負量の概念やリッケルトの異定立の概念を援用して、
 論理的確証性と現実的実然性、
 論理的矛盾性と現実的反対性の差異を強調している。
 それは、いわば負量の存在であるともいえる他者を定立する欠性的無を
 論理的には無であっても現実的には存在であるといえるとして
 それを根拠に無の概念から外すためだった。
 つまり「在る」ような無はありえないから無い、無ではないということである。

 わたしはこれを転倒する。
 むしろ、存在の異定立として
 それに対等に並び立つ無が在るのだということを認めるのである。

 真の意味での無は、0ではない。それはマイナスの存在なのだ。 

閉じる コメント(0)
 無はそれ自身へと折り返す空虚な自己否定、
 すなわち純粋な二重否定によって存在を生ずる。

 様相性の形而上学者・九鬼周造が『偶然性の問題』のなかで認めている通り、
 自同律A=Aが完全に厳密に妥当するような存在者は虚無より他にありえない。

 すなわち0=0においてのみパルメニデスの命題「存在は存在する」は成就する。
 それは換言すれば自同律が思考の第一原理であるのではなく、
 むしろそれに先立って、無の無化すなわち二重否定が
 より根源的な事態として前提されているということである。
 それはいわば仮説的無の前提性といってもよい。

 九鬼は『文学概論』で無を欠性的無・積極的無・消極的無に分類している。
 しかしわたしは寧ろ九鬼が『偶然性の問題』において
 偶然性を定言的偶然・仮説的偶然・離接的偶然に分類したやり方をそのまま無に適用して、
 定言的無・仮説的無・離接的無という風に分類することができると思う。

 実際に『偶然性の問題』において
 九鬼が問題にしている「偶然性」というのは「無」のことである。

 偶然性は純論理的確証性の次元においては
 無ないし非存在であるものが、
 経験的現実的言明性(実然性)の次元では
 現実存在してしまうという逆説を通して、
 形而上学的問題性の次元における存在と非存在、
 すなわち有と無の離接的(選言的)関係を
 まさに実存の問題として問題提起しようとするものだった。

 偶然性の核心的意味は「無が存在する」ということである。

 従って彼のいう定言的偶然・仮説的偶然・離接的偶然は
 それぞれ定言的無・仮説的無・離接的無と言い換えることができるものである。

 しかし、欠性的無・積極的無・消極的無という場合の「無」と
 定言的無・仮説的無・離接的無という場合の「無」とでは、
 「無」の意味が実は違っている。

 欠性的無・積極的無・消極的無は
 現実的存在に対して相対的に無であるものをいっているのに対し、
 定言的無・仮説的無・離接的無は
 可能的存在に対して絶対的に無であるものをいっている。

 『文学概論』において、
 九鬼は存在を現実的存在と観念的な可能的存在に区別している。
 更にその中間形態としての分有がある。
 分有を入れると九鬼は存在を無と同様に都合三種類に分類していることになる。
 しかし、基本的には現実的存在と可能的存在の二種に分類しているとみてよい。
 分有についてはここでの論脈の都合上煩瑣になるだけなので省くことにする。
 敢えてここでは現実的存在と可能的存在の二分法に単純化して話を進めることにしたい。

 現実的存在を実存(existentia)、
 可能的存在を本質(essentia)ともいう。

 この九鬼の用法は、西欧の伝統的な形而上学の
 「本質(essentia)/実存(exisitentia)」の区別を踏襲している。
 またその点で「実存は本質に先行する」というような場合の
 サルトルとも共通している。

 現実的存在は、
 普通に「存在する」という意味における存在で
 「~がある」という場合のものである。
 可能的存在は、これに対し
 「~である」という意味においていわれる存在である。

 九鬼が欠性的無・積極的無・消極的無というとき、
 彼は現実的存在としての存在=実在を基準にし、
 それとの対比において無の概念を規定している。
 つまり『文学概論』において
 「無」といわれているのは非現実的存在のことである。

 非現実的存在であっても可能的存在でありうるものがある。
 それを九鬼は積極的無と呼んでいる。
 そしてまさにそれこそ『文学概論』における
 九鬼の無の概念の中心規定をなすものである。
 彼は積極的無において、
 夢・狂人の妄想・芸術の世界をその例として考察している。

 他方、消極的無は、非現実的存在であるのは勿論のこと、
 更に可能的存在でもありえないものをいう。
 例えば「四角い円」というような自己矛盾した不可能概念がそれで、
 概念の無い空虚のようなものであるが、
 対象たるべき性質を欠いているとはいえないものである。

 九鬼はそこで論理的には矛盾であり
 現実的にも存在不可能であるものでも、
 芸術においては有意味な表現として
 その価値を認めるべきであると言っている。

 消極的無は不可能性の表現であるが、
 九鬼はまさにそこにこそ芸術の神髄を認めている。
 つまり消極的無をそのように「消極的」とは呼びながら
 九鬼は積極的に評価しているのである。

 消極的無は広義の意味での可能的存在に含めることのできるものである。
 実に、偶然性(つまり無の可能性)の哲学者である九鬼らしく、
 彼は無の存在可能性を探求しているのだといえる。

 無いものも何らかの仕方で有り得る。

 九鬼の『文学概論』における無の概念の核心的意味は、
 可能的存在の存在可能性の拡張にある。

 つまり、論理の枠にはめられた可能的存在は
 抽象的論理的な本質(essentia)へと狭く限定されてしまっている。
 九鬼にとって論理的存在(狭義の本質)よりも現実的存在の方が、
 更には超論理的可能存在の方が、
 存在概念をより豊かなものにするものとして好ましいのである。
 実際に九鬼は論理的な不可能性を「超論理的可能」と捉え返し、
 積極的に肯定しようとさえしている。

 彼は積極的無において非現実的可能を超現実的可能と受け取り直し、
 ブルトンらの超現実主義〔シュルレアリズム〕への共感を表明しているが、
 消極的無においては、殆ど後代の埴谷雄高やブランショの
 超論理主義的な「不可能性の文学」の理念を
 先取りするようなことを言っているのには、その先駆性に少々驚く。

 九鬼の『文学概論』は一九三三年(昭和八年)段階のもので
 京都帝国大学でなされた講義録である。
 その内容は現在でも少しも古びてはいない。
 寧ろ驚く程に新鮮である。そして日本人離れしている。
 わたしはこれ程に垢抜けて鮮烈な、貴品あふれる文学論が
 戦前の日本人によって語られていたということに驚きを隠せない。

 九鬼の言葉は時を越えてわたしの胸を撃つ。
 『文学概論』はそれ自体が美しい芸術作品であり、
 まさにこれこそが文学であると感嘆させる傑作である。
「無くは無い」の否定の否定、
二重否定が肯定に転ずるときに
「存在」は無化する無の折り返しに断定される。

断定は単なる肯定とは異なり、
また肯定の誕生に先行して起こる
判断=原分割(Urteil)の出来事である。

断定は切断的であり、それ自身が、
「断ること」として否定を孕みもっている。

つまり断定は第一次的な否定を否定的に断って退けつつ、
二重否定を完成させるまさにその第二の否定行為のことである。

断定は否定である。
それは否定の否定、能動的に無を無化する否定的な虚無である。

最初の無はそれ自体としては否定的なものではない。
第二の無という「否定するもの」によって
否定的に指し示された「否定されるもの」
むしろ「否定されるべきもの」であるに過ぎない。

無化される無から無化する無が出て来る。
或いは無化する無によって無化される無が生成される。
それは表裏一体の出来事である。

  *  *  *

断定は肯定と否定、存在と無に先立つ
その両極化としての原否定である。

それは存在を文字通り無から創造している。
この無からの創造は存在論的天地創造である。

無は自己を無化しつつ自己を存在へと転換させる。
或る意味ではレヴィナスのいうような
存在の位相変換(hypostase)に先立って、
無の存在への位相転換が
断定の自己否定的自己創造として遂行されているのである。

無論この自己否定的自己創造である断定=否定が創造する自己は
全く虚無的な自己であり、
創造されるや否や破滅的に自滅崩壊する自己、
自殺的な自己であるに過ぎないが、
絶対的にまた比類なく自己同一的な完璧な自己の自己定立、
自我の原点をなす無の結晶化である。

この自己は絶対無である。
絶対無とは絶対的に無いところのものとして
存在と無の絶対零度に刻みつく。

絶対無の完全自己否定的自己定位は
その存在論的絶対零度に
己れの絶対自同律を一点に爆発的に収縮させることによって
その極限的氷点に超高密度に氷結させてしまう。

その意味でこの絶対無は
あらゆる実体の究極の実体であるような超実体であり、
実体概念の不可能性の核心をなしている。

それは永遠不滅の相にあって
あらゆるイデアのイデアをなす最も近づき難きもの、
パルメニデスの一者の本体である。

  *  *  *

絶対無は、存在と非在を
ちょうど大宇宙を一刀両断して二つの半球に切り裂くように
絶対的に分割しつつ
その分裂を不可能的に自己統合した極限概念である。

それは存在と非在の自己分裂的統合者である。
それは己れの双面に存在と非在の相反する二面をもつが、
それ自身は存在でも非在でもないところのものとして暗黒的に隠れている。
存在及び非在によって二重に自己を隠蔽している不可能者である。

つまりそれは存在することも不可能であるが非在することも不可能である。
しかしそのことによって存在と非在を共に引き離しつつそれぞれを可能にしている。

それは存在と非在の可能性の根拠であり、
換言すれば、真と偽の可能性の根拠であるような真理の真理、
〈ことわり〉(断り=理)である。

存在と非在はただ断定的にのみ断られ、腑分けられ、引き離し得るものである。

  *  *  *

絶対無はそれ自体が不可能概念であることは
ヴァレリーもベルクソンもヘーゲルも言っている。

それは必ず存在の必然性に反転するもの、
存在の必然性に帰着するものである。

ベルクソンの場合それは存在者の必然性に転化する(『創造的進化』)。
ヘーゲルの場合絶対無と純粋存在の同一性が言われる(『小論理学』)。

またヘーゲルは別のところで
不可能性はそれ自身が不可能であるために
必然性に転ずるということをいっている。

無が否定性であるにせよ不可能性であるにせよ、
それは必然的に存在へと移行する。

非常に対照的な哲学者でありながら
ベルクソンとヘーゲルはこの点において一致している。
両者はその原理が異なるにせよ
何れも単なる存在と無の抽象的対立を生成の方向へと乗り越えてゆく。

ヘーゲルは
純粋存在と絶対無という
共に無規定で直接無媒介的なものの間には
真の定立された区別はないとし、
両者を同一者に帰着させつつ、
両者の真理を両者の弁証法的統一、
まさに最初の弁証法的統一である生成(Werden)に見いだす。

その根拠は存在と無の両者に共通する土台となるような
類概念にあたるものがないということにある。

区別が成り立つためには
共通の同一性が前提されていなければならないということが
ヘーゲルの思考の前提になっている。
しかし、絶対無と純粋存在は区別不可能であるが故に絶対的な区別である。
ヘーゲルはそれを自己同一性の生成によって乗り越えてゆく。

こうして生成は最初の具体的な思想、最初の概念となって
彼のいうところの現存在(定在)という成果へと進行し、
そこにおいて消滅してしまう。

つまりベルクソンと結局同じである。
絶対無の不可能性は存在者の生成の必然性なのである。

「存在する」とは「無くは無い」ということである。
 存在は無の折り返し、虚無の襞である。

 存在は、
 「存在は存在する」(自己定立の積極性)
 「存在は存在である」(自己同定の肯定性)という
 パルメニデス的同一性の二重肯定の定立である以前に
 二重否定の断定であるという否定的裏面を基盤にしている。

 存在は断定である。断定は絶対的否定性である。
 それ故に、存在は肯定であるとはいえない。むしろ存在は否定である。

 存在は「非無」というべき無の異相であり、
 無の様相論的変異として考えることができる。
 存在は無の対等で対称的な対立者たりえない。
 存在と無の関係は非対称的な差異においてしか語り得ない。

 アリストテレスは「存在は様々な意味で語られる」
 (存在は多義的意味を有する)と言っている(『形而上学』第4巻第2章1003a)。
  これに対し、「無は様々な様相をとる」ということができるだろう。

 無は「無くは無い」として存在の様相にその様相を創造的に変じる。
 存在は無の様々な様相の内の一つでしかない。

 存在の意味的多義性に対して、無の様相的多元性を対置することができる。
 むしろ存在における多義的意味の変容は無の多元的様相の投げかける影に過ぎない。

 存在という出来事は、ハイデガーの語る通り、
 存在論的差異という解消しえない二元性を通して、
 存在者と存在の二つのアスペクトをとる。

 存在は、存在者という出来事と
 存在という出来事の二相に分極しつつ示される。
 そして存在者においても存在においても
 その多義的意味のゆらめきを看ることはできる。

 しかし、同一の存在という出来事を
 存在者と存在の二元の様相へと切り離しつつ
 そのように指し示す差異は無であるとしかいえない。

 無は存在論的差異という虚無的で冷酷な過越しの超越を通して、
 存在を、存在者を、通り過ぎつつ決定的に洗礼してしまっている。

 それは無が、存在と存在者の双方を
 無の上の存在及び無の上の存在者として無の上に定位しつつ
 無によって決定的に定義してしまっているということである。

 存在も存在者もそれを創造した無の過ぎ去りの絶対的な痕跡を、
 無の烙印を二度と決して消し去ることはできないのである。

 存在者は存在論的差異において、
 存在から見て、存在では無いものとして示される。
 存在は、存在者から見て、存在者では無いものとして示される。
 存在論的差異は存在と存在者を
 存在の自己同一性には還元できない自己分裂的異質性において示してしまう。

 存在者は存在の相対的無であり、存在は存在者の相対的無である。
 存在者は存在の相対的否定・相対的矛盾概念である相対的非存在である。
 他方、存在は存在者の相対的否定・相対的矛盾概念である相対的非存在者である。

 「存在は存在する」「非存在は存在しない」とパルメニデスは語ったが、
 しかし存在論的差異においては、
 存在者にあって非存在が存在し、存在にあって存在が存在していない。

 つまり存在論的差異にあっては
 パルメニデスの絶対的な自同律においていわれていた
 「存在は存在する」「非存在は存在しない」の主述が
 掛け違えになってしまっているのである。

 そこでは存在と非存在の間で〈交換〉が起こってしまっている。
 この〈交換〉は不可視で捉え難いが、しかし、恐らく必然的な出来事なのだ。

 ハイデガーは存在論的差異によって
 パルメニデスの存在の同一性の断定=命題の真理性を
 或る意味では覆しているといってよい。

 ライプニッツの根拠律(充足理由律)にかかわる、かの重要な問い
 「何故無が在るのではなくて寧ろ或るものがあるのか」に対して、
 ハイデガーは「いや、むしろ全く無こそが存在している」と答えることによって、
 ライプニッツの根拠律とパルメニデスの自同律とを一刀両断に切り捨てている。

 ハイデガーによる存在の自明性の転覆は
 きわめて意表を衝くきわどい角度からなされているので
 下手をすればそれを見逃してしまいかねない。

 しかしそれは物の見事に存在の論理の急所を、
 つまり存在の不可能性の核心を一撃している。

 ハイデガーによる虚無の洞察、
 寧ろ虚無によって虚無を見るというような
 この恐ろしく鋭く透明な観照、瞬視の真空の瞬間こそが重要なのだ。

 彼はいわば眼前を遮って立ち塞がる存在
 (Vorhandensein,Gegenstand)を
 あってもそこに無きが如き透明体として
 素通しに見通すレントゲン線のような目で見通している。