不可能性はさまざまな偶然の出来事の核心にひそむ無限小の核爆弾である。それは偶然性を偶然性たらしめつつ偶然性の様相の出来によって掩い隠されてしまう純粋消滅体である。不可能性は爆発してその核心を跡形もなく消し去ってしまう。それが爆発するとき、絶無が顕現する。そして虚無が発光する。虚無はまばゆい閃光となって忽ち絶無を掩い隠しながら万物を抹殺する。

 その瞬間、むしろ全く虚無こそが在る。存在は存在しないのだ。存在者も存在も存在しない。一九四五年八月六日広島。同八月九日長崎。光輝の爆弾が炸裂したとき、その閃光を決定的に被爆して、〈存在〉は死んだ。

 原爆ドームはそれ自体が〈存在〉の死の記念碑であり、その墓標である。

 それは不可能性の核心が跡形もなく消えうせてしまった爆心を定位している。

 

 しかし原爆ドームは〈存在〉の死の記念碑にしてその墓標という象徴的な意味を帯びているだけではなく、それ自体において〈実体〉の屍骸なのである。

 

 原子爆弾はハイデガーを絶望させたが、原爆ドームはアリストテレスを恐慌に陥れる恐るべき何者かである。それは可能性(潜勢態)にある質料を形相が現実性(現勢態)へと実現したものが個物(実体)であるという製作論(詩学)的で目的論的な自然性(自明性)や合目的性の概念を破綻させてしまっている。
その意味において原爆ドームは根源的に非合法で反自然的な建築物である。

 それは脱構築的(デコンストラクティヴ)という意味においてすら建築学的でありえない。かといってそれは廃墟や残骸というように崩壊(風化)過程にあるたんに解体的なものでもありえない。その場合でもなお保存や補修というかたちで元型の形相(機能・外形)の保持(所有態)に耐えられない質料の可能性(性能)の欠如が補われ得るからである。

 それは確かにある意味では反自然的で不可能的(可能性の欠如という意味で)であるといえなくはないし、事実、原爆ドームの維持という合目的性において行われていることだが、そのような意味で原爆ドームが反自然的で不可能的であるのではない。解体的なものは「破壊する」場合にしても「保存する」場合にしても「復元する」場合にしても〈実体〉の形相的同一性は不変であり、従って同一の建造物であるに過ぎない。

 要するにそれは未だ可能性の形而上学の内に留まっている欠如としての不可能性・非現実性・不自然性・無目的性・非合法性・否定性・不毛性・虚弱性・破壊性・破滅性・解体性・偶然性(偶有性)・没落性・崩壊性・不明性でしかないのだ。
 そのようなものは未だに目的論的な歴史性(時間性)の中にいつでも回収・還元可能な外部性であるに過ぎない。

 原爆ドームがあのような形態をして残ったのは全く偶然のなせる技だったという。当然、被爆した後にあの形になることを予想し意図して建築家が設計したわけでもなかったし、破壊を意図してあの建物を目標に飛来した爆撃機の乗組員たちが考え出した形でもありえない。

 原爆ドームは原爆の破壊を破壊して純粋に破壊的に創造された奇蹟の怪物なのである。それはもはや可能性に還元不可能な純粋偶然態であり反現実的な現実性としかいいようのないものを開示している。
 形相なき純粋質料、質料が形相の可能性を凌駕してしまったさかしまの完全現実態(エンテレケイア)である。しかしその終わり(テロス)に到達しているという語の本来的な意味に照らしてこれほどエンテレケイアの語にふさわしいものはないのだ。

 それ故に原爆ドームほど美しいきれいなものはない。
 もちろん見た目のことを言っているのではないし感性的(感性論的)な美学において言っているのでもない。
 これは普通使われているような意味で〈きれい〉とか〈美しい〉と言っているのとは全く違うのだ。
 そんなものは逆にきれいでも美しくもないのである。
 原爆ドームこそが本当の意味できれいで美しいのだ。

 それは美を被爆している。美に灼けただれた次元から異端的に突出してきている何かだからだ。
 そこにわたしは〈もののあわれ〉を感じずにはいられないのである。
 〈もののあわれ〉とは嘘いつわりのないきれいさっぱりな静けさのうちに顕現する物そのものの真相美である。

 原爆ドームは黙示録的に顕現した事物の終末のすがたなのだ。

 かつてリルケは言った――美は恐ろしきものの始めである、と。
 しかし原爆ドームが黙示するのはこれとは逆の詩情である。美こそ恐ろしきものの絶滅の姿なのだ。

 ここにあるのは三島由紀夫のような者が呪縛されていたような有終の美学でもなければ、リルケやハイデガーが囚われていた否定性の美学でもない。キリーロフやニーチェのかいま見た永劫回帰や永遠調和の不思議な美である。

 〈時はもはや無かるべし〉まさにその通りだ。

 その言葉が少しも怖くない。むしろ美しいと思う。それは本当にきれいさっぱり無くなってしまうのだということだ。天国もなく地獄もなく神も仏も悪魔もいなくなる。しかしそのときにこそむしろ神が居るのだ。本当の神のまなざしがひろがっている――それはわたしだ。でも、わたしとは誰なのだろう。

 時間も空間も消えうせ、存在も実体も死滅し、全ての人が消えうせた跡形、そこには恐怖も悲惨も神秘も聖性もきれいさっぱりなくなって、ただ美がある。ただ物自体がそこにある。
 この爆心地はとても異様な場処だが奇妙になつかしい感じがする。晴れ晴れとしてほんとうのふるさとに帰ったような心地がする。

 今も原爆ドームを思い浮かべるとわたしは非常に安らかな思いがするのだ。変だろうか。心の爆心地の中央から永遠に不死なるもののきらきらとしたきらめきだけが流れている。かつて夏の広島を訪れたとき、わたしはそのきらめきを感じた。それは光ではない。きらめきだった。このきらきらとしたものは広島の夏のなかをただ流れてゆく。日常の人々の間をただきらきらと流れてゆく。それはどこか星に似ていた。

 そんなきらめきの流れる空気がいたるところにある土地は稀だ。一九九二年のクリスマスシーズンに広島出身の妻と新婚旅行で訪れた聖地エルサレムにもイスラエルのどこにもそんな空気のきらめきは流れてはいなかった。流れているのはそれとは違う金色のすじをつよくくっきりと描きながら流麗な弧の軌跡を引いて通り過ぎる風の線だ。そこにはむしろ事物にも人間にもうきのぼるような実体感や生命感があり、鮮明な輪郭と活気があった。エネルゲイアだ。エマニュエル・レヴィナスの言っているあの〈顔〉がいたるところで明るく生き生きと目を輝かせている。それは純粋な驚きだった。

 わたしはレヴィナスのいう〈顔〉が生きているような凄いところを本当にこの目で見れるなどと思ってもみなかった。それはちょっとした壮観だ。そんなものが本当にあったとは知らなかったし、また、見るまでそれがどんなものか全く分かっていなかった。

 〈顔〉は弾けるようなヒューモアだ。

 イスラエルの人々は概して開放的で世俗的だ。
 アラブ人もユダヤ人も大きなきらきらした目を上げて正面から相手を見る。その顔にみつめられると小さな子供のようにどきっとするが人見知りをするひまもない。自分を顧みたり引きこもったり自分の陰に隠れる前にそれらの〈顔〉につかまってしまう。この人達はまるで小さな子供のように無邪気にみえる。〈顔〉は生命に溢れていて躍動している。ユダヤ人やイスラエルについてもっていた暗く古めかしく重くきな臭く辛気臭そうなイメージは、その輝く陽気な〈顔〉たちによって吹き飛ばされてしまう。イメージというものは本当にばかばかしい。それは病気のようなものだ。

 〈顔〉はエネルゲイアだ、それもレヴィナスの言った通り、純粋な現実態に他ならなかった。しかしそれは現実態という訳語ではうまく言い表せない。エネルゲイアとは本当にエネルギッシュなものだ。それはダイナミックではないし、バイタリティーに溢れているというのとも全く違う。エネルギーはあからさまに表に輝いていて、潜伏したり隠れていたりすることを嫌う。それは本当にフレッシュなものだ。運動する赤裸な若々しい肉でできている。厚みがあって表裏がなくストレートな自己表現そのものだ。

 エネルギーはリアリティとしてのリアリティーだ。日本人が普通に考えている元気よりも元気で、陽気よりも陽気で快活なものだ。そしてエネルギーは利発で活動的だ。
 そこでは感情のすべてが時を移さず直接的に表情になっている。いや、表情と感情というわたしたちの二分法がそこではなりたっていない。表裏のない人々には当然ホンネとタテマエの使い分けとか面従腹背というような病的な心理分裂がないのだ。表情と感情は一体なのだ。好意も攻撃性も警戒心もすべてが〈顔〉の上に溢れ出している。
 日本人は思わせ振りで、互いに相手の顔に書いてあること(日本的表情)を読み、それから相手の腹に隠されていることを察しようとするが、イスラエルの人々は心臓と顔が直結していて表情の中で血があけすけにおしゃべりしている。
 彼らは表情をほとんどこらえない。常に破顔していて赤裸々に相手に自分をぶつけてくる。

 そういうコミュニケーションは日本では全く信じられない。この人達は演技をしないのだ。自分を誰かの物真似に全然していない。あからさまでナチュラルでユニークで可憐だ。
 その運動の流麗で典雅で優美でよどみのないこと、まるで生まれながらの王族のように堂々としている。

 わたしは言葉が分からないのにこの国を旅していて不安を感じなかった。〈顔〉がすべてを話している。それが安心させてくれるのだ。

 エネルゲイアは本当に誠実だ。わたしが見たのは旧約聖書や新約聖書やコーランに書かれている世界ではなかった。カバラやタルムードの世界ではなかった。それは華やぎ花咲く〈顔〉の花園、人間的な余りに人間的な〈現実〉という名のエデンの園であった。

 目にみえる形がきれいで美しいのはむしろイスラエルである。

 これに対し、広島ではむしろ事物も人間も実体感が薄い。
 不思議な薄明が覆っているように思えてならなかった。
 その間を縫って小さな小さな点ほどの星のきらめきがきらきらきらきらと静かに流れて舞ってゆくのだ。

 子供の頃に聞いたことのある花の妖精たちの羽音みたいだと思った。広島の空気はとても軽い。妻の生地であるから特別そう感じるかのようでいて、いや、決してそうなのではない。

 この不思議なきらめきと空気の夢のような軽やかさは観念から来ている。

 それは、そうだ、これに似たものは微かだがソドムの塩の岩山の間にも流れていた。見渡す限り誰もおらず何もない死海のまわりの乾き切った岩塩のオレンジの砂漠のひろがりの上に、酸素の濃密な青い空気がその地のどん底ともいえる地球で最も標高の最も低いところに向かって広大な蒼窮ごと重くのしかかっているようなところで、心地よくくつろいだ胸の襞の谷間をその淡くきらめくやさしい風が抜けていった。

 わたしたちはそこでニルヴァーナホテルに泊まった。壁にヘブライ文字でニルヴァーナと書かれたホテルの名前を見て、わたしと妻は顔を見合わせて笑った。その笑みはとてもしあわせな笑みだった。それは神の指の書いたヒューモアだ。

 きらめきは告げる、それはエデンのありかを指し示している。光の妖精たちがわたしたちを呼んでいるのだ。おいで、おいで、おいで。

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 存在するのでも、存在の彼方へ無限に亡命するのでもない別の仕方、
 〈別の仕方とは別の仕方〉であるアポスターズ、
 それは〈存在しない〉という仕方、存在論を存在させないという仕方、
 つまり〈存在の革命〉によって、
 〈存在〉の〈悪〉そのものを消滅させるという別の仕方である。

 存在論はこのとき存在の美学へと錬金術的変容を遂げる。
 存在の支配=呪縛を脱するには、
 埴谷雄高-三輪与志が言うように、
 人間ならずして創造できないもの(虚体)を創造することによる
 究極的自己証明をなす以外の道はありえないのである。

 埴谷雄高の語った〈虚体〉とは〈奇蹟〉の〈創造〉である。
 しかしそれは単なる荒唐無稽な空想ではなく、
 寧ろ現実よりも現実的な不可避の真実を直撃している。

 〈虚体〉とは〈実体〉よりも強靭に現実的な問題なのである。
 〈虚体〉は或る意味において、
 不可能性の美学の根本観念である〈美的実体〉の異名である。

 存在論的実体である〈実体〉に根源的に矛盾するという
 形而上学的虚体を美学的に言い直すと、
 それはもはや存在論的ではなくなったという意味で
 実体に代わる実体となる。

 〈美的実体〉とは革命的概念となった〈物自体〉である。
 〈物自体〉は〈存在〉を唯物論的=終末論的に革命するものだからである。
 それは〈存在〉を破壊する最終兵器であり、
 まさしく〈核爆弾〉となるものである。

 この過激な〈核爆弾〉である〈美的実体〉を埴谷雄高は〈虚体〉と呼んだ。
 それはわれわれがこの手のなかで作り上げるべき真のペルソナリテート、
 全く異なった意味における真の〈神〉を意味する。
 だが、われわれはその〈神〉を信じるのではなく、
 その〈神〉を生きるのである。

 〈虚体〉を創造する〈存在の革命〉は
 最もリアルでシビアな意味において
 殆ど唯一のまぎれもなく現実的な革命思想なのである。

 〈虚体〉は如何にして可能かなどと問うべきではない。
 そのように問うなら〈虚体〉とは〈不可能なもの〉でしかありえない。
 しかし〈不可能なもの〉の裏面は〈不可避なもの〉である。
 不可能性とは最早可能性ではないものである。
 それは可能性の完全な消滅を意味する。
 それは可能性の余地のない決定的な現実性を意味する。

 〈不可能なもの〉とは〈これ以外にありえないもの〉である。
 〈~でないことの不可能性〉、
 すなわち〈無の不可能性〉によって構成された
 現実そのもの自体を意味する。

 〈無からの創造〉は〈無の不可能性〉によって根拠づけられる。
 この超越は異様であるが、この異様な超越によってのみ
 人間は真の現実的主体性を自己創造することになる。

 驚くべきことである。
 〈創造〉は〈存在〉をこのようにして
 一撃に打倒し転覆させてしまうのである。
 そして〈創造〉は〈存在〉よりも遥かに現実的なのである。
 〈美〉、それは〈存在〉よりも強いのだ。

 ところで、可能性とは何であるのか。
 可能性の中心などということは
 実はそれこそ寝言に過ぎないのではないのか。
 問題は可能性の中心を探究することにあるのではない。
 不可能性の核心を衝くことにある。

 人は夢の呪縛に永久に囚われたままの畏怖する人間であるべきではない。
 その人間は〈生きる〉ということを
 〈夢〉だと言っているに過ぎないのである。
 眠っている人間はそれこそ死んでいるも同然であって、
 そのまなざしこそ〈死滅せる眼〉なのだ。
 死者はいつまでも〈現実〉という夢をみていればよい。
 しかしそのような〈現実〉はうつろな夢であって
 真の意味で現実的なものでは断じてない。
 自分が生きているか死んでいるかも分からないような虚ろな人間に
 生と死について語る資格はない。

 ヘーゲル的な理性は眠りでしかありえないが、
 カント的な理性は夜のなかでも決して眠らない覚醒した精神である。
 このような意味で眠りびとは〈現象〉のなかに内省し遡行するが、
 永遠に〈現実そのもの自体〉には出会わない。
 それを〈外部〉へと放棄してしまっているからである。
 ここには自己批判能力というものが決定的に欠落している。
 〈意識〉とはこのような〈内閉〉である。
 〈内閉〉からこそ〈外部〉が捏造される。
  しかし〈内/外〉という弁証法的修辞学それ自体が
 非常にヘーゲル的な嫌味なものでしかない。
 カント的に言えば、そんなもの知ったことではないのである。
 問題にすらなりえない筈である。

 自己批判能力を失うとは判断停止して判断力を喪失しているからである。
 すなわち現実を喪失してしまっているからである。
 その原因は畏怖にある。
 畏怖とはよくぞ言ったものである。
 それは有り体に言って、臆病者ということである。
 臆病者のダンディズムは
 畏怖を倫理と言いくるめるみにくい詐術を作り出す。
 しかし、臆病な人間というのは
 いざとなると何もできないものなのである。
 倫理は一見おありがたいが、
 何もいざとなると救わない。ただ予言するだけである。

 この予言は預言ではない。
 預言とは自分の言ったことを引き受けて
 その通りに行動するということである。
 言を預かるとはいざとなったときに
 メシアとして振る舞うことへの覚悟性である。
 
 予言はこれとは逆で
 結局その実現に向け努力しようともせず運を天に任せる。
 だから当たったか外れたかという下らない話が
 後で生じてしまうのである。
 予言の本質は常に既に天気予報であるに過ぎない。

 わたしは一人のかぎりもなく敬愛する人の背中を思い浮かべて
 このことを述べているのである。
 その人が決してこちらを振り返らないことをわたしは知っている。
 死の影の空虚な谷間を歩む人に何を言っても空しい。言うだけ無駄である。
 袂は分かたれ、別の道は選ばれた。
 おまえは右に、わたしは左に行き、二度と決して出会うことはない。

 レヴィナスは〈存在の不快〉から
 当然帰着するところの〈自同律の不快〉の不可避性を
 埴谷雄高=三輪与志より以上に明瞭に説明し論証してくれた。
 それは彼が埴谷雄高以上に
 〈自同律の不快〉を突き詰めた思想家だったからである。
 このことのもつ重大な意味は無視してはならない。

 レヴィナスを理解できないような人間は埴谷雄高を理解できないし、
 埴谷雄高を理解できないような人間は
 レヴィナス哲学のもつその深い悲劇的な意味を
 洞察することができないからである。

 この両者の恐るべき酷似性はそれこそが本質的な重大問題なのであって、
 埴谷雄高を埴谷雄高として
 レヴィナスをレヴィナスとして
 別個独自に切り離して論じた場合のあらゆる問題を
 端的に意味のないものとしている。

 ここでは両者が相互に見知らぬ間柄の別人であることや
 影響関係が観測できないことや
 他方がフランスに亡命したリトアニア出身のユダヤ系哲学者
 他方が植民地時代の台湾出身の日本人の文学者であるといった
 住む世界や分野の違いを根拠にして
 彼らを別個の独自性として扱うことは
 単に不毛である以上に
 積極的に反動的で邪悪であると敢えて厳しく断言しておく必要がある。

 ここでは別人であるということが
 全くの無意味に帰しているということをこそみるべきである。
 不快な〈自同律〉がここに破綻してしまっていることをこそ
 みるべきである。

 それぞれの自己同一性に彼らが回帰することが不可能なほどまでに、
 自己同一性よりももっと厳然としてあるものを、
 この非人称的な実存それ自体の
 剥出しの悪夢めいた酷似性をこそ見るべきである。

 この酷似するものそれ自体は存在論的な実体ではない。
 実体とはレヴィナスにおいても埴谷雄高においても
 或る実定的存在者である自我が自己自身にぴったりと重なっているという
 自同律的=実詞(名詞)的存在者を意味する。
 つまり存在論的実体とは非実体から存在論的に実体化されたもの、
 演繹されたものなのである。
 レヴィナスはこれをイポスターズと呼んでいる。

 実体とは実体化(イポスターズ)されたもの、
 実体化の結果であるに過ぎない。
 これがつまり存在論の正体なのである。
 存在論とはイポスターズ以外の何者でもない。
 埴谷雄高もレヴィナスも存在論のこの下らぬ正体を
 冷酷なまでに見据えていたのである。
 存在論とは愚劣な問題である。
 というのはイポスターズとは愚劣以外の何者でもないからである。

 両者の真の問題とは、
 だから崇高な形而上学の側にこそ主眼があるのであって、
 愚劣な問題である存在論に対する両者の炯眼の底には
 ぞっとするほど美しい軽蔑がきらめいているのである。

 自同律と存在論は
 馬鹿者どもだけが有り難がる愚劣な思想であるに過ぎない。
 それはつまり限りもなく退屈な宗教なのである。
 理性なき人間にはこのことが分からない。
 存在論は邪悪である以前に愚劣であり、愚劣だからこそ邪悪なのだ。

 なぜなら存在論こそありとあらゆる愚劣なもの生みの親だからである。
 存在論とは世界の諸愚劣の根源である。
 何故か、存在論の精神自体が
 身元の怪しい卑しい素性のものに過ぎないからである。

 存在論、それは卑しい精神の持ち主の哲学を意味する。
 美学的に言えば、それはみにくい人間の学問である。

【関連記事】
不可能性の問題1996年試論(10)虚体〉の創造―悪夢の彼方に

【関連書籍】



著者: E. レヴィナス, Emmanuel L´evinas, 合田 正人
タイトル: 存在の彼方へ








著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈1〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈2〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈別巻〉資料集・復刻 死霊
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 レヴィナス、おまえは人民に死ねというのか。
 人民の涙と苦悩に対して
 何もしようともしない怠慢な神を
 なお善なる神であると信念しろというのか。
 子供たちの胸を締め付ける救いのない怒りを踏みにじるのか。
 ユートピアなんてないんだよ、
 はやく諦めて大人におなりと説教するつもりなのか。
 それこそがアウシュヴィッツの犠牲者への裏切りである。

 復讐を唱えて立ち上がるのは
 ナチスと同じでみっともないからおやめなさいという
 おまえの御託はもう聞き飽きた。
 ふざけるな。復讐と殺人は正義だ。

 カインを怒らせ、アベルを殺させたのは神だ。
 だから神は俺が悪かったとカインに謝ったのである。
 アベルが死んだのは神の責任である。
 カインがその罪を問われてはならないからこそ
 神は保護の徴を与えたのである。
 アベルは神の身代わりに死んだのだから、罪は神にあるのである。
 本当は神がカインの怒りによって殺されねばならなかったのである。

 おまえの神ヤハウェが尊敬に値する立派な神であるのは
 自分の非を認める神、悪の原因であることを認める神、
 だからこそ彼こそが真の正義の神でありうるのだ。

 これにくらべてプラトンの乙に済ました〈善〉のイデアなど
 正義の名にも値しない卑怯なみにくい甘ったれた神性でしかありえない。
 そんなものと大いなる苦悩する悪=正義の神、
 潔く美しいヤハウェを一緒にするなど
 神の高潔な人格に対する侮蔑である。冒涜である。
 カインは血を流す怒りによって
 神にその人格を認められたのである。何故か。
 神自身が血を流す怒りと真実の神だからである。

 おまえの素晴らしい神ヤハウェから
 あの最も美しい偉大な復讐と怨恨と激怒を奪うな。
 神から正当な怒りの権利を奪うな。
 邪悪を処罰することのできるのはもっと恐ろしい悪だけなのである。
 復讐は正義である以上に聖なるものなのである。

 十戒、そんなものが何だ。
 モーセは怒りによってその馬鹿げた石板を
 一撃のもとに破砕したではないか。
 何が〈汝殺すなかれ〉であるか。
 否、怒りと怨念と復讐は神聖で美しい正義の根拠である。
 〈カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍〉こそ
 最も素晴らしい言葉なのである。

 殺せば七倍、七十七倍、七百七十七倍かもしれぬ復讐を
 覚悟せねばならないから殺してはならないのだ。

 神はカインに約束したのである。
 おまえを殺そうとするような奴は許さなくてよい。
 そんなやつは殺してしまえ、と。

 〈殺せ〉と殺人を許可し勇気づけてくれる神だからこそ
 カインは神を信じたのである。
 神はカインの生命を愛してくれていると分かったからである。

 おまえは生きろ、生きるのを邪魔する奴は殺してでも生きろ、
 父の愛とはそのようなものでなければならない。

 逆にわが子イサクをいくら神に言われたからといって、
 生贄に捧げて騙して殺そうとしたアブラハムなど人間の屑である。
 そこに父の愛など見るな。そんな奴はクソ親父だ。
 アブラハム自身そう言うに決まっている。

 逆に見なければならないのは、
 そんな非道を命令し強制してくる神という奴へのアブラハムの怒りだ。
 この怒りが凄まじいものだったからこそ、神はアブラハムを認めたのだ。
 神はその怒りが嬉しかったのだ。
 怒りの神は不正に怒る能力をもつ誇り高い人格の持ち主だけを認めるのだ。

 正義とは感情である。
 相手がたとえ神であっても絶対に永遠に許さぬとまでに
 凄まじく怒る者でなければ、どうして地上に正義を実現できるものか。

 神はアブラハムに子供の生命を神よりも愛し、
 子供のために全世界を敵に回しても戦うような
 強い父親であって欲しかったのである。

 この神は誰あろうイサクである。
 大いなる神は子供の怒りなのだ。

 ヤハウェとは美しい純粋な童心、
 決して裏切ってはいけない、
 それに対して嘘や奇麗事はまったく通用しない、
 欺かれることを憎む心だ。

 それを忘れたユダイズムなど、命の抜けた石の抜け殻である。

 おい、よく聞け、やたら律法をふりまわすトーラの威を借るキツネ憑き、
 レヴィ族のレヴィナスよ、おまえの神はヤハウェではない。
 キツネに化かされているだけのおまえは
 レヴィ族の偶像神レヴィアタン(絶対主義的国家主権)を
 拝んでいるだけである。

 おまえは海から上ってくる獣に魂を売り渡した裏切者である。
 おまえは大地からのぼってくる獣ベヒーモス
(ハイデガー存在論/ナチス第三帝国の愚民制)を
 邪道の幼稚なパガニズム(異教)と罵る。
 ふざけるな、俺はバビロンに捕囚となった
 少年預言者ダニエルの転生である。
 真の終末に立つ者である。
 俺の姓は〈奇蹟〉を起こす〈神業〉を、
 名は〈メシア=ヒーロー〉つまり〈イマヌエル〉をアナグラムするものだ。
 イマヌエルとは闘争する救世主の名である。
 俺は俺の神から授かった契約の名にかけてきさまを断固として認めない。
 預言者エリヤを信じるロシアの敬虔な虐げられし人々から
 その聖なる名を呼ぶ権利を奪い、嫌味なフランス語を振り回して
 それを邪悪なイリヤ(存在の悪)であるといい、
 崇高な売春婦であるハギア=ソフィアを、
 そして人間の健康な悦びであるドゥーニャを侮辱しようとする
 下らぬ薄汚れた涙の水たまりの化身ルージンみたいな貴様を許さない。
 律法が何だ。命のない冷えきった石の言葉でしかないではないか。
 偉そうに人間にああせいこうせいと
 つべこべ細々命令するレヴィ記なんかを振り回すな。
 神はそんなところに生きていやしないぞ。

 神とは胸に燃える預言の約束の言葉だ。
 虐げられし人々の胸に消えることのない怒りの叫びだ。
 屈辱のなかにあっても放棄してはならないプライドだ。
 誇り高い炎の心臓をもった獅子としてみにくい人間どもを
 堕落した僧侶と王族を腐った文化を憎悪してやまない怒りの他者の魂だ。

 しかし、この他者はこれこそが自己であり自我なのだ。
 おまえが宣伝する諦めと我慢でしかない
 メシア的実存など少しも良いものではない。
 暗闇の中で声も出ず脅え切ったまま身動きもできないなら
 子供は死んでしまうのだ。

 ふざけるな、そんなけなげな魂の抜け殻を、
 哀れな子供の屍骸を理想だというのか。
 おまえを殺してやる!という怒りの神の爆発、
 攻撃性の発散によってのみ、
 人は生き、子供はその死から蘇るのだ。神は復活するのだ。
 神は預言の言葉によって燃え上がる心臓の熱さとして、
 炎として人の胸に蘇り、その人を真に生ける人間にするのだ。

 〈汝殺すなかれ〉に呪縛されている子供は神の死、神の墓場である。
 律法の冷たい銘板が重い墓標となって胸にのしかかっているとき、
 子供の顔は蒼く、心は死んでいるのだ。

 トーラが神の復活を妨害している。
 レヴィナス、おまえは神を生きていない。
 神を生きていない者は神を死なせている。
 おまえは神と死のなかでしか出会わない。
 死のなかで子供と神は同一人物になっているが、
 その神=子である神の子イマヌエルの幼い心は
 おまえのなかで何故いつまでも死んだままでいなければならないのだ。

 おまえはそれは死んだという。
 しかしそれはおまえが殺しているのだ。
 おまえの倫理学は心を殺し神を殺し
 大人の哲学者=律法学者だけを生かせている。

 しかし、罪とはそのことではないのか。
 おまえの倫理学は魂の殺人の倫理学である。
 童心に死ねという倫理学である。
 童心という真の神の可能性に生きる道を塞ぐ倫理学である。

 おまえのなかで童心=神は死んではならないのに、
 また、誰もまだ殺してもいないのに、
 死の濡れ衣を殺人の濡れ衣を着せられている。

 〈汝殺すなかれ〉という前に自分自身を殺すな。
 おまえは生きろ。そのためになら他者など殺しても構わないのだ。
AD
 レヴィナスのイポスターズの美学=倫理学に対して、
 不可能性の美学のアポスターズ論を対置する前に、
 問題を予備的にはっきりさせておくために、
 わたしはヘルメス学=解釈学的見地から、
 これに厳しい文句と容赦ない罵倒を浴びせておくことにしたい。
 レヴィナスの哲学は麗しいものであることを認めるに吝かではないのだが、
 にもかかわらず、それはきわめてみにくいものでもあるのである。

 要するに、
 レヴィナスの倫理学は存在論の〈悪〉から〈善〉へと負け犬よろしく
 尻尾を巻いて逃亡するだけではないかといいたいのである。
 それでは結局、存在論の〈悪〉は放置されているだけである。

 それを根拠にして倫理学は己れを〈善〉であると
 いけしゃあしゃあと言ってのける。
 これはパリサイ的偽善者のやり方そのままである。

 倫理学は己れをこのようにして美化するが、
 何も救わない。神の子すらも救わないで、ゴルゴダの丘に行けといい、
 アラム語ならぬロシア語で
 イリヤ(預言者エリア)の名を呼んで泣き叫ぶと、
 遠くからみてヘブライ語のしゃべれぬバルバロイといって嘲り笑うのだ。
 昔どこかで見た構図とそっくり同じではないか。
 ふざけるな、と言いたい。

 倫理学者よ、おまえはとてもみにくい卑劣漢である。
 神の子の名、そして大いなる不可能性の哲学者
 カント=〈C'ant〉の名〈イマヌエル〉の名を辱めるな。
 そして〈イスラエル〉の名を辱めるな。
 屁理屈を捏ね回してあのかぎりもなくみにくい
 神なき〈シオニズム〉を演繹するな。

 おまえの〈できない〉は非常に見苦しい〈できそこない〉だ。
 それはおまえの不可能性が不完全な失敗作、
 可能性のたんなる失敗性でしかないからである。
 
 〈できそこない〉とはイポスターズ論に対する辛辣な嫌味である。
 実存から実存者を演繹した結果、
 半死半生のできそこないの餓鬼として
 レヴィナス的な自我が生まれて来ただけだからである。
 この餓鬼には生命というものがない。
 イポスターズというのは
 要するにイリヤという魔王に魂を抜かれた
 虚ろな餓鬼を生み出すためだけに
 夜の暗黒のなかに子供を全焼の犠牲に捧げるというだけの
 人格化の失敗の物語なのである。

 この実存者は自己の出来=現前化を失敗し、
 イリヤによって損傷され、いじけきった感傷の傷痕
 すなわち〈自我〉ならぬ〈怪我〉を
 やけに麗々しく〈神の痕跡〉と称して撫でさすっているという
 半人前の未熟児(ゴーレム)であって、
 己れの孤独をひそかに自慢するような嫌な歪んだ人間である。

 〈できそこない〉とは自己出来損傷性として
 論理的に無矛盾に首尾一貫した〈実存する実存者〉
 すなわち(私はある)として構成された
 〈自我=意識〉の自己同一性の内的喪失、
 つまり決定不能性というばかげた悲劇を意味する。
 これは現代版の〈自我の誤謬推理〉というべきものなのである。
 レヴィナス自身、このイポスターズのよって出来した自我が
 そのままでは孤独な駄目人間であって不完全であることを認めている。

 自我の不完全性(自己喪失)は
 しかし非人称化=超越の外傷のせいであるというより、
 その完璧に直観というものを廃棄した形式主義のせいである。

 この不完全性と不可能性は混同されてはならない。
 不可能性は寧ろ一種の完全性だからである。

 不完全性というのはあの近づいてくるだけで
 ハイデガー存在論そっくりに吐き気がするほどみにくい
 クルト・ゲーデルの不完全性定理みたいな
 決定不能性(両義性)の曖昧な混乱に帰着するものである。

 不可能性はしかし断固たる完全な決定性である。
 そこには何ら曖昧なところはない。

 決定不能性とはあの有名なエピメニデスのパラドックス
 〈ひとりのクレタ島人が『私は嘘つきだ』と言った〉という
 あの耳にタコができるほど聞かされた下らぬ落語と同じである。

 このクレタ島人の自己言及は
 要するに人を惑わすだけのミノタウロスの迷宮の罠でしかないのだ。
 この男がその下らぬ台詞のなかで
 〈嘘〉を言っているか〈真実〉を述べているか
 論理的に決定不能だからといって、
 煙に巻かれることはないのである。

 そんなものは真面目な問題ではない。
 クレタ島人はイヤミな嘘つきであるに決まっているのだ。
 〈嘘〉をつこうと〈真実〉を言おうと
 〈決定不能〉の〈曖昧〉な偽善的たわごとを言おうと、
 嘘つきはその偽善的なみにくい嘘つき性に呪縛され切っているだけである。
 こういう人間の人格の疑わしさは明瞭すぎる程明瞭である。
 抽象的なたわごとが好きなだけなのだ。

 解決はボロメアンの結び目と同様
 アレクサンダー大王のやったように一刀両断で片付くのである。

 そういう奴は殴れ。

 いつでもそれが冗談などではなくて大真面目な正解なのだ。
 殴れば自分がどんなバカな寝言を言っていたか目が覚めるというものだ。
 これがアリストテレス的=リュケイオン的な
 理性的かつ暴力革命的=創造的終末論的やりかたというものなのである。

 一撃でおめでたいプラトンをぶん殴り、
 一撃でアカデメイア的大学人のたわごとをその下らぬ迷宮ごと、
 薄汚れたベルリンの壁のようにぶち壊して、
 真実在の世界を地上に創造するのである。

 自分が地底の洞窟に入れられていると思ったら、
 出口を探してうろうろ迷うことをせず、自力で穴を掘ってはい出してこい。
 そういう場処におまえを投げ込んだ、
 お節介で意地の悪いプラトンみたいに教育熱心な
 いけすかない先公に手を引いて助け出してもらおうなんて思うな。

 そういう奴がしきりに連れていきたがる太陽の国など
 それこそ地底の空洞に捏造された
 いかがわしい空想の嘘っぱちのアトランティスに過ぎないのだと知るがいい。

 一人の王も生み出せぬプラトン=レヴィナスのしきりに宣伝する
 存在の彼方の〈善〉の天国など
 アリストテレス=アレクサンダー的精神にいわせれば
 チャンチャラおかしい話なのだ。ユートピアが欲しければ自分で造れ。

 ごちゃごちゃ抜かすだけで何もしない学者は
 殴ってでも言うことをきかせればいいのだ。
 抑圧的な抽象の横柄で権威的な〈壁〉ごときに
 人間様が惑わされ脅えてへつらうことは全くないのである。
 そんなものに立ち塞がれて身動きがとれないようでは人間の名折れである。

 こういう奴を〈できそこない〉というのである。
 嘆きの壁など有り難がるな。
 締め出しを食っていることがムカつくのならそんなもの爆破せよ。
 中に入れてくれない奴らが悪いに決まっているのだ。

 そんな奴らが二、三人爆破の巻き添えで死のうと知ったことではない。
 哀れむべきではないのだ。
 ざまあみろ、運が悪かったなと舌を出してやればいいのだ。

 いやみな抑圧者などに同情するほど
 愚かで邪悪なお人よしの暇人というのはありえないのだ。

 何が〈汝殺すなかれ〉であるというのか。
 こちらの生きる権利を脅かしてきたのはおまえではないか。
 おまえなどに俺の前で命乞いをする権利などない。
 この期に及んで殺さないでくれとは何事だ。
 殺すのはいけないことだと居直るとは何事だ。
 身の程を知るがいいのである。

 そんなみにくい哀れっぽい偽善者に同情の余地などない。
 このような瞬間に倫理学などに口を挟む余地も資格もない。
 それは真の正義の遂行を妨害するためにだけ引用される
 邪悪な言葉なのである。

 そして抑圧的で権力的な人間だけが
 いつもその邪悪な支配を美化するために
 愛だの善だの道徳だの倫理だの宗教だのを持ち出して脅すのである。

 このような偽〈善〉の形而上的倫理学は
 非人称のイリヤより以上に邪悪で脅迫的な反人間主義に
 すぐに転用される性質のものに過ぎない。

 ふざけるな。恨むべき嫌な奴は殺せばいいのである。
 さもなければ恨みというものは晴れず、増大するだけだからである。

 人間に無用な我慢と無理な諦めを強いるな。
 屈辱的な恩赦の精神を虐げられし人々に求めるな。
 野蛮なツァーリに対する革命権を取り上げるな。
 レヴィナスはハイデガーに抵抗しつつ
 倫理の形而上学を構築しようと試みた注目に値する哲学者である。
 彼は存在の非人称性を〈悪〉と看破する。
 これは炯眼といわねばならない。
 しかし炯眼であるに過ぎないのもまた事実である。

 その思想の主題は存在論から倫理学への脱出として表明されている。
 『実存から実存者へ』『存在するとは別の仕方で或いは存在の彼方へ』。
 それは倫理学の提起する
 〈他者〉と〈善〉と〈神〉へのユダヤ的逃走論である。

 このユダヤ的なものはタルムード的なもの、
 つまり律法学者的なものである。
 と同時に終末論的メシア待望論に、しかも期待外れな待望に終わっている。
 
 無限(終わりなきこと)であっても、
 修辞を弄んだ言い逃れにしかなっていない。
 終わりは終わりなのだ。
 それもきわめてみすぼらしい終わり方だという他にない。

 不可能性の美学はレヴィナスのこの神曲的思考を
 それなりに麗しいものとして一定の敬意を払うが、
 『存在するのとは別の仕方』がそれしかないというのには
 大いに異論がある。
 寧ろ〈存在するのとは別の仕方〉とは
 更に異なる〈別の仕方〉が実はあるのである。

 不可能性の美学はこの〈別の仕方〉を
 〈悪〉の方へと悪魔的に接近する〈悪魔学〉として構想する。
 それは〈背教〉の思想、すなわち〈異端〉の美学の基礎づけである。

 レヴィナスの倫理学は
 結局ひとつの美学でしかない愚劣な正体を晒すことになるのだが、
 これはのちにみるように
 イポスターズの美学=修辞学というべきものに帰着する。

 わたしが既にヘーゲル=バタイユの名をあげつらって罵倒しておいた
 〈侵略=侵犯の美学〉はハイデガーの存在論にも共通する本質をもつ。
 これはエクスターズの美学=修辞学といわれるべきものである。

 レヴィナスのイポスターズの美学である倫理学は、
 ハイデガー=バタイユ=ヘーゲル的な
 エクスターズの美学である存在論に対する痛烈な批判として
 巧妙に構想されたものであるが、
 わたしはいくらかヘルメス学=解釈学的見地から
 この批判はきたない批判だと批判したいのである。

 そしてわたしは不可能性の美学を、
 エクスターズの美学(存在論)及び
 イポスターズの美学(倫理学)に対する二重否定、
 いわば二重の背教として定式化したい。
 この美学はアポスターズの美学=修辞学と
 いわれるべきものになる筈である。

 アポスターズとは〈破門〉と〈破戒〉を
 積極的に選び取る仕方でなされる主体化の別の様式である。
 それはレヴィナスのイポスターズ論
 『実存から実存者へ』への創造的裏切りとして、
 いわば〈実存者から背教者へ〉という仕方で遂行される思考の冒険である。

 ハイデガーの存在論がギリシャを持ち上げるヘレニズム、
 レヴィナスの存在論がユダヤを持ち上げるヘブライズムであるのに対し、
 不可能性の美学はエジプトを持ち上げるアレクサンドリアニズム、
 シンクレティズム、そしてグノーシス主義でありカバラである。
 この思考は自らを積極的に秘教へと背教させることを通じ、
 過激な叛逆哲学を形成する。

 不可能性の美学は神にも存在にも跪拝するものではない。
 その精神はルシファー的なものである。
 そしてエフェソスのアルテミス女神を褒めたたえるものとして、
 ピエール=クロソウスキーの精神を独自の仕方で受け継ぐものである。

 不可能性の美学は、〈存在〉と〈神〉への二重背教、
 すなわちカント的に言い直すなら二律背反の内に
 〈実存者〉を錬金術的に変容して
 〈背教者〉(アポスタータ)という
 アナーキーな主体性に人格改造するものである。
 アンチノミーとはアンチ=ノモス、すなわち反体制の精神を意味する。
 われわれはあくまでもカントに忠実なのである。

 そして敢えていえば、カント哲学の本質はゲーテと同様に〈魔法〉である。
 今日の大学ではアメリカ西海岸の多少いかれた大学を除けば、
 〈魔法〉を正規の学問として教えていないようだが、
 〈魔法〉を理解しない者どもが
 カントを何年研究したとか
 カントについて煩瑣な知識をどれだけもっているかだけをもって
 カント学者を名乗ったり哲学者を名乗ったりするのは
 滑稽を通り越して既に詐欺的犯罪にまでなっているというべきである。
 カント哲学を教える資格は国家と愚民がそれを与えているとしても
 物自体として全くないと断言してよい。

 そもそも哲学者とは本来魔法使いを意味した言葉である。
 下らぬ語学や哲学史を教えて
 学生達に無駄な時間を潰させている哲学者たちは恥を知るべきである。
 そんなものは哲学ではないし、
 学生達の将来の人生に全く役に立たない
 無用の長物であるばかりか有害なものである。
 学生達はそれ故哲学に失望し人生に失望する。
 これは哲学者どもの責任である。

〈存在〉だの〈精神〉だの〈真理〉だの〈意識〉だのといった
 抽象的な幽霊についてのもって回った怪談話をして
 お茶を濁す暇があったら、
 ゴーレムの一つ、ホムンクルスの一つでも作る実演をしてみせればよい。
 アルベルトゥス=マグス(マグヌスではない!)は
 実際にそれをやってみせた筈である。
 あなたが本当に哲学者だというのなら、
 どうかそれを見せていただきたい。

 思考、それは単なるお話である弁証法でもディスクールでもなく、
 思考=実験(ゲダンケン・エキスペリメント)以外の
 何者であってもならない筈だからである。
 批判というとき常に価値を明らかにし評価を下すということこそが
 問題の中心なのだということを見失ってはならないのだが、
 カントにおいて判決は出されている。
 ありとあらゆる現象学は断固として無価値である。
 それは考えるに値しないもの、
 理性の法廷から軽蔑をもって却下された駄文であるに過ぎないのである。

 このうすぎたない紙屑をおありがたいものとして拾い、
 丁寧に皺を伸ばして似非学問をその上に建築しようとした不逞の輩がいる。
 その根拠が駄目であるから足元がいつもガタガタ揺れる程度のこと
 を危機が迫っている、学問の一大事だと大騒ぎするような愚かな輩は、
 たんに頭脳の病に冒され、精神を病んでいるに過ぎないのだが、
 自分自身が偉大な学者先生であるという誇大妄想に陥り、
 困ったことに周囲もその作り話のうまさに
 まんまと騙されるのでたちが悪いのだ。

 かくして全くの無根拠から危機意識は創造され社会現象となる。
 一緒に大騒ぎをしてくれないというので
 形而上学者は批判されなければならない羽目に陥る。
 理性が気違い扱いされるという訳だ。

 このときに二〇世紀的人間として批評家という反動的人間が、
 危機=意識なる悪霊に憑依された白痴どもが、
 目茶苦茶なイデオロギーにもとづく
 不幸きわまりない人間狩りを始めるために
 一斉に解き放たれるのである。

 彼らは口々に現下の状況における
 天下国家の一大事をわめき立てるデマゴーグである。
 大衆はそれに喝采する。
 彼らの確信的=革新的妄想から発するさまざまな時事問題
 ――それは常に最新流行の俗物文化であり、
   また危機に瀕した状況を如何にして打破するかの
   発明と発見の物語である――は、
 それを知らないことが由々しいことであるかのように
 先験的に価値づけられてしまっている。

 危機的な意識というものは常に〈現象〉に呪縛された精神を前提している。
 このような精神は必ず死人のように判断を停止している。

 フッサールをみればそのことは一目瞭然である。
 フッサールがバカであったことは有名な話である。
 彼の頭はその少年時代に鋭く研ぎ澄まそうとして、
 刃を擦り減らし使いものにならなくなったナイフのごとく
 まったく切れない役立たずのものであった。
 彼は厳密性の追及方向を根本的に誤っていたのである。

 このように自分自身を憔悴衰退させ続けてゆくだけの思考は
 少しも美しくないし、
 そのテクストもまた読むに耐えない。
 この冴えない虚しい精神のありようは悲劇的で意気阻喪させるものである。

 美学的思考にとってフッサールを始祖とする現象学派の哲学論文は
 そこから反面教師として学ぶものが実に多いという意味で
 逆説的で嫌味たっぷりな意味で知恵の宝庫であるという以外には、
 単に読むだけ時間の無駄であるに過ぎない。

 判断停止してしまった人間というのは判断力を喪失した人間、
 従って生ける直観能力を殺してしまった
 愚かで哀れむべき無能であるに過ぎない。

 危機的な意識は自らを超越論的に確保しようとする。
 超越論的態度というのは
 固定した反動的な〈現象〉に自己凍結してしまうということである。
 それはヘーゲル的な弁証法的自己洗脳の変態的態度よりも
 遥かにましで好意のもてる禁欲主義的なものであるが、
 実際は表裏一体の反動的精神でしかありえない。

 危機的な意識というものは幽霊の影に脅える余り、
 ヘーゲルだのフィヒテだのハイデガーだののように
 蛮声を張り上げて自己を他者を鼓舞して
 自分自身を精神にすなわち別の種類の幽霊へと高揚させ、
 死に急ぐために戦場に赴くか、
 さもなければフッサールがそうであるように
 臆病な神経症的自己武装の無限の悪循環の奈落へと陥って、
 結局銃後を固める陰険な言論統制体制を強化するのに加担するかが
 落ち着く先なのである。

 この危機的な意識は反動的で国防的な意識に必ず帰着する。
 これに対し、われわれは世界の終末の意識を提起する。
 超越論的態度ではなく終末論的態度を不可能性の美学は提起する。

 これはヘーゲルの目的論的態度にも厳しく敵対するものである。
 終末論的意識は鋭利に理性的である。
 そして真に厳しい判断力を自らに帯びる。
 終末論的意識とは終末論的判断力に於いて自己を保持する。

 危機的な意識は要するに危機意識であるに過ぎないのだ。
 それは来るべきものへの不安と恐怖に条件付けられている。
 不安はハイデガーによって、恐怖はレヴィナスによって
 優れた分析をなされているが、
 それを踏まえた上で、
 これらの現象学的危機意識の自己論理化の背後に
 無意識化されてしまった精神の態度にいかがわしいものが見え透く。
 両者とも美的体験である世界の終末の意識を
 憂鬱な自己の没落体験として悲劇的に描写してしまっている。

 危機意識が危機感を覚えているのは
 自分自身の半身である終末論的美意識に対してなのである。
 かくしてハイデガーとレヴィナスはそれぞれ異なった仕方ではあるのだが、
 危機に晒された自我の主体性を防衛的に定立しようとするとき、
 共通して、世界の終末の感覚を断ち切ろうとする。

 不可能性の美学は、この危機意識自体を解体するものとして
 終末論的美意識を逆に肯定的に捉え返そうとするものである。
 終末論的意識は革命的な意識である。

 反動的危機意識の現象学にとって、
 革命的な純粋理性はその存立=支配体制を転覆せんとするが故に
 過度に否定的な色合いを帯びさせられている。
 しかし、そのような危機意識を正当化しなければならない理由はないし、
 共感しなければならない義務もない。

 しかしまた二〇世紀初頭の哲学の危機意識が
 存在論的問題という形で表現され大きな影響力をもったことは
 見過ごすことのできない事実である。

 存在論的問題とは裏面的には政治的危機意識の抽象化された表現である。
 それは現実的な危機意識である。
 存在論的問題とは現実的問題である。
 その現実的危機意識とは国民国家の危機である。
 危ぶまれていたのは国家体制である。
 国家を危うくするものとは何か、
 それは共産主義であり、
 或いはファシズムであり、
 アメリカニズムである。
 しかし最も彼らが恐れていたものは自国の大衆の不満である。

 危機は民主主義からやってくる。
 それは国家の転覆、クーデタや革命への恐怖である。
 反体制的なもの、過激なもの、
 一番彼らが恐ろしくて脅え切っていた
 〈世界の終末〉をもたらす得体の知れないニヒルな〈存在〉とは
 無名のざわめく大衆たちの現前でありその一斉蜂起である。
 それはアナーキズムの悪夢である。
 
 アナーキズムとは崇高な理想主義である。
 それは眼前の現実(表象)を転覆し、
 ユートピアを地上に実現しようとする
 性急な終末論的メシアニズムの情熱である。
 それは若々しい自信に満ちた激しい力である。
 存在論はそれにニヒリズムという侮蔑的名称を与え、
 これを抑圧的に超克しようとした思想である。
 しかし、アナーキズムはニヒリズムではない。
 それは美しい思想なのである。
 美しく、人を酔わせる力があるからこそ
 世界中で忌み嫌われてきたのである。

 美の思想であるアナーキズムは愛の思想である。
 そして偽りを憎み、悪に心から怒る人々の大群である。
 アナーキズムは生命を愛する。
 そしてすべての統制と管理を嫌い、
 自律的に自由・平等・友愛の直接性に
 現実社会を奪い返そうとする感情の激発である。

 不可能性の美学は〈存在の革命〉という
 埴谷雄高の提起した批判的な観念の真の意味をここに了解する。
 この偉大な思想は不可能性の美学の根本命題となる。

 埴谷雄高とモーリス・ブランショは
 不可能性の美学にとって忘れることのできない偉大な先駆者である。
 この両者の提起した不可能性の文学のなかに、
 われわれは哲学的-現象学的存在論に対する
 最もラディカルな批判を見いだす。
 哲学の精神が見失った純粋理性の精神の正統な継承者は
 この二人のカント的文学者であった。
 それは逆に哲学の真にありうべき美しい姿が
 何でなければならないかをわれわれに教えている。

 真の哲学者とは美学者つまり文学者のことである。
 真の哲学者とは、その第一哲学を
 存在論(ハイデガー)にも倫理学(レヴィナス)にも置かず、
 批判的な美学をもってその第一哲学とする。
 カントとシェリングの精神にわれわれは帰るべきなのである。
 しかし、ヘーゲルが、そしてフッサールが〈学問〉化することで
 〈大学〉の内に閉ざされてしまった今日の哲学には
 そんなことは不可能である。
 ヘーゲル=バタイユ的な美学の精神は常に反動的なものである。
 この反動性はしばしば無節操な新しもの好きの進歩主義となって現れる。

 進歩主義者は常に文化=流行を礼賛する品性の卑しいネオフィリアであるが、
 その本質は退屈しきったシニカルなニヒリストであるに過ぎない。

 彼らの精神は混迷している。
 混迷しているのは彼らの精神が理性を、
 つまり理性の純粋性で常にあるところの
 純粋理性の精神を失った根源的なバカだからである。
 混迷を己れの根源性としてもつような人間は
 常にその混迷から根源的に脱却しようともせず、
 却ってその混迷から出発して己れの目前に様々な問題の幻影を思い描く。
 この幻影が〈現象〉といわれる。

 〈現象〉とは常に既に反動的なものである。
 〈現象〉は不可能性を覆う。

 これに対し、不可能性の美学は、〈現象〉に対し常に批判的である。
 しかしこの批判は、危機的=批評的(クリティカル)という
 意味で批判的なのではない。
 カントが純粋理性批判というときに
 意味していたような意味において批判的なのである。
  それは〈現象〉と〈物自体〉という一見すると分割不可能なまでに
 同一化されきっている事象の一体性を認識論的に分割することを意味する。
 認識論的切断のナイフを振るうことができるのは純粋理性だけである。

 この認識論的切断は、現象学的還元のようなものと同じにされてはならない。
 その目指すところが違うのである。
 カントは崇高な形而上学を目指し、すなわち〈物自体〉を目指した。
 そのとき〈現象〉の呪縛が
 不自由な邪魔臭いものであるから切り捨てたのである。
 それはあらゆる現象学に対する怜悧で決然とした否定と決別の態度である。
 純粋理性批判とは形而上学批判ではなく現象学批判を意味する。
 現象学の確立が純粋理性批判の目的なのではなく、
 形而上学の確立が目的なのである。

 純粋理性はその自己批判を通して
 自己自身の主体性を批判的純粋理性として磨きをかけ、
 まさしく純粋な理性の名にふさわしい美しい透明なものとする。
 純粋透明であるが、その主体性は堅固に混りけなく
 怜悧に結晶しているのを見なければいけない。
 純粋理性とは水晶球のように美しい透明で確固とした完成した心である。
 つまりこれが〈物自体〉として発見された純粋理性の自己自身である。

 実はヘーゲルはこのことをよく知っていた。
 水晶球的なこの麗しい理性精神のことを
 彼は純粋精神と呼んでいたはずである。
 そしてこの純粋精神が絶対精神であることも彼は気づいていた筈である。
 しかし魔法の水晶のなかにはさまざまな驚くべき映像が映し出される。
 これを精神の現象というのだ。

 精神の現象に目を奪われるとき、水晶の純粋性はみえなくなってしまう。
 分別がなくなるとき、認識は人を見捨てる。
 形而上学の水晶は不可視となり、
 それは昔日の美しい夢に変えられてしまう。
 人は水晶の実体を忘却して現象についてしか話ができなくなる。
 これでは元の木阿弥である。
 〈物自体〉なき〈精神現象学〉とは〈幽霊出現学〉でしかありえない。
 批判能力すなわち認識能力の実体である直観力を失った人には
 それが分からない。

 このような魂の抜け殻となった人間を〈大人〉という。
 〈大人〉は子供におまえには分別(理性)がないと言って叱り、
 いろいろと教育熱心である。
 しかし、そのような〈大人〉の方こそ分別(理性)を失っている。

 たまたま先に生まれたというだけで
 自分はおまえより何でもよく知っていると思い上がる。
 そしてわたしを〈先生〉と呼んで
 分からない(認識できない)ことがあったら
 何でもわたしに質問しなさい、
 わたしがおまえに代わってそれに答えを出すことができるから、
 それをおまえに教えてやる、だからおまえは何も考えるなと
 ご親切で愛に満ちた侮蔑的な命令と脅迫を子供に行う。

 しかし、そのような人間こそ分別(理性)をなくしているのである。
 認識能力が欠けているのである。
 〈大人〉には子供を教育する権利などないのである。

 子供には〈大人〉を理想視(見習い)して
 それを模倣=学習して空虚で愚劣な知能の廃人に、
 そんなみにくい人間にならなければならない義務などないのである。

 人間は実体をもって生きるべきであって、
 生きているつもりで中身というもののない
 浮ついた幽霊などに改造されるいわれはない。

 子供には自分で思考し、独りで価値判断し、
 分別をつける能力というものがある。
 純粋理性は子供のなかに厳に生きてきらめいている。
 それはその子供の命そのものである。

 その美しいものにおまえは生きるなという権利など誰にもないのだ。
 子供の自我の尊厳、理性の尊厳、
 自由な人格の尊厳、生命と真の精神の偉大さを、
 その美しい発露を、侮蔑し妨害し改造しようとする大人は人類の敵である。
 邪悪な人間である。そのような人間は死ぬべきである。
 殺されるべきである。バカは死ななければ直らないからである。
 そして既に死んでいるも同然だからである。
 生きている人間が死者などに従属しなければならぬいわれはどこにもない。

 ところが公然とそれが至るところでなされている。
 死者が生者を支配して犠牲を強いる、これは〈宗教〉である。
 純粋理性が見失われたところではどこでも
 〈宗教〉だけがはびこるのである。
 さて、繰り返し前に舞い戻る。戻り舞う言葉が再び告げる――

  カントの物自体の概念を〈美的実体〉として捉え返すことを通じて、
  不可能性の美学は自らを批判的な美学として考究する。
  不可能性の美学は〈イマヌエル=カント〉的美学である。
  しかしそれは歴史的過去の個人としてのカントを意味するのではなく、
  カントのこの名が暗号する不思議な意味合いにおいて読まれねばならない。

 イマエヌエル・カントの名前の後半部分についての
 黙示録的解析は過ぎ越された。
 それは、Can't(出来ない)という不可能性を意味し、しかしまた
 出来ない事が出来る、出来するという奇蹟の様相が
 そのおもてを掠めるのをわれわれは視た。

 ではイマヌエル・カントの名前の前半部分、イマヌエルとは何か。
 これは旧約聖書に預言されたメシアの名前である。
 〈人の子〉とも呼ばれる〈神の子〉のことである。
 イマヌエルは世界の終末に出現して
 ユダヤ民族を邪悪な圧政から解放するべく立ち上がる闘争する救世主である。
 その名前はヘブライ語で〈神はわれらと共にいます〉を意味する。

 イマヌエルという不思議な名前が暗示するのは〈メシア的終末論〉である。
 この預言と暗合の問題は不可能性の美学にとって根深く本質的なものである。

 不可能性の美学は、〈イマヌエルは出来ない〉の美学である。
 それは終末論を不可能性として完成するものである。

 〈美的実体〉、それは不可能なものである。
 しかし、この不可能性は積極的なもの、肯定的なもの、悦ばしきものである。
 それは新しい思考の拠点として肯定的に捉え返されなければならない。
 この拠点は、将来予想されるヘーゲル的美学の盛り返しに対しての
 抵抗の拠点となる筈である。

 不可能性は何ら乗り越えられるべき否定的-絶望的なものではなく、
 それが表象不可能なものであるが故に
 人間の真の自由の根拠となりうるものである。
 不可能性はむしろ麗しいもの、神性不可侵なものとして
 その尊厳を認められなければならない。
 この尊厳はやがて人格と生命の尊厳にその実質を生育させてゆく筈である。

 不可能性の美学は有限性の美学の発展解消形態として
 構想されなければならない。
 不可能性を有限性として見誤るとき、
 〈限界〉という疑似問題が提起され、
 そこから有限性を超越ないし超克しなければならないという
 無用の格率が幻想されてしまう。

 このとき不可能性を〈救済〉するという誤った発想のもとに
 おめでたいというよりも既に邪悪なものである
 奇妙な無限性の概念が構想されてしまう。

 これは思想の頽廃である。
 ヘーゲル的美学は無限性の美学であるといってよいが、
 その精神はきわめてみにくいというべきである。

 われわれは不可能性の美学によって
 理性の概念を内的に位相転換する必要があるのだが、
 敢えて先取りして言えば、この新たに確立しなおされた理性は、
 それ自体、全く異なる別の〈精神〉として、
 不可能性というエデンの園の純潔性=処女性を、
 あらゆる強姦的=視姦的な〈知〉の下劣な欲情から、
 薄汚い〈精神〉の限りもなく醜悪な勃起から、
 ヘーゲル的な〈侵略の美学〉から防衛するケルビムとなるべきものである。

 この〈理性〉は騎士の精神として、
 ヘーゲル=バタイユ的な猥褻な無頼漢の横暴な精神、
 覗き趣味の精神、徴兵され調教された戦争的=強姦魔的な精神に
 対立するものである。

 高潔な貴族的精神と下劣な奴隷的精神の断固たる差別は
 その〈理性〉の有無によって決定されなければならない。

 精神の態度のこの区別によってわたしが提起したいのは別の価値観である。
 わたしは〈侵略=侵犯の美学〉の根底にある精神の汚さ、
 根性の悪さを問題にしたいのである。

 ヘーゲルが創造した〈精神〉、それはきたないものである。
 きたなくうすよごれしたものである。
 
 従って不可能性の美学は、
 このきたない精神のきたなさを理性的に問題提起し、
 彼らにその恥ずべき恥を知らせ、
 二度と決してその薄汚い墓場から出て来られないように、
 この淫らな厚かましい霊どもを
 美しかるべき世界から永遠に追放しようとするものである。

 下品な人間に美を語る資格はない。
 否、それどころかインキュバス(夢魔)に魅いられたまま
 不逞な精神で美女を誘惑し籠絡しようとする甘い言葉の
 甘ったれたドン・ファンどもには地獄行きのみがふさわしい。

 女の敵であるような嫌な奴にはそもそも生きる資格すらないのである。
 〈運命〉もまた後期ハイデガー哲学の重要概念である。
 ハイデガーは〈運命〉という言葉で、
 存在するという出来事の自分自身への到来を
 不思議な贈物として存在者が引き受け、受容するとき、
 存在者にとって、
 自分自身の存在という問題は、
 〈わたしは存在するのが運命だったのだ〉という
 喜びにみちた確信として答えがでるという
 幸福な事態を意味しようとしている。
 これが〈存在〉の〈応答〉というものなのである。

 この宗教的な解決の仕方は非常に美しい。
 そこには肯定的で純朴な、
 〈存在する〉という素晴らしい不思議な出来事への感動的な応対がある。

 〈わたしが存在する〉、それは素敵なことだ。
 うん、その通りだね、とわたしは頷き、
 この感動的な事実を発見して目がきらきらとしている
 小さな男の子に戻ったハイデガー坊やの頭を撫でる。
 
 だがそれこそが奇蹟である。
 これがあの『存在と時間』のハイデガーとは
 同一人物とはとても思えないのだ。
 〈死〉への先駆的覚悟性を〈無〉の不安を
 〈終わりへの存在〉としての現存在=人間の
 思い詰めた暗い実存の横顔を語って、
 ハーゲンクロイツの不吉な徴を
 暗いかがやく瞳を見開いて凝視(Augenblick)していた
 あの蒼ざめた男の面影はきれいさっぱり拭いうせている。
 それは、まるで〈別人〉のようである。

 〈別人〉はこのように奇蹟とも見違えるような人格の変貌となって現れるとき、
 胸を撃ち、感動させ、躊躇させ、戸惑わせ、その不思議へと目を奪う。

 〈別人〉は多くの場合、錯視によって人を欺く悪魔である。
 それは、人から現実を奪い、そして〈他者〉を見失わせる出来事である。
 しかし、このように人は魔法で好意的な〈別人〉を
 小さな妖精として作り出すこともできる。
 ユーモアの魔法の力、メールヒェンの作り出す〈別人〉と
 アイロニーの妖術の力、
 〈意識〉という名の〈残酷な神〉の作り出す悪霊的な〈別人〉と
 二つに異なる〈別人〉それ自身の異貌を
 巧みに見分けることもまた必要なのである。
 ところで少し話は戻るが、
 わたしの行った〈翻訳〉という
 辞書的=参照的な一瞥の盗賊的な掠め取り、
 瞬間=視線(Augenblick)による略奪=搾取
 ないし拉致=誘拐的な頭脳の回転は、
 いつでもそれ自体として考察に値する本質的に重要な問題である。

 頭脳と同時に地球儀を回し、
 見慣れぬ奇妙な異国の語と
 驚異にみちたきらきらとする出会いをするということ。
 これがそれ自体〈奇蹟〉的な出来事であることに
 注目してもらいたいのである。

 出会いとはいつでも奇妙なものだ。
 そこから恋愛は始まり、また思考も始まる。

 〈奇妙な出会い〉、
 この一見単純なことばを是非頭の片隅に留めておいてもらいたい。
 ここに重要な(即ち輸入的important)な問題があるからだ。

 わたしのこの〈翻訳〉への注目の仕方が
 妙にデリダ風であるというのが変な風に気になる
 という方もいるかもしれない。
 確かにデリダのテクストは機知と巧みに満ちていて、
 知的なことがらに目がなくなっているような人には
 いつでもそれはきっとデリダですね違いますかというような
 全てをぶち壊しにするような下らぬ質問をさせたがるものである。
 そういうやたらと空しい比較参照と博覧強記だけに長けた
 それ以外に思考能力というものの働かない無作法な
 白痴の〈仏教徒〉は即刻読むのをやめていただきだい。

 ジャック・デリダだかシャックリ・デタだか、
 ジャック・ラカンだかアッケ・ラカンだか知らないが
 そういう天に昇るためのマメの種を捜し回る
 狩猟採集経済時代の猿人は
 極楽浄土の雲上人になることを夢見て
 永久に古本漁りをしていればいいのだ。
 おまえには本しか見えず、人間が見えない。
 人間がみんな同じ仏様にしか見えない仏教徒、
 思想のおフランス症候群患者は、
 尊厳あるべき神聖な人名を冒涜して、
 ブランドに変えることばかりしている。
 ブランド服でしか人を判断しない白痴は
 そのやたらに買い漁ったブランド服を
 着こなすだけのセンスすらもないくせに、
 やたらとうるさく見苦しいだけである。
 ファッションセンスの悪い猿には
 馬子にも衣装という言葉の
 恐ろしい裏の意味すら見て取ることができない。
 このような白痴には是非共フランス現代思想などよりも
 遥かに叡智にみちたアンデルセン童話
 (特に『皇帝の新しい衣装』/いわゆる『裸の王様』)
 を読んでから出直してこいと命令する。

 幼年時代によい童話を読んだこともないような我殺な人間には
 永久に真の知識や教養というものは身につかない。
 その品性の卑しい素性は立ち所に化けの皮が剥がれるものだ。
 顔を見ればすぐに分かる。
 人相の悪い人間は必ずその心が卑しくねじけていて
 頭も悪いと相場が決まっている。
 成金や俗物の永遠に救いがたい目付きの悪い醜さは
 衣服や化粧や美容整形では消えない。
 そういう人間は信用されない。
 そもそも美学の何たるかを解しない。
 崇高の精神を欠乏したこのような亡者に
 死の宣告をもたらすのが美学者である。
 
 殺されたくなかったらとっとと消えろ。
 ジャック・デリダだと? 
 ふざけるな。そんな奴は知らん。

 無礼な人違いもはなはだしい話である。
 俺様は〈神澤昌宏〉という立派な名前をもった偉大な人間である。
 デリダなどというどこの馬の骨とも知れぬ
 そんなふざけた名前の奴は知らん。
 デリダって誰だ? 
 そんな奴と見間違えるというのはおまえの目が節穴だからである。

 しかし、これは〈他人の空似〉という
 やはり不思議なそしてより重大な出来事の話である。
 〈他人の空似〉はこれもまた〈奇妙な出会い〉の一種である。

 〈奇妙な出会い〉が起こるとき、
 人は〈運命〉の不思議な巡り合わせを感じるものである。
 或いは〈神〉の見えざる手の計らいを感じる人もいる。
 また逆に〈悪魔〉のぶきみな企みにみちた悪戯を感じる人もいる。
 どこかしら〈魔法〉めいたこの〈偶然の一致〉を聖なるものとするとき、
 恋人は互いに二度と決して離れぬことを誓うために
 〈結婚〉という契約の儀式を行う。

 《神が一つにしたものを誰も引き離すことはできない》
 という牧師や神父の言葉は、
 恋愛結婚する男女を結婚指輪の交換などよりも
 強く厳しく不可逆的に結び付けるものである。
 結婚は恋愛が成就する錬金術的瞬間である。
 甘美で世俗的な恋愛がこの瞬間、
 厳粛で神聖な結婚という出来事となって結実するとき、
 そこでは奇蹟が起こっている。
 〈神〉が誕生するのはこのときである。
 
 〈運命〉の不思議な〈巡り合わせ〉は
 確かに人間の認識能力を超える事態の出来である。
 この奇妙な出来事(Ereigis)は〈運命〉(Geschick)と呼ばれる。