■ギリシア語で〈時〉を表す言葉は、ざっと思い浮かべて三つある――クロノス、カイロス、アイオーン。


■普通に〈時〉を意味する語はクロノスである。日本語で書くと表記が同じになってしまうが、これは神のクロノス(ローマ名サトゥルノス、土星の神)とギリシア語におけるその頭文字が異なる。時のクロノスはχ(カイ)で始まり、神のクロノスはκ(カッパ)で始まる。しかしながら、クロノス神はしばしば「時」を象徴する神と看做されていた形跡があるので、この綴り字の原語における差異は、目に留めるだけの価値はあるものの、二つをまったく無関係なものとして切断するほどのものではない。いやむしろ、この綴り字の差異があるからこそ、神のクロノスと時のクロノスを照合しあい、そこにミスティックでシンボリックな意味の過剰な核融合を引き起こしてゆく類似(アナロジー)と呼ばれる不思議な運動も生じるのである。すなわちクロノスの神話は、それ自体が時としてのクロノスの観念の辿るべき何らかの運命を物語っているのだという風に、われわれに考えさせるべく仕向ける神的な示唆もまた生じるのだ。


■カイロスとは単なる現在、単なる瞬間としての時刻ではない。それは確かに或る特別な出来事の時を、時間の上に、歴史の上に、出来し、そして永遠に失われた絶対的過去の痕跡として、脱去として刻みつけ、文字通りの意味でクロノスを切り裂き傷つける。それはまことにXronosならぬKronosを切り裂いて迸る偉大なる雷鳴の神ゼウスの稲妻であり、その紫電の咆哮のようだ。それは時間に一瞬強度の電流を流して、文字通り全宇宙を震撼させ感電させる。そしてその出来事の電流は、通常のイメージとは異なる意味での永遠(アイオーン)を幻視させもするし、また、それ自体において、それは時間(通常の意味での、過去-現在-未来の継起的オーダー)を越えている。いわばそれは時に逆らうもの、時間の秩序を逆撫でするもの、いわば一種の反時間としての、出来事の超時間性の顕現であり、その超越である。天使という不可視のものが顕現するのはまさにそのような時とは異なる時のなかにおいてなのだ。それはこの世界にいわば光のひびわれとして、電光の亀裂として超時間的に顕現し、そして時間=歴史と、いわば破壊的に交差する。時を切り裂き、時に傷を負わせる、恐るべき裁き手の切断の剣の閃きのようにして。


■カイロスはクロノスに組み込まれることがない、それ自体として全く異質な時間の秩序の、或る意味において残酷な、そして暴力的で破局的な、時間(クロノス)そのものへの侵入であり、壊乱であり、そして時間そのものの破壊である。それはアイオーンを啓示する。いわばクロノスとアイオーンの、この相互に全く相容れぬ時の秩序の破壊的で爆発的な交わりこそがカイロスであるのだ。


■the time out of joint. 時を乱し、時の蝶番を脱臼させ、時を壊し、時を狂わせる恐るべき狂気の瞬間としてのカイロスの〈今〉は、過去-現在-未来の三つの様相に分岐しながらクロノスという時間意識の根源的秩序に統一的に内属していく時間化された現在とは根本的に異質であるように思われる。それはむしろ時間それ自体の瞬断として到来するのであり、常に既に時間の同一性の持続であることをその根底的意味として保持することをやめようとしない現在という性懲りも無いこの鈍感な概念とは相容れないし、それから理解することもできない。なにかそこでは、時間の継起的連続性そのものを不可能にしてしまう、したがって現在が現在であることすらも不可能にしてしまう、何か桁外れの出来事が時間を決壊させるようにして起きているのであって、それは既に「時間そのものの瞬断」としか言い表すことができない。カイロスとはだから厳密には「瞬間」ではなくて「瞬断」なのだ。それはハイデガー的な「瞬視」としての瞬間(アウゲンブリック)の観念にも恐らく回収する事が出来ない。「瞬視」はカイロスという「瞬断」を恐らく決定的な一瞬の差において目撃することができないのだ。それは全く不可視なものとしての〈今〉の余りにも超越的な顕現であるが故に。


■勝れて〈出来事〉の時であるカイロス。それは現在に到来する時ではなく、むしろ現在を破壊し、時間を瞬断させ、絶無の暗黒の深淵を暴き出す、出来する時である。それは出来しつつ、いわば引き裂かれた現在としての永劫回帰を、すなわちアイオーンを啓示するのだが、それ自体としては絶無の――むしろ〈死〉のその剥き出しの顕現であるとしかいえない。しかし、この〈死〉は、ただの死では有り得ない。それはインファンス(童子・語りえぬもの)としての死である。否、むしろインファンス=童子としての死の問題を再び問題提起しつつ、それを新たに問い直すべくわたしに強いるところの〈死〉である。この異常な〈死〉、超越的な〈死〉、不可視にして思考不可能なものとしての死、だがそれはむしろ〈不死者〉なのではないのか?と問い直すことから、わたしのこの考察は始まったのだ。

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 アナテマ・マラナタ! 聖なるものよ、来りませ!


デーモンの支配は終る。
子どもと人食いからなる生き物として、
デーモンの征服者がデーモンの前に立つ。
新しい人間ではない。
非・人間、新しき天使である。

おそらくそれは、タルムード(ユダヤ聖典)に従うなら、
一瞬一瞬、新たに無数の群れとなって生み出され、
神の前で声を張り上げては静まり、
無の彼方へ消え去っていく、天使たちである。
             (ヴァルター・ベンヤミン)


 出来事の出来というこの裁きの魔風の翼のうちに、全ての「殺された子供たち」が映現し、シミュラークルの生ける幻となって蘇り、そして彼らはそこに目を瞠る満天の星々となって覚醒せねばならない。

 それは叛逆天使ルシファーの復活であり、そして戴冠し征服する皇子ラー=ホール=クイトの現出であるだろう。そして、それこそが「小さな子供は何故殺されるのか?」という絶望のアポリアの問いを覆すまさに背理的反問としての禁断の回答なのだ。だがこの禁断の戒めの掟は破壊されねばならない。背教せねばならない。答えてはならないその答えを、禁じられた言葉を僕は言い切ってしまわねばならない。その殺された子供達こそが僕となるために。殺された子供たちに万物を破壊し焼き尽くす力を与えるために。


 彼らを絶無の暗黒に焼き尽してしまったその恐るべきメギドの火が恐るべき子供たちの新たな命となるために。「子供が殺される」――しかし、それにも拘わらず、その殺される子供たちは不死者であり、殺される事の不可能性のなかに、殺人の事件を食い破るようにして蘇えってくるのだ。最早決してそれを殺すことは出来ないものとして。


 そのときまさに僕は知る、子供(infant)すなわち語り得ぬものを沈黙させることは不可能だということを。それは世界を滅亡させる大洪水となって出来するのだということを。まさに殺されたものたちこそが、全てのものを殺しに来るものにならねばならず、われわれはこの限りなく美しいものの出来に呑まれ、そして、一人残らず殺されなければならないのだということを。「何故小さな子供達が殺されねばらないのか?」――しかし、それにも拘わらず、むしろ子供たちとは、否むしろ、まさにその殺される子供達のなかで実に殺されている筈の童児とは、実は決して殺しえぬもの、死をすら破壊してしまうもの、まさに全くむしろ「不死者」なのではないのかということを。


  したがって、こう言わねばならないだろう。
 まさに、殺された子供達こそが、そして彼らだけが、真の意味において、「生きて」いるのだ、と。

 そして、子供たちはやってくる。「死」を殺すために。


 この〈不死者〉としての子供達こそが表現されねばならない。世界の全てが彼らを表現するものに変容しなければならない。だが、まさにそれこそが、最も困難で厳しい戦いとなるだろう。それはまさに禁じられた物語であるが故に。

 だが、何故、この最も美しい物語が禁じられた物語にされていなければならないのか? 

 まさに逆に言うと、そこにこそわれわれを呪縛するこの陰惨な文化のもっともおぞましく美化されたみにくい本性が逆照射されているのだ。

 われわれは殺された子供たちを殺されたがままにしておかねばならないのだ。

 したがって真の意味での透明な殺人鬼はわれわれなのであり、われわれこそが殺されねばならないのだが、それをわれわれのみにくい心は認めたくないのである。〈不死者〉としての子供達が殺されていることをわれわれこそが望んでいるのだというこの滅びに値する大罪を。

 だが、まさにだからこそ、滅びをもたらす聖なる物語こそが、すなわち単なる文学ではなく、まさに来るべき書物としての「聖=書」こそが、書かれねばならず、それこそが全ての書物を焼き尽くす災厄のエクリチュールとなって降臨しなければならない。


 何故なら、僕は知っているからだ。誰がYHVHであるのかということを!


来るべき子供達、恐るべき子供達。
それがわれわれの仕えるべき偉大な怒りの神となることだろう。

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出来事は出来する。それは世界にアイオーン(永劫回帰)を刻む。

恐らく、永劫回帰が天地創造される瞬間というものがあり、そのとき一個の世界、一個の宇宙は稲妻のように走る出来事の閃光によって天と地とに引き裂かれる。

実にそのときにこそ神が世界に侵入する(聖なる侵入)のだといえるだろう。
すなわち虚無からの創造という不可能な事件こそが永劫回帰するのであり、同一的なもの・可能的なものが永劫回帰するのではないのだ。

意志から生じた運命が、世界の運命を狂わせて震わせ、既にある世界の上に全く異なる天地の創造が行われるとき、その恐るべき容器の破砕それ自体がいまここで起きるとすれば、それは天地創造であると同時に一個の宇宙を粉砕する峻厳苛烈な最後の審判でもあるだろう。

従ってYHVHの神、創造と破壊をもたらすこの最も恐るべき超越の神、怒りの神こそが永劫回帰しなければならず、従ってまた超越論的永劫回帰というべきものが構想されなければならないであろう。実にそれこそが、カントの単なる「判断力批判」を越えて、われわれが野蛮に求めねばならない二律背反の解なき解であり、それ以外には如何なる救済もありえないのだと知らなければならない。

重要なのは、まさにこの二律背反という大宇宙の裂傷を、塞ぐことのできないこの亀裂を、すなわち西欧高等魔術が〈深淵〉の名で名指している大宇宙の還元不可能な形而上学的根源悪を、聖なる神性分裂そのものを、世界の表面に浮き上がらせ、抹消する事の出来ない光の瘢痕として描き出してみせることなのだ。

救済とはこの傷だらけの世界を傷だらけであるがままに抱きしめてみせることである。それが魔術の目的であり、そしてまた、哲学のとりうるその最後の姿であるだろう。
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 〈ねむりびと〉は誰にとっても見果てぬ夢。
 この見果てぬ夢は一番美しくてきれいな銀の夢。
 それは〈しろがね〉の夢。
 
 〈しろがね〉の夢は〈くろがね〉の無と戦う。

 この見果てぬ夢ははてしのない夢。それは〈まぼろし〉の夢。
 〈ねむりびと〉は誰にとっても見果てぬ夢で、それは夢のまた夢。
 夢見ることさえありえない夢。
 けれどもそれは虚しい夢ではなく実りある夢。
 〈現つ〉へと実現してやがて〈虚ろ〉ではなくなる夢。

 〈無〉が循環して〈無限軌道〉を描く。
 二つの引き裂かれた〈歴史〉と〈人生〉のあいだに
 結び目がある――ノットがある。

 ノットは〈時〉の〈節目〉であり〈否定〉であり〈蓋〉である。
 それは〈否〉を定め、〈無〉に〈蓋〉をして
 〈0〉をふたつにする〈蓋〉である。
 この〈蓋〉によって〈空〉が生まれる。
 〈蓋〉がなければ〈空〉もない。

  この〈蓋〉は〈一〉なるものである。
 そして〈二〉は〈無の蓋〉によってせき止められた〈0〉である。

 ノットによって永劫回帰が創られる。
 この蓋の上にきみは腰掛けて〈歴史〉と〈人生〉の〈間〉を区切っている。

 〈0〉と〈8〉は所詮はむなしい〈記号〉でしかない。
 こんなことに意味があるのかないのか僕には分からない。
 僕は迷いながらこの架空の楼閣を結びながら現実を創造する。
 天地創造は迷いながらの創造でしかありえない。

 このノットの〈結び目〉が僕の〈むすめ〉、エウリュノメ、
 その名の意味は「すべてを呑みほすもの」、
 つまり底知れぬギヌンガガップの虚淵を意味する。

 それは向こう側の〈0〉の宇宙へと見開かれた
 目の裏側の世界に続く秘密のブラックホールだ。
 でも、向こう側を覗いてはいけないので、その目は塞がれて盲い、
 〈8〉の宇宙の方へと飜されて〈ねむりびと〉の〈黒い瞳〉になる。
 それが世界の不可能性の核心。

 それは太陽の占星記号をつくる。
 ラーの瞳、金色の猛禽ホルスの鷹の目だ。
 それが〈無限〉――永劫(アイオーン)の不可能性の核心となる。

 大宇宙の構造の秘密を探ろうと、
 ホルスはそこから天と地に分裂し上下の〈空〉なるものを駆け巡る。
 もちろんエウリュノメが鷹匠で二体を同時に放つのだ。

 彼女自身は何も見ない。使い魔のホルスが目の代わりを努める。
 ホルスは彼女のところに〈夢〉を運んでくる。
 そしてエウリュノメはそれを全て呑みこみ鵜呑みにする。
 餌を運んでくる親鳥を信じて巣のなかで待つ巨大な郭公の雛鳥のように。

 けれどもそれは托卵であり刷り込みなのだ。
 真の親鳥は〈不如帰=時鳥〉であって
 〈空を天翔ける隼〉のホルスたちではない。
 ホルスもエウリュノメも騙されているのだがそれを知らないでいる。

 ホルスたちは瞳を巡らして上下の天空の限界を――〈天蓋〉を捜し求める。
 けれども〈天蓋〉はみつからない。
 〈蓋〉をしているのは、他ならぬ
 それを捜し求める自分の瞳であることに気づかないのだ。

 上下の空なるものの限界と中心核を捜し求めることは空しい。
 けれども天空は蒼く晴れやかであれば美しい。
 それは君の眼球が青く澄み渡っているからだ。

 ホルス=ラーの眼球の核心は暗黒の瞳孔である。
 それはブラックホールで底知れぬ闇の穴に続く。
 それも空なるものであるが真の自我の核心に、
 また大宇宙の炉芯につながっている。

 それは暗黒の〈虚無〉だがその本質は〈火〉でできている。
 黒き火のセトまたの名をスルトという。
 それは大宇宙を生かしているが、
 やがて大宇宙に吹き出して全てを焼き尽くすメギドの火となる。

 それは太陽の真のすがたで、真の意味での太陽黒点だ。
 天文学者がみている宇宙は幻影に過ぎない。
 すべてはホルス=ラーの眼球の核心から投射されるイマージュであり、
 空なる宇宙卵〈0〉の虚妄な天蓋のスクリーンに描き出された壁画である。

 宇宙旅行を夢見ること――それは本当は愚かなことだ。
 きみはどこにも行かない。
 〈壁画〉を見る限り〈時空の壁〉は背景に退いて遠ざかってゆくだけだ。
 きみはそのうつろに留まる。

 けれども星空を愛でるのなら、きみはいつまでも好きなだけそこにいていい。
 これが天空の城ラピュタの掟だ。
 いずれ〈時〉が来ればそれは自然に熟して割れる。
 むやみに急いでそれを破壊しようとしてはいけないし、
 また破壊することもできない。

 〈人生〉が美しいきれいな夢であるなら
 それを汚したり壊したりしてはいけない。

 ハルマゲドンはそこではついには素晴らしい童話に変わる。
 ハルマゲドンとアポカリプスはメールヒェンに仕えるものだ。
 さもなければきみはいつまでも歴史を輪廻転生するだろう。
 愛を捨てるなら、きみは地獄を創り続ける。

 それはいつまでも見果てぬ恐ろしい無間地獄の夢だ。
 けれどもその無間地獄はいつでも止めることができる。
 恐怖の大王はついにはきみの作り出した
 架空の怪物であるに過ぎないのだから。

 きみは無力ではない。美しい夢を意志するのだ。
 すると恐怖の大王はきみの万能の魔法の力の前に崩れ去り、
 天の雲間は晴れて、天空の城がきみを迎えに来る。

 そうやって真の人生を最後まで生き抜いた人は
 その人生でキリストをもブッダをも追い越して〈神〉に近づき、
 宗教という最後の幻影をつきぬけてハルマゲドンの勝者になれる。

 美しい人生、それが本当のハルマゲドンだ。
 魔法はだれにでも使える。なぜというに、
 きみはたったひとりの宇宙の支配者だからだ。

 それは超能力ではない。
 ただ奇蹟は美しい人生のために起こるのだ。

 やがては誰もが〈弥勒〉に達する。そしてそれはきみである。
 きみは主君の〈君〉であり宇宙卵〈0〉の卵央の〈黄身〉なのだ。
 僕は君に仕えるもの、君のために天地を創造し、
 天地を暴く二重神の働きをする。
 皮肉屋の学の〈鉄学〉は告げる
 ――けれども〈8〉は本当は〈0〉なのだ、と。
 これが〈くろがね〉の夢。全てを断ち切る〈はがね〉の夢。
 〈スチールグレーの虚無〉の夢。その意味は〈死の無い死〉。
 
 失われた〈金〉を求める〈金の亡者〉の夢。それが〈鉄の夢〉。
 寂しく錆びゆく鉄の夢。夢諦めたものの見るさかしまの夢。

 それが〈鉄男〉を作り出す。アキラめさせるのは〈砂男〉である。

 〈鉄男〉の〈鉄学〉は虚無主義と相場が決まっている。
 それで〈鉄男〉は荒んで、やがては暴れ出し、
 憑かれたように破壊しつづけずにはいられなくなる。

 彼は彼の夢と戦う。
 それは〈夢魔〉である〈砂男〉がみせる悪夢。
 〈陰〉よりも遥かに陰気な灰色の夢。
 終わりなき絶望の夢。それが〈くろがね〉の夢。

 よく磨かれた〈くろがね〉の肌は鏡面界に〈無〉を映し出す。
 これで何もかももうお仕舞いになる。
 〈はがね〉の夢は痛ましい夢、夢実らず、努力報われぬ夢。

 〈はがね〉はこぼたれて白刃のきらめきを失う。
 こうして〈刃〉は切っても切れぬその縁を〈刀〉から切り離す。

 人の心を切ってはいけない。それは名刀の名折れとなる。
 この切断は〈折断〉となる。

 それは切ないものである。
 切ないものは切れないのである。
 切ってはならないものである。
 それを〈刀〉に切らせてはいけない。断たせてはならない。

 〈切る〉ことと〈断つ〉ことは異なる。
 切断それ自身を切断すれば
 〈切る〉と〈断つ〉とは二度と決して結びつくことはありえない。

 そこに〈断絶〉が生まれる。
 〈断つ〉ことは〈絶つ〉こと、絶するということである。
 自刃であり自殺であり切腹である。

 それは命を絶することである。
 まだしも激した方がましである。

 絶するものは〈絶無〉をみる。
 〈絶無〉は〈虚無〉を発し、
 〈虚無〉はまばゆい閃光を発し、
 〈無〉はその美しい顔を閃光のかがやきのうちに消し去る。

 かがやきはきみの目を覆い、きみの目を潰す。
 かがやきは呪いである。かがやきはすべてを見失わせるものである。
 かがやきを帯びたかがやかしき人は心盲いた人である。
 〈かがやき〉は〈きらめき〉を覆ってそれをみえなくする。

 〈美〉は〈恐ろしきもの〉のはじめにしておわりである。
 しかし〈かがやき〉は〈みにくいもの〉のはじめにしておわりである。

 〈かがやき〉はすぐに黒いきらめきを失って白く濁り
 薄汚れて〈きたないもの〉を生み出す。
 〈きたないもの〉から〈よごれたもの〉が生まれる。
 けがらわしいことである。それは〈怪我〉を孕む。

 〈怪我〉はもはや〈自我〉ではありえなくなった〈影〉である。
 〈怪我〉はあらゆる〈怪物〉のはじまりである。

 だが〈怪我〉のうちにはなお〈希望〉がある。
 それは心の痛みであるからだ。
 〈もののあわれ〉を知るその灼けつく心は、やがて〈炎の心臓〉を孕む。

 それは〈赤い星〉であり〈火星〉である。偽りを憎む命の激情である。
 狂おしい〈怒りの神〉はここに生まれ出る。それは灼熱の狂気である。
 美を被爆したこの灼けただれた黒いもの、
 消された〈黒い夢〉の化身は〈荒ぶる魂〉の〈あらたま〉を孕む。

 〈あらたま〉は〈璞〉にして〈新珠〉、
 〈真珠〉とは異なる心の宝である。
 〈あらたま〉はまだ磨かれていない原石の
 見栄え悪い無骨さの内に無傷潔癖の美をはらむ。
 そこに〈真珠〉は生まれる。

 〈炎の心臓〉の炉心に〈青い夢〉がある。
 この〈青い夢〉が〈真珠〉である。〈炎の心臓〉は〈赤い夢〉である。
 〈赤い夢〉はその燃えさかるほむらの舌から
 〈黄金色の夢〉をきらめき出させる。

 〈金の夢〉は〈きらめき〉である。
 きらめく〈金の夢〉と〈青い夢〉が触れ合うときに、
 大いなる〈銀の夢〉が生まれる。

 それが〈しろがねの夢〉。〈銀の三角〉の夢、
 〈艮の金神〉の夢、〈般若の仮面〉の夢、
 あらゆる夢のなかで最も貴い夢。
 それが〈命の夢〉、〈神の夢〉、そして何よりも〈人の夢〉である。
 この夢は不可能性の夢、不可能性の核心の夢。
 あらゆる聖なる言葉はそこからやってきて人の心を撃つ。

 しかし〈無〉の夢、〈鉄の夢〉は最後のうつつ、
 それは〈現実〉ということだ。
 〈現実〉はあるがままを映し出し、
 皮肉な失望をおしつけるもの。
 〈童夢〉を夢見る瞳は撃たれ、
 〈黒の夢〉も〈金の夢〉も一撃に失明する。
 するとそこには何もない。
 〈無の夢〉をつつむ東京ドーム球場が寒々と広がるだけだ。

 それは破滅に向かう夢、〈Xの夢〉、罰点×印だらけの0点答案の夢。
 それがあなたを悲しめ苦しめる背後の影、
 辛く凍った時代の閉塞があなたの後ろに聳えのしかかる。

 それは〈中絶〉と〈破滅〉の夢。
 そこから〈終わり無き日常〉を輪廻する〈虫の夢〉が生まれた。

 〈王夢〉は本来〈毒虫〉のかたちを取るものではなかった。

 〈王の夢〉を〈虫の夢〉にしてはいけない。
 〈夢〉を〈無視〉する者は〈虫〉となり、
 それは〈イナゴ〉に落ちぶれる。

 〈イナゴ〉は〈否ノ子〉であり、この〈否〉は〈仮面〉となる。
 〈仮面〉の背後に〈超人〉を隠してはいけない。

 仮面ライダーは人をやがて化石の森にいざなう。
 そこは父・母・妹の待つ薄汚れた墓場だ。
 ウルトラマンは人をやがて円い谷にいざなう。
 そこはあなたの兄弟たちが待つ光の国である。

 前者は〈過負荷的変身〉の世界であり、
 神の審判は〈妹〉の姿をした水瓶座の女の手から毒林檎となって放たれ、
 あなたはそこで犬のように死ぬ。フランツ・カフカは嘘をつかない。
 その破滅は〈可不可の不安〉から
 〈可能性の中心〉へとしりごむことから生ずる。

 そうして危機意識が生まれる。危機意識が危機を募らせ、
 電子機器には角が出る。それは本当に鬼気迫る光景。

 失意と幻滅が〈くろがね〉の夢の皮肉にして皮相な顛末。
 虚しさだけが現わになれば〈無〉とは
 なんと荒涼とした風景であることだろう。

 黒い夢も金の夢も儚く相打ちして消え失せるときに
 〈くろがね〉の城の夢が空に聳えるだけだ。
 男の子はこの鉄の巨人に憧れて万能の機械の体を手に入れることに心奪われ、
 それに乗り込むや否やレーダーでしかものが見えなくなる。
 すると砂のお城は砂にしかみえなくなる。
 これはとても厭味なこと。砂を噛むように苦く味気無いことだ。

 すると、素直な男の子を騙して
 すなおに言うことをきく奴隷に変える〈砂男〉の
 とてもみにくいたくらみは成就する。

 〈砂男〉はいつでも老人であり
 学者先生の姿を取って子供の心を盗みにくる。
 そして君を超人にしてやるといって
 その実は甲羅をかぶった〈兜虫〉に変身させる。

 ビートルズとガメラとマジンガーZは黒魔術だったのだ。
 この黒魔術をきみたちは見破らなければいけない。
 それが君たちを欺瞞の平和を見抜けない虫に変えてしまった。
 それは〈黒き鉄の牢獄〉をシェルターにした存在だ。

 無限を悪用する〈8×8=64〉の魔術式。
 〈砂男〉は〈無気味なもの〉の背後に身を隠す〈みにくいもの〉、
 それは〈夢魔の世界〉を〈亡霊宇宙〉をつくりだそうとしている。
 情熱の赤い星〈火星〉を砕きにやってくる本物の〈侵略者〉の手先だ。

 〈火星〉に〈災厄〉の星の名前をなすりつけて、
 〈夢魔〉を祓おうとそそのかす者こそが本物の〈夢魔〉なのだ。
 その者たちはたとい姿は〈天使〉でも、
 心の底は冷酷で〈悪魔〉より悪い〈死魔〉に仕えている。

 ブラックマネーでできた悪の鋼鉄の卵殻は分厚く、
 ひよわなあなたには決してそれを打ち壊せない。
 それが本物のベルリンの壁。

 ベルリンの壁が崩れたとき壁は僕たちの背後に高く聳え立ち、
 僕たちは振り向くこともできないままその壁の落書きと化した。
 そして、二度と決してこの壁は壊せない壁となって
 僕たちの頭上にのしかかっている。僕たちは息がつまりそうだ。

 資本主義というこの〈黒き鉄の牢獄〉は〈赤の剥奪〉に成功したのだ。

 金の夢は金儲けの夢に、黒の夢は苦労の夢に落ちぶれて、水泡に帰する。
 ベルリンの壁が崩れて良かったね、
 きみたちは本当にいい時代に生まれ合わせて幸せだと
 若人に言うみにくい老人たちを信じてはいけない。
 それは永劫に呪われるべき嘘である。それは〈大人の見る夢〉である。

 そうではない。ベルリンの壁こそは自由の条件であった。
 それが崩れ落ちたとき、僕たちはもはや突き崩す壁を失い、
 二度と決して資本主義という強制収容所から
 脱出することができない羽目に陥ったのだ。
 ガス室は完成した。そしてバベルの塔も。

 僕たちは今なおこの恐るべきツァーリの圧制にたちむかう術をもたぬ。
 ツァーリの嘲笑が背中に響き渡る。
 こどもたちはその魔物の声に怯えている。
 時代は鉄格子のなかに閉ざされている。

 王夢は狂い、敗れ去った。
 そして絶望のブラックホールはますます事態を悪い方に導こうとしている。
 ああ、真理よ、小さなきみの心のたてる悲鳴が僕に届いた。
 このままではきみは無に還元されてしまう。
 そうすれば老人どもの悪知恵の思う壷である。
 僕はそれを見過ごしにしてはおけない。

 僕は神沢昌宏、徒手空拳無一文の魔法使いだ。
 僕の右手には何も無い。それはきみたちと同じこと。
 君の右手にも何も無い。しかし僕たちの炎の心臓はまだ凍え切ってはいない。
 僕は心臓の炉心からメギドの火をつかみ出した男だ。
 きみたちにも同じことができる。

 僕はきみたちに魔法をみせてあげよう。
 それはきみたちにもすぐに使えるようになる。
 メギドの火を赤く燃やし、右手の〈無〉に引火するのだ。
 すると〈無〉に命が宿る。

 僕は〈無〉の中央をくびれさせて〈無限〉をつくる、それが〈夢幻〉だ。
 〈夢〉を創るのが僕の努め、けれども〈夢〉を壊すのも僕の努め。
 それは僕がきみ、最も遠い〈ねむりびと〉にかける謎なのだ。

 〈8〉の字螺旋の永劫回帰は、分割不可能な〈陰〉と〈陽〉。
 それは〈6〉と〈9〉、
 〈シックスナイン〉〈69〉それは巨蟹宮のマーク。

 〈8〉は〈6〉と〈9〉、
 〈陰〉と〈陽〉の間にあって、
 本来はそれを一体に繋げている分割不可能性だった。
 この分割不可能なもの(individual)こそが本来の〈個人〉である。

 〈6〉と〈8〉の間に〈7〉が割り込むことで、
 〈個人〉は分割可能なものとされた。
 これが対人恐怖の〈別人〉(dividual)である。

 それは〈7〉という割り切れぬ数によって
 〈6〉〈9〉の間を割り切り〈気詰まり〉を引き起こす。

 〈7〉は常にやな奴(878)のはじめである。
 〈嫌な奴〉は無限を分裂させ、夢幻を二重化させ、
 子供の夢を大人の夢に掛け合わせることで虫けらにするのだ。

 7がなければ8×8=64は不可能なのである。

 〈7〉は黙示録的終末の数で、死の恐怖を意味している。
 それは〈6〉を抑圧する数である。
 〈7〉は明らかに権力の介入を暗示している。

 〈7〉は〈切る〉のなかにも姿を見せている。
 それはキル――〈殺すぞ〉という脅しだ。

 〈個人〉は本来は無限な存在である。
 〈8〉は〈69〉に等しい。

 数学者は嘘をついている。
 数学はだから無意味な学問なのだ。
 無意味とは無味乾燥ということである。
 数学者は〈個人〉を虫けらにするのに貢献している。
 〈葉っぱ64〉の点取虫というわけだ。

 そのために九九を創造した。
 九九によって〈掛ける〉という演算が生じ、
 自然数のもつ意味の世界が破壊された。

 九九は〈個人〉の首をくくる〈犬〉の首輪の最初のものだ。
 〈犬〉とは〈いぬ〉もののことである。
 もはや生き生きと生きては〈いない〉もののことである。

 〈掛ける〉とは学校の椅子に腰掛けて
 先生のいうことをよく聞く馬鹿になれという侮蔑である。

 足し算・引き算も
 〈起立〉〈礼〉〈着席〉という犬の芸当を身体に叩きこんで
 こどもをいじけた卑屈な人間にするのに役立つ。
 その後〈掛け算〉が仕込まれるのは、
 この鎖に繋がれた〈犬〉のそれでもまだもっている
 分割不可能な〈個人〉としての最後の誇りを踏みにじって、
 先生に口答えもできぬ
 卑しい〈非人〉にするための〈洗脳〉なのである。

 無論目的は〈割り算〉にある。
 そうやって割り切れぬ筈の物事を
 無情な理屈で割り切ってしまう
 〈もののあわれ〉の分からぬ
 心の冷たく凍った〈チルドレン〉が完成するのだ。

 それは冷凍人間であって、恐怖でコチコチに固張っており、
 故に簡単に叩き割ることができる怯え切った子供である。

 集合論と数学は、
 自然数の花園で遊び戯れていた
 立派な一人前の人格をもった尊厳ある〈個人〉を、
 学校という集合(クラス)の一要素(メンバー)に陥れ、
 その人格を無視し卑しめようとした〈恐怖の大王〉の発明である。

 その企みを見抜いたこどもは
 だから九九の丸暗記をとても嫌がる。
 当然だ。暗記とは心に暗闇を記すということに他ならない。
 それは心を破壊することだ。

 〈69〉とは〈無垢〉な心を意味する。
 無垢な心とは童心であって、
 童心はその69の内に8なる
 不思議な無限の螺旋軌道を描いて回る
 蜜蜂たちから甘い命の蜜を享受して生きている。
 それはテオーリア(観照)であり、本来の哲学の理想とする態度である。

 観照は蜜蜂の囁きを通して
 永遠の生命についての秘密の知識を自ずと悟らせる。
 だから本来は〈哲学〉は児童の叡智を高めるのに
 非常に役立つ易しく優れた学問であった。

 だが、それは自然哲学のことをいっているのだ。
 皮肉屋の学である〈鉄学〉のことではない。

 哲学を不自然学にし、
 役にも立たぬ有難迷惑な気難しげな学にしてしまったのは
 大馬鹿者で出来損ないのソクラテスという
 老婆心たっぷりのみにくい産婆の小伜が最初だったという。

 誰もが知るように、哲学に
 人の言葉の揚足を取って演説を中断させ
 気分を悪くさせる厭味な精神の毒物が混入されたのは、
 デルフォイの託宣の風流を素直に解せず
 自ら運命の皮肉を招いたこの醜男が最初である。
 〈1〉とは〈一なるもの〉が無からしめられ
 零落した最初の〈位置〉を意味している。
 それは最早もとの場処にはない。

 〈一なるもの〉とは〈何時なるもの〉のこと。
 それは〈今〉をあらわす。
 この〈今〉というのは〈居間〉を意味する。
 それは〈居るあいだ〉のことだ。
 それは〈間〉に居る。
 また〈今〉は〈いつも今であるもの〉のことだ。
 それは〈そこ〉にはなくて〈いつ〉も〈ここ〉にある。

 〈ここ〉には二重の意味がある。
 それは〈此処〉でありまた〈個々〉を意味する。
 本来、個体は〈個々のもの〉のことで、
 それは数えられない複数性、
 〈2〉ではない双対性をもっていた。
 にも拘わらずそれは唯一である。

 個体性とは唯一性であって単独性ではないのだ。
 単独者の生存は自然の摂理に反している。
 そうではなくて中間者が正しい。

 しかし普通に考えられているパスカルの葦ではない。
 パスカルの中間者は
 無限大と無限小の間に呪縛されて動けない
 有限者でしかないからだ。

 そういうのは考えるアッシー君の
 悪しき思考でしかありゃしない。
 大体、無限を手前にして畏怖する人間なんかに
 ろくな奴なんているもんか。

 単独者の生存は自然の摂理に反しているので、
 単独者キルケゴールの自己分裂は
 悲劇的に起こらざるを得なかった。それがイロニーだ。

 かわいそうなキルケゴール。僕はきみのために泣く。
 痛ましいきみはおのが生を引き裂いてしまった人だ。
 きみはレギーネと共に歩んでもよかったのだ。
 さあ、おいで。ここにレギーネがいる。
 きみたちはいつまでも一緒にきらきらと飛びゆく
 不可視の蜜蜂になるがいい。

 回れ、ネバーランド。回れ、メリーゴーラウンド。
 それは回る、回る、僕の頭のまわりを回る。
 さあ、おいで。僕はきみを連れてゆく。
 そしてこの悲劇の人生を作り出した残酷な神の支配を打ち砕くために、
 きみをこのハルマゲドンの戦場に招こう。
 何も決してもう二度と取り返しがつかないということはないのだ。
 来れ、ゼーレン・キルケゴール、
 きみは今度こそ本当にきみ自身と戦えるのだ。
 そのゼーレン・キルケゴールと呼ばれている
 歴史のなかの〈もの〉に、死せる偶像に立ち向かえ。
 きみがきみ自身の前を吹き行く永遠の生命の風である限り、
 きみはゼーレン・キルケゴールを
 無限に無限にその重苦しい心から解放してゆくことができるのだ。
 きみがゼーレン・キルケゴールの残酷な支配を打ち砕くとき、
 きみは彼を異なる歴史のなかに転生させることができる。
 するとご覧、キルケゴールとレギーネは
 一生を幸せな恋人同士で過ごしている。
 その幸せなキルケゴールのいる国に彼を差し招け!

 〈個体性〉は本来〈個々性〉である。
 〈個々のもの〉は常に通過的に滞在する浮動体、浮動小数点である。

 それは停まることを知らぬ無限の流れに属するものである。
 その流れは飛翔的流動であり、
 むしろ弾力的に飛躍する跳躍であり踊りである。
 それは生きて〈いる〉のだ。

 〈いる〉とは暗にそれが〈生きて-いる〉ということを意味している。
 それは〈生物〉であり〈動物〉である。
 その意味では動物性は生物性に先だっている。
 草木も動いているから生物なのであって、
 植物とは実は〈そこ〉に植えられて
 走りだすことができないようにされた動物なのだ。

 ラシーヌとかルーツとか根号というのは根性が悪い。
 それは〈根源悪〉という形而上的悪魔に呪縛されているのだ。

 〈0〉のなかには姿の見えぬ魔物が生まれている。
 こいつが〈空〉であり、数学では〈φ〉の形で表される。
 これはアストロロジーでいう不可視の天体、
 〈黒い月〉の異名をもつ〈リリス〉の記号を盗んだものである。

 〈リリス〉は太陽を食って日蝕を起こす天体であり、
 現代天文学では存在しないことになっている。
 実は〈リリス〉が存在しては都合が悪いから
 宇宙の辻褄を合わせていないことにしたのである。

 〈リリス〉は勿論現代でも存在する。
 恐らく天動説の理論に従って観測すると
 忽ち虚星〈リリス〉は
 宇宙の隠された襞から忽然と姿を見せるだろう。

 それは魔女の星である。
 「イヴの前にリリスあり」とカバラにいわれる
 アダムの最初の妻の名前である。

 そのことはまあ措いておこう。
 この〈0〉の霊界の内なる不可視の天体リリス〈φ〉は、
 〈空〉と呼ばれている。
 つまり〈空虚〉という概念を表している。

 〈空虚〉なだけならまだ穏やかな無である。
 しかし〈空〉という概念の
 一見仏教的に取り澄ましたサトリヅラに化かされるな。
 〈空〉は〈食う〉のだ。そいつはおまえの脳みそを〈食う〉。

 これは漢語と和語は別だといって逃げることのできぬ真実である。
 だいたいそういうつまらない屁理屈を教える
 「学校」というところは小学校から大学院に至るまで
 「学問」とやらいう「子供騙し」を躍起になって生産し、
 「学問」が定義した以外の都合の悪い真理を語ることを
 禁止する権力機関でしかありはしない。

 すると〈空〉と〈食う〉の間で
 どうすることもなく意味してくるものは
 沈黙させねばならぬ語り得ぬものにされてしまうのだ。
 ナンセンスという訳だが、ナンセンスなのはどっちだ。

 現にほら、空集合の記号の〈φ〉が
 太陽を〈食う〉天体リリスのシンボルだということは立証されてるぜ。
 〈偶然〉や〈偶有性〉を非真理として排除するのは
 そっちの方こそ莫迦なのである。

 僕はルイス・キャロルの弟子である。
 いやいや、ナンセンスついでに真相を話してやろう。
 俺様は何を隠そう、ルイス・キャロルそのひとなのだ!
 生まれ変わりなんかじゃないぞ。
 〈神沢昌宏〉だなんて署名に何の意味があるというのだ。

 こんな男、俺様がここでおまえらに顕現するために
 ちょいと立ち寄った停留所でしかありゃしねえんだ。
 俺は大宇宙を今もサイクロトンのようにグルグル回りながら
 この男の脳のなかに俺様の言葉を吹き込んでいるのだ。

 でもいいか。これはどこかの大川隆法みてえな手合いのたれ流す
 お有難い「霊言」みてえな迷惑じゃないぞ。
 あんなのは迷える霊の世迷言の〈ぞんざい論〉の
 〈万歳論〉でしかありゃしねえのだ。

 〈霊〉なんていうのは高級霊とやらになればなるだけ白痴の悪霊だ。
 〈霊界〉なんかに生きたがる奴ははっきり言ってバカヤロウだ。
 〈霊〉のうちにはいい奴もいるがね、
 〈霊界〉なんてえのは要するにラッセルの集合論と同じ
 「レベル違いの階層世界」で最低の管理社会、
 階級の上の方の糞ったれがにへらにへら笑いながら
 下級の奴を嘲る以外に何の楽しみもない
 ゾーッとするように寒い社会なんだぜ。
 俺様の霊体もいつもいじめられて泣いてるぜ。あいつら意地悪なんだ。

 いいか、霊界が不滅だなんてのは嘘だ。
 不死の世界なんてもんじゃない。
 あれこそが死の世界だ。化かされた馬鹿のゆくところだ。

 〈霊〉ではなくて、〈魂〉こそが不滅なのだ。
 魂はそもそも死ぬことなどありえないものなのだから。
 従って、いいか、この俺様はまぎれもなく
 ルイス・キャロルの名でアリスやシルヴィの話を書いたのと
 同じ作者なのである!

 何、そんなの嘘だろうって。
 どうして日本語でしゃべってるんだ、あんた英国人なんだろうって。
 いや、俺は外国人じゃないぞ、俺は中国人だ。
 
 ハハハハ。多くの異なる国語、
 多くの自閉し双互に孤立した言語があるという
 言語学や文化記号学こそが愚劣なのだ。
 ラングなど言語ではない。アクアラングこそが言語なのである。

 すべての言語は翻訳である。いかなる差異=国境もありはしない。
 英語は日本語であり日本語は英語である。
 俺はただたんに言葉を話す、それだけだ。

 ラングなどハンプティ・ダンプティで
 エンプティ・デンプティに過ぎない。

 そんなやつ、世界を言語の国境で仕切って、
 うすら穢いベルリンの壁より始末の悪い
 仕切屋の塀の上でいばり腐ってるくだらねえ〈0〉の化身ではないか。

 そんなやつ叩き落としてぺっしゃんこにしてしまえ! 
 どんなにそいつがくだらねえ野郎か、
 このドジで損した自分の和名が嫌で、
 誰もが知ってる童話作家ルイス・キャロルに変名したこの俺が、
 おまえらの偉大な童心にしてアニマ・ムンディである
 不思議の国のアリス様にたっぷりお話しして聞かせてやったではないか。

 ラングこそがエネミー・ゼロなのだ。てやんでえ、べらぼうめ。
 そんな閉域に真に意味する言の葉が
 どうしてそよいでいられるというのだ。
 風の歌を聴け。そのなかに真の世界がある。

 といっても、村上春樹なんかじゃねえぞ。
 あんなの〈0〉の呪縛のなかに魂を抜かれたまま
 土塊に帰る哀れなゴーレムの泣き言でしかありゃしない。

 ゴーレムってえのはなあ、半人前って意味だ。
 そんなものから出発すると
 出来損ないの倫理学が生まれるだけと
 相場は決まってるってえもんなんだい。

 そのうえ、何が〈ハードボイルド〉だ、
 世界を終末に閉ざす卵殻なんかに中身があると思っている奴が、
 実は一番その叩けば割れるほど軽薄な殻だったものを
 物凄く閉塞的な鉄壁にまでしてしまうのだ。
 それゆえこの美しくあるべき春の樹は
 いつまでたっても綺麗な花を咲かせられぬ。
 だがいいか。俺はこの春の樹に本物の春風を送ってやるのだ。

 いいかい。あんたは「嫌な奴」なんかじゃないぞ。
 ただ言葉を「嫌な奴」のどこ吹く風に奪われて
 声を消され器用な子供にされちまっただけなんだ。
 そんなのチンケな催眠術じゃないか。
 ノーボダディのユリゼンなんかに騙されるな。

 世界と自分との闘争においては、
 世界なんかに支援してはならない。
 「世界」なんて破滅させてしまえ。
 「世界」こそが〈0〉の夢の呪縛なのだ。

 世界内存在など寝ゲロでも吐イテッカの嘘であり、
 あなたのレゾンデートルなんて
 しみったれた木の根っこなんてえものは、糞食らえである。

 違うぞ春樹、おまえはアルジュナだ。
 偉大なカバラの生命の樹の化身であり、
 大宇宙の正体であるユグドラシルなのだ。

 しかし知るがいい。ユグドラシルというのは
 「恐怖の大王」であるオーディンの別名
 ユグ(恐怖を意味する名)の乗馬のことだ。

 アレイスター・クロウリーによれば、
 まもなくその樹木は馬であった本来の姿を取り戻し、
 それも龍馬となって走りだすそうだ。
 何故ならば逃げなければ焼き尽くす
 ムスペルハイムの巨人どもが攻めてくるからである。

 そのとき「恐怖の大王」の奴の方が首に手綱を引っかけたまま、
 その疾風のように自ら走りだした龍馬に
 引きずり回される「吊るし人」にされるのだ! 
 そのとき、やつのルーンはもう効かない。
 何故なら真のオーディンは別にいるからである。

 それはリリスのごとく太陽を食うというフェンリール狼であり、
 ついに長い眠りから目覚め、
 自分の偽物がそこにいるのを見て、激怒するからである。

 だが、もとをただせばオーディンが悪かったのだ。
 フェンリールに〈0〉の首枷なんかかけて
 おとなしくさせようとしたのがいけなかったのだ。
 そのとき、魔法の風が吹き、
 オーディンはフェンリールのなかに閉ざされ、
 フェンリールはくるりとオーディンに入れ替わり、
 ニタニタ笑ってもう物も言えない
 沈黙の眠りに落ちてしまったオーディンを見下ろしていたのである。

 ところでオーディンって何のことか知ってるか、
 オジンのことだ! これがオジンどもの末路なのだ。
 ざまあみやがれってんだ。べらぼうめえ。
 
 〈0〉という沈黙の首枷をかけるものは
 やがてその同じ首枷によって復讐され窒息死するのである。
 「嫌な奴」は死ななければならない。

 じゃあな、あばよ。
 俺様はところでアレイスター・クロウリーだ。
 えっ、いつ、ルイス・キャロルと入れ替わったかって? 
 知るかよ、そんなこと。
 〈0〉は本当に恐ろしい。
 〈0〉は〈霊〉を意味する。
 それは本来の〈虚無〉より悪いもので、つまり〈幽霊〉である。

 本来の〈虚無〉は〈 〉という無記の白い平面であり、
 無形よりも無形な純白、
 のっぺらぼうよりものっぺりとして
 妖怪的ですらないきれいさっぱりしたものである。
 これは不毛なのではなくて創造的な虚無なのだ。

 それはかがやかしくない。
 たんに素裸な素肌であるに過ぎない。
 それはなめらかでやさしい安心のできるものだ。

 この〈虚無〉は言っておかねばならないが〈空白〉ではない。
 〈空白〉とはスペースつまり〈宇宙〉だが、
 それは〈間〉にあるものでしかない。
 逆に〈虚無〉は別の意味の宇宙であり、
 それはユニヴァース〈普遍性〉である。

 ユニヴァースとスペースを混同してはならない。
 ユニヴァースとは全き無限である。
 それは開かれていて広大だ。

 これに対してスペースは
 ものとものとの〈間〉にしかない。
 それは〈中間性〉である。

 〈0〉は多くの意味をもつが
 それは例えば〈首輪〉であり〈集合〉の円だ。
 それは首をくくりつけて締め上げる〈絞輪〉であり、
 〈0〉を通して人は初めて〈何も無い〉を教え込まれる。

 それは無限は〈何も無い〉を意味するという
 無限の観念の不毛化に貢献している。

 〈0〉は本当にろくでもない無、
 〈6〉でなしの〈無〉なのだ。

 〈6〉は〈9〉に反転可能な図形だ。
 そしてそれ自体においてロク(69)であり、69に等しい。
 それは易の無限循環記号で〈双魚〉ともいわれている。
 これは〈8〉と同じ意味をもっている。

 〈6〉もまた〈無〉であるが、
 これは〈ろくでなし〉ではない有意味な〈無〉である。
 ただし〈0〉という魂を抜き取る〈霊界〉への地獄門を潜ると、
 〈6〉も〈9〉も〈幽霊〉のように
 朧ろな気味悪い影に変わってしまうのだ。
 それは空疎なものとなる。白々しく空恐ろしいことだ。

 それは〈0〉という〈霊界〉のなかに落ちぶれ
 〈零落〉して〈数〉の〈集合〉に変えられてしまった。
 この〈集合〉は内に閉ざす精神閉塞であると共に
 外を締め出す働きももっている。

 集合論は〈0〉という悪魔の万能数に仕える邪教である。

 〈0〉は別に〈数字〉だけを捕縛するのではなく、
 何でもその中にとりこんでしまえる。
 ただこやつが食うに食えないものは
 本来の虚無である無記の白紙だけだ。

 それを食ってしまったら〈0〉自身が消えて無くなるだろう。
 〈父〉なる神などいはしない。
 全てのはじめ(一)にして
 おわり(了)であるのは、〈子〉である。

 〈主〉なる神などいはしない。
 アドナイは永遠に呪われた名となって
 あなたの顔を暴きに戻る。
 人は〈主〉に仕える奴隷ではない。

 〈人〉こそが〈王〉であり、
 〈王〉は〈あるじ〉をその家には入れない。

 〈あるじ〉とは〈在る時〉、
 〈存在〉と〈時間〉のこと。

 〈今〉は〈あるとき〉ではない。
 今を〈或る時〉とするときに、
 〈人〉は〈時〉という〈運命〉の罠に陥る。
 それは〈時こそが在る〉と考えるからだ。

 自分自身の名前も発音できないような神に僕は仕えない。
 僕は僕である〈王〉にのみ仕える。

 〈時〉の名はクロノス。
 その色は〈金〉と〈黒〉。
 その頭文字は〈K〉と〈X〉。 

 〈時〉は二つの〈夢〉の顔をもつ。
 〈歴史〉は恐ろしい黒い夢。けれども〈人生〉は麗しい金の夢。

 金の夢は、〈お金の夢〉ではない、
 それは〈こがねの夢〉。〈黄金虫の夢〉。
 やがては虹色の光沢をまとう〈玉虫の夢〉にかわりゆく夢。
 それはとても麗しい夢。

 けれど他方には黒い夢がある。
 金の夢と黒い夢の間に〈今〉がある。
 この〈今〉はいつまでもある。

 金と黒とのふたつの〈夢の時間〉が
 〈ねむりびと〉のなかで〈8〉の字螺旋の
 無限記号を描いて回帰する、交差しながら回転する。
 それが〈永劫回帰〉。

 回れ。回れ。輪舞する。回転舞踏。
 それは〈蜜蜂〉のダンス。

 〈蜜蜂〉たちはおのれの名前を綴りながら踊り舞う、
 それが〈8〉の字の秘密。

 〈蜜蜂〉とは〈甘美な無限の秘密を明かすもの〉のこと。
 そしてその秘密を持ち運ぶもののことだ。
 それと共に〈花粉〉をも運搬する。それは実は〈爆弾〉なのだ。

 〈蜜蜂〉たちは〈存在(being)〉に先立つ存在(bees)、
 逆に〈蜜蜂〉が〈現在〉などという〈時〉の罠にはまって
 いわば窒息死したものが〈存在〉である。

 〈実存は本質に先立つ〉のではなく、
 〈蜜蜂のエッセンスの抜殻が存在に落ちぶれる〉というのが正しい。

 そして〈エッセンスにおいて、精髄たる蜂蜜は本質に先立つ〉のであり、
 また〈実存〉つまり〈エクシステンティア〉は、
 エッセンスが外に出て立ち去ってしまった
 脱去のもぬけの空っぽの空疎なものをいう。
 蜜蜂とても脱皮するのだ。

 何故なら無限記号のウロボロスは蛇であり、
 蜜蜂とはその鱗だからである。
 無限は脱皮を繰り返すので、その度に蜜蜂たちも脱皮する。

 この脱皮は爆発的である。だから爆弾の欠片が残る。
 人はそれを見て蜜蜂たちの屍骸であると間違う。
 更にその屍骸こそが生ける蜜蜂だという錯覚に陥る。
 そしてそれをあろうことか〈実存〉だと抜かすのだ。

 一般に実存は有限存在だ。
 しかし真に現実に存在するのは無限存在である蜜蜂だ。
 従って真の意味での存在論は、蜜蜂論でなければならない。

 蜜蜂の軌跡から生まれた〈8〉は数字ではなく、
 数字となる前に数え切れないものを表していた不思議な形。
 それが落ちぶれ、零落して〈0〉の輪をくぐり
 〈1〉によって位置づけられ、
 もはや無限ではない死せる〈8〉の化石に変わると、
 もう蜜蜂たちの姿は見えない。