さて、先に「不可能性における〈神〉の顕現」において、わたしは次のように書いている。

出来事としての出来事はその最初の様相において純粋に見るならば、不可能性でしかありえないだろう。思考は驚愕する。思考は一瞬蒼白になり、その眼前の事態を理解することができない。最初に思考が発見するのは〈ありえない〉である。出来事は〈ありえない〉の衝撃によって思考の〈度〉(modus)を失わせる。
 そのとき思考は、出来事に能力を略奪され、無能力を、〈出来ない〉を体験させられている。思考にとって〈出来事〉とは〈出来ない事〉でありまた〈有り得ない〉ことである。それは思考にとって恐るべき超越的な力に屈服され、全身全霊を剥奪され、無力化される屈辱の体験であるだろう。〈出来ない〉〈有り得ない〉〈分からない〉、そのような茫然自失の態に陥って思考は出来事の内へと巻き込まれ拉致されている。思考の恐るべき無力への突き落としとして、〈出来ない〉〈有り得ない〉〈分からない〉という叫びとして、思考は確かに不可能性を体験している筈である。
 出来事は思考に現実を押付ける強制的な暴力である。それは馴致できぬ荒々しい野蛮な強姦的な魔力であり、超越としての超越である。論理学的には必然的に偽であることを表す不可能性の様相(modality)を伝統的に哲学は蔑視し続けてきている。しかし、思考にとって最も避けがたく恐るべき厳しい様相、超越的で深刻に真に現実的な様相は不可能性である。


 しかしそれは思考がその失った〈度〉(modus)を回復し、その〈規範〉ないし〈流儀〉(modus)に従って馴致化してしまうと、それが当初もっていたパセティックな野蛮さは見失われてしまう。
 そこで通常いわれる「様相」という概念は modality ないし mode という自己抑制=節制(moderation)的な思考主体の正気を保った態度に合わせて調律化されたものである。
 それは節度化され適性化された様相、手直し=修正された様相、態度変更(modification)された様相である。

 これはラテン語〈modus〉に派生する語源学についての単にペダンティックな皮相な戯れではない。
 そのように揶揄する卑しい習性の持ち主が余りに多いので予めクギを刺して言っておくが、わたしは語源学のことなどどうでもいいのであって、そのように受け取られるなら極めて心外である。
 語源学的類推は単に考察を進め、概念装置となる用語を獲得して論をできるだけ円滑明晰に進めるための参考的便法に過ぎない。
 わたしにとって辞書とは誰にとってもそうであるようなプラグマティックな道具である。
 わたしはむしろここで語の意味を創造し、独自の用法を開発している。
 探究する概念の核心はこのような仕方でしか獲得も把握もされはしない。

 わたしがここで確定しようとするのは〈態度変更〉の概念である。
 それは〈態〉を〈度〉に変更して中和化しようとする思考主体の自己節制的な身の立て直しの運動を意味する。

 〈度〉においてわたしはラテン語の〈modus〉に当たるものを押さえようとしている。
 しかし、これはわれわれが通常「度を失う」というようなときに失調せられるもの、恒常的で安定した自己の自己同一的かつ自己了解的な平常性を支えるものを意味する。
 〈度〉はそのような意味での自己の実感である。
 それは単に〈私〉であることではなくて、〈この私〉であることであり、この私がこれが私だと思うような意味での実感あるこの私であることである。
 〈度〉とはそのような意味で或る種の自己執着であり、しかしやや想像的な意味における自己への我執である。

 それはあるがままの私であることとは少しばかり違っている。
 そこには多少の緊張と努力が含まれている。
 それは自己の意志によって自己を固定し確定しようとするときの定点となるべきものであって、度を失った私はその定点に獅噛付きそこを起点に自己を自己のうえに立脚させて立て直そうとするのである。

 そこは私の核心とはいえないが、私の重心にして起点となる局所化されたトポスを意味する。
 つまりそれは自己の自己への主観的一致としての〈この私〉であることである。

 〈度〉は自己を目当てとしてそれに見当をつけ、自己をはかることを通して与えられるところの何かしら手応えのある自己を意味する。
 そしてこの自己を基準にし、単位にして他のものを推し量るときの様々な物差しとなる尺度としての自己をも意味する。

 〈度〉とはまさにこのこれだと思うような〈一〉なるもの〈同〉なるものである。

 そしてこれは量的な自己である。これを用いてわれわれは数を数え、回数を数えさえする。
 〈度〉はあらゆる量の基礎的なものである。
 それは基準量としての〈私〉であるといえる。

 〈私〉はあらゆるものの尺度であり、単位であり、反復可能な同一体である。
 それは再帰的に反復し、基本的に不変で自己同一のものでなければならない。
 この〈度〉としての私によって私は私より大なるものを測り、小なるものを測り、あらゆるものを私を通して私と比較する。

 プロタゴラスのいうように人間は万物の尺度である。
 万物の尺度となるためにはその尺度はあらゆるものに先立ってそれだけは自明に与えられていなければならない。そしてそれは普通にして中庸の所を得たものとして信念されなければならない。さもなければそれは測量の基準点として用を足さず役に立たないだろう。

 〈度〉はこのようにあらゆる知、あらゆる思考、あらゆる計算、あらゆる行為の精神的かつ身体的な自明性の自己出発のための起点となる、最初に与えられた単純なものである。
 それは〈modus〉としての〈modus〉、modality としての様相の根幹となる、様相の様相性それ自体、それなしには様相が思考にとって様相たりえないようなその必然性の中心、すなわち最初の自己規定を意味する。
 この〈度〉を通して modality としての様相は思考の自己抑制=節制的な自己規定であるこの〈度〉に適合するかたちで整序された様態で出来するのである。

  *  *  *

 〈態〉は逆にこの〈度〉に取り込まれる以前の、〈度〉を失った状態の混乱した自己に情動的に到来する野蛮な様相での様相、寧ろ情態性というのが相応しいような実存的な様相の様態を記述しようとするものである。

 漢語において「態」は心構えや姿を意味し、動詞として「うわべをつくろう」という意味をもっている。即ち〈度〉が自己において自己中心化しようとする様態を意味するのに対し、〈態〉は寧ろ対他的で外に気を取られ、やや度を失った様態を意味する語であるのだといえる。それは対他的な身構えを意味している。

 〈度〉は規準である。
 〈度〉においては規準は自己の内に置かれ、他がそれによって測定されている。

 しかし〈態〉にあっては規準はむしろ他の側にあって、自己がそれによって測定される己れを気にし、恥じ、或いは媚態し、或いは狼狽している。

 しかし、そうはいっても〈態〉は既に失った〈度〉への身構えの立て直しの態勢に移りつつある。
 その意味で〈態〉は動揺から既に立ち直りつつあるのであって、既に思考主体の自己再生のサイクルに入っているのだといってよい。

 しかしわたしは〈態〉の概念をもう少し拡張して用いたい。
 どのように拡張するのかというと、それを時系列的にいえばより前の段階まで含み持つような仕方で、つまりまさにうわべをとりつくろわねばならぬような他なるものに不意を突かれて度を失い、一瞬気をすっかりそれに奪われてしまっている自己剥奪の瞬間にまで遡及して用いるのである。
 つまり〈態〉とは〈度〉を失っている間のすべてを覆う。

 〈態〉は〈modus / modality〉とは異相にある出来事としての様相概念、ギリシャ語のパトス(pathos)に当たるものを押さえようとしている。
 このパトスとは〈病〉或いは〈感受〉という意味合いを持っている語である。
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 出来事は出来する。異相のわたしが交錯し、
 そして思考は、一瞬、〈度〉を失う。
 〈度〉において、失われる〈わたし〉があり、
 そしてまた、出来事から出来して、
 このわたしへと渡される〈わたし〉がある。
 〈わたし〉とは、或る意味で、
 むしろ〈渡されたもの〉としての〈渡し〉である。

 すると、いわば〈わたし〉の渡来性、
 渡来する風としての〈わたし〉の
 異風異貌の様相の問題が問われねばならないだろう。
 この渡来者としての〈わたし〉の形相は、確かに、
 破壊=触発する形而上学的〈風〉の出来事のうちわから出来して、
 わたしに出て来る出来者としての〈そのわたし〉の風貌である。
 それは、〈風〉から現れてくる、〈このわたし〉の新たな顔かたちである。
 〈わたし〉の渡来性はこのように
 〈そのわたし〉と〈このわたし〉を掛け渡す。
 それは、二つのわたしをあいわたって、
〈他ならぬ=このわたし〉と化する、
 いわば〈わたし〉と〈わたし〉の〈橋掛け〉としての〈渡し〉である。

 そして、実はおそらく、この〈橋掛け〉はむしろ掛け算であり、
 優れた意味での〈乗算〉である。
 そこでは〈他ならぬもの〉が〈このわたし〉に乗るのだが、
 それが〈このわたし〉の抑圧ではなく表現と化するときに、
 〈他ならぬ=このわたし〉はむしろ〈他ならぬ×このわたし〉として
 〈わたし〉へと解けるからである。
 それは〈わたし〉の交換=交差である。
 この〈わたし〉の橋掛けを表す交差の符号〈×〉を
 わたしは黙示録的語調において、〈Xのアーチ〉と名づけておく。
 それはエリクソンの極めて興味深い
 不可思議な小説の表題を記念するものである。

 この〈橋掛け〉は、同音異義語の〈端欠け〉と対照されねばならない。
 というのは、〈端欠け〉という端緒の欠如性は、
 むしろ逆に形相の消滅、すなわち〈形無し〉になることであり、
 逆にこの〈わたし〉の渡来性としての〈橋渡し〉を壊している。
 それは掛け算ではなく、むしろ割り算であり、
 むしろ恐るべき意味において、
 それは〈わたし〉を除くこととしての除算である。
 このとき、〈このわたし〉は〈そのわたし〉に出来しない。
 〈そのわたし〉が〈このわたし〉に出来しても、
 〈このわたし〉には何も渡されることがないからだ。
 譲渡は起きず、またわたしの交換=交差も起きず、
 むしろ〈わたし〉は奪われる。
 このとき〈Xのアーチ〉は、乗算の符号ではなく、
 むしろ否定の、罪と罰の徴、間違いと失敗の屈辱の徴、×印となる。
 〈端〉を欠いて〈形無し〉となったわたしはこのとき恥を掻く。
 〈恥〉とは、〈わたし〉の表現の失敗、その無様な失態に他ならない。
 
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 慨して出来事は人の身に起こる。

 勿論、物が壊れる場合などのように物の身に起こることもある。
 しかし、その場合でも、それは人の身に起こる出来事であるといえる。

 物が壊れるのを人は目撃する。
 目撃という仕方でやはり出来事は
 その人の身に降りかかってくる出来事であるのだといえる。

 自分に関係のある出来事、
 自分には関係のない出来事、
 自分に関係があるのかないのかよくわからない出来事、
 それが出来事であるのかどうかも定かならぬ出来事、
 些細な出来事、重大な社会的な出来事、極私的な出来事、
 人の人生にはさまざまな出来事が起こり、彼をよぎる。

 更に誕生という出来事、そして死という出来事もある。
 死ぬ場合、人は物のように破壊される。

 人の人生は様々な出来事によって出来ているといえる。
 生きている、存在している、それすらも出来事である。

 出来事はさまざまな様相で人に降りかかり、
 またさまざまな様相で人をそれに巻き添えにする。

 人は、というより〈この私〉という主体は、
 そのさまざまな出来事が起こるための
 舞台=場(トポス)であるといってよい。

 そして再び、死ぬ場合、
 舞台の上で舞台が壊れるという出来事が起こるのだといえるだろう。

 この意味において、あらゆる出来事はわが身に起こる。
 そしてまたこの意味において、
 出来事の横断と出来と通過が起こるトポスである〈この私〉は、
 さまざまな様相の出来事の出来を
 場としてあるいは基盤として支えながら
 そのさまざまなインパクトを蒙りつつ〈この私〉へと具体化してゆく。

 あらゆるさまざまな様相での出来事の出来は
 それと逆接する裏面において、
 〈この私〉の〈この私〉への
 やはりさまざまな様相での出来なのだということができる。

 換言すれば、出来事を通して
 〈この私〉は〈この私〉にさまざまな様相で浮かび上がるのだといっていい。

 更に換言すれば、
 あらゆる出来事はそれが起こるためのトポスとしての〈この私〉に、
 〈この私〉という別の、裏面的・背接的な出来事が起こる
 または起きるためのトポスでもあるのだといえる。

 〈この私〉は単にこの私であるだけではなくて、
 それをトポスとして起こる〈この私〉という出来事でもある。

 出来事としての〈この私〉はさまざまな様相で、
 さまざまな出来事と共にそれを通して
 〈この私〉=トポスに到来し、
 〈この私〉の身に起こって〈この私〉の身を起こさせる。

 出来事によって、〈この私〉に〈この私〉が起こるのだ。

 〈この私〉に〈この私〉が起こる。
 この出来事の裏側に回転する別の出来事は、
 自己同一性(私は私である)とは全く別の次元の問題であり、
 それと混同するべきではない。

 またヘーゲル的な意識の自己反省=反照、
 私の私への再帰的自己同一化の運動をわたしは語ろうとしているのではない。

 「私は私である」(自己同一性)や
 「私は私になる」(自己同一化)というのとは違う事態、
 寧ろそれらには還元不可能であり、
 またしかしそれにも拘わらずそれらに常に還元されてしまうために、
 その違いが見失われ、消去されてしまいやすい
 異なる事態を見据えようとわたしは努めているのである。

 寧ろわたしが語りたいのは
 「私である」(同定)のでも「私になる」(生成)のでもないような私、
 自己同定=存在の論理(存在論または認識論)にも
 自己生成=実現の論理(弁証法)にも回収出来ず、
 却ってそこから食み出てしまうような、
 どのような「私」にも還元不可能な「この私」のことである。

 この〈この私〉は、しかし、別に自己同一性を破壊したり
 分裂させたりするものでは必ずしもない(死ぬという場合を別にすれば)。

 例えば精神病理学や文学がよく問題にするような
 自我の分裂や二重(または多重)人格や分身や
 二重身や人格崩壊というような異常心理や
 実存的苦悩のことをわたしは語ろうとしているのではない。

 しかし、かといって『探究II』の柄谷行人のように
 それを「この私」の単独性とは違う
 下らない特殊性(特殊な「私」の在り方)に過ぎないとして
 却下的に切り捨てているのでもない。

 同様の規準に従って柄谷は
 無気味なものの他者性(「異者」といわれるもの)を
 「他者」から却下的に切り落としてしまう。
 わたしはそのような切断=除去は行わない。

 柄谷はこのように単独性と特殊性を区別するとき、
 実は彼が批判している筈の一般者の視点に立っている
 (無論そうせざるを得ないのは分かる)。
 そのことによって彼は単独性と特殊性をいわば「分類」してしまっている。

 或るものを
 クラス(類・共同性・一般)の中に含まれる
 メンバー(種・特殊)と看做すか、それとも
 それには内属=還元不可能な
 外部的・単独的個(唯一・単独)と看做すかという
 判断規準に従って、差別づけることは、
 ものを分類可能なもの(内)と
 分類不可能なもの(外)に分類することであるに過ぎない。

 ものをゴミバコに捨てることだって「分類」の一種なのだ。
 いや、それこそが普通の所謂「分類」を
 可能ならしめる可能性の中心なのである。

 わたしが問題にしようとする〈この私〉は
 柄谷が『探究II』で問題にした
 単独的な〈この私〉の問題と交錯するものである。
 またそれは別に殊更言い立てるほど異なる〈この私〉ではないともいえる。
 或る意味ではそれは殆ど同一のものですらある。

 だが、それにもかかわらず、
 わたしと柄谷の〈この私〉は
 どこかで決定的にすれ違ってしまう異相にある概念なのだ。

 柄谷とわたしとは差異の切り方が違う。
 そして恐らく柄谷のいうような単独的な〈この私〉もまた、
 わたしが考えようとしている〈この私〉を
 自己同一性や自己生成の再起的円環と同じように回収=消去してしまう、
 或る意味では一番厄介ではた迷惑な
 類同的代理物になりかねない代物なのである。

 しかしそれはまたわたしがいう〈この私〉が
 柄谷のいう単独的〈この私〉にも回収出来ず、
 却ってそこから食み出してしまうようなものであることを意味する。

 柄谷のいう〈この私〉は既に存在してしまっている存在者の様相、
 或る意味では事物のような様相において見いだされているといっていい。
 それはちょうどわたしの文脈でいえば
 トポスとしての〈この私〉の方にほぼ該当している。

 しかしむしろわたしが考察したいのは出来事としての〈この私〉の方である。
 〈この私〉に〈この私〉が起こるという出来事において、
 寧ろ重点的な主題となるのは、或る種のパトスとしての私の問題なのだ。

 柄谷は〈この私〉の問題を考察するとき、
 クリプキやライプニッツや九鬼周造を引きながら
 それを形而上学的な様相(modality)の問題に引張っていっている。
 そして彼はそれを関係の外部性(偶然性)の方向において解明してゆく。

 わたしも様相をやはり問題にすることになるが、
 展開の方向はそれとはズレたところにもってゆくつもりである。
 わたしはそれを不可能性という、
 偶然性とは別の様相概念に引っ張ってゆくのである。

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 単なる出来事と行為を峻別するものは何かについて、現代アメリカの分析哲学者ドナルド・デイヴィドソンは〈行為者性 agency〉という優れた概念を提出している。彼は次のように問うている。

 人の人生におけるいかなる出来事が行為者性(agency)を示すのだろうか。彼の生涯において生ずる単なる事件(happenings)と対比した場合、彼の行為(deeds)や彼のなしたことはいったい何なのだろうか。そして、彼の行為を他のものから区別する基準は何であろうか。
(ドナルド・デイヴィドソン『行為と出来事』服部裕幸・柴田正良訳 勁草書房 六六頁)

 デイヴィドソンの行為者性の問題提起が鋭いのは、単なる出来事と行為者に帰属する出来事(誰かの行為)を識別する場合にわれわれがよく陥りがちな次のような文法的錯覚を批判している点にある。

 個別化された出来事は通常、動詞(自動詞または他動詞)によって表現される。

 例えば「彼は走る」のような能動文の場合、主語「彼」が「走る」という出来事を行為たらしめる行為者=主体であるとわれわれは考える。
 また「わたしは彼に殴られた」のような受動文の場合、目的語「彼」が「わたしは殴られた」という「わたし」にふりかかった出来事を「彼」の行為たらしめる行為者=主体であるとわれわれは考える。

 そこからわれわれは能動文における主語や受動文における目的語を出来事の行為者であると考え、更にまた、主語もしくは目的語に行為者性を帰属させているか否かに応じて動詞を自動詞や他動詞に分類できると考える。

 しかし、能動文の主語や受動文の目的語として表現される主体が、必ずしも動詞で表現される出来事を支配する行為者であるとは限らないし、またそのような主体の有無によって単なる出来事から行為を識別することはできない。

 例えば「わたしは気絶した」は「わたし」の行為であるとはいえない。
 むしろそれは「わたし」の身にふりかかった事件(ハプニング)である。
 「気絶する」は自動詞だが、主体「わたし」はその動詞の行為者とはいえない。
 むしろその自動詞の受動者(事実上の目的語=対象 object)としかいえないだろう。

 また、実際には文で記述されるある出来事が、主体の創始した行為であるのかそうではないのかの識別が難しい場合が多い。

 デイヴィドソンの分析の鋭さは、上記のように明らかに主体と行為者が齟齬している場合を示している点にあるよりも寧ろ、この出来事と行為の境界の明確な線引きのできない曖昧さに注目する点にある。
 彼はこの出来事とも行為ともいいにくい曖昧(決定不能)な例を幾つか挙げている(彼はまばたきをした、ベッドから起き出た、咳をした、片目をつぶった、汗をかいた、コーヒーをこぼした、敷物につまずいた、等)。これらの事例においては動詞で告げられている以上の情報がなければ、それを行為か非行為(単なる出来事)かを判別することはできない。

 デイヴィドソンは出来事を行為たらしめる行為者性を識別する基準は何かを問いたずねる。

 彼が第一に発見するのは意図の有無である。
 例えば敷物につまずくことは通常は行為ではないが、わざと(意図的に)なされたのなら、それは行為であるといえる。しかしこの基準だけでは十分でないことを彼は直ちに認めている。

「意図は行為者性を含意するが、その逆は成り立たない」(ibid.六七頁)

 つまり、意図的になされたわけではなくとも行為と看做されるものがある。

 デイヴィドソンはそれを間違いや失敗や誤解に見いだす。
 例えば計算間違いは通常意図的行為ではないがそれでも行為である。
 誤りを犯すこと、しそこなうことを意図してそうする人間はいない。
 デイヴィドソンは皮肉めいた言い方で「フロイト的なパラドックスを除けば」と付け加えるのを忘れない。

 実はこのことは少々興味深い。
 フロイト流の説明としてよく知られるものに「うっかり」は実は無意識的な「わざと」だというものがある。例えばうっかり傘を忘れるとは、実はそれを口実にしてその傘を忘れた場所にもういちど来たいからなのだが、その欲望は抑圧されて意識化されていないだけだ、とか。書き間違いや言い間違いにも、無意識的欲望の暗示的ないし象徴的な意味表現をなしているのだ、とか合目的的に何でも意図が達成された主体の行為だとしてしまう超論理である。
 これが極端化するとユング的なシンクロニシティの世界になってしまう。

 つまりあらゆる出来事の背後に意図があり、それは何者かの行為となる。
 出来事と行為の区別はつかなくなり、すべての出来事は意図的行為となる。

 するとその意図をわれわれは発見(想像)しなければならなくなるし、また、行為者を見いださねばならなくなる。
 
 よく陥る錯視の陥穽だ。
 宗教はここに発している。

 つまり、われわれはあらゆる出来事を神という行為者の行為(神業)と看做し、更にそこに隠された意図(神の意志や経倫)を深読みすることになる。
 更にこれが極端化するとパラノイアの世界になる。

 デイヴィドソンが最初に批判した主体と行為者の同一視をここでやってしまうならば、つまり〈わたし〉は〈神〉なのである。

 意図が成就する。

 例えば、死ねばいいと呪っていた奴が、事故死すると、それはわたしが神のごとき超能力によって殺したのだということになる。

 或る場合には、これは非常に精神衛生によいことである。
 しかし、憎んではいたが死ねばいいとまでは思っていなかった奴が死んでしまったとしたら、不幸な動揺がやってきてしまう。

 それは良心の呵責となり、自己破壊的な結果をもたらす。
 あらゆることを己れの意識せざる意図の成就であると解釈することは、己れを神にするが同時に悪魔とも看做さねばならないという怪奇な結果をもたらす。
 なにもかも自分のせいだと思い込み、憂鬱で絶望的で不幸な自虐的メシアコンプレクスに苛まれ苦しまねばならない。

 ドストエフスキーはこの世界を見事に描ききっている。
 例えばイワン・カラマーゾフの悪魔はその種の超論理の徹底から生じてくるものである。

 自分が手を下した訳でもないのに、イワンは憎い父親が殺されたことを、まるで自分が犯した罪であるかのように恐れ苦しむ。
 イワンは愚かである。
 憎んだだけで人は死なないし、そのことを自分の咎にして心を責めるべきではない。
 彼は全く無罪であり、悪人ではないのだ。
 逆に自分を悪人だと思う程に感動的な善人なのである。

 イワンは悪魔的な人間ではなく、清純な優しい人である。
 紛れもなく彼はアリョーシャの血を分けた兄なのである。
 イワンの狂気と苦悩は愚かしいが偉大である。
 しかし、まさに彼のような人のためにこそ神は必要なのだ。
 アリョーシャが狂わないで済むのは神を自分と切り離すことができるからであり、また、神を信じることができるからである。

 わたしは意図的に脱線した。
 これは別に書き間違いではないのでわたしの行為である。
 後にこの逸脱の方位の奥にあるものを問題にする意図があってしたことである。
 しかし、わたしは再度デイヴィドソンの論に戻らねばならない。

 デイヴィドソンはフロイト的な方向には訣別している。
 しかし、にもかかわらず、彼は別の仕方で、誤りを犯すことをも意図的行為のなかに回収しようと努力する。
 誤りは確かにそれ自体としては意図的ではないが、別の意図的行為の中に含まれることができ、それを通して、行為者性をもつものと考えることができる。彼は言う。

 このことを理解するためには、各々の場合において誤りを犯すことは何か別のことを意図的になすことでなければならない、という事情を知るだけで十分である。たとえば、読み間違えることは、望まれていることを達成しないとはいえ、読むことでなければならない。命令を誤解することは命令の解釈である(しかもこの場合、命令を正しく理解しようという意図を伴っている)。計り違いはやはり計ることであり、計算違いは(うまくいかない計算ではあっても)なお計算なのである。(ibid.六八頁)

 デイヴィドソンは更に考察を進めて「ある人がある行為の行為者であるのは、彼のなすことを意図的であるのように見せる相の下でそれを記述しうる場合である」と言う。
 このとき、彼は行為主体の内面的意図が実際にどうであるのかにもはや関わりない次元に脱出していることに注目しなければならない。

 彼の観察は外面的である。
 外面的にある行為を行為者と看做される人物が意図的にそれをやっているように見えるときに、行為者性は発見されている。
 過ちや誤りについての考察が、デイヴィドソンを意図の有無(行為者の内面)から意図的であるかのように見せる相(行為者の外面)へと連れ出す。

 この解答を可能にしているものは、意図の帰属に関する意味論的な不透明さ、すなわち内包性である。ハムレットは垂れ幕の後ろにいる人物を意図的に殺害するが、ポローニアスを意図的に殺害するわけではない。しかし、ポローニアスこそ垂れ幕の後ろにいる人物なのであるから、垂れ幕の後ろにいる人物をハムレットが殺害することは、彼がポローニアスを殺害することと同一である。それ故、意図的な行為のクラスというものが存在する、と想定することは誤りである。もしこの誤った仮定を採用するならば、同一の行為が意図的であると同時に意図的ではない、と言わなければならなくなるであろう。(ibid.六八~九頁)

 デイヴィドソンは、意図の帰属によって行為者性の基準を明瞭にすることの困難さを、しかし、このことによって発見している。

 行為者性の基準は、意味論的には内包的であるのに、それは不透明で曖昧であらざるを得ない。
 これに対し行為者性の表現の方は、全く外延的な性格をもっている。
 そのことから彼は「行為者性の概念が意図の概念よりも一層単純で基礎的である」ことを発見する。

 そこから彼は意図の概念によらない別の行為者性の基準を探求してゆく。
 そこから彼は因果性の概念によって行為者性の基準をとらえようとしてゆく。
 即ちある出来事の原因として行為者を見いだそうとしてゆくのである。
 それは、意図(目的)によってではなく原因(責任)として行為者を発見して行こうとすることである。この両者の間にはおおまかな対称性がある。

 意図の帰属は典型的には弁明と正当化であり、行為者性の帰属は典型的には非難、ないし責任の所在である。もちろん、この二種類の帰属は違いに排除しあうものではない。なぜなら、ある行為がなされた際の意図を述べることは、また同時に、しかも必然的に、行為者性を帰属させることになるからである。(ibid.七一頁)

 しかし、ここにおいても興味深い難問が出来する。
 出来事因果性(event causality)と行為者因果性(agent causality)の差異の問題が発生してしまうのだ。

 出来事因果性の場合、つまりある出来事Aが別の出来事Bを惹起する場合、AはBの原因と看做すことができる。出来事の因果の連鎖はこの方式で連続的に創ることが出来る。

 例えばムルソーがピストルを撃つ(A)。弾丸がアラブ人に刺さる(B)。アラブ人は死ぬ(C)。

 この場合は、Aという出来事がB及びCの原因であるとみることができる。

 だが、Aにおける行為者ムルソーと原初的(primitive)行為との関係(行為者因果性)を出来事因果性の論理で解明することは出来ない。
 それは行為者と出来事を混同してしまうことになりかねない。
 だが行為者と出来事は明らかに違う概念である。
 如何にして出来事は行為となるのかに行為者因果性の論点はある。

 もうひとつの不都合は、上の例でいうと、「ムルソーがピストルを撃つ」という出来事Aに「アラブ人は死ぬ」という出来事Cの原因を責任追及できたとしても、行為者ムルソーを「アラブ人を殺した」行為の責任者としてつかまえることができなくなってしまうという点にある。

 Aという原初的行為は行為者ムルソーの行為であるとしても、出来事(結果)Cはムルソーの行為とは看做せないのである。

5.再帰文と直接性

 再帰文は能動文と受動文の境界を曖昧にぼかしていってしまう。
 それは能動を受動にすりかえつつ、受動を能動にすりかえてしまう、意味のめくらましの幻術である。

 再帰文と同様の意味論的曖昧さを持つ言葉の文〔アヤ〕は日本語にもある。
 助動詞「れる・られる」は自発・可能・受動・尊敬のいずれにも用いられ、文脈をみなければそれがどの意味で使われているのかを判定することが難しいことがままある。

 しかし、わたしの考えでは、「れる・られる」の意味論的不明性は見かけ倒しのものである。
 そしてそれはフランス語の再帰動詞の作り出す奇妙な円環構造、能動から受動へ受動から能動へと方向転換的に主体の位相及び意味の様相をシフトし切り換えるループの構造と本質的はさほど異なるロジックをもっているとは思われない。
 「れる・られる」のロジックと再帰動詞のロジックは共通なのだ。

 フランス語の再帰動詞(「se+動詞」という形をとる)の場合、現実態としてのアクチュアルな出来事が、日本語の助動詞「れる・られる」の場合、潜勢態(可能態または能力)としてのヴァーチャル(仮想的ないし名目的)な出来事が、それぞれの主題になっているという見方が成り立つ。

 このように出来事自体における現実態・潜勢態という生成実現論的な様相性の相異はあるが、それを今は取り敢えず括弧にいれ、出来事とその帰属という観点から捉えるなら、両者に通底する共通のロジックを浮彫りにすることができる。
 そこで、基本的になるのは現実態としての出来事の帰属に関わる再帰動詞の方である。

 まず再帰動詞のロジックから解明してゆくことにしよう。
 再帰動詞では「みずからを~する」と「おのずから~になる」が相互に交換されている。

 再帰動詞における再帰代名詞が表現しようとしているものは、単に文の主語の位置に表示された「わたし」や「彼」との同一性であるような「自己」「自身」「自分」であるのみならず「自然」をも意味する。

 再帰代名詞は文法的には人称代名詞かも知れないが、意味論的な機能からみればむしろ副詞である。
 そしてこの副詞はちょうど漢語の「自」が表現するような直接性の様相(みずから・おのずから)を表現している。
 それは、通常普通にいう能動性・受動性の分節に先立つ直接性・自体性の様態を示しているのであって、能動的でもなければ受動的でもないということができる。

 「わたしは自ら赤くする=わたしは自ずと赤くなる」は、わたしが能動的・自発的に赤化することでも受動的・他動的(使役的)に赤くなることでもなく、わたしが直接的に赤くなること、直ちに赤くなること、それ自体として赤くなることである。

 わたしはここで様相論理学でいう偶然性・必然性・可能性・不可能性の四つのモードに節分けられた様相分割とは別に、しかしそれと密接に連関しつつ重なり合うものとして能動性・受動性・直接性・間接性の四つのモードに節分けられた様相分割が、朧げに見えてきたことをここにノートしておく。
 様相のこの二つのカルテットがどのように連関するのかは非常に考察意欲をそそる思考課題ではあるが、それは後に譲る。

 漢語の「自」は「自己」「自然」「自由」に跨がる文字=概念象形であるが、「みずから・おのずから」の両義性においてその直接性を能動性と受動性へと分岐させている。

 「自」の能動相が「みずから」でありそれは「自分で」という副詞的位相での意味転化を通じて「自己」の概念に通じてゆく。
 他方、「自」の受動相が「おのずから」でありそれは「ひとりでに・自然に」という副詞的位相での意味転化を通じて「自然」の概念に通じてゆく、と一応そのように見ることができる。

 しかし、「おのずから」には「ひとりでに・自然に」というのとは別の意味の方位があることを見落としてはならない。
 それは「もともとから・元来」という意味の次元ももっている。

 恐らくそれはわたしが直接性との対比において仮に「間接性」と名付けておいた動作性の第四の様相概念に関わっている。
 そして、わたしの哲学的直観では、それはまた「自由」の概念に恐らくは細く暗い路を通って通じてゆく何かをもっている。しかしこのことはまだ明瞭とはなっていない。

 漢語の副詞「自」の第三の意味は、「自」の前置詞としての用法「自り[より]」に関連している。それは場所や時の〈起点〉を示す言葉で「~から」という意味である。
 つまりそれは出自・起源・由来・来歴に関係している。
 転じてそれは原因や過去や根拠や理由や基礎や開始や出発点に繋がる。
 自由とは自己理由であると解するとすれば、それは直接性の「自」がみずからよりの離れ去りとして間接相へと転化してゆく過程で、その概念の起源を与えるのだという風に、まだ苦し紛れな言い方ではあるがそのように語れなくはないように思われる。

 「自」は元々、人間の〈鼻〉を描いた象形文字である。
 人は「私が」と自己指示(自己言及)するとき鼻を指すことから、この他者の面前での自己言及行為から転じて「自分」という観念を意味する語に用いられるようになったという。
 このよくある語源説明は示唆に富んでいる。

 自己言及性は自己の概念形成に先立ち、しかもそれは他者の面前で他者のために遂行された対他的行為だったのである。

 他者に対して己れを〈ここに〉と示す指示行為、つまりダイレクト(指示的・方向的・直接的)な行為として自己言及性のループは作られ、更にその後で、その自己言及性をトポスとして、そこに〈自己〉の観念が産み落とされたのであると考えることができる。
 自己言及性は単なる主観にとっての自己対象化ではない。そうではなくて、それは単なる多くの場合のありえるなかでの指示行為の一例であったのに過ぎない。

 わたしに〈この私〉ということを教えてくれたのは、わたしが彼に対して〈私〉を〈この私〉として示さざるを得なくしてくれた他者であり、他者からの視点である。
 他者はわたしを見る。その他者にわたしを〈この私〉として教えるためには、わたしはたとえそれが不可能であるとしても、その他者の視点に身をおいて己れを指さして「それはこの私です」と示さざるを得ない。

 わたしはそのときに他者がわたしを見ることが出来るような(可能的な)仕方(モード)において〈私〉を〈このこれ〉化するのである。
 このとき他者は、わたしにとって、わたしの他者でも有り得る可能性、換言すれば、他者の可能性であり可能的他者としてわたしに起こった出来事であるといえる。
 しかし、そのときにわたしは決して現実的に他者であったわけではないし、他者であることの現実的な不可能性に直面していた筈である。

 しかし、この他者ではありえないこと、他者であることの不可能性は、必然的な出来事である。
 わたしは他者であることが出来ない。
 それは単純に「他ならぬ」という意味での存在論的非他性とは混同されてはならないような「他ではありえない」という不可能的=必然的な意味での非他性の体験である。

 通常凡庸な思考が考えるような非他性は単にその裏面が同一性(自己性)に密着的に接している表裏一体のものであるに過ぎない。
 つまりそのような意味での「他ならぬ」は簡単に「私である」に裏返るような代物であるに過ぎない。

 このような非他性は殆ど非他性としての独自の意味さえもっているとはいえない。
 このような非他性は同一性と対立的な局面に立つことさえできない。
 非他者は即ち自同者なのである。
 色即是空・空即是色と安っぽいお題目に唱えられるような〈即是〉としての即自性(自体性)、つまり単なる直接性には、〈即是〉(即ち是れ)のなかに名目的に唱えこまれている〈これ〉の本当の難解さが消されてしまっている。
 行為(action)も当然、実体=主体の身に起こる出来事であるが、実体=主体はその身に起こる出来事をその自己から自発的にまた能動的に創造的に出来させことを通して行為の遂行者である行為者となるのだといえる。

 行為者とは出来事を行為化することによって出来事を支配する者のことである。
 すなわち、その身に起こる出来事をその身から起こした出来事へとその出来事が起こるのに先立って転回することによって、つまり出来事をそれが起こることに先立って原因的に己れへと引き受け、己れをその出来事の原因としつつ、出来事を結果させるものを行為者ということができる。

 実体=主体の身に起こり彼に帰属する出来事として、われわれはざっと属性・偶有性・様態・行為を一覧的に数え上げた。

 しかし、実体=主体の身に起こる出来事はこれだけではない。
 われわれは一つの大きなものを見落としている。それは反応(reaction)である。

 反応は行為の裏面をなしているが、行為よりもその裾野は大きい。
 そして反応は行為よりもはるかに多く頻繁に起こっているものである。

 出来事は人間を触発(affect)し、さまざまな反応を惹き起こす。
 そして反応自身が出来事である。
 それはまさに実体=主体の身の上に現に起こっている進行形の出来事である。

 行為(action)の能動性(activity)に対し、反応は受動性(passivity)であるといえる。
 しかし反応は能動的でないとしても活動的(active)でないとは必ずしもいえない。

 反応は行為とは明確に異なった、多くの場合対立的・対照的に語られることの多い、主体の動作または活動性の二様態であり、行為が能動的運動ないし能動態として自己原因的である一方、反応は受動的運動ないし受動態として自己結果的である。
 また、前者において自発性や積極性が語られる一方、後者においては他動性や消極性がよく語られる。

 また、論理的な様相性で見ると、行為化した出来事は主体にとって可能的=偶然的である。つまりそうしないことも出来る、他のことをすることも出来るという、他の場合・無の場合を可能性(有り得ること)として、選択の余地として行為者(主体)は自己のうちに保持しつつ行為する。

 しかし、反応の場合は、反応者(主体)はそのような選択の余地を自己のうちに持ってはいない。
 反応化した出来事は主体にとってそうする他にないものである。
 つまり不可能的=必然的な様相(様態)において、主体はどうしてもそうせざるを得ない、しないではいられないという衝動に駆動され、そうすることしか出来ない、その他のことはすることが出来ないという仕方で、反応行動の運動に引き込まれていっている。

 行為は創造的で自発的な運動様態であるのに対し、反応は生成的で受容的な運動様態である。
 行為が何かを〈する〉ことであるのに対して、反応は何かに〈なる〉ことであるといってもいい。

 例えば、何かを赤くすることは行為であるが、赤くなることは反応である。

 しかし、例えば、「自らを赤くする」というように、再帰動詞的な表現で運動が語られる場合、「赤くする」という行為はそのまま「赤くなる」という反応に切れ目なく連続していってしまう。

 再帰動詞的表現はフランス語などに特徴的に多く見いだされるものだが、そこでは動詞が表現している動作が、一体、自動詞的なものなのか他動詞的なものなのか、能動的なものなのか受動的なものなのか、これは行為なのか反応なのかが渾然として識別不能の状態に陥るのである。

3.様相と様態

 さて、四値的な様相論理学的な様相概念としての偶然性(contingentia)と属性(可述語)の主語=実体に対する本質的/非本質的(真/偽)帰属を問う二値的な述語論理学的な概念としての偶有性(accidentia)は確かに思考のモードにおいては異なるが、意味のモードから見てゆくとそれほど異なる概念であるとはいえない。

 主体=実体から独立的である純粋な様相=出来事である偶然性(contingentia)が、主体=実体の属性としてそれに帰属される(内包=性質化される)とき、つまり様相が実体の様態として形態的に徴表されるとき、それを偶有性(accidentia)といっているだけのことなのである。

 偶有性とは事物の或る属性において発見された偶然性であるに過ぎない。それは事物に偶然的な様相において帰属させられた様態のことである。

 様態とは実体において形態化または事態化(現勢化)された様相、実体の自己表現に転化した様相であるに過ぎない。

 様相と様態の違いは、その帰属先が動詞及び補語で表現される述語的事態=属性(様態)であるか、主語の位置に置かれた実体であるかの違いであるに過ぎない。

 つまり簡単にいうと、様相は動詞や形容詞の形で表現された属性(~である事)修飾する「副詞」(adverb)であるのに対し、様態は名詞の形で表現された実体(あるところの物)を修飾する「形容詞」(adjective)なのである。

 様態は実体に直接的に帰属することによってその実体を直接的に形容する属性となる。
 他方、必然的・偶然的・可能的・不可能的という様相概念は普通副詞的であって、出来事や行為や属性や様態に直接的に帰属しつつ、実体にはそれを通して間接的に帰属するか、或いは全く帰属するとはいえないかのいずれかであるといえるだろう。

 しかし、それが何かに付け加わった性質であって、それ自体としては何か他のものに帰属しない限りはありえない、つまり〈そのもの自体〉が決して自立的・実体的には現勢化しえないという点においては様相も様態も同じなのだ。

 様態も様相も出来事の状態を表現する形容であり、形容としての副次的な出来事の出来であるということができるだろう。
 そこで、例えば「赤い」「四角い」という状態は、実体として発見された事物に帰属するから「様態」と言われる。また「明るい」「近い」「速い」という状態は、そこにある実体的な事物には帰属させることはできず、それを離れた出来事を表現するから「様相」と言われる。
 しかし、それも場合によりけりである。
 同一の状態が事物の様態として現れることもあれば、出来事の様相として現れることもある。
 それは要するに帰属させるというわれわれの知的な「行為」次第でどのようにもなりうるのである。

 実体に現勢化された限りでの様相(様態)は、必然的か偶然的かのいずれかの仕方=流儀(modus)で実体に帰属=属性化される。
 というより、性質としてそれが問題になる限りは、その実体への帰属様式は必然的か偶然的か、実体がそれなしではありえないようなそれ(必然的属性=固有性)であるか、実体がそれなしでもありうるようなそれ(偶然的属性=偶有性)であるかのいずれか一方としてしか問題にはなりえないのだといえる。

 そこでは必然的に、四様相性のうちの可能性と不可能性の二値は切り落とされてしまわざるを得ない。可能的属性や不可能的属性は、属性が実体の現に有する性質として問われている限り、そもそも属性の様相として考えることはできない。

 属性とは実体にその性(性質)として属する限りでの帰属の様式のことである。

 しかし、様相が実体に帰属する様式は性質=属性化だけではない。

 実体に帰属されその事柄と看做されるものは性質のように静態的〔スタティック〕なものだけではなく、運動のように動態的=力動的〔ダイナミック〕なものが他にある。
 そこではまさにダイナミック=デュナミス的(可能的=潜勢的)な様態における帰属の問題、つまり可能性や不可能性の様相が様態化する場合が考えられる。
 実体=主体が人の場合、それは行為という運動的属性の帰属の問題となって現れるのである。

 属性概念を運動的属性の次元まで拡張すると、われわれは必然的属性・偶然的属性に加えて可能的属性・不可能的属性をも属性概念の内側で考えることができるようになる。
 それは或る意味では、性質と運動の区別を抹消して、性質を静止運動として運動概念の一様式として把握し、また逆に運動を動態的性質として性質概念の一様式として把握することである。

 本質的属性(固有性)と偶有性の概念は、必然的属性と偶然的属性と言い換えてよいものである。

 性質は運動的出来事の一種である。
 性質化=帰属化という運動的出来事が実体=主体の身に起こって、それが必然的あるいは偶然的な様相で実体=主体の「性質する」つまり「性質として所有する」という運動に引き受けられる。
 性質として所有するというのは行為の様式である。
 実体=主体は所有者=行為者として己れに到来した性質の帰属という出来事を主体的=行為者的に「我が事」へと内包するのだといってもよい。

 実体=主体は行為者として性質(静止的運動)を所有する(つまり或る性質をもつ)。

 また同様に、行為のような動態的性質についても同一形式の文で次のように表現することができるだろう。

 実体=主体は行為者として行為(動態的性質)を所有する(つまり或る性質をもつ)。

 この意味で「所有する」は、行為についても性質についても同一形式で記述することのできる根源的な行為として発見される。

 但し、言うまでもなく、この所有行為は形式的な行為であり、名目的な行為であるに過ぎない。
 そしてまたこの実体=主体のこの「行為者として」という行為者性は、飽くまで実体=主体にそのように読み込まれたものであるに過ぎない。つまり名目的行為者性であるに過ぎない。

 実際に行為としてなされているのは実体=主体による「所有」ではなくて、「帰属」の方である。

2.「偶然性の問題」の問題

 しかし、「不可能性の問題1996年試論」でも書いたが、様相論理学の内部において何をもって他の様相性を規定する基本様相とするかは実は全くどうでもよい問題であるに過ぎない。
 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの基本様相は全く同等の権利でそれをもって他の三様相を規定する根本様相となる資格を有している。

 九鬼は偶然性を表す独自の様相記号をデザインさえして偶然性の様相論理学めいたものを『偶然性の問題』のなかで披瀝しながら、可能性を根本様相とするアリストテレス以来の伝統的立場、不可能性を根本様相とするC・I・ルイスや、ルイスを批判して必然性を根本様相とするオスカー・ベッカーを相対化しつつ批判している。
 その批判は偶然性を擁護し、彼の言い方を借りれば「論理学の領域と体験の直接性との距離」を縮め「生に根ざす論理学」を造ろうとするためであるかもしれない。

 だが、だからこそ逆にこの水準で九鬼が争いを起こそうとするこの訴訟は愚かしく、むしろ全く場違いなナンセンスなものであるとわたしたちは考えた方がいい。

 九鬼のいうような「生」とは彼が『「いき」の構造』以来追求し続けてきたような「日本的性格」の主題系にそのまま接合していってしまうような、それこそ空しく「活き」の悪い文化ナショナリズム(天皇制)に吸収されていってしまう致命的な弱点をもった「生」でしかない。
 このようなことをいうとき、九鬼は実は三流のそれも出来損ないの国粋主義者でしかない(しかし三流のそれも出来損ないであることこそが九鬼を一流の出来の良い国粋主義者になるという最悪の野蛮から救っているのだということを直ちに申し添えておかなければならない)。
 彼は、別に日本や東洋の特産品でもありえぬ筈の「偶然」を殊更日本文化の独自性に性急に結び付けようとするとき、せっかく彼が日本などの助けを借りずに独自に創造的にコスモポリタンとして考え抜いた偶然性の問題を日本主義イデオロギーに単に短絡させ、特殊化して貶めてしまっているのである。

 何が正しい根本様相であるかという争いを様相論理学の審級で立てることは、丁度、言語学において日本語・英語・ドイツ語・フランス語のどの言語が正しい言語であるかと問うことと同じくらい幼稚で無意味な問題である。
 九鬼が偶然性を殊更日本文化の独自性だの東洋の思想的伝統だのに関係づけ始めるや否や、偶然性の問題はこの幼稚な水準に零落れてしまう。
 それは単にわれわれは日本人だから日本語が母国語であって、英語やドイツ語やフランス語で話されても意味が分からない、故に相手が言語を話しているとは思えないという主張をすることと何ら質的には変わらないのである。同様に「不可能性ではよく分からぬから必然性に改めろ」とルイスを批判したベッカーも英語の分からぬ幼稚なドイツ人の駄々を捏ねているのに過ぎない。

 しかし、日本語・英語・ドイツ語・フランス語がそれぞれに文化的独自性の異なる言語でありながら相互に翻訳可能であるように、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの基本様相をそれぞれ根本様相とする四つの様相論理学は言語よりも容易に相互に翻訳可能なのである。
 そしてそこには言語のような文化的独自性など入り込む余地はない。
 それは記号表記されるからである。
 表記がどのような形であるかは、記号論理学にとって全くどうでもいい趣味判断(単なる美学)の問題であるに過ぎない。
 事は別に様相論理に限らず通常の真偽の二値を論理値として扱う記号論理学においても同じである。否定は〈~〉〈¬〉〈-〉どのように書かれてもその意味が変わる訳ではない。

 〈形象〉(表現)にこだわって、〈形式〉(構造)を見失う悪癖は、わたしたち日本人の悲しむべき文化的独自性である。

 例えば西欧の存在の形而上学を批判して老荘思想の〈道〉だの仏教的〈空〉だの所謂「東洋的無」の形而上学の精神的優位性などという滑稽なことを言う日本の学者は、虚無や空虚や否定の概念に東洋的・西洋的の文化的差異だの精神的優劣だのそれこそありもせぬものを捏造することが可能であるとよく妄想する。
 しかし、無が無であり、空が空であるならそこには全く如何なる差異(文化)もありえないのだということを彼らは単にナイーブに猿的に見失っているだけであるに過ぎない。

 わたしの考えでは、日本人が東洋的伝統に生半可に己れを位置付けるとき、むしろそのような時こそ西洋的なオリエンタリズムに西洋人よりも愚かな仕方ではまり込み東洋を見失ってしまっているのである。
 この日本型オリエンタリズムはしかし西洋的であっても十分に西洋的にすらなりえていない最低な思想態度であって、七〇年代のアメリカの勤勉なヒッピーたちの爪の垢でも煎じて飲んだ方がいい程度のものでしかない。
 日本人にはヨーロッパ人やアメリカ人のオリエンタリズムを嘲笑する権利もなければ批判する権利も全くない。
 例えば、禅を理解しているのは、カリフォルニアムーブメントの中でそれを積極的・実践的に内化してアメリカ的に洗練していったアメリカ人であって、単に禅宗の檀家であるだけでそれを全く実践していない癖に戯言めいた禅の公案を念仏的に繰り返して何かを説明出来た(うまくごまかせた)つもりでいるような怠惰な日本人などではない。

 わたしたちはまた西欧人を物質主義者といって嘲る権利を全く持たない。
 むしろ西欧人こそが精神主義者なのである。
 わたしたちは精神主義を西欧人たちから学んでいる。
 そのことを棚に上げる人間をわたしは認めがたいし、それ以上に断じて許しがたい。

 それはわたしたちの軽蔑すべき親の世代の卑怯で嘘つきで醜い日本人たちである。
 彼らは物を大切にしないばかりか精神も心も大切にしない。
 当然に折角人間たるべくしてこの世に生を享けたわが子をも大切にしてはいない。
 大切にするのはカネだけである。
 この黄色い猿ども、理性を欠いたエコノミニックアニマルどもをわたしは人間として愛せない。
 愛せることがある訳がない。彼らは人間の定義から外れている。
 人間は理性的動物であり且つ政治的動物であり、そして何より魂(アニマ)を持っていなければならない。しかし、経済的動物は理性も魂もなく、愛も知らず、思考することをせずに単に利害計算ばかりをしている。人間の物まね子ザルであるに過ぎないこのJAPどもは、単にヒトデナシなのであって、人間としての信用に全く値しないというべきである。

 日本には文化などない。あるのは単に産業という野蛮を無限に肯定し続けるための暴力装置と虚偽と憎悪と戦争=生存競争への特訓だけである。
 そして人間としての日本人をもし見い出すとすれば、それはこの醜い黄色い軍国主義の悪霊に憑依かれた白痴の猿どもの文字通りの絶滅の後に彼らから絶対的に進化した超猿的存在としてのみである。

 わたしはあくまで人間として、そして挑発的に敢えて〈ヒューマニストとして〉名乗り上げつつ言うが、このような猿どもには生存権すら認めがたい。この猿どもにはお互いに殺し合う以外の如何なる能力も備わっていないからである。
 健康で文化的で幸福な最低限度の生活をせよというアメリカ軍が折角親切に押し付けてくれた憲法の精神、つまり「人間になれ」という愛の命令すらも守れないような下等な猿どもに、更に反人間的社会を造るために、社会を一層悪くするために改憲を論ずる権利など全くない。

 わたしが九鬼周造に注目するのは彼が野蛮に過ぎない日本文化の成功したイデオローグではありえなかったその美しく栄光ある失敗と敗北の故にである。
 九鬼は日本に生まれながら日本人にはなれなかった男である。
 失敗した日本回帰であり、偉大なる故郷喪失であったからこそ九鬼周造の哲学には他のどんな日本の思想家にもない清々しい感動があるのだ。
 彼の哲学は寧ろ日本を引き裂いている。
 柄谷行人ではないが、まさにその可能性の中心に於いて九鬼周造を発見しつつ読んでゆくとき、わたしたちはそこに寧ろ近代及び現代の日本的野蛮(それは現在もあいもかわらず維新的で文明開化的で富国強兵的な『明治』という野蛮であるのだといえる)から脱皮しつつあった、折鶴のように端正な翅をもったしかし「いき」絶え、事切れた怜悧な思想の蝶の、大いなる宇宙的飛翔の断ち切られた可能性を見いだす。

 彼を殺したもの、それはわたしたちをもその内に閉じ込めて殺そうとする、脱皮するには余りに分厚く硬く重すぎる〈日本〉という軛のような蛹の鞘である。
 それはそこから飛び立たんとする翅を許さず、それを傷つけ歪め皺くちゃにし、ズタズタに引き破る。しかし、九鬼周造の格闘は、その同じ蛹鞘に閉じ込められているわたしたちにさあここから出てゆけといわんばかりにその骸の彼方に彼のこじ開けてくれた大きな出口への裂目を示してくれていさえするのだ。

 九鬼を日本が生んだ世界に誇れる大思想家であるなどというべきではない。
 例えば西田幾多郎などはそうであるかもしれない。
 だが、だとしたら西田幾多郎などは碌でもない奴なのである。
 わたしたちの一番撃破するべき敵なのである。
 それが何であれ日本を文化的に代表するような国際的文化人は、例えばそれがあの悲劇的で偉大な三島由紀夫であれ、やはり悲劇的な川端康成であれ、わたしたちが絶対に彼らの破滅的成功を見習ってはいけない絶望的存在なのである。
 つまりそれは必然的に〈日本的なもの〉、必然的に自然化せられた日本的様態(様式美)への同一化でしかないが故に。それは未だ日本的様態の属性化への可能性でしかないが故に。

 行為者と主体の概念、行為者性と主体性の概念は出来事に関して同じものではない。
 しかし、行為者性の問題提起は、余りにも安易に「成仏」させられてしまった主体性及び実体性の概念の不死鳥の如き復活と二十一世紀の始まりにふさわしい思想の天変地異的大革命と現実的な次元における存在の黙示録的大革命、すなわち文字通りの意味で「形而上学のハルマゲドン」の火薬庫に火を点じる起爆剤になりうるものである。
 行為者性(agency)という問題提起的な概念は、アメリカの代表的な分析哲学者の重鎮ドナルド・デイヴィドソンの発案によるものである。彼の示唆に富む所論についての考察は機会があれば別途行いたいが、ここでは、わたしはデイヴィドソンとは少しばかり違った風に行為者性の概念を画定したいと思っているので、わたしの行為者性の概念とデイヴィドソンのそれとは交差するところはあっても大いに似て非なるものであることだけは予め断っておきたい。
 つまり問題設定が違うのである。そこでデイヴィドソンの行為者性についての提起を含む出来事・行為論へと交錯してゆくのに先立って、わたしはまず己れの出来事・行為論から行為者性の問題にアプローチしてゆきたい。

1.属性と偶有性

 出来事(event)が人に帰属し、それがその人の事柄と看做されるのには、行為以外にも様々な様式がある。人は主体として自己同一的な実体として措定されている。実体に一般的に帰属するものは属性(attribute)といわれている。属性も或る意味では実体=主体の身に起こる出来事であると考えることができる。

 古典的な形式論理学の語法でいえば、属性は実体=主体に関して言われる性質的な意味での可述語である。そこでこの属性概念について、哲学の教科書的な意味においての確認作業を更に進めたい。

 属性(性質)は、更にそれの帰属先の実体の自己同一性ないし本質規定への関与の度合い(あるいはその影響の深度)に応じて次の二つ(又は三つ)に下位区分される。

 [1]属性(狭義)ないし特質 ……実体の恒常的・本質的規定。([羅]proprium)
   実体がそれなしにはありえない=考えられない(思考不可能であるが故に存在不可能である、つまり非在になってしまう)ような仕方で実体に帰属する、つまり、実体の自己同一的存続にとって必然的な様相の属性が、狭義の属性である。様相論理的な概念でいうと、必然性-不可能性の軸が、その実体の存在-無あるいは生死の分かれ目にそのまま厳しく致命的に交差してしまっている。

 [2a]偶有性ないし付帯性……実体の可変的・非本質的規定。([羅]accidentia)
   実体がそれなしでもありうる=考えられうる(思考可能であるが故に存在可能である、逆に無くとも構わない)ような仕方で実体に帰属する、つまり、実体の自己同一的存続にとって偶然的な様相の属性が、偶有性である。これも様相論理的な概念でいうと、偶然性-可能性の軸が、その実体の存在-無あるいは生死の分かれ目にはやや的を外し寛大に擦違うかたちで過越していっている。

 [2b]様態ないし状態……実体の変化する形態としての偶有性([羅]modus,affectio)
   様態は偶有性を別の面から捉えたもので、当然、実体については可変的・非本質的規定に留まる。或る仕方、或る状態においてたまたま偶然それがとっている徴表を言っているものである。様相論理的な概念でいうと端的に偶然性に該当している。可能性の様相とはむしろ切り離されている。それは寧ろ可能的であるというよりは現実的である。

 しかし、それより興味深いのは、概念内容的には端的に偶然的=偶有的であるに過ぎないこの様態という語が、言葉の上では必然・可能・不可能をも含む様相という語と殆ど区別のつかない類義語だということである。これは日本語においてそうなのだというより、様相を意味する〈modality〉という語が元来〈modus〉の派生語であること、そして古い哲学用語においては、今日〈modality〉の語が含意している概念を〈modus〉やそれから直接翻訳された語である〈mode〉において表記していたという歴史的経緯からみてそうなのだ。

 必然・偶然・可能・不可能の四相に論理的にモード的に分節されている様相の概念それ自体の根底になおそれには還元不可能な偶有性として様態の概念が沈んでいることは無気味である。

 それは或る意味においては、例えば九鬼周造が『偶然性の問題』で実際に試みているように、偶然性(contingentia)を根本的な基本様相とし、それに基づいて他の様相性を規定してゆく一見奇抜な偶然主義的な様相論理の捉え方(必然性=有ることの偶然でないこと、可能性=無いことの偶然であること、不可能性=無いことの偶然でないこと、という風に九鬼は規定を試みている)にそれなりの根拠と正当性を与えているといえなくはない。


 〈出来る/出来ない〉というとき、
 われわれは己れを可能的行為者として立てながら、
 行為能力の帰属について話をしている。
 つまり出来事を自己の能力において
 所有するか所有しないかを語っているといってよい。

 これは可能的な出来事の可能的な行為化である。
 或いは寧ろ、
 可能的な出来事を現実的に引き起こす(行為する)ことなく
 その可能的な行為者(行為能力者)として
 己れに引き受ける(帰属させる)ということである。

 わたしは出来る、というとき、出来事はわたしから出て来る。
 他方、わたしは出来ない、というとき、出来事はわたしから出て来ない。

 しかしまたこれを飜して次のように言い換えることもできるだろう。

 わたしは出来る、というとき、出来事からわたしが出て来る。
 他方、わたしは出来ない、というとき、出来事からわたしは出て来ない。

 後ろの言い換えられた定式は、
 前のものと比較して明らかに意味が違っている。

 この場合、出来事は可能的な出来事ではなく、
 寧ろ現実的な出来事を言っている。
 現実的な出来事に関して、それがわたしの行為であるか否かを、
 つまりわたしがその出来事の行為者であるか否かを、
 行為者への出来事の帰属について語っている。

 出来事が起こる。そこからわたしが出て来るならば、
 それはわたしにおける行為者の発見ないし同定であり、
 その出来事のわたしへの帰属、つまり、出来事の行為化である。

 出来事が起こる。しかしそこからわたしが出て来ないならば、
 それはわたしにおける行為者の発見または同定の失敗ないし否認であり、
 その出来事のわたしへの帰属がなされないこと、
 わたしがその出来事を行為化しないことである。

 そこで、もし行為者を不定の別人に想定するなら、
 出来事はその不定の別人に想定的に帰属する。
 するとその出来事は行為化される。

 また逆に不定の別人に行為者を想定するのは、
 既に予めその出来事が単なる出来事ではなくて
 誰かの行為と看做されてしまっているからである。

 その出来事は既にして行為の範疇に入れられている。
 行為でないとしたら、その出来事は有り得ない。
 さもなければ有り得ないが故に、それは行為でなければならないし、
 行為者は必然的に存在しなければならない。
 行為とは誰かに引き受けられねばならない出来事であるからである。

 ところで、さもなくとも有り得るならば、
 その出来事は行為でなくともよいし、
 行為者としてわたしや別人が出て来なくとも構わない。

 出来事は単に現実的に出来するだけでは
 思考にとって有り得ない、あってはならないものである。
 思考にとって出来事は可能化されねばならない。
 それは有り得る出来事でもある必要があるのである。

 出来事はどんな場合でも有り得るものとして発見されねばならない。
 それは有り得る出来事、可能的出来事から出来する現実的出来事、
 つまり可能性の実現としての現実性でなければならない。

 出来事からは
 それが出て来る処(可能性の根拠)が出て来なければならない。
 そしてそのそれが出て来る処(可能性の根拠)は
 何かによって引き受けれれねばならない。

 自然がそれを引き受けてくれないなら、
 それは人為(行為者の行為)によるものと看做されねばならない。
 出来事を有り得るものたらしめるために
 誰かがそれを有り得させねばならない。
 それは誰かに出来ることにならねばならないのだ。

 出来事の可能性の帰属が自然に対してなされる場合、
 それは〈有り得る〉といわれる。
 出来事の可能性の帰属が人間に対してなされる場合、
 それは〈出来る〉といわれる。

 出来事を出来る主体が
 出来事の出て来る処として出来事から出て来なければ、
 出来事そのものが有り得ないような場合、
 出来事の可能性の帰属つまり出来事の可能化は、
 出来事の能力化、
 つまり出来事を意図的に起こし得る可能的行為者の
 誰かへの同定を必然的とする。

 出来事の能力化は出来事の可能化の一様式である。
 そして出来事の能力化は出来事の行為化に他ならない。
 しかしそれはまだ出来事の我有化ではない。
 出来事の我有化は、
 出来事の能力化=行為化の後で起こる別の出来事である。

 出来事の我有化というのは、
 つまり〈わたしは出来る〉ということの成立である。
 しかし出来事の能力化=行為化の段階では、
 単に出来事が行為に変換され、可能性が能力に変換されただけであって、
 まだそれは〈わたしは出来ない〉状態にある。

 それが〈わたしに出来る〉ようにしなければ
 〈わたしは出来る〉ということは成立しない。