レヴィナスはハイデガーの新プラトン主義を批判するときにマイモニデス仕込みのアリストテレス的ユダヤ教スコラ哲学をその思考の隠された武器として用いている。
 だが、実はマイモニデスを用いることに彼の致命的弱点もまた露呈してしまう。

 中世思想の研究者たちが夙に指摘するようにマイモニデスは十分にアリストテレス的ではない。
 彼の知っていたアリストテレス哲学はそれ以前にイスラム教スコラ哲学においてかなり新プラトン主義的変容を蒙ってしまったものである。
 中世スコラ哲学は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教のいずれにおいても新プラトン主義的思惟形態の強烈な呪縛下にあって、それを通して歪められた形でしかアリストテレスを捉え得ていない。
 それから脱してアリストテレスを再発見しようとする努力がスコラ哲学者たちにとってどれほどただならぬものであったかは知られている。
 しかし、だからといって私たちが中世のスコラ哲学者と違って新プラトン主義的思惟形態の呪縛から逃れ出ているとは決していえない。
 例えばヘーゲルという強烈な呪縛力をもつ思想家の根がやはり新プラトン主義のプロクロスに深く根差しているということは知られている。

 ハイデガーはこのヘーゲルに対決しようとした思想家だったが、プロティノス的である。
 レヴィナスはマイモニデス的であると同時に、ポルフィリオス的であったとしかいえない皮肉な新プラトン主義的限界をもっていた。

 実際に現代思想は未だに強烈な新プラトン主義的思惟形態の呪縛にどっぷりと浸かっており、なかなかそこからはい出せないというのが実情なのである。
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 他方、レヴィナスは一五五五年に二十二歳のイツハク・ルーリアが『ゾハール』という彼の運命を変える書物に出会ったという大事件と、一六六六年にこのルーリアの創造した新しいカバラから、その鬼子であるというべき背教のメシア、サバタイ・ツヴィが誕生してしまったというもう一つのユダヤ思想史上の大事件を痛切に意識していただろう。

 ルーリアは「容器(タンク=TNK/旧約聖書正典)の破砕」という独特の破壊創造説を作って、実は『ゾハール』に展開された生命の木の新プラトン主義的体系を破壊してしまった思想家である。

 そのとき彼が再発見したのは間違いなくメルカバー神秘主義であり、それを伝統的カバラの生命の木の下から無理矢理に召喚してしまったときに、『ゾハール』の体系はそれに持ちこたえられなくなって砕けたというのが思想史上の黙示録的真相である。

 このルーリアのカバラは彼の友人のコルドヴェロの思想と共に、一六六六年の世界に背教者サバタイ・ツヴィのみならずもう一人の裏切者をユダヤ思想史上に出現させている。
 それが破門者スピノザである。

 スピノザとサバタイ・ツヴィのただならぬ同時代性はただの偶然ではない。実際にスピノザはサバタイ・ツヴィの心情的シンパサイザーであったことが伝記的に確認されている。

 ジル・ドゥルーズはこのスピノザとサバタイ・ツヴィの間の繋がりを意識し、両者を裏切者として嫌悪したレヴィナスとは対照的に両者の片や破門・片や背教という姿に喝采を送っている。

 ジル・ドゥルーズはフェリックス・ガタリと共に『アンチ・オイディプス』という反フロイト・反ラカン的書物を書いたが、形而上学者としては彼はアンチ・レヴィナスたろうとするこの私の先達である。

 ドゥルーズはライプニッツとヘーゲルに敵対する以上にむしろレヴィナスに対してこそその深層において形而上学的最終戦争ハルマゲドンを挑んでいる。
 一九九五年の年末にドゥルーズとレヴィナスがとても不思議な運命の成就のように相次いで死んだことは恐らくただの偶然では済まされぬ黙示録的な意味がある。
 私の考えでは、そしてこれはスピノザの思想でもあるのだが、偶然などは恐らく決してありえないのである。

 スピノザ、サバタイ・ツヴィ、ジル・ドゥルーズに通底するのはアリストテレス的グノーシス主義、或いはメルカバー現実主義といってよい何かである。それは〈実体〉とエネルゲイアの思想と言い換えて良いものである。この思想は、プラトニズム(アカデミズム)及び新プラトン主義(神秘主義)に根源的に敵対矛盾する。

【関連文書】


著者: ジル ドゥルーズ, Gilles Deleuze, 蓮實 重彦
タイトル: マゾッホとサド



著者: G.ドゥルーズ, 鈴木 雅大
タイトル: スピノザ―実践の哲学



著者: 市倉 宏祐, ジル ドゥルーズ, フェリックス ガタリ
タイトル: アンチ・オイディプス
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 メルカバー神秘主義におけるエノクの思想はユダヤ教内部では、レヴィナスが好んで依拠するようなラビ的タルムード的正統主義によって鎮圧され、所謂神秘思想の系統においてもセフィロトの瞑想を重視する新派のカバラによって取って代わられて抑圧されてしまう。

 ところがこれが何故かあのノストラダムスがかの有名な予言書を出版した一五五五年に忽然と復活するのである。

 私は一五五五年を重視し、これをノストラダムスに因んで《恐怖の大王のクーデタ》の年と名付ける。
 この黙示録的な年は非常に異常であり、調べれば調べるほど不思議な符合に満ちあふれている点において、一六六六年と比肩している。

 一五五五年の不思議には私以前にH・P・ラヴクラフトが、一六六六年の不思議には同じようにドストエフスキーがどうやら気づいていた節がある。
 レヴィナスは更にこの両方の年の不思議を嗅ぎ付けていたに違いないと私は考えている。
 しかしその全てを彼は見切っていない。

 特に一五五五年に投獄されていたジョン・ディーとその年に生まれたエドワード・ケリーによって後にエノキアン魔術の名で知られるようになるメルカバー神秘主義のエノク的宇宙観が再興されているという事実に気づいていたのはラヴクラフトであってレヴィナスではない。

 ラヴクラフトは彼の想像した架空の書物『ネクロノミコン』をギリシア語から英語に翻訳したという伝説を、シェイクスピアの『テンペスト』の主人公プロスペローのモデルであったこのエリザベス朝最大の魔術師ジョン・ディーに着せているが、その問題の書物『ネクロノミコン』の表題のギリシア語ゲマトリア数値が五五五になっているのである。

 そして、この『ネクロノミコン』の中心思想には『ゾハール』のカバラに対する痛烈なメルカバー神秘主義の立場から見られた批判が込められている。
 そこには水の深淵に死の眠りを眠らされた海坊主のクトゥルフCthulhuという明白にシュメールの水神エアや『リグ・ヴェーダ』に触れられているアスラ神ヴァルナをモデルにしたと思しき邪神が登場する。

 エアに対応する惑星は現代でいうなら海王星(ネプチューン)が相応しいだろう。
 そして生命の木のセフィロトに当てていくなら海王星は第一のセフィラ(セフィロトの単数形)であるケテル(王冠)に対応する。

 ところが、この眠れる海王星の邪神は水の深淵の底に沈んでいるとされている。
 これは生命の木の図表でいうならちょうど上位セフィロトと下位セフィロトを隔てる深淵(Abyss)の位置にいるということになる。

 カバラではその位置に確かに邪悪な半セフィラ・ダアス(知識)というものを置いているが、このダアスという言葉をギリシア語訳するならグノーシスがそれにあたる。

 このセフィラ・グノーシスは第十一番目のセフィラといわれているが、位置的には第一のセフィラ・ケテルの真下に置かれている。
 そこで至高の王冠の場処にいるべき海王星の夢見る魔神エア=クトゥルフは何故かそこから転がり落ちて『イザヤ書』の明けの明星の記述にあるような「穴のいや下」ならぬ水の深淵の底に封印されてしまっているのである。

 クトゥルフの名は明らかに Kether,Who?(ケテル・フー)と響くのを意図して作られている。つまり「ケテルにいる奴は誰だ?」という天空の王座(メルカバー)の空位を暗示する台詞である。
 ケテルにはそのいるべき主がいないとラヴクラフトは言っているのである。

 カバラではケテルに対応する大天使をメタトロンとしている。そのメタトロンは人間がそれにならない限りはいる訳がない。ところがメルカバー神秘主義が見失われてしまっている以上はメタトロンの成り手がいるわけがない。

 ラヴクラフトはそれを痛烈に皮肉っているのである。
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 アンチクリスト・ポルフィリオスとアンチグノーシスト・プロティノスという二人の新プラトン主義者についてざっと概説した。

 新プラトン主義はポルフィリオスの段階においてキリスト教に敵対し、その師匠であるプロティノスの段階においてはグノーシス主義に敵対している。しかしそれと同時にプロティノスは実はアリストテレス主義に敵対する思想家でもあったのである。

 敵の敵は味方であるという議論は陳腐である。
 しかし、この陳腐な知恵も実は使いようによっては非常に鋭利な刃物へと鍛えられ得る。

 私はアリストテレス的グノーシス主義というべき強烈なアンチ新プラトン主義の不可能的可能性を探りたいと考えている。

 キリスト教神学であれ、ハイデガーの存在論であれ、それを批判したレヴィナスの倫理主義的形而上学であれ、いずれもプロティノスの新プラトン主義的神学=形而上学のパラダイムに依存していると断じて良いものである。

 私の構想する形而上学的最終戦争ハルマゲドンの矛先は、その刃をラスコーリニコフの斧から今度はアリストテレスの弟子・マケドニアのアレクサンダー大王の剣につけかえて、ドイツ・ギリシアのアーリア人の豊饒な大地から上ってくる獣・火星人マルティン・ハイデガーの片手落ちのティール的存在論にも戦いを挑むものである。

 彼の頽落や被投性(Geworfenheit)の思想が、プロティノスの流出説の現代的焼き直しであるというなかなか興味深い指摘をハンス・ヨナスやハロルド・ブルームはしているが、実際に『存在と時間』のなかにプロティノス主義が伏在していることを看取すればこそ、レヴィナスはそれを逆手に取ったイポスターズ論を展開して、ハイデガーを批判できたのである。

 しかし、私から見ればそれは単なる新プラトン主義内部での姑息な内ゲバの域を出るものではない。

  *  *  *

  レヴィナスの懐刀となったのは中世ユダヤ教スコラ哲学者マイモニデスの『迷える者の手引き』とイツハク・ルーリアのメシア論的カバラ哲学であることは或る程度見え透いている。

 まず、マイモニデスは自らアリストテレス主義者を以て任じた人である。彼はラビ的・タルムード的に解釈されたユダヤ教をアリストテレス哲学によって躍進的に体系づけた思想家として知られている。
 この点において、マイモニデスは、やはり中世ユダヤ教の別の面であるカバラ的神秘主義的側面を爆発的に体系化した驚異の偽書『ゾハール』を書いたモーゼス・デ・レオンに比肩する大思想家であったといってよい。

 『ゾハール』はやがて問題にする十個のセフィロトの体系樹(生命の木)の思想を完成させた書物である。
 セフィロトそれ自体は1から10までの基本数を意味しており、その根本思想はピュタゴラスの数秘術主義とそれに密接に関連しているオルフェウス教に起源するものだといってよいが、『ゾハール』はそれを生命の木の図形に体系づけるに当たってむしろプロティノスの流出説とポルフィリオスの樹といった新プラトン主義系の教説を大いに利用している。

 レオンがそれによって成したのは実はそれ以前にあった非カバラ的なユダヤ教神秘思想のメルカバー(戦車)神秘主義の徹底的な抑圧である。

  *  *  *

  メルカバー神秘主義はほぼ初期キリスト教発生の頃と重なって出現した思想であり、グノーシス主義との関連も濃厚なものである。
 これはラビ的タルムード的ユダヤ教からはむしろ異端視されていた。特にそのうちで重要な著作はスラヴ語とエチオピア語のものが現存する二つの『エノクの書』である。

 この書はTNKといわれる重戦車=容器(タンク)的な旧約聖書正典(キャノン)が、ラビ的タルムード的なユダヤ教正統主義者によって定められていったときに、異端の書・アポクリファとして政治的に排除されていったものに属する。

 『エノクの書』には人間エノクが天界にメルカバーなる戦車(英語でいうと chariot であり、タロットカードの大アルカナ《戦車》の原タイトルに該当するが、これは同じ戦車でも現代の分厚い鉄の装甲に身を固めたタンク tank ではなくて、むしろ両頭立ての《馬車》に該当するものである)に乗って上げられ、最後に最高の大天使メタトロンに変じるというかなりヤバい神人合一的内容をもつものであった。

 ユダヤ教の天使学ではメタトロンはしばしば小ヤハウェといわれる程に位の高い天使であり、当然有名なミカエルやガブリエルよりも偉い訳である。

 そこに『エノクの書』の冒涜的なヤバさがある。

 つまりそれはほとんど人間はメルカバーの幻視によって神に等しくなれるということを主張しているのであって、人間を律法(トーラー)の掟や十戒に従属するべき神の奴隷と考えるラビ的タルムード的ユダヤ教正統主義とは相容れないものである。

 私の考えではこのメルカバー神秘主義とアリストテレスの〈実体〉の形而上学の間には意外と必然的な連絡があるように思う。

 つまりそれは実は神秘主義などではないのではないか。
 むしろメルカバー現実主義といった方が良いのではないかという濃厚な疑いをもっているのである。
 パトモスのヨハネは、アリストテレスの〈理性的動物〔ゾーオン・ロゴン・エコン〕〉を怕れてこれを反キリストの〈獣〉666と看做した。

 理性的動物〔希〕zoon logon echon, zoon no tikon 〔羅〕animal rationale 「アリストテレスが人間について与えた定義。政治的(社会的、国家的)動物の意味。時間的にみれば家族およびそれから合成された村落の方が国家より先なるものであるが、その自然、すなわちその目的にしたがって考えると後者は前者の上に位し人間の生活に干渉する権利をもたねばならぬ。国家の存立は人間の本性にもとづくものであり、人間は本性上同類との協同生活への衝動を自己のうちに蔵しており、道徳は国家においてのみ達成されるという。」(平凡社『哲学事典』)

 つまりそれが黙示録の獣666の正体であると看破することは容易い。理性的動物つまり自己の権利に目覚めた政治的動物は虚妄な宗教に隷属することをその性(さが)において確実に嫌うからである。

 ところで、キリスト教神学はその三位一体論の教義形成をプロティノス及びポルフィリオスの新プラトン主義の神学の換骨奪胎にその多くを負っている。とりわけプロティノスの『エンネアデス』第五論集第一論文「三つのイポスターズ(hypostasis)について」は重要である。

 イポスターズ(hypostase, hypostasis)は「下に(hypo)立つ(stasis)」という程の意味をもつギリシア語で、本来ならヒュポスタシスと表記すべきものであるが、後にエマニュエル・レヴィナスの『実存から実存者へ』とドストエフスキーの『罪と罰』をこれに関連して論ずる黙示録的な語調の都合により、敢えてレヴィナス譲りの仏語訛りでイポスターズと表記することにする。

 ポルフィリオスの名もポルピュリオスと表記すべきものであるが、これも『罪と罰』の予審判事ポルフィーリーとの無視されてはならない密接な黙示録的連関を明示するためにポルフィリオスと書かせてもらうことにする。

 これは私がやがて黙示録的語調において、この救世主イマヌエルの名前をもつレヴィヤタン的哲学者レヴィナスに、ルシファーの剣の代わりに異端者ラスコーリニコフの斧を振り向け、カント的ドストエフスキー的な形而上学的最終戦争ハルマゲドンの宣戦を布告するための布石である。

 レヴィナスは海から上ってくる獣レヴィヤタンを部族神としたレヴィ族の末裔である。

 私はこれに対してロシアの大地から上ってくる獣ベヒーモスを、虐げられし人々の間から立ち上がる異端の英雄ラスコーリニコフのうちに看取しつつ、これを対置する。

 殺人者ラスコーリニコフの恋人は売春婦ソーニャである。
 そこにファウスト伝説の元になったグノーシス主義の祖シモン・マグスとその恋人の娼婦ヘレナ=エンノイアの影を看取することは容易い。

 シモン・マグスの女神ヘレナ=エンノイアはやがてアレクサンドリアのヴァレンティノスによって叡智の女神ハギア・ソフィアと呼ばれるに至った。

 初期キリスト教の教父哲学者にとっても、そして同時代のユダヤ教のラビたちにとっても、恐るべき圧倒的な論敵の大勢力として立ちはだかったのがこのグノーシス主義やそれと密接な関連のあるマニ教である。

 グノーシス主義やマニ教は基本的にこの現実の物質的世界を悪と看做し、それを作ったとされる創造神ヤハウェや造物主デミウルゴスを偽神《空虚の子=ヤルダバオト》・邪神《盲目の神=サマエル》あるいは悪魔アーリマン(アンラマンユ)と呼び、それをこの世の支配者であるローマ皇帝の背後にいる宇宙論的黒幕として糾弾していた。

 未だエレナイオスのような教父がこのグノーシス主義的異端(ただし、グノーシス主義自体はキリスト教正統に対する異端というよりも元来がミトラス教などとも密接な連関のあるゾロアスター教系の異教であると見た方が正確である)に対して論難の矛先を向けるはるか以前に、新プラトン主義者プロティノスは『エンネアデス』第二論集第九論文「世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して」(邦訳、前掲書所収「グノーシス派に対して」水地宗明訳)において体系的なグノーシス主義駁論を展開している。

 プロティノスの新プラトン主義自体もグノーシス主義に密接な関連を有していて、世界が悪であるというグノーシス的発想の根が実際にはプロティノスの特殊な創造説である流出(emanatio)論にあることは否めない。
 また、この論文においてプロティノスがグノーシス主義として批判しているのは、同じグノーシス主義のなかでも特にキリスト教的一派であるヴァレンティノス派の思想なのではないかという説が有力である。

 初期キリスト教勢力のなかにはグノーシス主義的なそれもそうではないものも混然一体となって異教の神学である新プラトン主義に対立していた。

 新プラトン主義はローマ帝国の肩をもつ権力側そしてしばしば弾圧者側のイデオロギーとして機能し、グノーシス主義であれキリスト教であれ彼らの目からすれば不届きな反権力・反体制思想として同類であった。

 プロティノスはグノーシス主義的キリスト教の論敵であったが、その弟子のポルフィリオスははっきりとキリスト教徒を残酷な人肉嗜食(恐らくパンと葡萄酒の秘蹟を非常にリテラルに受け取ったものと思われる)をする野蛮な悪魔教であると論難するアンチクリスト的著作『キリスト教徒駁論』(カタ・クリスティアーノン)の著者であった。
 この著作のためにポルフィリオスはキリスト教徒によって、「講和すべからざる最も憎むべき敵」と看做された。

 この書物は四四八年に焚書されて現存せず、僅かに断片しか知られていないが全十五巻の大冊であったらしい。また一説によると彼は晩年に、皇帝ディオクレティアヌスが三〇三年のキリスト教徒大迫害のために招集した会議に参加したともいわれている。
マリアの原像--聖母マリアにしてマグダラのマリア。彼女たちは別人ではない。それは同じマリアである。僕はそのことを洞察している。そして、実際、今や知識においても知っている。処女崇拝や処女懐胎の信仰は、キリスト教の三位一体論のいかがわしいドグマよりもより一層深いものであり、また、古く、更に根源的なものであるということを。

 キリスト教の三位一体の神は、第一に女神マリアを排除して卑しめている点に於いて、第二に悪魔という恐るべき深い闇への畏怖と眩いその英智の輝きを見損なっている点に於いて、崇拝するに足らない神であり、死んでも仕方のない神である。馬鹿は死ななきゃ直らないというが、一度死ななければ真の神になることはない。イエスはこのことをよく分かっていたのだと思う。僕は今、クリスチャンとは全く違う意味に於いて、殆ど無神論的にだが、けれどもずっと神秘的に、偉大で高遠なヤーウェの神を信じるようになった。ずっと悪魔的であり、同時に女神的ですらある父なる神の不思議な救いが僕に起こった。主は本当に生き生きしている。神が存在するかしないか僕は知らないけれども、少なくとも、生きていることは分かる。異教徒として僕は主を敬虔に信じている、そのことを断った上で、《父・子・聖霊という仮面を被り紫の衣に身を包んだ、あのいかがわしい三本首のキングギドラ》ともいうべきゲテモノを神学者の捏造した馬鹿げた偶像として破壊するべきだと言っておきたい。刻んだ物理的な像があろうとなかろうと、それが観念による透明なものであろうと偶像は偶像であり、出自はいかがわしいものではなかろうかと疑っておくべきだ。

 曾てパスカルは、《アブラハム、イサク、ヤコブの神、哲学者の神にあらず》との名言を残したが、妙なことを言うものだ。アブラハムの神は、ひょっとしたら出身地ウルの月神シンだったかもしれない。シンの名前はシナイ山の語源でもある。また、かといってモーセの神がシンだったかどうかも怪しい。モーセの神はどうなるのだと言いたい。フロイトは、ヤーウェだったかも怪しい、イクンアトンのアトン神だったかもしれないと言っている。アブラハム、イサク、ヤコブの神などという古い時代には、一神教などなかった。今日あるようなキリスト教の神を誰が作ったというのだ。それは教父哲学者たちだった筈だ。

 確かに《父・子・聖霊という仮面を被り紫の衣に身を包んだ三本首のキングギドラ》はできが悪い。大体訳が分からない。けれども、それは人知を越えた神秘だからではない。作った神学者たちがぞんざいだったのだ。仮面と紫の衣は虚仮威しだ。キングギドラ君に《仮面》を被せたのは《異端者》になってしまった教父哲学者であり、《紫の衣》を着せてしまったのはのっけからの《異教徒》で、多分アスクレピオスの信者だった筈である。

 こういった馬鹿げたものを剥ぎ取ってしまえば、キングギドラ君のお里は知れている。金星ではない。由緒正しき古代ギリシャ哲学起源の神様で、そもそも天地創造なんて下賎なことはなさらなかった。彼は非常に単純な抽象観念で三本も首を生やしていなかった。名前は《一》とか《存在》とか言った。パルメニデスが考えた全く非人称的な、従って、全然人格的でもない代物だった。

 大体、《仮面》(ペルソナ)以前に、《人格》の概念などある訳がない。この神様に天地創造をさせたのが新プラトン主義の哲学者プロティノスだった。天地創造をさせたために三本も首が生える羽目に陥ったのである。だが、この三本首はまだ全然、人格神ではなかった。仮面を被らず、その仮面の下にあるものは剥き出しになっていた。その名前はまさに《下にあるもの》を意味する三つの《ヒュポスタシス》といって、それぞれの名前は《一》《理性》《魂》と言った。

 この《ヒュポスタシス》に無理やり《父》《子》《聖霊》の三つのキリスト教的な《仮面》を被せて、《人格》神に仕立てあげたのは、ギリシャ哲学が大嫌いなテルトゥリアヌスという教父哲学者で、《不合理故に吾信ず》という名言を後代から恭しく彼のものとして奉られた熱血漢である。彼はプラトンをグノーシス主義などのあらゆる異端の元祖として憎悪していた。現在の神学で《父》《子》《聖霊》の3つの位階というとき一般に《ペルソナ》という用語を使うが、元々は《ヒュポスタシス》という用語を使っていた。ところがこのギリシャ語の《ヒュポスタシス》は教父たちの言語・ラテン語に移されるとややこしい概念上の混同を引き起こした。どういう混同かというと、《ヒュポスタシス》という語は、神の《三位》を表す語でありながら、《一体》の方を表す別の語と余りにも意味が近すぎるため、区別があやふやになって、《三位》の三本首がつかみ所なくもつれてしまうからだった。テルトゥリアヌスはそこでこの混乱を収めるために、ラテン語の《ペルソナ》を《ヒュポスタシス》の上に被せたが、それはまさに《仮面》の比喩を巧みに用いることによってだった。ところが、その後、テルトゥリアヌスは過激なモンタナス派という《異端》に走ってしまった。

 《紫の衣》の方は、全然クリスチャンではなかった。まさに《紫の衣》を意味する名前のポルフィリオスは、プロティノスの弟子で、プロティノスの神を一層キリスト教の創造神に近づけた。プロティノスは神から由来するのは《形相》までだとする伝統的なギリシャのデミウルゴス観に乗っており、《質料》(物質)
の創造については明言を避けた。というのは神は彼にとって《善》であり《存在》であるのに対し、物質は善の否定である《悪》であり《無》だったからである。ところが、ポルフィリオスはこの《質料》も、第四のヒュポスタシスとして神から流出すると主張した。

 またこのプラトン学者ポルフィリオスは、アリストテレスの《カテゴリー》論の《予審判事》でもあった。アリストテレスの定義した《類・固有性・偶有性》に彼は更に《種》と《種差》という二つのカテゴリーを付け加え、『エイサゴーゲー』という入門書を書いたのである。これは中世スコラ哲学の教科書になったが、このなかにでてくる彼の《類》概念の解釈が、中世最大の論争である《普遍論争》の《種》になってしまった。
 普遍(類と種)は、実体として存在するのか、それとも人間の頭の中に存在するに過ぎないのかという問いをポルフィリオスは発したのである。
 普遍は個物に先行するという《実念論》は、カトリックにとって都合がよいばかりか、《三位一体論》を支える上でも大切な立場である。三つのペルソナ(特殊・個物)が、一なる実体なる一神(普遍)に基づかないとすれば、《三位一体論》は崩壊してしまう。
 ポルフィリオスのまいた《種》のせいで、テルトゥリアヌスの《仮面》(ペルソナ)の比喩は裏目に出ることになった。《普遍は個物の後に存在する》という《唯名論》の出現である。ロスケリヌスという唯名者は、神の三つのペルソナは、3つの分離した実体であり、根本において三神であるという《三神論》を主張し、《三位一体論》を否定、異端宣告された。
 ポルフィリオスは神に大地(質料)を与え、地上の王国を支配させたが、三つの仮面がその上に実体化して分裂してしまうことなど予測もしなかったし、またその責任もなかった。要するにテルトゥリアヌスとの食い合わせがカトリック教会にとって非常に悪いものだったのだ。

 三つの仮面は独立し、三権は分立する。唯名論はイギリス経験論を生み出し、そこからロック、モンテスキューが、更にフランス革命が、そして近代国家が生まれ
てきたのは歴史の教える通りである。
 そしてカントが『純粋理性批判』を書いて、理性の法廷を開き、実念論の末裔である独断論と、唯名論の末裔である懐疑論を、やはりカテゴリーをぶん回して裁き、形而上学に不可能性の烙印を押してしまう。こうして神は不可知になった。 ヘーゲルを待つまでもない。ニーチェに宣言させるまでもない。神はこの時点で死んだのだと洞察した男がロシアにいた。ドストエフスキーがそのひとだ。
 既にマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は出ていた。ドストエフスキーはロンドンに旅行しているが、その当時マルクスはパリからも追放されてロンドンにいた。二人が会ったかどうかは知らないが、ドストエフスキーは『共産党宣言』とその著者の名前位は知っていただろう。
 ところで、マルクスというのは、かのポルフィリオスの本名でもある。また、マルクス(勝利者・王者)という名前をギリシャ語に翻訳するとバシレイデスという古代キリスト教世界の異端の大物のグノーシス主義者の名前にもなる。バシレイデスの名はゲーテも知っていたことが知られている。後にユングはこの古代の異端思想家に仮託して『死者との七つの語らい』なる秘密文書を書いて知人に回覧し、神秘的なアブラクサスの教義を説いた。これを読んだヘルマン・ヘッセは『デミアン』を偽名出版し、第一次世界大戦後のドイツの青年に熱狂的に迎えられた。『デミアン』はのちにアメリカの反体制的なヒッピーたちのバイブルとなったが、このデミアンはハリウッド映画の『オーメン』に於いて、悪魔の子ダミアンとして描かれ、アンチクリスト六六六に結び付けられた。無論ヘッセは魔術師クロウリーと同じく、《アンチクリスト》を標榜して霊界文書を古代のゾロアスターから口述されたと口走った聖なる狂人ニーチェの系譜に属する人物ではあった。このゾロアスターの説いたのは光と闇の二元論の教義であり、言うまでもなく、グノーシス主義の思想潮流にこの発想はかなり流れこんでいる。ゾロアスター教の考え出した善悪の彼岸の神は時間の神ゼルヴァンであり、ヘレニズム世界ではアイオーン、クロノスと呼ばれた。バシレイデスのアブラクサスもゼルヴァンと同じ性格をもった神だった。
 話をドストエフスキーに戻そう。ドストエフスキーは『罪と罰』でアンチクリスト六六六を主人公にした。江川卓氏の『謎とき『罪と罰』』(新潮社)で解明されている通り、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフの頭文字PPPは、そういう意味を持つ。ところで、元々、ロジオンの名前はワーシリイにする予定だったものを変更したものだった。ワーシリイの名前は、セム風には《マルクス》、ギリシャ風には《バシレイデス》という名前になる。
 ドストエフスキーは、普通に言われている以上に相当、哲学・神学・宗教・社会思想の歴史に詳しい、とんでもない人物だったのではないかと思われる。『罪と罰』という物語は、普通に考えられているのとは相当違う意味と射程を持っているのではないかと疑われるのだ。
 彼は恐らく、最初はカール・マルクスのことを念頭において『罪と罰』を書き始めた。だからわざわざラスコーリニコフにドイツの帽子を被せて登場させているのだ。また、ドストエフスキーは、ローマ・カトリックを、唯物論と無神論と社会主義の根源だと考えていたが、当然、僕が既に述べたような普遍論争の話は百も承知だったに違いない。だから、わざわざ、その種をまいたポルフィリオスを予審判事のポルフィーリーとして登場させているのである。ラスコーリニコフとポルフィーリーの最初の対話で問題になるのは、人間の《種》の《カテゴリー》を巡る話であり、また普遍論争の種になってしまったポルフィリオスの問いが、パロディ化されてもいる。つまり《非凡人》という人間の《種》の概念が、外部に実在するものなのか、人間の頭のなかに存在するものなのか。

(中断)

【後記】恐らく1995年頃に書いたと思しきもの。