天風姤(てんぷうこう)
姤は、女壯〔さか〕んなり。女〔つま〕を取〔めと〕るに用うる勿れ。
彖に曰く、姤は遇なり。柔、剛に遇うなり。
女を取るに用うる勿れとは、与〔とも〕に長かるべからざればなり。
天地は相遇し、品物咸〔ことごと〕く章〔あき〕らかなり。
剛の中正に遇うは、天下の大いに行わるるなり。
姤の時義、大いなるかな。
象に曰く、天下に風有るは姤なり。后〔きみ〕以て命を施し四方に誥〔つ〕ぐ。
                      (『易経』第四十四卦「姤」)


11月17日は、やがて詩人ノヴァーリス(Novalis)となる失意の哲学青年フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクがその運命の恋人ゾフィー・フォン・キューンと運命の邂逅を果たした日(1794年)である。
そしてまた、『高い城の男』(1962年)を書いた作家フィリップ・K・ディックの書斎の金庫が、侵入した何者かによって爆破された日(1971年)でもある。

まさにこれこそディックにとって、「聖なる侵入」であった。
あるいはまた、ことによればディックは意図的に自宅の金庫を爆破するという秘密工作を演出したのかもしれない。

この事件をきっかけにして、ディックの人生、いや、彼の現実は狂っていく。やがて彼は、古代グノーシス主義の叡智を彼に授ける不思議な神性VALISの顕現に遭遇する。
有名な、1974年(ノヴァーリスとゾフィーの運命の遭遇のあった年の数字の並べ替えだ)のピンクの光線。そして、あの不可思議な形而上自伝SF小説『VALIS』(1981)が書かれた。

『VALIS』には、ソフィアという名の五歳の女の子が出てくる。
五番目の救世主。或いはまたV番目のアリス(Alice)。
叡智の神VALISの啓示をもたらしながら、その命は短い。
レーザー光線の事故で彼女は死ぬ。
ハギア・ソフィア(聖なる叡智)、それは夭折したノヴァーリスの恋人ゾフィーと全く同じ名前であった。

ディックはVALISとはVast Active Living Intelligence System(巨大にして能動的な生ける情報システム)の略だという。
だが、そうではない。
それはむしろVALISではない。NO-VALISだ。

ディックの金庫を襲った超新星爆発(NOVA)において、
本当に顕現した者は何だったのか?
それはむしろ詩人ノヴァーリスと少女ゾフィーの運命の反復ではなかったか。

ともあれ、この日、神は誕生したのである。
「わずか15分間が僕の運命を決定した」(ノヴァーリス)といわれる神が。

だから11月17日は、神の誕生日なのである。

【関連記事】

VALISとNOVALIS

【関連文書】

著者: 大滝 啓裕, Philip K Dick, フィリップ・K・ディック
タイトル: ヴァリス

著者: ノヴァーリス, 青山 隆夫
タイトル: 青い花

著者: フィリップ・K. ディック, ロランス スーティン, Philip K. Dick, 大瀧 啓裕
タイトル: フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明

AD
女房が旅行に出てていないので、家の中がひっそり静かだ。
なので、帰ってからすぐベッドに横になり、ドゥルーズの「差異と反復」(分厚くて字が小さくて訳も悪い読みづらい本)を読み始めた。はじめから読むのはやめて、結論から読み始める。しばらく読んでるうちに、仕事の疲れが特に目に出たので寝てしまった。起きたの、朝の4:30AM。なんと健康的な事!

僕は、ドゥルーズの差異性、レヴィナスの他者性を、むしろ不可能性という様相概念を表す言葉に翻訳し直して考えている。また僕はドゥルーズが「反復」といっているものを「運命」と言い換える。したがって、僕にとって「差異と反復」は、それをむしろ「不可能と運命」へと翻訳し直さねばならない書物なのだ。

思うに、差異性は他者性と同じく、この日本の思想空間ではどうあっても否定性に従属させられ、そして否定性としてしか機能しない、すなわちその魂を抜きやすく、安易に横暴に適当に濫用しやすい概念表現であるに過ぎない。レヴィナスの他者が別人にされてしまうように、ドゥルーズの差異も日本ではポストモダンの犬儒たち(和製ヌーヴェル・フィロゾーフども)の安易な道具に落ちぶれて、全くファンタズムなき嫌味なつまらぬそのシミュラークル(ただのコピーのコピーというボードリヤール的な、まさに「シミュラークル」の紛い物)に変質している。ドゥルーズは、レヴィナスよりもずっと殺されてしまっている思想家であるといえるのかもしれない。

僕はレヴィナスから愛をドゥルーズから魂を貰ったと自分では思っている。ドゥルーズに対してもその大恩に報いるためにそろそろ背教し始めなければならない時期がきたと思っている。

いまのところ、僕とドゥルーズは、その最も目立って共通する思考のサインである「出来事」について、基本的な捉え方が実は多分非常に違っている。ドゥルーズ風に言うと、利害のセンス(方向性)がずれているのだ。また、僕はドゥルーズをなにかとプラトン(日本においては有害な思想家にしかなりえないと僕は思っている)に回収したがる連中にイライラしているので、彼の「二分法」論には敬意を表する(それどころか僕においてはかなり若い頃に受けてしまったドゥルーズからの抜きがたい影響となってしまってさえいる)ものの、何かというと「理念=イデア」と口走ってしまう彼の口癖も気に入らない。僕はむしろそこで、エネルゲイアと叫び直したいのである。

なので「差異と反復」をこれから破壊するために読んでいくことにしようと思う。くたばれ! ドゥルージアン!(笑)

AD

[承前]

 

 Immanuel Can't Stop Murder.

 

 神の子イマヌエルは殺人を止められない。イマヌエルは《汝殺すなかれ》と叫ぶことができるだけに過ぎない。その叫びは殺人者の斧によって割り裂かれる。


 《汝殺すなかれ》という掟の言葉は、決して人命を尊しとするものではない。それは《汝》と呼びかけられる者に《人殺し》の可能性を実は書き込んでいる。《人殺し》としての《汝》自らを知れと命じている。それは禁止のかたちで実は殺人を示嗾している。禁止命令は禁止=命令である。もし知識の果実が禁断の果実として指定されていなかったら人はそれを決して食べなかったことだろう。それは毒であるという警告に神の善意をみようとするスピノザの解釈はこの観点からするととても下らない。むしろ神は禁断の果実を食わせたかったのである。

 同様にカインにアベルを殺させたのも神である。神はそれによって殺人を創造したのだ。アベルを殺すようにカインに唆したのは神である。カインはアベルを殺すことによって特権的な保護の徴を与えられている。最初の殺人者カインは最初の選民である。

 ヘルマン・ヘッセは一九一九年に匿名で出版した小説『デミアン』のなかでこの点に着目して非凡人カインによる凡人アベルの支配というラスコーリニコフ張りの理論によってカインの徴の積極的解釈を行っている。『デミアン』は出版当時にも一世を風靡し、第一次大戦後のドイツの青年達の心を虜にしたが、一九六〇年代のアメリカの反体制的な学生やヒッピーのバイブルにもなった。ちょうど第一次大戦後のドイツがナチスを生み出したように、アメリカのフラワームーヴメントはチャールズ・マンソンの悪魔的カルトによる黙示録的で猟奇的な殺人事件を生み出し全米を震憾させた。社会は一転して陰惨で偏狭で欺瞞的な保守主義に転じてゆく。

 そのような過程では必ず幼稚で教訓的で迷信的で道徳的な恐怖映画や怪奇小説やオカルトが不安に怯えた小市民的で偽善的な価値観の上に流行して大衆の痴呆化に貢献するものである。ご多分に漏れず、666の獣の徴をもつ悪魔の少年を主人公にした愚劣な『オーメン』という映画が作られたが、この邪悪な悪魔の少年の名前はダミアン(=デミアン)であった。

 そうやって悪魔の幻影に怯えた人々は感傷的で保守的なキリスト教道徳に飼い慣らされた操作しやすい仔羊となって却って権力という本当の悪魔に魂を売ることになる。怯えた仔羊どもは悪魔の子を将来きっと碌なものにならないと決めてかかり、まだ何もしないうちから予言に躍らされて狩りたてその芽をつぶそうと猛烈なイジメにかかる。しかし彼らは気づいていない。集団ヒステリーを起こした仔羊こそ悪魔よりも遥かに凶暴でその上遥かに穢れた悪霊に憑依かれた豚よりも悪いレギオンになっているということを。更にまさにそんなことをするからその悪魔の子とやらは本物の悪魔になりたくなくともならずには済まされなくなってしまうのだということを。

 仔羊どもこそ悪魔を創るのである。これは虚構の作品『オーメン』のなかですら真実である。

 まだ小さい内からあんな恐ろしい目にばかり会わされていたのでは誰だって悪魔になってしまう。

 ダミアン少年が自分が悪魔の子であることを知ってショックを受けてひとりぼっちで泣くシーンがあるのだが、あのシーンにだけは深い感動と真実がある。

 彼には愛が必要なのだ。愛されさえすれば彼は悪魔などにはならないで済むのだ。

 しかしそれは与えられない。そうであれば悪魔となって世界を滅ぼすことこそ正義である。

 

 わたしは人間として悪魔に同情するし、ダミアンには決してインチキな仔羊どものインチキな神の子なんかに負けて欲しくない。そんな奴らの創る天国など寒々としているだけである。

 逆に人間のために血の通った暖かい世界を創造できるのは悔しさも怒りも悲しみも寂しさも辛さも知り抜いたダミアンのような人間だけだ。

 

 寧ろ彼のように幼くして辛酸をなめ尽くした強く誇り高い人間の方こそがキリストに似ている。

 それに、新約聖書に書いてあることを信じるなら、イエスはヘロデ王とってまさにダミアンのような悪魔の子に他ならなかった。

 

 ヘロデ王は予言に脅えて多くの罪もない赤ん坊を殺させたそうだが、イエスはその殺された多くの子供達の生き残りであり、彼らの怒りを背負って立ち上がってきた人間だ。

 そしてイエスは実際に偽メシア・反逆者として処刑されたのである。

 

 従ってわたしは断言するが、もし新しいキリストが出現するとすれば、彼は必ず『オーメン』のダミアンのように地獄からやってきて、人間を神とその天国から救済しようとする悪魔の子であって、地上から人間であることをやめた野蛮な仔羊どもを一掃し、地獄がどんなに素晴らしく美しいところであるかを説いて去るに違いない。その悪魔の子は野蛮で反動的で愚かな仔羊によって殺されるだろうが、そのとき天の神に天罰が下り、誰が本当の神であるかがはっきりするだろう。

 

 人間は仔羊がどんなに醜く嫌な奴らであるかを知ることになるだろう。

AD

[承前]

 

 レヴィナスが掲げるのは《汝殺すなかれ》という律法の言葉を遵守するパリサイ的ユダヤ教である。

 しかしラスコーリニコフは《汝殺すなかれ》の法の言葉の万人妥当性に「非凡人」という例外規定を設けてそれを思想的に侵犯する過激な異端者或いは背教者である。

 

 両者とも十字架による救いの欺瞞性と虚妄性を見抜き、それを斥け、ゴルゴダのイエスとは異なるメシアを要請する点においては共通している。

 しかし、この異なるメシア、異なる「神の子」イマヌエルは、殺人の問題に直面して深刻な自己分裂に陥る。 

 

 救世主がその聖なる目的を成就せんとして立ち上がろうとするときに悪しき障害となって不可避に立ち塞がる人間をどうするべきなのか。彼を殺さなければ善の実行は不可能である。

 従ってイマヌエルは彼を殺さざるを得ない。しかし殺人はそれ自体が大罪であり、悪である。

 イマヌエルは彼を殺してはならない。だがもしも彼を殺さなければイマヌエルが彼のために殺されてしまうのだとしたら、イマヌエルは一体どうしたらいいのか。

 

 殺すべきか殺さざるべきかという問題は単なる+と0の問題、有るか無いかの問題ではないような場合がある。それは殺すか殺されるかという+と-の問題、能動と受動あるいは加害と被害の問題になる場合がある。殺さないことが殺されることを意味するとき、殺人者を選ぶか犠牲者を選ぶかどちらか一方であって中間のゼロがないとき、問題は厄介である。

 《汝殺すなかれ》という掟の言葉によって殺された方がよいのか、それともその掟の言葉を破って人を殺してでも生きることが正しいのか。あなたがイマヌエルであるとしたらあなたはどうするだろうか。


 しかし問題はいずれにしても誰かがそこで死ぬことになるということにある。

 

 それは悪魔が神に勝利するということである。善なる存在イマヌエルはいずれにしても敗北することになる。殺人は成就する。救世主が人を殺すことは救世主の自己否定である。彼は生き延びるかもしれないが、もはや救世主ではありえない。ただの人殺しである。逆に救世主が人に殺されることは救世主の別の仕方の自己否定である。彼は救世主であり続け、人殺しにならないで済んだかもしれないが、殺人者に敗れ、悪を相手になさせてしまっている。救世主は存在することをやめる。やはり人殺しが生き残ることになる。

 イマヌエルは救世主であろうとすれば存在することができない。しかし逆に存在しようとすれば救世主であることができない。イマヌエルであることはイマヌエルがあることに一致しない。イマヌエルにおいて本質と実存、自己同一性と存在は両立不可能である。

 存在を保存するか本質を保存するかの二者択一がイマヌエルを引き裂く。しかしいずれにしても、そこで誰かが死ぬとき、イマヌエルもまた死ぬのである。イマヌエルは死に、殺人者が生き残るのである。

 

 イマヌエルは無垢のままでは存在不可能である。

VALISとNOVALIS

テーマ:

 1992年にソヴィエト連邦は存在しない。その年の12月に独立国家共同体CISが創設され、ゴルバチョフは完全に失脚し政界の表舞台から姿を消した。


 1992年にはP・K・ディックも存在しない。1982年2月18日、心臓発作で倒れた彼は3月2日に帰らぬ人となり世を去った。彼が最高傑作『高い城の男』を発行した1962年にこの世に生を享けたわたしが『VALIS』の邦訳書を手にして彼のことを知ったのは同年の5月の頃でそのときディックは既にこの世にはいなかった。それから暫くして彼の原作による最初の映画化作品『ブレードランナー』が公開された。


 『VALIS』は1992年には存在しないソヴィエト連邦で出版された架空の辞典を参照することから始まる。この架空の辞典はやはり現実には存在しないアメリカの映画『VALIS』(デイヴィド・ボウイ主演のニコラス・ローグ監督作品『地球に落ちて来た男』が現実界における対応物であるらしい)を参照している。

 

 そして小説『VALIS』はこの架空の映画『VALIS』を巡る物語だ。

 

 架空の映画『VALIS』は1977年に製作され、それに言及する『大ソヴィエト辞典第六版』は1992年に刊行された。いずれも現実の歴史世界には実在しないが同じような意味で実在しないのではない。1992年刊行の辞典の方はその母体となるべき歴史世界=ソ連邦そのものが丸ごと消えてなくなってしまっているのだ。

 その問題の引用文は次のようにVALISについて語っている。


 VALIS――Vast Active Living Intelligence System(巨大にして能動的な生ける情報システム)アメリカの映画より。自発的な自動追跡をする負のエントロピーの渦動が形成され、みずからの環境を漸進的に情報の配置に包摂しかつ編入する傾向を持つ、現実場における摂動。疑似意識、意志、知性、成長、環動的首尾一貫性を特徴とする。(大瀧啓裕訳)


  VALISはしかしVast Active Living Intelligence Systemとのみ字解きされうるものではない。

 それは、ドイツロマン派の詩人ノヴァーリス(Novalis)の名前から意図的に英語で否定を意味する前綴りNOを削除して創作された名前であることは明らかだ。

 『VALIS』は電脳空間のグノーシス主義を展開する魔術的観念小説の性格が強いが、ノヴァーリスはフィヒテを批判することを通して形而上学を魔術的観念論として構想するに至った詩人哲学者だった。

 

 ディックがノヴァーリスを換骨奪胎して『VALIS』を構想していったのはほぼ間違いない。

 ノヴァーリスはゲーテの『ウィルヘルム・マイステル』を批判して、良い教養小説はメールヒェンでなければならないと考え、『青い花』を書いている。

 ディックが『VALIS』のやや重苦しいグノーシス主義に対する反省をこめて書いたその続編『聖なる侵入』は神の子イマヌエルを主人公としたメールヒェン風の教養小説であって、個人的にはディックの作品中で最も優れている名作だと思っている。きらきらと光る優しい風が作中を吹き抜けていて爽やかな読後感がある。これに比べると『VALIS』は非常に重苦しい。

 『VALIS』は、二人の親しい女友達の相次ぐ死に直面して苦悩し次第に狂って行く主人公ホースラヴァー・ファットの神と救済の問題を巡る孤独な探求とその神秘体験や幻視を綴る前半部と、その体験や思索と符合する不思議な映画「VALIS」、更に映画の背後にいた小さな救世主ソフィアとの出会いと悲しい別れを描く後半部とに分かれる。

 ところがこのソフィアという少女の名はドイツ風にはゾフィー、ノヴァーリスの若くして死んだ運命の恋人の名前なのだ。

 

 『VALIS』に出てくるソフィアは2歳の幼女で主人公たちがやっと出会ったのも束の間、不運な事故で命を落としてしまう。ノヴァーリスが出会ったゾフィー・フォン・キューンは12歳、彼とは十歳も年の離れた少女だった。二人は翌1795年3月15日にひそかに婚約する。しかし翌年には少女は胸部結核に伴う肝臓腫瘍で重態に陥り、一時恢復しかけるが、97年3月19日、婚約記念日から四日後、15歳の誕生日の二日前に死んでしまい、ノヴァーリスの魂を打ち砕く。

 これに追い打ちをかけるように彼の弟エラスムスが4月14日にやはり結核で死ぬ。二日後の16日は復活祭の日曜日、青年はゾフィーの墓参りに出掛ける。その二日後4月18日、恋人の死後一カ月後から二カ月半(110日間)ノヴァーリスは『日誌』をつける。そして5月13日ノヴァーリスはゾフィーの墓で、後に『夜の讃歌』に結晶する幻想的で運命的な神秘体験をし、救われる。

 青年がノヴァーリスになったのはそのときだった。

 翌98年、彼ははじめてノヴァーリスという筆名で天才の霊感の閃光に満ちた断片集『花粉』を発表し、魔術的観念論を展開し始める。このときノヴァーリスは26歳だった。1800年9月、28歳のノヴァーリスの健康状態は悪化する。10月28日もう一人の弟のベルンハルトが入水自殺する。この報せがノヴァーリスを打ちのめし彼は遂に喀血、病状は悪化の一途を辿り、翌年3月に彼もまた病死してしまう。

 このエピソードは『VALIS』の前半部に反映している。


 まず、ノヴァーリスの二人の弟の死(病死と自殺)が順序を入れ替えて二人の女友達の死に変わっている。まずグロリア・ナドソンがビルの十階から飛降自殺をする。続いてシェリー・ソルヴィグが癌で病死する。
 肝腫瘍を患うゾフィーの病状の推移はそのまま癌を患うシェリーの病状の推移に反映している。シェリーは末期の癌患者だが一時的に緩解している。しかし急激に病状が悪化して死んでしまう。
 ホースラヴァー・ファットはグロリアの自殺によって打ちのめされるが、神秘体験によって救われる。それから彼はノヴァーリスのように霊感を受けながらやはり『日誌』を書き始め、それから断片を抜粋・集成して『秘密経典書』を編んでゆく。
 シェリーの死をきっかけにしてファットは彼にとって運命の恋人=婚約者(つまり運命的に〈契約〉によって結ばれている者)であるといえる、〈神〉が彼に約束し予言した〈五番目の救世主〉を捜す旅に出掛けようとする。その矢先、彼の友人のケヴィンが映画『VALIS』を彼に見せ、ファットは運命の恋人ソフィアに至る手掛かりを得る。それは小さな女の子だった。

 この物語の展開はファットが実は何者であるのかを教えている。作中でディック自らが種明かしているように、ファットという名前は「太っちょ」を意味し、ドイツ語訳すると「ディック(Dick)」という単語になる。つまりディックは自分の名前をファットに英訳しつつ、逆にそのファットのドイツ語訳として己れの名前ディックをドイツ語化しているのである。ディックは自分を想像的にドイツ人化している。そしていうまでもなくノヴァーリスはドイツ初期ロマン派の大詩人である。ディックはファットのオリジナルはドイツにあることを己れの名において暗示している。すなわちファット及び『VALIS』の物語はノヴァーリスの人生と作品の英語への翻訳=変換-翻案なのだということを示唆しているのである。

 

 ホースラヴァー・ファットはノヴァーリス=NOVALISの転生であり、VALISの化身である幼女ソフィアはゾフィー・フォン・キューンの転生なのだ。


 しかし『VALIS』はディック自身の体験を元にしたかなり自伝的色彩の強い作品でもある。ホースラヴァー・ファットは単に名前の上のみならず中身においてもディックその人を意味している。

 

 ファットはディックであると同時にノヴァーリスである。それはディックがファットであると同時にノヴァーリスであるということに他ならない。つまりディックは自分自身をノヴァーリスのパロディないし変奏された反復として描くことによってノヴァーリスに己れの運命の臍の緒を結び付けようとしているのだ。

 ディックに生まれてすぐに死んだ双子の妹がいたことは知られている。

 その名はジェーン。『VALIS』の幼女ソフィアの余りにも早すぎる死のエピソードにジェーンの影が落ちていることは明らかである。

 

 双子の妹の死こそディックの人生と文学を運命的に決定してしまっている深刻で胸をえぐるような凄まじいトラウマでありその核心である。

 彼は現在その双子の妹――恐らく彼にとって最愛の何者にも代えがたい女性と同じ墓に眠っている。

 

 彼は生涯何度となく結婚と離婚を繰り返した。

 恋愛しては関係が悲劇的に破綻する凄惨な人生を送った人である。

 それはこの死せる妹への執着がどれ程のものであるかを物語っていて痛ましい。

 だが、彼の小説が普通のSFと違って何か胸を突き魂を揺さぶるような吶咸と慟哭をもっているのはそのためなのである。

 アメリカのSF作家に生まれ変わったドストエフスキー――それがフィリップ・K・ディックだ。

 しかし、それだけではない。奇怪なことにディックはその実人生においてもノヴァーリスの恋人ゾフィー・フォン・キューンの影響下にも置かれている。


 ゾフィー・フォン・キューンは1782年3月に生まれ、ディックは1982年3月に死んだ。3月はゾフィーとノヴァーリスにとっても運命的な月だ。婚約したのが3月15日、ノヴァーリスが死んだのは1801年3月25日。婚約記念日から僅かに10日後で死因も同じ結核だった。それはゾフィーの死から4年後、その命日から6日後であった。そのときノヴァーリスにはユーリエという二人目の婚約者がいたのだが、彼女とは結婚できなかった。ゾフィーとノヴァーリスはそれ程に強く結ばれていたのだ。

 また、ノヴァーリスがゾフィーに出会ったのは1794年11月17日である。

 1794の数字が位置を入れ替えた1974年の2~3月『VALIS』のファットの見神体験の元となるディック自身の神との出会いが起こる。

  ピンク色の神の情報ビーム、自分が1974年のアメリカにいると同時に初期キリスト教時代の古代ローマにもいるという奇妙な体験、その時代のトマスという別の人格が自分の中にいるという分身体験、自分のよく知らない言語である古代のギリシア語で物を考えたりそれを書き取ったという体験、そして『釈義』と称する厖大なメモを書き綴り、自分にエリヤの霊が降りたのだと考えるに至ったこと等、ファットの体験として書かれていることは実はそっくりそのままディックの身に起こったことを忠実に再現しているに過ぎない。


 実は『VALIS』は奇妙な叙述法をとって書かれた書物であって、ディック自身に他ならないSF作家のフィルという人物が副主人公として出てくる。このフィルが第一人称の語り手〈わたし〉を名乗り、その視点からまるで別人のように自分自身を突き放して語っている。この突き放された第三人称の人物がホースラヴァー・ファットという偽名で呼ばれている。無論二人は同一人物なのである。しかしフィルは至って冷静客観的で批判的な観察者、ファットは逆に少々愚鈍で頭のいかれたお人よしの神憑りの滑稽な人物として描き分けられ、殆ど相互に独立した人格をもった友人同士というまでに徹底した自己分裂の相で登場させられている。この奇妙な一人芝居に彼らの友人たちまでが付き合っているので、まるでそこには実際に二人の別人がいるかのような錯覚を与える。

 

[関連記事]VALISとNOVALIS―神の誕生日

[承前]

 

 

 黙示録の不思議な獣の数字666を鏡文字にしたΡΡΡという幻想的なイニシャルをもつ男の物語を救世主イマヌエルの名をもつ男が更に逆回しにする。


 それはまるで鏡の国を舞台にして黙示録の獣とメシアとが永劫回帰して無限に終わらぬ殺人事件をめぐり、いつ決着がつくともしれぬ果てしのない形而上学的なハルマゲドンを戦っているかのような世にも不思議な光景である。


 レヴィナスのつくりだす逆回転の宇宙・逆回りの時計・逆転した物語は「イポスターズ」という表題をもっている。


 それは実詞化・基体化・様相転換・位相変換というように様々に翻訳されるレヴィナス哲学の根本概念を表す用語であるが、それは同時にレヴィナスの思考のドラマの独特の弁証法的場面転換の運動原理をもアナロジカルに言い表している。


 そのドラマは大雑把に区切って三つの主要場面へと単純化される。
 イポスターズというのはいわば三幕構成の劇的場面転換を伴う形而上学の劇であり、その劇の主人公である主体のその都度まるで別人のように切り替わる三つの貌(様相)の異質性であり、その貌=様相の分裂的劇変の蝶番となってそれを一つの劇の軸へと繋ぎとめて辛うじてその分解を防いでいる緊密に収斂した連結そのものであり、その軸への連結を支えに展開するドラマティックな思考の場面転換そのものである。


 この劇の主人公の名は〈実存者〉である。
 この名は六六六やイマヌエルと同じように終末論的で黙示録的なものである。
 それは〈人間〉を意味する。
 「〈人間〉とは何か」或いは寧ろ「〈人間〉はいかにあるべきか」がこの劇の基調低音をなす主題である。


 イポスターズの劇は三つの場面・三つのフェーズからなる。各々の場面はそれぞれ次のような問いかけをその主題にしている。


 (1)〈人間〉にとって〈存在〉は何を意味するか。
 (2)〈人間〉にとって〈自己〉は何を意味するか。
 (3)〈人間〉にとって〈他者〉は何を意味するか。


 この「何を意味するか」という問いは「それは真に思考の原理的なものたりうるのか」という価値判断の問いと裏腹である。
 それは言い換えれば第一哲学=形而上学の主題は何であるかという問いでもある。
 そこで三つのものはそれぞれが第一哲学の候補に挙げられる三つの学と三つの価値を言い表している。


 (1)は存在論としての形而上学であり、その価値は「真」である。
 (2)は審美学としての形而上学であり、その価値は「美」である。
 (3)は倫理学としての形而上学であり、その価値は「善」である。


 レヴィナスは第三の立場に最終的に軍配を上げる。そして第一と第二の立場を斥ける。
 それは〈人間〉の態度に優先順位をつけることでもある。
 弁証法的な用語でいうなら、(1)の即自的態度と(2)の対自的態度を斥けて、(3)の対他的態度を優先することである。


 彼の弁証法にはヘーゲルのそれのような即且対自的な止揚された同一性への綜合=共定立(synthesis)はない。単に他立=異定立(heterothesis)があるだけである。
 この異定立は(1)と(2)に同時に対立し反対する反定立(antithesis)であるともいえる。
 ヘーゲル的な弁証法の定立・反定立・綜合のトリロギー、キリスト教的な三位一体論をアナロジカルに下敷的に仮定=前提(hypothesis)したトリロギーはここにはない。


 またアリストテレス的なトリロギーである三段論法とも意味内容が全く違うものである。
 しかし、それにも拘わらず、これを大前提・小前提・結論という展開において類似するものとみることはできなくはない。ただしそれは奇妙な意味においてだ。


 (3)の結論において光り輝く「他者」は、決して思考がそれを前提しえぬものであるからこそ前提に置き換えられなければならないものを意味している。


 大前提と小前提は共に前提である。前提と結論は異なる。
 故に結論は前提から導かれてはならない。
 何故なら前提から導かれるなら結論は前提の内にあるのであって前提から脱出し超越しているものとは看做しえないからである。


 結論は前提に従属し内属するものではなく却ってそれを論破するような全く異なる定言判断でなければならない。まさに前提ではなくて前提とすべきもの・原理的なものが捜されているからである。


 結論はそれ自身が全く異なる思考の閃光的判断として前提の仮面の顔を論破的に切断している。
 この切断によって前提は大前提と小前提の二つの前提に分裂する。


 前提とは何か? それは仮面という意味での悪い意味でのペルソナである。
 仮面を破砕しない限り、真に下にあるものである素顔は顕れえない。


 イポスターズとは下に横たわるものとしての基体を元来意味する言葉である。
 イポスターズはペルソナの下に横たわるものでもある。
 というのはペルソナはイポスターズを翻訳し覆い隠した言葉であったからである。


 ラテン神学の根幹をなす三位一体論は父・子・聖霊の三つのペルソナの緊密な結合体である。
 しかしペルソナという語は仮面を意味する。
 仮面はその下に横たわる神の素顔を隠して人間から切り離し対面不能の神秘へと匿う表を覆うものである。その仮面を剥ぎ取らなければ神とは対面しえない。


 仮面の廃棄あるいは仮説=前提の棄却は、ヘーゲルとは全く違った意味でのレヴィナス弁証法におけるアウフヘーベンである。
 仮説=前提(hypothesis)を切断することによって偽善的(hypocritical)ではない真に下に横たわるもの(イポスターズ/hypostasis)である根本的なものを、仮言的(hypothetical)ではなく定言的(categorical)に定立すること。
 それは他者を仮言的他者ではなく定言的他者としようとすることである。


 レヴィナスの弁証法には綜合=共定立はない。
 彼の異定立はそれ自体が定言的で批判的である。
 それは批判的な他者の定立としての他定立である。


 それは定立(1)と反定立(2)を媒介的に合成して和解させるような第三項ではない。
 逆に定立と反定立のそのような妥協的な馴れ合いの綜合の瞬間にこそ覆い隠され殺されてしまうような第三者を意味している。そのような綜合は実は仮面(欺瞞)の癒着でしかない。


 一般にヘーゲルの弁証法は排中律(第三項排除)をもたないとされている。
 Aと非Aの間の矛盾対立を止揚して和解にもたらすために、Aと非Aの高次の同一性としてAであり且つ非Aであるような第三者が発展原理として要請され、Aの他者である非AはAの成長のための契機としてAに包摂されAとの共存態としてAの内に生きる。


 このときAと非Aは綜合的第三項であるA=非AなるBにおいて復活する。
 しかし実はそのような弁証法は排中律よりも悪辣な仕方で第三項を間引きしているのだ。
 エマニュエル・レヴィナスの哲学にはストーリーがある。
 それはちょうどドストエフスキーの『罪と罰』の逆回転のフィルムを観せられているような奇妙な錯覚を覚えさせるものだ。

 非人称の存在〈ある〉=イリヤ(L'il-y-a)に始まり、〈汝殺すなかれ〉という他者の顔貌(visage)の発顕による殺人の瞬間凍結に終わるレヴィナスの物語では、他者の顔貌が真二つに割り裂かれる殺人事件は起こらない。
 しかし『罪と罰』はその殺人の瞬間の解凍に始まり、金貸老婆アリョーナとその妹リザヴェータが手斧で頭を割られて殺されてしまう。ところがまさにそのとき殺された女の貌が殺人者に憑依く。この憑依する貌に追われてラスコーリニコフのアイデンティティは内側から突き崩されてゆく。レヴィナスのいう他者の顔貌の思想の最も優れた表現がそこにある。

 それもそのはずで、他者の顔貌の着想は、ユダヤの神の顔や、アウシュヴィッツの死者たちの貌である以前にリザヴェータとソーニャの貌に源泉があることはレヴィナスがいちいち注記しなくとも読めば濃厚に明らかなのだ。
 それこそ他者の顔貌の原体験にしてその思想の核心である。
 アウシュヴィッツその他で非業の死を遂げたユダヤ人同胞の幾多の顔はその顔の観念のリアルでアクチュアルな外延を与え、ユダヤ思想はそれに形而上学的で抽象的な展開を可能にする哲学的な意味付けを与えたが、その原型をレヴィナスの心に焼付けたものは紛れもなくドストエフスキーの読書体験に他ならない。

 レヴィナスは大のドストエフスキー愛読者で知られる思想家であって、哲学者に志す以前のリトアニアの少年時代からドストエフスキーの作品に親しんでいた人である。それどころかドストエフスキーこそ彼を哲学研究に向かわせた最大の誘因に他ならなかったということを或る対話の席で回想している。フッサールよりもハイデガーよりもまたユダヤ思想を彼に仕込んだ謎の人物シュシャーニよりもドストエフスキーこそがレヴィナスに圧倒的影響を与えた最大の思想上の師であったことは当然にして明白である。

 彼は『時間と他者』のなかで「私には時として、哲学のすべてがシェイクスピアを考察することに過ぎない、と思われることがよくある」(邦訳書六一頁)と語ったが、このわたしにはレヴィナスの哲学のすべてがドストエフスキーを展開することにあったのではないかと思われることがよくある。
 彼は特にドストエフスキー論なる書物を書き残した訳ではないが、実は彼の著作活動の殆どがドストエフスキー論よりも濃密な哲学的ドストエフスキー論、ドストエフスキー哲学だったのである。彼は好んでゾシマ長老の夭折した兄マルケルの言葉を引用する。

 「僕たち人間は誰でもすべての人に対して、すべてのことに対して罪があるんです。なかでも一番罪深いのはこの僕です」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』小沼文彦訳)。

 それをレヴィナスは『カラマーゾフの兄弟』の核心部分であるというが、寧ろレヴィナスの思想の最重要の核心――但しその核心が「核崩壊」ないし「核分裂」によって自壊してしまうような核心である――つまり所謂「メシア的実存」精神の精髄を言い表している。

 但し、これと同様の言葉はミーチャ・カラマーゾフの口からも生々しく吐かれているが、レヴィナスは何故かマルケルという小さな男の子の口からその言葉を取ることは注記しておく必要がある(『存在するのとは別の仕方で』邦訳書二六五頁『暴力と聖性』邦訳書一三六頁)。

 同じ言葉であってもそれが誰の口からどのような場面で語られるかによって負わされている意味は時として天と地ほど違う。

 このマルケルは無垢な絵に描いたような良い子であるが病弱で哀れにも早死にする。
 上に引用した台詞はマルケルが自分の母親に対して諭すように言っている科白である。

 言葉は確かに美しいし感動的だ。
 しかし、その箇所を読むときに、わたしはマルケルが余りに可憫そうで胸が潰れそうになる。そこが『カラマーゾフの兄弟』の核心部分だというなら、それは最もみにくいひどい核心部だ。

 その箇所はゾシマ長老の伝記の冒頭に当たり、アリョーシャが書き纏めたものである。
 ところが小説の叙述の順序に従っていうと、読者は既にアリョーシャと共にイワン・カラマーゾフの力強い演説「大審問官」を聞かされている。
 つまり『カラマーゾフの兄弟』の最も有名な山場である。

 だが、「大審問官」がこの作品の核心なのではない。
 真に核心的なのはその前置きとしてイワンが語る様々な幼児虐待と罪もない子供の苦しみの話である。

 罪もなく子供が苦しむ。
 それこそがこの父親殺しの物語の真の主題である。
 それこそが、カラマーゾフの三兄弟の共有する胸の痛みであり心の叫びなのだ。
 否、それ以上にそれはドストエフスキー自身の魂の慟哭である。その文学の真実である。

 そのことを思うと、レヴィナスのこの美しい言葉の引用行為に、単純に感動してばかりはいられない、陰鬱な懐疑と嫌疑の念を心が抱いてしまうのを、わたしは自分に禁じることができなくなってしまうのだ。
【1】埴谷雄高は「私は私であることは不快である」という〈自同律の不快〉の命題から、不可能体・不可能的人間存在である〈虚体〉の概念を演繹する。
 〈虚体〉は〈超人〉の観念と恐らく同じである。
 それは「私は私ではありえない」という命題によって表現されるものだろう。

 これは「私は私ではない」(否定性)と同じではない。
 彼が〈自同律の不快〉と〈虚体〉の観念を託した『死霊』の主人公・三輪与志は「自殺はただに自殺であるに過ぎない」として自己否定(自殺)と〈虚体〉の観念をきっぱりと区別しているからである。

 不可能体は矛盾自体であるかもしれないが、否定体ではない。
 「ありえない」(不可能性)と「ない」(否定性・非在)は意味が違うからである。

 埴谷雄高に先立って〈自同律の不快〉の思想を九鬼周造が確かにもっていたことは余り指摘されていない。
 九鬼の偶然性の様相形而上学は確かに表面的には西欧の必然性の形而上学に対する反発に発しているように見える。
 しかし、彼が「必然性」の名において告発し牙を剥いているのはむしろ同一性・存在・自己・一者を真理とする価値観、つまり〈自同律〉に対してなのである。九鬼はこう言っている。

偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元性の邂逅」ということが出来るであろう。(『偶然性の問題』)

 九鬼の〈必然性への反感〉は〈自同律の不快〉乃至〈存在の不快〉を動機とするものに他ならない。

 しかし、私は九鬼と違って、必然性を同一性の様相であるとは考えない。
 むしろそのように考えることこそ不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。
 アリストテレスの基本的な表現法では必然性は〈他のようではありえない〉という仕方で実は他を含んでいる。必然性は同一性というよりは非他性である。
 つまりまさに必然性こそが一者と他者の二元的な邂逅の様相なのである。
 しかもそれは同一性に決して内面化することのできないような他者との邂逅(分裂)の様相である。
 同一性は必然性に突き放されることによって生じる。
 しかしそれは同一性が必然的であるということではない。
 必然的なものとは同一性(自己)ではなく、他者である。

【2】九鬼周造は『偶然性の問題』(1935)において、必然性の形而上学を攻撃している。
 しかし、彼の必然性への反発は、単に必然性が必然性であることを不服としての反発ではない。
 彼が「必然性」と呼んで攻撃しているのは、自己・存在・同一性・一者の観念を「価値」として自明視し、それを「必然的」としてしまう或る種のみにくい「美学」に対してである。

 偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元性の邂逅」ということが出来るであろう。(ibid.)
したがって九鬼の〈必然性への反発〉の核心的意味は「AはAである」という同一律=自同律の美学への反発である。
 本名を「般若豊」という、九鬼周造に続く第二の〈鬼〉が、「埴谷雄高」という筆名を名乗り、初めて〈自同律の不快〉の思想を表明する『不合理故に吾信ず』(1939)を書き始めたのはそれから僅かに四年後に過ぎない。

 そして、二十二歳の埴谷雄高が政治犯として収監された豊多摩刑務所の獄中で運命の書物、カントの『純粋理性批判』と衝撃の「邂逅」を果たしたのは昭和七年(1932)、出所したのは翌八年(1933)のことである。この同じ年に京都帝国大学文学部の助教授となった九鬼はそこで非常に形而上学的な『文學概論』の講義を行い、そこで後の埴谷の不可能性の文学の出現を導くような発言をしている。
 それは九鬼が〈消極的無(nihil negativum)〉と呼ぶ不可能なものについて論ずるくだりである。

 藝術は単に「ない」事柄をつくるのみならず、「有り得ない」事柄迄もつくり出すのである。(全集版11巻81頁)
 藝術にあつては虚とか矛盾とか不可能とかが生きて来る。即ち消極的無も藝術にあつては有として存在してゐる。さきに存在の表現がそれ自身のうちに目的を有つてゐるのが藝術であると云つた。また文學とは存在が言語によつて表現されることそれ自身であると云つた。その場合の存在といふうちには積極的無(可能的存在)のみならず消極的無(不可能的存在)も含まれるのである。(ibid.82頁 傍線原文。括弧内は引用者補足)

 ここに九鬼周造から埴谷雄高が出て来る幾らか運命的な成り行きが見て取れる。しかし、それは埴谷の決まり文句であった「精神のリレイ」というようなものとは恐らく違っている。
 私の考えでは文学にせよ思想にせよ決してリレイのような甘い仕方で伝承されるものではない。それは決定的でもっと酷烈な仕方で灼き着く。
 それはちょうど埴谷自身が自らの異様なドストエフスキー体験を述懐する通りのものである。彼は書いている。

 私個人についていえば、私は『大審問官』の作者から、文学が一個の形而上学たり得ることを学んだ。そして、その瞬間から彼に睨まれたと言い得る。私は彼の酷しい眼を感ずる。ただその作品を読んだというだけで私は彼への無限の責任を感じざるを得ないのである。それは如何に耐えがたい責任であることだろう。とうてい不可能な一歩をしかも踏み出さねばならぬということは。私はせめて一つの観念小説なりとでっち上げねばならぬと思い至った。(『死霊』自序)

 これはドストエフスキーを被爆するという体験である。
 自分自身をドストエフスキーに書き込まれた作品にしてしまうということである。
 何かしら圧倒的影響を受けるということは全焼の生贄となって大地に張り付いた黒い影に変えられるということと同じなのである。

 影響の父運命の女性というような圧倒的他者性との超新星爆発的遭遇というのは必ずこのような様相を取る。
 その遭遇を人は避けることはできない。
 一六六六年、黙示録の獣の数字が揃った年、
 ユダヤとロシアの民衆のそれぞれに或る決定的な〈背教的〉事件が起こった。
 背教のメシア、サバタイ・ツヴィの事件。
 そしてロシアにおける分離派の発生である。

 分離派はやがて周知のようにドストエフスキーの『罪と罰』の主人公、
 やはり獣の数字の暗号をそのイニシャルРРРに隠した
 ラスコーリニコフの名の由来となった。

 ラスコーリニコフはドストエフスキーの創造した
 偉大なる異端のメシアの第一号である。
 このアンチクリストの恋人はソーニャ、神聖な娼婦であるが、
 彼女は明らかに古いグノーシス主義の異端思想に現れる
 アニマ・ムンディ、ハギア・ソフィアを意味する人物に他ならない。

 『罪と罰』は全く正統的なキリスト教に忠実な書物であるとはいえない。
 寧ろローマカトリックに対してもギリシャ=ロシア正教に対しても
 かなり辛辣で大胆な批判を秘めた書物なのである。

 ドストエフスキーのキリスト教は
 実はかなり過激なアンチクリスト教であるとみるべきであって、
 それは最晩年の『カラマーゾフ兄弟』にまで貫徹されている。

 書かれざる『カラマーゾフ兄弟』の続編で
 革命的秘密結社の首領となって皇帝暗殺を企てる
 反権力者アリョーシャ・カラマーゾフと
 兄イワンの母の名がさりげなく
 ソフィアであると記されていることは
 この二人が実はラスコーリニコフとソーニャの間に生まれ
 その魂を引き継ぐアンチクリストの子供達であることを匂わせている。

 他方、双子のような作品『白痴』と『悪霊』の中心人物
 ムイシュキンとスタヴローギンは
 実は表裏一体の同一人物
 (創作ノートをみると両者は共通して〈公爵〉と書かれている)
 であって、共に無能なまま破滅するが、
 これはドストエフスキーのキリスト批判であり罵倒である
 と読んだ方がよい(無論正統的なキリスト教のキリストを揶揄しているのである)。

 つまり古臭い神である所謂キリスト教のキリストなど
 骨抜きになったお目出度い無能のうすのろで、
 役立たずの下らない汚らわしい木偶坊だとやっつけているのだ。
 そんな神は白痴であり悪霊でしかないのである。

 ドストエフスキーはそのような所謂〈真のキリスト〉こそ
 人民を誑かす抽象的な〈偽キリスト〉だと看做し、
 くたばりやがれと徹底的にやっつけているのである。

 逆に『白痴』と『悪霊』の真のヒーローとして描かれているのは
 肺病病みのイッポリトと自殺狂のキリーロフなのである。
 二人は合体して『カラマーゾフ兄弟』のなかに
 ミーチャの嫌疑を晴らそうとする弁護士(救世主)
 イッポリト=キリーロヴィッチとして復活する。

 つまり彼らは死ななかったのである。
 言葉遊びのカバラ的暗号術に長けていた
 逆説論理学者ルイス・キャロルが、
 永遠の童心の化身として描いた少女アリス(Alice)の名前には、
 当然ながら秘密の含みがある。

 それはヘブライ語で「神」を意味する普通名詞エルALに
 「氷」を意味する英語のアイスIceを組み合わせた名前である。

 ルイス・キャロルのアリス・リデルへの少女愛は、
 ロマン主義の詩人哲学者ノヴァーリスが
 十二歳の少女ゾフィー・フォン・キューンに
 グノーシス主義の叡智の女神ハギア・ソフィアを見いだしたのと
 同じ深遠な思想的意味を帯びたものであって、素朴ではない。

 キャロルは氷れる秘メ神〈氷神AL-ICE〉の名において、
 カバリストたちが夢魔の女王リリスと呼んで恐れた
 夜の谷間の百合の処女神の観念を暗示している。

 私の手許に
 「わたしたちの生命は夢ではない。
 しかしそれはやがて、いやおうもなく、夢とひとつになるだろう」
 というノヴァーリスからの引用で締めくくられる一冊の書物がある。

 ジョージ・マクドナルドの
  一八九五年の長編幻想小説『リリス』(荒俣宏訳・ちくま文庫)がそれである。

 荒俣宏の同書あとがきによれば、
 マクドナルドは「『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルや
 ラファエロ前派主義の芸術家たちに大きな影響をあたえ」、
 『ナルニア物語』のC・S・ルイスや『指輪物語』のトールキン、
 またカルロス・カスタネダにもその影響は及んでいると指摘されている。

 しかし、それはむしろノヴァーリスの影響の巨大さというべきだ。
 マクドナルド自身がノヴァーリスの圧倒的影響下に『リリス』を書いている。

 リリスの観念はノヴァーリスの思想のなかに
 それとして目立った明記がある訳ではないが、
 それと同じものを読み取ることは出来る。
 いやむしろそれはノヴァーリスの思想の核心にあるものである。

 彼はむしろそれを彼の夭折した恋人の名に因んで
 ゾフィー(叡智)と呼び、
 彼自らはそのゾフィーの永遠の恋人としての
 哲学者(フィロゾファー)であると考えていた。

 マクドナルドのリリス、
 ルイス・キャロルのアリス、
 ノヴァーリスのゾフィーは、
 いずれも同じグノーシス主義の女神
 ハギア・ソフィアの異名でしかない。

 ルイス・キャロルがマクドナルドの愛読者であったことは
 大いに有り得ることである。
 しかし『不思議の国のアリス』は一八六五年、
 『鏡の国のアリス』は一八七二年に出されているので、
 こと『リリス』に関する限り、
 影響関係でいうならアリスの方が先行しているというべきだろう。

 『リリス』が出版された一八九五年は
 ルイス・キャロルの最晩年の時期にあたっている。
 キャロルは一八九八年一月十四日に気管支炎で六十六歳の生涯を閉じている。
 マクドナルドはそれよりも長く生きて一九〇五年まで生きた。

 マクドナルドは、荒俣宏によれば
 一八六五年頃から作家としての円熟期に入ったといわれている。
 これはちょうどキャロルが『不思議の国のアリス』を出して
 ヴィクトリア朝時代の文壇にデビューした時期にあたっている。

 マクドナルドは一八二四年生まれで、キャロルは一八三二年生まれ、
 一八六五年当時にはマクドナルドは四十二歳、キャロルは三十三歳である。

 エジンバラに近い山荘にマクドナルドは文学者の集まるサロンを張った。
 荒俣宏によればそこに集った作家たちのなかに
 ルイス・キャロルの顔も含まれていたという。
 どうも二人の間には親交があったようである。

 私はというと、
 特に英文学者でもなければ、
 ファンタジー小説に興味があるわけでもない。

 逆にファンタジー小説や児童文学は子供騙しなので、
 非常に不快だと考えている男である。

 けれども思想として
 ノヴァーリスのもっていたメールヒェンの哲学には
 強く共鳴するところがあるし、
 今日の児童文学
  (例えば私はミヒャエル・エンデやゴルデルが
   ケストナーと同様に大嫌いなのであるが)
 とは異なる意味での
 真の童話作家であるアンデルセンや、ムーミン谷のトーベ・ヤンソンを
 ドストエフスキーやシェイクスピアを
 偉大な哲学者として尊敬するのと同じように尊敬している。

 私が嫌いなのはお説教臭い教育的童話である。
 〈童心〉は〈悪童〉を愛するものである。

 エンデやゴルデルやケストナーが子供騙しで不愉快なのは、
 悪童を良い子に変えて、その牙を抜くために童話の形式を悪用するからである。

 私の観点からすると理想的な童話作家とは
 H・P・ラヴクラフトのように非常に精神衛生によい暗黒のファンタジー
 を書いてくれる人間だ。

 エンデやゴルデルやケストナーには愛がないのである。
 あるのは教育だけである。
 教育によって子供に嘘を躾けている。
 そんな子供騙しに脅迫される子供は不幸である。

 ルイス・キャロルやレイモン・クノーや
 H・P・ラヴクラフトそれにノストラダムスには本物の愛がある。

 彼らの文学は卑怯な大人たちには非常に都合が悪いが、
 それは子供達にみにくい嘘を見抜き、
 それを憎む気高い心を孵ませるからである。

 冷たいいやらしい感傷的な声で自分の子供に
 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んできかせるような母親は、
 夢野久作の『ドグラ・マグラ』巻頭歌
 「胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか」
 に描かれる魔物と同じでこれほど気色の悪い有害なお化けは考えられない。

 それはラヴクラフトの創造した邪神たちよりも邪悪である。
 そんな冷たくていやらしい声の息を吹き付けられて
 氷ってしまった子供がアリスAL-ICE、凍れる童心である。

 私が理想の子供だと思うのは地下鉄のザジだ。
 無法に暴れ回ってパリの街を抱腹絶倒の大混乱に陥れるザジのような少女こそ、
 昔、宮迫千鶴がいっていた〈超少女〉の理念に本当に相応しいと思うのである。

 地下鉄のザジのような暴れ者こそアリスを不思議の国や鏡の国から開放して、
 この現実の現実性の広場の力強い風の子に必ず生き返らせてくれるのである。

 ザジは不良少女である。けれどもザジは現実の少女である。
 一七九四年十一月十七日、二十二歳の失意の哲学青年
 フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクの前に現れて、
 彼の眠れる炎の心臓を超新星爆発させた
 十二歳の少女ゾフィーもまた、そうした現実の不良少女であった。