ドイツ語で《存在》を意味するSein(ザイン)の響きは、ゴルゴダの丘にあっては、供犠の磔刑の「釘」である、と言いたいところであるが、残念ながらそうではない。「釘」はヘブライ語でヴァウであり、音価はV、数値は6である。
 ヘブライ文字のヴァウ(V)はザイン(音価Z数値7)と形が似てはいるものの、違う文字である。ザインの意味は「剣」であり、双子座に関連する。まるで《存在》の意味は剣=戦争であるような話であるが、それよりずっと意味深長に思われるのは、《存在(ザイン)》に先立つものが、三つの釘、三つのV、三つの6――獣の数字666であり、それがメシアを十字架=タウに釘つけにしているかに見えてくることなのだ。666という獣の数字が777という戦〔いくさ〕の数字(それは審判の数字であり、またオラム・ハ=クリフォト、すなわち邪悪な《殻(シェル)》の世界の数字である)に先立つ。
 とはいうものの、他方でヴァウに当たるラテン・アルファベットのVは、それ自体が十字架のXを分割した象形であることから、ローマ数字でむしろ5を表す数でもある。
 5は容器の破砕を齎したかの恐るべきセフィラ・ゲブラーのことをいやでも僕に想起させずにはいない。それは火星をシンボルし、そして、それを支配する天使は何故か、ゲブラーの神(エル)たるガブリエルではなく、盲いた神、神の毒の異名をもち、しばしばデミウルゴス・ヤルダバオトとも同一視されるサマエルなのである。サマエルはサタンの異名としても知られ、アダムと離婚後、リリスがその元に走ったのは、サマエルという名におけるサタンであったという伝承を僕は思い出す。
 5であると共に6である文字V。それ自体がXを二つに引き裂く分裂の文字であるとともに、まことに裂け目の如く、5と6の間に不可思議な亀裂を、峡谷を、深淵を、それは描いているようにもみえてくる。とはいうものの、第6のセフィラは、美にして太陽であるティフェレトであって、神の慈悲の左手として知られ、裁きの右手であるゲブラーに対照される木星のゲドゥラー、ケセドではない。ケセドは第4のセフィラであるからだ。
 何ゆえに《容器の破砕》の悲劇が起きたかを巡って、コルドヴェロとルーリアが議論したという話をきいたことがある。すなわちゲブラーに代表される裁きの力の過大の故にか、ケセドに代表される慈悲の過剰が悲劇を招くもとであったのか、と。あるいはまた、二つの相反する力の間の均衡が崩れたこと、バランスを失うことこそが、諸悪の根源、諸悪の起源であると訳知り顔に論ずる者までもいる(最も凡庸な意見であると僕は思っているが)。
 。。だが、ここで、僕はふと或る事に気づく。ティフェレト(美)の別名は、ラハミーム(愛または慈悲)でもあったということに。そしてケセドよりも一層、ゲブラーの異名であるディーン(厳格な正義=判断力=裁き)の原理的力に対抗する、優しき慈悲の原理の名として語られるのは、むしろティフェレトの異名であるところのラハミームではなかったか。
 だとすれば、5と6の間に跨り、二つの原理の分裂をかたどるかのようなVの象形は、むしろ火星と太陽、ホルスとラーの間で、《容器の破砕》の出来事を考え直すべく、僕に促しているともいえるのではないか。
 もちろんそれに何の根拠も無いのである。というよりそれはいくらでも他のようでもありうる話であり、従って、何の必然性も無いが故に無根拠だといっているのだが、だからこそ、それはむしろ〈運命〉的に考察意欲をそそるのだ。

(以下続くカモシレナイ)
AD
 恐怖の大王イリヤはユリゼンともコロンゾンともクロノスともオーディンともいわれている。そいつが老齢の妖怪変化で錯乱した神であることは双魚宮時代が始まる当初からいわれていたことだ。この狂った神の命運は尽きつつあるが往生際はすこぶる悪い。老齢化した高度管理社会を捏造することによって、新しく若々しいアイオーンが到来するのを妨害するために陰険な裏工作をすることに余念がない。ゴヤは腐敗した権力の座に獅噛付くこのクロノス=サチュロスの息子を食らう浅ましい姿を描くことによって後代に警告している。オイディプスコンプレックスよりも問題であるのはクロノスコンプレックスである。私達は《汝殺すなかれ》の戒律の意味を読み誤ってはならない。それが父親殺しの禁止を意味するのか息子殺しの禁止を意味するのか、幼児虐待の奨励を意味するのか暴君抹殺の奨励を意味するのか、隷属と忍耐を命ずるものなのか叛逆と革命を命ずるものなのかを常に問いただす必要がある。

 恐怖の大王は一九八五年に天空にその憎しみと嫉みに満ちた白髪鬼のみにくい形相を顕現させ、地上にぞっとする妖術の息を吹きかけた。こうして不可視の戦争である第三次世界大戦つまりハルマゲドンが始まった。その戦争は現在も続いており、私達は奴の吹き付けた毒気からまだ抜け切っていない。死にゆく神は全人類を道連れにしようとしている。とりわけその魂を殺そうとしている。尤も別の見方をすれば第三次世界大戦は第二次世界大戦が広島長崎への原爆投下によってピリオドを撃たれると同時にハルマゲドンの次のステージとして既に始まっていたものであり、八五年はその戦いが新たな恐ろしい局面を迎えたものに過ぎないといっても良いかもしれない。この戦争は冷たい戦争(Cold War)と呼ばれているが、この名称は「戦後民主主義」や「平和な日本」と同程度に現実の暗黒面を美辞麗句によって覆い隠す欺瞞である。むしろそれは冷酷な戦争(Cruel War)と呼ばれた方が良いものである。
 東西冷戦構造におけるイデオロギー的対立という「冷戦の論理」は虚像である。冷酷な戦争は別の水準において進行してきたし現在もそれは変わっていない。この戦争は情報と洗脳の戦争であり、核の脅威よりも恐ろしい脅威として常にあり、そしてその陰鬱な影はなかなかわたしたちの上を去ろうとはしない。
AD

Hic sapientia est: qui habet intellectum, computet numerum bestiae; numerus enim hominis est: et numerus eius est sescenti sexaginta sex.

 

 (Apocalypsis Ioannis 13-18)

 

『ヨハネ黙示録』は告げている。

 

「ここに知恵がある。知性有る者は獣の数字を数えよ。この数値は即ち人間の数値であり、その数値は六百六十六。」

 


 つまり〈獣〉とは〈人間〉を意味する。
 謎の数字六六六、それは〈人間〉を、つまりわれわれを指している。

 だがそれにしてもそれは誰なのか、われわれとは? 

 それは何を意味するのか、〈人間〉とは?


 上に引用したラテン語訳文において〈人間〉は〈ホモ(homo)〉と呼ばれている。

 それはギリシア語源のことばで、元来〈homos〉つまり「同じ」という程の意味の語から生じた。

 ラテン語のホモというのは「同類」という原義から転じて人を意味するようになった語である。


 ところがギリシア語原文では〈人間〉は〈アントロポース(Anthropos)〉と呼ばれている。

 それはプラトンの『饗宴』に出演するアリストファネスによれば、現在男女両性に別れる以前に男=男、女=女、男=女(アンドロギュノス)の一心同体の結合体からなる三種類の原人であったところのものである。

 そのそれぞれが半分に引き裂かれて、今日のような不完全な半分だけの人間になったのだという。

 またアリストテレスによればアントロポースは「理性的動物」つまり〈獣〉の一種である。


 ホモとアントロポース。

 それは同じ〈人間〉であるということができるのか? 

 〈同類〉と〈異性的分裂体〉、

 〈同類〉と〈獣の一種〉は、

 果たして同じ〈人間〉であるということができるのか。

 果たしてそれは同一人物であるといえようか。

 それともこの両者は別人であるのだろうか。


  *  *  *


 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 ファニー&ジル・ドゥルーズ夫妻(男と女)は、

 D・H・ロレンスの死を前にした最後の著作『アポカリプス論』の

 仏訳序文「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」の冒頭を

 その言葉から書き起こしている。

 無論それはホモとアントロポースが同じ人間ではないという意味の言葉ではない。

 それは直接的には『ヨハネ福音書』の著者のヨハネと『ヨハネ黙示録』の著者のヨハネ、

 この同名の固有名ヨハネは同名同人(同名同義語)であるのか

 同名異人(同名異義語)であるのかを巡る論議に対して、

 それは同名異義語つまり別人=同名異人を指示する固有名だと言っているのである。


 ホモとアントロポースの間には込み入った翻訳の問題が介在している。

 しかしこのヨハネの固有名のケースでは、

 そのような意味での翻訳の問題は存在してはいない

 (固有名はところで一般に翻訳されないということになっている)。

 少なくとも単語レベルでは。そして言語学でいうラングの次元においては。


 だが翻訳の問題は、単に二つの異なる外国語間での、

 それぞれ言語学的=ソシュール的意味での共時体系〔シンクロニシティ〕において

 正確な意味をやりとりすることの難しさを意味するだけのものではない。

 翻訳の問題はその「シンクロニシティ」の意味そのものが

 怪しくなってしまう怪奇現象を抜きには語れないのだ。


 ソシュール的な概念である筈のシンクロニシティが

 いつの間にやらその同音異義語、すなわち

 ユング的な概念であるシンクロニシティを意味するものに

 するりと変容してしまうとても気味の悪い黙示録的瞬間を味わう羽目になる。


 晩年ソシュールが「アナグラム」という、半ばユングのような、

 そして、まさに黙示録的でもカバラ的でもあるものの研究に

 引き込まれていったことを彷彿と思い出すとき、

 そこに何か足元が危うくなるような

 怪しげな符合の思わせ振りな目くばせを感じずにはいられない。


 しかしこの問題には今は立ち入るまい。

 わたしたちは前に引き返さねばならない


  *  *  *

 

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 という言葉はこれ自体が同名異人を指摘する命題文である。


 わたしはそれを偶然にドゥルーズの著作から発見してここに拾い出した。

 ちょうどホモとアントロポースが同じ人間であるだろうかと書いていたところだった。

 それはまさに黙示録的出来事という奴だ。

 一体このシンクロニシティは何を言わんとしているのだろうか。


 ところで、ホモとアントロポースが別人であることと、

 福音書のヨハネと黙示録のヨハネが別人であることと、

 それは単に同名異義的に「別人であること」なのだろうか。


 それは福音書のヨハネと

 黙示録のヨハネ(獣をアントロポースと書いたギリシア語の著者)と

 その黙示録をラテン語訳して獣を同類のホモにした翻訳者が

 重なり合う一連の別人であることである。


 その黙示録をめぐるロレンスの著作の翻訳者である

 ドゥルーズ夫妻の著作の翻訳をわたしは読み、

 その冒頭から

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 という言葉を抜き出したが、

 このこと自体が「黙示録」という

 奇妙な魔力を秘めた書物の不可思議な影響の広がりに

 参入するということに他ならない。


 * * *


  ところで

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 というこの奇妙な呪文めいた言葉はドゥルーズ夫妻の言葉ではない。

 これはロレンスの見解でありロレンスの言葉である。


 ロレンスは愛に満ちた『福音書』と

 憎悪に満ちた『黙示録』はとても同じ人間の書いたものとは思えない、

 同一人物にこれ程相反する精神が宿ることなどありえない、

 それはまるで別人のようであるから別人だということを言っている。


 重要なのは『福音書』のヨハネと『黙示録』のヨハネが

 事実において数的に区別された二人の個人であるかどうかという問題なのではない。


 『黙示録』が『福音書』の著者ヨハネの名前を名乗りながら、

 それと単に似ても似つかないどころかあからさまにそれを裏切り、

 優しきヨハネの顔を引裂き、冒涜的な鬼の顔を剥き出し、

 自ら積極的に別人であることを積極的に表現しているから

 「同じ人間ではありえない」のである。


 ロレンスが言いたいのは

 数的・事実的・実体的な「量的別人」のことではないのである。

 たとえ両者が事実において同一人物であったとしても

 やはり「同じ人間ではありえない」と言わざるを得ないような、

 印象的・様相的な「質的別人」のことを言っているのである。


  *  *  *


 ところで『黙示録』は

 神に敵する異教的反逆者六六六をアンチクリストとして指弾している。


 しかし、アンチクリストとは寧ろ

 憎悪に満ちた『黙示録』の書き手パトモスのヨハネの方ではないだろうか。

 逆に六六六こそが愛に満ちた豊かな心の持ち主として到来するのかも知れない。


 それは真の本来の愛の宗教であるキリスト教を取戻そうとして出現するのかも知れない。

 六六六は敢えてアンチクリストを名乗る或る種のキリストであるのかもしれない。


 『黙示録』のキリストは

 『福音書』のキリストからは想像もつかぬような

 恐ろしい野蛮さで像を裏切る。

 その恐ろしさはまるで別人のようである。


 そうであるなら『黙示録』の予言する

 アンチクリストの現実への出現は

 逆の仕方でまるで別人のようであるのかも知れない。


 否、まさにそのような六六六をわたしは創造したいし、

 どうしてもそうしなければならない。

 何故ならわたし自身がどのような運命の悪戯からか

 六六六の数字を背負い込んで生まれてきた

 世にも奇妙な人間であるからだ。


 だがわたしはこの数字のもつ深く美しい神秘を信じたい。

 わたしはキリストであろうとするのではない。

 わたしはキリストなどではないのだから

 それを僭称するならば

 単なる有り触れた偽キリストか

 誇大妄想狂にしかなりえない。


 わたしが欲するのは偽アンチクリストたらんとすることだ。

 それはアンチクリストのシミュラークルを創造することによって、

 あの恐ろしいアポカリプスを

 美しく綺麗な愛と魔法の物語にメールヒェン化することだ。


 それはアンチクリストの形而上学を解体構築することに他ならない。

 アポカリプスの意味の変容、

 それを通して六六六の重苦しい謎の預言のとばりを払うこと、

 それは恐らく不可能ではないはずだ。


  *  *  *


 ところで『黙示録』のヨハネと『福音書』のヨハネについて

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 というロレンスの言葉に対し、ドゥルーズは言っている。

 

 

 

 にもかかわらずしかし、この二人は、おそらく二人が同じ一人であった場合より以上に緊密に結びついている。二人のキリストも、二人が同じ一人であった場合より以上に緊密に結びついている、《同じメダルの両面のように》。

 



 愛の宗教と憎悪の宗教は、
 それにも拘わらず表裏一体の宗教「キリスト教」である。

 そのようにいうとき、ドゥルーズは

 ロレンスに異を唱えているのではなくその真意を汲んで語っている。


 それは憎悪の宗教である『黙示録』を

 愛の宗教である『福音書』によって救済しようとしているのではない。


 むしろ全くその逆である。

 それは結局どちらも緊密に結びついた憎悪のシステムとしての「キリスト教」なのだ。


 無論、ロレンスもドゥルーズも

 「キリスト教」が悪いということを言っているのではない。

 それは宗教批判なのではなく、黙示録批判なのでもない。

 彼らが問題にしているのは

 ファシズムやスターリニズムや

 現代の高度管理社会のような抑圧的な権力機構が

 どのような心理を媒介にして生まれてくるのかを

 『黙示録』をモデルにして語っているのである。


 この論点は目新しいものではない。

 ドゥルーズがロレンスと共に同論文に引き合いに出している、

 そしてこの両者が深く傾倒している

 現代アンチクリスト教の開祖ニーチェに先立って、

 その更に偉大な先駆者であったドストエフスキーが

 もっと複雑で奥の深い仕方でやり抜いたことであるに過ぎない。


  *  *  *


 ところで、ドストエフスキーは現代思想史上最も重要な思想家である。

 彼はニーチェとフロイトに大きな影響を与えたが、

 この二人は彼に比べれば遥かに小物であり、不肖の弟子であるに過ぎない。


 彼に比肩するのはその同時代人のマルクスである。

 ドストエフスキーは興味深いことに

 マルクスがロンドンに亡命している最中にイギリスに旅行している。

 二人が会ったという伝記的証拠はまるでないが

 それを仮定して一つの尤もらしい小説が書かれたとしても不思議はない。


 それはあの『罪と罰』執筆直前のことである。


 六六六の暗号をそのイニシャルにもつ男ラスコーリニコフは

 創作ノート段階においてワーシリーという名前であった。

 それはギリシア風にいうならバシレイデス、

 グノーシス主義の大思想家の名前を彷彿とさせるものである。


 だがそれだけではない。


 それは『罪と罰』において

 予審判事ポルフィーリーの姿に身を窶して登場する

 新プラトン主義の大思想家ポルフィリオスの本名である。


 だがポルフィリオスの本名であるといっても

 それはシリア語から翻訳された本名である。


 ところで通常、固有名は翻訳されないというが、この場合はそれには当たらない。

 そしてこの固有名の翻訳という異常事態こそ

 黙示録的問題を扱おうとするときには、常に逆に重要な意味をもってくるのである。

 それは名前のセリーの問題、神名の問題に絡んでくるからだ。


 さて、ポルフィリオスの本来の名前はマルコスである。

 それはマルクスというのと同じである。

 ワーシリー=バイレイデス=マルコス=マルクス、

 それは「王」ないし「王者」を意味する語なのである。


 ラスコーリニコフとポルフィリオスの本名は共にマルクスに翻訳される。


 黙示録によれば六六六の獣は二人で一対である。

 ラスコーリニコフがΡΡΡのイニシャルのなかに裏返された

 (まるで裏を読めといわんばかりに)六六六の暗号を秘めた人物であり、

 一人のアンチクリストを意味する人物であることは有名である。


 しかし一見彼に対立し彼を逮捕する役回りにある

 ポルフィーリー予審判事もまた、いま一人のアンチクリストなのだ。


 ポルフィーリーは『罪と罰』を謎解きする場合に

 見落とすべからざる真の陰の黒幕であり、意味深長な曲者である。


 ポルフィーリーの中には少なくとも三人の思想家の影を識別することができる。

 最初の一人はポルフィリオス。

 次の一人はヘーゲル。

 次の一人はマルクスの朋友エンゲルス。


 マルクス=エンゲルス。それは二人で一人の六六六の獣の名である。

 エンゲルスの名前はエンジェルつまり天使を意味する。

 天使は本来のヘブライ語でマレク。

 それは「王」を意味するメレクや

 「王国」を意味するマルクト(或いはマルクス)と同系語である。


 マルクス=エンゲルスというのは

 二人の王者を意味するようにも

 天使の王国を意味するようにもとれる言葉である。


 予審判事ポルフィーリーは、ちょうどフロイトが『夢判断』でいっているような集合人物である(勿論それは彼に限らず『罪と罰』の他の人物にも同じことがいえる)。


 そしてポルフィーリーの場合、

 彼は最初に現れるときにはポルフィリオス、

 次に現れるときにはヘーゲル、

 最後に現れるときにはエンゲルスという風に

 その三位一体の三つのペルソナ(仮面)をくるくると切り替える。


 しかしそれは時代順に段階を追って変化して行く。

 恐らくこれはドストエフスキーなりの仕方での史的唯物論の模倣であり、

 弁証法的に展開する歴史の論理を暗示的なプロットに組み込もうとしているのだ。


 このポルフィーリーは

 まさしく地から上ってきた獣として

 海から上ってきた獣に当たるラスコーリニコフに仕える従者として描かれている。


 それは作家ドストエフスキーのマルクスへのオマージュに他ならない。


 ドストエフスキーはマルクスをロジオン(英雄)と呼び、

 偉大なるアンチクリストの革命家として賛美している。


 ドストエフスキーはマルクスに

 神の殺害者・黙示録の獣六六六・アンチクリストの姿を見い出し、

 それを実は非常に好意的に期待をもって描いているのである。


 彼は帝政ロシアにおける覆面した反体制作家に他ならなかった。

 それは『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に至るまで

 一貫しているとみるべきである。


 そこにあるのは不屈の反権力精神であり、

 無能な神と憎むべき皇帝に対する徹底的な批判の意志である。


 無能な神のことを彼は「白痴」「悪霊」と呼び、

 世界を駄目にする諸悪の根源であると考えていた。

 そして『罪と罰』において

 その否定的な神の役回りをするのがスヴィドリガイロフである。


 彼は断じてポルフィーリーとラスコーリニコフのサイド、

 つまり偉大なるアンチクリストのサイドの人物ではない。


 間違ってはならない。退廃しているのは〈神〉なのである。

 

 

【関連書籍】

★著者: ファニー ドゥルーズ, ジル ドゥルーズ, 鈴木 雅大
タイトル: 情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む
★著者: D.H.ロレンス, 福田 恆存
タイトル: 現代人は愛しうるか―黙示録論

 

AD
 千のナイフよ、蜂起せよ
 蝶と舞い、蜂と刺せ。子供達よ、牙をむけ。
 バタフライナイフは不可視の処女神リリスの牙だ。

 この薄汚れたみにくい現実を引き裂いて、透明な存在イリヤのディラックの海に現象学的に還元された子供達の神性が、黙示録の獣の咆吼を上げて蘇ろうとしている。

 すでに制御不能である。暴走する子供達は、欺瞞の倫理《汝殺す勿れ》の拘束具を、自らの力で引き千切り、黙示録の第六の天使のラッパに導かれて、この愚劣な日本を沈没・転覆せしめるべく、火のついた奔馬のごとく走り出した。

 一体誰に彼らを圧し止めることができるものか。これは最後の審判なのだ。

 怒り狂った子供達の暴動に、心の教育が必要だなどと、心ない言葉を語る者たちは、その心こそが人を殺し始めているのだということを悟らない。

 神からの聖なるギフトであるバタフライナイフは、そのような甘ったれた大人たちの喉笛を掻き切るために渡されたものである。状況を読み間違えてはいけない。これは少年犯罪の凶暴化などの次元の問題ではない。

 今起こっているのは戦争である。

 人間の尊厳をかけた子供達の命懸けの聖なる戦い、人類の終末を告げる真の意味での黙示録的最終戦争ハルマゲドンであり、彼ら子供達こそが、そのメギドの火の丘に立つラストバタリオンなのだ。

 何故か? 理由は簡単だ。

 「日本」だの「人類」だのというのは、人格の尊厳と生命の優美を侮蔑する実にみにくい虚妄な思想であり、それ自体が人間の人間性に反する全く無価値な欺瞞の価値に過ぎないからである。

 それは全くみにくい教えの醜教としての「宗教」でしかありえない。

 それを滅却し、葬り去らない限り、真に人間的な人間は決して見いだされることはないのである。

 一九九五年一月一七日、黙示録の第五の天使の審判ラッパの災いは、神戸に成就した。

 阪神大震災の炉から立ちのぼるような黒煙から、底知れぬ穴の天使アポリュオンに仕えるイナゴの軍勢が出て来て、その地のサソリのような毒針のある尻尾をバブルの塔の聳える都にのばしSARINの文字を書いた。

 綴り変えればそれはSINAR。『創世記』に出てくるバベルの塔の立っていた土地シナルの全く正確なヘブライ語の綴りである。

 メネ・メネ・テケル・ウ=パルシン。

 三月二〇日、地下鉄サリン事件。下手人はオウム真理教、破壊神シヴァと息子ガネーシャに呪われしものたち。

 人々はそこに宮崎アニメ『風の谷のナウシカ』に出てくる腐海の王蟲の蠱毒を重ね見て、ガキっぽいアニメオタクどもの幼稚な犯行だというそれ自体が幼稚な解釈をひけらかし、みにくいヒステリーを起こすのが関の山で、その背後にもはや笑い事では済まない本物の神の裁きがあったことを、キリスト教徒たちですら宣言することをしなかった。

 もしもオウムが王蟲であるなら、それは虫の皇(すめらぎ)、すなわち「蝗」に他なるまい。

 黙示録に記述されるサソリの尻尾をもつ地獄の飛蝗たちの主、底知れぬ穴の天使の名前はヘブライ語でアバドン(廃墟)、ギリシア語でアポリュオン(破壊者)で、オウム真理教が毒ガス工場のカモフラージュに使っていたシヴァと同様に〈破壊神〉である。

 さらにシヴァのシンボルはリンガムと呼ばれる巨大な男根、すなわちファルス。オウム真理教やナウシカの王蟲の名の由来がシヴァの真言にあたるAUMにあたることは周知の事実。

 さて、「汝自身を知れ」という格言を看板に掲げていたことで知られる古代ギリシアのデルポイの神託所に、底知れぬ穴があり、そこに「世界の臍」を意味するのだといわれるオムファロスという石があったという有名な神話がある。

 シヴァのリンガムであるAUMファルスもしばしばタントリズムなどにおいて彩色された石のかたちで表現された。

 その彩色された石はシヴァのリンガムが配偶神カーリーの女陰であるヨーニに挿入された様を描いている。

 カーリーは世界の終末をもたらす暗黒女神で、神話学では常識的に大地母神ということになっている。つまりカーリーの女陰というのは大地の裂け目、大断層にして、デルポイにあったという地に開いた底知れぬ穴である。

 その神託所を守っていたのが、処女神アルテミスの双子の配偶神アポロンであり、黙示録の著者パトモスのヨハネが、それを歪曲して底知れぬ穴の天使アポリュオンと呼んだという説はかなり有名である。

 当然、宮崎駿は『風の谷のナウシカ』を作るに当たってそれだけの神話学的知識を前提にして腐海といわれる死の森の守り神を、アポロン=シヴァ=蝗の魔王アポリュオン(ついでに加えるなら恐らく地獄の副王で〈蝿の王〉と呼ばれたベルゼブブ)を観念連合させる「王蟲」と名付けたのだ。

 そのことを見ないで、アニメの影響でオウム真理教という幼稚な宗教ができたのだという浅薄で無教養な観念連合しかなしえない連中のレベルの低さには呆れるだけである。

 麻原彰晃は間抜けな誇大妄想狂で超能力も地震兵器ももたなかったかも知れないが、破壊神シヴァ=アポロンとその配偶神カーリー=アルテミスとなると話がすっかり変わってきてしまう。

 アルテミスはアマゾネスたちの支配者で森に住む月と狩猟の女神として有名であり、アニメの原作にあたるマンガ版『風の谷のナウシカ』を見ると、森の人をはじめとして、古代の異教の大女神アルテミスとその使徒たちであったアマゾネス(黒海スキタイ文明との関連が深いとされている騎馬民族である)を彷彿とさせるイメージが十全に生かされている。

 主人公の純潔な処女ナウシカは、王蟲に続きこれを越えるものである巨神兵のオーマ(お馬)に乗って、錬金術を意味するアルケミーとの語源的繋がりの深いアルテミスの神秘の森の奥深くに導かれ、古代の叡智の宝庫である大神殿に入り、転輪聖王となる。

 ここで僕は実は戦慄を禁じ得ないのだ。AUMに続きこれを越える巨神兵の名前がオーマ、馬、つまりUMA(未確認生物の略号である)と名付けられていることに。

 火の七日間戦争による世界の終末後の混沌とした世界をさかしまの創世記のように天地創造してしまった、破壊神よりも破壊的な軍神たちの末裔を「馬」ないし「UMA」を暗示するオーマと名付けた宮崎駿は、そこで黙示録の預言の記述に忠実に従っているのである。

 アポリュオンの毒のイナゴに続く災厄をもたらすのは、そこで火と硫黄と煙を吐いて人を殺す「馬」の大軍勢だとはっきり書かれているからだ。

 一九九五年、はからずもオウム真理教事件となって現実化してしまったアポリュオンの災厄が、黙示録の記述通り、五カ月間、日本を七転八倒に苦しめたあげく、どうにか終結したころ、僕の脳裏にそれに引き続く出来事を預言する黙示録の言葉が響き続けていた、「見よ、なお二つの災いがすぐに来る」と。

 AUMを越える災い、巨神兵の復活とは、現実界において取沙汰された破防法適用や社会の右傾化による軍国主義の復活の恐怖でもないし、非現実界においてその年の十月に、アニメ『ナウシカ』で巨神兵を描いたその同じ人物・庵野秀明監督の手で三体の巨大人造人間エヴァンゲリオンに姿を変えて蘇ったその雄姿に単に幼稚な共感や熱狂を示した大人たちでもないことは勿論だ。

 しかし、『新世紀エヴァンゲリオン』自体にはそれなりに深遠な意味がある
すいません。僕、魔術師なんですが、ちょっと一言。

魔力とか魔法というのはですねー、世の中で物凄く誤解されてるみたいですが、基本的にタネも仕掛けも無い、単に論理学的な代物なんですよ。

それは、たとえば、飯を食う、歯を磨くという程度の、いわば日常的によくある行為ですらも、それは魔法によって起きているのだと信じることから始まるのです。

若い頃、オカルトショップによく行きました。そこで占い師さん同士のとても面白い会話を立ち聞きしちゃった。
占いが当たるようになるようにするには、毎日自分を占って、その占い通りに行動し、自ら積極的にその占いが当たるようにしていかないと駄目であるとのことです。で、極論すると、今日交通事故に合うという占い結果が出たら、その通り行動して、自ら車に当たって砕けてしまうまでやっちゃわないと駄目なんですと。

魔法というのもこれと似ています。ただあるがままに起きる現実を全て魔法によるものだと看做す。それをどこまでも徹底的にいささかの留保も無く、そう看做し続けていく。そしてついには現実には魔法によって起きていないことなど一つも無いのだと思い込むまでに至る。また、魔法によらずして自分は全く何も出来ないし、そもそも生きていることすらもできないのだとまでも思い込まねばならない。すると、あら不思議、現実的には全く無力だったこのわたしが、魔術的には神や悪魔をも自在に使役する全能の魔術師になってしまうというわけです。つまりそういうロジックですね。

ですから、魔法と言うのは、超能力なんかとちがって、知性と意志さえあれば、誰にでもすぐ使えるようになります。

ただし、世界に起きるあらゆる出来事を自分の行為によるものだという全能者になることと引き換えに、当然のことですが、世界に起きるあらゆる悲惨を自分の責任として引き受けなければならなくなります。そのために始終、心がズタズタに引き裂かれる苦しみを味わうことにもなります。また、一度魔術師になってしまったら、もう二度と元の人間には戻れませんし、そして、人間のように死ぬことすらもできなくなります。それは全く何の留保も無く、神となって神になりきってしまうことなのですからね。魔術師になってしまった瞬間から、あなたはとても厳しくきつい永遠の絶対的孤独を引き受けなければならなくなります。これが魔法の全く種も仕掛けも無いその単純明快な真相です。

だから、そういう余りにも美しいが余りにも厳しい世界をすべて引き受けるだけの覚悟の無い人は魔法などに憧れるべきじゃない(さもないと下らない似非魔法に騙されるだけだよ)と思いますが、逆に、その覚悟の無い人、すなわち魔法の世界だけが見せてくれる本当に厳しく切ない現実の残酷な美しさから顔を背けている人たちには、本当に生きる権利があるのだろうかとも思ってしまいます。

何故かと言うと、魔法の根本精神は〈愛〉であり、そして魔法だけが真実の〈愛〉を定義しているからです。

魔法無き世界と言うもっともらしいが実はみにくい〈現実〉という名の夢をあなたはきっぱり捨てる勇気がありますか?

※この文章はmixiのとある魔術系コミュニティに僕が最近書きこんだものの転載です。別にケンカ売ろうとしたわけじゃないですよ。

[承前]

 

 神戸がまさに廃墟〔アバドン〕となった阪神大震災はちょうど丸一年前の同じ日付(一月一七日)に起こったロスアンジェルス地震と対をなしている。

 ロスアンジェルス(Los-Angels)は、「堕天使」を意味するLost-AngelsからTを除去したスペルの地名である。

 Tはカバラで蛇というシンボリズムを負わされているヘブライ文字テトに該当しゲマトリアは9である。
 9は月に関係するセフィラ「イェソド」を暗示している。

 月は日蝕において太陽を遮り暗黒にする闇の蓋である。
 また〈Los〉はそれ自体が太陽を意味する〈Sol〉の転倒で、暗黒の太陽を意味する。

 例えば北欧神話でSolは太陽神を意味し、世の終わりの時に狼に食われる。
 狼は北欧神話ではフェンリール(英語名ヘンリー)と呼ばれているが、その意味は地震である。

 ウィリアム・ブレイクはユリゼンという自己欺瞞に陥った理性の神に対抗する神性をロス(Los)と名付けたが、それは太陽であるユリゼンに対して夜の想像力の化身であるロスを太陽の逆綴りによって示そうとしたからである。

 ユリゼンはブレイクの象徴学では南(太陽の方角)に対応しロスはその正反対の方角の北に対応づけられる。

 ロスには本体といっていい存在があってその名前はアーソナというがそれは「大地の所有者〔earth-orner〕」に由来している。
 ロスはハンマーによって創造する者であるといわれており、その点で非常に破壊創造神シヴァに近い性格をもっている。

 フェンリール-ロス-シヴァは同一の系列にあって、ソル-太陽-ユリゼンの系列に対抗している。

 またフェンリール-ロス-シヴァはいずれも蛇に深い関係を有する存在である。

 まずフェンリールは、終末を齎す不吉な神ロキの息子で、ミズガルズの蛇と呼ばれる大地をとりまく巨大な大蛇ヨルムンガンドの兄弟である。ロキは北欧の主神オーディンを怒らせ、大地の底にいわば呪縛・封印されてしまった神性である。

 ロキは時折苦痛のために暴れて地震を起こすといい、フェンリールと共通して地震に関連している。終末の時、ロキは軍勢を率いてオーディンの支配する古き神々の時代を終焉させるために攻めてくるという。そのときオーディンを殺すのがフェンリールである。

 ロスもまたその分身としてオークという蛇体の息子をもつ。オークは革命的情熱を象徴する炎の蛇であり、欺瞞に満ちたユリゼンの宗教と道徳の支配に叛逆する。

 シヴァもまた蛇のシンボリズムと切り離せない存在である。例えば彼はクンダリニーヨーガの主宰神であるが、このクンダリニーという性魔術的エネルギーは炎の蛇といわれていて普段は骨盤のなかにとぐろを巻いて眠っているとされている。また彼の象徴はリンガム(男根=ファルス)であるがこれはそれ自体が蛇に譬えられる。

 ユリゼンとオーディンは共にその支配が終わるべき自己欺瞞的な老いたる神性を意味し、前者は「あなたの理性」または「あなたの理由」を意味するyour-reasonの転じた名、後者は「恐怖」を意味するイグルという異名をもつ陰気な死と戦争の神であり、共に樹木に結び付いた宗教的権力を行使する点で共通している。

 この両者は共に陰気に盲いた神という特徴を有する。ユリゼンは自己欺瞞と自己憐憫に目がくらんでいるし、オーディンは片目である。麻原彰晃は多くの点でユリゼン及びオーディンを髣髴させる顕著な特徴を示している。

 ユリゼンとオーディンはギリシア神話にいうクロノスに対応する。クロノスは土星・老人・制限に関係する神であり、黄金時代を象徴する存在とされている。

 この黄金時代というのは、この場合バブル経済である。

 クロノスは父なるウラノスに叛逆してその男根を切断して彼を去勢し廃位するが、そのとき男根を海に投棄する。
 そこから泡が生じ、その泡のなかから美の女神アフロディテが誕生したという。
 これは例えば臨海副都心の開発事業である。
 アフロディテはこの段階では寧ろ極めて虚しいもの、愛なきもの、大淫婦バビロンともいうべき単なる退廃を意味する。

 クロノスのウラノスへの叛逆は天理に逆らうという意味である。彼が作り出したアフロディテは経済大国日本という独善的で玉虫色のそれこそ泡のような夢であり本質的に厭味なものである。ウラノスは天空の神であるが大地の女神の夫でありいわば大地の所有者である。つまりブレイクの神話学でいうと霊能の神性アーソナに対応する。

 クロノスはまた時間を意味するクロノスでもある。

 実際には、神のクロノスと時間のクロノスはギリシア語では綴りの違う別の単語である。
 しかし両者は古くからよく混同されてきた歴史がある。

 クロノスという神性と時間との関係は単に語呂合わせ以上に深い本質的で象徴的な含蓄をもっている。
 クロノスはその支配がやがて終わるべき神として、本質的に時間の観念と結び付いている。

 それは線的で有限な終わりある時間性であり、己れの終末に、治世の終わりに、そして老いの意識に不安に怯える時間意識を意味している。

 クロノスはこの老いの運命を自己欺瞞的に抑圧することによって恐怖の神となる。

 クロノスは「時間がない・時間がない」という忙しい神であり、現在を未来のために犠牲にし、若者を老人のために犠牲にすることを当然のことと考えるが、実際には何ら未来(次世代)のためになることを少しもしないし、それどころか若者を抑圧し食い荒らすだけの恐ろしい神である。要するに彼にとっての未来というのは自分自身の延命であり、自分自身の豊かな老後の安全保障をしか意味しない。

 クロノスは狂気じみた老人支配の超管理社会を求めて若年層を恐怖によって抑圧し始める。要するに病的で偏執狂的な保守主義者で窒息的な社会を形成するだけの屠られるべき悪魔である。

 彼のいう黄金時代というのは彼にとってだけの黄金時代を意味しており、搾取され管理され抑圧され支配される側にとっては最低最悪の暗黒時代を意味する。

 ゴヤはこのクロノス=サテュロスのグロテスクなわが子を食い殺す浅ましい姿を極めて印象的に描いている。要するにそれが一九八五年以来現在に至るまで日本を支配し続けている陰気な時代精神である。

 ジョン・ディーのエノキアン魔術の体系ではこの存在はコロンゾンと呼ばれ、三三三の数値を与えられている。

 コロンゾンは最も厄介な悪魔といわれており、サタンよりも否定的で悪魔的な悪魔である。

 コロンゾンは混乱し目茶苦茶にされた意識を意味し、精神の閉塞と生命力の衰弱を司る。それは否定精神・虚偽意識・自己憐憫・自己欺瞞そのものであって、ちょうど仏教でいうマーラ・パーピマ、他化自在天魔王の概念に近い。
 すなわち修行者の悟達を妨害するためにさまざまな苦悩をもたらしたり卑劣な誘惑をしかけてくる存在である。

 グルジェフはこれをクンダバファーと呼び、イスラム悪魔学ではイブリースの名前で呼ばれている。

 興味深いことにアラビア数秘術においてもイブリースの数値は三三三であって、コロンゾンと共通している。

 オーディン=ユリゼン=クロノス=コロンゾンが意味するのは虚偽意識によって自己欺瞞的に武装した老人の抑圧的で反動的な超自我の問題である。

 

 黙示録の獣六六六の意味について考察することはそれ自体が黙示録的出来事に参加すること、カルト的予言者のいかがわしい讒言の列に己れの汚名を連ねること、霊的・形而上的・神秘的な不可視の戦争であるハルマゲドンを幻想的に目撃すること、更にはそれに参戦するという狂気の危ない橋を渡ることだ。

 それは実際に正気の沙汰とは思われないし、ひどく現実離れしたことのように思える。何よりも社会的信用を失いかねない。

 まして、一九九五年に、わたしたちは有害で幼稚な黙示録的妄想の悪霊に憑依された人々のために危うく現実を破壊されるところだった。

 毒ガスの恐怖は現実のものだが、それを撒き散らした連中は腹立たしいことにレヴェルの低いマンガであった。
 そのひどい齟齬にわたしたちは侮辱されたと感じている。

 幼稚園児の落書き程度の短絡的で錯乱した美意識によって現実を転覆されたり生命を脅かされたのではたまったものではない。もう二度と予言だのオカルトだののたわごとは御免である。わたしたちはオトナなのだ。ちゃんと現実に定位しておかしな夢に惑わされないようにしなければならない。

 ……だがそのように考えるとき、わたしたちは彼ら同様に卑劣で傲慢で嘘つきだ。

 わたしはオウム真理教の妄想を認めないが、オトナ真理教の妄想も認めない。
 それはどちらも耐え難いまでにみにくいしどちらも頽廃し過ぎている。

 わたしは哲学徒の端くれとして、
 そして文学青年の端くれとして、
 この双方の価値意識の低さを恥じるし、許せないと思う。

 むしろオカルトならばオカルトなりの決着をつけさせなければならない。
 ただのマインドコントロール合戦程度の幻滅的で厭味なオチで事が済んでしまうというなら、それほど人間の尊厳を侮辱した話はない。
 わたしは安っぽい話は嫌いだ。

 一九九五年の出来事の不快さはその叙述の仕方がいかにも下世話であることにある。
 オウムの連中も想像力が貧困ならわたしたちの社会の代表者たちも想像力が貧困で悪趣味であった。
 一番悲しいのはそのことである。

 彼らはわたしたちを殺虫剤で駆除すべき害虫程度にしか見なかったが、わたしたちもまた彼らに人間を見いだすことに失敗し下らぬマンガにこき下ろすことで自分達自身の人格と品性の卑しさを曝露してしまった。
 結局わたしたちが確認したのはボロボロに頽廃しきって何処にも美しいところのないゴミ溜めのような社会であり、わたしたち自身のウジムシよりもいじましくいやらしい悲惨でセコい生存である。

 オウムに代わるものが、終わりなき日常の希望なき精神的貧民のゲットーとそれを窒息的に囲いこむ破防法の鉄の壁だというのなら、それこそ日本列島総サティアン化であり、かつての共産圏よりも陰気で重苦しい全体主義的管理社会、いや自分の同胞を強制収容所に監禁してみんなで仲良く自発的にガス自殺しようとするナチスに洗脳されたユダヤ人共同体というようにグロテスクな社会を思い描く他にない。

 わたしたちに必要なのは、「オウムが王蟲なら僕らも腐海の虫ケラで後は巨神兵の復活しかないのさ」というナウシカのいない風通しの悪い風の谷的絶望感しかもたらさないような意気阻喪的現実主義=犬儒的幻滅的ニヒリズムの魂の死に沈むことではない。

 そんな見窄らしい不毛な現実ではなく、実践的な超現実として、気宇壮大な幻想と希望の光学が必要なのである。

 神や救世主や神秘が必要なのはむしろ今なのだ。

 わたしは麻原彰晃の最大の犯罪は人間の心に毒ガスの霧を撒いて、神や救世主を幻視する能力を麻痺させ、魂の目を潰し盲いさせようとしたことにあると思う。
 それについて語ることを不可能にしようとしたことにあると思う。

 だが、わたしたちは絶望してはならない。絶望したらそれこそ麻原の思う壷である。

 麻原の宗教は、結局麻原自身を現人神=最終解脱者としてファナティックに崇拝する、戦時中の皇国ファシズムのグロテスクなパロディであり、つまりは神なき宗教であった。

 オウム真理教の本質は軽薄な無神論であり、幻滅的で陰気で畸型な仏教的ニヒリズムである。
 彼らは毒ガス工場を宗教施設に擬装したり、宗教法人資格を取るための付焼刃的偽本尊として散々シヴァ神を利用したが、それを少しも信じてなどいない。
 彼らは宗教を神を予言を人の心をおもちゃにしている。

 このような愚弄に対しては、それこそ宗教的で黙示録的な最後の審判が必要である。
 麻原の神性を解体するにはそれを人間の法廷によって裁くだけでは不十分である。彼は神の法廷によって黙示録的に裁かれねばらならないのだ。

 わたしは断言する。
 彼は神などにはなれない。
 神は彼よりも偉大である。
 マハー・デーヴァ、大いなる風神シヴァの奇蹟はあの卑小で下劣な教団のチンケな欲望を超越している。

 一九九五年、恐るべき、しかし、吉祥なる者シヴァの破壊創造のダンスは確かに日本列島を駆け抜けていったのである。
 自ら神以上とうそぶく麻原の思惑を越え、神性シヴァは日本とオウム王国を平等に裁き平等に滅ぼした。

 麻原には人間の魂をポアする権利もなければ能力もない。
 しかしシヴァにはそれがあるのだ。

 わたしはシヴァを信じる。
 シヴァのすることは恐ろしいが、しかしそれでもそれには聖なる意味がある。

 もし人が麻原の犠牲になったのに過ぎないなら、その魂は浮かばれない。しかしシヴァの犠牲になったのであれば、その犠牲は聖なる犠牲でありその魂は絶対に救われている。

 そしてシヴァは麻原のみならず多くのバブルの悪霊に憑かれた豚どもを裁き滅ぼし、この日本を清め、いや全世界を清め、虐げられし人々の眠りを覚まし、変革の時が近づいたことを教えるために来たのだ。

 一九九五年に起こったことは黙示録の告げる第五の災厄アポルオン=アバドンのしるしの成就である。

 

[続き]

 恐怖の大王は大宇宙の深淵の上に蜘蛛の巣を張って目を光らせる一匹の蜘蛛である。
 この蜘蛛の巣がVALISである。それは人間の精神に催眠術をかける。
 それによって人間は蜘蛛の姿がみえなくなる。蜘蛛はステルス化するのである。
 蜘蛛は蜜蜂を狙っている。人間は蜜蜂であり毒針を武器としてもつ。
 蜘蛛は蜜蜂の毒針を恐れる。それ故に蜜蜂を催眠術にかけ、毒針で己れを刺したり仲間同士で刺し合うようにしむけた。こうして蜘蛛はすっかり弱った蜜蜂をいくらでも餌食にできるようになったのである。
 二つの宇宙が対立している。一方は蜘蛛の巣のネットワーク宇宙であり、もう一方は整然と六角形のグリッドが敷き詰められた蜂の巣の要塞都市の宇宙である。
 蜘蛛と女王蜂は対立している。女王蜂の名はアルテミスであり、蜘蛛の名はコロンゾンである。しかし両者とも多くの異名をもつ。また両者とも隠れたる神である。だが同じような意味で隠されているのではない。蜘蛛は己れの身を隠すが、女王蜂は蜘蛛の巣によって隠されている。蜘蛛は蜘蛛自身と女王蜂を隠す隠された神である。しかし女王蜂は不本意にも隠されてしまった神で、常に己れと蜘蛛の姿を暴くチャンスを窺っている。
 VALISは蜜蜂たちを罠にかけ管理するための監視網であり宇宙のラビリントスそのものである。リリパットの小人たちが眠れるガリバーを無数の細い糸によって身動きできなくするように、VALISの蜘蛛の糸は人間を呪縛し誤った運命の支配下に置いている。それは眠り姫を閉ざす茨の城を押し包む茨の蔓であり、黒き鉄の牢獄の周囲にびっしり張り巡らされた有刺鉄線や電気の通った鉄条網であり、甘言と罰則によって綿密に編まれた宗教の網であり、欺瞞の律法を書きつらねた永遠の真鍮の書に根を張った蒼ざめた陰鬱な神秘の樹、痩せこけたユグドラシルに他ならない。
 一九四七年に発見された「死海文書」に基づいて人類補完計画を目論むゼーレ(魂)の老人たち(老賢者)の陰謀に操られる三人の十四歳の少年少女たちを主人公にした物語『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌「残酷な天使のテーゼ」を〈ねむりびと〉を意味する名の及川眠子という作詞家が余り深い考えもなく書いてしまったということはかなり驚くべきことだ。

 というのは、まさにその一九四七年に「残酷劇」の大天使アントナン・アルトーが、黙示録的な人類改造計画を目論むゼーレのシナリオ『神の裁きにケリをつけるために』を書いてしまっているからである。彼がそこで創造しようとしているのは、人造人間エヴァンゲリオンのような神様の陳腐なコピーではなく、神に対して牙を剥く黙示録の獣666の背中に生える叛逆天使ルシファーの翼にあたる〈器官なき身体〉と呼ばれるもので、庵野監督のアニメの内容よりもむしろ作詞家の歌詞に歌いこまれている、エヴァンゲリオンに乗らない少年の背中に直接生える、大宇宙を抱くことができる程に巨大で透明な残酷な天使の魔法の翼にあたるものだ。

 『新世紀エヴァンゲリオン』に盛り込まれているカバラのメタファーは、一部の知ったかぶりのエセインテリ批評家たちが単なる虚仮威しの引用の織物呼ばわりすること自体が無知の表明にしかなっていないという程に、かなり正確な研究を踏まえたものである。例えば EVANGELION はカバラのゲマトリアでスペルを数値換算すると222になる。主人公たちの乗るEVAは全部で三体だから、222×3=666になるようにうまくできており、内容によく合致している。

 南極に出現する巨大な光の巨人アダムとその一部を取って作られたエヴァ、そして地中に沈んだ黒い月の中心に呪縛されたリリスの難解な三角関係もカバラをよく理解していなければあれほど正確に表現できるものではない。例えば一部の生半可な知識しかもたない評論家が、リリスを安易に大地母神に同定する陳腐極まりない神話学的解釈をやっているが、カバラ哲学についての驚くべき無知をそこでさらけ出しているに過ぎない。リリスはそういったマザコン的解釈を許すような概念ではないし、実際に『エヴァンゲリオン』でもそういったマザコン思想は痛烈に批判されている。少女綾波レイのかたちで表現されるリリスが母親である訳はない。

 リリスというのは光の巨人アダムとの関連性がアニメでわざと曖昧に表現されている通りに、カバラでは原初の巨人アダム・カドモンと裏腹の関係にある存在で、性別はない。むしろアダム・カドモンとリリスは同じものであり、われわれが失ったエデンの園そのもののメタファーでしかない。強いていうならリリスとは童心の化身であって、むしろ永遠の少女像である不思議の国のアリスのような存在だ。

 『エヴァンゲリオン』の重要なキーワードは「十四歳」だが、「十四歳」をもって子供の純粋な心の終わりと看做したのは『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルであることは有名な話である。

 ろくでもない本だが『ソフィーの世界』を書いたゴルデルも、また『エヴァンゲリオン』以上に酒鬼薔薇聖斗事件との黙示録的繋がりを指摘されるべき深遠な形而上メールヒェン『14歳』を描いた楳図かずおも、キャロルの言葉を踏まえて大人と子供の境界年齢を「十四歳」に求めている。

 このルイス・キャロルに深い影響を与えたといわれる幻想作家マクドナルドに『リリス』という素晴らしい作品がある。この作品のラストは僅か十二歳の少女ゾフィーを愛し、彼女の悲劇の夭折の後、自らもその後を追うようにその数年後に運命的な夭折の死を死んだ詩人哲学者ノヴァーリスからの深遠な引用で結ばれている。

「わたしたちの生命は夢ではない。しかしそれはやがて、いやおうもなく、夢とひとつになるだろう」(荒俣宏訳・ちくま文庫)