廣松渉は〈もの〉や〈実体〉を〈こと〉という関係性に還元してみている。
 関係の一次性はニュートラルな認識論的・存在論的見地から一応は語られているが、問題はそれが現実の社会関係に媒介されて否応無く別の意味を負わされてしまうことにある。
 それは実体に対する否定的な見方と関係の優位性という或る種の価値観である。
 そこには個人を単なる社会関係の結節に過ぎぬものとし、その主体的自立性を解体し、共同主観性に還元してゆくべきだという反動への倒錯がゆるやかだが恐ろしい力として無気味に働いている。
 廣松の思索はそれはそれとして学問的意味においては妥当だし優れたものとして評価されていいしまた現にされている。だが思想の問題はそれとは別である。
 そこには価値意識の問題がマルクスの価値形態論などとはまた違った意味において倫理的かつ政治的な位相において避けがたく迫ってくる。
 〈もの〉に対する〈こと〉、〈実体〉に対する〈関係〉の優位は、実際には〈個人〉に対する〈社会システム〉の側からの圧倒的で抑圧的な規定性の強化の動きに裏付けられてでてきたものにすぎない。〈こと〉の暴力性がはっきりとしてくるのは八〇年代半ばのあの醜悪なエコノミニックファシズム、所謂「バブル景気」の時代においてである。
 わたしはちょうどその殺人的な精神抑圧を受ける立場と世代の位置にいたが、そのとき廣松哲学は既に全く魅力を失っていた。否、その当時は憎むべき敵にさえみえていた。
 八〇年代初頭、クーンやフーコーを引合いに出してパラダイムチェンジだのエピステーメーの布置の移動だのというやけに景気の良い議論が賑っていたものである。
 わたしの考えでは、確かに八四年にフーコーが死んでから八六年にチェルノブイリの原発事故が起こるまでの間に学者共が何かしら嬉しげに預言していたそれが、認識論的切断とでもいいたいような異変が、非常にぞっとする最低最悪のかたちで本当に起こってしまったのである。
 その十年後の一九九五年、阪神大震災だのオウム真理教だので日本は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。だが何を今更になって大変な時代になった大変な時代になったと慌てふためくのだ。まるで茶番劇ではないか。九五年や八九年が重要ではないのだ。
 非常に重要なそして何か決定的で不可逆的な悪がなされてしまったのは八五年である。
 八五年、日本には異様な言論統制と戒厳令が敷かれていた。不可視だがどんな可視的な戦争よりも遥かに悪い戦争、同胞が同胞を傷つける戦争、核兵器よりももっと悪い情報という名前の核爆弾のキノコ雲が日本の空を覆っていたのだが、誰もそれについて指弾するものがいなかったのだ。
 チェルノブイリの原子炉やベルリンの壁に罅が入ったのはそのときである。
 バブルも本質的には既にそのとき弾けていたし、現在のような不景気は既に来ていたのだ。
 オウム真理教やM君のみならず、親が子を殺したり、子が親を殺したり、大人が幼女や少女を性的倒錯の玩具にしたり、要するに同胞が同胞を襲い社会を自己を他者を絶望的に破壊することは現在日常茶飯事になっているが、その原因となるような巨大で深い致命的で社会的なトラウマは八五年に万人につけられたのである。そのトラウマは恐らく阪神大震災の被災者が受けたものより遥かに大きい。
 否、比類ないほど大きくそして非常に複雑に屈折して込み入った精神外傷となっている筈である。今後その外傷に溜め込まれた破壊エネルギー、当時はただ抑えつけておく他になかった攻撃性は更にとめどなくさまざまな異様なかたちで洪水のように溢れ出すだろう。オウム真理教事件はわたしの率直な意見では起こってよかったのだ。まさにあのようなことを民衆は待ち望んでいたのだし、あれのお陰で幾らかの抑圧は解除されたのだ。何よりわたしたちは怒りや不満や敵意を表現する能力を手に入れた。そして自己を言語化し、金儲けや俗悪な話題以外のことを、つまり話したくとも話せなかった多くの本当のことを話せるようになった筈である。

 

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 残酷な神が支配する。
 それは透明なドグラ・マグラ(催眠術)の悪意の迷宮である。《胎児よ 胎児よ 何故 躍る、母親の心がわかっておそろしいのか》、夢野久作『ドグラ・マグラ』巻頭歌に返歌を返すのは、埴谷雄高『死霊』のエピグラム、《悪意と深淵の間に彷徨いつつ、宇宙のごとく私語する死霊達》。

 死霊というのは白痴の悪霊、日本人のことである。
 白痴とは怯える胎児、畏怖する人間。
 悪霊とは恐怖の母の親心、恐れイリヤの鬼子母神の実にみにくい悪寒の子宮の夢の呪縛。
 白痴と悪霊は表裏一体の絶対矛盾的自己同一性。
 ゲゲゲの西田幾太郎の魂の墓場の偽善の研究。
 宇宙のごとく私語する存在のざわめきは、所詮透明な殺虫剤・毒ガスSARINで死に損なった理性的幽霊どもの全く空疎な空念仏の蛆虫的感傷であるに過ぎない。

 平和という名のアウシュヴィッツの内側で《汝殺す勿れ》の酸鼻歌が一億総懴悔に合唱されるアイロニカルな黒き鉄の牢獄は、地獄よりも地獄的な空なる涅槃の不毛な卵。
 その悪の卵殻を称して虚空(アーカーシャ)といっているが、それは何のことはない、魂の抜殻の無の括弧のことである。

 魂の抜殻どもは常に既に幽体離脱状態で、自他未分の混然一体、黒き虚空の悪夢のバブルから抜け出せないで、SARINよりもSARIN的な透明で窒息的な〈気〉 という〈空虚〉の閉塞空間に密封されて、手も足も出ないコインロッカーベイビーズ。

 目も鼻も口もないのっぺらぼうの表層批評にナメられて、その全く陳腐な共同幻想の愛と幻想のファシズムは死に損ないの夢の又夢に終わるのだ。
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 ジャック・デリダ『哲学における最近の黙示録的語調について』の邦訳書(白井健三郎訳・朝日出版社)が出版されたのが1984年だったということには、それ自体に黙示録的な意味がある。

 それはエリック・ブレア(筆名ジョージ・オーウェル)が、恐怖の大王〈存在〉と残酷な神〈意識〉の「偉大な兄弟」の〈ドグラ・マグラ〉的二重拘束の作る不可視の黒き鉄の牢獄の卑しめられ、欺かれたコインロッカーベイビーズに万人が陥れられるという悪魔的陰謀がなされる年だと、1948年に出版予定だった本のタイトルによって名指している年だったからである。

 1984年4月4日、INGSOC思想警察の透明な存在の恐怖の影と「偉大な兄弟があなたを監視している」というパノプティックな言葉の鳴り響く残酷な意識の監獄から這い出ようとウィンストン・スミスの孤独な戦いが始まる。日記を書くこと。INGSOCに反する思想を語り得なくするために捏造された真理省のNEWSPEAKという新言語に奪われた自分の言葉と、二重思考に剥奪された自分の心を取り戻すために。

 無力な人間の尊厳を賭けた最後の抵抗だ。こんなことをして何になる? こんなものを誰が読む? 無意味な行為ではないか? ウィンストン・スミスは苦く自問する。それは『1984年』を書いていた聖ゲオルギウスorWELLたるエリック・ブレア自身の苦悶の言葉でもある。

 スコットランド東沿岸の孤島ジュラ島、恐竜のいないジュラシックパーク、それともネス湖の怪物の無気味な影が逆にはい回っていたのかもしれない。そんな寂しい所の農園に一人籠もり、肺病病みの痩躯の命を削りながら、エリック・ブレアはその黙示録的な書物を書いていた。

 「戦争は平和である。自由は屈従である。無知は力である」INGSOCの恐ろしい思想、自ら作ったグロテスクな悪夢。それに向かって、子供達の夢を守り、悪と永遠に戦う定めの「緑の男」聖ゲオルギウスの死ぬに死ねない定めの名前を自らに引き受けたエリック・ブレアは、自分の心を、自分の胸を穿つように書く。彼のスミス&ウェッソンである分身ウィンストンは『1984年』の中で書く。「偉大な兄弟を打倒せよ! 偉大な兄弟を打倒せよ! 偉大な兄弟を打倒せよ!」

 ひとりぼっちのハルマゲドン。鬼気迫る狂気の戦い。〈恐怖の大王〉と〈残酷な神〉の嘲笑だけが広がってゆく。それでも絶望的にウィンストン・スミスは、命短い作者の悲願を背負って38年先の未来で書く。

 『1984年』が書き始められたのは1946年の春だったという。
 ウィンストン・スミスは39歳、つまり彼は第二次世界大戦終結の年に生まれた男なのだ。
著者: ジョージ・オーウェル, 新庄 哲夫, George Orwell
タイトル: 1984年
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 自同律〈A=A〉は「AはAと同一的である」「Aは存在する」を二重に表現しつつそれを思考の不可疑の第一原理としている。それはパルメニデスの命題「存在は存在する」に根拠づけられている。
 そのことによって自己同一性の原観念が与えられ、この存在の自己同一性から飜って、同一的自己として「自己」の観念が演繹されてくる。

 このような自己は、単に存在の自己同一性を意味するに過ぎない。
 そのような意味でのこの論理的な「われ在り」は、存在の個性化や具体化を少しも意味してはいない。逆にそれは単に抽象的な存在への「わたし」の還元であるに過ぎない。

 「わたしはわたしである」「わたしは存在する」とは、要するに「わたしは存在である」と言っているだけのことなのである。
 「わたし」はそのとき抽象的「存在」である「自己」という無意味な自同者に実はすげ替えられているに過ぎない。それは「わたしは死んだ」ということと何の変哲もないことである。
 自同律から直ちに「実体」の観念が直証的に第一義的に与えられると考える者は、実はその「実体」が「死体」でしかないことを見落としているし、またパルメニデスには「実体」の観念などなかったということを忘れている。

 「実体」の観念を哲学史上、決定的に確定したのは寧ろアリストテレスである。
 アリストテレスにとって、「実体」はまず「個物」であり、そしてとりわけ「生けるもの」「現実的なもの」「具体的なもの」を意味していた。アリストテレスの「実体」の思想は、言うまでもなくプラトンの「イデア」に対する批判から胚胎されている。

 これに対し、パルメニデスは「同体」というべき抽象的一者「存在」についてしか語っていない。それは「存在」がそれ自体としては無内容な死せる「同一性」、「空」なる不毛な「同一性」でしかありえないことを言っているだけのことである。
 単に表現が違うだけであって、パルメニデスは陳腐な仏教徒そのままに空ろな真理の涅槃への御陀仏的解脱のサトリの体験を説法しているに過ぎないのである。
 その意味でいうならソクラテスもプラトンも仏教徒なのである。
 そして事実、彼らは死後の世界へのうつろで女々しい極楽往生についてばかり語っている。

 うつろいゆく現世(此岸)への執着を捨て、実人生をむなしい幻と諦めて、超越的実在世界(彼岸)という抽象的永遠への主知主義的昇天をのみ価値づける彼らの「死の練習」「知恵への愛」の宗教である産婆的哲学。
 それを西欧思想の源流と看做し、そこに根拠づけて、デリダやハイデガーの受売りを恥じもせず「パルメニデス・プラトン以来の〈存在〉の西欧形而上学」の伝統の精華である「近代合理主義」を仮想敵として、それを東洋的=仏教的=日本的原理によって安易な形而上学批判を唱える者こそ愚にもつかぬことを喚いているのだ。

 戦前の「近代の超克」論者であれ、最近のポストモダン的知識人であれ、自分がどれだけ莫迦げた、反動的で倒錯的で欺瞞的な疑似問題を捏造させられているかに気づいていない。むしろそれこそが西欧的で近代的な問題設定であるに過ぎない。それと同時に、彼らは余りにもナイーブに東洋的なもの・仏教的なもの・日本的なものを信仰してしてしまっている。

 しかしもしわれわれが東洋人であり仏教徒であり日本人であるとするならば、そして西欧人の言うような意味での形而上学批判が思想の急務であるとするならば、われわれがやらなければならないのは、西欧近代という遠いよそ様のお家の事情を冷評しにいくことではなくて、われわれが置き去りにしているわが家の悲惨な現状を直視しこれに厳しく立ち向かうことでなければならない筈である。形而上学批判は内在批判でなければならないし、自分たちの切実な問題だからこそそれをしなければならないものである筈である。西欧人たちはそれをやっている。それは彼らが健全な近代市民社会を確立し、自分の頭で自分の問題を考えることのできる近代的個人であるからである。

 われわれは精神的・文化的な意味では近代市民社会以前、主体性の確立(近代個人主義と近代的自我の確立)の課題すら果たし得ていない屈辱的な下等動物である。
 そのわれわれに自分がそこに一度も生きたことのない「近代」を超克する資格もなければ、ポストモダンを語る資格もない。
 むしろわれわれは、そのような西欧かぶれ・外国かぶれのいつまでも終わらぬ馬鹿騒ぎをやめるべきである。何故ならそれこそが、東洋的なもの・仏教的なもの・日本的なものでしかないからである。

 われわれはこの古き良きものを気取りながら、その実はわれわれをいつまでも前近代的な野蛮な猿、あらゆるアジア人のうちで最も惨めに植民地化されながらそのことにすら気づかない、単なるイエローモンキーに退化してしまった見ざる・聞かざる・言わざるの日本猿に固定的に貶め続けているわれわれの恥ずべきもの、王朝的・遣唐使的・留学僧的なものである島国根性の虚偽意識とたたかうべきなのだ。
 すなわち、われわれはわれわれの東洋的=仏教的=日本的形而上学を批判しなければならない。
 それは大東亜共栄圏を悪役に仕立てながら、それに代わるものとしてあの野蛮を温存したものであるに過ぎない日米安保体制の批判、神憑りの天皇制軍国主義に代わるものであるに過ぎない経済大国日本という〈円〉の一神教的崇拝と、〈円〉と〈広告・マスコミ産業〉の原理による戦前より遥かに悪辣な侵略的=洗脳的言論統制への容赦なき徹底的で革命的な懐疑と批判を含まねばならない。

 わたしはマルクス主義者ではないが、共産圏を唯物主義の名において安易に嘲笑的に批判することによって己れの遥かに醜い資本主義的物神崇拝を精神化・美化・合理化しえたと信ずる無知蒙昧な赤狩り的反共主義の野蛮を断じて許しておくわけにはいかない。
 アメリカ人ですらすでに幻滅しているアメリカニズムの崇拝者たちは安易に自由主義・民主主義がファシズムや共産主義より良いものだという幻想に脳を侵されている。莫迦ではないのか。

 わたしの考えではレーガンやブッシュ親子よりは、ヒトラーや毛沢東やホメイニーの方が遥かに好もしい独裁者である。そして、フランス現代思想などという役にも立たぬ戯言を学ぶよりも寧ろ、われわれはイスラム原理主義を学んだ方がいい。
 またベルリンの壁を突き崩した東欧の人々の勇気に感銘するなら、われわれは新党ワイマール共和国の茶番劇やオウム真理教的内ゲバに興ずるだけの相も変わらぬ団塊=大衆の世代の全共闘的白痴性を棄却し、西側資本主義圏の抑圧的な管理の不可視の壁を文化大革命的に突き崩してゆくべきなのであって、天安門事件に涙したその目で現在の中国に日本の不景気を解決するための厭味な市場を発見するべきではない。
 また、第二第三のオウムを出さないためにはどうしたらよいかとか、いやそれでもでるだろうとか下らぬ議論をするのをやめるべきだ。寧ろわれわれはあんなチンケで病んだ弱虫カルトではなく、あのオウム王国をもこの日本帝国をも乗り越える超オウム的なものを積極的に革命的に創造的にわたしたち自身のために作り出して全世界の人間を本当に黙示録的に救済し最終解脱させることを臆する事なくやってのければいいのだ。

【関連記事】〈空〉なるものの仏教的形而上学について
 美しい人生のための美しい学としての哲学
 というものはありえないものだろうか。
 もしありえるとすればそれは美学と呼ばれねばならない。

 しかし、ここに美学というのは、
 現在〈美学〉の名称で知られている
 あのマイナーな学問とは別のものを言っている。

 所謂〈美学〉というのは、少しも美しい学であるとはいえない。
 その名称は感性論を意味するに過ぎず、
 その研究対象は血の気の通わぬ芸術作品と
 その様式美へと矮小化されていて、
 実は美学と呼ばれるにふさわしくないものである。

 わたしは第一哲学は美学でなければならないというテーゼをここに立てる。
 それは形而上学はまず第一義的に美学であるべきであるという主張である。

 このようにいうとき、わたしが最も意識しているのは
 第一哲学は〈善〉の学である倫理学でなければならぬとして
 ハイデガーの存在論の哲学を批判した
 〈他者〉の哲学者エマニュエル・レヴィナスである。

 存在・自己・真理・ロゴス、これら〈真〉の主題系に属するものが
 現実に抑圧的な原理として働く西欧の文脈において
 レヴィナスの批判的思想は一定の価値を有する。

 しかし、我が国の文脈にあっては話は別である。

 レヴィナスの思想は1980年代半ば、遅ればせに我が国に紹介され、
 不可思議な感動と共に一躍ブームを起こした。
 しかし、このブームには多くのいかがわしいものがある。
 (〈実体〉の死霊のはらわたのイポスターズ論参照)
 ここに多くを詳述する余地はないが、
 手短にわたしの所見を述べれば、
 レヴィナスの〈善〉の哲学・〈他者〉の哲学は
 その意に反して殺人的・抑圧的に機能する危険性がある。
 それは恐らく〈悪〉の哲学にすりかえられてしまうだろう。

 この国にはこの国固有のさまざまな邪悪な形而上学的構造があり、
 それは西欧における存在=神論とか
 ロゴス中心主義とか理性・真理の権力というものとは別である。

 この国には固有の〈空〉の形而上学というべきものがあり、
 それは存在とは違う仕方で人間を抑圧している。

 わたしは日本的〈空〉の仏教的形而上学の
 徹底的脱構築が先決問題としてなされぬ限り、
 どんな外来の翻訳思想をもってきても、それは骨抜きにされ、
 いやらしく人の首をじわじわと絞めてゆくものに
 すげかえられるであろうということを指摘しておきたい。

 ここでわたしが〈仏教〉といっているのは
 それを〈天皇制〉と言換えてもよいような
 空集合的文化構造のことをいっている。

 仏教的なもの・〈空〉とは宗教学的な概念ではない。
 例えば仏教をフランス現代思想と呼び換えてもよい。
 それは実は全く同じなのだ。
 それはお有り難い留学僧が異国からもたらした仏の教えで、
 頭の中身が空っぽでその存在も空しいものであるわたしたちは、
 そのお有り難い経典を細切れの念仏に変えて
 復唱する以外の何もしてはならないのである。

 この〈空〉・この仏教的なものをわたしは〈みにくいもの〉と呼びたい。
 〈みにくいもの〉とは醜悪なものという感性的な概念ではない。
 〈みにくいもの〉は少しも醜くはない。
 〈みにくいもの〉は寧ろ少しも醜くはないものを醜くさせ、
 また少しも美しくはないものを美しいとすることによって
 心を損ねるもののことをいっている。
 したがって逆に〈みにくいもの〉こそ単に醜いものよりも
 はるかにそれこそが本当に醜悪なのだといってもよい。

 〈みにくいもの〉は既存の美学では批判することができない。
 何故ならこの美学自身が〈みにくいもの〉の一部として
 それに仕えているからである。

 だからこそわたしはその美学とは異なる批判的な美学、
 超越論的な美学を形而上学として立てることを提唱したいのである。

 〈美〉の形而上学は
 〈空〉の仏教的形而上学を闘争的に破壊し脱構築することを通して、
 人間をこの不当にみじめな〈みにくさ〉から解放しようとするものである。

[関連記事]アポスターズ論中間考察:2-17.〈空〉という名の形而上学的野蛮
〈空〉(sunyata)の暴力性について。
我が国における空のイデオロギー(形而上学)程
わたしにとって憎ましいものはない。
空というのは言いようもなく空々しく空しく人を空ろにして魂を損なう。

我が国において一度もまともに正当化されたこともない
存在や個人や自我や近代やロマン主義に対する
空々しく嫌らしい翻訳語調の批判の音声がいつも避けて通っている
この〈空〉という空とぼけたみにくいもの、
大衆を抑圧とか排除とは違う〈包摂〉という仕方で
じわじわと無力で幼稚な窒息へとみじめにおいつめてゆく
非人称的な悪意の日本的構造に対してこそ
何とかして切りつけてやりたいと思う。

日本的構造については、舶来物の構造主義などが
無意味な流行をみせる以前から語られてきていた。
「いき」の構造(九鬼周造)
「甘え」の構造(土居健郎)
それに加えて、「恥」の構造(ルース・ベネディクト『菊と刀』)
をも数えることができる。

これらはいずれも碌でもない
日本的実存の文化的野蛮さと無慚さをみせつけている。

特にわたしが我慢がならぬのは〈甘え〉の論理である。
甘えるなと人を怒鳴りつける人間こそが
常に自分が一番甘えていることに気づかない。
そうやって人の〈いき〉方を縮こめ、
自分だけが〈いき〉り立とうとしている。

〈いき〉の構造は繊細なものである。
人の〈いき〉方に〈けち〉をつける人間は
その相手の〈いき〉の根を止めようとしているのである。
〈いき〉は〈こえ〉を越えられぬままそこに怖じけづく。
それは〈いき〉の根本である意気地というものをなくさせてしまう。

意気地とは育児である。
それは生粋の童心を哺み育てようとする暖かさであり
甘やかさでなければならない。
意気地のある子とは、生きることの甘やかさを知る子のことをいう。
甘ったれることができなければ人は命を落とす。
その人の命は空しくされてしまう。

九鬼周造のいう〈いき〉は媚態・諦め・意気地の三要素からなる。
それが九鬼のいう通り
日本的自然主義・
インド(仏教)的ニヒリズム・
中国(儒教)的アイデアリズムの
高度な文化的綜合であるかどうかは、
どうでもいいことであるし、寧ろいかがわしい。

例えば〈意気地〉の元は〈意地〉であって、
これは儒教ではなくて仏教の唯識思想に由来し、
梵語でマノー・ブーミ(mano-bhūmi)、
六根のうち最後のものである〈意識〉を
認識の根源として大地に譬えたものの訳語だという
(宮坂宥勝『暮らしのなかの仏教語小辞典』)。
そのなかに道教や易でいう〈気〉を滑り込ませたもので、
儒教というより、それこそインド仏教の
冷徹明晰な主知主義的ニヒリズムを
何でもありの中国的なデタラメで俗悪な神秘主義の渾沌と
練丹術的に混合してしまった無茶苦茶な代物である。
認識論と存在論の得体の知れぬアマルガムである〈意気地〉なる語は、
倫理的な儒教にそのの由来を溯り得るものであるかどうか大いに疑わしい。

ただそのように三重のみえすいた見栄を
西欧という〈(本来的な中古文学的な意味で)恥ずかしき〉ものに対して
張ろうとした九鬼の心意気には
意気に感ずるところがある。粋なところがある。
そこには癪に障るところがなく
真にきれいだとおもえるもの、
もののあわれというものがあるのだ。

実際には〈いき〉の構造というのは
九鬼周造のひとりぽっちのものだった。
それは彼の〈いき〉方と切り離し得ない。

柄谷行人は『ヒューモアとしての唯物論』のなかで
ヴァレリーの言葉を引きながら
デカルトの精神〈コギト〉は
デカルトの固有名において呼ばれるべき単独的なものだ
ということをいっているが、
九鬼の〈いき〉についても同じことがいえる筈である。
それは十九世紀の江戸の遊郭文化に還元することはできないし、
また正宗白鳥ごときの言葉を引っ張ってきて
〈白痴の天国〉だなどと決めつけることもできない。

寧ろ九鬼という痛ましい哲学者の孤独な姿に
日本的構造から切り離され孤絶した星のような
サンギュリエな精神の光をわたしは感ずる。
日本的構造のなかで〈いき〉ることのむずかしさを
九鬼という繊細で烈しい風流な人は〈いき〉ぬこうとしたのだ。

他方また〈恥〉の構造もまた救いがたく残酷なものである。
それは〈甘えるな〉と怒鳴りつけることによって
相手を自分に甘えるより以外に何もできない柔順な人間へと
人格破壊する日本的父性と対をなすヒステリックな母性を構成している。

ところで、日本に父権がないというのは大きな誤りである。
むしろ、世間とか社会とか会社の上司とか官僚とかといった、
世界最悪の、悪魔的で軍国主義的で非常に抑圧的な父親というのは
日本にこそ大いに横柄に存在するからだ。

これを補完する恥ずべき母性は、
行動の〈はじ〉から〈はじ〉までつべこべと
こうるさく躾と身なりと身だしなみと
礼儀や行儀の作法の説教をするのである。

ありのままに生きることを禁じ、
常に〈所を得た〉
 (これこそ人生よりも所得のために生きることを強要する
  少しも幸福な所のない我が国のエゴイズムの根拠である)
振舞いをすることを義務づけて、
他者の目に脅え、媚びて甘えて生きるほかに何もできないのに
その媚びて甘えていきることをこそ許されないという
ひどい二律背反に人を追い込む。
〈甘え〉と〈恥〉の観念は
自立して〈いき〉ることを挟撃ちに妨害している自意識の異常である。
生きることは無理難題と気兼ねと脅えの極限にまで侮辱され切っている。

日本の対他意識は完全に病理的である。
太宰治の『人間失格』と
安部公房の『他人の顔』を読み合わせてみれば、
絶望的な気分になってくる。

わたしはレヴィナスの倫理学のいう
対面(face to face)の関係性が全く不可能にされているどころか、
それが不可能であるがままに〈存在〉よりも残酷邪悪な破壊性に逆転して
寧ろすさまじい猛威を奮うことになるであろうことを真剣に危惧している。

例えば〈他者の顔〉は、この国では
最も不誠実で匿名的な仮面の暴力となってただただ冷淡にのみ機能し、
自己同一性(身許証明)を寧ろ邪悪な仕方でのみ侵略する。
完全に転倒してしまっているのである。

またレヴィナスは死(存在)の彼方での善ということをいうが、
予め〈人間失格〉であるところの自己は、
寧ろ誰か他者が己れの正体を見破って、
死ぬる以上の赤恥をかかせることをこそ心配する。
太宰の倫理的不安はハイデガーの存在論的不安を
文字どおり越えてしまっている。
ハイデガーは死を恐れるが、太宰は死後の恥辱を
もっと救いようもなく恐れている。
レヴィナスの死後には善があるといえるが、
太宰の死後には悪がある。いや死後にこそ悪があるのである。

この国にあっては留保なしにレヴィナスを
(それどころかキルケゴールをも)語ることは悪に加担することであり、
彼らを歪めることにしかならない。

わが国では要するに自己と他者は
その自他が逆さまにされているのである。
自己も他者も全くの別人にされているのである。
わが国においては自己の他者性と他者の自己性こそが寧ろ語られねばならない。

柄谷行人は他者性の問題を語る場合、
共同体と社会性を常に厳しく区別しつつ語る。
それはマルクスやキルケゴールや
ウィトゲンシュタインやレヴィナスや
フロイト等々について語る限りにおいては正当である。

しかし、この国の文化的現状をみると
むしろそのような区別(倫理の強調)はむしろ無益であるし、
また寧ろ有害に機能してしまいかねないというべきだ。

わたしは柄谷が間違っていると言いたいのではない。逆である。
西欧的なものを西欧の文脈に沿ってあやまたず理解し
その限りにおいて評価してゆくことは必要だし
せねばならないことなのだ。
またわたしは日本的特殊性を
何かしら特権的に(いい意味においても悪い意味においても)
強調すべきではないとも思う。
寧ろわたしは柄谷の方こそ強調し過ぎているといいたいのである。

共同体と社会性を単に区別しただけでは
この国における他者性のまことに嫌らしい病理的転倒は
病理として少しもあらわになってこない。
わたしはこの尊敬すべき批評家が
にもかかわらず充分に批評的でなく、
明晰判明な文体の割りには事象自体を寧ろ紛糾させたまま
明晰にも判明にもしていないことが不満なのだ。
抽象的すぎるのである。
明晰判明なのは文章のなかだけではないか。
上澄みがいくら明晰判明であったとしても底の方が濁っている。

わたしのみるところもうかなり以前から
この国では共同体とか社会性とかいう言葉の
実際上の有効な指示作用がすりきれきってしまっている。
それは単に吉本隆明の共同幻想論を批判する
という以上の意味をもちえていない。
寧ろ現状はもっと分裂症が進行してしまって
破瓜的な段階にまでいきついてしまったというべきなのだ。

最低限の共同体すら存在し得ていないような状況で
(共同体のその内部は完全に差異化しきってしまっている。
微分化がいきついてしまって、各人が全く無差異無差別な
カオシックな塵に燃え尽きて了っている無機的な状態で、
共同体がてんでバラバラな個人幻想になってしまっているのだ)
共同体の間について語ることに何の価値があるというのか。
事態は倒錯的な段階まできてしまっている。

社会性について語るためには
共同体をまずつくりださなければならないのである。
ありもしないものを批判することには意味がない。
寧ろ存在するのは全く共同体とはいいえない
壊れて正気を失った暴走する機械的組織だけである。

 〈恩〉とはパルメニデスがギリシア語でONといった
 中性的な〈存在〉の観念をむしろ意味するものである。

 パルメニデスはこれを神とはしていない。
 これを神にしようとしたのはソクラテス及びその弟子のプラトンである。

 プラトニズム=アカデミズムは現実世界の上に
 (=〔英〕on:「接触して上に乗せる」という意味の前置詞)
 如何にして一般的・観念的な存在のオンを着せて
 それを支配するかを探究する思想傾向である。

 一般的・観念的な存在のオンとは
 スコラ哲学的な概念でいうなら、
 類と種(種差)にもとづく体系的な定義であるが、
 それは裏を返せば
 それを教えてやった先生(教師)の恩(有難み)ということになる。
 つまりプラトニズムは
 教育機関(学校システム)による知の支配の問題と切り離せない。

 プラトン自身は自己批判的な対話篇『パルメニデス』において
 ONという存在の存在〔ぞんざい(夏目漱石の宛字)〕なイデアを
 感覚的な現実世界の範型(造物主)と看做すことを放棄している。
 『パルメニデス』はプラトン自身の手になるプラトニズム批判の書である。

 この対話篇には何故かアリストテレスと同名の人物が登場し、
 さんざんに若きソクラテスのイデア論を論破した
 エレアの老賢人パルメニデスから直接教えを受けているのだが、
 ちょうどこの対話篇が書かれた頃に
 十七歳のアリストテレス少年はアカデメイア学園に入学している。
 後にアリストテレスは『形而上学』で
 イデア的真実在(類・種の観念)が
 個別的実体(個体)に先行する本質として実在し、
 後者は前者の模写であるというプラトニズムの存在論を批判しているが、
 その際に彼が用いるのは
 『パルメニデス』において老パルメニデスが
 イデア論を批判するのに用いたのと全く同じ
 「第三の人間」(ho tritos anthropos)のパラドクス(註1)である。

 パルメニデスは中性的・観念的なON(存在)を仮定する立場から、
 アリストテレスは感性的・現実的な個体としての
 〈実体=ウーシア(ousia)〉こそが存在するという立場から、
 共に、観念的なONから現実的実体ウーシア(個体)を
 作り出すことはできないということをいっている。

 「第三の人間」とは、
 イデア的人間(観念)でもなく、
 現実的人間(個体)でもない人間のことで、
 今日的な言葉でいうなら両者を媒介する媒概念にあたるものである。

 プラトニズムはイデアと個物の間に、
 分有(分割)・参与(帰属)・模写(類似)などの関係式を立てるが
 これはいずれも同工異曲である。
 
 仮に模写説を例に取れば、
 「第三の人間」は次のような媒介の無限背進のパラドクスとして説明される。

 もしイデア論者の言うように或るイデアたとえば「人間それ自体」(というイデア)のほかにその同じ名前で人間と呼ばれる個々の人間が存在し、そしてこれらが人間として存在するのはこれらが「人間それ自体」に似ているからであるとすれば、この両者(イデアなる人間と個々の人間)の似ていることを決定する尺度または両者を似させる媒介者として、これら両者に共通に似ているいま一つの人間すなわちこの両者に共通の「第三の人間」が、したがってこの第三者と両者との各々に相似た第四、第五の人間が、こうして無限に多くの第三者、「第三の人間」が存在しなければならなくなるから不都合だというにある。
(出隆・訳者注 アリストテレス『形而上学(上)』岩波文庫 三三六頁)

 第三の人間・媒介者は、
 論理学的には排中律(第三項排除規則)で排除される
 第三項(排中者)に該当する。

 ところで、自同律(A=A)から導出される自同者、
 および矛盾律(A≠非A)から導出される矛盾者は、
 存在者(〔L〕ens 主語・名詞)と存在(〔L〕esse 述語・動詞)を
 存在的(ontisch)-存在論的(ontologisch)と
 レベル的・文法学的に区別する
 ハイデガーの存在論的差異の物差しをあてるなら、

 自同者は存在的・主語的レベルでは自己、
 存在論的・述語(動詞)的レベルでは存在(有)、

 また、矛盾者は存在的・主語的レベルでは他者、
 存在論的・述語(動詞)的レベルでは非在(無・非者)ということができる。

 そこで「自同者-矛盾者」の対立は、
 倫理学的=主語的次元では「自-他」
 (「自己-他者」・「私-君」・「我-汝」)の
 二項対立(主語的二値論理・+と-)、
 また存在論的=述語的次元では「有-無」
 (「存在-非在」・「存在者-非在者」・
 「いる-いない」・「現前-不在」)の二項対立
 (述語的二値論理・1と0)として捉えられる。

 排中者は自同者でも矛盾者でもありえないものである。

 これはまず、存在論的=述語的次元では、
 存在者でも非在者でもありえない不可能者としての中間者となって現れる。
 これはちょうど「1と0」の間に純粋な「-(マイナス)」が浮き漂うような、
 単なる不在ではない負在者(純粋負号量の観念)と考えてよい。

 これは存在論的=述語的次元に、
 倫理的=主語的次元の「他者」の様相の影が入っていたようなものである。
 つまり「有-無」ではなくて「有-他-無」という状態が
 作られているのだとみてよい。
 この他者は主語的=存在的他者とはレベルの異なる存在論的他者である。

 レヴィナスなどが純粋存在の非人称的他者性を
 言い表す概念として提出しているイリヤ(〔仏〕il y a)はこれにあたる。
 しかしこれを非人称性という言い方は余り良くない。
 述語的にしか語り得ぬような次元に、
 本来主語についてしかそれを言い得ない
 人称的・非人称的という言い方を持ち込むことは
 問題を無意味に紛糾させてしまうだけだからである。

 それはむしろ「私」が「ある(存在する)」というのでも
 「ない(非在する)」というのでもない第三の動詞をもつのだ
 といった方が良いような状態である。

 「私」というのがおかしければ、主語はこの場合何でもよい。
 例えば、コップが「ある」のでも「ない」のでもない
 第三の状態に宙吊になるという状態を考えてみるとよい。

 これは一種の幽霊化であるといってよい。
 物は存在するか存在しないか、有るか無いか、
 現前するか不在するか、見えるか見えないかだけではなくて、
 化けて出る、妖怪変化する、妖しくなる、異妖化する、
 負の存在に変ずるという第三の場合がある。
 これは恐ろしい状態である。

 例えば、離人症
 (この病名も非人称化を意味していて余り良い病名とはいえない)などでは、
 事物が存在するのでも存在しないのでもない状態、
 有るとか無いとかいうのではなく
 「非ざる」(マイナス存在する、負在する)、
 「在る」がままに「居なくなる」
 「消えている」状態で実在するという状態が体験される。
 これは存在論的排中者の出現であると考えてよい。

 私はこれを「存在」でも「非在」でもない「負在」と呼び、
 通常の「非在」とは意味の違うものであることを
 はっきりさせておくことにしたい。

 私自身この存在の妖怪を見たことがあるのだが、
 この「負在」は「非在」と同じでは有り得ない。
 少なくとも
 「存在」の対立者としての「非在」、
 単なる「存在しない」、単なる「無い」とはそれは同じではない。

 逆に「負在」からみると、
 「存在」も「非在」もプラスの存在象限に置かれ、
 いわば「正在」の二様態になるのである。

 翻って「負在」にも負の「存在」のみならず、
 負の「非在」としか言い得ない様態がある。
 それはゼロというよりマイナスゼロであるようなもので、
 それは無というよりも破壊性である。
 これはレヴィナスがイリヤの恐怖を語るに際して
 しばしばその殺意・殺気として触れているものである。

 しかし、レヴィナスのそれについての考察は不十分で非常に曖昧に過ぎ、
 そのうわつらをなでているだけのもどかしいものである。
 私はむしろこれを自分で規定することにしたい。

 存在と非在は通常は1と0の量的な関係である。
 ところがそこに存在論的排中者が純粋負号の-となって滑り込んでくると、
 そこに却って+の存在という問題が提起されることになる。

 つまり〈+1・正存在〉〈+0・正非在〉〈-1・負存在〉〈-0・負非在〉という
 四つの存在様相の象限が分節化される。

 だが問題はこれに留まらない。
 更に、+と-が元々問題になっていなかった1と0の存在と非在は、
 共に零度の存在・零度の非在として捉え直されるのである。

 従って更になお〈零存在〉〈零非在〉が付け加わって、
 複雑な六つの事物の存在状態が識別されてくるのである。

 これはもはや二値論理では扱い切れない問題を提起している。
 つまり有るか無いかが問題になっているのではもはやないのである。

 これは可能性・不可能性・必然性・偶然性という
 通常は論理的な四つの様相概念の問題として
 考えられている次元に人を引き込む。
 つまり私が
 〈+1・正存在〉〈+0・正非在〉〈-1・負存在〉〈-0・負非在〉と呼んだものは、
 もちろん普通の意味でいうのではないが、
 それぞれほぼ
 〈必然存在〉〈可能存在〉〈偶然存在〉〈不可能存在〉と呼び得るものである。

(註1)アリストテレス『形而上学』九九〇b一七・一〇三九a三・一〇五九b八、
プラトン『パルメニデス』一三二A-一三三A、
『国家』 五九七C、『ティマイオス』三一A参照。
 恐怖の大王・残酷な神・諸悪の根源は
 それぞれ存在論(真)・倫理学(善)・様相学(美)の堕落形態を
 象徴的に表現するハルマゲドノロジーの基礎概念である。

 これらはそれぞれ、
 ノストラダムス&ドストエフスキー&レヴィナス(恐怖の大王)、
 W・B・イエイツ&アルヴァレズ&萩尾望都(残酷な神が支配する)、
 イマヌエル・カント&イツハク・ルーリア&プロティノス(諸悪の根源)
 という出典をもつが、
 内容的には密接に連動しており、
 相互に切り離して考察するべきものではない。

 恐怖の大王・残酷な神・諸悪の根源は三位一体になって
 理性的現実的動物である黙示録の獣666を抑圧している。
 形而上学的最終戦争の目的はこの美しい獣666を解放することである。
 何故ならそれは人間の本質である人格の尊厳と生命の優美を
 窮極的に言い表すものだからである。

 形而上学的最終戦争ハルマゲドンとは
 根本的には神学的な観念の戦争である。

 そして恐怖の大王・残酷な神・諸悪の根源の三位一体の抑圧体制は
 根本的には神学の次元においてのみ解体せられ得る。

 しかしこの抑圧は現実的に人間の心のなかに深い歪みを及ばせている。
 この深い歪みを私は《甘え=生き=恥》の構造と名付けておくことにする。

 これは日本的実存様式・日本的思考形式を規定するものとして
 しばしば言及され、考察されてきたものである。
 (九鬼周造『「いき」の構造』
  ルース・ベネディクト『菊と刀』
  土居健郎『「甘え」の構造』など)

 しかし私はここで本質的には不毛な、
 問題をすりかえるための疑似問題でしかない日本文化論や日本人論を
(少なくとも通常のレベルにおいては)全く問題にするつもりはない。

 というのはそれはむしろ日本人論の問題ではなく幼児虐待の問題であり、
 文化の問題ではなく全く野蛮な政治権力と
 陰湿なマインドコントロールの精神政治学
 すなわち形而上学の問題でしかありえないからである。

 私は
 〈恐怖の大王〉を〈恩〉、
 〈残酷な神〉を〈恥〉、
 〈諸悪の根源〉を〈嘘〉と名付け、
 存在論を有難迷惑論、
 倫理学を出来損い論、
 様相学(感性論・審美学としての現代「美学(aesthetics)」)を
 〈みにくい教え〉の醜悪教(宗教=醜教)として批判するが、
 私が〈恩〉〈恥〉〈嘘〉の語で定めようとしているものは、
 普通の意味のそれではない。
 それはむしろ形而上学的な〈恩〉〈恥〉〈嘘〉である。
 可能性は現実性ではない。
 しかし、私たちの文化は可能性を現実性に置き換えてしまっている。
 現実性という言葉は実際上、可能性以外の何も意味し得なくなっている。

 これは恐ろしい観念の倒錯である。
 現実という言葉で私たちの文化がやるのは現実の否認であり、
 抑圧であり、去勢であり、最もひどい場合にはその殺戮である。

 それは単純な観念論ではない。
 観念論よりも遥かに観念的なこの精神病を
 名付けることは非常にむずかしい。
 むしろ日本に欠けているのは健全な観念論の方である。
 健全な観念論だけが
 現実性を全く剥奪された現実という言葉に
 現実性を取り戻させる筈である。

 観念論者は人間を騙さない。
 彼は詐欺師ではないからだ。
 
 詐欺師は、自分が実体性をもたない空虚な観念の話をしているのだ
 というその事実を隠す。
 非現実と現実をすりかえたがる詐欺師が
 一番現実主義者を詐称するものである。

 そして詐欺師は他者を騙す以前にまず自分自身を騙す。
 それは催眠術である。
 自ら催眠術にかかることによってのみ、
 詐欺師は他者を同じ催眠術にかけることができるようになる。

 また、それ以上にそうせずにはいられなくなるのだ。
 自分が根本的には信じていないことを信ずるためには
 他人を強制して自分の身代わりに
 自分を信用するように仕向けねばならない。
 他人が自分を信じてくれているからには、
 自分は嘘ではない本当のことを話していることになるからだ。

 そして実は詐欺師ほどに
 お人好しな人間というのもいないのである。

 彼は他人が騙されてくれるものと信じている。
 詐欺という犯罪は
 必ず依頼心の強い未熟な人間が
 それをするものと相場が決まっている。

 それは彼が実は人一倍騙されやすい、
 他者を疑うということに恐怖を覚える程に
 信心深い人間であることを明かしている。

 だから逆にいうと、
 詐欺師を騙してひどい目に合わせることは
 原理的には赤子の手を捻るよりも簡単なのだ。

 詐欺師というのは莫迦な人間のことである。
 莫迦であるために彼はやがて
 自分自身のついた嘘に騙されて身を滅ぼしてしまう。

 非現実と現実をすりかえつづけていると、
 いつか必ず現実を完全に失って、
 非現実以外の何も彼には見えなくなってしまうのだ。

 話のうまい人間、美しい、
 しかしどこか勿体振った人工的な声で、
 甘やかに流暢に話す人間は、
 必ずといっていい程、愚かで、傷つきやすく、
 何かに怯えたナルシストである。

 彼は自然な自己愛を喪失しており、
 そのために妙に妖艶しいぬるぬるした裏声でしか話せない。

 嘘はその話す言葉のなかにある以前に、
 その朗々と響くうっとりとした声そのもののなかにある。

 自分を失っている人間ほど自己に騙されやすい。

 ここで自己といっているのは
 健全な自己愛の対象となる自己ではななくて、
 それが消えてしまったからこそ生ずる幻想としての自己である。

 これは実際には可能性の幽霊でしかなくて、
 現実性も実在性も実体性ももってはいない。

 私は気取った声色で話すこうした気味悪い人間の声が嫌いだ。
 それは騙されたくないからではない。
 お話しにならないからである。

 こういう手合いとは話が出来ない。
 彼にとって私は実在しないし、
 実在するとしたら私は彼の話(モノローグ)の邪魔だからだ。

 私はそれとは正反対の
 明瞭で明晰な凛と響く神聖な声で話す人を愛する。
 それは厳しく私の目を真っすぐ見て
 対面してこようとする人間だ。

 声には顔があるものである。

 顔のない声は聞くに堪えないし、
 声でない声に潰された顔は見るに堪えない。

 人が人に接する瞬間は素朴でなければならない。

 現実というのはシンプルなもので、
 コンプレックスをもつことはない。

 複雑な表情は蜘蛛の巣ににている。
 それは他人を可能性のなかに籠絡しようとしているのである。

 複雑な表情を浮かべている世界や人間は端的ではない。
 端的に現前しないものは現実ではありえない。

 それはみにくい。

 みにくい人間は
 自らの張り巡らしたナルシシックな声の網にとらわれている。

 蜘蛛がみじめな生き物だと思うのは、
 その張り巡らした蜘蛛の巣の中から出られないときである。
 彼は何よりも真先に
 自分自身をその蜘蛛の巣の思う壷の獲物に貶めてしまっている。

 翼を持たない蜘蛛は惨めである。
 それは巣にかかった虫たちの
 羽根をむしることにしか生甲斐を見い出せない出来損ないの虫である。

  ナルシストは蜘蛛の巣のような耳をしている。
 その耳は他者を聞く能がなく、
 単に自分が食指を動かす単語だけをキャッチして
 それにすばやく飛びつくように出来ている。
オン(ON)

1.ギリシア語(ον)

 パルメニデスの存在の自同律(A=A)「存在は 存在し、非存在(無)は存在しない」のパラドクスから導出された〈一者(hen)〉としてのヘンな〈存在者〉。(存在〔ぞんざい〕な存在)の観念を意味する。
 これは〈ある〉〈存在する〉を意味する動詞エイナイ(einai)の中性形の分詞に由来する名詞であり、通常は〈to on(複数形 ta onta)〉と書かれ、日本語では単に物・事物・物事にあたる語として普通に用いられていた。
 この中性的な〈存在者〉は 〔羅〕ens 〔独〕das Seiende 〔仏〕l'étant 等と訳されている。


2.英語

〈接触〉の意味において「上に」を意味する前置詞。

3.フランス語

 人間一般・不特定の人を意味する不定代名詞。
 人・人々・誰か・ある人を意味し、ハイデガー哲学の世人・世間を意味する das Man の仏訳語として用いられる。

4.ヘブライ語

 カバラなどの魔術用ヘブライ語で120の数値をもつ神の一つの名前(アイン・ヌンと綴る)

5.中国語・漢語 〖恩〗

 名詞で、人に有難いと印象づけたこと。有難み。恵み。
 会意形成文字で、「因」は「印」と同じで「上から下を押さえる」の意。
 これに「心」を付けて、心にのしかかって何らかの印象を残すこと。
 恵みを与えて有り難い印象を心に記したことを意味する[参考・漢字源]。
 [岩波古語辞典]君主・親などの恵み。

6.ルース・ベネディクト『菊と刀(1946)』における〖オン=obligation〗

 受動的に受ける義務。人は「恩を受ける」、また「恩を着る」、すなわち《恩》とは受動的にそれを受ける人間の立場から見た場合の義務である。
(ルース・ベネディクト『菊と刀(1946)』長谷川松治訳 社会思想社 教養文庫 P.135)

 大から小にいたるまで、ある人の負っている債務のすべてを言い表す‘obligation'に当たる言葉は《オン》〔恩〕である。日本語の慣用ではこの言葉は‘obligation'‘loyality'〔忠誠〕から‘kindness'〔親切〕や‘love'〔愛〕にいたる種々さまざまの言葉に英訳されるが、これらの言葉はいずれももとの言葉の意味をゆがめている。もし「恩」が本当に愛であるならば、日本人は「子供に対する恩」ということもできるはずであるが、そういう語法は不可能である。……「恩」にはいろいろな用法があるが、それらの用法の全部に通じる意味は、人ができるだけ力を出して背負う負債、債務、重荷である。人は目上の者から恩を受ける。そして目上、あるいは少なくとも自分と同等であることの明らかな人間以外の人から恩を受ける行為は不愉快な劣等感を与える。日本人が「私は某に恩を着る」と言うのは、「私は某に対する義務の負担を負っている」という意味である。そして彼らはこの債務者、この恩恵供与者を彼らの「恩人」と呼ぶ。(同書P.115)