〈われ〉〈わたし〉〈このわたし〉は
同じこの〈私〉という物を指す同じ語であるようでいて、
それぞれ異なる音色を響かせる。違う意味の響きがそこに擦れ違う。

それは言の葉の意味の葉擦れであり、
微妙な〈外れ〉た意味の〈琴鳴り〉である。
琴鳴る意味のささやきを聴き分けるのは歌心である。

この〈琴鳴り〉は〈異なり〉とは異なる差異である。
〈琴鳴り〉の〈なり〉には〈風姿〉があり〈行作〉がある。
〈琴鳴り〉とは、〈琴の風姿〉である。

歌心は言の葉の木蔭に座り、
その緑陰の影の動きを透して目にみえぬ風の姿の来着を見分ける。

歌心はみどりの言の葉の飜りを見取り、その意を解し味わう。
だから全ての言の葉は〈翻訳語〉である。
言の葉とは声の風のなかに飜るものである。

〈声〉とは越えてくるもののことをいう。
つまりそれは〈超越〉である。
それは風の超越、つまり〈気越え〉である。

声が耳に聞こえるとは、
越えてきた風の超越が来着したことの知らせである。
それが〈気着き〉である。

それは風気の音擦れを通して〈誰か〉の訪れを教える。
声の風は、気越えて気着いた遥かなるものの風情を
〈風姿〉として人に伝える。

遥かなるものとは〈春の気配〉であり〈花の香り〉である。
〈花〉とは〈鼻〉に最初に匂い起こすものであり、
その香りのなかに咲くもののことを言う。
この香味を意味という。

意味とは〈花の香り〉である。
それは〈鼻〉に〈甘い香り〉となって
花咲くものでなければならない。従って辞書には乗っていない。

辞書とは〈舌〉に〈辛い〉過ぎ去った言葉の書き置きである。
そこには〈花の香り〉は抜け去っている。

言の葉の意味とは正しく〈風姿花伝〉と呼ばれねばならない。
それは〈能〉の精神である。
〈能〉とは〈知り能う〉こととしての〈知能〉を意味する。
体に感じるものはそれを知り能う。

しかしこの〈能〉とは、
普通に可能・不可能・有能・無能と言われるときには
見失われている何かである。
それは〈美しきもの〉のことである。
また美しき風の出来事の出来することをいう。

〈能〉とは風の出来事である。

出来る・出来ない、
また出来が良い・悪い、
出来上がる・出来ていない、
という言い方のなかで
私達がうかつに見過ごしている〈風〉の問題がある。

〈風〉はただ起こる。それは風起し出来するのみ。
〈能〉とはこの出来事の「出来性」を意味する。
私が「不可能性」と呼ぶのは、この〈能〉〈出来性〉のことである。
〈能〉とは〈起こりつつ出来る〉ことを意味する。

この〈出来る〉は、
「何かが出来る(可能・有能)」ことを意味するのではない。
それは「何かが出て来る」ということを意味する。

出て来るものは〈美しきもの〉である。
これを〈奇蹟〉という。
〈美しきもの〉とは〈うつ奇しきもの〉のことである。

〈美〉の観念の核心には〈奇〉つまり〈不思議〉がある。
この〈奇〉なるものは、風の出来事の風核の接触に関係している。

〈奇〉とは風が当たって、その〈気〉が触れる微かなふるえのことである。
ふるえるとはそれが動き、息づくこと、生きているということである。

この生きているものが〈物〉である。
実際には生命をもたぬものであっても、
それは恰も生きているかのようにふるえ動くときに、
一瞬の〈奇〉なる命をもつ。

〈命〉の観念の核心には〈奇〉がある。

この〈奇なるもの〉は〈奇麗なもの〉と〈うつ奇しきもの〉に分岐する。
分岐させるのは〈うつ〉と言われる何かである。
これは〈うち(内)〉の古形として知られている。

美しいものとは、
内に奇を孕んで受胎し〈もの〉として忽然と現れる〈物〉のことである。

この〈物の現れ〉を〈もののあわれ〉という。

それは内に奇を孕みうごめきながら〈外〉へと生まれ出ずる。
これが〈奇麗なもの〉である。
しかし、それは〈奇〔あや〕しいもの〉でもありうる。
ここに〈妖怪〉または〈物の怪〉の観念も同時に生まれ出ているのである。

〈うつ〉は物の内部を暗示している。
そして実際に〈うつろ・空虚〉の意を表す古い接頭語である。

物としての〈物〉はうつろなもの、
内に〈何も無い〉をもつだけの〈器〉である。

これが〈からだ〉である。
〈からだ〉とはそれだけでは〈身〉のない〈空だ〉であるものである。

〈器〉である〈からだ〉に〈身〉が入ってやっと本来の意味での身体、
〈人〉の〈本(もと)〉である〈体〉となる。

しかし、飜って、〈人〉の〈本〔もと〕〉を
素材(質料)の意に解するなら、
〈体〉とは〈身〉のない内側の空虚な〈器〉でしかない。
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 風は爆発する。
 それは容器の破砕であり、原爆投下であり、災厄であり、ノヴァである。
 それは通過する。
 横断し、頭上を過越すB29の
 或いは寧ろステルス爆撃機の機影であるといえる。

 純粋な出来事としての風はそれが起こるとき、
 すでに爆撃機(速度)と原子爆弾(強度)への核分裂=爆発なのである。

 速度と強度へと風は裂ける。
 強度はその爆発によって〈この〉を創造する。
 速度はその発散によって過ぎ去りつつ〈その〉を反創造する。

 風は破壊触発である。始まりとしての始まりの切断でそれはある。
 それは実は〈差異〉であるとはいえない。〈切断〉なのだ。

 純粋な出来事としての形而上学的風。
 それはどのような微風であっても
 爆発的な爆風であって、
 無限の風力と風速への分裂の様相を呈するものである。
 それは、爆発する差異であり、その差異自体を切断する。
 それは破壊的な切断である。

  *  *  *

 強度と速度への風の分裂=切断は差異に先行している。
 しかし強度とか速度とか
 それを〈度〉の概念のもとで考察するのはよくない。
 〈度〉は尺度(modus)に発するからだ。
 それはモード(風=流儀としての法-この最悪の下らぬ法)を、
 つまり風の抜殻を前提しているに過ぎない。

 流儀化した〈風〉、
 飼い慣らされた風であるニューモードを着ることで
 偽りの新時代を捏造する
 ロラン・バルト化された我が国の
 ソフトドゥルージアンたちをわたしは最も軽蔑している。
 それこそ風を隠し、風を防ぎ、風から遁げ、
 風から命を奪う最悪の聡明な反動思想であり、
 最もドゥルーズが憎み蔑んだ態度である筈である。

 わたしはドゥルーズの読者ではない。
 しかし、ドゥルーズがどういう人間であるかを風を通して知っている。
 モードの表層的様態変容
 (我が国でのそんな安手の〈表層〉の切端の相場は
  単に厭味な〈皮肉〉程度の価値にまで値切られている)
 などよりも重要で核心的なのは態度変更である。

  *  *  *

 〈度〉というものは結局、〈態=度〉の問題であるに過ぎない。
 そして〈度〉の以前に
 〈態〉の問われるべき次元が断固として先行している。

 それは〈modus〉よりも〈pathos〉の方こそが
 様相ないし様態の概念として絶対的に先行するということを告知している。

 風の強度とか速度とかという
 尺取虫=点取虫的様態の
 このだらけた訳語を更に飜さねばならない。
 それは測定され得ない風の衝撃であり風速であるからだ。
 風の強度は〈風力〉と呼ばれ風の速度は〈風速〉と呼ばれねばならない。
 モードとはもはや吹かない風、命をもたぬ風の形骸だ。

 ルーリアは破砕された容器の砕片から、
 穢れた悪の世界が生じたと教えている。
 そしてこの悪を生み出す砕けた欠片を〈殻〉〔ケリーム〕といっている。
 このヘブライ語の複数形が訛って西欧魔術の世界に伝わり
 一般に〈クリフォト〉と呼ばれ、
 形而上学的な悪を意味する用語として広く用いられている。

 二つは別に違う語ではないから、
 わたしは無用な煩瑣さを避けるために
 平明にこれをクリフォトと書くことに統一する。

  *  *  *

 クリフォトはまさしく破壊触発の風の抜殻、その命なき形骸を意味する。
 そこには風力はなく風速はない。
 風は既にそれが起こった爆心地から撤退=脱去しており、
 残るのは出来事の破壊触発に打ち砕かれ、
 打ちのめされた人間たちのストーカー的かつバベル的な混乱の世界である。

 愚者はそこで命なき出来事の形骸を、
 ベルリンのうすぎたない壁の欠片を、
 まるで御利益のある宝物のように探し漁って、
 物神=呪物化する。それは偶像崇拝の起源である。

 モードとはこのようなクリフォトであるに過ぎない。
 それは死せる風であり、いわば風の化石である。
 そこには真の意味での問いがない、
 あるのは下らない子供騙しのトーイ(玩具)だけだ。

 しかし、子供は風の子である。
 窓を開け放ち、外へ表へと飛び出さねば元気な子にはなれない。
 ウラナリどもは皮肉な玩具を弄び、
 遊戯の次元の朧ろな鏡映(映画)の断片=模像を、
 真の表層・外・シミュラークルだと思い違いしている。

 こういう奴は莫迦である。
 彼らは単に表層・外・シミュラークルを
 本物(原典/オリジナル)から取ってきた
 由緒正しいコピーであるといって見せびらかし、
 そのことによってつまらぬ深層・内・オリジナルを
 再生産しているだけである。
 頭がおかしいのである。そんなものこそ神話作用でしかない。

  *  *  *

 シミュラークルの精神にとって最もよくない敵は、
 オリジナリティのないこのテのオタク的コピーライターなのだ。
 コピーがオリジナルを作るという
 この安っぽい転倒=倒錯は何ら反体制的なインパクトをもたない。
 単に余計に反動的に体制を補強するだけである。

 レプリカントとシミュラクラを混同してはならない。
 それはアンドロイドと人間を混同するのと同じくらい莫迦げたことだ。

 われらの友フィリップ・K・ディックは、
 アンドロイド(レプリカント)と人間を識別するのが、
 他の生命への愛と尊重の感情の有無にあるのであって、
 その身体組織にあるのではないということを
 あの極めて倫理的な名作
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』で示している。

 映画『ブレードランナー』の方は
 原作のもっている厳しい問いのエッジをかなり損なって了っているものの、
 基本思想は共通している。
 要はハートなのだ。

 迫りくる機能停止(死)を恐れるレプリカントは、
 己れがレプリカントであるという宿命を呪って
 人間を冷酷に殺し続ける限り、
 レプリカントであって人間ではない。
 しかしその彼が、
 自分を狩ろうと追いかけてきたブレードランナー(人間)の命を
 戦いの果て、その機能停止の間際になって救うとき、
 彼はレプリカントから人間になる。
 他方、人間である癖にレプリカントを追い詰め殺そうとする
 ブレードランナーは人間であってもレプリカントになってしまっている。

 識別の問いの刃がこのとき
 グルリとブレードランナーの心臓を突き刺すのだ。
 おまえは本当に人間なのか、
 人間ならば何故レプリカントを追い詰めて殺そうとするのか、と。
 ブレードランナーという職業は不可能な職業なのだ。

  *  *  *

 ディックにおけるシミュラクルのエチカは
 まさにこの〈汝殺す勿れ〉というレヴィナス的な思想が、
 他者の貌においてではなく
 自己の心臓において啓示された瞬間に誕生している。

 胸を撃つパトスの倫理学。
 人間はレプリカントを否定することによって人間であるのではない。
 寧ろレプリカントを否定することによってレプリカントになってしまう。

 人間であることは不可能である。
 しかし、だからといってレプリカントになってしまってはいけないのだ。
 レプリカントがレプリカントでなくなるためには
 彼はシミュラクルにならなければならない。

 シミュラクルとは本物そっくりの偽物ではなくて
 本物そっくりの本物のことである。
 そこにこそディックの偉大なヒューモアがある。

 差異(人間かレプリカントかの種差)が問題なのではない。
 〈この私〉〈このあなた〉
 似た者同士(シミュラクル)への切断が問題なのだ。
 それは種差からは演繹されない。
 最低種と個体の間の小さな溝は種差によっては飛び越せない。
 個体は単に飛躍的な差異ならざる切断によらなければ誕生しえない。

 そして個体は個体であるからこそ唯一の本物なのだ。
 命は種差によって類から分割されたものではない。
 命は個体にしか宿らず、それは唯一の命なのである。

  *  *  *

 人間とは類ではない、それは個体のことなのだ。

 電気羊であってもそれを本物だと思って、
 心から愛するならそれには命が宿る。
 非現実と現実の境界は消えうせ、
 愛の心のなかに美しく愚かしく偉大に融合するのである。

 エマニュエル・レヴィナスはメシア的実存の核崩壊について語った。
 それは砕けた心である。

 これに対し、神の子イマヌエル=ヤハウェを
 あの忘れ難い可愛い少女ジナ・パラス
 (ハギア=ソフィア/シェキナー)の導きによって
 欺瞞と空虚と感傷の悪魔ベリアルの世界から教育的に救出してのけた、
 驚嘆すべき、神をも恐れぬ錬金術的ビルドゥングスロマン
 『聖なる侵入』の著者ディックが語るのは、エデン的実存の核融合である。

  *  *  *

 いじけた心は、しかし、逆に本物の羊をすら電気羊に変えてしまう。
 村上春樹の初期の文学はこのブラックユーモアの上に成立している。
 しかしこのブラックユーモアは
 余りよくできたパロディだったとはいえない。
 村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』にあるような
 溌剌としたカタルシスを与えないからである。

 最高のヒューモアとはブラックなものであるが、
 それは必ずや過激で凄絶な輝きを放つ。

 春樹の『風の歌を聴け』には風がない。あるのは風の化石だけである。
 しかし龍の『限りなく透明に近いブルー』には
 爽快な疾風怒涛の風が吹き抜けている。

 わたしはこの爆風の精神、
 風力と風速をもったインテンシティとヴェロシティの高い
 暴風の美意識を真の意味での〈風流〉と名付ける。

 ヒューモアとは〈風流〉であることである。
 〈風流〉であるものだけが洒脱だ。
 洒脱なものとは流儀に反して創造的に風を起こすことである。

 そこには切断がなければならない。
 切断は生粋であることである。
 生粋であるものは懐古的ではない。
 生粋であるとは真に〈いき〉であること、
 過激に猛々しく打ち砕くように生きていることである。
 常に己れの誕生のときの真紅の産声であることである。

 〈風流〉とはパトスのパトスに他ならない。
 それはモードを目的とはしない自己流儀の風の切断的創造なのである。

 〈風流〉に反する精神は〈皮肉〉の精神である。
 しかしそれは飜して云うならば〈恥〉の精神である。

 風は己れを恥じることなく、気取ることなく、
 その素裸であるがままに童心を吹き抜ける純粋で爽快な感情である。
 〈風流〉の内にこそ真の〈我あり〉は帝王切開的に誕生する。
 それはパトスとしてのパトスの〈華〉であり、〈結晶〉である。

  *  *  *

 天然の水晶の原石はどれひとつとして同じものはない。
 真の自然は個性を好み、個性をのみ創造する。
 そしてこの原石は尖っている。
 決して水晶球のように角が取れてはいない。
 原石に磨きを掛けて洗練し、
 そこから水晶球の形相を掘り出そうとする者は、
 原石のもつそれ自体完璧で比類のない独自の形相を破壊している。

 磨くことは擦り減らしてしまうことである。
 擦り減った揚げ句に具体化されるような丸い個性は、
 ただ無色透明な空虚な完全性をしか実現しない。

 確かに水晶球は美しい。
 しかしそれを見るときに、わたしは痛みを覚える。
 そして不安を覚える。本当にそれはそこにあるものであるのかと。

 わたしはその水晶球に触れる。すると安心する。
 握り締める。するとそれは実在している。
 だが、この実在は球の形相から来たものではなく、
 球の形相に破壊されながら
 尚そこに断固として自己主張している
 その個性ある形相から出来してきているのだ。

 それは完全に球によって放逐されてはいない。
 むしろその球を二つとない宝たらしめているのは、
 原石の個性美なのである。

 水晶の純粋さはその抽象的球形から到来するのではなく、
 その個性美からいきいきときらきらと到来してきている。
 擦り減らされても水晶球はなお消え失せぬ原石であるのだ。
 このとき実は原石の個性美こそが
 球の抽象美に宿りつつそれを実体化していることをわたしは発見する。

 球こそが基体であり質料なのである。
 美しい水晶球は、その球体を打ち負かして、
 原石(個性)こそが発見されるときに、光り輝き、そして真の命を得る。

 この反転は創造の創造である。

 ヒューモアは模倣不可能なもの、複製ではないものだ。
 それはユニークであることである。
 
 わたしは美しく思考する。
 思考することは美しく自己流儀に風流に個性的になされねばならない。
 美しく思考することはしかし自惚れぬことである。
 自惚れは風流のもつ健全な傲慢の精神に反する。

  *  *  *

 風の超越である出来事の横断。
 それは存在なき超越である。
 時間なき過去としての〈過ぎ去り〉である。

 最も透明な出来事である〈passer〉の通過は、
 レヴィナスのいうような〈exister〉(実存する)、
 或いはまた〈esse / être / Sein〉(存在する)よりも
 先行している事件である。
 在るのでも実存するのでもなく、
 過ぎ去る風の超越である〈passer〉は、全てに先立って起こる。

  *  *  *

 破壊触発は〈この/その〉の割裂けとして亀裂して
 〈もの〉をその亀裂自体として誕生させる。
 〈もの〉とは〈その〉から〈この〉への差異の割裂的揺返しから、
 地震からその地割れを通して出来する出来事である。

 風は〈その〉から〈この〉を切り離す切断であるが、
 〈もの〉はその割れ目に生起し或いは寧ろ顕現する。
 〈もの〉自体は〈その〉と〈この〉の間にあって
 分割され分断され切断されている。

 それは〈分〉としての〈分〉の出来事である。

 未分化なものから分化が起こるとき、
 それが二つへと極化する以前に
 〈分〉としての〈分〉が先に生成しなければならない。

 分化したものは〈分〉が化して二つへと化身したものだ。
 二つへと化身するとき、
 〈もの〉は〈もの〉である以前に〈ばけもの〉である。

 〈ばけもの〉が再統合されてやっと〈もの〉になるが、
 〈もの〉は実は逆に〈ばけもの〉が化けた〈もの〉なのである。
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 差異――むしろ爆発的な、核爆弾のような差異としての差異がある。破壊触発の極限において、差異は同一性の破壊であるばかりか、差異であることそのものへの破壊ですらあることだろう。
 何もかもをぶち壊しにするような純粋な差異は、恐らく〈出来事〉としかいえない。それは炸裂し、吹っ飛んでしまう。後には痕跡というより地をえぐる爪痕のように凄まじい重症しか残らない。ただブラックホールしか残さないような最も野蛮で凶変的な差異というものがある。

 それは野獣的だ。脳髄を破壊し、理性の箍を吹き飛ばしてしまう〈叫び〉としてしかありえないような〈ありえない差異〉というのがある。

 この最大級の差異のことをブランショは〈災厄〉と呼んでいる。わたしの考えでは、この〈災厄〉はレヴィナスが自分の〈イリヤ〉に引き寄せてそれと同一視しているような程度のものと恐らく違っている。

 ブランショが〈災厄〉と呼んだもの、それはレヴィナスの〈イリヤ〉が未だ〈恐怖〉の体験だったのに対し、その〈恐怖〉をすら不可能にしてしまうような何かなのではないか。つまりイリヤがアウシュヴィッツでありサリンであるとしたら、ブランショの(災厄)はヒロシマでありネバダでありハルマゲドンであり怒りの神なのだ。

 〈災厄〉はもはや〈不在〉とはいえない。逆に〈イリヤ〉はまさしく〈不在〉だったのだが、〈災厄〉は現前しないとしても不在ではないような暴露性であり被爆性なのだ。ブランショの思考は被爆者の思考、それも閃光と共に蒸発させられ、恐怖を覚えることすらなく消されてしまった被爆者のなかの被爆者の思考だ。

 だからこそ、逆に〈災厄〉にこそ〈イリヤ〉の恐怖の迷宮を、この恐怖の大王の黒き鉄の牢獄を打ち破る最後の希望をわたしは託そう。〈災厄〉、それは〈奇蹟〉であるのだから。
 それはレヴィナスの神を廃棄するような神であり、律法を完全に爆破して星空に返してしまうような神の〈神の内なる位相転換〉なのである。

 もはや神が神ならざる神となるとき、われわれもまたわれわれならざるわれわれとなることが出来る。しかし、それが「有り得る」とか「可能である」といかいうのではないのだ。「出来る」とはもはや能力とはいえない超能力のようなものだが、「超能力」とそれをいうべきではない。
 それはむしろ〈放射能〉というべきもの、〈根源的能動性〉というべきもの、出来事としての出来事の洪水なのだ。

 風がそれをもたらす。というより、風がそれであるような風媒が既にしてそれなのだ。

 出来事は、超能力でも無能力でも能力でもありえない。それはまさにありえない力だ。放射能力であり、そして一層、不可能力ないし不可抗力としかいえないような魔法なのだ。

 おそらく災厄とはついには星のきらめきである。それは〈存在〉をすら凌駕する〈運命〉の美しさなのである。

                               ―了―


【後記】「形而上学的〈風〉についての考察」は、ひとまずここで筆を置くかたちにて終わる。ベースになった原稿は1996年頃に書かれたものだ。9年後に読み返しつつ、それと格闘するようにして加筆・削除・訂正を行い、ここに初めて人目に晒すかたちとなった。
 考察の部分部分には途切れや飛躍が目立つ。これは敢えてそうしたものである。わたしは自分自身の思考を出来るだけ切断しておかなければならなかった。それでこのような、カマイタチに切り刻まれたような形のテクストとなった。
 もちろん、わたしのなかで形而上学的〈風〉について考察するという課題はこれで終わった訳ではない。だが、この原稿の続編が書かれる事はもう二度とありえないだろう。せいぜい加筆訂正が行われることがあるとしても、この十四篇からなる断章集に新たな章が付け加わる事はない。
 この考察は〈風〉の思考の始まりの場所にある。そしてその扉は永遠にこのままに〈風〉に向かって開け放たれたままにしておかねばならない。
AD
 高橋順一は、『始源のトポス』(エスエル出版会1986)のなかで、同一性の成立それ自体のうちに、不可避的にそれを抉るような、同一性には還元できない〈無〉への「媒介」の「始源的異化」の痕跡が孕まれてしまっていることを指摘している。
 これはわれわれの文脈でいう、風の風媒の漂流=彷徨とそれが破壊触発する存在論的災厄の火傷に該当するものである。

 高橋のいう〈媒介〉は、通常のヘーゲル主義がいうような止揚された同一性へと媒介するような媒介でもなければ、何らかの身元の割れた同一者の自己に遡及できるような媒介でもない。
 ヘーゲル主義の場合、媒介は他への媒介といわれるけれども、それは同一性へと回収可能な媒介であって、結局のところ自己への媒介を意味するに過ぎない。媒介は他を止揚することである。これは止揚的媒介であり、要するに媒介=同一性(同質性)なのである。
 しかし、高橋は、〈同〉に止揚不可能な異他性ないし異質性からの媒介について語ろうとしている。それは他〈への〉媒介ではなくて、他〈からの〉触発的媒介であるといっていい。
 自己または〈同〉は、この根源的他性を同化=止揚することはできない。おそらくただ排除することができるだけだ。しかしむしろ逆に自己または〈同〉の方こそが、根源的他性から排除され切り離されるという受動性によらなければ成立しえないのである。

 根源的なパッシヴィテ、受動性・受難性・情態性というべきパトスの様態がどうしても存在することの基底には、風の掻爬の痕跡として、或いは、燔祭の黒き精神外傷として、烙印のように焼きついている。

 これはどういうことか。――存在なき受動性としてのパッセが、通過とも過去とも受動とも消極ともいいがたいパトスとして、すなわち〈純粋様相〉としか言い得ないような何かが、時間と存在に先立つ出来事としてある、ということだ。
 おそらくそれは、出来事それ自身における根源的な分極化の運動を暗示している。

 パトスとトポスへの分極。一方は消極してゆき、もう一方は積極してゆくような陰陽の切断だ。それは陰極(-)と陽極(+)へと〈道〉という風の通行が起きて、ゼロの太極が生成し分化する運動であるといってよい。

 わたしは思わぬところで中国古代哲学のヴィジョンの驚くべき鋭さを再発見することになってしまった。
 しかし、このことは些かも「東洋回帰」などという、わたしが最も軽蔑しまた警戒するあの蒙昧主義を意味するものではない。わたしは東西の分裂を統合しつつ異化的に〈今ここ〉〈この私〉において創造しているからである。むしろ、このように語ることによって、東洋の曖昧で愚かな形而上学の徹底的な批判が開始するのだ。わたしは東洋の精神的独自性だの文化的優位性だのといった世迷いごとを如何にも言いたげにしているみにくい思想の顔が嫌いだ。
 わたしは日本人でもユダヤ人でもギリシア人でも中国人でもインド人でもアラブ人でもヨーロッパ人でもアメリカ人でもありたくない。そんな奴らなどくたばれ!と思っているのである。
 むしろわたしは地球人であり、そして、そうであるよりもむしろ一個の〈宇宙人〉である。
 そして、この〈宇宙人〉こそ、わたしが見出すべき〈この私〉の究極の姿でなければならない。

 何故というに、宇宙的(universal)であるとはとりもなおさず普遍的であるということを意味するからであり、そしてこの宇宙性=普遍性のただなかにおいてしか、単独的な〈この私〉は見出され得ないが故に。

 単独的な実存〈この私〉を柄谷行人は社会性としての普遍性において捉えようとした。だが、それは片手落ちでありまた不徹底であるとわたしは考える。

 普遍性は社会性などよりもはるかに貧しい宇宙性のなかにこそ見いだされねばならない。宇宙性とはもはや独我論すら成り立ち得ないような徹底的な孤独、ついには自己同一性の自己崩壊にまで到るような厳格な破壊の孤独の中に見出されなければ全く意味がないし、そして単に空虚なだけだからだ。
 宇宙の中に身を置くことは端的に破滅である。しかし破滅しないものにどうして〈超人〉を、すなわち、一個の単純な人間を見出すことができるというのか。

 厳密にニーチェ的な意味における〈超人〉とはこの〈宇宙人〉としての〈この私〉のことである。
 わたしは、全てが覆り滅び去った後、再び舞い戻ってきてしまった軸の時代の思想家として、己れをこの宇宙の極としての〈この私〉の上に回転させなければならない。
 美しいものは星座である。わたしは双眸を大きく瞠り、大宇宙の荘厳のなかで最初に思考したであろうシュメールのマギの末裔としてのみ己れをアイデンティファイするであろう。

 しかし、この〈この私〉は、ただ宇宙のなかにそれを見出したという状態だけであるなら、それは未だに死んでいる。そして大宇宙は暗く、天に一個の星座も無い。
 しかし、差異の種子は、時として災厄の火粉である場合がある。それは破壊的に働く。デリダは、差異のこの同一性を破壊する側面を〈毒薬〉として考察している(「プラトンのパルマケイアー」など)。

 災厄の火粉は、質料そのものをその爆発的結合の刹那に焼尽くしてしまうような破壊的な形相である。このとき、〈実体〉は通常の意味においては生まれ得ない。
 形相と質料が、その耐え難い異和的接触、ないし〈破壊=触発〉によって対消滅してしまうような爆発がありうる。それはある種の超新星爆発(NOVA)であり、災厄としての災厄の成就である。

 〈破壊=触発〉、或いは破壊触発はドゥルーズ&スピノザの〈触発=様態変様〉(affectio)の極限の姿である。否、むしろ、〈触発=様態変様〉の根底、その核心にあるのは、この風の根源的暴風性であるその破壊性に他ならない。いかなる微風のうちにも風自体の爆発性である破壊触発の凄まじい力は潜んでいる。否、むしろそれを見出さねばならないのだ。

 破壊=触発、いやむしろ、触発=破壊、触発とは破壊なのである。

 破壊触発は、質料を乗り越えるような強大で極限的な異化作用である場合がある。無論、この場合、質料がどのような様態(ラテン的概念modusにおいてではなく、ギリシア的概念pathosの意味において)にあるのかが考えられねばならない。

 通常、質料は、或る程度形成された様態にある。したがって、質料のなかには既に何らかの形相が先在している。破壊触発は、この先着している形相と、後から風に乗って到来した別の形相の間の矛盾・衝突という風に考えられる。形相と形相は融和せず相克する。多くの場合、先着者が自己維持して後からやってきたものを弾き出す。しかし、この逆もありうる。また、別の場合も考えられる。まず個体に分裂を引き起こす場合が考えられる。更にまた、同一質料のなかに、引き離された状態で、相異なる形相が混在雑居する場合もあるだろう。

 そして、純粋状態の、全く形相を含まない質料、いわゆる第一質料の場合をも考えておかねばならない。しかし、そのような場合にも、奇妙な言い方になるが、質料の形相というものが考えられうる。
 アリストテレスがそのようなものを認めていたかどうかは今は問題にしない。ただ、恐らく、形相/質料という概念対は、不可避的に一方が他方を必要としてしまう概念の組であって、それを無理に引き離そうとすると、極限的には双方無限背進に陥るような危うさをもっている。

 そこで、恐らく純粋質料においても、それを規定する形相というものが想定されうるので、やはり、その場合においても、純粋質料に最初の形相として到来した形相と、純粋質料をして純粋質料以外の何者でもないものたらしめていた形相、いわば〈無〉の形相との間で矛盾相克が生じうるのだと考えられてよい。いや、恐らくその場合においてこそ、むしろ最も苛烈で深刻な相克、いわば〈存在〉と〈無〉の火花を散らす凄まじい衝突が起きるのだ、と考えねばならない。

 そして、翻ってまたまたわれわれは、いかなる質料のうちにも決して宿ることのない形相、あるいは決して宿りえぬような形相、純粋形相とよぶべき形相をも想定することができる。
 しかし、この想定は、形相をイデア的な自体性に差し戻すプラトン的観念論とは別の方位を目指している想定である。
 すなわち、この場合でも、純粋質料についての想定(例えばレヴィナスのイポスターズ論を想起せよ)と全く同じように、その質料なき純粋形相をそれにもかかわらずそのように成り立たせている質料的なものを、われわれはなお、それを思念のなかに召喚する際に必然的に要請せざるを得ないからである。

 何故、純粋形相は思念のなかへと到来するのか?
 そして、それは質料ではないとすれば、それとは似て非なるいかなるものから出来ているのか?
 風は風媒し、花粉/差異を運搬する(種差=運搬 diaphora)。

 〈花粉〉とはノヴァーリスにおいて、霊感を帯び炸裂した天才の思考の断片=断章を意味している。NOVALISとは、〈種蒔く人〉を意味する、フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクの筆名である。

  *  *  *

〈友よ、大地は貧しい。ほんのわずかな収穫を得んがためにも、われわれはたくさん種子を蒔かねばならぬ。/[銘]〉

〈接触のたびごとにひとつの実体がうまれ、接触がつづくかぎりその作用もつづく。これが、個体のあらゆる綜合的変化の基礎である。もっとも、一方的な接触と相互的接触がある。前者が後者の基礎になっている。/[89]〉
(前田敬作訳 現代思潮社古典文庫『日記・花粉』「花粉」)


  *  *  *

 ノヴァーリスは〈接触〉という語で、ドゥルーズ&スピノザが〈触発=様態変様〉(affectio)として語ったことと同じことを言おうとしている。
 純粋な出来事としての風は、差異の種子である花粉=火種を運搬する。それはどこからともなく漂い寄せる、〈実体〉から切り離された差異の分子である。

 差異は風のなかで漂泊=彷徨し、その接触によって個体を触発して綜合的に変化させる。それが〈実体〉の生成である。いわばそれは触発する差異であるといえる。しかし、この差異は根本的には破壊的で炸裂的なものである。それは個体の実体的同一性を深刻な危機に晒す。

 花粉は異性的で生殖的である。それは同一体に取り込まれ、孕まれるときに〈同〉のなかの〈他〉として〈実体〉へと結実する。或いは、取り込むものが基体=基盤としての質料であるとすれば、ここで差異は形相として働き、個別的具体的な〈実体〉を誕生させるといってよい。
 しかし、この場合、自己実現するものは〈同〉ではなく〈他〉であり、差異であり、形相である。


【関連図書】

著者: ノヴァーリス, 前田 敬作
タイトル: 日記,花粉
 ゼロの構造はパルメニデスの〈一者〉([希]hen)の如く球体的である。球体は中心と外周への二極化において成り立つ。この二極化をもたらすものは半径(radius)であることはいうまでもない。

 半径は中心を外周から分離させ引離す。半径は連続量であり、連続的距離([希]diastema)として表象される。しかし、これを別の面から見れば、これはむしろ切断であり、不連続的距離([希]apostase アポスターズ)である。

 ゼロは本来的には0=∞である。しかし、これを0≠∞にするような切断が外から到来する。それが風のπである。

 われわれはここでオルフェウス教の神話を想起する。黒い翼をもつ夜の女神(レダないしエウリュノメ)の産み落とした銀の宇宙卵を風神オフィオンが蛇形となって孵化させ、それによって天地とエロスとが誕生するといわれる。この神話では、宇宙卵はリグ・ヴェーダのそれのように内発的自発的に割れるのではなく、外からの触発によって破砕される。
 同様の創造のカタストロフィ論はより悲劇的な形でルーリアのカバラの〈容器の破砕〉の思弁にもみられるものである。

 リグ・ヴェーダの場合、孵化を誘発するのは時間の時熟またはその内部のブラフマンの自覚である。この場合、出来事の他性は消されてしまっている。
 ゼロは宇宙卵ということができるが、宇宙卵を始まりに仮定したとしても、それが何故割れたのかということを説明することはできない。割れるという出来事そのものは、宇宙卵には還元不可能な外異性としてどうしても残ってしまう。

 むしろ風こそが宇宙卵としてのゼロの観念を生み出す。
 〈間〉という決定不能な場所は、天地創造の時の切り離しの瞬間に生じる。

 円の中心と周縁は半径(radius)によって引き離されている。

 そこで0を中心とし、無限を円周とする円を考察してみることにする。無限はここで当然ながら半径のなかに、おのれ自身と中心〈0〉との間=距離として転写されて数量化する。
 そこで、円の構造を考えてみる。

 円の面積を与える式にあっても、円周の長さを与える式にあっても、そこには必ず半径の他に、π(円周率)という奇妙な定数が出現する。これは球の体積や外面を算出する式においても、また、n次元以上の〈超球〉を考えるときにあっても、必ず出てくる数である。

 あらゆる数の次元において、円の類比物(球や超球)を考えることができる。逆に、円は実は2次元における球体であるに過ぎない。わたしは数学には全くの門外漢であるが、次のことだけは分かる。球体の構造式は、それが何次元であるかに拘わらず、それに超越的に成立しているはずである(球体の体積R= π×半径rのn乗)。
 だが、これを考えることはクレイジーだ。半径無限大の球体はそれが何次元であっても、その次元を必ず爆発させてしまう。それは一種のノヴァに似ている。すると後にはπしか残らないだろう。

 このπは一体何なのか――これが恐らくわたしの追求している形而上学的風そのものなのではないだろうか。

  *  *  *

 風のπ(円周率)はゼロの超新星にノヴァをもたらすようにみえる。
 Rという球体の体積は空間の概念に対応し、rという半径は延長及び連続的距離([希]diasmata)に対応する。すると円周率のπとは、空間=体積であるRを連続的距離=半径rのn乗(累乗)で分割したものである。
 累乗というのは、ドゥルーズがアリストテレス『形而上学』を念頭に置きながら、スピノザを経由して〈力能〉として捉え返したものである。

 空間の次元数にあたるこの力能=累乗は、アリストテレスの可能性=潜勢態(デュナミス [羅]potentia)の概念を狙っている。力能によって累乗化された連続的距離は、円周率πによって空間=体積Rへと現勢化する。Rは充実した物体であることもあれば、それが脱去った空間でもあることだろう。
 πが隠喩しているのは、この様態変換を触発する出来事である。
 すなわち、風というπが到来する出来事によって、何か潜勢態にあるものが現勢態に変換されるのである。
 それは〈もの〉を出来させる。しかるにπは定数である。したがって、このπこそが球体の形相であるといえるだろう。

 さて、恐らくわれわれはそれを球とも円とも呼んでいないが、一次元的な球体というものが考えられる。
 それはR=πrという構造式で表せるような何かである。しかしこれは実現不可能な球体である。球体の形相πは一次元では球を形成することができない。それは恐らく奇妙な潰れた線であるということしかできない。それは円周と体積がべったり貼りついて互いに相手を引き離すことのできない状態であることだろう。

 しかし、われわれは今はこれ以上この問題に深入りすることは避けよう。機会あれば、改めてここから分岐する思考の方角を探索することにしたい。現在のわれわれの探究において、いま、おぼろげに浮かび上がってこようとするものを確認することが先決問題であり、それをまだ確定しないうちに先に進むことは慎むべきことである。

 われわれは少なくとも次のことを確定する事はできる。
 ゼロと無限は、1、2、3、4……のような自然数が数であるような意味においては数であるとはいえない。それは数えられない数である。
 ゼロは無限と一緒に生起する数空間全体の場の発生であり、それゆえに恐らくゼロは単に座標軸の原点であるのみならず、その座標空間の全体でもあるのだ。
 ゼロはしたがって数空間の全体性の定位である。

 したがって全ての数は、無と無限、0と∞の間に有限者としてあるといえるが、そのように数に場を与えているのは、この〈間〉或いは〈隙間〉としてのゼロの働きであるといえる。
 ところで、あらゆる数は0に根付いているといえるが、それはゼロから延びている有限な線分であるということ、つまり数は半径であるということである。
 数は半径としておのれ自身を0からの距離の度合([羅]modus:度)として示す。0はあらゆる数の基準であり、その意味の基盤である。
 0との関係を通さなければ、実はいかなる数も数値を持ち得ない。数をして数たらしめているのは実は0であり、あらゆる数はその半身として0を伴っているのである。

 数は、したがって、0に呪縛されており、0から脱出することの不可能性としてある。さもなければそれは位置づけを失い、蒸発する他にないだろうからである。

 あらゆる数は0と無限という双面をもった無限のゼロ(0=∞)の内側にあるといえる。そして、数の〈実体〉とは紛れもなくこのゼロ=零である。
 全ての数は、このゼロ=零という〈実体〉を分有(participatio)することによってのみ存在しうる。
 ただし、既に出たπと、そして1については、なおこの些か性急な断定を留保させるような何か別のものが感じられる。
 
 πには既に述べたようにこの無限の無である0を外へと逸脱して破裂せしめる過剰な風の力が宿っている。

 他方、1もまたπと共に、ゼロの繰り広げる恐るべき双面の零の空間に呑み込まれ、拉し去られてはいるが、本来的には零(0=∞)にとっては外異的でなければならない。

【付記】
 数1については何故外異的であるのか今後更なる考察と論述の余地あり。
 外異的であるのは、もし単位としてのこの1がなければ、そしてこの1と0との間の距離がなければ、他の数が成立することがないからである。
 1は最初の定数として0の繰り広げる数空間に侵入している。そして、そのことによって、本来的に数えられない数である0をあたかも数えられる数であるように変換する。
 0と1とで2つの数となる。こうして、2が生成する。
 他の自然数は、基本的に〈反復〉によって生ずる。

 ざっと以上のことがメモされるが、考察がまだ行き届いていないので、一旦は措くことにし、別の機会に改めて論じてみたいと思う。
 。。でも、いつのことになるやら。。(嘆)

 なお、この考察では、πが風を、0が風の置き忘れていった風の抜け殻としての虚無的な他者性を、そして1が自己あるいは存在者を暗黙に意味している。
 しかし、ゼロとは一体数量であるのか?

 この得体の知れないゼロ、無限の無は加減計算において何の意味ももたない。
 例えば、3に0を足すこと、或いは3から0を引くことにおいて、3にはいかなる変化も観測され得ない(3+0=3-0)。
 とはいえ、加算においては対称性がある。つまり、3に0を足すことと0に3を足すこと(合成)は同じ意味である(3+0=0+3)が、減算においては非対称性がある(3-0≠0-3)という差異は観測されるだろう。しかしながら、その場合においても、正負の符号が反転する(+が-になる)だけであって、3の自然数的で直観的に明晰な観念自体には変化はみられない。ただ0を中心にして、3が正領域から負領域へと点対称的に反対側へと置換えられるだけである。

 無論、わたしはここで算術についておさらいをしているのではなくて、そのことから得られる形而上学的な零の意味を解明しようとしているのである。

 量的な解は計算から出てくるが、その質的な意味についての解は形而上学的な思考によって創出しなければならない。算術はそのためのメタファーである。

 さて、先の思考実験の結果分かるのは、加減の場合において、存在者〈3〉は、その自己同一性(〈3であること〉)に何の変質も蒙らないということである。
 
 もっとも、3に0を足したり、3から0を引いたりすることは、実際には計算することであるとはいえない。それはむしろ計算しないということである。すなわち3+0というのは、3に0を実際に加えるというのではなくて、3に何も加えないということであり、0-3というのは3の符号を単に逆にするというより、それ以下であることは式を見れば分かる。つまり3は既にマイナス3として明示されているのであるから、やはり0からは何も引かれないのである。

 つまり、加減算の式のなかで、単独の数値としての0は単に省略=除外され、間引かれ、飛び越されてしまう存在に過ぎないのだ。

 恐らく、共に古代インドに起源をもつという異質な数、0と∞は、加減算の思考の秩序には本来合わない数、外異的な数なのである。

 ところが、乗除の計算においては事情が変わってくる。
 3に0を掛けると解は0、つまり3は消滅して0の中に吸収されてしまうが、それはまるで3がブラックホール(無限小)に呑み込まれたかのような観を呈するのだ。
 他方、0を3で割ると0、0はこのとき分割不可能な数として3の前に立ちはだかり3を無意味化してしまう。
 そして3を0で割ると∞の無限大が姿を現す。つまり3は無限大の分割にさらされて炸裂的に崩壊してしまうのである。

 乗除の計算において、わたしたちは初めて0の特異性に直面する。それは0としての0の顔前に引き出されるのだといってよい。或いは、触れば灼けつくように熱い、燃える石のような0の体を把握するのだといってもよい。
 また、わたしたちは、0において初めて無限としての無限の生の姿に出遭う。0は数空間の〈中心数〉であり、無限はその不可能性の〈周縁数〉であるといってよい。
 0と無限の両者はちょうど円の中心点と円周のように不可分に結合しあっている。

 中心がないなら円周は崩壊する。 
 0はあらゆる数を自分と無限との間に置くことで、数の全体を包括的に基礎づけている。

 風は恐るべき純粋な無/切断の爆発である。一瞬、全き虚無が万物をその黒よりもはるかに深い暗黒の中に消し去り、絶滅し尽くす。虚無の太刀の閃きが全てを覆し断滅させてしまう。風位としての風位はあらゆる定位に先行する定位の定位である。
 
 風は純粋な破壊である。
 破壊=創造の白きカタストロフィの〈内〉に森羅万象が一挙にして略奪され、形相も質料もない恐るべき完全虚無のなかに突き落とされ、消え失せる。
 それは、しかし、〈時空〉が、〈次元〉が創造される瞬間である。
 この意味で、風の瞬間、刹那滅は、時間そのものに完全に先行している。
 それは決して現在とはならない〈今〉である。

 この〈今〉、〈何処にもないこと〉が位置づけ自体の位置づけ、何処にも無い〈何処自体〉として絶対的に定立される。

 全てを吸着して消滅させる白きカタストロフィは、それ自身を翻して爆縮し、広がりをもたぬ形而上学的重力崩壊星、いわば〈否のブラックホール〉を形成する。

 白きカタストロフィは〈至るところ〉の無限を一挙に完全に定立するその絶対根拠であり、否のブラックホールは〈今ここ〉の背後の拒まれた〈今ここの今ここ〉として、それを背後から重力的に呪縛する絶対根拠である。

 しかし、この両者は、一陣の風の通行ただそれだけによって創造されてしまう還元不可能な〈実体の実体〉、すなわち〈何処自体〉という形而上学的原定位あるいは形而上学的絶対零度の双面であるに過ぎない。

 白きカタストロフィへの炸裂と否のブラックホールの爆縮は、表裏一体、不可分離的に、風の絶対零度の特異点に結束してしまっている。

     * * *

 風の無根底性は、〈風穴〉という〈風位〉それ自身の内への驚くべき筒抜性の観念を与える。
 この〈風穴〉の観念に一番近いものは恐らくエッダに描かれるギヌンガガップの真空である。風は〈風穴〉という宇宙のピンホールであり、瞬間それ自身の内を通り抜ける瞬間である。それは、無限としての無限を啓示する。

 絶対無であるといえる風の風位=風穴の開示する〈何処自体〉は、無限大(至るところ/白きカタストロフィ)と無限小(今ここ/否のブラックホール)の双面に分解する以前に、無限大でも無限小でもない無限の無、無限の絶対零度の、いかなる意味でも表象不可能な核(コア)の観念を与える。

     * * *

 風核という風穴の不可能性の核心に結実する、無限大でも無限小でもない無限の無、この風の絶対零度は、ゼロとしかいえない。
 このゼロに無限小と無限大は属している。無限大はこのゼロの不可能性の中心として、そして無限小はこのゼロの不可能性の限界として。
 両者は、このゼロに、いわば超新星爆発的に結合しているといっていい。
 つまり、逆にこのゼロは超新星(NOVA)なのである。

 ゼロの超新星爆発は、宇宙=空間(space)を与える。現代物理学でいうところのビッグ・バンは、宇宙=空間の出現以前に得体の知れない超新星が「あった」ことを前提=仮定してしまう。これは不可避的である。

 ゼロとは、このように消滅=爆発してしまった〈星〉であり、ノヴァであり、恐らく、厳密にブランショのいうような意味においての還元不可能なデザストル(désastre 災厄=堕星)なのだ。それは、言い換えるなら、われわれはこの初源の星から絶対的に切り離され、追放されて〈外〉にいるといえると同時に、その〈内〉に脱出不可能に呪縛されてしまっているということである。
 ブランショは恐らく、わたしと殆ど同じポイントに遭遇してしまっている。