不可能性はさまざまな偶然の出来事の核心にひそむ無限小の核爆弾である。
 それは偶然性を偶然性たらしめつつ
 偶然性の様相の出来によって掩い隠されてしまう純粋消滅体である。

 不可能性は爆発してその核心を跡形もなく消し去ってしまう。
 それが爆発するとき、絶無が顕現する。そして虚無が発光する。
 虚無はまばゆい閃光となって忽ち絶無を掩い隠しながら万物を抹殺する。

 その瞬間、むしろ全く虚無こそが在る。
 存在は存在しないのだ。存在者も存在も存在しない。

 一九四五年八月六日広島。同八月九日長崎。光輝の爆弾が炸裂したとき、
 その閃光を決定的に被爆して、〈存在〉は死んだ。

 原爆ドームはそれ自体が〈存在〉の死の記念碑であり、その墓標である。
 それは不可能性の核心が跡形もなく消えうせてしまった爆心を定位している。

 しかし原爆ドームは〈存在〉の死の記念碑にしてその墓標という
 象徴的な意味を帯びているだけではなく、
 それ自体において〈実体〉の屍骸なのである。

 原子爆弾はハイデガーを絶望させたが、
 原爆ドームはアリストテレスを恐慌に陥れる恐るべき何者かである。

 それは可能性(潜勢態)にある質料を
 形相が現実性(現勢態)へと実現したものが個物(実体)であるという
 製作論(詩学)的で目的論的な
 自然性(自明性)や合目的性の概念を破綻させてしまっている。

 その意味において原爆ドームは根源的に非合法で反自然的な建築物である。

 それは脱構築的(デコンストラクティヴ)という意味においてすら
 建築学的でありえない。
 かといってそれは廃墟や残骸というように
 崩壊(風化)過程にあるたんに解体的なものでもありえない。
 その場合でもなお保存や補修というかたちで
 元型の形相(機能・外形)の保持(所有態)に耐えられない
 質料の可能性(性能)の欠如が補われ得るからである。

 それは確かにある意味では反自然的で
 不可能的(可能性の欠如という意味で)であるといえなくはないし、
 事実、原爆ドームの維持という合目的性において行われていることだが、
 そのような意味で原爆ドームが反自然的で不可能的であるのではない。

 解体的なものは、「破壊する」場合にしても
 「保存する」場合にしても「復元する」場合にしても
 〈実体〉の形相的同一性は不変であり、従って同一の建造物であるに過ぎない。
 要するにそれは未だ可能性の形而上学の内に留まっている
 欠如としての不可能性・非現実性・不自然性・無目的性・非合法性
 ・否定性・不毛性・虚弱性・破壊性・破滅性・解体性・偶然性(偶有性)
 ・没落性・崩壊性・不明性でしかないのだ。

 そのようなものは未だに目的論的な歴史性(時間性)の中に
 いつでも回収・還元可能な外部性であるに過ぎない。

 原爆ドームがあのような形態をして残ったのは
 全く偶然のなせる技だったという。

 当然、被爆した後にあの形になることを予想し意図して
 建築家が設計したわけでもなかったし、
 破壊を意図してあの建物を目標に飛来した
 爆撃機の乗組員たちが考え出した形でもありえない。

 原爆ドームは原爆の破壊を破壊して
 純粋に破壊的に創造された奇蹟の怪物なのである。

 それはもはや可能性に還元不可能な純粋偶然態であり
 反現実的な現実性としかいいようのないものを開示している。

 形相なき純粋質料、
 質料が形相の可能性を凌駕してしまった
 さかしまの完全現実態(エンテレケイア)である。

 しかしその終わり(テロス)に到達している、という
 語の本来的な意味に照らして
 これほどエンテレケイアの名にふさわしいものはないのだ。
 
 それ故に原爆ドームほど美しいきれいなものはない。
 もちろん見た目のことを言っているのではないし
 感性的(感性論的)な美学において言っているのでもない。

 これは普通使われているような意味で
 〈きれい〉とか〈美しい〉と言っているのとは全く違うのだ。
 そんなものは逆にきれいでも美しくもないのである。

 原爆ドームこそが本当の意味できれいで美しいのだ。
 それは美を被爆している。
 美に灼けただれた次元から異端的に突出してきている何かだからだ。

 そこにわたしは〈もののあわれ〉を感じずにはいられないのである。
 〈もののあわれ〉とは、嘘いつわりのない
 きれいさっぱりな静けさのうちに顕現する物そのものの真相美である。
 原爆ドームは黙示録的に顕現した事物の終末のすがたなのだ。

 かつてリルケは言った――美は恐ろしきものの始めである、と。
 しかし原爆ドームが黙示するのはこれとは逆の詩情である。

 美こそ恐ろしきものの絶滅の姿なのだ。
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奇蹟論 (1) 

テーマ:
 出来事は出来する。それはわたしに出来る。そして、物語が出来上がる。それは〈美しい現実〉という物語である。したがって、〈奇蹟〉が起きる。
 《奇跡は誰にでも一度おきる。だが、おきたことには誰も気がつかない》(楳図かずお『わたしは真悟』巻頭言
 可能性は実現する。それしかわたしには出来ない。そして全てが出来損なう。この失望に〈悪夢〉が始まる。それは〈現実〉というこの見果てぬ夢、そして決して見破れぬ夢を見るという〈みにくい神秘〉の夢の呪縛である。かくして、〈悪魔〉は必然的に存在する。
  《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》(夢野久作『ドグラ・マグラ』冒頭歌)

 不可能性の問題は、〈美しい現実〉と〈みにくい神秘〉の間、この二元の系列にするどく切り裂かれた二律背反(アンチノミー)の底知れぬ闇の深淵の問題を告げている。すなわち出来事と可能性の狭間には跨ぎ越すことのできない不可能性の断崖絶壁があるからだ。

 出来事は出来する―それが現実の現実性についての形而上学的定義である。『形而上学』の著者アリストテレスは、まさにそのようなものとしてこの現実を形而上学的に発見し、それを今日「エネルギー」の語源の語として知られる「エネルゲイア」の名で呼んだ。
 この語は通常、「現実性」・「現実態」・「現勢態」と訳されている。それは別に間違いではない。

しかし、わたしはこの「エネルゲイア」〈出来性〉と呼ぶことにする。

 それは「出来事は出来する」ということが紛れもなく現実の現実性についての最も端的で明晰判明な形而上学的定義だからである。

 アリストテレスが発見したこの美しい現実、エネルゲイアを、今日例えば「リアリティ(reality 実在性・実体感)」などという英語からの外来語と全く同義に用いられる「現実性」という語に翻訳することは確かに語学的には誤りではない。
 しかし、アリストテレスはエネルゲイアというこの生き生きとエネルギッシュに躍動する美しい現実性を単なる実在性(reality)において見出したのではない。逆である。アリストテレスはエネルゲイアにおいて実在性=現実性を見出したのである。
 ハイデガーによって荘重にも「ウーシアをめぐる巨人の戦い」と呼ばれた哲学史上最初の形而上学戦争は、プラトンとアリストテレスの間で戦われた。
 とはいってもそれはアリストテレスの側からの一方的で全く孤独な架空の論争、亡き師プラトンへの片思いにも似た崇高な背教の戦いに他ならなかったのだが。
 ともあれ、この史上最初の形而上学戦争の論題は、プラトンのイデアか、それともアリストテレスのエネルゲイアか、そのいずれが真に実在するか、いずれが真の現実であるかであった。
 つまり、アリストテレスは、その実在性(reality)という意味における現実性においてプラトンのイデア論、その観念論的形而上学と論争していたのであって、エネルゲイアという現実性は、したがって、直ちに実在性という意味の現実性を直証的に意味しうるものではなかった。
 逆に、プラトンの形而上学からみれば、アリストテレスのエネルゲイアこそが非現実性(夢)ということになってしまうからである。
 わたしたちの通常の感性からみると、もちろんアリストテレスの方が現実主義者で、プラトンの方が訳の分からぬことを言う観念論の夢想家にみえる。
 しかし、だからといってわたしたちが通常普通に「現実」と言っている現実性とアリストテレスの形而上学的現実性であるエネルゲイアとを同一の現実性であると夢想してしまうなら、わたしたちは自分でも全く気づかないうちにプラトン的な観念論の夢の呪縛に陥ってしまう。
 わたしが冒頭に夢野久作からの黙示録的引用を掲げながら〈みにくい神秘〉と呼んでいる罠は実はここにある。
わたしたちは『国家』を著したあの実に恐ろしい哲学者プラトンを決して嗤うことはできない。
 むしろ嗤うべきなのは、イデア論という実際には全くといっていいほど脱出不可能な思考の必然的牢獄を『国家』という恐るべきメタファーをもって描き出し、また論証してみせたプラトンという思想の怪物を嘲笑することができると信ずるわたしたちの犬儒的冷笑の方なのである。

[続く]




著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 (Volume1)



著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 1 (1)



著者: NoData
タイトル: 楳図かずお大研究



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (上)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (下)

著者: アリストテレス, Aristoteles, 岩崎 勉
タイトル: 形而上学




著者: アリストテレス, 出 隆
タイトル: 形而上学〈上〉



著者: アリストテレス, 出 隆
タイトル: 形而上学 下  岩波文庫 青 604-4
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奇蹟論 (2) 

テーマ:
[承前]

 不可能性の作家・埴谷雄高の『死霊』に先駆して、日本最初の驚嘆すべき形而上小説『ドグラ・マグラ』を著し、実際、カントやドストエフスキー以上に深甚な影響の痕跡を『死霊』の上にまで刻んでいる夢野久作は、誰よりも早く、そして深く、この「現実」という「夢の呪縛」の悪魔的な必然性を洞察していた真に恐るべき意味での現実主義者であった。
 しかし、この彼もまた、己れを「現実主義者」と信じて疑わない全くお目出度い無自覚な神秘主義者(彼の父親)に「愚かな夢想家」として侮蔑的な嘲笑を受けた。この夢野久作の父親のように嘆かわしい父親は無論枚挙に暇がない。デカルトの父親もそういう男であったし、わたしもまた身に積まされることに全く同種の子供思いな良い父親に恵まれて、恐らく一生、全く親不孝な臥薪嘗胆の苦痛から逃れることはできないだろう。
 しかし、このような毒になる親に恵まれて人生を破壊されることは、夢野久作やデカルトがそうであったように、真の現実、真の愛、真の自由に通じる青白いきらめきに満ちた月光の小径を見出すための条件でもあるのだ。

 破壊された人生、不可能にされた人生、その他に何も残らなくなったときにしか、人は奇蹟を見出すことはない。
奇蹟というのは、これが現実であるということだ。
そして、この全き不可能性こそがわが運命なのだと決めて、敢えてそれを選び取るということである。

 すると、この奇蹟から魔法が始まる。
 ニーチェにとって、それは永劫回帰という魔法であり、それによって彼は超人に変わった。
 フィリップ・K・ディックにとって、それはVALISという超現実の神の創造であり、彼はこの自分が創造した神によって他ならぬ自分自身を創造するというメタフィクションの円環を結ぶことで、残酷な神が支配するこの恐怖の現実〈黒き鉄の牢獄〉から脱する。かの地球に落ちてきた男ジル・ドゥルーズが発見し、そして心から魅了されたスピノザもまたこの不可能性の不可思議な意味の反転の魔法を示した人であった。
 わたしはこれに失意と悲恋と夭折の悲劇の生涯を送ったと信じられている詩人哲学者ノヴァーリスの名前を付け加えねばならない。
というのはノヴァーリスにおいてこそこの不可能性の奇蹟の爆発は、その最も巨大な超新星の眩い光輝となって炸裂しているからだ。
ここに名前を羅列した人々の人生はいずれも外面的にはかなり深刻な様相で破綻している。ジル・ドゥルーズですらその喘息に苦しんだ人生の最後を衝撃的な投身自殺で閉じている。
 では、彼らの人生は単なる悲劇であったのだろうか。それは敗北、破滅、残酷な運命に無力に翻弄され、破壊されるだけの弱者の悲惨や、絶望の果ての狂気の虚しい幻影に過ぎなかったのだろうか。
 否。わたしは信じない。
 彼らはその凄惨な苦しみにもかかわらず、幸福だったのだ。それどころか、彼らだけが真の意味で幸福だったのだとわたしは信じる。
 わたしは信じる、ジル・ドゥルーズは飛降自殺のその瞬間、間違いなく笑っていた筈だ。
 そして、わたしは信じない。ドゥルーズのその幸福な微笑みが灰色の石畳に墜ちて砕けて死んだとは。
 否。彼は生きている。ノヴァーリスの恋人ゾフィーが永遠に生きているように、不可能性のこの強大な魔法のなかで、生き生きとまだ生きている。
 彼はそのとき彼を迎えに来たスピノザの魔法の風に誘われ、以前から言っていた「魔女の箒」にまたがって、エネルゲイアという奇蹟を起こす出来事の風に乗り、風に変じて、彼が本来それであったもの、すなわち歴史上の全ての人間をその仮面としてもつ唯一の実体、不可能性の超人に戻っていっただけである。間違いなく、彼はそれこそが、真の意味での彼に他ならぬその不可能性の実体であることを認識していた筈だからだ。

 Credo, quia impossibile est.

 他方、わたしは信じない。プラトニスト達のいう「哲学とは死の練習だ」という黒き鉄の牢獄のドグマを。
 そうではない。哲学とは、死に等しいこの灰色の人生に〈死者の復活〉という〈美しい現実〉の物語を描き出すことなのだ。
 哲学だけが、生命を創造する。哲学の真の意味の定義、そしてその使命とは〈生命の創造〉である。
 したがって、哲学の本質は魔法である。西欧中世においてそうであったように、哲学者と魔術師は同義語であり、更に言えば、哲学者だけが魔術師なのである。
 何故なら、神学者たちが何と言おうと、〈神〉は哲学によってしか創造されず、そしてまた、哲学によってしか人は〈神〉に遭遇することはできないからである。
 この意味において、「哲学は神学の婢女である」というのは完全なる誤りである。
 そうではない。カントがそうであることを要求したように、「万学の女王」である「形而上学」という至高の学をその根幹にもつ哲学、それこそがまことに神的な学としての神学の名に相応しいものなのである。
 逆に、神学が作り出せるものは、〈宗教〉という、秘められても隠されてもならない神を〈みにくい神秘〉によって見えなくし、〈信仰〉の美名の名において、〈神〉をその動けぬ十字架の上に呪縛する十字架の偶像崇拝でしかありえない。
 人間は、本当は〈神〉から逃亡するために〈宗教〉を作ったのである。
 そして〈神〉を弾圧し、抑圧し、その真の意味を政治的に抹殺するためにこそ〈宗教〉は機能するのである。
 キリストを信じれば、人は自らキリストを生きて、わが手で人を救うことを放棄する。また、仏陀を信ずれば、人は自ら悟ろうとすることも、慈悲の心を抱くこともなくなってしまう。
 そうではなく、人は自らを信じなければならない。
 そして、キリストや仏陀が何か全く特別な異例な存在であることを信じてはならない。
 何故なら彼らはあなたのなかに生きているからだ。
 愛も叡智も正義の怒りもすべてあなたのなかにある。
 だからこそ、あなたのなかにいる彼らをあなたは解放しなければならない。
 そのときあなたは認識する筈だ。難しい話ではない。〈神〉は全く実在するものである。
 単に、あなたがその峻厳なものを畏怖し、またその可憐なものの優美さを恥じて、それから顔を背けていただけのことなのである。
 〈神〉でないものを〈神〉と呼ぶことをやめるだけで、全く信仰を必要とせず、〈神〉はあなたの前に顕現する。
 したがって〈奇蹟〉は起きる。
 だが、それは哲学的認識によってしか起こりえないものなのである。
 出来事は出来する。それが〈奇蹟〉の起きる〈美しい現実〉、エネルゲイアを召喚するための不可能性の形而上学の魔法の言葉である。

[続き]





著者: 夢野 久作
タイトル: 夢野久作全集 全11巻セット



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ



著者: 鶴見 俊輔
タイトル: 夢野久作と埴谷雄高



著者: 多田 茂治
タイトル: 夢野久作読本



著者: 大滝 啓裕, Philip K Dick, フィリップ・K・ディック
タイトル: ヴァリス



著者: フィリップ K.ディック, 大瀧 啓裕
タイトル: ヴァリス



著者: 工藤 喜作, 小谷 晴勇, 小柴 康子, ジル・ドゥルーズ
タイトル: スピノザと表現の問題



著者: G.ドゥルーズ, 鈴木 雅大
タイトル: スピノザ―実践の哲学



著者: ジル ドゥルーズ, Gilles Deleuze, 鈴木 雅大
タイトル: スピノザ―実践の哲学



著者: ノヴァーリス, 青山 隆夫
タイトル: 青い花



著者: ノヴァーリス, 笹沢 美明
タイトル: 夜の讃歌―他3篇



著者: ノヴァーリス, 前田 敬作
タイトル: 日記,花粉



著者: ノヴァーリス, 薗田 宗人, 今泉 文子
タイトル: ドイツ・ロマン派全集 第2巻 (2)



著者: ノヴァーリス, Werke Novalis, 青木 誠之, 大友 進, 池田 信雄, 藤田 総平
タイトル: ノヴァーリス全集〈1〉



著者: 今泉 文子
タイトル: ノヴァーリスの彼方へ―ロマン主義と現代



著者: 今泉 文子
タイトル: ロマン主義の誕生―ノヴァーリスとイェーナの前衛たち
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奇蹟論 (3) 

テーマ:
[承前]

 楳図かずおの描く形而上学的メールヒェン『わたしは真悟』は、まさにこのエネルゲイアの不可思議な躍動する力によって動いている。それは〈真悟〉という不可能な生命を創造する少年と少女の崇高な魔法の物語である。
 ところで、この作品はその主題と内容からいって、紛れもなく、埴谷雄高の未完の形而上小説『死霊』に大団円の完結をもたらすその続編と認められるべきものだ。
 わたしは『死霊』の書かれざる最終章の構想にて、息を止め、窒息による不可思議で悲壮な心中死を遂げるという崇高な恋人たち、三輪与志と津田安寿子の不可思議な転生を『わたしは真悟』の可憐で優美な幼い恋人たち、近藤さとると山本まりんの上に認める。
 この不思議な作品は随所で埴谷雄高を意識しているとしか思えない『死霊』に酷似したモチーフが現れる。
 圧巻は、何より『死霊』第五章「夢魔の世界」に出てくる「死者の電話箱」の挿話を髣髴とさせる、機械に宿った不可能な生命体〈真悟〉と、目も鼻も耳もないのっぺらぼうの非在の少女〈美紀〉との間で交わされる、まるであの世の電話のような異妖な会話のシーンである。
 〈真悟〉という不可能な生命体、この有り得ない子供は間違いなく埴谷が〈虚体〉と呼んでいたものに他ならないだろう。
 すなわち、埴谷が予言した〈存在の革命〉の奇蹟のその力強い成就の物語こそ『わたしは真悟』なのである。
 したがって、近藤さとると山本まりんが運命の出会いを果たし、やがて〈真悟〉という名の二人の魔術的子供が奇蹟の生誕を果たす工場の名前が、埴谷雄高の本名、般若豊を暗示する「豊工業」であることは単なる偶然の一致ではありえないだろう。
 まさにそれは〈虚体〉誕生の場所の名前として余りにも相応しすぎる出来過ぎた名前なのである。
 もしも楳図かずおがそれを全く意図して描いていないとしたら、この余りにも出来過ぎた偶然の一致は、虚構における〈真悟〉の誕生より以上に驚異的な奇蹟の現実における成就であって、〈存在の革命〉はこの現実をも巻き込んで既に起きてしまっていたことなのだと言わなければならない。

 だが、もちろん、起きたことには誰も気がつかなかったのだ。

 楳図かずおは、埴谷雄高が『死霊』で問題にしている問題、恐らく埴谷が夢野久作から継承した問題が本当は何を意味するのかを埴谷以上に認識していたし、そして埴谷雄高に欠けていたものが何であったのかも正確に見抜いていたのだろう。
 或る意味において、埴谷雄高は自分自身の思想の真の意味が分かっておらず、〈虚体〉とは本当は何であるのかも分かっていなかった。
 そもそもその〈虚体〉は、〈虚体〉などという虚ろな名前で呼ばれるべきではなかった。
 この〈不可能体〉こそが、実にアリストテレスが〈実体〉と呼んでいたものの正体であることを告げるべきだったのだ。
 埴谷雄高の限界、それはそのペシミズムである。
 永久革命者をその永遠の悲哀などというアイロニカルな感傷に浸らせてしまうことは、不可能性のもっているその朗々たる肯定性を否定し、まさにそのことによって奇蹟の〈虚体〉を創造する〈存在の革命〉の紛れもないこの現実への出来の道を塞ぎ、それを〈未出現〉などという全く出来の悪い〈夢魔の世界〉に溺死させることにしかならない。
 何故、三輪与志と津田安寿子という素晴らしい恋人たちが窒息死までしなければならないというのか。それは悪夢である。
 奪われた〈美しい現実〉を奪回するために、この〈現実〉と〈非現実〉をすりかえるドグラ・マグラの精神病院を破壊するために、必要なのは、このようなアイロニーの〈鉄学〉に錆び付いた青年の悲観主義ではない。ヒューモアの〈錬金術〉なのである。
 埴谷雄高よ、つまりあなたは暗過ぎるのだ。

 〈夢の呪縛〉(柄谷行人の埴谷論「夢の呪縛」『畏怖する人間』所収参照)を打ち破るには、333の天辺(東京タワーの頂上)から飛び移るような〈暗闇の中への跳躍〉が必要である。
 しかし、それは埴谷雄高の最も優れた理解者であると同時に最も辛辣な批判者でもあった柄谷行人のいうような意味においてではない。
 何故なら、柄谷のいう「ヒューモアとしての唯物論」は全くの羊頭狗肉のアイロニーであって、ただのブラックユーモアにしかなっていないからである。
 否。必要なのはむしろ「風流としての黙示録」である。
 それは黙示録的爆風によって、わたしたち自身の魂を呪縛する「甘えて生きることは恥である」という「甘え=生き=恥」の構造を、この日本的な、余りに日本的な「日本的性格」の実存様式を破壊することである。
 美学は美学によってしか破壊することは出来ない。
 しかし、柄谷は美学による闘争の選択肢を採ることをしなかった。そこには不可能性しかないが故に。
 だからこそ、わたしはそれをすることにしたのである。わたしは不可能性以外の何かがあるという幸福な幻想を全く持ち得ないから。
 だがそれは、わたしにはもう絶望することも不可能なのだということを意味する。これは単に他のようでは有り得ないこのわたし自身の運命であるからだ。

〈夢の呪縛〉を打ち破るための〈暗闇の中への跳躍〉を敢えて行うためには、人はさとるとまりんのような小さな子供に戻らねばならない。
 そして、決して十四歳以上の精神年齢をもってはならない。
 偉大なルイス・キャロルが警告するように、十四歳以上の人間には〈みにくい神秘〉を打ち破り、裸の王様をそのありのままに赤裸にする〈美しい現実〉の召喚魔法がもう使えなくなってしまうからだ。

 純粋理性は童心である。そして童心は破壊を好む。

 この破壊は美学的な破壊である。アイロニーの精神である否定性の美学を破壊すること。すなわち、不可能性の精神とは、否定性ではなく、破壊性であり、「日本的性格」を覆すのは魔術的唯物論者ウォルター・ベンヤミンが見出した全くアナーキーな「破壊的性格」だけなのである。
 目前に脱出不可能な壁が立ち塞がるなら、出口無き脱出の方位を探してそれを脱構築しようとするより、ハンマーをもって叩き壊せ。ダイナマイトをもって爆破せよ。
 物自体とは爆弾である。それはただ美のためだけの爆弾である。
 その爆発によってこそ、出来事は出来する。
 その爆発がなければ、〈神〉は創造されず、そして天地は創造されず、この、ただ「ある」だけの灰色の存在の墓地のうえに如何なる現実も実在することは無いのである。

初出:http://www2.everydiary.com/46762/diary.php?Y=2004&M=11
転載:http://blog.livedoor.jp/novalis666/archives/10401158.html(不可能性の美学Ⅱ)




著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 (Volume1)



著者: 楳図 かずお
タイトル: わたしは真悟 1 (1)



著者: NoData
タイトル: 楳図かずお大研究



著者: 鶴見 俊輔
タイトル: 夢野久作と埴谷雄高



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈1〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈2〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊 1 (1)



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊 2 (2)



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈別巻〉資料集・復刻 死霊



著者: 鹿島 徹
タイトル: 埴谷雄高と存在論―自同律の不快・虚体・存在の革命




著者: 柄谷 行人
タイトル: 畏怖する人間



著者: ルイス・キャロル, 高橋 宏, Lewis Carroll
タイトル: 不思議の国のアリス・オリジナル(全2巻)