くらやみの色は黒くなく、
 白くなく、また灰色でもない。
 その色は無色でやや蒼白い。
 そのような闇を顔のなかに引き寄せる。
 おまえはその闇を麻薬のように吸い込む、
 おまえのつむられた両瞼の下、眼窩の骨のうちがわに不吉にひろがる虚無、
 その虚無におまえは〈来て〉と呼びかける。

 おまえの変貌のはじまるとき、
 そのかたえで、わたしは声をとめ、目を瞠り、
 そして不安な窒息の狭さへと押しやられる。
 退却を強いられる。わたしが消えうせる。
 おまえの変貌がはじまるとき、
 わたしはおまえの前からいなくなってしまう。

 おまえがわたしに強いる、わたしの消滅。
 その消滅をうけとめるのはわたしだ。
 おまえはわたしに押しつける、わたしの消滅を。

 その消滅はするどく、わたしの胸を刺す。
 虚無がわたしを刺す。熱い痛みにわたしが傷つく。
 冷酷な虚無の針の尖端、黙した恐怖の鋭角がわたしを抉じ開ける。

 そのおそるべき穴、死に続く黒い弾痕のなかで、
 わたしは灼けつく影に変わる。
 虚無の弾丸にわたしが射殺される。
 それは不意を襲う狙撃ではないのだが、わたしは逃げられない。
 殺される、と思ういとまもなく、
 火のように熱い死がひろがって、わたしを焼き尽くして黒い影に変える。

 黒い影、燃え尽きた、とてもちいさな黒い影、
 ちいさな黒く干からびた嬰児の、胎児の、
 中絶児の焼死体のような無残な黒い影、
 いや、焼死体さえ残らない、いっさいが焼き尽くされたのち、
 残るものは黒く焼き付けられた影の痕跡に過ぎない。

 〈過ぎない〉とはいっても、
 それは無視してよいようなことがらではない。
 それどころか或る凄まじい出来事を刻印している。
 この影は刻印だ。そこでわたしは完全に消え失せてしまっているのだが、
 わたしのその消滅の痕/徴の方は永久に消え失せない。

 それは掻爬できない痕跡となる。
 というのは、それは掻爬それ自体が痕跡に変貌してしまうような、
 異常で、あともどりのできないおそるべき無の、
 実体なき影そのものの、永遠不滅の創造だからだ。

 焼き尽くす影、拒むこともできず押し付けられる烙印のように熱く、
 わたしを消滅させ、蒸発させてなお、
 その影へと呪縛するような、焼き尽くし、みずからを焼き付ける影、
 その黒い火は消えず、燃え尽きることはない。

 この火、このメギドの火が、わたしを〈定義〉している。
 〈定義〉とは〈呪縛〉である。
 わたしを定義するおまえに呪縛されて、
 わたしはおまえの影に変えられてしまう。
 おまえの黒くひろがり全てを覆いつくすその恐るべき影が、
 目を瞠るわたしの上にかぶさるとき、わたしは消え失せる、
 その黒く大いなる影のなかに。

 全てを覆い、全てを覆す、おまえのくらやみのオーヴァーシャドウ。
 わたしが感知した、その迫りくるものの巨大な機影の不吉なかたち
 あれははたしておまえなのか、死の翼がわたしの頭上にひろがるのだ。

 死の翼、くらやみの影、焼き尽くすメギドの火、
 そして、黒焦げの人体の痕跡。わたしを転覆するホロコースト、
 通り過ぎるなにかしら残忍なものの横顔をわたしは見たと思った。
 わたしにはキノコ雲など見えなかった。
 閃光も見えず、そしてプラズマの恐るべき灼熱も覚えなかった。
 覚えたのは胸に刺さる虚無の一瞬のスティング、
 ほとんど痛みともいえない痛み、限りなく小さなもの、
 ただそれだけに過ぎない。

 過ぎないがそれはその極微の一点に正確に焦点を合わせ
 一撃でわたしを致命させる刺客だ。
 わたしの急所を、盲点の中心をそれは狙撃し、
 完全にわたしを破壊してしまう。
 黒い影のシミに過ぎないものに変えてしまう。

 〈過ぎない〉とはその影の上で
 もう時間が永遠に過ぎ去らないということだ。
 〈過ぎ去らない〉、わたしはその影を過ぎ去れない。
 畏れと慄きがその影を永遠にそこに痙攣しつづけるものに変える。

 影はわたしが永遠に立ち入れない焼け爛れた聖地と変わるが、
 かといってその廃墟からわたしは永遠に立ち去れるわけではない。
 影はわたしを立ち止まらせ、その場に釘付けにする。
 黒く痙攣し震顫するミイラの手がわたしを掴む。
 わたしは影に桀けになり、
 黒い十字架の徴のなかにわたしの復活すべき肉体は
 すっかり黒く塗り込められて逃れられなくなる。

 呪縛とはそのようなもの、
 復活もなく解脱もない、救済もなく涅槃もまたありえない。

 怖ろしいおまえの愛、おまえの圧倒的な覆い尽くす影、
 途方もなく巨きく、迫りきてわたしを拉し去り、
 おまえの創りだした真黒な影のとりこに連れ去ってしまう魔王のマント、
 それは凄まじく、万能の意志と無敵の威厳で、
 〈神〉のごとく断固として、全てを退ける。

 何という強靭な翼、その撥ね除る力、
 そのはばたきが起こす凄まじい風は、
 右にキリストを、左にはブッダを撥ねつけ撃破して、
 すばやく飛来し、一瞬に獲物をかすめとってしまう。

 誰がおまえに勝利できよう、おまえの圧倒的な〈定義〉の手前、
 おまえが滅ぼすと定め、また選び取った者の帯びる凄まじい〈徴〉、
 この黒い、肉体なきスティグマの焼跡には、
 〈神〉であるおまえだけが立つだろう。

 黒く燃えるメギドの火であるおまえ、わたしの創造主よ。
 おまえの居丈高なかんばせの前に誰が立つことができよう。

 わたしはおまえの玉座となり、焼け爛れた王国と変わる。
 それはおまえが支配する場処、
 わたしとおまえの火の契り、永久に断ち切れぬ聖婚の約束だ。

 この影の王国の至聖所には誰も立ち入れず、
 そこに灯る永遠の呪わしい火は、近寄るものを許さない。
 この闇の神殿に置かれる真黒な天の石は、
 カーバ神殿のそれのように他の如何なる神も許さない。
 
 それは全宇宙に崇拝を強いる黒い火の結晶だ。
 キリストを跪かせ、またあの傲慢なブッダを、
 天上天下唯我独尊と嘯いたあの男の膝を砕いて屈させ、
 万人万物万象を奴隷の縄で繋ぎ、
 その上に君臨する恐るべき〈神〉の専制帝国だけが存在する。

 広島で、長崎で、そして遠い昔、
 おそらくソドムとゴモラや、
 マハーバーラタの戦争で起こったのと同じことが、
 そのとき、信じられないほど静かでひそやかな仕方で、
 わたしの身に起こったのだ。

 天の火がふりそそぎ、そして人は一瞬に黒い影に変わる。

 〈神〉がその影を押し付ける、人の上に、
 拒みがたく有無をいわさぬ、押し付けがましい仕方で。
 死の影を押し付ける、影の下に押し潰す、
 人間を抹消して、影を焼き付ける。

 地の上に、なぞめいた黒焦げの人文字が記されるとき、
 〈神〉は地にそのおそろしい意志を、謎のことばを書く。
 人間を焼き尽くす〈神〉のレーザープリンタ、焼き付いた文字は消えない。

 〈神〉は書く、おまえは書く、
 書くとは現実を滅ぼすこと、
 人間を焼き尽くすこと、
 すべてを黒い影に変えることだ。
 その凄まじい意志に全てを従わせることだ。

 万能の意志が、〈神〉を存在させる。
 〈神〉を世界のなかに創造するのではない。
 創造神が天地を創造する恐ろしい瞬間、
 大宇宙に恐るべき中断が裂ける。
 突然、虚無が出現し、世界はそのとき全く存在しないのだ。

 意志が世界を中断させる。その間隙は恐ろしい。
 〈神〉はそこに顕現する。彼は全くの無だ。

 だがこの虚無は人の顔を帯びている。
 人間の顔をした虚無、それが〈神〉だ。

 〈神〉は人の顔のなかに顕現する。
 同じ人が全くの〈別人〉に変貌する恐るべき時、
 〈神〉は虚無となって炸裂し、それまでの天地を破壊し尽くす。
 万能の意志が溢れだし、
 天地創造が虚無の爆弾投下によってなされる刹那は
 一瞬に過ぎ去るが、もとの世界は二度と帰ってこない。
 世界は一見前とそっくりそのままでありながら、
 しかし全てが完全に違ったものに置き換えられてしまっている。

 天地創造というのは、
 永久に存在する世界をそっくりそのままにすげ替えることだ。
 愚か者にはそのとき何がなされたのかがわからない。
 彼には〈神〉の閃く異貌が視えないのだ。
 〈神〉は宇宙の捉え処ない死角に潜み、死角から世界を呪縛する。

 だが、わたしは何も異常な、常軌を逸した、
 神秘的で宗教的な出来事をものがたっているのではないのだ。
 寧ろこうした出来事は日頃ありふれていると言う方が正しい。
 〈神〉は決して馴染み深いものとはならないのだが、
 かといって、決して感知不可能なものではないし、
 また物珍しいものでもない。
 それどころか、〈神〉はいたるところ、
 どこにでもいて、世界を狂わせるいたずらを働いているのだ。
 〈神〉は、まったくのところ、
 人間界のいたるところであなたを待ち受けているものなのだ。
AD
 言うまでもなく怪獣映画というものは愚劣なひどいものである。
 しかもゴジラはグロテスクで野蛮で凶悪、
 しかもこれほど愚鈍なものはほかにないといえるだろう。

 しかし、ゴジラは絶対的に非凡であり、
 何か有無をいわさぬ決定的な高貴さをもっている。
 この高貴さのなかには、人を畏怖させずにはおかない
 魅力的な力が宿っている。
 その腹の底を見通すことのできない〈黒いかがやき〉の
 ふしぎな魔力からゴジラはまっすぐに進み出てくる
 唯一の絶対的怪獣である。

 ゴジラは美しい。絶世の美女よりも遥かに美しい。
 その美しさは彼のかぎりもなくみにくい外貌を越えて
 わたしたちの心にまっすぐに届く。
 ゴジラは童心の〈黒いかがやき〉からやってくる
 最もすぐれたシンボルであり、
 〈黒いかがやき〉のふしぎさの本質を
 最も美しいかたちに結晶させた芸術的なものだからである。

 彼の出現するかぎりもなく愚劣なスクリーンの空間を引き裂いて、
 あの異様な存在は、
 映画の平板な虚構空間にはもはや回収不可能な溢れ出すものを与える。
 彼が破壊するのは映画のなかの都市だけではなく、
 彼が出現する映画それ自体が切り裂かれてしまうのだ。

 ゴジラとはこの映画の黒い裂け目である。
 愚鈍で愚劣きわまりないゴジラという
 グロテスクな生ける岩石から
 ふかしぎに伝わってくるのは〈知性〉である。
 ゴジラには〈知性〉が備わっている。
 そのことがわたしに衝撃を与える。
 みにくさを覆して知性と美がやってくる。

 この知性と美の故にゴジラは永遠に不死なるもの、
 何度映画が死なせても死なせることの不可能な、
 映画を越えて生き続ける驚くべき存在と化している。

 ゴジラを一度召喚してしまった映画は
 もう二度とそのふしぎな現存を取り消すことができない。

 映画はゴジラの背後で困惑する。
 ゴジラ映画はゴジラと映画の戦いの映画である。
 かぎりもなくみにくい戦いの映画である。

 ゴジラほど映画のなかにおさまりのわるい怪獣はいない。
 そのゴジラを何とかしてつかまえ、
 取り押さえようとありとあらゆるものがみにくく総動員される。
 単に新兵器だの新怪獣だのといったものだけではない。
 脚本のストーリー、カメラワーク、
 ゴジラにリアリティを与えてその神秘を剥ぎ取るための
 さまざまな疑似科学的屁理屈、
 大人たちのありとあらゆる知恵と知識と技術を総動員しても、
 暴れ回るゴジラを決して取り押さえることができない。

 確かに映画のストーリーのなかでは
 ゴジラは必ず撃退される運命にあるのだが、
 ゴジラは映画を完膚無きがまでに屈服させてしまう。
 ゴジラのもつこの不可思議な勝利には
 映画が絶対に映像の美学空間の檻のなかに
 閉じ込めることのできない溢れ出すものがある。

 ゴジラの全貌はそのみかけや
 怪獣図鑑に書かれている無意味な数字より以上に大きい。
 一瞥するだけでそのすべてを把握することはむずかしい。

 彼はわたしが〈黒いかがやき〉と呼ぶもののほんの一部を
 ほのみえさせてくれるだけの小さな存在に過ぎないが、
 その巨体にはらまれた神秘な力を解明するには
 なお多くの頁数を割かなければおぼつかない。
 その本論はいつかの機会に譲るにしても、
 ゴジラの細胞の一部くらいはここで解明しておく必要はある。

 怪獣映画の出来としてみるならば、
 例えば相前後して上映された(※この文章は1995年に書かれた)
 『ゴジラVSスペースゴジラ』と『ガメラ』を比較すると、
 あくまでもわたしの好みに過ぎないが、
 軍配はためらわず清々しい感動を与えてくれたガメラの方に
 よくやったと心から上げてやりたい。

 それにひきかえゴジラには落胆させられてしまった。
 前作『ゴジラVSメカゴジラ』の出来がよかっただけに、
 そのひどさは目を覆うばかりに無残である。

 無論見る前から
 今度の作品はどうもひどいものらしいということは分かっていたのだが、
 それでもわたしは金を払って劇場に出掛けていった。
 案の定、劇場から出て来たわたしはバカヤロウと悪態をつきたくなった。
 これでは大映と東宝が逆じゃないか。
 その悪態をここでこれ以上批評文へと展開することはしない。
 わたしは童心を失った怪獣オタクどもが心底嫌いなのだ。
 童心を養い新たにするためにわたしはゴジラに会いに出掛ける。
 白髪の老人になってもそれは変わらないだろう。
 だからその童心が子供一人騙せない大人たちの
 手垢にまみれたみにくい嘘に汚されると
 自分がゴジラになったみたいに腹が立つ。
 ゴジラになりきったわたしはむしゃくしゃして思う。
 俺様を誰だと思っている。
 俺はゴジラ様だぞ、ふざけるんじゃない。
 うすぎたない手垢なんかは
 あのお人よしのガメラの甲羅にでもなすりつけてやればいい。
 俺をガメラなんかと一緒にするな。
 絶対的にわがままな誇り高い俺様は
 おまえら大人共の嘘っぱちのいやらしい世界を憎む。
 こうしてわたしは放射能光線を吐き散らして世界を破壊したい気分になる。

 実はそこにこそゴジラ細胞の秘密がある。
 わたしはゴジラを見るとゴジラになってしまうのだ。
 ガメラでは決してそうはならない。
 そうなる人も無論いるだろうが、
 その人はガメラの甲羅のそらぞらしい欺瞞に深い意味を与えているのだ。

 これは怪獣映画の出来不出来によるのではない。
 映画とは切り離された、つまり純粋に抽象的な次元で、
 両者の怪獣としての出来不出来にかかわる問題である。

 しかし怪獣図鑑的な問題ではない。
 ゴジラとガメラはここで全く観念以外の何者でもないのである。
 そして観念として見るとき、
 わたしたちは怪獣の真の肉体にはじめて触れることになる。

 そのとき両者はきわめて深遠な、
 それぞれ違ったかたちで謎めいた不明瞭で気をそそる考察の対象となる。

 ところで、わたしは心理学と社会学というものを
 心から軽蔑しているということを
 ここで出し抜けだが表明しておく必要が生じた。
 そういう下らぬ学問に神聖な怪獣たちの体がいじくられるのは
 怪獣崇拝者であるわたしの永遠の童心が許さないのである。
 むしろそうした似非学問をふりまわすみにくい怪獣オタクどもこそ
 ゴジラに焼き払われ、ギャオスの餌にされてしまえばいいと
 願ってやまない。

 こういう奴らはわたしが〈白いかがやき〉と呼ぶ光の国からやってきた
 怪獣退治のチンケなウルトラマンどもに過ぎない。
 その安っぽいフラッシュビームでは
 不死のゴジラや増殖するギャオスの神秘を
 一瞬掻き消してみせることができるだけだ。
 三分間しか戦えぬインスタントラーメンみたいな
 即席のろくでなしのひとでなしには、
 〈黒いかがやき〉から到来するあのふかしぎな現前たちを
 決して調伏することはできない。

 TVのヒーローはどんなに巨大化したところで
 真の怪獣の手前に立つことすらできないだろう。
 ギャオスを倒せるのは負けても負けても立ち上がる
 傷だらけのガメラのあの不細工でかぎりもなくみにくい
 みじめったらしいドン亀の肉体だけである。

 弱く醜悪な卑劣な甲羅の鎧に
 身を守りながらでしか戦えないガメラの
 柔らかく傷つきやすい体には
 ギャオスのような本当の邪悪の化身と
 刺し違えても戦って打ち勝たねばならない崇高な美学的な根拠がある。
 その涙ぐましさは侮蔑に値するみにくいいやらしいものではあるが、
 無葛藤で軽薄な正義の味方の白けた体臭にはない奥深い香りがする。

 偽りと仮初の超人幻想のとってつけたような白いかがやきの無責任さは、
 ギャオスのような真の邪悪の発散するあのどうしようもないきつさ、
 凄まじい攻撃性を浴びただけでその化けの皮が剥がれてしまうのである。
AD
 かがやくことばが自立して、知性なき思想と変わるとき、
 それは必ず悪霊に取り憑かれた人々を生み出し、虐殺と破壊が始まる。
 だが悪意はどこにもない。
 善意と感激にみちた人々が、ことばを悪霊に変えるのだ。

 〈ノリ・メ・タンゲレ〉――そのちからづよい拒絶の言葉をもたなければ、
 魂がどんなに無残な破滅に引きずられるかを
 『悪霊』のスタヴローギンは教えている。

 やはりドストエフスキーをめぐる数多くの〈最低の読者〉たちが
 うすぎたなくみにくくしているのだが、
 スタヴローギンはニヒルな人間でもなければ、
 悪魔でも悪霊でもないのである。
 最も美しく崇高な魂から悪霊が剥がれ出て、もとの魂を貪り喰らう。

 『悪霊』のスタヴローギンと『白痴』のムイシュキンは
 全くの同一人物であり、
 両者の破滅は同一の魂の破滅なのである。
 彼らはことばを剥ぎ取られた人間である。
 それ以上でもそれ以下でもない。

 ドストエフスキーは同一人物を悪魔と神の別人に描き分けたのですらない。
 善と悪の二つに引き裂かれた魂などという
 陳腐で知的な精神分割論は
 彼らの魂の真の痛みもその傷の深さも何も汲みとるまいとしている。

 作家ドストエフスキーはたんに知っていたのだ。
 文学というものが二度と決して読まれえぬものであることを。
 吐き気を催すようなみにくい人間たちがそれに襲い掛かり、
 書物をズタズタに引き裂いてことばを剥ぎ取り、
 作家は必ず喰い物にされて殺される。
 その醜悪な光景に作家は抵抗することはできない。

 だが、自分が殺されていることすら分からない
 愚昧な作家というものもいる。
 それはみにくさを通り越して
 余りにもおめでたい人ということができるだろう。
 〈作家〉というよりも〈最低の読者〉の同類であり、
 もっともみにくい人間はもっともおめでたい人間、
 道化にすらなりえないただのバカなのだ。

 このみにくく盲目でまぼろししか見えない人間は、
 文壇というものが、サロンというものが、
 高級で芸術を解する教養あふれる人々というものが、
 読者というものが存在するのだと思っている。

 悲しむべき白痴のインテリ、
 世界の中でのもうひとつの魂の破滅、
 無視と無意味の孤島に取り残されながら、
 未だいもしない読者がまだいるものと思い、
 己れを意味ある作家と信じて疑わない崇高な白痴。
 それもまた美しい魂であるには違いない。

 哀れなその人の名はカルマジーノフ、
 ツルゲーネフをモデルにしたといういわくつきのあの〈嫌な奴〉だ。

 ところで誰かが言ったっけ――と、
 わたしも〈嫌な奴〉の顔付きをつくりつつ言う
 ――タフでなければ生きてゆけない、
   優しくなければ生きてゆく資格がない、とかなんとか。
 この利いた風な口も
 八〇年代を吹いて吹いて風化して
 今もなおうつろに吹き続けている知ったかぶりの醜悪な風の歌だ。
 そうやって多くの人を、
 タフで優しいつもりでうつろな、
 ひよわで残忍な〈嫌な奴〉に変えてしまった。

 彼らもまたみにくい。
 そして〈強さ〉と〈優しさ〉はすっかりにせものの
 わざとらしい偽善の仮面に変わって、弱い者を蔑み、
 明白な隷属に怒りと反抗の拳を上げなければ生きてゆかれない人々から
 声を剥奪する脅迫的な背後の声となった。

 ことばによってことばを塞がれ、
 つくりものの大人びた声によって
 子供の声を圧し殺すのが
 モラルでありマナーであり倫理であるというのなら
 それは邪悪なもの、人間の敵だ。
 人間に悲しみとひとりぼっちと
 空虚な笑顔と辛い忍耐以外のどんな権利をも与えていない。

 脅え切った絶望的な無力感のなかで
 みんなが飼い慣らされたいい子の優等生であることを強いられるとき、
 いつの間にか、おそらく最初は抗議の叫びであったはずのものが
 愚かしいものの共感によって野蛮な統制にまで
 変質してしまっているのをみることは辛い。

 いま、それは耐え難いものにまでなっている。
 そのもとで人が殺し合いを始めている。
 陰湿な、神経を傷つけあう、
 もはやいじめとはいえないいじめの、
 平和という名の共食いのアウシュヴィッツ。
 わたしたちはガス室の再現まで見せつけられた。余りにも悲しすぎる。

 それでも〈嫌な奴〉たちの
 偽りの〈悟り〉の仮面をつくるあの苦い氷は解けない。
 自己憐憫にめしい、自分が足元に直に誰を踏み付け、
 虐げているのかがみえないのだ。

 〈仏〉様というものはいつでもそういう
 おめでたくおありがたい輩に過ぎない。
 それがフランス語であろうと仏教経典であろうと、
 おありがたい仏のことばである〈仏語〉というものは、
 慈悲と憐憫の他に何も知らない。それは何も救ったためしがない。

 それはこうお説教するのだ。
 〈あきらめろ、おまえは既に死んでいる。
  死んでいる癖にそれが分からず、
  悪あがきをして無駄口を叩こうとする愚かな彷徨える魂よ、
  ばかげたロマンはもうおしまいだ。
  迷わずに成仏して幸福な死を迎えよ〉。
 そしてすべては南無阿弥陀仏に変わる。
 みみっちい念仏の下らぬ大合唱が
 すべての場をまるく収める最低のハッピーエンド。

 このひどい騙し討ちはすべてを打ちのめして地べたにはいつくばらせる。
 〈説話論的磁場〉とは何あろうこのことである。
 仏教徒たちは魂の叫びに耳をかさず、
 そのすべてを小さなうつろな物語に、耳のざわめきに、ただの〈説話〉に、
 実体のない子供じみた〈お話し〉に変えてしまう。

 何も昨日今日はじまった話じゃない。
 このすべてを救うが何ひとつ救いはしない最低の白けた物語、
 舶来物の高級な物語は、
 常に糞坊主である留学生どもが権力に媚びへつらいつつ
 外国から正々堂々輸入してきて、
 いつでもインポータントつまり重要だという
 権威の保証するマークをつけられ、
 大昔から何度も意匠を変えて流布されてきたものでしかない。

 糞坊主である留学生たちはいつも必ず外国に行って、
 その都度新しい〈仏教〉を仕入れ、
 外国というかがやきを纏って帰国する。
 それはいつも新しい国、古い国を駆逐する国、
 つねに改められる年号と歴史書をともない
 変容するまぼろしの〈王朝〉である。

 〈王朝〉は常にかがやかしい貨幣を鋳造する。
 それを流布して、みずからの遍在をかがやかしく告げ、
 あつかましい〈宣言〉のもとに、つねに新しい時代をつくりだす。

 〈王朝〉というものは、だからいつもエポックメーキングで、
 新時代の到来について晴れ晴れしい多くの話題を流行させるのだ。

 そこに即位する王はいつも決まって必ず馬鹿面なのだが、
 それを刻んだ新しいコインのかがやきが人の目を眩ませる。
 多くの人をそのかがやきのとりこにする。
 
 〈王朝〉というものはいつも決まって現代思想であり、
 最新流行の色彩であり、ファッションであり、ベストセラーだ。
 それは貨幣のなかにかがやかしく顕現して即位する。
 おそろしいそのかがやき、それは人を選ぶ。

 新しい選ばれた人々のクラスに、
 常に特権階級であるところの階級に、
 貴族に、官僚に、宦官に、社会人に、
 人気者に、タレントになろうとして、
 みにくくむなしい人々がそこに殺到する。

 先を急いで競争と蹴落としの醜悪きわまるアゴーンが、
 虫ケラどもの生存競争が捏造されるというわけだ。

 それは必ず進歩の物語、革命の物語、変革の物語、
 新人類の物語、サクセスの物語、プレジデントの物語、
 選民と選挙の物語、即位の物語、クーデタの物語、壁の破壊の物語、
 邪悪で腐敗した古びた王朝の馬鹿王や佞臣どもの処刑の物語、
 歴史の終焉の物語、天国の到来の物語、進化論の物語、
 超能力者の物語、救世主の物語、英雄の物語、
 勝利の物語をかがやかしくたれ流す。

 いつも年越しのときに歌われる
 あの横柄であつかましい
 みにくくめくらのベートーベンの
 かぎりもなく醜怪で野蛮な〈歓喜の歌〉が
 勇壮に歌われるのはそのときだ。

 クリスマスというのはいつでもみにくい。
 かがやきに覆われ人々が馬鹿になるそのとき、美しい祭が捏造される。

 クリスマスソングは嘘つきどもの歌。惑わされてうかれた人々が
 その誕生をお祝いする〈聖なる王〉などどこにも生まれていないのに、
 やけにきらきらしい歌声へと人々が強制される。

 サンタクロースがやってくるのは金持ちの家だけで、
 その陰では世にもみにくい商人どもが
 金儲けの絶好のチャンスに両目を残忍に光り輝かせ、
 まぼろしの麗しい子供を人質にとって、
 あさましく金を出せと脅しているだけだ。

 クリスマスのなかに神はいない。
 それは最も神が留守になるとき。
 痛ましい悲しみのとき。

 返して下さい、わたしたちに、神様を。
 そのためならわたしたちは何でも差し出すでしょう。
 人々がどうしても買い戻したいのはそれなのに、
 それだけはどの店にも売っていない唯一の、
 ほんとうのクリスマスプレゼント。
 永遠に永遠に手の届かない最高級のクリスマスプレゼント。
 誰があなたに高値をつけた? 
 どんな金持ちが目の眩むような巨額を支払い、
 すばらしい子供であるあなたを攫っていった? 
 裏切られたかぎりもなく醜悪ないつわりの祭、クリスマス。

 しかしそれは長くは続かない。
 コインの輝きはすぐにうすぐらく曇りはじめる。
 クリスマスの魔法が解けると、
 プレゼントは季節外れの薄汚いガラクタに戻る。
 陰鬱な重苦しい色に変わる。
 それを見ている人の目もうすぐらく曇ってゆく。
 白けたメタファーについてのよく知られた話だ。
AD
 〈説話論的磁場〉――八〇年代のもっとも愚鈍で凡庸なこの流行語。
 それを語り出した不幸な人の責任を糾明することは、わたしはするまい。
 それほどに愚かしくひどい話はないからだ。
 敢えてその人の名を挙げぬこと、
 憎悪がその人に集中することを避けること、
 予めこのように醜悪に働きかけることなしに、この話は始められぬ。

 無論それは愛のためでもなければ媚のためでもない。
 弁護や擁護ほど馬鹿げていて醜悪な〈政治〉はないからである。
 醜悪な〈政治〉は、醜悪な黒焦げのスケープゴートをつくりだし、
 醜悪でそれこそ陳腐な、何も救えぬ〈神〉を作る。

 わたしはその人を一度も愛したことはないし、尊敬したこともない、
 そもそもどんな人であるのかさえ知らないし、知りたくもない。
 これ程〈不幸〉な関係はない。
 わたしはかつて一度もその人を崇めなかったように
 今後も決して崇めたくないだけである。

 このように言うわたしは冷酷である。
 彼らの〈神〉は彼らが勝手にその手にかけ濡衣を着せて葬ればいい。
 わたしは愛もなく知っている、
 その人が雪のように白く無垢であったに決まっているということを。
 冷酷でなければこのことをわたしは知ることすらできなかっただろう。

 しかし、限りもなく醜い〈彼ら〉のことをわたしは永遠に忘れないし、
 また永遠に軽蔑するだろうということだけは表明しておきたい。
 わたしはそいつらがどんな奴らであるのかをよく知っている。

 あの人の名をここに黙殺し、抹殺して免責しておくのは、
 下らぬ〈問題〉やばかげた〈神話〉を捏造するような
 むなしいことをわたしが軽蔑しているからではなく、
 断じて〈彼ら〉を、あの醜悪な〈最低の読者〉どもを
 免責したくないからである。

  どのような書物にも〈最後の読者〉というものはありえない。
 ただそう名乗りたがる痴呆症があるだけである。
 そして〈最低の読者〉というものはつねに非常に大勢いる。
 愛によってであれ憎悪によってであれ
 〈最低の読者〉という輩は盲目的である。
 そしてこの盲目さが〈彼ら〉の顔付きを一層みにくくしている。

 みにくさは常にきらめきを殺す。
 殺しえないきらめきが殺されることほどみにくいことはない。
 きらめきを殺してしまうのは〈うすよごれたもの〉である。
 うすぎたない手垢が書物の新鮮さになすりつけられる瞬間、
 わたしはいつも吐き気を覚える。
 書物が殺され、作者が殺されるのはそのときである。

 誰かが言ったっけ、
 雑誌が作家の特集を組むのはその作家が死んだときだと。
 追悼特集という美しい儀式によって逆にその作家が甦るときよりも前に、
 作家に訪れる死について、歪んだ唇が語る、
 みにくく引き歪んだ陳腐な格言だ。

 たしかにその顔立ちは〈知的〉であり、その格言もまた〈知的〉だ。
 しかし、これほど陳腐な言葉というものはない。
 陳腐な言葉にはきらめきというものが失せてしまっている。
 きらめきのぬけがらとなった言葉は常に冷淡で陳腐である。

 〈知〉とはこのきらめきを失った陳腐さ以外の何であろうか。
 それはとてもみにくい。きらめきを失ったことばはかがやく。
 このかがやきはまぼろしである。

 まぼろしに囚われたことばは、
 忘却の墓地のなかに入ることもできずに、
 うつろを漂いさまよう。
 口の端から口の端へとうろつき、とりつきまわって、
 取り憑かれた多くのうっとりとした顔を残忍にする。
 この残忍さは〈知的〉で〈皮肉〉なものである。

 皮肉屋どもは、きらめく涙をお涙頂戴だといって侮蔑し、
 残忍に歪むその知的な唇からかがやくことばを押し付ける。
 だが、そのかがやくことばこそお陀仏頂戴である。

 それこそが〈死語〉なのだ。
 この〈知的〉な人物は知らない、
 彼がそのときことばを殺してしまっているということを。
 ことばが殺される。書物が殺され、作者が殺されるのはそのときなのだ。

 〈最低の読者〉たちは、こうしたとてもみにくいことを
 ぞっとするほど平気な顔でする。彼らがとても〈知的〉になる瞬間である。
 しかしそれはとてもうそ寒い絶望的な瞬間である。

 ことばが、人間にとりつく。
 その〈知的〉な顔には〈知性〉が絶望的に欠乏している。
 そんなとき、人間は見るに堪えないほどみにくい。

 こうした瞬間のみにくさが一番切実に身に応えるのは、
 ほかならぬ自分の言葉が目の前で無遠慮に
 その〈知的〉な奴にかがやかしく奪い取られ、
 ぞっとするほど下劣な声で、残酷に、かよわいものに、
 襲い掛かるのをみるときだ。

 必ず、それはそのことばが本当は守ろうとしていたはずの
 かよわいものを虐殺するためにそのことばが用いられる
 信じられぬ瞬間であり、
 また、必ず、そのことばが本当に糾弾し禁止しようとしていたのは
 そういうみにくい残忍な奴であったはずなのに、
 その残忍な奴は無礼にもとてもうれしげに
 その厳しいことばをおのれの身に帯びて、
 信じがたいほど無神経に、本来彼が感じるべき筈である痛みを、
 他者に、かよわいものになすりつけ、
 相手が苦しむさまをみて悦に入るのである。

 こうしたとき、わたしは傷つく。
 限りもなく深く深く傷つけられるのに、
 わたしの代わりにそれをしてやった、
 素晴らしいことをしてやったと思い込んでいるその残忍な奴は、
 さぞかしわたしが喜んでいるだろうと信じて、
 心からそう信じ込んで、
 信じられぬほどにこやかで善良な微笑みを満面にたたえて、
 さあ誉めて下さいといわんばかりにわたしの方を振り返るのだ。

 この顔をわたしは直ちにその場でその下らぬ頭ごと
 打ち割りたいがまでに憎悪する。
 吐き気がする程そらうつくしく麗々しいそのイノセントな顔、
 その顔はわたしに〈罪〉を、濡衣を、いばらの冠をかぶせようとしている。
 その顔がわたしに近寄り、
 限りもなくうすぎたないキスをわたしの唇に押し付けようと迫ってくる。

 おぞましい。

 わたしはその顔から顔を背けずにはいられない。
 だがそのとき心はますます深く傷をえぐる毒の刃に抉られる。
 わたしは声が出ないのだ。

 目に見えない絞首刑の縄が
 ヌルヌルとした毒蛇の感触となってわたしの首に巻き付いている。
 その締め上げる力がわたしから声を奪うのだ。

 見よ、そのとき、わたしの傍らに悪魔が立つ。
 その者の残忍な微笑みを見よ。
 かぎりもなく醜悪なわたしの同伴者、
 わたしから離れ去ったことばが、そこでは悪霊に変わっている。

 わたしの心が破壊される。
 わたしをうつろにする。
 魅せられたる魂ほどみにくいものはない。
 現実の人生の厳しさを生きているのは子供だ。
 子供達は今、生きるか死ぬかの瀬戸際をあなたの目の前で生きている。
 あなたが放棄した人生を戦い取ろうと我が身を犠牲にし、
 人の心を失ってまで、鬼のような形相をして
 嘘ではないほんとうの殺し合いをやっている。
 
 その殺し合いをさせておきながら、
 卑劣な大人たちよ、
 おまえたちは自分たちこそ子供に甘え切って平和を貪り、
 金だの出世だのという世にもみにくいねぼけた夢を見ている癖をして、
 おまえたちが怖くて何も言えない立場に置かれた者たちを見下し、
 やれ甘えるな、寝ぼけたことを言うな、
 現実を見ろ、勉強しろ、学校に行け、塾に行け、
 よく遊びよく学べ、悪いことをするな、
 弱い者いじめをするな、立派な大人になれ、
 自殺をするな、親を信じろ、
 先生のいうことをきけ、
 邪悪な命令と恫喝と操作ばかりやっている。

 目下の人間に甘えるなとは何事だ。
 甘えるのは子供の当然の権利だ。
 それを剥奪するような大人は
 自分がいつまでも子供に甘えた大きな子供でいたいから、
 平気で甘えるなと口にするのだ。

 甘ったれの大人が一番甘えるなという言葉を乱用する。
 甘えるなという怒鳴り声以上に
 甘ったれたかぎりもなくみにくい憎むべき欺瞞はない。
 立場の弱い人間を甘ったれ呼ばわりして
 安全な高いところから冷笑侮蔑したり
 叱咤激励したりするような奴は必ずや人間のクズである。

 甘えの論理は、怠惰な強者が勤勉な弱者を軍隊式に虐待して
 屈辱と恥辱を与えサディスティックな悦びにひたるために便利がよいので
 よく愛用されてきた愛の鞭だ。

 だがその鞭を振り回す人間は
 自分こそがかぎりもなくみにくく無知で無恥で
 一番腐敗しきった甘えん坊であることに永遠に気づかない。
 それどころか
 自分は高貴なことをしてやっているつもりでいるのだから驚きだ。
 甘えるなと相手に叱れば相手は甘えることをやめ
 一人前の自立した大人になると信じきっている。

 自立だなんてとんでもない。
 その叫びのせいで一時は脅えて大人しくなってみえるだけの話だ。
 逆にその相手は
 叱り付けた人間に対する絶望的で恐怖にみちた
 少しも甘えてなどいない
 脅え切った奴隷のような依存度を強められてしまう。

 精神の自立を妨害し、残酷な恐怖で相手を呪縛しておいて、
 その相手にみっともなく甘えた奴という
 恥の意識を植え付けて誇りを傷つけ、
 そのような精神的強姦をやっておきながら、
 相手は俺に甘えてきたから俺を愛しているのだなどと
 妄想によって自己を美化し
 そのたんに野蛮なだけの暴力を正当化しているに過ぎない。

 そうやって忠実な軍人が作られるとき、
 それは教育ではなく洗脳であり、
 高貴な人間の魂は殺され、
 愚劣な空しいものの奴隷となって
 虫ケラのように働き働いて死ぬことだけが美しいと考える、
 生きるのをやめてしまったみにくい人間に改造されている。

 それは一人前の軍人かも知れないが
 子供よりも幼稚な人間であり、
 断じて一人前の大人といえるものではない。

 無意味にいばり散らし
 女子供を抑圧して下劣で怠惰な快楽にふけり、
 物欲と権力欲と性欲の奴隷となって
 かぎりもなくみにくく脂ぎって、
 自分の高貴だったはずの人生が
 駄目になってしまっていることを倒錯的に誇りにし、
 その上、よせばよいのに他人の人生にまで
 余計なばかりか有害なお節介を老婆心から焼き始める。

 冷笑だの忠告だの親切だの教訓だの
 ありとあらゆる手段をつかって邪魔立てをし、
 自分が一番頭が悪い癖に他人の人生の調子を狂わせ、
 すっかりぶち壊しにしてやった恩を押し売りして、
 俺様に感謝しろと胸を張るのだ。

 このかぎりもなくみにくい国には
 こうした精神異常の自己欺瞞的な犯罪者が野放しで闊歩し、
 そこいらじゅうをうろつきまわって、新たな犠牲者を捜し回っている。

 自分の複製をつくるために交尾をし、
 せっかく人間に生まれ人生を生きようとする子供をつかまえては
 自分がいかに己れの人生を目茶苦茶にされ
 無力で立派なみにくい人間になりはてたかの経験談を
 実に嬉しそうに何度も何度も話してきかせ、
 さあおまえも俺のように、いや、俺以上に、
 みにくく知性のない恥知らずの不幸で不自由ないかれた人間に
 なれば楽でいいぞ、
 一生懸命頑張ってこのみにくい社会と現実に適応して
 金儲け以外のことは考えられないみにくい人間になりなさい、
 さもなければお前をこっぴどく痛め付けてやると
 かぎりもなくぶきみなことを口にし、
 それを聞いて蒼くなった子供に
 可愛らしく空虚な微笑を浮かべることを強制するのである。

 限りもなく陳腐で凡庸な人生はこのようにして調教されて生まれるのだ。

 きらめきのない薄汚れた人生は
 それを美しい物語だと信じる
 みにくい多くの人間の失敗した人生から生まれる
 醜悪で難解な駄作の哲学に権威づけられて生じる。

 つまり常識と称する紋切型の愚鈍にして凡庸だが
 かぎりもなく凶暴な侮蔑的な大衆の抑圧的な哲学によって
 捏造されたものなのだ。

 それは人生を規格化し、
 強制的に凡庸化し紋切型の均一の
 蒼白い無言の労働力と購買力に変換して、
 唯一の物語であるカネに奉仕させる。

 うすよごれた白いかがやきであるカネの物語の栄光に掻き消されて、
 万人の人生のきらめきは消え、
 その物語はすべて醜悪で凡庸で退屈な
 いじましい小さな貧しい物語である〈小説〉にまで矮小化され、
 カネのご威光のもとに統合されてしまっている。

 たとえばわたしたちが書店で本を買い、映画館で映画を見、
 ビデオ屋でビデオを借り、レコード店でCDを買う。
 このとき必ずカネを落とし、わたしたちは貧しくなることを強いられる。

 わたしたちから巻き上げられたカネは、どこに消えるのか。
 わたしたちはそれを見たくはない。
 大きな、最もみにくい物語の
 呪縛する巨大な影から逃げるようにして、
 みにくく、かぎりもなく小さくみにくく
 わたしたちは閉じこもるための小さな場処を捜して足早に過ぎ去るのだ。

 だが背後では巨大な悪魔が笑っている。
 あなたには奴の下劣なざわめきが聞こえないか。ほら、
 何万部売れた、何人動員した、また儲かった、
 また一人買っていった、お買い上げありがとうございます。チーン。

 冷酷で興ざめするぞっとする別の物語が
 逃げ去る背中を指さして笑っている。
 背後を振り返る勇気は誰にもない。
 自分がレジスターのなかに呑まれてゆき、
 かぎりもなく白くうすぎたない物語のかがやきのなかに回収されて
 跡形もなく消えうせてゆく悔しい、かぎりもなく悔しく
 醜悪で恐ろしい瞬間を見たいとは思わないのだ。

 唯一の物語である資本主義の残忍で冷酷な物語。
 金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏人になる。
 しかし全ての人が本当は貧困であり無名でありみにくい、
 かぎりなくみにくい虫ケラへとどんどん小さく退化してゆく。

 しかし、自分の高貴な人生をさっさと放棄してしまった
 みにくい人間に偉そうに子供に人生を語る資格はない。
 人生を強制する資格はもっとない。
 否、そもそも生きている資格すらない。
 とっとと死んでくれた方が世のため人のためわが子のためである。

 そういう人間は死んだも同然なのであるから、
 身代わりに子供を死なせるようなみにくいことはやめ、
 また自分の死体の世話を子供に焼かせて子供に迷惑をかけることをせず、
 おまえを生んですみませんと子供に土下座して謝って、
 自分で自分の人生に始末をつけろ。
 考えなしに親などになったおまえが悪いのだ。

 自分は戦士でもないくせに
 子供を前線に送って戦死させたがるような親は生きる資格がない。
 救われるだけの価値はない。
 そういう曲がった愛で子供を歪める人間が最悪の子供の敵、
 つまり真の人類の敵である。

 そういう人間は自由や幸福を愛していない。
 隷属と不幸が未来永劫人類の上にあればいいと願っている
 みにくい悪魔なのである。

 反動的な人間はどんな親切面をうかべていようと、
 またどれほど善良な良識ある小市民であろうと、
 その心がどんなにおめでたいきれいごとだけでできていようと、
 このみにくい世界の現状をしかたないじゃないかという限り、
 世界の邪悪に加担している。

 反動的な人間はどんな否定的消極的な仕方であれ
 現状追認と体制順応を受諾するかぎり、
 この醜悪な世界を美化するための新たな犠牲者の誕生を
 心のどこかで陰険に待っているのである。

 反動的な人間は己れの手を汚さず、
 己れの体を傷つけず、己れの血を流すことなく、
 世界が誰か他の人の血と命と犠牲によって贖われることを望んでいる。

 反動的な人間は、往々にして進歩主義者で、また救世主待望論者である。
 反動的な人間は科学と啓蒙の力を信じ、
 おめでたくて退屈な豊かな未来像を現在の延長線上に思い描き、
 その幻想にアグラをかく。
 しかもその幻想を決して心から信じ、
 それに忠実に生きようとさえしていない。

 こういう大人や親はみにくい卑怯な人間である。
 みにくい不誠実な人間である。
 このようにみにくい大人たちが生き、
 自分のみにくさを棚に上げて、
 子供たちを美しくしようとし、
 子供の上に美しい期待の幻想をお仕着せにし、
 子供がみにくい人間となってみにくく死ぬことを助長している。

 一番いけないのは、子供たちに自分たちのみにくい文化を押し付け、
 子供の心を呪縛して精神の自由を、魂を奪おうとすることである。
 子供に、それほどみにくい自分たちを愛させようとして
 みにくさの上塗りのみにくい嘘で
 自分たちの傲慢な支配を隠蔽することである。

 子供はそのために苦しむ。
 子供が真の世界に真に生きてゆくためには、
 こうした大人たちの作り出した美しい虚飾を厳しく引き裂き、
 そのみにくさを断固として破壊してゆく他にはありえない。

 大人たちが賢く世知にたけていて、
 子供には知性がないというのは思い上がりも甚だしい。
 否、真の知性は童心からしかやってこない。
 では子供は何のために生まれて来たというのだ。
 かぎりもなく愚かな侮蔑するべき大人の玩具にされるためなのか。
 美しい幼年時代の幻想に呪縛されて真の人生を剥奪され、
 愛の犠牲となって死ぬためにだけ生まれてきたというのか。

 恩という濡衣を着せられ、
 生まれてすみませんという愚劣極まりない原罪の十字架を背負わされ、
 お偉いお父様お母様の設定した嘲りの暗い道を通り、
 彼らの指し示した輝かしい苦悩のゴルゴダの丘で
 純潔なまま孤独に魂が命が無力に死んでゆくのがサクセスだというのか。

 では子供は何のために死んでゆくというのだ。
 その死が何を贖うというのだ。
 子供の屍骸を美しいと思うのは親だけだ。
 救われるのは親だけであって、
 子供は親の身代わりになって死んでいっただけではないか。
 何故親は子供の身代わりに死んでやらなかったのか。
 親の恩や期待や命令や愛こそが
 その子供が喜びもなく背負わされた重圧なのだ。

 〈社会〉だの〈現実〉だの〈おまえの将来〉だのと
 かがやかしい期待に満ちたひどい嘘をつくな。
 自分が人生を放棄したからといって、
 子供からそれを巻き上げるな。
 大人が空虚で不幸な人非人でしかありえない社会で、
 子供に大人になることを強制するな。

 そういう大人たちは怠惰で、
 邪悪で腐敗した〈社会〉や〈現実〉を変えようと少しも戦いもしない癖に、
 自分たちよりももっと無力な子供たちを
 もっと苛酷な〈社会〉や〈現実〉にけなげに立ち向かわせて喜んでいる。

 自分がろくに適応もできていない(当たり前だ)社会に、
 子供を適応させようとし、
 自分は無知で無教養で文化の片鱗も解することのできない白痴のくせに、
 子供にだけはと偽善的な嘘をついて
 より無知無学無教養になるに決まっている
 似非学問だらけの高学歴を目指させ、
 自分はへつらうだけで少しも尊敬などしていない
 憎悪すべき〈お偉方〉に子供をならせようとして、
 やれ官庁だマスコミだ大企業だと忙しいばかりで堕落した
 ひどい顔のロクデナシだらけのカネの地獄に行くことを強制する。

 こういう親は子供の将来を考えているつもりで、
 実は自分が永遠に呪縛して組伏しておける
 子供という〈忠実な奴隷〉を道具にして、
 自分に屈辱を与えた世界に復讐したいだけなのだ。

 自分が命令することも支配することもできない王国の権威を
 子供を手段にして奪取させ、
 愛の美名のもとに限りもなく軽蔑しているわが子ごと
 その薄汚い土足で踏みにじりたいだけなのだ。冷笑したいだけなのだ。

 子供を偽善的な黒魔術の道具に貶めながら、
 自分自身の美辞麗句に愚かにも目がくらんで
 何を本当はやってしまっているのかが
 分からなくなってしまっているのである。
 
 ほんとうに子供の将来を考えるなら、
 子供の尻を叩いたり、叱ったり、宥めたりすかしたりして
 その子の意志と知性と生命を支配的に侮蔑し、
 自分の人生を破壊した社会や現実や権力者に媚びへつらって
 新たなそしてもっと空しく不幸な奴隷の兵隊を
 差し出すのを直ちにやめるべきである。

 あなたが幸せに生きていない社会に子供が幸せに生きてゆける訳がない。
 そういう陰湿で卑劣で偽善的で侮蔑的で野蛮な
 管理と統制と抑圧と呪縛の体制に対して、
 あなたがなすべきことは体制に加担して
 新たな絶望的犠牲者をあなた自身の手で作り出すことではないし、
 また手を拱いて次世代に期待をかけ
 自分だけはお人よしの善人づらを浮かべて
 楽隠居の忍従を決め込み
 空疎な声援を送るだけで
 子供たちの恨みをかわそうとすることでもない。

 あなた自身が次世代のために、
 子供のために喜んで犠牲になって血を流して戦うことである。
 それはあなた自身のまだ終わっていない人生を救うことでもあるはずだ。

 子供にツケを回すことなく、あなたの代で禍根を断ち切れ。
 革命せよ。さもなければあなたにも子供にも人生は戻ってこない。
 あなた自身を革命せよ。
 それを邪魔するものは何者であろうと殺してしまえ。
 全世界を敵に回してでも革命の英雄になってみせろ。

 あなたを冷笑し侮蔑した揚げ句、あなたの欲深な足元を見透かして、
 血肉を分けたわが子まで冷笑と侮蔑の生贄に捧げよと残忍に命令し、
 その手によって口によって眼差しによって、
 あなたが本当は一番愛さなければならないはずの
 麗しい小さな偶像を辱めよと脅迫し唆した
 邪悪な神とその使徒どもの王国を許すな。

 〈現実〉を破壊せよ。
 〈社会〉を破壊せよ。

 人間を侮蔑するような世界との戦いにおいて、
 一瞬でも世界に支援するような卑怯な真似を唆す
 いかなる自己欺瞞も自己憐憫も己れに許すな。

 親切づらして足を引っ張る偽善的な隣人どもに媚を売るな。
 〈良識〉が邪魔するならそんなものは捨てろ。
 〈理性〉が邪魔するなら暴勇を奮って
 おまえが勝手におぞましい〈狂気〉だと命名して
 おびえている次元の中心にとびこみ、
 偉大な狂人となって蘇ってこい。
 おまえが一度もみたこともない嘘っぱちの神の審判と金輪際けりをつけろ。
 嘘っぱちの〈悟り〉の仮面にとぼけたくだらぬ仏の顔のみにくさを恥じ、
 その安っぽい良心なんか捨てて、叛逆と殺戮のための武器をとれ。

 奇麗事をいう暇があったら、真剣に全宇宙を転覆することを思考せよ。
 一度も戦ったことなどないくせに、戦いを始める前から負けると決めて、
 その敗北妄想を証明するために憂鬱をかき集め、
 利いた風な口を引用して悦に入る
 卑劣な知ったかぶりのシニシズムに逃げるな。
 そんな知は生きることのためには何の役にもたたない。

 生きたければ、全身全霊をメギドの火に変えて、
 破壊的に革命的に生きて行け。
 あなたの存在を革命せよ。
 己れの知性と意志だけの力によって、
 あなたを駄目にしたすべてのものの呪縛を破棄せよ。

 革命なくして自由はなく、
 自由なくして幸福はない。
 すべてはあなた自身の問題なのだ。
 他人に代わりに生きてもらおうと思うな。

 自分の人生を創造せよ。美しい人生を創造せよ。
 いのちを愛し抜け、きらめきとなって駆け抜け、
 大宇宙をあなたの一歩から創造してみせよ。
 神のごとく生きてみせろ。
 誰かに救ってもらおうとせず、解放は自分で孤独に作り出せ。

 一度くらいは自分ひとりで本物の奇蹟をおこしてみろ。
 おまえの右手が神の手であるかどうか、
 宿った力の限界をその手自身で確かめてみろ。
 おまえの左手に魔力があるか、
 その手の眠りをさまし、意志をふるいおこして宇宙に向かってかざし、
 万物が麗しく変容するように、祈りのきらめきのうちに解放せよ。

 おまえの内に蘇る心を生きよ。心だけを生きよ。
 自由と幸福の場処が死のなかにしかないなら
 歓喜のなかに自殺してきらめいてみろ。
 さもなければ犬のようにうすよごれ
 かぎりもなく醜い屍骸となって全宇宙を呪って死ね。
 凶悪な現実にズタズタに引き裂かれ、襤褸布のように押し潰されて、
 みにくくみじめな虫ケラの真実を晒して死ね。
 
 それが真の人生の、現実の厳しさである。
 あなたはそれから逃げ続けているみにくい人間だ。
 しかし、子供達は今、その剥き出しの残忍な世界に、
 あなたなどよりもずっと弱いのに、懸命に立ち向かっているのだ。
 妖怪という奴はつかみどころがなく、のっぺらぼうで、
 そして、本質的に姿や形というものをもたない。
 不可視の妖怪が枕辺に忍び寄るとき、得体の知れない脅迫がはじまる。
 異妖な予感として、不穏な気配として、妖怪はやってくる。
 それは呪縛する力である。

 子供達は金縛りにあい、目覚めることも眠ることもできぬ悪夢の力、
 侮蔑する現実の力に、絶望に打ちのめされる。
 絶望とは呪縛される子供の感じるかぎりもなく苦く辛い孤独である。
 声も出ず、体も動かない。呪縛とは魔法の挫折である。

 呪縛が強いるのは啓蒙ではなく幻滅である。
 幻滅は人間を解放しない。恐怖が胸を抉り、魂を苦く凍りつかせ、
 かぎりもなく暗く全宇宙を呪い、
 全世界を憎悪の怒りによって破壊し尽くすのだという
 暴力的な復讐の誓いなくして、
 打ちのめされた子供はその孤独から蘇ってくることはできない。

 このとき子供は怒りに満ちた偉大な魂をつかむ。
 怒りの神のメギドの火が全身にみなぎるとき、
 子供のなかに受胎される黒いかがやきのシンボルがある。

 〈黒いかがやき〉は、
 やがてのちに述べる〈白いかがやき〉の対極に位置するもので、
 かぎりもなくみにくいみかけのなかに
 かぎりもなく美しいものを把持している。
 それはかぎりもなく強い自我の内面的なイメージである。

 激しい殺意と熱い愛の感情のなかに、
 一度は裏切られた魔法がふかしぎな変容を遂げて生まれ変わるとき、
 この魔法は二度と決して敗北することのない不死で強靭なものとなる。
 虐げられた人々の無言の胸の中に、
 この怒りの神は必ずありありとした炎の実感を伴って受胎される。
 〈秘教〉が誕生するのはこのときである。

 ロマンチックな情念の炎のなかに生まれる自我は、
 抽象的な自由の空間から
 天使的に演繹された近代的個人主義の凡庸な自我とは
 まったく対立するものである。

 この〈黒いかがやき〉は、
 永遠に栄光の〈白いかがやき〉を纏うことはない。
 寧ろつねに〈白いかがやき〉を覆すためにだけやってくる。
 それは永遠に地上に王国をうちたてることはなく、地下にとどまる。
 それは真の大地の意志である。
 地球を憎悪し、大宇宙を憎悪する偉大な愛の意志である。
 大いなる怪獣は地底の深淵につねに炎の心臓をもって生まれる。
 瞠目すべき神秘である。

 黒い夢はもはや悪夢ではなく、
 人間がそれを食べて生きる力に換えることのできる、
 厳しいが、かぎりなく心強い夢見る力に変容している。

 〈黒いかがやき〉をだからここで一応、
 想像力/イマジネーションの語で押さえておくことにする。
 しかし、想像力=イマジネーションという
 ひよわで凡庸きわまりないことばはまだ
 〈黒いかがやき〉の偉大な神秘のかすかな片鱗を掠めるものに過ぎない。

 想像力ということばがいけないのは、とても皮肉なことだが、
 力なく現実を動かすことのできない想像として、
 それがすぐに空しくされ、
 たんに愚かな自閉した〈空想〉へと諦めるように衰退していってしまう、
 それが着せられてしまっている
 身動きのとれないイメージの濡衣のせいである。

 想像力はじつは決してそのようなイメージのもとに押さえ込まれ、
 眠らされて考えられるべきものではない。
 それは想像力というものを実に愚劣な型に嵌めてスポイルし、
 てなずけておとなしくさせておこうとしているものにすぎない。
 このイメージは想像力に押し付けられ、
 その真の正体を見失わせようとする汚名である。

 ここに愛が侮蔑にすりかわってしまうみにくい瞬間がある。
 
 母の魔法は挫折する宿命にある。
 しかしだからといって子の受胎した秘密の魔術の力は
 挫折するとは限らない。
 空想へと衰弱し、夢のおぼろさに消えうせて、
 やがて〈現実〉の厳しさに咬み砕かれたとしても、
 勝利するのは〈現実〉という実体なき妖怪ではなく、
 子のなかに転生して見知らぬ別人に変貌した
 彼女自身の魔法の力なのである。

 愚かな母親はその盲目的な愛のために自分自身の偉大さがみえない。
 かつて己れが崇拝したものを侮蔑してしまうのである。
 このようにして彼女は自分自身を裏切ってしまうので
 復讐されてしまうのに、
 その厳しさが〈現実〉からやってきたものと誤解してしまう。
 だがその〈現実〉こそ全く無力でむなしい死せる幻影でしかないのだ。

 彼女は知らない。自分自身が女神であったことを。
 もし女神でなかったとしたら、
 子供に魔法をかけることすらできなかった癖に。

 そして更に彼女は知らない。
 彼女はいまも魔法をかけ、
 〈現実〉を創造する万能の力をその手に保持し続けていることを。
 自分自身が女神であることを忘れるとき、
 母親というものは
 不断に妖怪を生み出す醜悪で邪悪な魔女になり果ててしまう。

 〈現実〉の名においてかけられる魔法、
 それ自身が魔法であるにすぎないのに
 魔法などはないのだと嘘をつきながら振り回される魔法ほど
 邪悪な魔法はない。

 知らぬ間に彼女はまた〈愛〉の名において、
 狂ったように〈愛〉なき世界をヒステリックに創造して、
 愛する子をその手にかけて殺すために全力を傾ける。

 彼女は〈現実〉の厳しさを教えると称して
 〈空想〉の死せる鏡のなかに子供の万能の力を呪縛しようと躍起になり、
 折角自分が生み出し哺み育ててきた可愛い子供の
 偉大な生命の力を破壊するためにありとあらゆることをする。

 子供から人生を収奪し、生命の自由な運動を先回りして妨害し、
 自分以外のものに恋愛すれば嫉妬の鬼となって幸福へのチャンスを砕き、
 反抗すれば親不孝の悪党と呼んで罪を着せ、
 従順な奴隷のように卑屈になれば親孝行と褒めたたえ、
 育ててくれた恩への感謝を強制し、
 己れをみにくく神格化して
 子供を親孝行以外はなにもできない無能なロボットにし、
 あげくのはてに子供の人生を破壊し尽くしたことを自慢の種にする。

 そして子供が最高の親孝行であるところの自殺をしてしまったとき、
 ああ本当に良い子だったと
 かぎりもなくみにくく美しい愛の幻想の完成を葬式の席で祝うのである。
 ひとつのかぎりもなく陳腐で凡庸なものの話をしよう。
 それは〈みにくいもの〉についての話である。

 しかし、〈みにくいもの〉ほど謎めいていて正体不明なものはない。
 それはわたしたちを呪縛しているからである。
 わたしたちは常にそれを無視するように条件づけられている。
 
 〈みにくいもの〉は己れのみにくい顔をとてもみにくいと思っている。
 〈みにくいもの〉はだからわたしたちの視界から
 跡形もなく姿を消してしまっている。
 また、その〈みにくいもの〉を
 わたしたちは余りにもみにくいと思っているので、
 それを無視してしまう。

 みにくさというのはそれの陳腐さと凡庸さである。
 わたしたちはだからそれを侮る。
 しかし、わたしたちのこの〈みにくいもの〉への侮蔑ほど
 不毛なものはない。
 そしてこの侮蔑はつねに危うい不安定さをはらんでいる。

 〈みにくいもの〉はふだんは静かにおとなしくしている。
 〈みにくいもの〉ほどやさしいものはない。
 みにくいアヒルの子がちいさくなって脅え切って
 群れのなかでしずかにしているとき、
 その子は群れのなかで最もおとなしいいい子で、
 お母さんのアヒルはその子の控えめなやさしさに
 慈しみと哀れみの一瞥をただ送り向けるだけだ。

 わたしが侮蔑という強い言い方で名指しているのは
 このかぎりもなくやさしい愛のことだ。
 このかぎりもなくやさしい愛が世界にやわらかい魔法をかける。
 この魔法の働きは優美である。
 
 優美さはしずかに作用し、うすよごれたみにくさは消えうせる。
 みにくいアヒルの子はおのれのみにくさを忘れて、やすらかな眠りにつく。
 お母さんアヒルはその子の顔に魔法をかける。
 お話をやさしい声で読んできかせる。
 きれいな童話をきれいな声で読んでやって、
 心からその傷つきやすいやさしい子をいとおしむ。
 だからその子は母の翼の下で安心して眠りにつくことができる。
 こわくない、やさしい夢をその子は眺め、眠りにつく。

 お母さんのひとみで、その子の寝顔をみつめてごらん。
 その子のみにくさはきれいに消えうせている。
 その子は別に目が覚めるほど美しいわけではないが、
 その顔はやすらかで、そして、とてもきれいだ。

 魔法はこのように平和を作り出す。
 平和とはこのように自然なやさしい微笑みのことである。
 それは単純な平安であり、安らぎと慰めにみちた暖かい空間である。

 この平和には栄光はない。かがやかしさはなく、
 それはみすぼらしい貧しさのなかにある。

 みにくいアヒルの子はひとりではない。
 どの子供も同じようにうすよごれしていて、
 その毛並みは灰色でぱっとしない。
 似たり寄ったりの凡庸な顔をうかべて、
 ちいさな未熟な場処に身を寄せあって眠っている。

 母の翼がそれを保護する。それは愚かしい光景である。
 子供たちの見る夢も愚かしい。
 下らない幼稚な空想であることはたかが知れている。
 その陳腐な凡庸さをわざわざ指摘してやることほど
 凡庸な老婆心というものはない。

 だが、それ以上に、陳腐で凡庸では済まない問題がある。
 その老婆的人間のお節介な冷やかしは
 有難迷惑であるばかりか破壊的な作用を及ぼす。
 友好的な表情を浮かべたいやみな人間が忍び寄るとき、悪夢が始まる。

 子供達は魘されて怪物の夢を見るのだ。
 怪物が姿のはっきりとみえるゴジラのような怪獣であるならまだいい。
 いけないのは妖怪だ。