対人恐怖患者は「別人」を畏れる。
 「別人」は表象不能のもの、現実的には決してありえないもの、全くとらえどころのないもの、つかみどころのないもの、想像を絶する不可解なもの、接近不能のものだが、それにもかかわらず、それは人をつかんで離さず、逃がさず、或いは避けがたく迫ってきて、「今にもそこに」出現しそうになる、恐ろしい、妖怪じみた、魔性の人である。圧倒的な恐怖の魔力である。

 「別人」という強迫観念は確かにばかげたものだ。
 それは現実には決して対応物をもちえない。
 「あなたはまるで別人のよう」というところどまりで、その「別人」そのものが比喩を越えて現実のうちに現れでてくることなどありえない。
 それは現実寸前の手前のところまでのぼってくる「出るぞ出るぞ」というばけものの切迫した予感なのだが、ぎりぎりまで接近しても最後の閾を越え出てくることはありえない。
 それは現実のページをめくることもできなければそのページにみずからを書き込むこともありえない。
 現実化直前のスレスレのところで「別人」は追い払われ、無のなかへと弾き返される。
 スレスレのところで間一髪、人は「別人」との遭遇を躱す。

 「別人」は決して現実にはありえない。
 しかし、それならば何故そもそもそんなありえないものを恐れるのか。
 「別人」というものは現実には存在しないのに、「別人」への「恐怖」はどうしようもなくまたまぎれもなく現実の出来事なのだ。
 「別人」という観念を抜いては、それなくしては「別人への恐怖」を理解することはできない。
 「別人」はむしろまさに「恐怖」として「恐怖」のなかに展がり響き渡り、「恐怖」の奥底にその姿なき威圧的な現存を鳴り響かせている。
 「恐怖」において「別人」は現存していてそれをいなくならせることはできない。
 「別人」は「恐怖」となってこびりつく。
 心はそれに対して何もなしえず、「恐怖」へと「別人」の幻覚的な感触のうちへと崩れ落ちるのである。

 「別人」は確かに現実にはありえない。
 しかし、「別人」はその有無をいわせず、圧倒的に心に己れを押付け焼付ける印象の壮絶さにおいて、非現実的なものの現実を超える超現実的なリアリティの強度において、この「ありえない」の棄却の方位を逆転してしまう。
 現実にはありえない「別人」が現実をありえなくするのである。
 むしろ危機にさらされているのは現実の方なのだ。

 「別人」が恐ろしいのは、もしそれを見てしまったら、現実が一瞬にして蒸発消散して全てが滅び去ってしまうからこそ恐ろしいのである。
 現実が紙のようにビリビリと引き裂かれ、「別人」という絶対に存在してはいけないものの恐ろしい形相が黙示録的に現出してしまうとき、あらゆるものがその恥ずべき脆さを暴かれ、裁かれる。
 だから対人恐怖症患者は非現実の異形の顕現によって引き裂かれることから現実を守ろうとして、或いは現実に庇護を求めようとして、乳飲み子がその母に縋り付きつつ母を暴こうとする者から母を守り母を塞ぎ隠し匿おうと渾身の力を振り絞って母を己れの元に引き留めようとするように、偏執的に現実に獅噛付くのだ。
 彼は非現実的なのではなく、逆に過剰なまでに現実的なのであり、現実に固執し密着して、非現実に拏剥がされまいとしているのである。
 そこには非現実的なものに対する死物狂いの抵抗があり、現実を維持存続させようとする頑ななまでの現実主義的な意志がある。
 しかしそれが逆に非現実的なものを呼び覚ましてしまう。
 対人恐怖症患者は「別人」を空想しているのではない。
 空想しているのであればそれは思いのままに制御可能な筈である。
 彼は非現実的なものを制御することができない。
 コントロールを離れて、非現実的なものはみずから勝手に動きだし、非現実的なものを生きることが出来ない者に、そしてどこまでも現実的で非空想的に覚めた者でのみあろうとする者に、覚めた目にしか見えない悪夢として、その覚醒そのものに、眠り夢見ることの不可能性そのものに憑依くのである。

 「別人」は万物を暴き万物を裁く。
 万物をその終末=終端において暴露し審判するのだ。
 「別人」による最後の審判は、万物=現実の真相の暴露であり、その恥部=弱点である輪郭=末端をつかんで剥ぎ取り、存在者から存在を剥ぎ取って、彼が彼の浮上とともに伴って来た或る底知れぬ暗闇の深淵に――まさに「地獄」に突き落としてしまうからこそ恐ろしいのだ。
 現実が反転し転覆してしまう。

 ちょうどゲシュタルト心理学が知覚における形態の認知においていうような図と地の反転に似たことが意味の了解のレベルで起こる。
 ルビンの壷といわれる有名な反転図形は、見方によって壷に見えたり対面する二人の横顔に見えたりする。どちらかが図となって浮き上がると他方は地となって無のなかに消えうせてしまう。
 それは決して同時には見えない。
 どちらか一方が選別されれば自動的に他方は排除され無化されるというゼロサム的関係にある。
 壷の形と対面する横顔の形は同一の線によって描き出される。
 壷と横顔の形相はこの線においてぴったりと輪郭を一致させている。
 線は壷から見ても横顔から見てもその端であり限界である。
 壷も横顔もこの線において現勢化する。
 この線をつかんでわがものとした形相が他方を無化して自己実現し実体化する。
 線はこの意味で形相が現勢化するためにはそれと結び付かねばならない質料である。
 そこで壷が現勢化しているとき、壷は横顔を消してその上にあり、横顔を潜勢化しているといっていい。

 しかし問題は、壷と横顔は同じ輪郭形態を共有しているとしても、観念としては全く他方とは切り離されていて、その間にどんな共通項もなく、類比の統一もありえないということだ。
 壷は横顔を知らず、横顔は壷を知らない。
 両者は少しも似たところはない。
 それは全く類似性をもたない切り離された差異、互いに無関係で無関心な顔を背けあった両義性であり、異質なもの・見当外れなものの偶然的でデタラメな、交わりのない結婚であるという他にない。
 ミシンと洋傘が解剖台の上で結婚しセックスをする。この場合解剖台にあたるのが線だ。
 しかしシュルレアリズムのユーモラスで幸福な幻想とは違って、ミシンと洋傘の結婚はこの場合シリアスでアイロニカルで陰惨でグロテスクな強姦の光景となる。
 ミシンは洋傘を解剖台の上であるからにはまさに解剖してしまう。
 ズタズタに切り裂き、小さな肉片に変えて抹殺する。
 そしてミシンだけが存在するのである。
 洋傘は存在しないだけではなく、洋傘ですらなくなる。
 失われるのは現実存在だけではなく自己同一性と可能存在も失ってしまうのである。
 洋傘はミシンに食われてミシンになる。
 そしてミシンは洋傘のことなど完全に忘却している。
 ミシンは自分が洋傘であったことなど全く覚えていないだろう。
 ミシンははじめからミシンでしかなく、他のものが成ったものではないからである。
 即ち形相は己れ自身しか知らないし自己同一性にしか関心がないのである。

 ルビンの反転図形に話を戻してみよう。
 まず、線=質料は壷にも横顔にも中立的なもので、それはどちらでもなく何者でもないが、常に顕在化している。壷が顕在化すれば壷の形相の周囲に蒸着して壷を際立たせ、壷を描いて横顔を跡形もなく消去・抹殺する働きをする。
 横顔が顕在化すればその逆のことをする。
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 〈別人〉は〈自己〉でもなければ〈他者〉でもない。
 〈自己〉と〈他者〉は〈別人〉である。
 〈別人〉は〈自己〉と〈他者〉の間に立つ得体の知れない不可能な第三者である。
  *  *  *
 思考法則を律する三つの論理律、自同律・矛盾律・排中律は、それぞれ自己・他者・別人の存在様相を定義している。

 自己自同者他者矛盾者別人排中者と呼び替えることができるものである。
 ところで、三つの論理律のなかで何者かの存在否定を行っているのは排中律だけである。
 自同律は否定を全く行わない。
 矛盾律否定の様相において他者を記述しているが、他者という存在者の存在を否定しているのではない。
 「非AはAではない」ということは、Aとの同一性を否定しているだけであって「非Aは存在しない」といっているのではない。
 むしろ「非Aは存在する」のである。
 しかし、排中律にあっては「非AでありAである者」の存在が積極的に否定されている。
 Aを自己、非Aを他者とすれば、自同律は自己の存在について、矛盾律は他者の存在について語っているといえる。

 排中律は自己であり他者であるような別人という存在者の存在を否定(むしろ禁止)している
 別人の存在否定は自己と他者の混同の禁止であり、自他の分別の論理的確定であるといえる。

 排中律は別人を存在否定の生贄に捧げ、無の火炎のなかに葬り去ることによって、自己・他者・非他者・非自己という四つの様相的存在者の存在可能性を救済している。
 自己は自己に他ならざる者として他者一般から区別され、非自己ならざる者として自己に回帰することができる。
 他者は他者に他ならざる者として他者一般から区別され、自己ならざる者として非他者一般からも区別され、自己ではないが他の自己を持つ者、存在する非自己の非他者として現実存在することが可能となる。
 別人は自己にして他者、非他者にして非自己であるような非存在、非自己に他ならざる者はありえないという意味で不可能性の様相においてのみ把握される恐怖の観念の必然的核心である。
 自己と他者の二項対立に存在と非存在の二項対立が直行的に横断する。
 自己と他者の対立関係は、その真中が別の対立軸によって横切られなければ、両立可能な二項の関係とはならない。
 別人は自己と他者の間に鋏を入れるようにして差異を切り離して画定しつつ、自らは非存在となって、存在する存在者である自己と他者の両者に対立する。
 自同律は或る存在者Aにおいて「Aが存在する」ということであると読み替えることもできる。
 つまりそれは「Aの存在」の定立である。
 これに二つのタイプの反定立(否定)が考えられる。
 「Aの非存在」「非Aの存在」である。

 前者は存在の様相に否定が働き、後者は存在者の様相に否定が働いている。

 それ故に意味は違うが、「Aの存在」を虚偽化して脅かしている否定(反対)である点においては同じである。
 前者の場合、AがAであること(同一性)は破壊されていないが、その同一的存在者Aの存在が否定され空洞化されている。Aを脅かすのは自己の非存在である。或いはAの死であるといってよい。
 後者の場合、何かが存在することは否定されていないが、それがAであることが否定されている。Aを脅かすのは他者ないし別人の存在である。或いはAの発狂であるといってもいい。
 前者においてはAの現存在「Aがあること」がAの非存在「Aがないこと」によって無化されAは存在を喪失している。
 後者においてはAの現本質「Aであること」がAの非本質的現存在「Aでないこと」によって覆されAは同一性を喪失している。
 同一者の存在の危機と存在者の同一性の危機は、存在論的差異における存在者と存在の調和的差異が相克的で否定的な様相に転化したしたとき、自同律の真理性を揺るがす精神病理として共に起こり得るものである。
 存在と存在者の対立が存在優位であるときに、存在は存在者を押し潰しその自己同一性(本質)を破壊する。存在は無化されないが存在者は無化されてしまう。存在が存在者を侵略する。
 逆に存在者優位であるときに、存在者は存在を追放しその自己同一性に自閉的に引きこもる。
 存在者は自己を無化しないが存在を無化する。
 それは無の分厚い壁の砦に孤独に引きこもって存在を遮断し、無を存在に代わる自己の存在条件として選び取るということだ。
 それは無によって武装すること、無という違う仕方で存在することを選択するということである。
 しかし、それは無によって窒息することでもある。
 この場合の無はいわば人工の存在であるといっていいものである。
 存在の放射能から身を守るためのシェルターであるといってもいい。
 シェルターから出れば存在者は忽ちに放射能汚染で破滅する。
 しかしシェルターのなかにいたとしても、そこは空気の足りない閉塞空間であるので緩慢な窒息死を免れることはできない。

 この無のシェルター自我の殻であるといってもよいものである。
 しかし、それは非常に抽象的で無機的な自我の甲殻である。
 正常な自我は存在者の内にあって、それを内から支える核心でありまた内骨格をなすものである。
 この異常事態では存在者は脊椎動物であるのをやめ甲殻動物に変身してしまっている。
 グレゴール・ザムザのように巨大な昆虫に変化してしまったのだといってもよいだろう。
 昆虫的なもの、無脊椎で複眼で固い殻を被ったもの、角質化した虚無の鎧によって全身を覆ってしまったもの、それを存在論的甲虫と名付けるとする。
 存在論的甲虫存在論的畸型の一様態である。
 わたしがここにいう存在論的甲虫のことをレヴィナスは物質的孤独ないし質料的孤独という語で定めている。それは存在の侵略に対するアレルギー反応であると見てもよい。存在が存在者の自己同一性を破壊的に侵犯してくる異常事態のことをレヴィナスはイリヤと呼んでいる。
 イリヤの概念は問題提起であると同時にそれ自体において多くの問題点を孕んでいるという両義的な意味において二重に問題の多いものである。

 それは見かけほど単純ではない、なかなかに一筋縄ではゆかぬ手ごわさをもっている。
 それはレヴィナスの思想の最重要の核心部分をなすものだが、わたしの見るところイリヤという概念装置の概念構成にはレヴィナスが敢えて明示的には語らなかった思想戦略的な仕掛けが巧みなトラップのように組合わされて極めて複雑な内部機構を作り出している。
 言うまでもなくこのイリヤというトラップはハイデガーのそれ自体が超越論的な形而上学批判であるところの存在論を批判されるべき悪しき形而上学としておびき寄せ逮捕し告発するための巧妙な超越論的形而上学の罠である。
 レヴィナスは決して素朴に(或いは誠実に)イリヤについて語っているのではないので、彼の言うことをすっかり額面どおりに受け取る訳にはいかない。
  *  *  *
 〈別人〉は〈他者〉ではない。

 それは純粋な様相または幻想としてしかありえない決して存在しないものである。
 それは〈他者〉よりも難解で厄介な相手であり、〈他者〉の他性そのものを凶変的に崩壊させてしまう危険で邪悪な脱け出すことの難しいアポリアを差し出してくる。
 だからこそ〈他者〉よりもその同名異人=同名異義語〔homonym〕である〈別人〉こそが〈他者〉を問う上でより重大で深刻な核心的な問題なのだ。
 〈他者〉は善と倫理と神の問いの地平を開く。

 しかし〈別人〉は美と様相と病理と受難の異次元の裂け目を〈他者〉の顔貌それ自体を破綻させる異貌として殺人的に突出させてくる悪魔的な出来事である。

 〈別人〉は悪魔学的で黙示録的な形而上学的非存在であるとしかいいようのないものだ。
 それは決して現実には存在し得ないし可能的にすらあり得ないものであるのに不可避的に襲い掛かってくる超現実的な危難を言い表している。
  *  *  *
 〈別人〉を見ることは死ぬよりも恐ろしく辛いこと、それについてはもはや絶望すらもありえない最悪の厳しい局面である。

 〈別人〉のもたらす死は死よりも苦い真の意味での死である。
 〈別人〉は命こそ奪わないが最も悪い仕方で人を殺す。
 それはメドゥーサを見ることに等しい。
 血は凍り体は蒼白く石化して魂が滅ぼされる。
 〈別人〉は耐え難いまでにみにくい。
 しかし、それは醜悪であるからではなくて荘厳なまでに美しく眩すぎるためだと考えるべきであるかもしれない。
 みにくいとは形態的に不快を催す視覚像(対象)の不細工さにあるというより、その対象の〈見難さ〉であり対象それ自体の不可視性、カントの言うような意味での物自体の主体的認識或いは表象の不可能性に接しているとは考えられないだろうか。
 例えばこのように推理してみるとすればどうだろうか。

 メドゥーサのおぞましさはグロテスクで滑稽なモンスターであることにあるのではない。
 一目見ただけで心臓が止まってしまう程に魅力的で比類のない絶世の美女であるからこそ恐ろしいのである。
 それをちらりと見ただけで魂を奪われてしまう。
 身も心もその麗しく鮮烈な美の閃光に奪い尽くされてもう目が離せなくなってしまう。
 だから命懸けでそれから顔を背けねばならないのである。
 顔を背けて決してそれを見ないようにしなければならないのである。
 さもなければ魂の抜け殻に変えられてしまうのである。
 身を滅ぼす愛の虜となり心を焼き尽くす恋慕の炎の薪となってしまうのである。
 メドゥーサはその度外れの美と貴品によって一瞬に魂を呪縛し、餌食となった者の心を生きたままその珊瑚の唇と真珠の歯で食べてしまうからこそ魔女なのである。
 それがメドゥーサの恐ろしさとみにくさの真相なのだ。
 みにくいものとは醜悪なものというよりは神聖不可侵の美の極致であってそれを見るものの理性を二度と元には戻れないまでに狂わせてしまい、それの内へと吸着し吸い取ってしまうからこそみにくいのである。
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 不可能化。事物の外観はそのままなのにその内側が一瞬に白骨化して崩れ落ちる。
 「在る」ことの全体がそっくりそのまま「化けて出る」にすげ変わるようなこの過剰に現実的で陰惨な幻想感は極めて耐え難いものなのだ。

 現実、余りにも無残な、剥出しの現実でしかありえない現実がわたしを打ちのめす。
 現実をすら幻視できないというときに人は非現実や超現実や空想や架空や虚構や夢を見るのではない。現実の非現実性を見るのである。
 現実が非現実であるということの耐え難い現実性を見るのである。
 夢が現実であるのを見るのではない。
 現実が夢であることを幻滅的に知って、それから目覚められぬ己れに目覚めるのである。

 夢を見るねむりびととして夢を見るのではない。夢は見えない。
 夢を見るねむりびとである自分を見てしまうのである。

 それは普通の意味での覚醒ではない。
 ねむりびとである自分は決して目覚めることはないのだ。
 決して目覚めることのできないねむりびとは夢を分泌することしかできない。

 そのまさに夢を見ているねむりびとである自分を見てしまうことは最も悪いこと、悪夢よりも悪い真のそして最悪の悪夢を、最大の幻滅を見ることだ。
 それは呪われてしまうということに他ならない。

 眠って夢を見ている自分を夢に見ることは、夢の中に恐ろしい化物を見てそれに食われることより遥かに恐ろしいことである。
 それはその夢が死の前兆をなす不吉な予知夢であるから恐ろしいのではない。
 ありえない夢だから恐ろしいのである。
 自分に自分が化けて出ることだから恐ろしいのである。
 自分に自分が憑依くものであるから恐ろしいのである。

 他人の夢に生霊となって自分が出ること、つまり他人に自分が憑依することは、まさにそれこそが夢と言われるにふさわしい夢である。
 人間の最大に焦がれる夢は古来から他人の夢になることである。
 人間は他者に夢見られることを夢見る。
 しかしこの夢とか夢見るとかいうときの夢は目覚めて見る夢であるところの願望を意味するに過ぎない。他者に夢見られるという夢は目覚めているからこそ夢見ることのできる夢であって、その夢は夢を夢見ているのに過ぎない。

 よく現実は厳しいといい、夢見るような甘いことを言うなとそれこそ甘ったれた説教を垂れる威張腐った人間がいる。この知性を欠いた浅薄な人種の、単に横柄に威張り腐って自分だけがお目出度い夢を見ようとする、つまらないリアリズムほど現実逃避的な卑劣はありえない。

  *  *  *

 わたしの手前でふいに蒼白い掻消す光に執り憑かれ、異妖なものに連れ戻されつつあったその女、消滅の間際に陽炎のようにゆらめくまぼろしめいた姿でわたしへと振り返った彼女のふるえる指先がわたしへと、しかし微妙にわたしからズレたひっそりとした黒い空虚へと指し延ばされるとき、その不可思議な定めなき場処に彼女は何を見定めつつあったのか、或いは見定めてしまったのか。

 彼女の指先の曖昧な指示は指さしえぬものを指さそうとしていたのではないか。
 ではそこに何がいたというのか。わたしでないとすれば誰が? 

 そこにいたのはわたしだ。わたし以外に何か他の者がいたわけではない。
 その他には誰もいない。いるとすればそれは全く物の数にも入らないもの、無-虚無であり、ノーボディとしかいえない、全くいない人、決して居合わせぬ者だ。

 別人とは黙した恐怖である。

 黙した恐怖の叫びが世界を引裂き、自己と他者を引裂き、ことばを引裂くとき、その全く異なる者、その全く有り得ない者、しかしにも拘わらず万物を異化する有無をいわさぬ圧迫的な魔力にも似た万能の権力を行使する者が顕現する。

 恐怖の権力。或いは恐怖の大王とそれを呼ぶべきであろう。

 別人とは最も畏れ多くして最もおぞましきもの、限りなくみにくいもの、世界の終末ないし極限にあるもの、或いは世界の終末そのものであり、まぎれもなく黙示録的なものそのものであるからだ。

 別人とはアポカリプスであり、封印され呪われた神聖不可侵にして邪悪不可触の禁断の他者性――むしろ、超他者性である。
 それは根源悪、《悪は何処から(ウンデ・マルム)》の問いに答えるものである。

 悪は別人から来る。別人とは存在の鬼門である。
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 「別人」は恐ろしい。
 それは姿もなく擦めるだけのものなのに、世界を無よりも恐ろしい恐怖の異和の一色に塗り替えてしまう魔性の風だ。

 それは自己を不可能にし、他者を不可能にする。
 いや、自己の自己性を不可能にし、他者の他者性を不可能にするといわなければならない。

 何も存在しなくなるわけではない。彼女は存在しているし、わたしも存在している。
 何も無化されているのではないのだ。
 だが「存在する」ということはそっくりそのままなのに、すべてが丸ごと不可能になっている。
 在るがままにありながら、その「在る」ことの一切がありえなくなる。

 ありえない。

 存在するにも拘わらず、それが全くありえないということが突然に起こるのだ。
 それは無化なのではない、不可能化である。

 この差異は重要である。
 存在は全く無傷にに完全に保存されているのだから、無化としての無や、不在としての無が襲って来ているのではない。

 確かにその感触は無や不在に似ていなくはないし、それをついうっかり思い起こさせなくはない。
 無や不在に非常に近似しまた類似しているので、迂闊にそれらの観念を用いて比喩的にこの最も空虚な出来事を描写したり分析したり叙述したりすることがよく行われてきた。
 しかし、それは間違っているし、無用で余計な誤解によってただでさえ紛糾している出来事を必要以上に難解で曖昧な神秘の文芸やゴリ押しの哲学理論によって無闇に混濁させてきただけだ。
 ところが、実際の出来事は言語と理屈の文学的・哲学的紛糾をよそに、恐ろしく透明で明晰判明な、そしてどんな文飾をもっても美飾りようのない全く無味乾燥で無感動な、貧相な恐怖による単調極まりない悲劇の光景でしかありえない。
 そこには無の観念が大騒ぎする余地などまるでない。
 無にはまるで出る幕がないというのが真相なのだ。
 角を出した鬼が出る幕があるのだとしても。

  *  *  *

 無はない。更に言えば、このことに限って文章の下手糞なサルトルがやたらに騒々しく書きなぐって宣伝したところの吐き気を催す存在の渾沌もありえない。
 それはカオスではない。
 また、サルトルに負けず劣らず文章の下手糞なバタイユがやたらに麗々しく言い立てたような非知の聖夜の暗黒の陶酔気分の神秘の恍惚もありえない。
 わたしに言わせれば、サルトルもバタイユも単なる騒々しいはた迷惑な酔払いでしかない。
 悪酔いしようとほろ酔い気分だろうと飲兵衛同士のどっちが酒豪かを巡ってのフランス産ワインの飲み比べ競争の酒のつまみにされるべき話ではない。

 そのような連中を酒の肴にして笑うもっと下品な噂好きのサロン的インテリどもの野次馬根性にもわたしはつきあいたくはない。
 そのような酒気を帯びたおフランスな連中をその安酒もろともつまみ出し、インテリどもの酒臭いエスプリを跡形もなく換気し、来るとゲー出るとか吐いでっがーとかいう人名なんだかインテリどもの寝ゲロなんだかよく分からない未消化の知の汚物をモップでよく掃除してしまうことが必要である。

 こういった己れの才能だの能力だの知力だのポテンツに酔い痴れて酔い潰れておかしなカラオケ好きの天狗になってしまったオヤジ臭い醜い連中の互いの性器ないし性起の勃起能力を競い合ったり去勢しあったりするファロゴサントリズムが一番いけない疑似問題であり、風紀を損ねるセクハラにして思想上の騒音公害なのである。

 ファロゴサントリズム(男根ロゴス中心主義)という程エロ・グロ・ナンセンスな下品な用語はない。それは全くオヤジ的で不謹慎なダミ声の猥談でありオヤジ同士の内輪受けの域を出ない。この用語の発明者が誰だか知らないが(本当は知っているが)そんなシャックリ出たような品のないダサいジャルゴンを創って喜ぶ言語ゲームは、センスが悪すぎて、笑劇としてもジョークとしてもナンセンスとしても言葉遊びとしても最低の部類に入る失敗したヒューモアでしかない。ウィットというものが全く感じられない。

 下ネタしか語り得ぬものは沈黙しなければならない。
 言葉遊びというもの程人品骨柄が問われてしまう分野はないのだ。

 不真面目な猥談は単に子供に悪影響を与えるからといって母親達が鼻をつまむからいけないのではない。そうではなく、子供に全くウケず単に白けさせるだけだからいけないのである。
 子供はエレガントな生物であって、最も厳しい批評家でもあるのだ。

 何でもオトナのすることを真似するのが子供であるというのは間違っている。
 子供は真似をするときに何を真似するかを高い審美眼で選ぶ。
 子供は『不思議の国のアリス』のような優美で洗練された屁理屈語りと言葉遊びによって大人の尤もらしげだが中身のない論理、やたらに横柄で俺様には理由がある根拠があると威圧したがる教育根性=権力意識丸出しのヘンテコなロゴスを、無闇な最新用語や現代思想の基礎知識の丸暗記とか、構造主義だのデコンストラクションだのの最新の方法論やら知の技法やらの行儀作法の調教訓練とかに全く頼らずにぶち壊しにする爽快な詭弁術と突飛で無邪気な質問術を心得ているものだ。

 そして子供はオトナの嘘といやらしさがとても嫌いだ。
 論理・丸暗記・勿体振った行儀作法、これは子供の健全な批判的純粋理性の最も嫌悪するところのものである。

 そんなものは全部オトナたちのいやらしいこと、つまり猥談である。
 猥談が分かるようになってしまったら子供はもうおしまいだ。
 それはバカで穢いオトナの仲間入りをするということである。
 悪魔の顔を見てはならない。
 それと目を合わせてはならない。
 顔を背けねばならない。

 さもなければ、悪魔の貫き通す灼熱の視線は、レーザービームのようにあなたの魂をあなたの世界を燔き尽してしまうだろう。
 あなたの心は一瞬にして消え失せ、蒸発して、跡には悪魔の烙印めいた陰惨な人の焦跡しか残らないことだろう。

 それが「別人の痕跡」である。

 別人はあなたを全く報いも再生もない完全な全焼の生贄に変じてしまう。
 地に焼付いた黒い影、それは単に跡形もなく無に消えうせるというよりもひどいことだ。
 死後に黒焦げのシルエットが一つの石の表に永遠に焼付いて消えないというのは、〈恥〉が残るということだ。

  *  *  *

 「あなたはまるで別人のよう
 脅える瞳、震える声、蒼ざめた顔がわたしに向けて凍りつく。
 彼女がわたしを見失い、わたしが彼女を見失うとき、引き裂かれる大気を劈くようにして息切れ擦切れた凍える叫びがその謎の存在の奇妙な名を真空の闇に綴って告げ知らせる――〈別人〉、その不吉な轟く名。

 「別人のよう」とは一体どのようであるのか、わたしには分からない。
 そして恐らく彼女にも分からない。
 わたしも彼女も「別人」を全く知らない。
 わたしも彼女も「別人」を見たことはない。
 そして勿論、わたしも彼女も「別人」などであるわけはない。

 確かに別の意味でなら、わたしも彼女も他者に対して相手に対して相対的に別人である。
 それは別人でありうるというどころか別人でしかありえない。
 そしてその意味でなら、わたしは「まるで別人のよう」であるどころか、わたしはまさに「別人である」のだ。

 わたしは彼女とは別人であり、彼女はわたしとは別人である。
 わたしたちは互いに別人でしかありえない。
 それは「わたしたち」が何人に増えようと変わらない。
 人数が増える分だけ別人の数も増える。
 そしてこの相対的別人の人数は「わたしたち」の人数と同数である。

 では逆に「わたしたち」の人数を減らしてゆくとしたらどうだろう。
 一人ずつ人が減る度に別人も消えてゆく。
 しかし最後に一人、わたしだけが残るとき、そこに別人はいるといえるのだろうか、いないといえるのだろうか。

 普通なら、人がただ一人でいるときに、別人はいない筈である。
 別人は人が二人以上になったときにしか現れてはこない。
 そして別人の最小人数は二人である。
 二人の人間がいれば二人の別人がいる。
 別人には単数がありえない。それは常に複数的なのである。
 そしてこの意味でなら、別人は他者と言い換えても全く構わない観念であるだろう。

 しかし、それは本当にそうなのだろうか。

 最後に一人、わたしだけが残るときに、そこには自己だけがあって他者という二人目以降の実体的人間が数えられていないのだが、そのときに、他者なき別人というものを、考えることはできないだろうか。

 それは他者には最早還元できないような別人であるだろう。
 それはまた自己にも還元できないような別人であるだろう。
 自他関係のなかに現れてくる二人を最小数とする相対的別人の前に、他者に先立つ一人目の別人、絶対的別人がいるのではないだろうか。

 「まるで別人のよう」というときのその「別人」、特異な意味での「別人」、誰もそれであることができず、誰かであることのないままにただ端的に「別人」としか呼ばれ得ない、何かしらぞっとする響きをもつ「別人」とは実にそのもののことを指すのではないか。

 「あなたはまるで別人のよう」というときに、女はわたしがその「別人」であると言っていたのではない。
 彼女はその「別人」の様相をわたしに帰属させることができない。
 「まるで~のよう」という実体から遊離した比喩のかたちでしか、その「別人」については語れないし、またそれ以上、それに接近することはできない。

 彼女は困惑し、そして、そのことに怯える。
 彼女はわたしであるわたしを見ると同時に、わたしから微妙に遊離し剥離している幽霊めいた「別人」の様相を認めて戸惑う。
 その「別人」とわたしの間で恐らく彼女は踏み迷いながら、引き取り手のないその怪奇な暗黒の様相を持て余すのだ。
 そうやって彼女はわたしを見失い、そして彼女自身をも見失う。それはわたしも同じだ。

 「あなたはまるで別人のよう」という言葉は恐ろしい。
 それを言う彼女自身こそがわたしには「まるで別人のよう」に見えたのだ。
 そしてこのわたし自身が、得体の知れぬ、どうにも抗いがたい、何かヌルリとする気色の悪い力によって、有無を言わさず、その「まるで別人のよう」と言われているその「別人」に触られ、掴まれ、消されて、それにすっかり置き換えられるような身の凍るような恐怖を感じたのだ。
 「存在は多様な仕方(意味)で語られる」(アリストテレス『形而上学』第4巻第2章)。
 しかし、「他者は多様な仕方(様相)で現れる」というべきだろう。

 存在の多義性はその背後に類比的な意味の統一性をもっている。
 アリストテレスは存在の一義性を認めないが、同様に同名異義性をも認めない。
 存在の類比一義性同名異義性の中間に維持されている。

 レヴィナスはこれに対し存在の意味は悪であると一義的に言っている。
 そして「存在するのとは別の仕方」にあるプラトン的な「存在の彼方」の善のイデアを求める別の形而上学=倫理学を志向する。つまり存在論ではなく倫理学が第一哲学でなければならない。

 レヴィナスはその存在論批判において西欧の伝統的価値の機軸であった実体・自己・存在・内部・同一性の観念群を、いずれも、均一的で自閉的な全体性の秩序へと、それに還元不可能な筈の外部・無限・他者暴力的に還元=同化=内面化する権力装置として見ている。

 自己はそれに同一化できない外部を悪と看做しそれに恐怖する。
 それ故に外部を無きものにしようとしてそれを自己に同一化し内面化しようとする。
 自己は、何らかの意味で己れと同一ないし共通の本質を共有するもの(類比的同一性を有するもの)でなければそれとは関係出来ず、その存在を許すことはできない。
 例えば、他者であれば、それは自己と同類(仲間)でなければならない。
 それは他なる自己であり同じ人間である限りにおいてのみ存在を許容できる。
 そうでないならその存在は悪であるから奪わねばならない、つまり自分の同類でなければ人間ではないから殺しても構わないという倫理的倒錯に陥る可能性は常にある訳である。

 外部を悪と看做し、内部を善と看做す、その根源的恐怖に基盤づけられた論理自体が反転して悪の温床となる。
 外なる他者に殺されると脅えた者が外なる他者を殺してしまう。
 これはありふれた話である。
 しかし事が大きくなるとただごとではなくなる。

 外部や他者に潜在的脅威と敵愾心を抱いた自己同一性が多くの人間を同類として包摂し、国家のように巨大な権力をもったものに組織化されていったとき、何が起こるのか。
 例えば外部に対しては侵略戦争、内部に対しては異分子狩りや窒息的な管理=監視体制の強化や洗脳まがいの人間の調教と規格化が横行する。すなわち全体主義的原理による強制収容所=監獄国家の形成である。
 そこでは必ず刃向かう者、異なる者、弱き者、同化の基準に合わなかった他者が際限もなく殺されることになってしまう。

 「同じでなければならない」という価値観、それは極めて疑わしいし、それを野放しにしておくわけにはいかない。レヴィナスはこの同一性=存在の悪に対抗し歯止めをかける善の原理として「汝殺すなかれ」という他者の顔貌の発顕を提示する。

 この顔貌=他者は或る意味においては〈〉である。

 しかし、「他者は多様な仕方(様相=顔)において現れる」とわたしは言った。

 「汝殺すなかれ」という他者の顔貌はレヴィナスの主唱するところに従うならば、存在の悪を糾弾する善なる神である。だが、わたしは存在の悪があるだけではなく、他者の悪があるということを言わなければならない。

 神にその異貌である悪魔の半面があるように、他者の顔貌には邪悪な別の人相がある。
 別人がそれである。

 レヴィナスの提起する〈他者〉というのは神である。
 しかし、それに対し、わたしが提起するもうひとりの他者〈別人〉というのは寧ろ悪魔である。
 そしてはっきりと言っておかなければならない。
 〈他者〉は殺してはならない。しかし〈別人〉は生かしておいてはならない。

 わたしたちは判断しなければならない。
 それはレヴィナスの倫理学よりも厳しい倫理学を要求することである。

 しかし判断の問題は倫理学の領域を大きく逸脱している。
 カントでいうならそれは『実践理性批判』(倫理学)の問題ではなく、『判断力批判』(美学)の問題である。
 カントの美学は通常の意味の美学ではない。
 それは美感的判断力と合目的的判断力を含む判断力の問題である。
 また判断の問題は審判の問題、正義の問題として政治学をも含む
 それは政治的判断力の問題である。
 例えば〈他者〉を生かして〈別人〉を殺すというのは政治的判断である。

 政治(politics)という概念は、その語源からいっても美観を保つという意味合いをもっている。
 政治学は本来的に美学の下位学問である。
 更にアリストテレスにおいては倫理学は政治学の一部門であった。
 更に彼の倫理学では正義とは対他的な徳を意味する。
 この美徳の概念は宗教や権力や法律に規定されたものではなない。

 美徳とは悪徳に対照される美学的な概念である。
 古代ギリシア人たちは美しい人生を美しく生きるために善なるものの基礎概念である徳を喜ばしいものとして美学的に規定したのだ。

 わたしの考えでは第一哲学=形而上学は存在論でないとしたら、倫理学ではなく、政治学をも含む美学(判断力の学)でなければならない

 またそれは様相学としての美学でもあらねばならない。
 例えば存在・無・自己・他者というのは実体である以前に寧ろ様相である。

 様相というのはどこまでも美学的な概念でしかありえない。
 しかし、それは多くのものを含んでいる。
 美醜だけが様相の問題ではない。
 必然性・偶然性・可能性・不可能性も形而上的美学である様相の問題なのだ。


 わたしはまた認識論が価値論と切り離されて経験科学の婢女に成り下がっていることも間違っていると思っている。認識論は真理や経験や実在や有用性の奴隷ではない。
 認識すべきものは美しい人の心でなければならない。
 美しい様相を見るべきだ。さもなければ認識論などガラクタだ。

 わたしは特に認識論的問いから出てきた醜悪な実体批判と関係の第一次性を唱える連中にも文句を言っておきたい。
 まったく、冗談ではない。関係の第一次性こそが今日最も野蛮で邪悪でニヒリスティックな猛威を奮っている形而上学ではないか。それは存在や実体や自我の形而上学よりも遥かに悪いものだ。
 それは事実において必要以上に美しかるべき人生をしなくてもいい陰気な認識によって損ない、人間の自主性と主体性を洗脳的に破壊している。

 わたしは断固としてかの美しき実体の観念の復権を唱えたい。
 実体は確かに前提として存在しないかもしれないが、人間は実体なき空虚な関係の奴隷であってはいけないのである。

  *  *  *

 さて、自己と他者という人格的存在者を前提したところでしか倫理学は機能しない。
 それは自己を自明視しているし他者をも自明視している。

 何が自己で何が他者であるのかが漠然としたところで自己と他者について幾ら語ったところでそんなものははじめから決定不能のシニフィアンの戯れの域を一歩も出てはいない疑似問題である。

 自己と他者という問題は学者たちの理論ゲームの玩具ではない
 それは切実で実践的な問題である。

 認識論や科学基礎論の分野で実体概念が古ぼけた迷妄と片付けられているからといって、自己と他者というどこまでも実存的で実践的な問題でしかありえない事柄にいつまでたってもあるべき実体が伴わぬままにしておいてよいという法はない。
 それは議論以前の問題である。倫理学以前の倫理の問題である。

 わたしは〈他者〉の問題に関して実体ある議論を要求する。
 今日、特にレヴィナスを筆頭とするフランス現代思想の影響の名残で〈他者〉という用語は思想上の流行語となって極めて安易に流布している。
 しかしそこで何が語られているのか。こんなものが真の議論であるといえるのか、わたしは疑う。
 とりわけ学者や評論家たちの良心を疑う。

 第一に、一口に〈他者〉といってもそれは多様な意味をもっている。
 それは一義的に言うことはできない。
 レヴィナスのいう他者、ラカンのいう他者、フーコーの、デリダの、ドゥルーズのいう他者、更にウィトゲンシュタインやキルケゴールやブーバーのいう他者、それはどれも同じように〈他者〉と言われているが、同じ意味で言われているのではない。
 それぞれ問題の位相が違う。ごっちゃにして論じるべきではない。
 そもそも〈他者〉という概念は、これだけはその多義的意味の類比的統一として言えることだが、まさにその多義的意味の類比的統一であるところの〈存在〉だの〈自己〉だのの〈同一性〉に対するアンチテーゼとして出てきたものである。

 〈他者〉についてはだから「それはそもそも一体何であるのか」というようなアリストテレス式の意味の類比的統一を求めて巧妙にそれを一個の「他者問題」や「他者論」に仕立てあげるような問題意識は全くお門違いである。

 他者について統一的な意味や見解を求めることこそレヴィナスが批判してやまなかった他者の一般化であり自同者=存在への同化なのだ。
 寧ろ問題にされるべきであるのは、そのような他者一般の統一的意味ではなくて、そのようなものに還元されない個々の場面において「そこで問題になっているのは本当は何なのか」「何故この問題がここで問題になっているのか」という具体的な問題相に肉薄してゆく姿勢である。
 それを遠巻きに解説したり概観したり評価したり貶したりすることではなくて、問題を共有することが重要なのである。
 彼ら(彼らも対象ではなくて他者である)が何を結論したかが問題ではない。
 そんなものについては幾らでも悪口を言っていいのだ。

 問題なのは彼らが何を訴え、何を問題にしようとしていたのかが問題であって、方法論だの理論だの権威ある結論だのの反復などどうでもいいのである。
 存在論的差異([存在-存在者]の分節)によって別人を記述することは出来ない。
 別人は寧ろ非在論的差異([非在-非在者])を仮定することによって朧ろにその姿を看取することのできるような形而上学的存在である。

 自己や他者は存在者であるが、別人は非存在者である。
 しかし、それは単なる無ではないし、単なる非現実存在であるだけではないのだ。

 別人は必然的に非在するところのものである。
 単なる非存在者ではなくて存在不可能者である。
 これに対し自己や他者は存在者である以前に存在可能者である。

 自己や他者は現実に存在する。
 しかしそれは現実存在することが可能であるという可能存在としての背景をもっている。
 他面においてそれは現実存在しないことも可能であるような偶然的現実存在である。
 つまり偶然的現実存在である自己や他者は可能的には非存在者でもあり得るのだといっていい。

  *  *  *

 別人は自己でもなく他者でもない形而上学的存在である。
 厳密にいえば、別人は全く存在しないばかりか、そもそも存在することの有り得ない非存在者である。それは純粋に様相的にか有り得ない。
 しかしこの有り得ないものは無にも似て必然的なものである。

 無は存在しないし存在することなど有り得ないが、無くすことができないもの、欠かすことのできないものである。存在にとって無は無くてはならないものである。
 存在の〈それなくしては有り得ないもの(hou aneu)〉つまり必須条件として無は必然的である。

 存在は無を要請せざるを得ない。
 実体にとってそれなくしては有り得ないものはそれの本質的属性である。

 これを存在についていえば、存在の本質は無である。
 存在はそれ自体が存在することは無いのであれば、存在者としては無である。

 パルメニデスの命題「存在は存在する/非存在は存在しない」は間違っている。
 ハイデガーははっきりとは言わなかったが、彼の存在論的差異の主張は「むしろ無こそが存在するのだ」ということを言わんとするものだった。
 さもなければ永遠不滅の存在とは異なるものとしての有限な個別的存在者が存在することはできなかっただろう。
 存在では無くて存在者が存在するとは、存在者に於いて非在が存在し、逆に存在は存在し無くなっているという事実上のことをいっているのであるに過ぎない。

 存在が存在するなら、存在は全てを塞いでただそれだけが一なるものとして在るだけである。
 存在だけが存在するとき、それはそれ以外の何も(つまり「存在」ではない如何なる「存在者」も)存在させない圧迫的かつ独占的な力となって作用するだろう。

 このパラドックスの故にパルメニデスは生成変化と運動を否定し、一種の無世界論に陥った。
 パルメニデスの言うような存在としての存在者、つまりあれやこれやの既に何者かであるような個々の存在者ではなく、その存在が存在以外の何者でもないようなまさにその〈存在者〉、存在自体がそっくりそのまま存在者と化してしまった恐怖の球体は必ずやその独立自存することにおいて排他的である。それは天上天下唯我独尊というように自閉的である。

 それは己れ以外の如何なる他者の存在も許容し得ず、万物を破壊し去った完全虚無のうちにしか実は有り得ない。
 レヴィナスはこの点に着目してそれを世界外存在と呼び、この孤独な「世界なき実存」がどのように恐ろしい自己閉塞の様相にあるのかを描いて、「存在」や「同一性」の哲学を批判している。
 無論その批判は直接にはハイデガー及びサルトルに向けられたものである。

 レヴィナスにとってハイデガーの非人称的存在もサルトルの非人称的意識も要するにパルメニデスの思考と存在の同一性の枠組みを出るものではなかった。
 それは自己同一性を絶対視して自分以外の存在をつまり「他者」を非存在に還元する(つまり殺す)暴力の哲学であると見られている。
 彼はこれに対して「汝殺す勿れ」という「他者」の倫理学を説くが、その際に強調されるのが「他者」の個別性と多数性と単独性を表す「顔」である。
 パルメニデスの非人称的で孤独な存在には顔がない。それは球体であって当然つるつるののっぺらぼうである。この抽象的な怪物をレヴィナスはフランス語の非人称構文において「……がある」を意味するイリヤ(il y a)と名付けている。

 ところが、別人においては、この非人称のイリヤが「他者」のもとに化けて出る。
 別人、それは、他者に憑依した、いわば一者のごとくに存在〔ぞんざい〕なものなのだ。
 別人は自己の不可能性であると同時に他者の不可能性である。

 別人は自己ではありえないがまた他者でもありえない。
 それは自己と他者の二重の不可能性である。

 だが問題はそれだけには留まらずより深刻な様相を呈する。

 別人はたんに自己や他者ではありえないだけではなくて、却って自己をありえないものにし他者をありえないものにする。
 それは自らを不可能化する不可能性(消極的不可能性)であるばかりではなく、他に襲い掛かって他を破壊的に不可能化する不可能性(積極的不可能性)である。
 単なる自己や他者の不可能性であるのではなくて、それは自己を自己たらしめている自性、他者を他者たらしめている他性を不可能化する不可能性である。

 別人は自己や他者といった存在者をその存在について存在論的に不可能にする不可能性ではない。
 別人の開示する自己や他者の不可能性は存在論的な不可能性であるのではなく、存在論の不可能性であり存在論の限界である。

 自己や他者が不可能になるのは、存在が不可能になるからではない。
 自己や他者は存在している。存在することが不可能になるのではない。
 自己であること・他者であることが不可能になるのである。

 たとえ存在していても存在とは異次元的に何かであることができなくなる、より切実にありえなくなるということが起こる。
 危機にさらされているのは自己や他者の事実における存在ではない。

 存在を危機にさらすものとして存在論が語り得る最大の危機とは存在者の死である。
 死は存在論的な意味における最悪の事態、存在論的悪であるに過ぎない。
 しかし死は最悪の事態ではない。
 死んでも死にきれぬことこそ最悪の事態である。

 死は人格性・個体性を破壊しない。
 それどころかそれに根拠を与え、それを完成するものである。

 逆に死んでも死にきれぬという恥ずべき事態に死に損なっているものは、存在を失うことなくその人格・個体性を破壊されている。
 別人はそのような超存在論的禍悪である。

 しかし存在論的視野はこの死よりも悪い別人の悪を単に愚かしく透明に見過ごしてしまう。

 別人は存在論にとっては透明人間に過ぎないので看過されてしまうのである。
 しかしそれは別人が存在論的に無意味だからではなくて存在論が無意味で無能な役立たずに過ぎないからである。

  *  *  *

 現実に死ぬというよりも悪い死、存在者の存在が死ぬのではなく、存在者が存在するがままに死んでいるという苦い死がある。
 その死こそが真の死であり、その死こそが死として問題にされなければならない。

 その死の本質は殺人である。
 人を生によって生きる者ではなく死によって生きる者に強制的に置き換える力がもたらす破壊は殺人としかいえない。

 知を愛すると慇懃無礼に謙遜する哲学が無知の知へと傲慢に開き直るとき、その哲学は無を知っており無を愛しているに過ぎないことが忽ちにして曝露される。

 その無ほど薄汚い雑巾はない。
 それは世界を美しくするどころか、黒く汚すだけのものだ。

 哲学者は往々にしてそのような愚かしい清掃夫である。
 その瞳は黒く汚い。
 無に、否定に黒く塗り潰されてしまっているので、ものがよく見えないのだ。

 無を愛するような者は何も愛していないのである。
 無を知っているような者は何も知っていはしないのである。

 常に心掛けていなければならないことがある。
 知を愛する者であろうとする以前に、愛を知る者でなければならない。
 愛を知ることは知を愛することよりも遥かに辛く厳しいことである。
 しかしそれを怠るならば、その者は己れの無知すらも言うほどには知り得ないことだろう。

 無や否定に潰れた目でものを見る者は単にその目が節穴であるだけではなくて、世界を無や否定の黒い空虚にえぐり取られた凄惨な節穴に変えようとしているのである。
 自分の目が潰れているだけではあきたらず、他人の目にも黒い無や否定の泥を押し付けてそれを潰そうとしているのである。

 しかし節穴によってものは決して見えないのだ、ものは澄み切った瞳にしかその美しい姿を見せない。
 人は思弁によってではなく澄んだ瞳を通して観照するのでなければ、ものの隠れない美しさを真には認識することはできないし、また、何が真の問題であるのかを洞察することはできない。

 世界は美しい。しかし、この美しい世界は狂ってもおり恐ろしい所でもある。
 多くの殺された死人が他者から人生を奪うために人生について根も葉もないことを説教して仲間を増やそうとしている。
 それが現実である。

 別人は別人を創るのだ。

 他人の節穴を通して自分を見てはならない。それは〈死〉を意味する。
 他人の節穴とは〈別人〉のことである。

 〈別人〉は〈他者〉ではない。却って〈他者〉を失わせるものである。
 それは猫のないニヤニヤ笑いのように、顔のない問いつめる眼差しであり、他者なき空なる他者性を漂わせる、恐ろしいものである。それは底無しの心の闇、そこには誰もいない鏡の空洞、万物の絶滅の果て、全き虚無に凍てついた絶対零度の宇宙の極北である。
そこに圧倒的に全てを滅ぼし破壊し去る限りもなく峻厳で冷酷な何かが聳え立つ。それを見る位なら死んだ方がましだという程にひどいもの、耐え難いもの、拒まねばならないもの、あってはならないもの、信じられないもの、けれど、それを決して無くすことはできない。あってはならないものがあり、いてはならないものがいる。

 別人がそこにいる。そこに、悪魔が立つ。

 別人というのは形而上学的悪魔である。
 それは他者に似て非なるものである。
 別人は実体的に存在しない。それは厳密に非存在者である。
 それは純粋に様相としてしかありえない怪物である。
 別人は〈欠自〉であると同時に〈欠他〉である。

 この決してありえないものは、しかし、それにも拘わらず自己と他者の存在に先立ってそれを黒い乗り越えられぬ壁で塞ぐ。

 哲学的には一般に、〈別人〉は非人称的で顔のない他者性だけの他者という風に極めてまだるっこしいわざと分かりにくくされているような言い方で規定されている。
 しかしこの言い方はよくない。他者と別人は類義語でも明白に意味が違っている。

 別人は他者の概念から理解することはできない。
 端的に誰でもない者を意味する別人は、誰かである者を意味する他者とは全く切り離された様相でしか考察できない。

 他者は自己に対立する概念である。
 これに対し別人は同一人物に対立する概念である。
 それは違う人という意味である。

 例えば英語には無を人格化したノーボディという架空の人物が存在している。
 別人もややこれに似ている。
 しかし無人と別人は同一人物とはいえない。
 無人は人に憑かないが、別人は人に憑くという妖怪学的相違点があるからである。
 そして別人は無人にさえ憑くという恐ろしい魔力をもっている。

 他者などというものは全く問題ではない。別人こそが問題である。
 別人は自他の間を横切るひとつの危機的な様相である。
 別人は自己でもなければ他者でもない。
 人間にとって根源的な人格様相は、世人でないのは勿論のことだが、自己でもなければ他者でもない。それはかの恐ろしきもの――別人である。
 別人とは何か。
 別人は「人を別ける」と書き、
 また「別れた人」とも読めることばだ。
 しかし、この「別れた人」は
 絶対的に別れた人であると同時に絶対的に別れられない人でもある。
 またこの「別れた人」は
 「分かれた人」とはなりえない「分からない人」であるともいえる。

 「分かれた人」は別人において分けられ、
 別人から分かれ出て、別人と別れて人と成る、
 つまりそれが「自分」であり、
 また多分、それに対応して
 「他分」とも言い得るものでもあろうような他者であり
 他人や赤の他人であり、見知らぬ人であり、
 身内の者であり、さまざまなわれわれ(割れ割れ)である。

 人はさまざまに割れて分化して人格化してゆく。

 人格というのは倫理的-道徳的な概念である以前に、
 言語的に分別された人称の様相のなかで
 まずもって発見されねばならぬ差異であり、
 言葉は悪いが、
 それなくしては人間世界がありえないような
 根源的で基礎的な「人種差別」である。

  *  *  *

 人称的世界は人格的世界を基盤づける
 さまざまに格付けされた様相的-美学的分節空間である。
 モダリティの次元はモラリティの次元に先立っているのである。

 主体はそこで根本的に対他関係として、
 つまり他者へのさまざまな距離の取り方として、
 対他的遠近法としてつくりだされている。

 一口に自他の分別といっても、
 この分別はその区別それ自体のなかに
 多くの距離の襞をつくるかたちで分節されている。

 自他の分別は〈間〉であり〈間柄〉であり
 〈間接性〉であり〈間の置き方・取り方〉である。

 それは単なる自他の認識論的切断の区別ではない。
 そのような区別はまさに単なる自他の間それ自体の切断であり、
 真空の差異であって、自他の関係性というのが全くありえないし、
 わたしは他者に全く話しかけるための言葉をもたない。

 他者は単に異なる存在者として
 わたしから識別されているだけであるなら、
 ものと同じであって、人間たりえていない。

 人を人たらしめるものは間である。
 間とは単なる物理的空間をいうのではなくて、
 豊かな情緒の空気に満たされた人間的空間のことをいう。
 間というのは関係性のことであって差異性のことではない。

 差異性というのは単なる内と外の区別でしかないもののことである。
 内部と外部、内面と外面、表面と裏面、深層と表層という
 差異の野蛮な二分法の包丁で
 粗野に知的に物事を割り切りすぎることには
 いつでも注意しなければならない。

 警戒を怠ると思考がよく陥りやすい虚無の陥穽に墜落することになる。

 深層と表層の間に断層を創ることは危険だし、
 内と外との間に遮断的な境界壁を創ることは
 真の世界を窒息死させることになりかねない。

 内部と外部は単に異なり違っているのではない。
 その間には不連続的差異あるいは不連続的距離があるのではない。
 内部と外部の間にはまさに間という中間のトポスがあるのであって、
 それが差異によって割り切られた傷を癒し、
 二つの川岸を橋渡す〈わたし〉という
 連続的差異または連続的距離を形成しているのだ。

 自他の人間的区別の差異は
 むしろ自他の関係性というべき
 非知覚的パースペクティヴをもつ尺度化された厚みのある空間なのである。

 自他の差異を異同の差異や内外の格差のような
 単なる差異と等置したりそれに基づいて考察するべきではない。

 内や外ではなくて、
 そのようには割り切ってしまえない間こそが重要なのだ。

 〈わたし〉というのは
 内と外とに単に分裂的に分割されている硬直的な球体ではない。
 〈わたし〉とは、
 自己(普通に主観とか意識主体とか自我とかいわれている自己存在者)
 ではなくて、
 自己と他者の間に成立する間主観性としての主体性=関係性なのであり、
 それは自己でもなければ他者でもない自他のさまざまな間柄、
 つまり〈わたし〉は〈あいだ〉なのである。

 間主観性という概念=用語は、間違えられてはならないので、
 はっきりと言っておかなければならない。

 これは共同主観性とか相互主観性とかとは全く異なる概念であり、
 むしろそのような共同性・相互性
 あるいは更に社会性とか
 安易に言われている関係性とかの
 たわごとめいた空疎な観念との混同を拒否しつつ
 痛烈に批判したいために提出されたものだ。

 間主観性はそれ自体が〈わたし〉なのである。
 それは実践的な概念である。

 それは自己と他者の共同体(われわれ)を
 〈わたし〉に先立つものとして前提していないし、
 また〈われわれ〉の共同性への内属や止揚をめざすものでもない。
 同時に自己と他者の相互関係を意味するものでもない。

 それは自己と他者をそれぞれ存在者として前提的に立てたうえで、
 自己と他者がどのようにお互いに
 規定しあったり関係しあったりするかという問題に
 間主観性の問題を置き換えてしまう。

 間主観性は自他の関係性であるとしても
 二つの主観の相互性の問題ではない。
 またそれは社会性や社会関係の側から規定されるべきではない。