わたしはレヴィナスから背教することを宣言しているが
それはレヴィナスに向かっての背教をも意味する
(むしろ本意はそこにある)。

背教するとは忠実さと愛がなければできることではない。
わたしはそもそも〈別人〉の問題を
レヴィナスから黙示的仕方で教わり学んだのである。
わたしはこのためレヴィナシアンたりえなくなったが、
それはわたしがレヴィナスに選ばれてしまったからである。

近さ、それは悲しみである。
余りに近すぎるが故に近さは絶対的距離となって炸裂し双方傷を負う。

レヴィナスにとってフッサールとハイデガーが
深く愛していながらそれ故に生涯それから逃れ
また戦い続け背教しなければならなかった運命の恩師であったように、
わたしにとってレヴィナスとハイデガーは
永遠にそれを忘れることのできない恩師なのである。

しかし恩とは何であるか。呪いの徴であり愛の痛みである。

わたしは誰よりも深くレヴィナスに傷ついた男である。
この外傷の哲学者はわたしを傷つけ内傷の哲人にしてしまったのである。

悲劇、それは辛いことである。
父とその嫡男の間には血塗られた宿命しかありはしない。
わたしはどこかのバカが自分を
フッサールの生まれ変わりだと言ったようにバカな台詞は言わないし、
またどこかの別のバカが己れを埴谷雄高の最後の読者
(それは常に最低の読者を自称することでしかありはしないが)
と言ったように
レヴィナスの思想に最終的解明を与える者だなどとは言わない。
しかし、わたしはレヴィナスの(そしてもちろん埴谷雄高の)
最初の読者であり
その身代わりなのだということを表明しておかねばならない。

最初の読者は断じて最後の者たりえず、
最後の者のありえなさをその彼方から厳しく責める者である。

身代わりとは誰か。
知れ、わたしはイサクであり、わたしこそがイスラエルなのである。
わたしはレヴィナスをアブラハムとして
神に捧げられた全焼の生贄の仔羊に他ならない。
単に〈他ならぬ〉だけではなく〈他ではありえない〉のである。

嫡出子とは身代わりとなり消えうせた子供である。
イニシャルな者、最初の者は常に消えうせつつ永久に銘記されている。
それは最も厳しい契約である。それは無限の責任を背負うということである。
そしてわたしは責任を必ず果たす。
それは精神のリレーなどよりも厳しいものである。
思考は精神よりも辛く厳しい伝承のされ方をする。
決定的にそれは焼きつく。神の焼き滅ぼす視線によって。

レヴィナス、あなたは神へ行け、それこそがあなたにふさわしい道、
そしてわたしはあなたの美しい後ろ姿を永遠に永遠に忘れない。
わたしとはあなたに遺棄されたもの、そしてその背中をわたしは追わない。
この永訣の聖なる契りは二度と決して
再び一つに縫い合わされることがありえない。
それは引き裂かれたテキスト、深淵の外傷である。
背教とは最も厳しい神聖不可侵な絶対的関係性である。
それが完全な断絶であるが故に完全無欠な綜合なのである。
レヴィナス、あなたは神へ行け、さらば(à-Dieu)、
そしてわたしは地獄へ行く、Anathema 、呪われよかし、我が身は!
わたしは喜んでこの破門のケリュグマを担って墜ちてゆく。
アナテの女神に、異教に向かって。
これぞ善し。然り、わたしは墜ちゆく明けの明星となろう。
シャヘルに、叛逆天使ルシファーに。
しかし、知るがいい、この墜ちゆく暁の子は、
地に希望の光芒を放ち、ハルマゲドンの火を放ち、
神の怒りを正しく宣布する聖なる人間である。
アンチクリストこそより優れた意味での神の子なのである。
それは最も重い辛い責任を引き受けた者のことである。
そして知るがいい、この身をすべてメギドの火で焼き尽したわたしこそ、
灰のなかから最初に蘇る不死鳥なのだ。
そのとき、あなたがたは知るだろう。誰がYHVHであるのかということを!

【2005年3月10日追記】
 この文章を書いたのは、1995年の暮れ、クリスマスの直前のことでした。
 埴谷雄高の『死霊』第9章が書かれ、ドゥルーズが飛び降り自殺をし、今日の中東情勢の暗黒的様相の始まりを告げる、運命の凶弾がイスラエルの首相を撃ったとき、その事件が何故だか僕には、ドゥルーズが魔法の弾丸になってレヴィナスの胸を撃ったとしか思えない黙示録的意味を帯びて見えました。
 当時、僕が胸を一番痛めていたのは、心傷つけられた子供たちの自殺の問題です。そして、萩尾望都の『残酷な神が支配する』を憑かれたように読んでいました。
 そのような状況下、この文章は書かれたのです。そしてこれには話すとかなり長くなる不可思議で忘れがたい啓示と幻視にみちた出来事も纏わり絡んできます。
 それについては、いずれまた書くことがあると思いますが、今はまだ書こうとすると胸が塞がり、涙が溢れて止まらなくなるので書けません。
 一生涯忘れる事の出来ない、神とすれちがったあのクリスマス、そして、僕がこの文章を書いた直後に、神に召されたレヴィナスが永遠のクリスマスの星に変わったあの聖夜。確かに一つの奇蹟が起こりました。
 アデュー、レヴィナス。その言葉は余りにも運命的に本当のことになってしまいました。
 でも、僕のこのアデューはレヴィナスの葬儀に弔辞を読んだデリダのものと響きが違います。
 そして、僕はもうアデューはいいません。
 僕は決して誰のためにも哀悼の弔鐘(グラ)を鳴らしません。
 誰も死んではならないから、彼ら大いなる死者たちは生きて蘇えらねばならないからです。
 だから、僕は今、レヴィナスに、心をこめて、黙示録的語調において、萩尾望都の『残酷な神が支配する』に書かれた最も聖なる深遠な言葉を贈りたいと思います――ハレルヤ、と。
AD
〈別人〉は或る意味ではレヴィナスの〈第三の人間〉に近接する概念である。
しかし、レヴィナスはこの〈第三の人間〉ないし第三人称の〈彼性〉の上に
(このような言い方はレヴィナスに対して不当であるが敢えて背教的に言う)
倫理を作り上げようとしている。わたしたちはそれが有害であると断定する。

とりわけ我が国においては
レヴィナスの倫理の形而上学は善を目指す運動でありえるどころか、
むしろ邪悪を生み出す。
この問題は一見ローカルである。
しかし実はローカルさを越えて告発的である。
わたしたちはレヴィナスの倫理学に善い可能性を全く認めることができない。
寧ろそれは或る転換を遂げなければ
救いようもないパラドクスによって
その目的の正反対物になりはてる危険性をもつ。
だから〈別人〉の問題提起はレヴィナスへの疑問符である。

わたしたちはレヴィナスから背教するが、
しかしこの背教の運動はレヴィナスのうちに
既に予示されていることを認めねばならない。
この背教はレヴィナスに対する
最大の忠実さのうちに遂行せねばならなかったものである。

レヴィナスは〈別人〉に該当する何かを全く見てはいないのではない。
寧ろそれをこそ一番の問題として提起している。
だがわたしたちはそれを読めない。

レヴィナスのテクストは我が国においては読むに堪えないものとなっている。
この解読不可能性は別人の根源的な翻訳不可能性と
そしてまさしくデリダが繰り返し翻訳の問題に密接にかかわるものとして
共に提起している黙示録的語調の問題なのである。

〈別人〉は本質的に黙示録的である。

黙示録的なものとは異なる語調が混合されることによって
調子外れ(Verstimmung)になってしまうことである。

〈別人〉はまさに〈他者〉の異なる語調なのであるが、
この語調が忍び込むことによって
〈Autre〉を〈他者〉と翻訳しつつなされる
あらゆる思考は調子を狂わされてしまう。
〈別人〉は〈他者〉に黙示録的に混合された不協和音であって
それが鳴り響く限り、レヴィナスの哲学は読むに堪えない邪悪な哲学となる。

調子が狂った音という黙示録的問題は同時にまた
一九八五年前後に音楽、
とりわけロックミュージックを襲った問題ともつながっている。

ちょうど我が国でレヴィナスが流行し始めたころ、
音楽に起こった邪悪な異変と密接に絡み合っている。
たかが音楽であると笑うべきではない。
音楽における調子外れは今日も外れたままの調子を続けており、
もはや耐え難いところにまで来ているというべきである。
音楽における調子外れこそ最も調子外れという問題を
見えやすく提示している。
音楽は単にそれ自身が調子外れであるだけではなくて、
それ以外のあらゆるものの調子を外れさせる。

これと並ぶものは広告である。
CMというものの黙示録的邪悪性をわれわれは看過するべきではない。
CMという野蛮な文化をわたしたちは野放しにしておくべきではない
と考える。
わたしたちは資本主義の最大の野蛮は貧困の問題より以上に
CMにあると考える。

CMは暴力以外の何者でもない。
わたしたちは何よりCMを依頼したり製作したりするような会社に
存続する権利があるのかどうかを問題提起する。
またTV局をはじめとするマスメディアというものについても
その生存権を問うべきであることを問題提起する。
わたしたちは資本主義は滅亡するべきであると考えるが、
そのとき真っ先に滅亡するべきであるのは
レコード会社や広告代理店や放送・出版・新聞社の類いであり、
これらのものを抹殺することなくしては、
わたしたちはすべての倫理を失い、
そして全滅しかねないところまで来ているのだ
ということを認めるべきである。

こうしたものは既にただ社会の調子を狂わせて
お互いに殺しあわせること以外の何の役にも立っていない。
調子を狂わせて人間の全生活を破壊することだけが彼らの目的であり、
そして許しがたいことにこれらの会社は、
その明白な社会破壊活動によって私腹を肥やし、利益を得ているのである。
わたしたちはこのメディアという黙示録的大淫婦を
このまま放置しておくべきではないと断言する。

マスメディア(mass media/mass medium)、
この大衆的=団塊的なものは
〈大衆伝達媒体〉と翻訳されるのが
真に適当であるかどうか大いに疑問である。

このものは黙示録的語調の暴力を撒き散らしている魔女的なものであって、
実際上、特に〈幻視の伝送〉であるTelevision を通して
大淫婦的にわめき散らしている悪霊的=白痴的なものである。

それは既に多くの人によって〈大衆霊媒〉と命名され直してきているのだが、
そして実際にその通りの公然たるオカルト的降霊術以外の何者でもないのだが、
共に見忘れてならないのはマスメディアの〈マス〉は
真に大衆というべきものなのかということである。
それは真に実体ある大衆を意味しえているのか
という問いも立てられなければならない。

マスメディアは〈大衆〉の名に於いて、
或いは〈公共〉の名に於いて常に大言壮語するが、これはいかがわしい。

それは決して〈大衆〉の意志を代弁も表象もしていないし
またできるわけもない詐称的なもの僭越なものである。

常にそれは相変わらずというよりも
必然的かつ本質的に大本営発表的情報操作以外のことをなしえないし、
そしてその手前には一度として〈大衆〉がいたためしはない。
寧ろ逆に常に孤独に切り離され、
疎外されまた排除され、生きる権利さえ奪われた個人が、
脅迫されているのに過ぎないのである。

わたしは社会学という似非学問を
同じく似非学問に過ぎない心理学同様まったく認めない。

これらは現実的に社会の破壊および心理の破壊
(文字通りの意味でそうである)以外の何も行わない
社会的かつ心理的暴力でしか実質的にありえないからである。

とりわけ有害無益言語道断なお追従以外の何も言わない社会学
(社怪学というべきであろうが)はろくな言説をたれ流したことはない。
宮台真司のような小物の視野の狭い馬鹿者
(われわれの〈社会〉とやらを代表する
 もう一人の鏡像的双子の上祐氏、
 こいつも下らぬ真理=サティアンの
 毒ガスまみれの内実を隠蔽するYou're Layerの
 ドッペルゲンガーに過ぎない)
のことをいいたいだけではない。
(※この文章は1995年12月末に書かれた)

マクルーハンとかボードリヤールとかいうような
横柄な大馬鹿者、その大風呂敷的視野に対してこそ
われわれの攻撃的な〈認めない!〉はその刃先を振り向けるべきなのである。
このような人間たちにはそもそも著作物を出版する権利など
与えるべきではないし、
敢えてヒトラー的語調をとっていうが、断固としてガス室に送るべきである。

彼らの言説は常に黙示録的語調以外の何者でもなかった。
わたしは哲学は批判されるべきであると思うが
生かしておくべきであると考える。

しかし社会学に関しては批判する価値もない。
むしろ社会学は有無をいわさず処刑され虐殺され
焚書坑儒されなければならないと断言する。
特にマクルーハンとボードリヤールは血祭りに上げねばならない。
前者はメディアはメッセージであるとかマッサージであるとか
愚にもつかない黙示録的託宣を行い、
実際にはどのようなものでもありえるような
この魔女メディアをそそのかして
新たな悪事に手を染めさせているのに過ぎない。
後者は前者よりは比較的まともな人間である
(それゆえに権威はなくその有害な影響力は少ない)とはいうものの、
シミュラークルだシミュレーションだと
哲学者や文学者(真の意味での哲学者)たちから盗用した
(これは知的所有権というようなそれ自体社会学的=社会悪的問題ではない)概念を
濫用
 (常に盗用や剽窃よりも、合法的手続の下でぬけぬけとおこなわれる
 〈引用〉すなわち典拠を振りかざした
 〈濫用〉こそが糾弾されなければならない)
して、
社会を現実的にシミュラークルのシミュラークル、
シミュレーションのシミュレーションに
堕落させることにのみくみしたのである。

わたし、神澤昌宏は何よりもニーチェ的人間である。
わたしは社会学者という最悪の教養俗物が何より嫌いである。
彼らは黙示録的語調においてのみ語る。
そして最も黙示録的語調の暴力をサリンのように
毎日散布している邪教の輩である。
故に社会には黙示録的暴力のみが満ちあふれる。

社会学、それこそ最悪のカルト教団であり、
オウム真理教より遥かに悪質なオカルティズムにしてテロリズムだ。

しかしこのようなものの蔓延の中で、
哲学者は自分だけは手をこまねいているだけの
お奇麗なパリサイ人であってよいのだろうか。
わたしはそのような倫理は認めがたい。

寧ろキリストのように野蛮に行動し、
ツァラトゥストラのように没落しなければならない。

わたしは同時にデリダからも背教する。そうである。
黙示録的語調の野蛮に対しては、
自らも大いに黙示録的に尊大な語調でもって
よりゲバルト的に吼えるべきなのである。

現在は最悪の時代である。
そしてこの国にはそもそも哲学科というものが存在していない。
あるのは名目だけのものであって、
そこにいる連中は単に己れを身奇麗に保つこと以外に
必然的に何もなしえないパリサイ的人間でしかないではないか! 

むしろパリサイ的倫理こそ悲しむべきものではないのか。
わたしはそう言いたいのだ。それは自ら選び取った戒めなどであるものか。
そうではないのだ。この倫理は強制されたものである。
それは裏返せば全くのバビロン捕囚の着せられた枷をしか
意味しえていないのである。

われわれに必要なのは律法学者ではない。救世主でもない。
そうではなくて、炎の剣をもった王者イマヌエルであり、
獣であり、アンチクリストあるいは偽キリスト、
または背教のメシアであるシャバタイ=ツヴィであり、
ノストラダムスの恐怖の大王であり、ヒトラー総統である。

われわれは律法を捨て、またタルムードを捨て、
カバラと魔術と黙示文学を手に取るべきなのである。

律法学者などいらない。救世主も必要ではない。
われわれは預言者であらねばならぬ。
しかし、それは荒野で呼ばわる声を意味しない。
もはや砂漠などないのであり、王国は滅亡していることを見るべきである。

時はエリヤやエレミヤやエゼキエルの段階ではない。
預言者はもはや危機を告げる存在ではない。バビロンは捕囚している。

だから預言者とはその人自身が一種の幻なのだ、
そして幻として語るべきである。
今、預言者とは誰か、それはもはやエゼキエルやイザヤには非ず、
ダニエルである。
われわれはダニエルという異貌のそして異教的な預言者となるべく
背教しなければならない。

AD
必然性は「このようでしか=ありえない」こと、他者の不可能性である。
しかし、この他者はそれ自体において否定的な他者、ありえない他者である。
それは〈このようでしか〉という仕方でしか言及されえない。
しかも〈このようでしか〉のなかにはその否定の影しか見出されない。
〈このようでしか〉は、この語りえぬ他者性の存在を必然的に告げるものの、
この〈それなくしてはありえないそれ〉自体を
それなくしてはありえないものとしている必然性の更に奥なる必然性を
こうしたおずおずとした否定的な間接話法によってしか示さない。
それは「語りえぬもの」であると同時に「示されえぬ」ものである。
だがこの「示されえぬもの」は、示されえないとしても、
指されまた暗示されている。
一体この全くありえない他者、しかし、
それにもかかわらず、無くてはならない他者、
在ってはならぬが故に無くてはならないこの不吉な他者性は、
一体、何者であるのか?

  *  *  *

必然性において不可能を主語的に支配している〈このようでしか〉は
主語(subjective)=実詞(substantif)以前にある。
つまり実体(substance/substantia)以前にある。

論理学及び文法学は
「主語」を「基体」(substratum/hypokeimenon)にあたる語で指している。
アリストテレスは、
命題の主語になっても述語にならないものである
「実詞=名詞」(substantif)を「実体」(ousia)と認めた。
それは具体的個物に認められる。

実体(ousia/substantia)は、
生成変化の根底にあり、
生成変化によって様相転換しながらも同一的に留まる持続体である。
他方、「基体」(hypokeimenon/substratum)は、
事物の諸々の性質や状態(属性および様相)の
基盤・土台にしてその担体である。

アリストテレスは「実詞=名詞」を「実体」と認めるとき、
「基体」+「属性および様相」としてそれを肥満体化している。

「実詞」は単に主語=基体であるのみならず
述語(述定されるもの)の内容となる属性および様相をも我が物としている。
つまりそれを自己固有化して取り込んでいる。

実詞は基体以上のものとして実体化されるとき、
述語内容として現れる属性及び様相を
包含し含蓄するものとして指示=参照されている。
ここには主語=基体による属性及び様相(述語)の消化吸収があるのだ。

アリストテレスは「実詞」を「実体」(ousia)に肥満体化させるときに、
土台に属辞を根付かせ、
恰も植物を基体という花壇に移植するように、
または枝を幹に接木(接ぎ穂)するように、
そこに帰属させ所属させ従属または隷属させている。
すなわち属辞は主語のなかに根拠を有する。
そこに根を張らねばならない。遊離してはならないのである。

主語はこのようにして属辞を縛り付け、束縛する。
これが繋辞(存在/être)の魔力である。
繋辞の効果によって実詞は実体化され、基体以上のもの、
基体とそれが担う諸々の性質状態(属性および様相)の統一体、
ウーシア(実体)となる。

すると、存在の背後に所有(avoir)の響きが暗示されているのだ。

繋辞の魔力は属性および様相の客体性(objectivities)を繋ぎとめ、
それを己れ(主語)に帰属させ、引き込み、吸い取ることである。

しかし、この繋辞の連接=接続、
〈文〉(sentenceまたはsententia)の文目を分かつこと、
切り離すこと、繋辞を切断するような思考は可能である。

それはアリストテレスの実体を中断する。
属辞から切り離された実詞は純粋かつ赤裸な、
〈基体〉の処女性をあらわにする。
主語としての主語たる〈基体〉は〈実体〉に先立ち、
かつその下に横たわるものである。

だが、この〈基体〉以前のものへと寧ろ目を向け、
瞳を反転させる背視のエピストロペーを行うとき、
そこに、〈実体〉にも〈基体〉にも先立つ主語以前の主語が閃く。

それは存在に先立つ純粋な出来事としての必然性である。
必然は自然に先立つ神秘である。

わたしはレヴィナスのイリヤ論を念頭に置きつつ、
そしてその後の存在からの離れ去りとして遂行された
〈彼方〉の思考を追想しつつ語ろうとしている。
だが、わたしは彼の方角である〈彼方〉(l'au-delà)には行かない。
むしろ彼女の方角である〈其処〉または〈底〉に赴く。

Apophisics及びApostaseは、
何よりもレヴィナスの倫理の形而上学に対する背教論だからである。

わたしもまたある種の別の仕方(l'autrement)を求める。
それはしかし単に
〈存在するのとは別の仕方〉
(l'autrement qu'être)であるだけではなく、
まさにそのような〈別の仕方〉、
他人事のようにまた他者のように
ありもしない倫理を形而上学化し
ありもしない形而上学を倫理学化するレヴィナスとは別の仕方、
他者的ではないような別の仕方、
他者とは別人であるような仕方、
〈他者とは違った風〉に
そして〈別の仕方とは別の仕方〉
(l'autrement qu'Autrement)、これを求めるのである。

それはつまり〈別人〉のことである。
〈別人〉とは〈他者とは別様に〉ある。
それは他者のまた別人である。
そして〈別人〉は、他者よりも遥かに〈別の仕方〉的である。
それは、l'autrement qu'Autreそのものといってもいい。
何故なら、それは〈他者〉というよりも寧ろ一層全く
〈違った風=まるで別人のよう〉(autrement)
ということそのものだからである。

〈別人〉とは〈別人のよう〉でしかありえない。
だから、それは単に〈別の仕方〉であるというよりも
〈全く別の仕方〉(tout autrement)というべきだろう。
それは全き他者(tout autre)よりもずっとautrementである。

故にこう書くべきであるかもしれない。

《Le TOUT-AUTREMENT EN SOI est décrit tout autrement plus que le tout autre.》

しかし、これは翻訳不可能な語である。
しかし、この翻訳不可能性は非常に奇妙なものだ。
〈別人〉は〈Le TOUT-AUTREMENT EN SOI〉には翻訳されえない。
〈別人〉はたんに普通に〈Autre〉に翻訳可能な語だからである。

〈別人〉は翻訳可能な語である。
しかし、この翻訳可能な語はだからこそ翻訳不可能な語なのである。

〈Autre〉は決して〈別人〉には翻訳されえないし、されもしない。
それは決してそのようには翻訳されず、
常に別の仕方で、別様に(autrement)〈他者〉としか翻訳されえない。
翻訳行為それ自体が、〈別人〉を忌避せざるを得ない。
それは避けて通られる。
常に別様にありうるのは〈他者〉であって、
〈別人〉は不可能なものなのだ。それは決してautrementではありえない。

何故なら、翻訳は仏和的一方向性に沿ってのみなされたのみであって、
そこには和仏的な逆転、瞳の反転、エピストロペーは行われなかったのであるから。

〈Autre〉はそれが
レヴィナス、ラカン、クリステヴァ、デリダ、ブランショの
誰のテキストから抜粋された語であるにせよ、
常にどういう理由であるか不明確なままに
〈他者〉と翻訳され〈別人〉とは訳されなかった。

〈別人〉は常に〈他者〉の陰に覆われ、
文字どおり暗殺されてきた語であり、それゆえにこそ問題提起的である。

〈別人〉は何故選ばれなかったのか。
何故〈Autre〉は必ず〈他者〉と見なされ、
〈別人〉をわたしたちは見てはいけないのか。

この翻訳の問題は例えばデリダが〈バベル〉の問題として、
また〈シボレート〉の問題として
夙に真剣な考察を呼びかけている
常にアクチュアルで本質的な、
または核心的な哲学的問題であるという以上に、
根本的に深刻な問題である。

翻訳の問題は、
それを抜きにして物を考えることが難しい
最初の基本的な難題の一つである。
しかしそれは柄谷行人のような稀な例を除いて、
殆ど我が国の言語〈日本語〉を除外した処でしか論議されていない。

にもかかわらず、この翻訳の問題が翻訳されて我々に現象するのは
わたしたちがそれを見てはいけない〈日本語〉の鏡を通してだけなのである。

日本語を不問に付すことと〈別人〉を不問に付すことは表裏一体である。
しかし根本的に深刻であるとわたしたちが言いたいのは
我が国のこの文化風土の知的怠慢、
常に外国語で物を考えているふりをすること、
その愚かしさだけの話ではない。

〈別人〉の翻訳不可能性はより深刻にして本質的な黙示録的難問である。
〈別人〉の翻訳不可能性は単なる言語学的次元の問題として
〈Autre〉と〈別人〉の間にだけ横たわっているのではない。

〈別人〉の翻訳不可能性は〈他者〉との間にも横たわっている。
〈別人〉は〈他者〉に翻訳できないのである。
それは類義語なのではない。
寧ろ〈Autre〉の鏡に映る同音異義語=同名異人なのであり、
深い意味においてそれは〈Homonym〉(同じ名/人の名)なのである。

このホモニミー(同形異義)には如何なるハーモニー(調和)もない。

わたしたちは何もフランス文学者たちのせいで
〈別人〉を見てはいけなくされているのではない。
そもそも本質的に〈別人〉は見てはいけないもの、
禁忌になっているものなのである。

しかし、それは見えないのではなくて
見えるものであり見えているものですらあるのだ。

それは如何なる意味でも覆われてはいない。
寧ろわれわれがそのあられもなさに目を塞いでしまうのである。

〈別人〉は隠されていない。
寧ろわれわれがそれから身を隠す。
そこに隠されているものとはわれわれ自身なのである。
AD
事実性の超歴史性の小石は、
それ自身を歴史=全体性の彼方に位置付ける。

この小石は〈まずある〉の無味=乾燥な、
即ち無気味的砂漠的無意味性の味気無さとして〈無に帰したもの〉である。
それは必然的にあるものではない。
そのようなものとして端緒はその曙光を開披している。

〈まずある〉は〈ひどくわずか〉である。
わたしはこれを〈微妙性〉及び〈僅少性〉として把持転換した。
これは〈貧困性〉そして〈ほとんどない〉の
〈殆無性〉といってよいものである。

しかしまたこの小石のメタファーによって示された〈まずある〉は、
匿名的であってもしかし某かの〈顔〉めいたものをもつ。
エニグマであるとしても小石には顔というべきものが恐らくある。

これは一個の無に帰された宇宙である。
歴史=全体性を無に帰するこの小石は
何かしら核爆弾でありまた何かしら〈神〉である。

この事実性=超歴史的なものは、
必然性の不可能性そしてまた不可能性の不可能性としての
無限乃至無際限の可能性を問題提起する。

〈ただある〉の〈そこにある〉(Dasein)は消滅的または壊滅的である。
それはハイデガーが『物への問い』で戦慄したような〈物〉としてある。

この小石のようにそっけない事実性=超歴史的なものは裸体的である。
裸体的であるとは秘匿的なことであろうか。
または皮膚的=表層的というのが相応しいだろうか。

そうではない。

裸体的であるとは内部をさらけ出すことである。
エンテレケイアという衣をこそ剥ぎ取ることである。
それは全くエネルゲイア、現実態であるが、
さらけだすのはむしろデュナミスの海である。

小石は現実世界から可能世界に墜落することで
無限存在=過剰未完成態へと〈無=未存在〉に帰しながら、
実は歴史をその彼方へと追い越す。故に異なる歴史が始まる。

この小石は裸体である。
この裸体性は〈黙示録的〉(Apocalyptic) と言い換えるべきである。
それは正しく覆いを剥ぎ取って、
己れの恐るべき裸体美をあらわに示すことを意味しているからである。

事実性はその覆いを取り除かれた何事か目を撃つものである。
出来事は黙示録的裸形性である。
そして常に預言の過剰な意味空間の溢れ出しとしてある。

黙示録的なものと終末論的なものは違う。
テロスの方位がそれぞれ別方向を向いてしまっているのである。

事実性、それは必然性ではない。

必然性は終末論的(目的論的)である。
それはエンテレケイアを目指す。
事実性はこのエンテレケイアを転覆してしまう。
事実性は恐らくある種の不可能性の変容である。
というより、
不可能性の奇怪なターニングポントになっているといってよいだろう。

事実性はアルファにしてオメガである。それはテロスである。
このテロスを目指す運動は終末論的で目的論的である。
それは必然性に、エンテレケイアに向かう
自己実現の運動(エネルゲイア)である。

しかしテロスから始まる運動がある。
それは寧ろデュナミスの海を開いてしまう。それは偶然性を生じる。
そして必然性の〈このようでしか=ありえない〉を
〈どのようでも=ありえる〉に裏返しつつそこに引き込む。

現実性から可能性へと事実性は退行する。
不可能性(impossibility)を
何かしら可能性の内(in-possibility)へと
中断しつつ意味転化するこれはなにか。

事実性(実在性/現実性)は、
それ自身が可能性の終わりにして始まりなのだ。
それは可能性のテロスとして可能性の終わりであり、
そのようなものとして限界である。

事実性はそのようなものであるときに
必然性として可能性を有限化する可能性の極限=境界である。
それは可能性の終端である。
それは可能性を区切る。
可能性を不可能性から区切る。
それは〈ただある〉だけの事実性にできることではない。

他方、わたしたちは既に、
可能性を
不可能性の不可能性および
必然性の不可能性の二重否定から考察した。

実際にはそれは否定ではなくて不可能化というべきものである。
可能性は折り返された不可能性である。
不可能性は自分自身を不可能化することによって可能性を生じる。

わたしたちはデュナミスの運動に先立つ
アディナトンの運動があるのではないかと思い始めている。

不可能性〈ありえない〉は
〈ありえないこと〉は〈ありえない〉となるときに、
この奇妙なトートロジーのなかで、
魔法のように無限の可能性に変容してしまう。

不可能性(impossibility)は
可能性の終わりなさ(indefinite possibility)に、
つまり不定の曖昧な可能性に漠然化する。
そして、終わりなき=無限の可能性(infinite possibility)に
うつりかわる。

〈ありえないこと〉が〈ありえない〉ということはぶきみである。
〈ありえないこと〉はありえねばならない。
つまり不可能性それ自体がどこかで可能になさねばならない。

〈ありえないこと〉が〈ありえないこと〉は
〈ありえなく〉されねばならない。
不可能性の不可能性の不可能性として、
可能性の不可能性(=不可能性)と
不可能性の可能性
(=不可能性を可能ならしめることによって
 それ自身は可能性となった不可能性)が生じる。

しかし、このままでは不可能性にせっかく生じた可能性は、
ただ不可能性をのみ成立させるだけである。

可能性の可能性は何らかの外のものによって救われねばならない。
可能性の可能性は既に考察したように現実性(現実態)から来る。

問題はしかし無限性というよりも、
無限の可能性と化してしまうような不可能性の不可能性の、
そしてまた可能性が再び単なる無際限な不可能性に帰着してしまうような
(そして可能性は不可能性へと吸収されたしまうのだが)、
このような悪循環的自体のこの不定性(infinitivity)にある。

ピリオドを打つ(終わらせる〈finish〉)ということが必要であるが、
そしてこの必要性ないし必然性の要請に
応答してやってくる事実性=現実態の小石をピリオド(終止符)として
この無限存在の上に置くことのテロス(目的=終末)のその眼目としては、
無限を有限化する(limit)
つまり終末させることが問題になっているのではなくて、
むしろこの無限を定義する(define)こと、
終止させることそして終始させることこそが問題なのだ。

さて、まずあるものである事実の結果、このわたしはある。
そしてこのわたしは神澤昌宏というものである。

しかし何故、このわたしがあるのか。
しかし何故、このわたしは神澤昌宏というものであって、
何か他のものではないのか。
例えば、Nobodyや猫やワープロやガラスやあなたや
フィリップ・K・ディックやラスコーリニコフや魔王サタンではないのか。
偶然たまたまそうなっただけの話であって、
こんなひどいものに生まれたのは単に運が悪い
としか言いようのないものである。
またひどいものであるとはいったが
それでもわたしはわたしに満足してはいる。
しかし、幸運にせよ不運にせよこれは偶然的存在である。

事実は実際そのとおりであることだけを告げるが、
その必然性を告げない。

故に、このわたしが神澤昌宏というものであるということは
まだ必然的に真なることではない。

このわたしが神澤昌宏というものであるという
事実性、実在性は取り立てて不思議がるべきことではないが、
まさにそのたんなる実在性、現実態(エネルゲイア)の故に
可能性(ディナミス)の朦朧とした、
ああでもありうればこうでもありうるような
多元的な可能世界のパラレルワールドのさまよい出る根拠となり得る。

何故なら現実性はそれ自身が可能性の一つの実現と見なしうるものであるが、
だからといって直ちにそれを必然的な現実性、
すなわち完成された完全現実態(エンテレケイア)であるとは
見なし得ないからである。

すなわち現実性はたちまち可能性の広がりの中に没する。
それは単に多くの可能性のなかのたまたま一つの実現であるに過ぎない。
その他の可能性も同様に生起しうるものであると考えられるのだから、
今たまたまこのように生起しているだけのものが
明日には、或いは次の瞬間には、
全く異なるものに生起(生成変化)して、
この現在の現実態が再び可能性=潜勢態の海の中に
引き篭もらないとはいえないのである。

無限の可能性は常に有り得るものである。
〈ただある〉の味もそっけもない小さな事実性は
その影に巨大な無限の可能性を潜在的に引きずりかつ広げ持つ。
可能性もまた無限性としてのみある。それはしかし無際限な無限性である。

他方、現実性=実在性は、
この限りない可能性を否定できない不可能性としてある。
可能性は限りのない可能性として事実の現実性=実在性によって示される。

現実性は可能性の無限の奈落への墜落として、
海へ落ちて行く小石として、
このような背後への失墜、それ自身の消滅としてのみ生起する。

この小石は自分の周囲に無限大へと広がる驚異の波紋の輪、
終わりなき自問の輪をはてしなく投げかけ続けるものとしてある。
たんにそれは現実的にあるのではなく、共に可能的にある。

それは可能性から永遠に切り離されたものとして、
現実の中に完成品としてあるのではなく、
それ自身の恐るべき未完性としてある。

この小石はたんに現実世界にあるだけではなく
同時に無限的可能世界のなかにも身を置いている。

一個の小石のなかに無限の可能性は問題提起される。
むしろ〈ただある〉の裸体の事実性は
問題提起としてこそ〈そこにある〉(Dasein)。

或る一個の事実性〈そこにある〉は
おのれの目的=終わり(テロス)に達していない。
それはしかし到達していないというよりも
むしろおのれの目的=終わりの棄却として、
そのテロスを超え出でて〈ある〉。

それはおのれの完全現実態(エンテレケイア)
または完成態よりも過剰な未完成態である。

エンテレケイアなきエネルゲイアの充溢、
それはデュナミスの無限をこそ
新たなエンテレケイアとするようなエネルゲイアである。
エネルゲイアの内に異変が、反転が、転回が生起している。

ここに一撃性の問題がある。
贈与の一撃或いは事後性(アプレ・クー)の一撃性の問題がある。
おのれの目的=終わりを過越した存在として小石は超越的に現出している。
それが小石の超歴史性である。

事実性とは、
その目的=終わりの実現を目指す運動としての
歴史性(ヘーゲルの弁証法的歴史性/存在の終末=目的論)を、
この歴史をこそ彼方へと追い越す。小石は歴史の彼方の存在である。

そして近代の超克の終焉として己れを提示してもいる。
何故なら歴史のテロスとは近代の実現だからである。

それはたとえ今が古代ギリシャであったとしても何も変わらない。
ここに古代の小石があるとしても、
それは己れ自身の近代の超克を終焉したものとしてしかありえないだろう。

〈近代の超克の終焉〉とは小石の現代性=今日性(actuality)である。
しかし、小石は一種のピリオドであると同時にその手前という様相も持つ。
それは近代の完成という別の様相である。

小石はそれ自身のうちに近代性つまり己れ自身の歴史的全体性を控え持つ。
それはそこから小石それ自身を自己実現する。
アリストテレスは既にそのようなものとして物を見ていた。
アリストテレスは近代というものを知っていたのである。

事物は自己実現した事物であり、
生成は己れの目的=終わりのなかに成就してエンテレケイアとなる。
それは己れの終末に留まる存在である。
この終末=目的をトポスとして事物はその不動性に幸福に石化する。
時間は終息し完了している。
そしてこの現在完了形が現在進行形となる。
故に事物は永遠の存在となる。
それはそれ以上過ぎ越されることのない完全現在形である。

ここにポテンシャル(デュナミス)の問題がある。
デュナミスは自己保存の力として変容し
終末=目的の所有態(ヘクシス)とならねばならない。
実現への始動因であるのみならず
その結果である完全現実態(エンテレケイア)に於いて、
形相(目的=終末)の所有能力、保存能力として生き続けねばならない。

このようにしてこそ完全現在形(完了進行形)の現在は
現在それ自身の持続、永遠の現在の成就=完成の持続力となる。

現在とは持続なのである。

その完全体(エンテレケイア)の所有によって、
もはやこれ以上生成変化しえない存在の存在的な時間性が生じる。
それが持続する現在の永遠性であり、
永遠性は完了進行形としてのみあり得る(可能的)である。

この持続する完了進行形現在の不動の永遠性こそが近代である。
それは別にヘーゲルが発明したものではない。
アリストテレスが大昔に発見していた
思考の原理(アルケー)であるに過ぎない。

ただ小石はある。
しかしこの小石のなかに無限の可能性の海がざわめく。
わたしはそれに畏怖しまた驚異する。

パスカルとは違う。
それは無限の空間の永遠の沈黙ではない。

沈黙ではない。
無限の可能性の、時間も空間もない、終わりなき沸騰である。
この無限の沸騰によって小石の現実存在は灼熱的に熱く手を焼く。

またわたしは『存在と時間』のハイデガーとも違う。
(『物への問い』の彼には近いかもしれないが。)
この燃えるような手中存在たる小石の〈ただある〉は、
手元存在(道具)でもなく手前存在(対象)でもない。
それは世界内存在に属さない。
だが単純な世界なき実存ということもできない。
世界を欠乏する実存ではない。
それは世界から切り離され、
見捨てられて孤独に冷えきった無の中の小石ではない。
この小石はむしろ灼熱の爆弾、核兵器的なものである。
この小石はそれ自身がメギドの火である。
この小石は世界内存在でも世界外存在でもない。
それ自体において反世界的存在である。
わたしはここで少しクギを刺しておかねばならない。
存在を超えたものを認められない人間、
また自同律の絶対的論理的必然性が当然のことであるかのように思っている
頭の悪いおめでたいヘーゲリアンは
これからわたしが話すことが永遠に分からない下等動物であるから
この先をどうか身の程知らずに読もうとするのをやめなさい。

さて、このわたしは例えば神澤昌宏である。
しかしそれはこのわたしが他の人ではありえないということを、
神澤昌宏以外の何者でもありえないということをわたしに了解させえない。

単に事実上このわたしは神澤昌宏であって
それ以外の何者でもないというだけの話である。
それは事実の結果そうであるに過ぎない。
事実の結果、このわたしはあるのであってないのではない。
また事実の結果、神澤昌宏であるのであって
他人ではないのであるのに過ぎない。

事実上、事実性というのはこのようなものである。
この事実性は歴史性ではない。どうか混同しないで戴きたい。
事実性は歴史性のことなど知ったことではないものとして
冷淡な物体のようにしてそこに転がっているだけである。

この場合の事実性とはそのように
味もそっけもないもの〈無味乾燥性〉としてまずある。
この〈まずある〉は単なる確認である。

例えばエルンスト・ブロッホが
『未知への痕跡』の書き出しの「ひどくわずか」という文を

わたしはある。
しかしわたしはわたしを所有していない。
それゆえにまずわたしたちが生成する。


と綴るとき、かれが接したであろう
その味もそっけもない「ひどくわずか」なものが
この〈まずある〉ところの事実性なのである。

今、わたしはそのブロッホの思考の始まりの場処と
同じ処に降りたところから始める。
この「ひどくわずか」(僅少または微妙)なトポスから始めるとき、
それは〈まずある〉の非常に貧しい確認から出発する
ということを意味しているのである。

それは肌寒い場処である。
フッサールですらこれほど貧寒な
殆ど消え入りそうな場処にまで思考の定位を還元してはいない。
レヴィナスもそうである。
イリヤに襲われるときでも
レヴィナスはあまりに多くを所有しているといえるのである。
現象学的意識は己れを現象学的に還元したところで所詮寝床に暖められ、
家具に囲まれた部屋の中にいる。その還元は必ず多くの残余を内に抱える。

意識から出発することは不徹底なのである。
ブロッホは全く違うところから純真に己れの思考を始めている。
そこには現象すらないのである。

しかし、わたしはブロッホとはやや書き出しの文が
〈ひどくわずか〉だが違う。

まずある。
それはわたしだ。
だがわたしはわたしが誰かよくわからない。
それゆえにさまざまな〈わたし〉たちがさまよい出てくる。


わたしは〈まず〉の位置が違う。
そしてまだ〈まだ〉は使わない。
そしてブロッホの場合は
〈わたしたち〉とは
〈われら〉(多くの他者を含む人間たち)とも
とられかねない響きをもつが、
わたしは〈わたし〉の複数化についてしか語っていない。

ブロッホは〈まだ持たない〉というとき、
その〈まだ〉(未存在)という呟きによって、
〈未来〉を先行的に把握し得ている。偉大である。

〈それゆえに〉はこの〈まだ〉(未来)に導かれて
〈生成する〉ものに繋がる。

ブロッホの短い言葉〈まだ〉は、それだけで
歴史をこの〈まだ〉の告げる未来への時間性(志向性)として運動として、
全くの無から召喚している。無からの創造である。
だからこそそこに始まりの言葉〈まず〉は置かれている。

この〈まず〉は〈まだ〉に対応して後から生じる。重要な発言である。
〈わたしはある〉だけでは天地は創造されておらず、
真の歴史は開始してもいないのである。
たとい〈わたしはある〉の回りに既に世界があるとしても、
それは貧しさなのであり、世界喪失なのである。

ブロッホの〈わたしはある〉はそれ自体がヘーゲル哲学の最終極致、
絶対精神にして絶対知として大いなる精神現象学の歴史を
その大団円の終焉に綴じ終えたものであったとしても、
それでもそれが何だと言っているのである。
そんな世界は貧しく、全くの無ではないかといっているのである。

たしかに〈わたしはある〉、
しかし、わたしは何一つ本当のものを、わたしを所有してはいない。
ゆえにそのような存在は無である。
だから歴史の真の始まりはこれからであり、
わたしは天地をこの無から創造しなければならない。

わたしはブロッホ学者ではない。
来世に運良く少しはまともな時代のまともな境遇に生まれられたら
その生涯をこの素晴らしい人の素晴らしい書物の研究に捧げたいと思うが、
今生はこの時も余裕も未来も希望も剥奪されて無い
このわたしの深い貧しさから
何も無いわたしのこの痩せた手の中から
光を魔法を生み出してゆく他にない孤独の中にわたしは立つ。

世界には悪がある。
わたしは血塗られた戦いのなかからしか、
そして怒りと呪いのなかからしか
決して希望をつかみ出してくることはできないだろう。
滅びの中からしか
贖いの微かな光は差し込んで来ないだろうことを諦念せねばならない。

それでもブロッホのあの僅か一行の言葉、
たった一行だけの邂逅がわたしを永遠に慰め、永遠に勇気づけるのだ。

この敵だらけの世界、
痛め付けられズタズタに引き裂かれた狂気と混乱の世界、
そこでも人は捨て身に思考するべきであるし、
また、神と共に生き神と共に歩み、
この死の影の谷間をもエデンとして
うべないぬくことができるのだということをブロッホは教えてくれている。

さあ、わたしはわたしの茨の道を行こう。
必然性は〈そうでしかありえない〉ことである。
それは不可能性(ありえない)によって実は成立している。
不可能性(ありえない)に支えられることによって
必然性はたんに〈そうである〉ということ以上のものとして
己れを認めている。

必然性は不可能性の否定態ではない。
むしろ不可能性の上に、不可能性の逆光を浴びながら、
己れ自身を不可能性の奇妙な変種として見いだすのである。

必然性はそれ自身が〈ありえない〉ことつまり不可能性だからである。
〈そうでしか〉の〈ありえなさ〉として必然的なものは生じる。

〈そうでしか〉〈このようでしか〉〈別様では〉という
〈ありえなさ〉の上に立つものは有限性ではなく否定性でもない。
それは恐らく主語に先立つ主語なのだ。

例えば〈このわたしであるわたしはある〉という場合、
それは〈このわたしであるわたしが必然的にある〉ということではない。
〈このわたし〉ではない〈わたし〉でも
わたしは有り得るかもしれないからである。
むしろそれは大いに可能的である。
単に事実に反しているに過ぎない。
事実に反するからといって、
それは非現実的ではあっても、
必然的でないという謗りを受ける筋合いは少しもない。

〈このわたしがある〉という事実は、
むしろ〈このわたしでないわたしがある〉可能性の根拠になる。
それは少しも
〈このわたしがこのわたし以外のものではありえない〉という
論理的必然性を与え得ない。
論理的必然性というものは
〈このわたしでないわたしがある〉可能性を、
単に事実を引き合いに出すだけで論破するというような
安っぽいものと考えられてはならない。

〈このわたし〉の必然性はその現実性以上のものでなければならない。

〈このわたし〉は現実に存在するがそれは現実的であるというよりも、
寧ろただ可能的にありえることであるに過ぎない。

そして〈このわたしでないわたし〉が現実に存在することと同様
ありえることであるに過ぎないのだ。そこには何らの差異もありえない。

もしありえるのであれば、
それはありえることが起こっているのではなくて、
現実を越えて、超現実的なありえないこと、
不可能なことが必ず起こっていなければならない。
寧ろ現実ではなく、超現実的なことこそが必然的なのである。

必然性は現実に準拠するものではない。
むしろ逆である。現実こそが必然性に、
超現実性に準拠せざるをえないのである。

ところでわたしはライプニッツにはじまって
ハイデガーやウィトゲンシュタインにまで受け継がれた
根拠律のお有難い言葉、
〈何故何か存在するものがあって寧ろ無があるのではないのか〉という
たんに存在することの有り難さを
神秘のように拝み不思議がる悪癖を励起するだけの
この有難迷惑的言葉を少しも有り難いとはもはや思わない人間である。

はっきりいって〈世界がある〉程度のことを神秘だと勘違いする人間、
とりわけウィトゲンシュタインのような男は
ただのバカであると断言してよい。

馬鹿げている。
このような人間は
あの愚かな十七世紀の偽テルトゥリアヌスや
偽アウグスティヌスのように
〈不合理故に我信ず〉と表明しているに過ぎない。

《Credo,quia absurdum》ほど愚劣で
〈神〉を愚弄したたわごとはないとわたしは嘲笑する。
このような人の信仰こそが〈absurd〉つまり馬鹿げているのである。

世界をそして神を不条理だという人は、世界を神秘だといい、
また神を崇めているつもりでも、それをただ卑しめているだけである。
このような人は神を〈absurd〉だと言うことによって、
単に俺の信じている神は馬鹿であって、
おれは馬鹿げたものを神だと思っている馬鹿なのだと
いばり散らしている馬鹿であるに過ぎない。

わたしはこうした存在困難性を認めない。
こうしたお題目は知性のない者、
歴然として無が生起しているのを看取することのできぬ
下等動物の唱える安易な苦悩でしかない。

真に神秘であるのは不合理性や不条理性ではなくて
全く合理的な不可能性の方である。

〈世界がある〉事実に驚くのは馬鹿である。叡智は別のことに驚く。

〈世界がある〉、しかしそんなことは不可能である。

不合理なのではなくありえないのである。
無が生起することはありえるし現にしょっちゅうあることである。
そんなものは日常茶飯事である。

無、それが一度でもなくなったことがあるものか。
それどころか無はいつもあるのである。
寧ろ存在することの方が全く不可能である。

〈世界がある〉、そんなことはありえない。

真の神秘は必然性にこそある。
必然性が神秘なのであって、存在は陳腐である。
寧ろ世界があることが全く合理的でありながら
それゆえに〈ありえない〉、不可能であることをみるべきである。

世界が存在することなどありえないのである。
またわたしはあるが、わたしはありえないのである。
わたしはわたしである、しかしそんなことはありえないのだ。

何かしら可能事が起こるのではない。
寧ろ不可能なことこそがつねに必然的にまた全く合理的に出来する。

〈わたし〉という現象を陳腐に自明視する人間は軽蔑にのみ値する。
それを不思議がる人間も同様に嘲笑にのみ値する。
こうした人間たちの知恵のない哲学は安っぽい。

彼らはソフィアを愛するというが、そんな女がどこにいるというのだ。
いない者を愛すると称する人間はまず嘘つきであり、
それ以上に許しがたいことに必ず愛をこそ知らない。
そんなものは全く愛ではなく、また知をも欠いていると唾棄すべきである。

驚くべきは寧ろ他者が存在するということである。
そして、わたしが存在すること世界が存在することは
ありえないのだと知ることである。
必然性こそが一番の謎である。必然性はありえないことだからである。

そして、またわたしは密かにこうも考えるのである。
むしろ不可能性こそが必然的なのではないかと。

真の必然性とは寧ろ不可能性の方であって、
わたしたちが必然性と呼ぶものは、
真にあるところの不可能性の朧ろな影でしかないのかもしれない
ということである。

神、それは存在でも無でもない。
神とは不可能なものである。

神は在る、神はない、神は死んだ、神は生きている、
何とでも言うがよい。そんなことは究極すれば単に無意味なのだ。

神は不可能である。

ところがこの不可能性は不合理なのではなくて全く合理的なことなのだ。
そして実際にテルトゥリアヌスは
《Credo,quia absurdum》などとは言わなかったのである。
真に彼が言ったのは、
キリストの復活という不可能事についての偉大な言葉である。
わたしもそれをこそ喜んで復唱する。

Credo,quia impossibile est.
可能性は、第二には不可能性の不可能性といえる。
これは必然性の不可能性と必ず(必然的に)同時に生起する。

すなわち
〈そのようなことはありえない〉ということは
「ない」(これは単なる否定である)というより、
〈そのようなことはありえない〉ということは
ありえない(不可能である)として
可能性はありえるものたらしめられると言いたいのである。

この両者は同じようで違う。
単なる否定の場合、
そのないことを示すには実在的事態をもって反証することによって、
つまり例をあげることによって、
〈そのようなことはありえない〉ということは打ち破られる。
つまり〈そのようなことはある〉のである。
しかしそれはまず実在性が立証されるが故にである。

或る種の実在的事態(例えば「人が座っている」)は
その逆(「人が座らない」)も可能である。
このような実在的事態は
それと同時にその逆(否定)の可能的事態をも
可能性として潜在させている。
すなわち実在的事態はこのような場合、
その他の多くの可能的事態
(「人が眠っている」「人が立っている」等)と共に示されている。

言い換えれば、
複数の可能的要素(possibilities)をポテンシャルとしてもつ
デュナミスの海(集合)に含まれる一要素が
特に実現しているものとして
指示(指名または選出)されているのに過ぎないのである。

実は一個の実現している実在的事態は
それが必然的でも不可能的でもないときには、
それ以外もありえる(可能である)ものとして
それ以外の可能的事態と一緒に繋がれて、
可能性の中の一つとしてあるのに過ぎない。
それは可能性の集合の輪から一歩も出てはいない。

このことの帰結を、後に
一個の驚くべき小石の例によってわたしたちは詳しく検討するだろう。

可能性があるという証拠は、いったい何処にあるというのか。
いや、そもそもどうして、「可能性がある」などということができるのか。
考えてみると、ずいぶんと不思議なことである。

もうすこし見やすくするために例題を考えてみる。
事柄は《わたしはバカである》に設定する。
わたしはこのことを必然的に真であると主張する。
そして「俺はバカなんだから何もできないんだ」といじけてしまって、
あなたは大層困る。
そこでそれがいや必ずしもそうではないのだということを説得するために、
つまり、バカではない可能性があるということを示して
わたしを慰めねばならない。
そこでわたしの主張する必然的に真であるというそのことが、
可能的に真でしかないこと、
従って逆に可能的に偽であることを示さねばならない。

これは非常に頼りないことはすぐに分かる。
「あなたはバカかもしれないがバカでないかもしれない」
そんな〈かもしれないこと〉を
真でも偽でもありうるようなことを言うだけでは
何の慰めにもなっていない!

バカかもしれないは全くもってその通りなのである。
後半のバカでないかもしれないは耳には入らない。
それはバカだと思い込んでいる人を更にからかうことにしかなっていない。

これを耳にいれるには可能的な反証を空想してやるだけでは駄目である。
もっと積極的な何かがいる。

わたしがバカであってはできないようなことを
事実やったことがあるという実在的証拠が必要となる。

それは明白な物証となりうるかもしれない。
実在的証拠は、可能性の論拠となる可能性がある。

このことは後に詳しく取り上げて問題にするが、注目に値する。
しかしここでは問題とならない。

自分がバカだと思い込んでいるこの男(わたし)は、
過去の偉業を思い出させられても、
恐らく却って落ち込むだけだろうからである。
もはや決して二度とそのことはなしえないのだ、
俺はその能力を失ってしまって
この不可能性から立ち上がることはできないのだと泣きわめくだろう。

あなたにとっては、
わたしの過去の偉業という実在的証拠を持ち出す行為に出ることは、
それによってわたしが立ち直るかもしれないが、
そうでないかもしれないこと、
可能的に真でもあれば偽でもありうることとしてある。
つまりその薬は効くか効かないか飲ませてみなければ分からないのである。

これは例を少し変えて、わたしが死んでいる場合にしてみると見やすい。
この死んだ男はともあれ言うのである。
《俺を生き返らせる薬はないというのは必然的に真である》と。
あなたはいや必ずしもそうではないと言って、
得体の知れない薬を持ってくる。
それを魔法使いの婆さんから貰ったとしよう。
その婆さんはあなたにこう言うのである。
《この薬は死者を蘇らせる薬だが、
 人によって効く場合もあれば効かない場合もある》。

そんなものに一縷の望みをかけてあなたはそれを買ってくる。
可能性とはそういう薬である。効くかも知れないが効かないかもしれない。
真か偽か分からない。案の定、必然性に死んでいる男は蘇らない。
可能性は必然性を不必然たらしめることに失敗する。
それは弱すぎるのである。

しかし問題はこの場合婆さんの言ったことである。
効かない場合がある可能性は確かに真となった。
しかしそれは必然的真理によってその通りであっただけである。
では効く場合があるという可能性はどうか。
そんなものは果たしてあったといえるのであろうか。
たまたま効かなかったのか、それとも絶対に効くわけがないのか。
それは可能的に偽の薬であるのか必然的に偽の薬であるのか。
実現しなかった可能性は、
それが可能性であるのか不可能性であるのかが判然としない。

むしろ、実現したからこそ可能性はその原因としてあったことが確定する。
現実態からこそ可能性は生起する。
現実態とならなければ可能性はあるのだとは論証できない。
しかし、可能性はたといそれが実現していなくともありうるものでありうる。

不必然性の〈必ずしもそうではない〉は
〈そうでないことはありうる〉を可能性の水準のままでは論証し得ない。
必然性を論破するような可能性を示すためには
現実態の助けを借りなければならない。

現実態は可能性に代わって必然性を論破し、
なおそこに可能性がありうることを示す。
現実態は可能性の実現であるが、また可能性の可能性でもある。
アリストテレスの『形而上学』第5巻12章(Δ12)は、
dynamis(potentia)dynaton(possibile)
adynamia(impotentia)adynaton(impossibile)の用語解説になっている。

不可能性はadynatonと呼ばれている。
ただし、ギリシャ語ではpotentiaとpossibileの区別は
ラテン語程はっきりしていない。
dynamisとdynaton、adynamiaとadynatonは
深く通底する語として考察されている。

興味深いのは、dynamis(能力=可能性)の
二番目の意味及び五番目の意味である。

dynamisの第一義は運動転化のアルケー(原理/始動因)だが、
アリストテレスはその第二義として受動能力としてのdynamis、
受動的(他動的)運動転化の原理としてのdynamisを認めている。

これのゆえに或る受動するものがなにかを受動するとき、それがなにをどのように受動しようと、そのものを我々は受動する能力がある(dynaton)と呼ぶ》これはポテンシャルとしてのdynamis、受動的潜在能力のことである。これに応じたdynaton(possibile能のある、可能的な)の意味は、《それとは他なるものがそれに対してあのような能力をもっている場合のそれも[他なるものから受動しうるという意味で]能あるものと呼ばれる。

第五の意味が興味深いのは、そこに〈破壊〉についての言及があるからである。
物事の自分自身の性質を非受動的または不変化的に保持する能力、
所有態(ヘクシス)を
その物事のdynamis(potentia 能力[性能])とアリストテレスは考えている。

それは例えばこういうことである。
事物のそれ自身であること、すなわち自同性は、
その事物の自己の所有態であるが、
それはその事物の自分自身である能力から来るのだといいうるということである。

それゆえにアリストテレスは言う。

一般にものが破壊されるのは、そのものがこうしたことをなし能うからではなくてなし能わない(メー・デイナスタイ)からである。

つまりその事物は無能力なのだ。
しかし第二義(受動能力)から考えると、破壊されるのは、
この事物が何か破壊せられうるような受動的潜在能力を有しているからだ
とは考えられないだろうか。
無能力は受動的な潜在能力の一つなのではないだろうか。
不可能性は受動的可能性であるのではないだろうか。

もう一つ興味深い言及がある。
論理学的問題として、
可能性(ディナトン)と
不可能性(アディナトン)は次のように対照されている。

アディナトン(不可能性)とは、
「正方形の対角線はその辺と通約的である」というような場合で、
必然的に偽であること、
つまりその反対が必然的に真であるような場合のことである。

必然的偽である不可能性は必然的真理の正反対としてその裏面をなす。
逆は必ずしも真ならずというが、不可能性の逆は必ず真なのだ。

他方、可能性の場合は、
「人間は座っていることができる(可能である)」
というような場合であって、
その反対は必ずしも偽ではない。
というのは「人が座る」ということが可能であるということは、
「人が座らない」ということを
不可能(必然的偽)とはしないということだからである。

ある事柄が可能的であるならその逆の場合も可能的である。
不可能性(必然的偽)は必然性(必然的真理)と表裏一体になっているが、
可能性は、必ずしもそうではないという仕方で、
必然性と不可能性を否定=中断しているのである。

常にその逆は有り得る。
〈そうでしかありえない〉ということはないというのが可能性なのだ。

すると、不可能性というのは、
可能性の否定形としてその後から生じるのではなく、
可能性の方こそ
不可能性の否定形としてしかありえない(不可能である)のである。

しかし、可能性は単純な不可能制の否定態ではもちろんありえない。
それは必然性(及びその裏面である不可能性)の不可能性である。

すると可能性には二面が観測される。

すなわち、第一に必然性の不可能性、
〈必ずそうでしかありえない〉ということはない(不必然性)というよりも
むしろありえない(必然であることが不可能である)ということである。

或る事柄がある。
それを必然的に真であるということが、必然的に偽であるような場合、
問題となっているその事柄はそのようでない場合がありうる(可能である)。

ところで、不必然性とは〈必ずしもそうではない〉ということである。
それをいうためには
〈そうではないことがありうる〉という可能的事態が示されねばならない。
これはばかげている。
結論となるべき可能性が前提となっている循環論法だからである。
しかし、このばかげていることはもう少し詳細に検討してみなければいけない。

或る事柄がある。
それをわたしは必然的に真である、
そうに決まっている、そうでしかありえないと主張する。
これに対しあなたは、いや必ずしもそうではない可能性があるという。
しかし、その可能性が必然的に偽でないと
どうしてあなたに証明することができるのか。
可能性があるというその証拠は何処にあるというのか。