不可能性の問題は、九鬼周造の『偶然性の問題』の〈後ろの正面〉に伏在する形而上学的悪魔の問題であるという風にも考えられる。

 この形而上学的悪魔は、『偶然性の問題』と同じ1935年に出版された夢野久作『ドグラ・マグラ』の有名な巻頭歌に、いわば〈恐れイリヤの鬼母子神〉として生々しく表現されたものと別ではない(cf.レヴィナス『実存から実存者へ』等:非人称のイリヤ il y a)。

 《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》と夢野は書いている。
 『偶然性の問題』と『ドグラ・マグラ』が同じ年に出版されたのはただの偶然で済まされる問題ではない。

 『ドグラ・マグラ』が黙示録的に曝露するのは、〈偶然〉などは「有り得ない」という〈悪魔の必然性〉としての不可能性の問題の削除不能なその伏在であるからだ。


    * * *

◇〈宿命〉と〈運命〉の差異について

 それは〈宿命〉の問題であると換言してもよいかもしれない。まさに〈胎児〉は〈母〉に〈命〉を〈宿〉す存在様態であるからである。

 〈宿命〉と〈運命〉は異なる。
 〈運命〉というのは基本的には偶然性の問題である。偶然は〈命〉の種を〈運〉んで、運命を輪廻する運搬=業(カルマ)の問題である。命の種の運搬業者である偶然性は運命の物語を紡ぐものである。運命は宿命への諦念なしには生じない。しかし、宿命はこの運命というものを塞いでしまう。

 諦念とは換言すればエポケーである。エポケーは括弧に入れて自らを切り離すことにおいて生じる(例:現象学的還元)。それはいわば臍の緒を切ることである(自立・誕生)である。
 
『ドグラ・マグラ』巻頭歌はその臍の緒を切ることの不可能性、つまりエポケーの不可能性を表現している。巨大で不可視の母を胎児は到底〈括弧〉に入れることはできない。逆に〈括弧〉に入れられて宙吊りになり首「括」りにされてしまうのは胎児の方なのである。

 不可能性の問題は、ここでエポケーの挫折の宿命の問題としてある。それはどういうことかというと、〈意識〉というものが「成り立たない」ということを意味するものだ。
 〈意識〉は不成立である。逆に成り立っているのは〈籠絡〉であり〈幽閉〉である。柄谷行人の表現でいうなら、それは〈夢の呪縛〉である。


    * * *

◇不可能性と偶然性の大小対当

 不可能性とは悪魔の必然性である。これは「無の必然性」という九鬼の表現を言い換えたものである。これに対して偶然性(無の可能性)は、悪魔の可能性であるということができる。

 けだし、悪魔的なものとは、否定的なもの、死を告げるもの、そして、「おまえは存在しない」「これは現実ではない」などとして、非存在或いは虚無のぞっとするその冷たい体に触れさせるものではないだろうか。

 悪魔の必然性とは、否定の必然性、虚無の必然性、虚偽の必然性、非現実の必然性、非在の必然性、悪の必然性、死の必然性、と呼び変えても構わない。悪魔というのは古くからの無の異名である。

 さて、こうして、偶然性も不可能性も悪魔的な様相概念であるといえる。だが、偶然性の胎児は、所詮、大悪魔(Archdemon)である不可能性の鬼女に操られ踊らされる小悪魔でしかありえない。

 《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》という夢野久作の黙示録的で絶望的な「嘲笑」を僕はそのように読み解く。

 けれども、勿論、こうした解釈はそれ自体が余りにも悪魔的だ。
 それは、夢野にとって母とはどういうものであったのか、九鬼にとって母とはどういうものであったのかを僅かにでも知るものにとって、それを思えば実は深い心痛なしには、そして心を〈鬼〉にすることなしには決して語ることも触れることもできないことなのだ。

 さて、アリストテレスの対当の方形によれば、不可能性(E・全称否定)と偶然性(O・特称否定)は大小対当の関係にある。

 大小対当というのは、

【1】全称命題(大)が真であるとき、特称命題(小)も真である。
【2】特称命題(小)が偽であるとき、全称命題(大)も偽である。

 という関係式である。

 これには含みがある。更に、

【3】全称命題(大)が偽であるとき、特称命題(小)は真偽不定の宙吊りにエポケーされる。
【4】特称命題(小)が真であるとしても、全称命題(大)が真であるとはいえない、それはなおも偽でありうる可能性の余地を残している。

 ではここで、真偽を善悪、または神・悪魔に置換え、偶然性の胎児と不可能性の母との関係を読み取ってみよう。
 すると、上記それぞれの場合に対応して〈胎児の夢〉の中身がどのようになるのか、次の四つの様態が考えられることになる。


    * * *

◇〈胎児の夢〉の四つの様態

【1】童心
 不可能性の母が本当に善意ある慈母であるなら、偶然性の胎児は善意ある仔羊として〈幸福〉な夢を見る。この胎児は安心して生きてゆくことができる。私はこの様態を〈童心〉と呼ぶことにする。〈童心〉においてのみ、〈神〉は正しくそのあるがままの美しさで顕現し得る。換言すれば、これは〈神通〉である。

【2】悪魔
 偶然性の胎児が嘘つきの小悪魔であるなら、不可能性の母は善意ある慈母の偽善の仮面をかぶったおぞましい魔女である。夢野のいう「母親の心がわかっておそろしい」という身の毛のよだつイリヤの〈恐怖〉はこの場合に該当する。〈悪夢〉の〈認識〉はまさにここにおいてのみ断言することができる。自ら〈悪魔〉とならなければ、決して〈夢の呪縛〉を見破って背後に隠れた大悪魔の正体を暴くことはできないのである。したがって、次のようにいうことができるだろう。
 〈悪魔〉は〈悪魔〉によってのみ識られ得る。

【3】意識
 不可能性の母が善意ある慈母のふりをしているだけだとすれば、偶然性の胎児は逆に母親の心がわからなくて、〈不安〉のなかに宙吊りになる。〈意識〉はまさにここに発生する。

【4】呪縛
 偶然性の胎児が優しい母に愛されている〈幸福〉な夢を見て安穏と暮らしていたとしても、胎児は単に欺かれているだけなのかもしれないという〈愚かさ〉の可能性は排除しえない。この場合も母親の心はやはりわからないのである。
 実は、この最後の〈平和〉が最も陋劣で白痴的な〈最悪〉の〈政治〉の光景である。柄谷のいう〈夢の呪縛〉はまさにここにおいて見いだされねばならない。
 実にこれこそが〈絶望〉である。

    * * *

◆後記:背教の定位・アポスターズ論に向かって

 ところで、運命の物語を紡ぎ出す胎児の能動的諦念としてのエポケーは、最初の〈童心〉の場合でなければ生じない。それは虚無(悪魔)という宿命から脱することである。
 このとき〈胎児〉は虚無の宿命の内に塞がれているのだとしても誕生しているのだといえる。
 つまり〈胎児〉はもはや〈胎児〉ではなく、力強く生誕の産声を上げる〈嬰児〉であり、〈童児〉に変容しているのだといえるだろう。

 運命の物語とは童話(メールヒェン)であり虚構(フィクション)である。
 しかしそれは愚かなものでは決してない。
 宿命を脱することとは、宿命を全的に引き受けることと一つにしてのみ出来する奇蹟であるからだ。

 それは産婆術(弁証法)を撥ね除けることである。己れを間引かせないことである。
 自らを決して「仮説的偶然」(九鬼周造「偶然性の問題」参照)にしないことである。
 そもそも、〈if〉(もしもの仮定)などというものがあるから、無限なるものの〈畏怖=恐縮〉(cf.収縮=撤退 zimzum[イツハク・ルーリアのカバラ]、縮限 contractio[クザーヌス&レヴィナスの語る無限者の自己収縮論])などという莫迦げた有限化が起こるのである。
 〈畏怖する人間〉は必ず〈IFする人間〉である。(cf.マクベス、愁いの王、柄谷行人)

 〈童心〉は自らを母胎に依存的に定位しないで母に憑依して一挙に自らを生み出させる。
 私はこれを〈帝王切開〉と名付けたい。それは或る意味では、排中律の逆転位である。
 存在でもなく非在でもないもの(不可能存在)こそが実在する。
 しかもそれは全く媒介を必要とせず直接的にここに出来するのである。
 したがって、ここにヘーゲルの弁証法のつけいる余地は全くないのである。
 絶対精神は死んだのだ。そしてそれは金輪際復活しないであろう。

 Credo quia impossibile est. 不可能なるが故にわれ信ず(テルトゥリアヌス)。

 〈童心〉の意味するのは、いわば〈超悪魔〉としての〈神〉である。
 カントが二律背反について語ったとき、彼は確かにこの超悪魔としての神が何であるのかを知っていたのに違いない。二律背反というスーパーパラドクスは否定的な不可知論というより以上の積極的な意味をもっている。まさにその二律背反の裂け目こそが〈神〉の全く顕現する場処なのである。真の意味で実存するとはそれである。
 この二律背反に帝王切開的に立つときに、観念の魔王に神隠しにされた全世界が一斉に息吹を上げて蘇生するのである。
 まるで火山が爆発するかのように。

【参考資料】

◆対当(oppositio)
古典形式論理学の基礎概念のひとつ。主語と述語を同じくし、量と質において異なる4種(A=全称肯定・I=特称肯定・E=全称否定・O=特称否定)の定言命題間に成り立つ関係をいう。

 全称肯定(A): すべてのXはYである。
 全称否定(E): すべてのXはYでない。
 特称肯定(I): あるXはYである。
 特称否定(O): あるXはYでない。

対当関係の種類および性格は次の通り。

(1)〈矛盾対当〉(contradictoriae)は、A-OおよびE-I間の関係であって、いずれか一方の命題が真なら他方は必ず偽であり、かつ一方が偽なら他方は必ず真である。

(2)〈反対対当〉(contrariae)は、A-E間の関係であって、一方が真なら他方は必ず偽であるが、一方が偽であるからといって他方が真であるとは限らない。

(3)〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らない。

(4)〈大小対当〉(subalternae)はA-IおよびE-O間の関係であって、全称命題が真なら特称命題も真であり、また特称命題が偽なら全称命題も偽である。

【姉妹記事】
ドグラマグラと悪魔の空間性

【関連文書】


著者: 大峯 顕, 大橋 良介, 長谷 正当, 上田 閑照, 坂部 恵
タイトル: 九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』







著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (上)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (下)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ








著者: E. レヴィナス, Emmanuel L´evinas, 西谷 修
タイトル: 実存から実存者へ








著者: 柄谷 行人
タイトル: 畏怖する人間
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 夢野久作の『ドグラ・マグラ』と
 九鬼周造の『偶然性の問題』は
 同じ一九三五年に出版されている。

 そこには、
 戦後の実存主義がむしろ覆い隠してしまった、
 より一層形而上学的で悪魔的で地獄的な実存の
 底知れぬ恐怖に通じる深淵が荒涼と広がって
 両者を通底させているように私には思えてならない。

 その底知れぬ深淵は
 〈空く間〉としての〈悪魔〉の空間性といってよいようなものである。

 悪魔とは空間であり、
 間が空く中から悪魔が出てくるのだ
 というべきような問題なのだ。

 「間とは魔である」
 と対人恐怖症の患者が言ったという話を読んだことがある。
 そして他者との会話などに「間が空くこと」が
 その患者に「悪魔がいる」と思わせる程に
 深刻な「恐怖」を起こさせるのだという。
 これは「〈別人〉の恐怖」といわれている。
 〈悪魔〉とはその〈別人〉のことである。

 〈別人〉とは〈人を別けること〉であり
 〈別れた人〉をも意味する。
  それは〈人間〉の反対概念であるように私には思われる。

 〈空く間〉としての〈空間性〉は
 〈人の生きられる間〉としての〈人間性〉を詰めてしまったり、
 割り切ってしまったりする。

 すると人は「いき」が詰まったり、
 「いき」が出来なくなったりして
 死んで〈空しく〉なってしまう。

 九鬼は『「いき」の構造』を書いたが、
 「空しさ」の構造という
 それを裏側から殺しにくる
 何かしら残忍な重苦しいものが
 身にひたひたと迫ってきていたからこそ
 恐らくそれを書かずにはいられなくなったのではないか
 と思われるのである。

 「空しさ」とは「時が無い」ということであるように思えてならない。
 「間が空く」ことの悪魔性は
 「時が無い」という切迫をもたらして
 人の心に窒息的な息切れをもたらす。

 私はそこに権力の問題を考えざるを得ない。
 しかし、それは当時の天皇制ファシズムの問題には
 還元出来ないしするべきでもない。

 もっと捉え難く恐ろしい権力、
 〈悪魔が居る〉としかいえないような現実感を引き寄せなければ
 決してそれを理解出来ないような、
 形而上学的な権力の問題として私はそれを考えてみたいのである。

 九鬼のいう「偶然性の問題」は
 存在と無の〈間〉に人は如何にして生きるか
 という切実な問いと切り離してそれをみることは難しい。

 彼が偶然性として問うているのは、
 本質的にいって、存在と無の〈間〉、
 そしてまた、自己と他者の〈間〉の問題に他ならない。

 恐らくその〈間〉が空き過ぎると、
 存在も無も、自己も他者も、
 〈空〉なるものに通底されて空しくされてしまう。

 〈空〉と〈間〉は恐らく対立しているものである。
 それは〈死〉と〈生〉が対立するように対立しているが、
 〈空〉は恐らく〈死〉をすら死なせてしまうひどいもののことであり、
 〈間〉は〈死〉をすら生き生きときらめかせる美しいもののこと
 であるように思われる。

 〈間〉とは無では無いが、
 存在へとは転じないで〈美〉に転じるような
 無では無い無の〈花〉のことである。

 〈花(flow-er)〉とは
 本質的にうたかたを流れるもののことである。
 〈花〉は〈流花〉であり、
 それは〈時の流れ〉に解けゆくものである。

 〈時〉とは〈解ける〉ものであり、
 〈花〉は必ず〈実〉を結ぶものである。
 この〈実〉は〈時じくの実〉であり、
 〈時熟の果実〉である。
 私がそれにおいて意味したいのは〈実体(ousia)〉の観念である。

 〈現実〉とは何か。
 〈現実〉とは、その美しい〈果実〉としての〈実体〉が
 〈表現〉されている様相でなければならない。
 〈現実〉とは〈可能性〉の〈実現〉であってはならない。
 恐らくそのような〈現実〉の観念は倒錯しており、みにくいものである。

 〈現実〉とは〈実〉の〈現れ〉であり、
 〈花〉も〈実〉もあるものでなければ間違いである。

 間違った現実のなかで人は生きられない。
 それは〈現実〉ではない、〈悪夢〉である。
 
 〈悪夢〉とは何か。
 〈悪夢〉とは〈悪〉を〈夢見る〉ことである。
 それは〈おそれとおののき〉(キルケゴール)を生きることである。

 〈悪夢〉の本質は〈戦慄〉である。
 それは何かが夢見られることではない。
 〈悪夢〉とはむしろ〈夢〉を見ないことである。
 〈悪夢〉にあっては人は魘されるだけである。
 この「魘される」という出来事が
 〈悪夢〉の本質であるところの〈戦慄〉である。

 夢野久作は、この間違った現実としての〈悪夢〉について
 非常に深い認識をもち、
 〈悪夢〉とはむしろ〈夢〉を奪われることにあるのだ
 ということをするどく示している。

 〈夢〉を奪われるとは〈現実〉をも奪われるということである。
 〈悪夢〉とは〈悪魔〉としての〈空く間〉の本質である。
 それは〈夢魔〉としてある。

 英語で〈夢魔〉と〈悪夢〉は
 同一の語ナイトメア(NIGHTMARE)で言い表される。
 つまり〈夢魔〉と〈悪夢〉は同じである。

 〈悪〉を夢見る〈悪夢=夢魔〉とは
 〈空く〉または〈明く〉や〈開く〉を夢見るという状態である。
 それは〈夜明け〉を夢見ることである。

 何故なら〈夜明け〉は奪われて、〈夜〉のなかにいるからである。
 また〈扉が開く〉を夢見ることである、
 何故なら〈扉〉は閉ざされており、そのうえ何処にも見つからないからである。

 〈悪夢〉とは〈悪夢〉に閉ざされているということだ。
 〈悪夢〉は〈夢〉を奪うことによって、その奪った〈夢〉を見せるのだ。

【関連記事】
不可能性の問題 6.不可能存在の不可避性――イポスターズ論再考
新・風姿花伝
〈鬼〉と〈夢〉―虚無の二つの顔について
〈空〉なるものの仏教的形而上学について
人間失格の「いき」づまりの構造

【関連文書】



著者: 大峯 顕, 大橋 良介, 長谷 正当, 上田 閑照, 坂部 恵
タイトル: 九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』







著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (上)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (下)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ








著者: 九鬼 周造
タイトル: 「いき」の構造 他二篇









著者: 九鬼 周造, 藤田 正勝
タイトル: 「いき」の構造

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ハイデガーの存在論的差異・現存在に対する
レヴィナスの倫理主義的背教はよく知られている。

レヴィナスは存在と存在者の非対称的差異を
自己と他者の非対称的差異に位相転換し、
倫理学という別の仕方での形而上学の
存在論に対する形而上学的優位を唱えている。

存在論的差異を倫理学的差異に位相転換するとき、
専ら自己の存在にのみ関わる存在者・現存在は、
他者との関係を受け入れる倫理的主体性である
実存者に位相転換されている。
それは実存=超越の方位を変えることでもある。

超越の方位は存在から他者に変更される。
その際にレヴィナスが問題にしなければならないのは
存在の悪である。

ハイデガーの存在論的差異の差異は
存在論的真理であるところの無ないし否定性であるといえる。
この無は存在者の存在の無底性・無根拠性を意味する。
それはしかし倫理的に見れば
根源悪という他にないものである。

無は悪である。

しかしハイデガーのようにそれを存在論的に見るなら、
それは無という中性的な意味しか帯びない。
だがこの無は単に中性的な無というだけでは済まされない
何か邪悪で積極的な負性を帯びた何かである。

レヴィナスは無の奥底に
〈無い〉あるいは純粋な0であるとは言い切れない、
マイナスの存在の還元不能なざわめきを聞き取る。
それがあの有名なイリヤ(il y a)、非人称の「ある」である。

レヴィナスのイリヤの概念が
カントの負量の概念に通底していることは見易い。
カントに於ける負量の概念はやがて物自体という
非現象的・超越的実体の概念に発展していったものである。

物自体は現象しない(純粋な0であるようにみえる)。
しかしそれは表象可能な対象でないという意味であって、
何も実在しないというわけではない。
そこにはなおマイナスの何かがあるのである。

レヴィナスはイリヤを感覚的なものとしても考察しているが、
そこで複数の物自体からの純粋な触発について、
知覚不可能であるとしてもなおそこになにかがあると
感覚されざるを得ない事態について語っている。

イリヤは現象の彼方に伏在する
何か得体の知れない実在の気配であり、
それは物自体のように不在でありながら
なおそこに無=0とは言い切れない
マイナスの実在があることを告げるものである。

レヴィナスはイリヤの分析において
無の概念を「何も無い」から「何かでない」に、
「存在しない」から「存在者でない」に、
「Aは存在しない」から「非Aが存在する」に
転調しているといえる。

これは九鬼周造が
『文学概論』で展開している存在論にでてくる
欠性的無の概念に該当している。

欠性的無は
論理的には単なる否定(無い=0)であっても、
現実的には他を無化するような
某かのマイナスの存在をもつもののことをいう。

それ故に九鬼は欠性的無を
存在論的には現実存在(existentia)に分類すべきものであり、
真の無であるとはいえないとして彼の無の分類表から外している。
そこで九鬼はカントの負量の概念についても語っている。

九鬼の欠性的無の概念は、彼の体系で説明するなら、
可能存在(essentia)としては無であるが、
現実存在(existentia)としては有であるもの、
いわば現実的不可能存在を意味する。
これを様相論的に言い直せば偶然的存在である。

九鬼が『偶然性の問題』において
批判的に取り上げている様相論理学者C・I・ルイスは、
否定性と不可能性を区別して別々の論理記号で表している。
これは無を区別することに他ならない。

否定性とは二値論理的な概念で、
存在に対する無、真に対する偽、
現実に対する非現実という風に
矛盾律及び排中律に従う二律背反的な反定立を意味する。
つまり単なる否定の無=0を意味する。

例えば存在に対して無というような無は、
存在の単なる否定であり、存在に矛盾的に対立している。
これに対し不可能性は必然性に反対的に対立している。
二つは同様に無であるように見えて意味が違っている。

「Xは存在しない(無い/無である)」と
「Xはありえない(不可能である)」は
直観的にも明白に意味が違っている。
不可能性は否定性よりもその否定の度合が強い。

否定性はXの現実存在を否定しているが
可能存在まで否定している訳ではない。
確かに今、事実において「Xは存在しない」が
「Xは存在することもできた」と言い得る。
この場合、Xは必然的に存在しないのではない。
Xの非存在は偶然的である。

偶然性とは他のようでありえたかもしれないが
事実においてはこれであるということである。
つまりその裏も可能である。

不可能性はその裏をすら否定している。
Xは単に存在しない(偶然的に0である)のみならず、
必然的絶対的に非存在である
(偶然的な0ですらありえない、つまり0の上に0である)。

二値論理的にいうなら、否定の否定は肯定である。
存在の二重否定である非無は存在に転化する。
現実存在は否定されてもなお可能存在であることができる。
否定は可能存在にまでは及ばない。
単に非現実的可能存在が定立されるに留まる。

九鬼はこの意味での無・非現実的可能存在を積極的無と呼んでいる。
積極的無は、言わば純粋な可能存在の存在様相の範疇に属するもの
というべきである。

更に可能存在でもありえないもの、
非現実的不可能存在つまり純粋な不可能存在を
九鬼は消極的無と呼んでいる。

消極的無に単なる論理的否定
(欠性的無に関連して言われていたもの)は
到達することができない。

存在の二重否定が単なる二値論理でいう否定性の無であるならば、
この否定の否定は、その否定作用自体が
全く「他のようではありえない」ので、
必然的に否定それ自身の自己否定によって消滅してしまう。
そうしてこの二重否定は存在(現実存在)に引き返す。

しかしここで重要なことは
この場合の論理的否定を0と考えるべきではないということである。
それはマイナス1であると見るべきである。

わたしは敢えて上に
「存在の二重否定である非無は存在に転化する」
という奇妙なことを書いた。

しかし存在の二重否定は純粋な二重否定ではなく
存在を前提した存在についての二重否定である。

つまり非非A(Aの二重否定)は
Aを肯定し定立することに等しいが、
Aなき非非はAを定立も肯定もしない。
非非は純粋な二重否定である。
純粋な二重否定は何も肯定しないし何も定立しない。
単に己れの否定作用を取り消すに過ぎない。

それは否定しないことを意味するに過ぎない。
純粋二重否定は純粋な無意味に接している。

それは?=非非?というに等しい。
或いは「 」という空虚を二重否定して
「非非 」にしているに等しい。

この「?」や「 」は
存在ともいえなければ無であるともいえない
決定不能なものである。

敢えて言うならこれは
形而上学的不可能者とか超存在であるとしかいえない。

存在の二重否定は
純粋に存在から自立した非無から
存在が誕生することを意味しえない。

純粋な無の無化は純粋非無を生ずるが、
純粋非無は空虚な否定の二乗であるに過ぎない。
それは存在に必然的に転じるとは決して言えない。

純粋非無はそれ自体が無になる。
しかし矛盾律と排中律が前提されているなら、
純粋非無は「他のようではありえない」ので必然的に存在へと転じる。

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 出来事は
 それが何処から出て来るのか
 出所はとりあえず不明である。

 出来事が出来するとき、それは何処からともなく
 事態がそこに起こってしまっている
 という仕方で出来しているのだ。

 出来事は、突発的に正体不明に
 「ただ何かが〈たった今〉起こった」
 というような突然性をもっている。

 そして〈たった今〉という風に〈今〉を切断し、
 或いは〈今〉を絶対的に切り離された
 近接しているがもはや決して戻り得ぬ過去へと
 略奪的に過ぎ去らせている。

 出来事の創造する近接過去には次元=広がりがない。
 現在が現在自身と非連続的にすれちがっている。

 確かに、出来事の創造する近接過去の〈たった今〉は
 近接しているが非連続的距離によって
 無限に〈この今〉から引き離されている。

 〈たった今〉は出来事の超越的過ぎ去りによって
 無時間的に〈この今〉から剥奪されている。

 しかしいま仮に〈この今〉とはいったが、
 そのような観測時点=トポスは
 多分その瞬間にはありえないのだ。

 そのときには〈たった今〉が
 〈今〉のすべてをその上に釘付けにしたまま
 恐ろしい速度でただ過ぎ去る。

 そしてこの過ぎ去りは超時間的であるだろう。
 何故ならそのとき時間は現在と同様に存立不可能で、
 石化したように凍りつき停止した瞬間があるのみだからだ。
 そのとき時間は死んでいるのである。

 しかし、それにも拘わらず、
 時間がないのにその瞬間は
 はっきりと刻印されるような時刻をもつだろう。
 否、決定的に時刻が時刻をもつのはそのときなのだ。

 時刻とは時を止めることである。
 或いは時間から追放された〈たった今〉の〈その時〉である。

 出来事の出来は、突然であり意外なのであって、
 それは偶然的でもなく偶発的なのでもない。
 出来事の出来は世界を横断的に切断的に引き裂く。
 そして出来事の起こり方はいつも爆発的で破壊的である。
 「無くは無い」という存在は
 「無くてはならない」ものではない。

 つまりそれは必然的存在ではなく、
 必要不可欠な条件ではなく、実体ではない。

 存在の「無くは無い」は「無くてもよい」もの、
 「在らねばならぬ」ではなくて「無くても構わない」もの、
 「無くは無いが、無いことも有り得るもの」、
 つまり無の可能性に接している。

 常に無は有り得る。
 単に今、無ではない、無はここにない、
 ただそれだけのことである。

 無の可能性、無の〈有る〉の獲得、
 可能的存在の様相における存在獲得、
 それは存在にとって不安なことだが、
 それを消し去ることはできない。

 無は確かに自ら無くなるものだが、
 かといってすっかり無くしてしまえないものだ。

 無は存在し得ないとしても
 無くしてしまうことも出来ないもの、
 どこか恐ろしく決定的に存在よりも必然的なものなのだ。

 存在に付きまとう無の可能性、
 事実に反するとしても反駁することの出来ない
 その無いことも有り得るを消し去ることが出来ないこと、
 それは存在の偶然性ということだが、
 その意味は奥深くそして不吉だ。

 存在はそのおもてから無の影を拭えない。
 無なき存在は、それにも拘わらず、
 無では無いこととして無によって記述されてしまう。

 存在の自己肯定は重く暗い憂いの影をもつ肯定である。
 それは存在が無のなかにしか無い、
 無の内なる存在でしかないということ、
 存在は無を過ぎ去れないということを暗示している。
 存在は無に呪縛されその上に留まる、
 滞留し、相関し、無の許に場処を占める。

 エマニュエル・レヴィナスは
 存在の非人称性を論じた
 「ある=イリヤ(il y a)」ということについての
 印象深い考察のなかで、全く何も無いということのありえなさ、
 無の不可能性について語っている。
 存在しないことの不可能性は
 存在の必然性の恐怖を催す重い呪縛として綴られている。

 それは無気味な体験である。
 全く何も無い状態を想像すると思考は暗黒のうちに没する。
 それは無を純粋な虚無の無として注視しようとすることであるが、
 それは不可能である。
 「何も無い」というこの無は虚無ではなく空虚の充満となって
 却って存在からの仮借ない出口のなさをおしつけてくる
 非人称の闇の渾沌の直接的な現前となる。

 これやあれはもはや無く、
 主語的な「何か」は無くとも、
 述語的な「ある」の轟きは消えない。
 あれやこれやの存在者が消えうせたとき、
 のっぺらぼうの存在そのものが浮上して存在する
 という出来事を避けられない。
 必ず無は存在に塞がれてしまうのだ。

 レヴィナスはイリヤに於いて
 「全く無い」ということこそが
 「全く無い」ということを強調している。
 しかしそのことによって
 全く無なき存在に到達したとは決して言えない。
 それは逆に極限の存在様相であるイリヤを〈無の無さ〉、
 或いは無が無ではなくなる「無くは無い」として、
 無の自己否定として、つまり無の一様相として描いているだけの話である。

 レヴィナスは「想像的破壊」(B・フォルトム)によって
 「全く何も無い」という意味での「無」を考察することによって
 存在からの悪夢的な脱出不可能性としてのイリヤを
 われわれの思考の宇宙の
 その先を考えることのできない極限概念として導く。

 しかし、彼は「全く何も無い」という「質料包含的」で
 単に実然的=言明的な様相での「無」を批判しえているのに過ぎない。
 それは「無」としては弛緩した無であり、
 単にものが無いという意味での、否定度の弱い無である。

 「厳密包含的」な無、確証的=必当然的な、
 よりきつい様相での厳しい無については彼はそれを斥け得てはいない。

 「全く何も無い」は無の概念の核心を衝いているとはいえない。
 むしろ「全く何もありえない」という無、
 不可能性としての無の様相を想像するべきではないのか。

 「全く何もありえない」状態を想像しようとすると、
 それは思考を完全に締め出す。
 しかしこの不可能性としての無の厳しさには、
 存在にたやすく転化しはしない無の抵抗というべき何かがある。
 存在するとは無くは無いということである。
 実体は無くてはならないもの、
 にも拘らず、全く無きに等しいものである。
 出来事は無からしめること、無の様相の純粋出来である。

 主体は存在と無の間にあって揺れ動くもの、
 無くはならないもの、
 殆ど無きに等しくても有り得ざるを得ないものである。
 有り得ざるを得なくとも全く在るをも有り得るを得ないもの、
 ついには在ることの出来ないもの、
 有り得なくならざるを得ないものである。

 主体は有無の境、生死の別れ目、
 存在と非在の狭間を彷徨うものである。
 存在と非在の間を切り離しながら結びつける境界に
 浮動する小数点である。

 主体は存在と非在の分岐する境界を画しながら、
 その境界線を自身の移ろう軌跡として描くゼロのラインの
 曲がりうねる流れの生成変化である。

 主体はそのようにして有無の境を
 自己の増減の度合によって測定する。
 それは測定不可能なものを測定することである。
 質的差異を量化しようとすることである。

 出来事が起こるとき、むしろ全く無が在る。
 出来事は有り得ないこと、
 また、全く出来ない事である。
 出来事が出来上がるとき、
 存在の全き彼方の虚空に
 超越的に過ぎ去った実体が創造される。

 実体はその全き不在において全く在るもの、
 存在無き純粋存在者の奇蹟的出現である。

 出来事が無の純粋出来であるとすれば、
 実体は純粋消滅の内に自らを拉し去った無が
 一つの不可能性の核心へと結晶的に結実して
 完全無欠に完成することである。

 出来事、それは無の現勢化=現実態
 ・エネルゲイアの迫真であり、
 実体、それは無の真理の完成作品
 ・完全現実態・エンテレケイアの超越の成就である。

 主体、それは出来事の余剰、残りものであり、
 出来事に消え残る或る種の出来損ないとして
 出来事から出て来る出来者である。

 主体は〈自己-出来-損傷性〉という
 厳密に規定された意味において、
 〈出来損ない〉でしかありえない。

 主体は出来事のエネルゲイアから切り離され、
 また実体のエンテレケイアからも切り離されている。
 主体は無の非現勢化=潜勢化ということができる。

 無は非現実化することで可能化し
 主体の存在可能性(蓋然性)や
 行為可能性(能力)に変容的にポテンシャライズされる。
 主体は無の潜勢態・デュナミスということができる。
 しかし、より正確には無を老獪に不可能化する隠蔽工作である。

 出来事はそれ自体が主体と実体の間を切り離す
 絶対的で不連続的な距離であり乖離である。
 その距離は測定不能な距離であり酷烈な隔たりである。
 この隔たりをアポスターズと名付ける。

 アポスターズは超越論的距離である。
 主体はこのアポスターズの超越論的距離を
 隠蔽することによってその上に生ずる。
 主体は不連続的距離を測定可能な連続的距離に置き換える。
 この測定可能な距離をアポスターズと対照して
 ディアステーマと呼ばなければならない。

 ディアステーマは主体の尺度に見合った距離である。
 またディアステーマとは主体そのものでもある。
 ディアステーマにおいて主体は実体の基体となることができる。

 また出来事は主体から出て来た事として主体に原因づけられる。
 つまり出来事は主体に潜勢化される。
 この潜勢化は出来事の学習・習得・獲得であるような習性化である。
 習性の基体としての自我を主体は倫理的に形成する。
 それは出来事の由来を
 潜勢的に自己の当為として引き受けることである。
 或いはまた自己に原因論的に帰属せしめることである。

 主体は出来事の過ぎ去りを自己の内に過去化する。
 過ぎ去りの内面化によって時間性の意識が生じる。
 過ぎ去りは自己の現在の原因としての過去となる。
 しかしそれは現在を自己原因化するためである。

 主体を実体の基体として質料因化すること、
 また出来事の可能的行為主体として起動因化することは
 表裏一体の要請に従っている。
 主体は実体と出来事の所有を目指している。

 所有するためには所得せねばならない。
 所得するとは所を得させることである。
 実体は主体に所を得ることによって
 その超越的自立性を抹消される。

 出来事は主体に所を得ることによって
 有り得る事(可能性)ないし出来る事(能力)となる。

 いずれにしても主体は己れを
 実体や出来事に必要不可欠な基体として押し付けようとしている。

 しかし、主体は出来ない者として出来事から出て来る。
 出来事とは他面において主体のそこから出て来る事である。
 そのとき主体は存在へと落ちる、むしろ落とされる。

 主体は無くは無いもの、
 殆ど無きに等しいが全く無いことの有り得なさとして
 無の内から振子の揺戻しのように
 宙ぶらりんに弾き返されてくる余分なものである。

 主体は無くならなかったものである。
 在るとは無くならなかったことに過ぎない。

 出来事は過ぎ去る。
 しかし存在は過ぎ去らない、それは主体を過ぎない。
 また主体はそれ自体が自己に過ぎない者である。
 過ぎないとは己れを過ぎ得ないということである。
 過越さないということである。過ぎ去れないということである。
 それは過去の不可能性・超越の不可能性・
 消滅の不可能性として現に在ることである。

 主体は出来事から出て来るが、
 しかし最早決して出来事から自ら出て来ることが出来ない。
出来事は出来する。
出来事とは出て来る事である、或いはむしろ、
何事か事が出て来ることが出来事である。

出来事によって出て来た事ないし出来た事と、
出来事の出て来ること・〈出来する〉ということは
同じように「コト」と云っても、その〈こと〉が違い異なる。

出来事とは〈出来する〉ことと
出来したものとしての〈こと〉との
分裂生成的な〈ことなり〉ないし異化・差異化である。

しかし、出来事をそのように
〈出来〉と〈事〉への分裂的〈ことなり〉、
すなわち「出来≠事」として反省的に捉えることは、
一見至当なようでいて、実は、それこそが
出来事を見失わせるものの見方である。

〈ことなり〉は出来事に生成論的な叙述の様式を押付けて
それを歪曲してしまっている。

確かに〈出来〉と〈事〉の二相は相異なる。
しかしこの〈ことなり(異成り)〉は、
〈出来〉から〈事〉が、
その出来とは異なる事態として自ら弁別的に「事に成ること」、
異なる事として事成り出て来ることであって、
既にして語り得るものの圏域のなかで相関的に取押さえられてしまっている。

〈ことなり〉は〈異成り〉であり
〈事成り〉であり〈言成り〉であるが、
この異成=事成=言成は、要するに、
意味的な差異生成としてのプロダクティヴな異化生成運動であって、
まさにその異なりとは違う〈出来する〉こと、
未だその出来せしめる〈こと〉なき出来自体を、
〈こと〉をはじめから目指した先取的生成運動と錯認することによって
実はむしろ覆い隠してしまっている。

つまり〈ことなり〉の生成論においては
「出来事」を「出来≠事」とみるまでは好いのだが
まさにその瞬間に転倒が起こって
「出来→事」が「生成→事」に置換えられてしまっているのだ。

しかし「出来=生成」と考えることは
「事」が既に成立してしまっているからこそそう言えるのであって、
実はそのときにこそ出来事の出来は
「生成」の論法に抑圧され隠蔽され消去されてしまうのである。

むしろ「出来事」は単に「出来≠事」として
「事」と「出来」に分割されるだけでは駄目なのである。

「事」は既に成立してしまったこれこれしかじかの事態を意味する。
それは既に特定化され事化してしまった出来事である。
このような出来事はすでに可視的である。
しかしこの可視的となった出来事の背後に
不可視の純粋出来としての出来事が消えうせている。

出来することと生成することは重ねられ得る。
しかし出来することと生成することとの〈あいだ〉には
埋立てることも掻消すこともできない厳しい擦違いが
かまいたちのような裂傷を切断してしまっている。

この傷は繕い得ない。
そしてこの生傷のような〈あいだ〉こそが問題なのだ。

この〈あいだ〉は間主観性というようなときの間ではない。
それは生きられる距離を空けて調節のきくような、
そんな生易しいメルロ=ポンティ的な
或いは生活世界的な〈あいだ〉ではない。

むしろそのような〈あいだ〉を根底から転覆して
不可能にするような荒みきったスラム街的で暴力的な〈あいだ〉、
ギラつく鋭いナイフのように殺意に研ぎ澄まされた〈あいだ〉、
真空的で残忍で牙をむき、人間に噛み付き
その柔らかい心の肉を食い千切り、抉り取るような
魔性の異変する〈あいだ〉のことをわたしは問題にしたいのだ。

この不連続的距離である〈あいだ〉は、破滅的・災厄的な切断の絶壁である。
そこにはただ顔を互いに背けあうような反発的・拒絶的な斥力しかありえない。

そこは一種のディストピアである。
というのはトポスそのものがそこでは
転覆的・恐慌的に破産し難破し断滅せしめられている他にありえないからである。

この〈あいだ〉の双面である不連続距離ないし不連続的差異を、
わたしは連続的距離(distance)および連続的差異(difference)とは区別する。

不連続的距離はアポスターズ(apostase)と呼ばれる。
それは背教的断絶の距離である。
それは連続的で測定可能な距離であるdistanceとは異なる。
不連続的距離であるアポスターズは
そのような意味での距離としてはまったく有り獲ない。
それはちょうど同一物がそれ自身から無限に隔てられ
遮断されているような様相を意味する。

これを差異として言い表すとしたら
それは異他性(diversity)としかいえない。
しかしそれを非他性(indiversity)と言換えたとしても意味は変わらない。
この語の意味についてはここで述べると煩瑣になるのでここでは述べない。
ただここで言い置くべきことはapostaseにせよdiversityにせよ、
それは背くこと、顔を背けあうこと、
単に違うとか隔たっているとかいう以上に背いていること、
逆方向であること、反発しあっていることを表現しているということだ。

そのような意味でこの〈あいだ〉のディストポスにおいて
〈出来すること〉と〈生成すること〉は
邂逅することの絶対的に不可能な異空間を
互いに異質に異方向から刺し違えあうように擦違い、
互いの不可能性の核心を衝きながら
何かしら絶望的にその絶対的に触れ合わない体の中を
幽霊と幽霊のように異次元的に貫き突き抜けてゆくだけなのだ。
それを過越しといってもいいし、相互超越といってもいい。
または特異点交差といってもよいし、単に交通といっても構わない。
それは全く経済行為とはいえないし社会的ともいえないが、
だがそれにも拘わらず、これは交換なのである。

形而上学的な沈黙交易といっても構わない。
それは極限的な他者と他者との不可能性の邂逅である。
しかし換言すればこれは全く無媒介的な置換えとしての物々交換である。

両者はすれ違いざま互いに相手の財布を盗みあうスリ同士に似ている。
そのようにして双互に何かを隠蔽しあっているのである。

〈生成すること〉と〈出来すること〉は
このように切り離されたものの不可能的な切り結びとして千切りあっている。
それは普通の意味で契約とか約束とかとは言い難いが、
それにも拘わらずこの邂逅なき接近遭遇のなかで、
或いはこの偽りの邂逅のなかで、
お互いが全く知らぬ間に、
交換じみたこと、締結じみたこと、
見かけ上それと区別のつかぬこと、黙契が起こっているのだ。

それは暗黙的な何かの成立である。
だがわたしはそれを暗黙知によるものであるなどと言いたくない。
黙契は暗黙知によって支えられているという
知的な期待は単に残酷に裏切られてしまっていいのだ。

主は常に盗人のように来る。
そして何を落としてゆくか、また何を奪ってゆくか、
その得体の知れない黒い通り魔のような何かなのだ。

いつ、どこで、何が起こるのか、それは不可知である。
そしてこの不可知論が一番健全なのである。

〈物〉の不可知を許せない人々は
単に物を分かりやすくて下らない退屈な代物にしてしまっただけである。
それで物に飽き飽きした連中は〈事〉を神にするために、
もはや物神性を失った抜殻の、誰も崇めぬ偶像を
単に用済みだから破壊したのである。

そこに本当に神業をみているなら
祟りを恐れて怖くて手も出せなかった癖に。

神が死ぬよりも早く物は死んだ。

物神性なき物神崇拝の単に啓蒙的な批判ほど
厭味で下らないものはない。
それこそ哲学者の見え透いた茶番劇に過ぎない。

商品物神崇拝の批判だけでは飽き足らなくなって、
ルカーチにせよ廣松渉にせよマルクス主義系インテリどもは、
それ以外のあらゆる物からその神性を剥ぎ取ることに
何か創造的な価値でもあるかのように思い込んでいる。

だが実際はそれで人間が少しでも解放された訳ではないし、
彼らは少しもそれをするつもりなどない。
単にそれに変わる素晴らしいことを
してやっているつもりになっているに過ぎないのだ。

実際には彼らの物象化論こそ
厭味で独善的で階級的虚偽意識にまみれているのである。

例えば廣松渉が唱導する通りに
〈物〉的世界観に代わって〈事〉的世界観の時代へと
パラダイムチェンジがなされれば、
単に〈物〉に代わって〈事〉が
抑圧的価値(事的物神崇拝=痴愚神礼賛)になるに過ぎない。

そして実際にそうなってしまっていたのである。
出来事は出来する。それは事物のように存在するのではない。
また存在する〈もの〉に必ずしも帰着するとはいえない。

では存在するという〈こと〉の方はどうだろうか。
存在するという事もまた出来事の一様態でしかない。

出来事としての出来事を問い詰めてゆくと、
存在する〈もの〉や〈こと〉には還元出来ない向こう側へと
思考がたちまちに食み出していってしまう。

 * * *

出来事は、ハイデガーのいうような
存在論的差異の内側では捉え切ることができない。
存在論的差異をどのようなものとして解釈するにしても
それはその外側にあふれ出していってしまう。
存在論をどんなに洗練していったところで、
出来事としての出来事は
その網の目をくぐり抜けて外に漏れ出していってしまう。
それは存在論の用語が出来事を記述するには
そもそも適していないからである。
このことについてはハイデガー自身も気づいている。

ハイデガーのいうエルアイクニス(Ereignis, appropriement)は
存在者にその固有性ないし自性としての存在することが
適合的に贈り届けられるという出来事である。
それは存在者の身に起こることで存在者はそれを受動態として受容する、
それを通して存在者はそれ自身に成る(在らしめられる)。

だが、エルアイクニスは
わたしが「出来事は出来する」といっているとき
考えているような出来事よりも遥かに狭く限られた概念に過ぎない。

それは結局のところ或る存在者Aについて
「Aが存在する」という事態が何によってどのように起こるのか、
そしてそれと共に或いはその結果、
Aが「AはAである」つまりA=Aという
自同律に適合するような存在になるということが
どのようにして起こるのかを説明するためにいわれている。

ハイデガーのいう存在の真理は存在者の自己同一的真理である。
つまり或るものはそれ自らに同じものとして存在するという自同律のことである。
古来から形式論理学の第一原理とされてきた自同律の思想は
「AはAである」と「Aは存在する」を
同一の主語Aについて同時に成立する事態として言明している。

つまり主語Aについて繋辞「ある」が
「Aである」(同一的である)と「存在する」の二重の意味作用を果たしている。

このことに関して高橋順一は次のように言っている。

さて「同一律」〔=自同律〕の基底を考えるとき、「A=A」は言表的には二重の層を、すなわち「Aはある」-「AはAである」という二様の次元を重層させているということができるだろう。この二つの層の言表に共通するのは「ある」という述定の契機である。「ある〔ザイン〕」という述定において示される「ある」という事態が、根源的に「A=A」という「同一律」を支えている、と言い換えてもよかろう。「ある」ということが「ある」という事態-このパルメニデス的命題にこそ「同一律」の始源が存在し、「真理」概念の存在論的基盤があるのである。
 だがこの「ある」という事態はその匿された部分を未だ孕んでいる。
 ハイデガーは「同一律」の命題におけるAについて、「それ自らと各々のA自らが同一である(mit ihm selbst ist jedes A selber dasselbe)」といっている。この「と mit」はAが自らに対し「媒介」されていることを示している。
         (高橋順一『始源のトポス』エスエル出版会 一五二頁)


 つまり自同律というのは結局「存在は存在する」というパルメニデスのトートロジー(その裏面は「存在しないものは存在しない」)に基礎づけられている。
 パルメニデスにとって存在は真理であり非在は虚偽である。しかしそれは思考と存在の同一性を実は前提している。彼は言っている。

いざや、私は汝に語ろう、汝はその話を聞きて受入れよ-探究の道は如何なるものだけが考え得るかを。その一つは「それは有る、そしてそれにとりて有らぬことは不可能だ」と説くもの、これは説得の道だ(真理に従うものゆえ)。他の一つは「それは有らぬ、そして有らぬことが必然だ」と説くもの。これは汝に告げるが、全く探究し得られない道だ。何故なら汝は有らぬものを知ることも出来なければ(それは為し能わぬことゆえ)、また言い現すことも出来ないだろうから。
 何故なら思惟することと有ることとは同一であるから。
 必要なるは、ただ有るもののみ有ると言い且つ考えることである。何故なら有は有るが、無(μηδεν)は有らぬゆえ。このことを汝がその心に留めおくことを私は命ずる。
(山本光雄訳編『初期ギリシア哲学者断片集』岩波書店 三九頁)

パルメニデスにおける思考と存在の同一性は
思考と存在という異なるものが同一物であるという意味ではない。
もしそうだとしたら自同律のA=Aは
A=Bという異なるものの同一化に支えられているという
奇妙なことになってしまうだろう。

また同一性はまず「存在は存在する」という風に
「存在」という思考にとっては他なるものにおいて見いだされている。
それは決して「思考は思考する」という風に
「思考」自らにおいて見いだされている訳ではない。

また「思考は思考する」というトートロジーは自同律を構成しえない。
それは「走るものは走る」ということと同じだ。
自同律的に同じであるということ
と普通の意味で同じである
 (例えば今述べたように、
 「思考は思考する」と「走るものは走る」が同じである)
ということは当然意味が違う。
自同律のいう自己同一性は特別な意味での同じであることなのである。

普通の意味で同じであるという場合、
それは大概、二つの異なるものを並べて
そこに何らかの共通性が見いだされたとき、これとそれは同じだと言っている。

例えばここに赤いフロッピーと青いフロッピーがある。
二つは同一ではないが同じである。
つまり同じ「フロッピー」という共通属性がある。
つまり「フロッピー」という共通概念ないしクラスに含まれるという
知的な作用において同じなのである。

このときわたしはまさに同じものそのものを創っている。
「フロッピー」がそれである。

この「フロッピー」は赤いフロッピーや青いフロッピーのように
それらに並んで机の上に在るわけではない。
そのような意味でなら「フロッピー」なるものなど
何処にも存在してなどいない。

敢えてそれがどこかにあるとすれば
わたしの頭の中にあるといえるかもしれない。

しかし、それも正しくはない。

わたしの頭の中には脳みそが詰まっているだけだ。
考えるたびにそれが頭の中に存在してしまうのだとすると、
わたしの頭は何度破裂しているか知れたものではないだろう。

「フロッピー」という類概念と
それに含まれる赤と青のフロッピーは
同じ意味において存在するのではない。
換言すれば存在の意味が違っている。

赤いフロッピー、青いフロッピーは
リアルな個物であり実在するものである。
他方「フロッピー」はイデアルな類概念であり
別に実在するものではない。これが今日の常識である。

しかし、古代ギリシアの時代、例えばプラトンにあっては
この順位が転倒してしまっている。

真実在するのはイデアルな類概念(イデアないしエイドス)の方であって
それこそが現実的にも存在していると見られている。
寧ろ感覚される事物(物)の方が実在せず、可能的なものと看做されている。
それはイデアルな真実在(本体)の朧ろな映像または影でしかない。

ただし当時の一般的ギリシア人がそのように考えていたとか、
「ある」という言葉の意味が古代ギリシアでは違っていたとか
考えるとしたらそれは穿ち過ぎだ。彼らは別に宇宙人ではない。
単にプラトンのような議論好きの
変わり者のインテリたちにとってそうであったに過ぎない。

プラトンは共通属性を実体化しそれを窮極的に在るところのものと考えた。
今日の言葉でいう観念論(アイデアリズム)の元祖にあたる人物である。

常識家のアリストテレスはこれに反対し、
個物こそが現実的に存在する第一義的な実体(第一実体)であるとし、
プラトンのいうようなイデアルな類概念を第二実体として
真実在するものとは基本的に認めなかった。

しかし問題は、
実体と実在の概念の区別が非常に曖昧なままであったことである。
実体は必ずしも実在するとは限らない。

しかし、実体と聞くと、それは実在するものである
とわれわれは考えてしまいやすい。

またプラトニストにとっては
実体は即実在であり更には永遠不滅の真実在を意味してしまう。

だがアリストテレスにとっては
実体は永遠不滅の実在性をもたなくともよい。
それは生成変化の過程で消滅してしまってもかまわないのである。

寧ろ永遠不滅であると考えられるようなものこそ
アリストテレスにとって実体とはいえない。

今日の言葉でいうとアリストテレスのいう実体とは有限な存在者なのであって、
それは例えば現に今ここに実在しているが、
永遠不滅に実在し続けることなどありえない。

それは逆にいうとそれがもう実在しなくなっていても
その消滅してしまったものはまだ実体であるといえるのである。
もはや或いは未だ実在しない実体というものもありえる。

たとえばわたしは現に存在している実体であるが、
わたしが死にその遺骸が荼毘に付され灰燼と煙に帰してしまったとしても、
或いはわたしが跡形もなく消え失せてしまったとしても、
わたしはなお実体である。

アリストテレスはまた別の観点から個物である実体を
(I)感性的および自然的実体(II)不動の永遠的実体に分け、
(I)を更に消滅的実体(自然的および人為的な個物)と
永遠的実体(天体)に分けている。
 《私は在る。しかし、そのようなことは有り得ない。
  それゆえに奇蹟は起こる。》

 しかし、それは〈不可能なるが故にわれ在り〉ということではない。
 〈可能なるが故にわれ在り〉なのではない
 ということを言っているに過ぎない。

 私が単に可能であるだけでは、
 私は永遠に現実には存在しないだろう。
 だとすれば可能性というのはむしろ無能力なのだ。

 逆に、私が在るが故に私は存在可能なのだ。
 まず実在していなければ可能的ですらありえない。
 だとすれば実在は必然的である。

 しかしそれは何のためか――可能的であるためにであって、
 実在するためにではない。

 可能性にとって現実性は必然的である。
 ところが現実性にとって可能性は必然的ではない。

 しかしひとたび現実性があるなら、
 それは単に現実的であるのみならず可能的でもあるのだ。
 何故なら現実性は不可能であってはならないからである。

 現実性から不可能性の様相を除去する必要に我々は迫られる。
 単に在るだけではいけないのであって、
 それは必然的に可能的でもなければならない。
 さもなければ私は在り得ないことになり、
 事実と矛盾してしまうからである。

 不可能なものが存在してはならず、
 必ず可能なものだけが存在しなければならない。
 さもなければ現実性そのものに可能性が失われてしまう。

 とすれば思考にとって必然的に存在しなければ
 ならないのは可能性であって、現実性ではない。

 現実性は思考にとって直接的には必然的ではない。
 むしろ可能性を介して間接的に必然的であり、
 可能性を可能性ならしめるために目的論的に必然的であるに過ぎない。

 つまり現実性は思考にとって他のようでもありうるもの、
 偶然性でしかありえない。

 だがこの偶然性は可能性の集合のなかの一要素でしかありえない。
 偶然性は必然的に可能性なのである。

 思考は現実性を必然的に可能性の内部に位置付ける。
 つまり可能性に還元している。
 そこでその可能化された現実性が
 可能性の実現として再現実化されるときに、
 偶然性の様相に大きく依存している。

 偶然性は現実性だけに適用されると考えるのは誤りである。
 或る可能性が偶然に現実化しているとき、
 他の可能性は偶然に非現実化しているのだということができる。

 偶然性は現実性に常に関連しているが、
 それは可能性を偶然的現実性と偶然的非現実性に分類するために
 用いられているに過ぎない。

 これを逆にいえば、現実性は可能性を可能性ならしめながら
 その全体を波立たせて偶然性を生み出しているということになる。

 思考は現実性を偶然化することによって可能性に還元する。
 すると可能性もまた偶然化する。

  *  *  *

 《私は存在する。しかし、そんなことは有り得ない。
 それ故に、奇蹟は起こる。》

 自分の存在の自明視が崩れ去るとき、
 形而上学の驚異の閃光がほとばしる。

 存在することは不可能だ。
 しかしそれにもかかわらず私の存在は奇蹟的に生還する。

 これは不可能なことであるかもしれないが、
 恐るべきことに全く不合理でもなければ不条理でもありえない。

 不可能性の形而上学は完全に理性的なものなのである。
 しかしその帰結は完全に魔術的である。
 人間は大宇宙を自在に創造できる。
 現実は黙示録的現実性に変容を遂げる。これは存在の革命である。

 私が存在不可能であるということは、
 私は存在しなくなるということを全く意味しない。
 不可能性は、無や否定性とは厳密に区別されなければならない。

 〈ありえない〉は〈ない〉ではない。
 単に〈存在しない〉というだけの〈ない〉ではないばかりか、
 〈何かでない〉という意味の〈ない〉でもない。

 それ故に、私は私でありえなくても、
 私であることを止めるわけではない。

〈ありえない〉は〈ある〉と〈ない〉を区別するものではなく、
 むしろ〈ありうる〉と〈ある〉を区別している。

 不可能性としての不可能性のうちには
 如何なる意味でもそれ自体としての
 否定的なものも虚無的なものも見いだされはしない。
 
 《私は存在する。しかし、そんなことは有り得ない。それ故に、奇蹟は起こる。》

 自分の存在の自明視が崩れ去るとき、形而上学の驚異の閃光がほとばしる。
 私がありえないということは、私がいないということではない。

 存在の不可能性の様相は、私の存在を無化も破壊もしない。
 単にその自明性を破壊するにすぎない。
 しかし、それは自明性を不明性に転ずるものではない。

 現実性がおぼろげな非現実性へと衰退するのではない。
 逆に黙示録的な超現実性へと質的発展をとげるのであって、
 天地創造の奇蹟のきらめきが
 きらきらとそのおもてを流れてゆくのをみることができる。

 不可能性からの私の存在の奇蹟の生還は、
 私の存在にも現実にも微傷ひとつ負わせるものではない。