クリスマスというのはいつでもみにくい。
 かがやきに覆われ人々が馬鹿になるそのとき、
 美しい祭が捏造される。

 クリスマスソングは嘘つきどもの歌。
 惑わされてうかれた人々が
 その誕生をお祝いする
 〈聖なる王〉などどこにも生まれていないのに、
 やけにきらきらしい歌声へと人々が強制される。

 サンタクロースがやってくるのは金持ちの家だけで、
 その陰では世にもみにくい商人どもが
 金儲けの絶好のチャンスに両目を残忍に光り輝かせ、
 まぼろしの麗しい子供を人質にとって、
 あさましく金を出せと脅しているだけだ。

 クリスマスのなかに神はいない。
 それは最も神が留守になるとき。
 痛ましい悲しみのとき。

 返して下さい、わたしたちに、神様を。
 そのためならわたしたちは何でも差し出すでしょう。
 人々がどうしても買い戻したいのはそれなのに、
 それだけはどの店にも売っていない唯一の、
 ほんとうのクリスマスプレゼント。
 永遠に永遠に手の届かない最高級のクリスマスプレゼント。

 誰があなたに高値をつけた? 
 どんな金持ちが目の眩むような巨額を支払い、
 すばらしい子供であるあなたを攫っていった? 

 裏切られたかぎりもなく醜悪ないつわりの祭、クリスマス。

 しかしそれは長くは続かない。
 コインの輝きはすぐにうすぐらく曇りはじめる。
 クリスマスの魔法が解けると、
 プレゼントは季節外れの薄汚いガラクタに戻る。
 陰鬱な重苦しい色に変わる。
 それを見ている人の目もうすぐらく曇ってゆく。
 白けたメタファーについてのよく知られた話だ。

(『〈知〉という白痴の悪霊たち 』より)
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「アダルトチルドレン」という便利な言葉が世に膾炙して久しい。


 この便利な言葉が使われ出した当初から、僕は小さな疑問の棘のようなものが心に引っ掛かるのを覚えていた。


 しかし、この便利な言葉が、幼児虐待や子供の人権という非常に重大な問題に多くの人の目を向けさせる啓蒙的効果があったことを僕は否定するものではない。そのこと自体はそれなりに評価されて良い。


 だが、この「アダルトチルドレン」という言葉は、幼児期の虐待のトラウマや病んだ親子関係が災いして、いつまでたっても一人前の立派な「大人」になれない未熟な人間、ダメ人間としての「子供っぽい大人」を意味している。


 その裏面には、自分の中でいつまでも昔のトラウマに拘って、「大人である自分」が自由に「大人らしい」行動をすることの足を引っ張り、恐ろしい駄々を捏ねて邪魔をしてくる「内なる厄介物の子供」を何とかなだめすかしてコントロールできないものかという、「大人中心主義」の価値観が厳然と、不可疑のものとして存在している。


 僕はそんなことではこの思想はついにはどんな人の心も救えず、どんな子供の涙も贖えない単に嫌味で苦い「子供騙し」に終わってしまうだろうと思っている。結局、この思想の根幹には、それが闘っている児童虐待者(加害者)と同じ、「子供」というものへのとても浅はかな、そして非常にみにくい、抜きがたい「侮蔑」が共有されてしまっているに過ぎないからだ。


 何故、人間は「子供」のままであってはいけないのか?
 どうして、全ての「子供」は「大人」にならなければならないのか? 
 何故、常に「大人」が「子供」に対し「優越」するものであると信念されているのか?


 そこには、まさにこうした問いが絶望的に抜けているのである。


 それは、一見、「子供」を救うかに見えて、実は果てしなく絶望的に「子供」の端的にそこにあるがままの人格の尊厳や生命の優美を見損ない、見失っている自己欺瞞的な思想であると僕には思われてならないのである。


 そして、敢えて心を鬼にして、僕はこの「アダルトチルドレン」というお優しい思想の内に隠れた陰湿な毒やとても卑怯な冷たさを、厳格に批判し糾弾していかねばならない時期がそろそろきたのではないかと思うのだ。


 「アダルトチルドレン」という思想は、何も救わない。それは実は単なる意匠を変えた「幼児虐待」であり、そして、もっともみにくく、もっとも倒錯した、病的なモラルハラスメント、全ての人間、すなわち全ての子供に対する実に陰湿で根深いモラルハラスメントの究極の形であるのではないだろうか?

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死臭

テーマ:
 愚かしい観念の他者性に目の眩んだ人々は、エマニュエル・レヴィナスの素晴らしいテクストを読んでさえも、現実の他者の他者性を塞ぐ虚妄で残酷な〈他者〉という語の空念仏しか言わない。〈他者〉という言葉を語るその口だけが実に〈お達者〉なのだ。

 偽善と感傷の毒に心の奥底まで蝕まれた人々の考えること、行うこと、語ることはとても無残である。そして無様である。そういったみにくい世界が社会を覆って、もう何年になるのだろうと思う。きらめきを無くし、虚妄な批評のたわごとと化してしまった思想の空間。語ること、議論すること、意味しようとすることの全てが、あらかじめ実に嫌味な幻滅に先立たれている世界で、ただ仕合せそうにしているのは、自分が内心小馬鹿にしているオタク文化とやらをポストモダンとやらいう最も下らない知のクリシェと結びつけて、安っぽく解説することに何か社会的意義があるかのように思い違いしているニヤニヤとやにさがった中年の青二才どもだけだ。彼らは生ける思想がことごとく見るも無残な死相の墓場に帰してしまった、記号論的ニヒリズムという最低最悪の〈知〉の衆愚制の世界にのみ嬉々として出る虚妄な幽霊であって、まことに幽霊にこそふさわしい貧相でうすっぺらな御託を永遠の繰言として繰り広げる以外に何も行ってはいない。このため、全く虚妄で幻滅的な《ご教養》としての哲学ブーム(例えば『ソフィーの世界』とか)は起こっても、若者たちの目を野蛮な光でキラキラさせる本当に異常な出来事としての生ける思想は言説の世界でその命脈を絶たれてしまって久しいのだ。

 なんと嫌味なことだろう。思想表現の自由が許されているのは死人たちだけである。死の思想、このとても嫌味なものだけが、世界を陰鬱に覆っている。その陰鬱な世界を装飾するのに実に似合うのはまさに空虚な歌であり、まさにそれこそJ-POPとかいう愚劣極まりないものである。一時はヴィジュアル系ロックがそれに牙を剥いて、世界に真の命を呼び戻そうと闘争したのだったが、それも結局は資本制という妖怪の餌食となった。僕は気分が悪いので、この二十年、あまりレコード店にも本屋にも長居することができなくなった。そこには死臭がするからだ。

 文化のみにくさに発するこの死臭は、経済の不景気の結果ではなくむしろ原因となっている。不景気なのはまず心であって、金の世界はさほどではない。それどころか金の亡者どもには、今日のように陰気な社会ほどにのびのびと生き易い世界は多分無いだろうと思う。彼らが一番好きなのは、貧しき人々のまさに嘲るべき不幸で惨めな姿を見て、それ見たことかと高みから冷笑することであるからだ。そしてこの社会の文化は現在、結局この最もみにくい連中の最も蔑むべき悪趣味に仕えているとしか思えない。
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 ところで老人というのはどこでもいつでも同じで何か犯罪事件が起こるとすぐにそれを彼らが常日頃から快く思っていない若者文化のせいにし抑圧のネタにするが、決して自分たちの作り出している窒息的な老人文化のみにくさを反省することはないものである。

 

 彼らは普段から反抗的な若者達の自由を奪いその口を封じ奴隷化したくてウズウズしているし実際にいつでもそれをやれるだけの力を備えた権力装置とカネをもっている。

 

 ただ実行にかかるための体裁のよい口実がないのだ。

 そのためなにか材料はないかと虎視眈々と機会を窺っている。

 犯罪事件などは絶好の口実を彼らに提供するものである。

 

 それみたことかおまえらの「仲間」がこんな悪いことをやったぞと躍り上がって忽ちに社会的制圧をかけてくる。それは必ず言論統制を伴う。要するにアカ狩りである。

 

 マンソン事件当時のアメリカであればベトナム戦争というみにくい戦争への徴集に応じない反戦的な青年達が広義のマンソン一味にされたし、一九八九年当時の日本ではバブル経済というみにくい経済への徴兵に応じずに自宅で親のスネを齧ったりブラブラしたりしている親バイターやアンチサラリーマンたちが幼女誘拐殺人犯予備軍と看做された。

 

 その僅か数年後に埼玉県でなかなか自立しない青年が親不孝者であるという理由で自宅で寝ているところを実の両親に惨殺されたが大した話題にはならなかったしそれどころか裁判官は両親にいたく同情的でお咎めなしの情状酌量、被害者の青年は死人に口無しをよいことに人格を誹謗され、そういう青年は殺されても仕方がないという判断が下されてしまった。

 

 要するに「甘えるな」(=「非国民」)という訳である。現在も例のカルト教団事件によって同様の言説が流布され、破防法適用の運びとなったが、そうやって社会が保守化し右傾化し重苦しくされ管理強化されてゆくことこそ、犯罪や暴動や革命の動機を形成し社会をますますの昏迷と不安定に導いてゆくのだ。

 

。。。なんて文章を1995年の日記にみつけました。なんか、世の中全然変わらんというか、ますます悪くなってるというか。。。もう、いい加減にしろ!

 ヘーゲルは『小論理学』一四七節で必然性を可能性と現実性の綜合であるといっている。この場合の可能性は実在的可能性を意味する。ヘーゲルは現実性から出発して可能性を規定してゆく。現実性は内的現実性と外的現実性に分類される。内的現実性が可能性で内的現実性が偶然性である。可能性は潜在的現実性であり偶然性は外的事実性である。ヘーゲルは現実性を活動的現実性と捉えている。つまりアリストテレスのいう現勢態(エネルゲイア)である。これに対し可能性は潜勢態(デュナミス)を意味する。

 ところで、このことと関連して、ヘーゲルは、理想と現実は違うという乱暴な論法を振り回して直接的な所与の現実を盲目的に礼賛し、理想を実現しようとする者に頭ごなしにそんなことは非現実的で不可能だと決めつける類いの横暴頑固な卑俗な現実主義者を非難している。

 理想と現実を単純で媒介不能な対立関係に置き、各々一方を振りかざして相手を一方的に非難攻撃する水掛け論の光景は現在でもよく見られるものだ。理想を振りかざす者はそれを実現するための現実的諸条件を顧慮しない――この類いの連中は独断論者或いは独断的観念論者である。

 他方で理想と現実の違いという莫迦の一つ覚えだけを繰り返して頑迷に所与の現実の不動性に固執し人の言うことに全く耳を貸さず、理想家を嫌らしく嘲り笑うだけの類いの別の種類の無自覚な独断論者もいる。
 この類いの人間は現実を振りかざして、理想であれば何でも実現不可能な空想であると片付けることにのみ忙しい。彼らは現実をそれ自体固定化した神性不可侵な理念にしてしまっている。要するに保守的で反動的で抑圧的な一番嫌らしい退廃した人間、現実という語を隠れ蓑にした堕落した理想主義者であり、悪や絶望を理想視している人間である。

 彼らは現実主義者を自称する。しかし決して現実主義者の名に相応しい人間ではない。むしろ最も空想的で最も非現実的な人間、自分にも他人にも嘘をつく堕落しきった死すべき毒虫のような人間である。

 世界が醜悪で否定的であるという現実的な現実を、そのような場処にあっては人は生きてはゆけないのだという一番厳しい現実を、現実は変革しなければならないものだという現実をこの類いの現実主義者が一番知覚していない。
 目の前の人が死にかけているのに、それを助けようともせず「これが現実だ、よく分かったか」という非道で無価値な説教をしかなそうとしない人間は、己れが現実的に悪党であるという一番見なければならない耐え難い現実を認識していない。

 変革が現実的に不可能であるのは、それを不可能だと称する人間がそれを妨害しているからである。
 彼らが崇めている現実はそのために多くの者が犠牲にされるような血塗れのものである。
 その血を啜って生きていることを善しとするような現実主義者こそ最も抽象的な人間、心臓に杭を打って殺されるべき吸血鬼であるに過ぎない。

 彼らは現実の否定面の身をもっての辛い認識(時としてそれは死である)を他者に押し付け、自分はその現実のおいしいところだけを都合よく頂戴しているのに過ぎない。
 たまたま有利な立場に立って他者を抑圧し、自分だけは痛い目を見ることを免れているのに過ぎない。
 要するに自分が権力に庇護されていることを喜び、その権力に媚びているだけの話なのだ。

 だが真の現実とは何か。或いは真の意味での必然性とは何か。それはこのような人間は必ず殺されねばならないということである。生かしておいては碌なことにならないということである。死ななくてもよい人が死んだ方がいいような者のために殺され続けているということである。その悪循環を解決しなければならないということである。

 真に現実的な必然性とは、現状肯定の怠惰な必然性ではなくて、まさに現実をより良きものに変えねばならぬという必要性のことである。

 人は己れの現実的経験を通して現実の法則性を学ぶ。謙虚であるかぎりにおいて経験論の精神は常に健全なものである。しかし、老いて硬直化しもはや経験から学ぶことをやめ、己れが経験から学んだことを絶対視して、現実を制約する法則的原理に止揚し、現実主義者を自称して己れの豊かな経験をそれによって現実を現実的に貧困化することに役立て始めたとき、経験論は最悪の独断論に、現実主義は最低の空想的抽象的な観念論に、懐疑主義は非常に不毛な虚無主義にすりかわってしまう。

 それは最も恐ろしい思考の倒錯である。理想なき現実主義は現実から理想の実現不可能のみを学び、また現実を理想の実現不可能としてしか学ばなかった幻滅した理想主義であるに過ぎない。これは最悪の野蛮である。実はこのとき理想も現実も共に把握され損なっている。
 影を失った男は己れの失った影を慕う。
 切り離された影は、自ら生き、その不気味な生命は、本体よりも大きくなる。ブロッケンの妖怪や、ゴーレムのように。

 だから、いとおしさの裏側には勿論そうした不気味なものへの畏れとおののきがある。
 この愛はだからはじめから疚しい陰影をもっている。

 わたしは彼に影響し、そして影響してしまった者は、己れの背後の影に脅える。

 影、彼の顔に、わたしが投げかけてしまっている黒い影、彼が纏ってしまっているわたしの捨てた影、わたしたちはその不思議な影にお互いの身を縫い付けられてしまって、そこから逃れ出ることのできない奇妙な兄弟のようだ。

 ここには呪縛がある。わたしたちは呪われている。
 切り離しても切り離しても影同士は互いに呼び合い、再び一つに結び付こうとする。
 しかし解けないこの結ぼれは、だからといって二度と決して元に戻ることはない。

 わたしたちにできるのは、それをしずかに無視し、否認して、まるでそれがないかのように振る舞うことだけなのかもしれない。

 しかし、たとい無視したとしても、影はそこから消えうせることはない。
 影は自らうごめき、活き活きと生き続けている。

 この影の中には決して殺すことのできない黒くかがやく別の世界がある。不吉に黒く深くかがやき、それはいつもわたしたちを見ている。

 友の影のなかのもう一人の友、それはそこに響く、〈影〉と呼ばれる謎の友人である。

 この〈影〉がどこから来たか、わたしは知らない。
 しかし、〈影〉はいつもそこにある。
 そのことがわたしを不安にさせる。

 〈影〉は話しかけても答えない。
 それが一体何を考えているものか、それは永久に分からない。信用のならない人物だ。
 しかし、わたしはその影から永遠に逃れられない。

 ここにはいつも危険がある。
 〈影〉は友を連れてくる。敵を連れてくる。
 友を敵にし、敵を友にする。
 思いもよらぬ宝石をもたらすこともある。
 宝物を一瞬にしてみすぼらしい石に変えてしまうこともある。

 〈影〉のなかに命を拾うこともあれば、そこに命を落とすこともある。

 〈影〉は運命を呪縛し、人生の物語を書き、不可思議な出来事を演出し、世界に魔法をかける。

 おそるべき魔術師である〈影〉。
 それはほんとうにわたしの影なのか。
 その影の身の丈はどれほどなのかわたしには永遠に分からない。極めて矮小であるのか、それとも宇宙の果てまで広がっているものなのか、その影の範囲がどこまで及んでいるのかを一体誰が測定できるというのか。

 〈影〉、この不気味なわたしたちの同伴者。
 その正体をわたしたちは永遠に暴けない。

 また、おまえ、〈影〉のもたらすかぎりもなく謎めいた闇を、光の中に止揚して消し去ることは永遠にできない。
 わたしたちの世界に永遠の〈影〉の部分があることは紛れもない事実である。

 しかし、わたしたちは何かが怖くて、いつもこの〈影〉に触れまいとする。
 遠回しに避け、〈影〉を迂回して、便利な説明や解決の糸口を見つけ出そうとして、世界がすっかり目にみえる、悪魔などいない、すっかり説明のつく小綺麗な場処であることを自分に納得させようとして、その実何かに脅えるように、憑かれたように考え、そして生きている。

 そのようにして、わたしたちの〈日常〉は構成されている。
 平穏無事な退屈な終わらない日常という奴は。

 わたしたちは極めて愚劣な生き方をしているというわけだ。
 わたしたちのチンケな理性、わたしたちのチンケな良心、だがそれは極めて僅かな視界しかわたしたちにもたらしてはいない。

 〈別人〉、それは恐るべき自我の原罪というべきものだ。

 

 わたしは〈他者〉と言っているのではない。

 〈他人〉とも言っていない。

 〈他者〉と〈別人〉を安易に置き換えてはならない。

 

 〈別人〉というのは〈他者〉の全き不可能性である。
 それは不可視の呪縛であって、最も醜悪なものを意味する。

 

 *  *  *

 

 〈別人〉のみにくさ、それはひとを石化させるメドゥーサの顔である。

 その醜悪さが不可視であるがゆえに、

 みにくい〈別人〉はしばしば美貌の幻影でその素顔を覆う。

 

 恐ろしい罠だ。

 魅惑し、そして、人の心を、いのちを奪う。
 それは人殺しの顔である。

 ナイフよりも素早くその冷たい一瞥だけであなたを殺す。
 憑依してあなたの魂を虜にし、一瞬にして食い殺す。
 〈悪〉はそのときに始まるのだ。

 

 *  *  *

 

 かつて、わたしは鏡のなかに映る己れの像に、

 見知らぬ人がかすめるのを見た。


 再び見ると、それはよく見知っているわたしの貌なのだったが、

 どうにも見慣れることのできない

 不可視のぶきみさが貼りついていて取れなかった。

 

 そのころわたしは十六歳で、

 謙遜するのも馬鹿臭いからはっきりというが、白面の美少年であった。

 鏡の中にはヴィジュアルには、

 中性的な美貌を輝かせた魅力的な細面の、

 殆ど美少女といってもいい綺麗な顔が浮かんでいた。

 もしもナルシスのようにそれが自分の顔だと知らなければ、

 一目で魂を奪われ、恋い焦がれて焦がれ死んだかもしれない。
 わたしは幻想的なまでに美しかった。

 わたしはわたしに出会い、あらためてそれを見て驚き、

 たちまちその場に凍りついた。
 
 しかし、美しさに撃たれたのではない。

 

 わたしはそれほどに醜く忌まわしいものを見たことがなかった。

 微かな吐気と目眩に似たものがわたしのなかを横切っていった。

 透明で冷たい不可視のからだをもつものが、

 わたしの〈死霊〉がねじれた恐怖の叫びをあげてわたしを突き抜けていった。

 〈死にたい〉という小さな呟きが胸に痛んだ。

 

 イメージというものは本質的に醜いものなのだ。
 それが美しければ美しいほど醜悪で耐え難い。
 絶望的なまでに狂おしい怒り、

 殺したい、破壊したい、打ち砕いてしまいたい、この嘘つきの顔を、この頭を。

 

 そう思ったとき、割れんばかりの頭痛がして、

 わたしは鏡台の前で頭を抱えてしまった。

 

 それからひどい非現実感と離人体験に囚われる日々が続いた。

 夜には金縛りになり、叫びをあげて振りほどくと、

 振りほどいた何かが部屋の中で

 はっきりバサリと黒っぽい翼らしいものを広げてはばたき、

 部屋の片隅に落ちて、そこに灰色の靄のようにして蹲り、

 恐ろしいまでにじいーっと刺すような眼差しでわたしを見上げた。

 

 姿だけは速やかに煙のように消えうせながら、

 瞼もなく、瞳すらもない、全き虚無ともいうべき視線だけが

 永遠に永遠に消えずに続くのではないかと思われる程長く、

 そんな気違いじみて自己矛盾した時間の異常な鋭角から、

 わたしを見据え貫き、無言の、謎めいた咎めを残していった。

 

 それはかなり恐ろしい体験だった。

 幻覚は時として現実よりもずっと生々しくリアルである。
 わたしはわたしに憑依した何者かを確かに見、

 暗闇の中でヤコブが天使と戦ったようにそいつと格闘したのだが、

 勝利したのだとは思えなかった。

 

 また、そいつは天使というよりも悪魔という方がふさわしい化け物だったが、

 朧ろに見えたその不定形の姿は、大きさからみて人間の赤ん坊に似ていた。

 

 そいつは〈死の天使〉というべき代物か、

 それとも実体化したわたしのリビドーの一部なのか、

 よく分からないが、覚えているのは

 そいつが寝ているわたしの上を

 巨大なアメーバのように這い回り、

 わたしの呼吸を塞ごうとしていたということだ。

 

 わたしを窒息死させようとして果たせなかった

 恨みと呪いの毒をたっぷり塗りたくった邪視の矢を

 最後に放ってそれが消えゆくとき、

 わたしはわたしの亡き兄のことを思った。

 

  *  *  *

 

 この兄は赤ん坊の姿のままこの世を去り、

 その死後にわたしは生まれた。

 

 たった一枚の遺影以外に彼の痕跡を伝えるものはまるでないが、

 この兄のことは物心ついたときからずっと

 心の上に重く暗くのしかかって忘れたことはない。

 

 母はわたしが胎内にいるとき、

 この喪われた兄のことを思い出しては泣いていたという。
 わたしは母の涙の海のなかに生まれ、

 その悲しみ啜り泣く声と兄の名前をむなしく呼ぶ声を

 細胞の奥深くにまで響き通らせ、

 自分の身に刻んでこの世界に産み落とされたのだ。

 

 その後も母がこの兄のことを思い出しては

 顔を覆って泣く姿を繰り返し目にした。

 辛く耐え難い光景だ。わたしはその度に苦しくなる。

 涙が溢れ出し、悲しみが胸に灼けつくように痛くなる。

 

 兄さん、わたしはあなたを知らない。
 だがその全く知らぬあなたからわたしは永遠に離れられない。

 永遠に永遠にわたしはあなたを愛するだろう、

 あなたを恨み、あなたに嫉妬し、

 あなたを狂おしく求め、愛しつづけるだろう。

 

 兄さん、あなたはわたしにかかった永遠の呪いだ。
 あなたはわたしを呪う。
 何故ならわたしはあなたなのだから。
 わたしがわたしの名で名付けられるよりも前に、

 それよりも深く、わたしのこの身に烙印された絶対的で絶望的な名前。

 

 それをあなたはわたしから永遠に奪うことはできない。
 わたしから消し去ることはできない。
 わたしはあなたの名を刻まれて生まれてきた。

 その傷痕は癒えることはなく永遠にわたしに疼く。
 わたしはあなたを病む。わたしはあなたを痛む。

 この傷を縫うことも癒すこともあなたにはできない。
 それはわたしの存在そのものだから。
 いや、わたしの存在そのものをすら焼き潰す程深く激しく、

 わたしを無化してもなお燃え続ける炎で書かれた名前で、それはあるのだ。

 

 この聖なる火の意志が、

 わたしがもはやわたしではなくなったときにも、

 わたしの奥底で、永遠の生命の瘢痕として

 熾り続けていることをわたしは知っている。

 

 兄さん、わたしはあなたを忘れない。
 たといわたしがわたしの名を忘れ、

 わたしが誰かを忘れ去ってしまっても、

 あなたのこととあなたの名前を忘れ去ることはないだろう。

 たとい全宇宙がわたしの回りで滅び去っても、

 あなたの名前を綴る火の文字は消されることはないだろう。

 

 恐るべきわたしの兄よ、あなたの名前はメギドの火でできている。

 その火で灼いた焼ゴテを取り、わたしはあなたの名において、

 わたしの額にカインの徴を烙印した。

 弟アベル、赤ん坊の姿は炎の燔祭に消え、

 わたしは狂気のなかであなたからあなたを奪い

 あなたになりすますためにわたしを殺した。

 

 兄さん、わたしではなくあなたが生きることをわたしは望んだ。

 

 だが、わたしが手にかけて殺したあの赤ん坊アベルは、

 あの空しくされた小さな肉体は誰なのか。

 わたしなのかあなたなのかが判らなくなる。

 

 判らなくなる、このわたしは誰なのか

 わたしなのかあなたなのか

 わたしの所有者カインとは誰なのか

 どちらが殺しどちらが殺され

 どちらが生きどちらが死に

 わたしは誰を生きるべきかが判らなくなる。

 判らない。永遠に、永遠に、わたしは判らないままだろう。

 そしてわたしには本当は今でも判らないのだ。
 あのとき復讐に舞い戻ってきた

 姿なき赤ん坊の悪霊が何を意味するのかが。

 

 殺しに来たのは兄ではなく小さなわたしだったのかもしれない。

 幼い頃、兄がわたしに乗り移ったときに、

 排除されたかつての本当のわたしが、

 殺されたことを恨んでやってきたものなのか。
 

 それとも逆にやはりあれは兄で、

 わたしが兄を死霊の眠りから

 無理やり拉致して自分の中に取り込み、

 幽閉してしまったことを怒って、

 奪われた自分自身をあの世へと、

 他者の次元へと取り戻すために舞い戻ってきたのだろうか。

 

 だが、正直なところ、わたしには解釈はどっちでもいいのだ。

 人の皮をかぶった怪物は妖怪の言葉をうそぶく。
 否、言葉を妖怪にしてしまう。

 

 妖怪化した言葉は、空間に広がり、

 恐ろしい毒ガスのように無差別に人を襲い始める。

 言葉がぶきみな生き物のように牙を剥いて、

 人に飛び掛かるところをあなたは見たことがあるか。

 

 これほどに残忍な生き物をわたしは見たことはない。
 〈別人〉という怪物に成り果ててしまっているあなたほど

 冷酷な存在がいないように。

 

 あなたは、噛み付く言葉に打ち倒されて

 無力に路上に崩れる人をただ見ているだけだ。
 近づきもせず抱き起こしもせず遠巻きに眺め、

 ただその光景だけを卑劣に掠め取るだけだ。

 

 ぞっとする醜悪な瞬間、

 それはあなたとあなたの傍らに崩れる人のあいだに開く虚無にある。
 この虚無の関係にある。
 虚無の関係によって創られる肌寒い、

 だがあなたにとっては安全な、風景の空間にある。

 この冷酷な空間性をあなたは〈現実〉と呼ぶ。

 決してあなた自身はそれを引き受けようとせず、

 その暴力的な重圧に崩れる人の上に、

 罪もなく傷つけられ処罰され処刑される人の上に、

 全宇宙のひどい重みのすべてが移し換えられる。

 

 宇宙は悪意に満ちている。
 だがあなたは不可思議な深淵のなかに身を引いている。
 その深淵は疚しく、うすぐらいが、危険な場処ではない。

 あなたの安全圏、その名は〈意識〉であり、またの名を〈良心〉という。


 そこであなたは幽霊に変わる。

 この幽霊を麗々しくいえば〈精神〉である。
 〈精神〉は自分に対して自分自身を〈現象〉させる。


 麗々しい、或いは厳しい、

 研ぎ澄まされた言葉で身を飾って、

 己れの精神の現象が現実からの逃避ではないことを、

 蒙昧な心霊術などではないことを立証しようと、

 〈現実的精神〉はその独語する声を荒らげて、とげとげしく怒号する。

 ――現実!現実!

 

 〈現実〉とはつまり〈精神〉の苛立った怒号であり、

 闇雲に周囲にわめき散らす自衛的な命令であり、

 彼が彼自身であり、正気で目覚め続けているための呪文である。

 

 だが、この呪文は、

 〈精神〉に〈現実〉をもたらすことは決してありえない

 却ってその盲目を増すだけである。

 

 〈精神〉は最初から生きることを放棄しているので、

 その実体は常に〈幽霊〉であるしかない。

 〈精神の現象〉とは〈幽霊の出現〉である。
 〈亡霊〉であり〈死霊〉である。
 だがそれはどこに出るのか。

 

 〈死霊〉は現実のなかに出現する。
 何故となら、〈精神〉は自分自身が〈死霊〉であることを、

 もはや生きてはいないということを、決して見たくはないからだ。

 その悍ましい真実を見る位なら死んだ方がましなのだ。

 そして、死んだ方がましであるからこそ、

 〈精神〉は〈死霊〉のなかに己れを呪縛し続けることしかできないのである。

 

 〈精神〉は〈死霊〉から脱出して人間になる代わりに、

 〈死霊〉に対して脅え、目をつぶり続ける。
 彼は自分自身の美しい姿の映る鏡〈現実〉から、

 〈死霊〉の蒼ざめた恐ろしい影を追い払おうとして悪戦苦闘する。

 

 〈死霊〉は〈精神〉によって〈〉の世界に、

 悪夢夢魔の世界に追放されなければならない。
 彼の〈実体〉ではなく、実体を奪われた〈虚体〉にされなければならない。

 

 だが〈死霊〉は回帰する。
 それは絶えず〈精神〉の安寧を脅かすために

 ヨーヨーのように舞い戻ってくる。


 〈精神〉の鏡、〈現実〉には入れぬものの、

 〈死霊〉は決して夢の産物、純粋な空想上の存在などではなく

 本当に現実に存在するものであるから、

 夢の世界などに封印してしまうことはできないのだ。

 

 夢ではない。

 

 〈死霊〉は〈精神〉の現実的な余りに現実的な現実に現れる影なのである。 

 だから〈精神〉の鏡〈現実〉の表面に

 しばしば〈死霊〉はその舞い戻る衝撃の力によって

 不安と恐怖の罅を、亀裂を走らせる。

 

 〈精神〉の欺瞞の鏡〈現実〉は真の現実ではなく、

 鏡に映る自分の姿は真の自分の姿ではないのだと

 〈死霊〉は鏡を揺さぶり続けるのである。

 この自同律の鏡を打ち砕くために、悲しげに、怒りをこめて。

 

 この〈死霊〉は自分自身である〈精神〉を告発する。
 だが鏡は分厚く、〈精神〉のつらの皮は厚い
 絶望的で悲惨な戦いだ。

 

 〈死霊〉はこうして〈精神〉の内部にありながら、

 〈夢〉にも〈現実〉にも分類不可能な

 奇妙な灰色の場処に呪縛されてしまう。これが〈非現実〉である。

 

 だが、既に述べたように〈死霊〉――

 この〈精神〉から永遠に疎外され続ける流謫の影は、

 実は実体であり現実に存在するものなのであるから、

 その蒼ざめたぶきみな姿を現実のなかに晒し出している。
 それが不可視なのは〈精神〉にとってだけなのだ。

 

 〈精神〉が〈現実〉の鏡から疎外した〈死霊〉は、

 〈精神〉にとって不可視でありながらも

 不可避に彼を呪縛しているもう一つの現実のなかに、

 他の人々のまなざしの前に、

 その救われぬ惨めでみにくい姿を晒して現れざるを得ない。

 

 〈死霊〉は〈精神〉を呪縛しつつ〈精神〉に呪縛されている。

 というのは両者は同一人物であるからである。
 だが両者は同一人物でありながら〈別人〉である。

 心に〈嘘〉が忍び寄るとき、這いこむとき、人は愚かしくなる以上に醜く悪い者に変わってしまう。

 サーッと塗り変わるように同じ人が別人になる。

 

 別人とはしばしば虚栄である。

 虚栄が顔を凍りつかせる。それはふしぎな〈死〉だ。

 あなたは魅せられてしまっている者のキラキラと確信に輝く不安な瞳を見たことがあるか。
 殊更に美しく凍りついて目を瞠る哀れに輝くその裏切られた顔を見たことがあるか。
 そこでは愛が死に、幸福が死に、人が殺されているのだ。

 

 その顔は醜い。醜悪な瞬間だ。

 人間が別人のイメージにすり変わるカミソリのように薄っぺらな瞬間、そのとき、そこには誰もいない。抹殺が起こっているのだ。

 

 〈嘘〉はそれが忍び込む〈美しさ〉の閃きのなかで、心臓と眼球に壊死を創りだす。この壊死は実にみにくい。

 

 そこに〈嘘〉が住み着き、あなたの自我を怪我が歪め、やがて怪我は癌のように増殖して、あなたは〈嘘〉のケロイドのなかに窒息死し、〈嘘〉があなたの人格をすっかりのっとって、利いた風な口をききはじめる。
 みにくい〈嘘〉の塊がゾンビのように生きはじめるとき、あなたはどんな殺人者よりも悪く、どんな自殺者よりも惨めな存在になりはてているのだ。

 

 だれがあなたを救えよう? 

 どんな言葉があなたに届こう? 
 あなたは打ち捨てられた屍骸だ。

 復活もなく救済もない。
 おめでたい仏様であるあなたはそのときみにくくも悟り澄ましてしまっている。

 

 虚しい人よ、あなたは木偶坊、腐り果てて白蟻に食い荒らされた無力な仏像であるに過ぎない。

 悲しむべきときに泣きもせず、うすきみのわるい微笑みを唇に冷たく貼りつけて、優しげにただ笑ってみせるだけで、何ひとつ、他人どころか自分じしんですら救い出すことをしない。

 

 絶望的な人よ、可哀想な人よ、だが、あなたは同情にも値しない。あなたはもう滅びている。

 あなたは廃墟だ。すべてが焼き尽くされたニルヴァーナの廃墟に、そんなひどい滅びの地に、神は決して足を踏み入れはせず、そしてあなたのその見下げ果てた下劣な顔は余りにも醜いので、キリストにせよ弥勒菩薩にせよ、顔を背けてあなたを見ることもしないだろう。

 

 あなたはそのとき、身の毛のよだつような怪物に成り果ててしまっているのだ。

心を殺すな

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 どのような書物/作品にも、最後の読者/批評者というものはありえない。最低の読者というものは常に、否、非常に大勢ありえるのだとしても。

 

 最後の審判/最高裁の判決を下す槌、常に高きに振りかざされながら周囲を脅圧して低くへと振り下ろされ、破壊的な響きを上げて、いまだ私語と物語にざわめきつづける幾多の唇を打ち砕くように、沈黙と箝口を押し付ける槌の轟きが強制的に閉廷を告げ、人々を裁判所の外へと追い立て、締め出しを食わせる権力、みにくい腐敗しきった司法権というのがあるのだとしても。

 

 判決の醜さ、たといそれが有象無象のデモクラティックな陪審員によって下されるものであれ、知識と経験と権威の紫衣に身を包んだプロフェッショナルな裁判官によって下されるものであれ、みにくい判決というものはありえる。

 

 この〈みにくさ〉は単なる〈醜さ〉ではない。醜さよりももっと醜い〈みにくさ〉、わたしたちがそれを〈醜い〉と感じることすらできなくする〈みにくさ〉である。この〈みにくさ〉のためにわたしたちの顔は知らぬ間に醜くなる。わたしたちの顔は腐敗する。そこにやがて恐怖と恥辱が、あるいは絶望が、死に至るまでの罪がうみつけられる。〈悪〉はそこに生じる。善悪の分別というように、善きことの対概念としての〈悪〉ではない。その〈悪〉よりももっと悪い、吐気を催すほどひどい〈悪〉が生じるのだ。

 

 この〈悪〉とは心を偽ることである。それはしばしば〈善〉や〈正義〉や〈倫理〉や〈道徳〉の仮面をつけている。取り澄ました偽善者は、凶悪で剥き出しの悪魔よりも遥かに邪悪な存在である。邪悪で恐ろしい、憎むべき存在である。蔑み嫌い、殺すべき存在である。

 

 ひとはこの醜悪を心から憎むべきである。心から人を愛する、あなたのいのちを守るために。心から憎み、心から怒る者だけが、心から涙を流し、心から愛する人をその柔らかな胸に抱き締めることができる。だが偽善者/嘘つきは、この心を妨害し、心を破壊しようとする者である。