◆出来事-風/不可能性〈ありえない〉

◆様態=情動(pathos)→様相(modality)→モデル(model)

◆出来事と行為/行為者性(agency)と主体性の差異

  能動activityと受動passivityの分裂

◆不可能性→必然性:無限の半径radius/不在:放射能の被爆→可能者(可能性の中心)の誕生/存在獲得(在り得るが故に在る)→放射能の我有化/無による影響の除去:潜勢態への再命名→potential-energyを背景にして、radio-activityが局在化されて能動性activity(actus)になる。

◆非他者からagencyを剥奪すること。出来事をわたしから出て来ること(わたしに出来ること)にすること。不可能性を能力potentiaと可能性possibiliyに分割すること。能動的主体はactualityをactivityにすることによって生じる。あるいはagencyを出来事から剥奪して自己に帰属させることによって事後的に支配する。

◆出来事は何処から来るか。
 それをわたしから出て来ることにする(出来ることにする)。
 出来事は何処からともなく出て来る(過ぎ去る)。
 出来事の源をわたしへと定位する。
 主体はこの場合、行為者(出来事の代理人)である以前に場処(トポス)である。

◆能動的行為の以前に出来事の責任を負わされる受動的主体が他者によって形成される。

◆出来事をわがことへと引き受けることで能力的主体が形成される。わたしは出来事を所有すると看做される。
 ただしそれは全面的に他者によってされるのではなく、自己からの承認がいる。身に覚えがなければならない。

◆誰がそれをやったのかの追求。意見が分かれる。わたしがやったと主張しても他者が認めない。他者がわたしがやったと主張してもわたしは心外なので認められない。さもなければ神がやったのだ。

◆倫理的問題。責任主体。犯人は誰だ。倫理学以前の犯罪学の問題。出来事の窃盗。

◆しかしまた出来事からわたしは出て来る。
 とはいえそれはまだわたしではなくて〈この〉である。

◆〈この〉を〈この私〉にするには、それ以前に〈非他者〉がいなければならない。他ならぬは誰か、それは〈この私〉だというとき、非他者は消される。

◆だがそれ以前に〈この私〉でない〈私〉がある。
 そうでなければ〈私は誰か〉という問いは不可能である。

◆〈この私〉(誰か)である以前に〈私〉は誰でもない人として構成されていなければならない。それは一種のノーボディである。

◆偶然的私・可能的私・必然的私・不可能的私という私の四つの様相がある。

◆ありえない私(不可能的私)→他者のようではありえない私(必然的私)

◆必然的私は、しかし、非他者としての不可能的他者である。他ならぬだけであって、まだ私だとはいえない。

◆〈これ〉は他ならない。しかしその〈これ〉はまだ引き受けられていない。

◆他者は可能とならねばならない。
 可能性とはありえないことはありえないという不可能性の不可能性であると同時に、必然性の中断でもある。
 不可能的他者が他者の可能性へと転換する。
 しかしそれは私が他者でも有り得るということ、私の他者でも有り得る能力として可能的他者が生じる。

◆わたしは他者でも在り得る(可能性)。しかし〈これ〉は他者ではありえない。

◆わたしは他者でもありえたかもしれないがしかしこれであるとき、わたしは他ならぬこの私となる。柄谷における自同律の不快。あるいは自同律の偶然性。

◆現実的私は偶然的私としてしかありえないものとして構成されねばならない。

◆偶然的私は必然的私のうえに根付いている。

◆〈態〉=pathos/風流→〈度〉=modos/流儀:態度変更

◆passer/超越=過ぎ去り(通過=受動=過去)超越論的審級(instance=passé)の生成

◆風(風力=風速)/〈態〉とは受動性=不可能性である。

◆不可能性から必然性が生じる。〈他のようでは-ありえない〉

◆必然性における非他者の形成。非他者は不可能的他者というべきものである。

◆非他者は〈必然的なもの〉であり、主体(主語)性なき行為者性の様相である。

◆不可能性→必然性→可能性→偶然性への様相概念の順次生成。

◆非在→不在→否(無)→否定

◆非他者→別人→自己→他者

◆能動的知性/潜勢的(可能的)知性/獲得知性/現勢的(現実的)知性

◆可能性は存在獲得(有り得る)である。
 可能者=存在者としての自己(習性の基体としての自己)の獲得/自己とはエートスである。
 自己というモード(流儀-習俗)の固定化。わたしが〈このわたし〉であることは学習されたものである。
 自己は〈度〉である。

◆passer→passé(pathos/topos)instance(insister)→instant=présent

◆important=diaphora/空の充填

◆不可能性。さもなければ不可能であるというとき、この〈さもなければ〉から他者の観念の元基が生じる。

◆必然性は、他者の他者であるから自己である前に非他者なのだ。非他者は必然的である。さもなければ私は不可能である。 しかし非他者はまだ私ではない。
 非他者は必然性として〈さもなければ〉によって最初に運ばれる場処であり、最初に生まれる選択肢だ。

◆「他ならない」は「さもなければ不可能」と同一的なのではなくて背反的な選択肢である。非他者は区別されている。不可能的他者と非他者の間に〈別人〉がある。

◆しかし他者は可能性の段階に入らなければありえない。

◆不可能者から非他者への移行は様相としてしかありえないような別人によって媒介されている。

◆別人は非他者を真っ先に与える。別人は他者に先立つ。

◆必然性のトポスにあっても私は非他者をおそらく発見出来ない。

◆可能性への移行。他者は可能性として生じる。
 別人はそこでも機能する。わたしの多くの可能性として他者は多様化するだろう。その多くの他者の可能性は他者と他者を差異化する別人の働きがなければ無理である。

◆わたしはわたしであることが可能にならねばならない。しかしそれは多くの他者である可能性から選び取られたこのこれでなければならない。わたしは他者のなかから選ばれた他者である。

◆非他者はこのときになって初めて積極的に機能し得る。非他者は可能的他者から私を引き出す。

◆非他者の機能は恐らくわたしからの他者性の除去なのだ。そのようにしてわたしは創造される。
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出来事は出来する。
しかしそのときに出来事そのものは跡形もなく消滅して了っている。
出来事は目撃される。
しかしそれは目撃不可能なものの目撃である。

最初に目を撃つものは出来事の得体の知れない消滅である。
出来事は事物のように〈ある〉ということはできない。
それは存在することの不可能性としてしかありえない。
〈ある〉のではなくてそれは〈あった〉としかいえない。
出来事の過ぎ去りは絶対的に超越的で取り返しがつかず、
そしてまた、取り消すことができない。

出来事はその出来によって
存在と時間のカテゴリーを向こう側へと突き破ってしまう。
それは世界に修復不可能な風穴を弾痕を空けて
突風のように貫き突き抜ける超越のつんざきである。
それは確かに間近を通過するがその通過は把握不可能で圧倒的だ。
誰にもそれを止めることは出来ない。

出来事は必ずや起こってしまうし、
その起こってしまったことを通じてのみ、
何が起こったのかを、
出来事に突き放され置き去りにされた
わたしたちに恐らく告げるのだ。

しかし「恐らく」と言ったのは、
実は出来事は本当は何が起こったのかを
わたしたちに全く告げないのだということを、
わたしたちは実は永遠に
そのとき何があったのかを知ることができないのだ
ということを直ちにうべなうしかないからである。

出来事は一瞬にして
わたしたちの気を奪い取り掠め取ってゆく魔王である。
魔王が通り抜けるときに、
わたしたちは全き受動性の金縛りにあって
石化したように動けなくなる。

そのときわたしたちは恐らく「死んで」いる。
わたしたちは自分自身の「死」を見せつけられるのだ。

出来事とはそのような絶対的な暴力〔バイオレンス〕であり、
無差別殺人〔ホロコースト〕であり、原爆投下であり、
世界の終末であり、万物の全滅なのである。

しかしまた飜ってそれは、
死者の復活であり、救済であり、奇蹟であり、
新たな天地創造でもあるのだ。

それは人を選び、人を別ける。
或る者は殺され或る者は生きる。
排除と選別は
必ずこの本質的に暴力的な出来事にはつきものなのだ。

たとえそれが微風が頬にかかる程度の出来事であったとしても。

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存在と所有。レヴィナスのhypostase論の背後に、
トマス・アクィナスの用語法がどうもやたらとちらつくのは
なんとも気に懸かるところだ。

ところで、レヴィナスは実存者なき実存という
純粋に動詞的な非人称の出来事としての〈ある〉(il y a)の
なかなか己れを譲り渡さないという頑固な性質を
ハイデガーの〈es gibt〉のもつ豊饒さや気前のよさと対照し区別している。

この表現の含意の違いについては
ハイデガー自身が『ヒューマニズムについて』(1946)のなかで
元々指摘しているものである。

ハイデガーが自己解説するところに従えば、
ハイデガーの『存在と時間』における
〈存在がある〉(Es gibt das Sein)という表現は、
存在自体である〈それ(es)〉が
存在者に存在することを命運として〈贈与する〉
という存在の本質=現成である開示性(啓示性)
つまり存在の真理である非隠蔽性(アレーティア)
について語っている。

この存在の贈与=自己開示は、更に後年、
性起=出来事(Ereignis)についての思索へと
深化していったことについては言を俟たない。

この性起の裏面には脱去(Entzug)または
脱=性起(Enteignis)の次元が語られている。

レヴィナスの〈il y a〉は、
〈es gibt〉=Ereignisの背後にある
このEnteignisの側を寧ろ描出するものである。

ハイデガーによれば、
存在と時間の双方を開示/現前へと譲渡し、
この双方を相互帰属=相互依拠しあうものとして結び付けながら
一つの自己固有性として存在者の各自に与えることであるこのEreignisは、
しかし、この贈与することそれ自身の裡に
自己抑制を、沈黙を、Ereignisそれ自身の差押え
(Verhältnis/手控え・比例・比・関係・間柄・懐具合などの意味がある)
である決して譲り渡さぬものを所有する。

それは、
〈存在〉それ自身が存在者としては存在することがないという自己抑制であり、
またこれを存在の様相からではなく時間の様相からいえば、
時間それ自身が現前を届けながら、その背後に現在の拒絶と留保、
つまり現在となることを拒絶する既在、
現在となることを留保する将来(到来)として遊動していることである。

いわば、脱=性起(Enteignis)の脱去において、
逆に、永遠に現実の背後に伏在する非在の次元が必然的に召喚される。
この存在しないことの必然性の夜のなかで、
性起=出来事(Ereignis)の次元とはちょうど正反対のことが起きる。
そこでこそ、まさしく〈存在〉自体は必然的に存在者として存在し、
そして、また、このパルメニデスの一者だけが、
その永遠の現在のなかに譲渡不要なその存在自体性だけを抱きしめて
まさしくさかしまに性起してしまうのである。
〈存在〉はそこに自己自身を持つ、所有する。
〈存在〉が〈存在〉であること、
それはこの不可能な絶対的同一者であることの自己贈与がある。
〈自己〉、それは決して譲り渡されることのない
自己自身へのプレゼントなのだ。
しかし、この決して譲り渡されることのない永遠の現在から、
それにもかかわらず、存在は贈られ、そして、この現在は生まれ出る。
全き不毛の大地の上の奇妙な自然の不可思議な豊穣。
なんと不思議な構造でそれはあることか。

存在と時間は、それ自体としては、
己れを全面的には与えず譲り渡さない、
非人称的で顔のない、主体なき〈性起〉であって、
この〈性起〉はより自体的につきつめていけば、
〈脱=性起〉または〈il y a〉という無頭の怪物である。

これを性起の側から、光の側から、ハイデガーの側から、
送られまた贈られて受け取る側から考察してみるなら、
この側面においては、存在の真理である現在=現前は、
存在論的な様相では有限性・可能性・偶然性として記述されることになる。

存在者の存在は存在者の所有となっているが、
それは有限な存在、己れの存在可能であるような存在、
偶然的な存在、つまり他のようでもありえる、
他者を己れの能力ないし可能性として持ちながら
偶然たまたまこのようであるという意味で
現実的に存在しているということであるだろう。

様相同士の関係をより見やすいかたちで言い換えるなら、
存在者は己れの無限の存在可能として伏蔵=潜勢態に他者性を所有しつつ、
そのなかから偶然性によって有限化して自己化しているということになる。

存在者の自己は偶然的で有限的である。
それが他ならぬこのこれであり、このようであることに必然的な根拠はない。

現実存在は偶然そこに引き渡されたものに過ぎないのであれば、
存在において存在論的に恣意的なものであるに過ぎない。

つまり幾らでも他と置換え得るもの、取替えのきくもの、
死んだとしてもすぐ身代わりによって埋合わせのきくもの、
大勢に影響のないもの、ということになる。

つまり存在者は存在の全体性
(それは存在可能の全体性である)から見て、
それが誰であっても構わない無差別で未規定なものに過ぎないのである。

現存在とは要するに役職名であり、役割であり、ポストなのだ。
それは存在の〈現〉(Da)のただの無名の番人に留まる。
存在にとって都合が悪くなればいつでも首のすげ替えがきくのである。
存在者の身の程(適合性・特質・固有性)は存在が一方的に定め、
判断し、人員配置し、分担するものであるにすぎない。

存在者に意志の自由はない。その人格は実は無視されているのである。
存在が存在者に求めるのはその偶然的で有限的な存在の分け前に与かることであり、
そして存在が決定したその固有存在に適応するという受動性だけである。

この存在は問うても応答しない。
寧ろ存在の一方的な期待に応えてその一方的な命運を命令として
聴き従わねばらならぬのは人間なのである。

このように考えるならば、レヴィナスが
ハイデガーの非人間的(ノン・ヒューマニスティックな)存在論に
反発する動機は生き生きと見えてくる。

一見優しげで気前のよい豊饒な自然のようにみえるこの性起たる存在は、
実は信用のならない狸親父であるかもしれない。

非人間的な抑圧支配体制に過ぎぬものを
自然といいくるめて美化することは、
大企業のいけすかないお偉方が毎日やっていることであるに過ぎない。

ハイデガーの自然概念は技術やテクノロジーとの間に差異を立てられない。
彼はそれを製作的=生産的自然とみてしまっているからである。
それは物を生産する自然である。

彼の見方に従えば、資本主義は自然である。
そして将来から時が時熟するという彼の有名な定式や、
サルトルに口真似されることによって
より箔が落ちて本体があらわになっていってしまったといえる
〈投企〉という思想は、古代ギリシャよりもいっそう
現代の資本主義社会にこそ適合したものである。

実際これほど株式会社的な言い回しはないだろう。
サルトルの実存主義であれハイデガーの後期思想であれ、
それは戦後復興期の資本主義の精神によく適合したものであった。

未来のために将来のために全体のために現在を犠牲にすること、
それが人間実存の自然であるというなら、
実存主義はヒューマニズムではなく寧ろ反人間的資本主義なのである。
それが構造主義やサイバネティクスによって取って代わられたのは、
当然の成り行きであった。

ハイデガーが己れの哲学をヒューマニズムではない
と言ったことはこの意味において正直な発言だったといえる。

彼は戦後資本主義社会体制のイデオローグであるという
己れの新たな使命を自覚していたのである。
その彼が晩年において哲学はもうおしまいだと宣言し、
サイバネティクスがそれに変わるだろうと嘆くのは、
逆に彼の哲学が何に支えるものだったに過ぎないかをあらわにしている。
つまり人間の学問による管理である。

愚かしい発言である。哲学はもう終わりだというのは。
サイバネティクスが倫理学や美学の代わりになってくれるとでもいうのか。

しかしそのことは一先ず措く。問題はレヴィナスである。

レヴィナスの〈il y a〉(Enteignis)は性起の裏面に、
有限性・偶然性・可能性とは違う様相概念を識別している。
すなわち無限性・必然性・不可能性である。

性起は己れ自身を譲り渡さない。
この譲渡不能=疎外不能の存在それ自身の
自己固有性(特質)をこそレヴィナスは曝露している。

レヴィナスの実存者とハイデガーの現存在の性格の違いは、
立場の違いである以前にまさに性格の違いである。
光の中には存在=権力からの疎外がある。
しかし闇の中には天使とイスラエルの格闘がある。
この格闘は相続権を巡る血肉の争いである。

性起それ自体の自己所有としてEnteignisは
異妖な偏執的把握(ブランショ『文学空間』)の相をみせる。

存在に先立つ所有。
ここにこそ存在論をめぐる今日の巨人の争いの
真の争いの起源があることにわたしたちは気づくだろう。

実は存在論の問題は、それに先立つものの
所有・譲渡/不譲渡・贈与または剥奪の問題なのだ。

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思考にとって根源的経験といえるもの、
いや寧ろそのようにいうべきではなく、
運命的瞬間でありまた決定的体験でもあるような出来事、
初体験[≒処女喪失]というべきもの、
記念すべき、そしてそれに憑依され
そこに呪縛されつづけてあるような原光景をなすような出来事、
それはなにかしら全く他なるもの、純粋に他なるものの体験である。

思考がそれに殆ど犯され、
強姦されるというような仕方で初体験し、
いやむしろそのような仕方でしか
それを初体験しえないというこの純粋に全く他なるものは、
思考の身に起こる或る比類のない異変を、
その身に起こる災難を、
その身に降りかかる災厄を意味するものであるだろう。

初体験とここにいう出来事は
まさしく厳密にいって思考そのものの誕生を意味する
という他にないのだけれども、
思考そのものをイニシャライズするこの初期化、
または思考そのものをイニシエートするこの秘儀参入の出来事は、
思考の基体にとってそれを主体化する出来事であるにせよ、
破壊的で暴力的で強制的な出来事である。

この初期化の過程は、
思考基体を思考媒体に強制的に変換するものであって、
思考基体がそれ以前にもっていたであろう内部組織を
ズタズタに破壊してしまう
思考自体の災変=再編成の強制執行を意味するものだろう。

思考媒体とせられた思考主体は
以前にあったそれ自身であるところの基体から引き剥がされる。
いずれ再びまた同一の基体に転記され
書き込まれ内在させられるとしても、
そして基体に再内在化されることによって
主体化し実体化するのだとしても、
それはかつて己れがそれであったところのものに、
それを大地として小さな〈種〉のように還元されて
埋め込まれるということに過ぎないだろう。
大地は分断され命脈を断たれ死物と化していることだろう。

思考は確かにかつての故郷に舞い戻ることになるのだが、
故郷は彼をよそものとしてよそよそしく受けとめるに過ぎない。
思考にとってかつての故郷である基体との一体感は
二度とは戻らないのである。
それは二度と再び自分自身と
内密(アンチーム)な関係に戻れないということであり、
私的言語または幼児の喃語による
自分自身との意志疏通がうまくいかないということを意味する。

思考は自分自身を再び受け容れてくれた基体を異質なもの、
そのなかにあって居心地の悪い不気味な場処として受けとめる。
この感受性は思考に属する。
それは思考の新たな単独性または固有性を作り出す。

かつて基体との端的な一体性のうちに成就されていたであろう
一次的な単独性=普遍性、
本来的な固有性は剥奪されたまま二度と戻らない。

感受性はそれに代わるものである。
それは同質性や親密性や親和性ではない。
感受性は異質性や異様性、異和性によって根源的に条件付けられている。
感受性の根底にあるのは還元不能の違和感であり齟齬である。

自己異和性は、自己同一性と切り離しがたく結び付いて必然的に生じる。
自己異和性という感受性は、
自己同一性の論理によって無視せられがちだが、
実は理性(通常〈理性〉と呼ばれるところの論理性)よりも
高次な知性の思考に残存していることの証しであり、
自己異和性という外傷を通さなければ
自己同一性は単なる抽象的な、そして愚かな類的同一性であり
種的個別性をしか意味し得ないだろう。

自己異和性の反対物である自己同和性こそ
自己同一性の論理性が教訓的にそうあるべきはずであるとして、
感受性に課せられた義務として、また当為として期待する
洗脳的=弁証法的な効果である。

しかし感受性はこれに永遠に違背し背馳すること、
反抗的=逆説論的な主張を表明し続ける。

感受性は、従って超越論的なものを
自己同一性には還元不可能な外部性として、
反弁証法的逆説として、直接無媒介なものの執拗な存続として、
実存(ex-sistereつまり基体から剥奪=搾取されること)という自己同一化
つまり実体化に対する抵抗・レジスタンスとして、
異議申立ての告発として基礎づけるところのものであるだろう。

超越論的なものは直観ではなく、
寧ろ直観とは根源的に違背するところのこの感受性である。
感受性は直観には還元不可能である。
【1】疑いは、必ずしも問いのなかに
 完全に明白なかたちで現れているとは限らない。
 それは兆しの薄明のなかにまだその殆どを眠らせている。
 問いは、これに比べて非常に明瞭で
 そしてたしかに知的な印象を与えもする。
 だが、問いは或いは疑いの仮象であるのかもしれない。

 大人は確かに何でも知っている。
 子供の問いをつかまえそのすべてに
 いちいち答えることができるかも知れない。
 けれども、子供が何故問いかけてくるのかを知りはしない。
 何にでも誠実に答えてやることのなかで、
 子供に知恵をつけてやったと大人が不遜にも思い込むとき、
 大人は子供のなかの生きた疑いの豊かさを
 それがまだ萌芽のうちに摘み取ってしまい、
 子供の精神を貧しくしていないとは限らない。

 これはまた別の《無知の知》についての不安な寓話だ。
 ソクラテスの精神が必ずしも健全なものではなかったのかもしれないと
 考えさせるきっかけが始まる。

 自分が無知であることを知っているという明晰な意識は大人のものだ。
 ヒステリックに人の言葉をその口から摘み取ることに
 汲々としてしまうわたしたちの態度のなかで、
 確かに子供はまだ話し出しもしないうちから黙らされてしまう。

 口を塞ぐ大人の大きな手のなかで子供は窒息する、殺される。
 このことは実に毎日起こっている。
 今もわたしがこのように書くことのなかにおいてさえも。
 だが、もっとあからさまにこうした暴力が横行するのは
 議論屋の屯ろするアゴラにおいてだ。

 とりわけ思想について話がされるとき、
 こうした痛ましい殺人が平然と行われているのを目にする。
 教師の横柄さは最も思慮深い子供たちを常にまっさきに害する。
 ここには繊細の精神が絶望的に欠けている。

 何故常に子供の無知を打ちすえるような
 蛮声をもってしか教えられないのか。
 そこには相手を育もうという配慮のひとかけらもない。
 ただ己れの蛮声のなかに相手を引きずり込み、
 根こそぎにするためだけに教師どもは語る。

 解説し、啓蒙し、問題意識を植え付け、
 あるいは批評という語のその物悲しい語源そのままに、
 切り刻むことを教え、
 それはやがて引用という名の破壊行為の乱脈へと堕落する。
 これが教養俗物どものやり口である。

 つまりそのようにして、彼らは己れの同類を再生産する。
 優雅なサロンという最悪の野蛮のなかで、
 思考は絶望的に退廃し、そして腐敗してゆく。

【2】思考/異なる仕方で。
 それは異なる仕方で疑うことを学ぶことであり、
 異なる文体で語ることを――疑いから問いを引き出すことを学ぶことだ。

 さりとて手本がある訳ではない。
 また、常にうまくやれるという保証はまるでない。
 けれども、このように決意し、
 とにかく態度をひとつ変えてみることのなかで、
 少なくとも違う在り方を模索し始めることが必要だ。

 ぼくたちの押し潰された生のために。
 というのは、押し潰されているとはいっても、
 それはまだ生きており、
 鋭い苦痛の叫びを上げることの傍らで、
 この叫びそのものによって押し潰され、
 掻き消されながらも微かな疼痛として存在しつづけているのだから。

 この微かな生への忠実。
 裏切られ続けてきた子供、
 言葉を奪われ続けてきた子供に言葉を取り戻し、
 息を吹き返させることのなかで、言葉そのものもまた息を吹き返す。

【3】かつて、ぼくは肯定とは違った意味での《肯い》を自らに課した。
 限りもなくパッシヴな仕方で、
 ゆるやかに他者を受容するなかに自らをむなしくし、
 このむなしさのなかに肯われつつあるものとして自らを受け取ること。

 それは否定と対をなすような肯定ではなく、
 また、措定とも異なる出来事の体験である。

 《肯い》のパッシヴィテは、
 受動的であるというより消極的であり、
 消極的であるというより一層、消滅的である。

 《肯い》とは退却であり、無限の後退の運動だ。
 引き下がることを通して前方に場処を空ける。
 前方に空虚がざわめく。
 そしてどこまでも後ろへと引き下がってみる。

 《肯い》から学ぶものは大きい。
 ぼくはパスカルの傲慢をこうして静かに退けた。

 蔑みはすまい。だが言おう、パスカルは傲慢である。
 無限の空間の永遠の沈黙に恐怖しながら、
 考える葦を考える思考がどんなに醜く倨傲であるかが直ちに知れる。

 このような小ささへと一見退却しながら、
 阿修羅王バリを騙したヴィシュヌそこのけの卑怯さで、
 小人は次の瞬間三界の征服者として無限の頭を押さえ付ける。
 これは姑息なやりくちである。

 たった前へ三歩進むだけで踏破できる程度のものを
 無限と呼んで怖がってみせているに過ぎない。
 ここには子供騙しがある。

日本的現実性には
可能性の蜘蛛の巣が薄暗くかかっている。

可能性の蜘蛛の巣は電線であり、蜘蛛の神経である。
それは振動し易い糸電話で、
キャッチした新しい単語や話題は聞き逃さないが、
実際には蜘蛛の巣のようにスカスカである。

他者の頭上に
蜘蛛の巣のネットワークを張り巡らす人間は
既にナルシシズムの寂しい病人である。

他者との絆を蜘蛛の巣を伝わってやってくる話に求める人は、
その絆の関係性(他者と結ばれてあること)を大切にする余りに、
他者をその蜘蛛の糸で絞め殺したり、
或いはその蜘蛛の巣から零れ落ちるがままに見損ない続けている。

蜘蛛にとって他者の他者性は端的に消えうせている。

彼は蜘蛛の巣をより広くより綿密に張り巡らして
全てを覆うことにしか興味がない。
他者の他者性の代わりに大切になるのは
〈知人〉という価値である。

他者との愛を育むことに蜘蛛的人間は無関心で、
〈知己〉を獲ることだけに夢中になる。

しかしそれは自ら人間の生き方を放棄することである。

世界に心の配線を張り巡らす蜘蛛は
〈心配〉(不安)や〈気配り〉(気配)にあたふた
自他端(じたばた:これは私の創意による黙示録的宛字である)する余りに、
その蜘蛛の巣の上でキリキリ舞いしている
不幸な世界の支配者になるだけである。

しかもその巣は非常に破れ易い。
終始一貫して蜘蛛は巣を修繕し続けなければいけなくなる。

その巣を取り繕うこと(単なる解釈学)に夢中になる余りに
蜘蛛は現実の宇宙の時間を止めてしまう。

それは魂の死である。

実際には大宇宙もまた織物である。

けれどもその織物は
蜘蛛の巣のようにスカスカの
永遠の可能性の襤褸布ではない。

蜘蛛の巣というのは
いわば破れ目だけを綴れ合わせて作られているようなもので、
そうすることによって
現実の宇宙からやってくる
破壊的な隕石や流星雨から身を守っている。
換言すればそれは傷つくことが怖いからである。

しかし大宇宙という織物はそうではない。
それは可能性の織物ではなく現実の織物であり、
関係性によって織られているのではなく、
出来事によって織られている。
それは突き破られることがありえない。

大宇宙という織物は美しい星空のマントであり、
天馬の翼である。

人は誰しもその星空のマントを羽織るなら
その瞬間に全宇宙に君臨する神的な大王となる。

そのとき止まった時の輪(常盤)は回り出す。
そうなるとその車輪に巣食っていた全ての蜘蛛の巣は
もう張り巡らすことすら不可能になる。

蜘蛛はそのとき潰れて死ぬ。

そして大宇宙の不夜城が忽然として蘇り、
人間の手前に王道が開けるのである。

  *  *  *

大宇宙は存在しない。
大宇宙は現実であるだけだ。
だから、それは美しい。

美しいとは、
内に奇しきものが宿っているという
事物の様態を説き明かしている言葉である。

美とは内奇性のことである。

奇しきものとは現実である。
出来事は出来する。
それは奇なるものの出現にしてその到来である。

奇なるものは解字すれば大可性である。

大可性は可能性ではない。
可能性の限界を大なるものが突き破る破壊的な出来事を表現している。

小さな羊の仔羊が突然に大きな羊になる。
美とは羊の巨大化である。

大羊は大洋に通ずる。
それは海のことであり、
海とは〈生み〉つまり誕生という出来事を表現している。

生とは大地の上に牛の乗る象形である。
また、牛に一を加えた象形である。

ところで、私はここで漢字の字源について
言語考古学的な話をしているのではない。
私は漢字を新たに創造しようとしているのである。

牛や羊という文字が、
動物のウシやヒツジとは違う観念の生命を帯び、
形而上学的な出来事を表す
天=文学的シンボルに錬金術的に変換するとき、
それは単に形而下的な人文科学を
端的に超越する激烈で超新星爆発的な意味をもつようになる。

天=文学とは占星学のことである。
しかしこの星は天体の星を意味するものではない。

星は日を生ずるもののことである。
日の原字は○の中央に小さな黒丸を置く。
これは太陽の天文記号として古くから用いられている。
しかし、このかたちが示すのはむしろ太陽ではなく、
まどかに見開いた古代シュメール人の瞳の目印である。

星はその美しいきらめきによって人のまなこをひきつけるものである。
星の上に驚異の目は生じて止まる。
それゆえに、星は優れて目印である。
それは生まれたばかりの日であり、
それ自体において誕生日(生まれた日)を意味する象形文字である。

星は出来事であり、また出来事を記すものである。
出来事は目撃される。目撃は経験ではない。
目撃は端的に現実が目を撃つことだ。

そのとき目から火花の星が出る。
星は真の日である目から生まれ、また日を生ずる。
それはきらめきである。

星はマークであり、それは思考を表現するものである。
思考は星によって語る。
星は美しい学としての哲学の始まりである。

生まれるものは美という大きな羊である。
羊は牛に次ぐもの、牛に一を足したものである。
それは牡羊座を表す。

牡羊座は牡牛座に続くものである。
羊の原字は牡羊座の符号に等号=を重ねたものである。
牡羊座の符号はギリシア文字のイプシロンΥに形を等しくする。
イプシロンはラテン字母(elementa)に入ってYの形で表現された。
従って、羊とは日本円の貨幣単位を表現する符号¥で書き表されてもよい。

牡羊座の記号は海中から噴出する鯨の潮吹の象形である。
海中で最も大きな動物は鯨である。

鯨とはリヴァイアサンであり、
他方、地上で最も大きな動物は象であり、
象とはベヒーモスを表す。象は形である。
それは目に見えるものを意味する。
他方、鯨は海中に潜伏している。
それは水の中から決して出て来ない。

鯨はその意味では不出来である。
水は訓ずれば〈見ず〉である。
水の意味するのは不可視性である。

鯨は不可視性の内側にとどまる不出来なものである。
この不出来なものは
しかしその潮吹きの徴の下に横たわる
基体(hypokeimenon)としてある。

この不出来な基体から鯨の噴水図形は上に出来する。
従って、牡羊座の符号が表現するのは上出来性であるといってもよい。

牡羊座はシュメール人に続く
セム系のカルデア(バビロニア)人たちの占星学で第一宮となった。
シュメール文明の時代には牡牛座が第一宮である。
 わたしの考える「非他者」は、単なる「他ならぬもの」(否定の否定、他者の否定または他者の他者)ではない。
 単なる「他ならぬ」が意味しているのは、むしろ「別人」であり、これに対して「非他者」はむしろ「他のようではありえない」(他者の不可能性)である。それは二重否定的=自己止揚的同一性ではないし、否定的(他者の否定)でもないし不定的(他者の他者へのたらい回し、永遠の堂々巡り)でもない。

 「非他者」というのはその背後に「不同者」をも表裏一体に従わせている何かだ。それは「他のようではありえない」と同時に「同じでもありえない」何かである。だからそれは、差異性にも同一性にも還元不可能な不可能性としてある。

 だがこの不可能性は積極的でポジティヴな意味をもっている。肯定よりも肯定的な肯定性であるといっていい、偉大で美しい不可能者、わたしたちの誰もがそれによって生きているのに、誰もが見失ってしまっているもの。

 「非他者」というのはまさしく「神」だ。「神」はいる。そして「神」こそがいるのだが、それが消されてしまっている。

 「虚無からの創造」(奇蹟)が本当の意味で起きる場所、それが真の意味での「非他者」である。

 したがって、「別人」という悪魔性から、その闇を打ち破るようにして、超悪魔としての神である「非他者」が出来する主体の主体性の様相変換=位相転換論が語られねばならない。

 この様相変換論を、わたしはアポスターズ(背教の定位)と呼ぶ。
 埴谷雄高は「私は私であることは不快である」という〈自同律の不快〉の命題から、不可能体・不可能的人間存在である〈虚体〉の概念を演繹する。
 〈虚体〉は〈超人〉の観念と恐らく同じである。
 それは「私は私ではありえない」という命題によって表現されるものだろう。
 これは「私は私ではない」(否定性)と同じではない。
 彼が〈自同律の不快〉と〈虚体〉の観念を託した『死霊』の主人公・三輪与志は「自殺はただに自殺であるに過ぎない」として自己否定(自殺)と〈虚体〉の観念をきっぱりと区別しているからである。
 不可能体は矛盾自体であるかもしれないが、否定体ではない。
 「ありえない」(不可能性)と「ない」(否定性・非在)は意味が違うからである。

 埴谷雄高に先立って〈自同律の不快〉の思想を九鬼周造が確かにもっていたことは余り指摘されていない。
 九鬼の偶然性の様相形而上学は確かに表面的には西欧の必然性の形而上学に対する反発に発しているように見える。
 しかし、彼が「必然性」の名において告発し牙を剥いているのはむしろ同一性・存在・自己・一者を真理とする価値観、つまり〈自同律〉に対してなのである。九鬼はこう言っている。

 偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元性の邂逅」ということが出来るであろう。(『偶然性の問題』)

 九鬼の〈必然性への反感〉は〈自同律の不快〉乃至〈存在の不快〉を動機とするものに他ならない。

 しかし、私は九鬼と違って、必然性を同一性の様相であるとは考えない。
 むしろそのように考えることこそ不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。
 アリストテレスの基本的な表現法では必然性は〈他のようではありえない〉という仕方で実は他を含んでいる。必然性は同一性というよりは非他性である。
 つまりまさに必然性こそが一者と他者の二元的な邂逅の様相なのである。
 しかもそれは同一性に決して内面化することのできないような他者との邂逅(分裂)の様相である。
 同一性は必然性に突き放されることによって生じる。
 しかしそれは同一性が必然的であるということではない。
 必然的なものとは同一性(自己)ではなく、他者である。





著者: 大峯 顕, 大橋 良介, 長谷 正当, 上田 閑照, 坂部 恵
タイトル: 九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』
 形而上学的主体性の定位(位置付け position)乃至は定立(thesis)の様式として、次の三つの様態が対比される。

【1】存在論的主体性〈存在者〉を定立するエクスターズ
   (脱魂 extase:ekstasis)
【2】倫理学的主体性〈実存者〉を定立するイポスターズ
   (定礎 hypostase:hypostasis)
【3】様相論的主体性〈背教者〉を定立するアポスターズ
   (隔離 apostase:apostasis)

 これは第一哲学=形而上学は何か或いは何であるべきかについての
 問題設定の討議場での立場(position)の相違をも表している。

 エクスターズ・イポスターズ・アポスターズは、
 いずれも仏語訛りのギリシア語で、
 「立つ(立っている)」を意味する共通の語根〈stase(stasis)〉に、
 それぞれ異なる接頭辞〈ex(eks)外に〉〈hypo 下に〉〈apo 離れて〉が
 ついたものである。

 ギリシア語の接頭辞の多くはラテン語と同様に
 前置詞(pre -positon[前・先に置かれていた場所(前定位)])から
 派生する。

 しかしこの三つのうちで〈eks〉だけは別で、
 副詞(adverbe すなわち動詞 verbe を形容するもの)起源である。
 このことはやがて意味をもってくる。

 ek-, eks-, exo-は副詞語源で「外に、すっかり、外の」を意味する。
 エクスターズ(ekstase, ecstasy)は普通、
 「恍惚」(魂が体外に出ること)を意味する語である。
 これは仏教用語で「解脱」といってもよい。
 哲学用語としては、通常「脱自」
 (自分自身ないしそれ自体から外に抜け出ること)
 と訳され、ほぼ「意識」(対自存在)の同義語として
 サルトル等の実存主義哲学に用いられている。
 
 hypo-は前置詞語源で「下に、不足」を意味する。
 
 apo-は前置詞語源で「…から、離れて、…しまう」を意味する。
 埴谷雄高の〈自同律の不快〉のテーゼ「《私が私である》こと(自同律/A=A)は不快である」を、『探究II』の柄谷行人は「一般性(類)-特殊性(種)」の系と「普遍性(超越)-単独性(個体)」の系の食い違いの問題に置き換えながら、これを〈単独性の脱去〉のテーゼ「《私が私である》こと(包含/A∋a)には〈この私〉が抜けている」にパラフレーズしている。
 これは「〈私〉と〈この私〉が別人である」という〈別人の恐怖〉のテーゼに換言しても内容は同じである。
 この場合、〈私〉は「一般性のなかの特殊性」「類のなかの種」「クラスのなかのメンバー」「母の胎内の子」ということのできる特殊者であって、単独者としての個体性を意味する〈この私〉とは、同じ「私」であってもその「私」の意味が違っている。
 これが〈別人〉であるということである。
 しかし、他方で特殊者〈私〉と単独者〈この私〉は物としては全くの同一人物である。
 すると《私は私である》という自同律(自己同一性)にしたがって、特殊者と単独者の間の差異(別人)は消され、〈私〉と〈この私〉は〈同じ私〉にされてしまう。
 すると〈別人の恐怖〉は〈自同律〉の背後に抑圧された黙した恐怖(語り得ぬもの)にならざるをえない。