〈わたしはある。だがわたしはわたしを所有していない。
 それゆえにまず、わたしたちが成る〉とエルンスト・ブロッホは言う。

存在に先立つ如何なる所有物もない
無一文の〈ある〉の境位から直接出発して、
〈われわれ〉の歴史の生起を語り得たのはブロッホであった。

その最初の〈ある〉の孤児性に注目しよう。
ブロッホの〈ある〉は誰から贈られたものでもない。
彼は最初に何も持たない子供である。

そのことが逆に彼の思考のこだわりをもたぬ軽やかさを、
そして貧しい人々へのおおらかな共感への暖かい広がりを自然に与えている。

ブロッホの『異化』には「鏡なしの自画像」という
優れたエッセイが収められている。
マッハの『感覚の分析』に付された挿絵に言及しながら、
ブロッホはそこに顔のない人間、
頭部が脱去した赤裸の現存在の姿を見いだしている。

正直な(エルンスト)ブロッホ。
わたしはここで父の名前である家名(姓)にではなく、
子の名前、その人自身の名前に注目したい。

ブロッホはマッハと共にそして
インディアンのようにErnstな人である。
それは嘘をつかぬ人、真面目な人、厳格で厳粛、
真剣で謹厳実直、品格のある重大な人間、
重要なただごとならぬ人の響きをもつ。
それは戦う人、論争する人の名前である。
エルンストの名は、戦士の意味をもつ。
レヴィナスの名がカントと共に
〈神はわれらと共にいます〉というメシアの名、
神の子として選ばれた〈人の子〉の名であることと同様に
この名の意義はまず最初に銘記しておかねばならぬことである。

ブロッホの根本性格は嘘のない真摯な戦士であることにある。
この顔のない男の名はエルンストである。イリヤではない。
マッハであれブロッホであれこの自画像は
エルンストという男の自画像なのである。
その頭格喪失の穴を通して、
彼はその閉ざされた孤独の空間からわれわれの方へと抜け出てくる。

わたしはある。しかしわたしはわたしをまだ所有していない。
それゆえに所有物に塞がれることなくその〈ある〉は
無差別に〈われわれ〉の方へとさらけ出され、
〈われわれ〉へと開かれている。
〈わたし〉にとって既にして〈われわれ〉は同胞であり
貧しき人々という共通本質のなかにある。
われわれもまたエルンストのように無一物である。
顔もなく特性(固有性)もない無名の大衆である。

カール・マイの冒険小説とヘーゲルを耽読した
工業都市マンハイムの不良少年、
鉄道官吏の息子で夢多く、
感受性の鋭いギムナジウムの落第生だったブロッホ。
彼は労働者と資本家の明暗がはっきりと刻まれた街を見て育った。

この感性は重要だ。彼にとって親しい者は工場労働者たちだった。
中産階級の欺瞞とは全く無縁だった彼は、
学校の下らぬカリキュラムなどそっちのけで図書館に通っていた。
堅信礼に反抗して口の中で〈ぼくは無神論者だ!〉
と唱え続けた少年ブロッホ。
嘘の大嫌いなブロッホ、ユートピアを正直に求めてやまぬブロッホ。
彼は夢と魂の他には何も持たず、
大人たちから何ひとつ貰ったことのない少年である。

わたしはこのブロッホの少年時代が、
フッサールやレヴィナスやハイデガーの少年時代よりも
好もしいものにみえる。

ハイデガーの場合、事は全く異なる。
彼は敬虔なカトリック教徒の家に生まれ、恵まれて育った優等生だった。
聖マルティン教会の堂守の長男に生まれた彼は聖者の名前をつけられたのだ。
母の家は十六世紀にまで溯れる旧家だという。
弟のフリッツとは仲がよく、幼いころから活発に外で遊んだ。
他に妹がいたが、はやくに死んでいる

余り注目されていないが、
この幼い妹の死がハイデガーの心に残した傷は
かなり深いのではないかと思われる。
死や他者や物について語るとき、
ハイデガーの言葉に重苦しい辛い調子がよぎる。
絶えず喚起される無のイメージは妹の喪失にこそ深くかかわっている。
この妹について余り語らない、
語らなさすぎることは
痛手の深さがどれだけのものであるのかを却って告げている。

Geheimnis――存在の真理の内なる秘密、
それは死んだ妹のことなのだ。

失われた幼女への不幸な永遠の愛、
その不可能な愛の苦しみが
ハイデガーの存在論の秘密の基調低音をなしていることに
どうして気づかずにいられようか?

愚かな妹であったにせよ、
死ぬまで妹に面倒を見て貰ったニーチェへの
嫉妬と羨望が恐らくハイデガーにはある。

そして、ひどい女であるエリザベートに
引き取られてしまったニーチェの悲劇、
偽りの家族愛によって破壊されたニーチェの運命の本当の悲惨さが、
その人間的な余りに人間的な不幸が
そのためにハイデガーには多分みえなくなっているのだ。

だが今ここでわたしが注目したいのは
特に父の友人から贈られたプレゼントの問題だ。

プレゼント(贈り物/現前/現在)の問題。

ハイデガーの場合、
それはフランツ・ブレンターノの
『アリストテレスの存在者の多様な意義について』だった。
然り、まさにこれこそ》Es gibt das Sein《だったのだ。

〈存在〉は贈物として気前よく与えられたものであった。
恐らくそれは幼い頃に妹を亡くしたハイデガー少年にとって、
特別な意味をもった出来事だっただろう。
それは妹との関係を取り戻すためのよすがであっただろう。

ピグマリオンの願望、わたしはそれを笑えないし、責めることもできない。
ハイデガーの存在への異常な愛情は亡き妹への執着の強さを物語っている。

存在を忘却しない。それは妹を忘れられないということであるだろう。
それがこのハイデガーの思索の本当の動機なのだ。

ハイデガーは愛を知らない人ではない。
実現不可能な愛を生きようとした人だったのだ。
その愛は余人には表明されない。しかし表現されている。

ハイデガーは死んで決して生き返りはしない妹の幻に、
その美しい幻影に憑依かれた男である。
存在とは妹のことである。神は妹を生き返らせてくれなかった。
妹は存在者ではなくなった。しかし妹の存在は永遠である。

ハイデガーは神を恨み、ひそかに神を否認する。
妹は自然神フィシスへと格上げされ、
存在者を存在させる性起の力となる。
万物は今や死せる妹から来る。
死せる妹は世界を背後から支配する。
大地の女神の秘密の名前をハイデガーは知っている。
その名はメスナー・マリーレ・ハイデガーである。

しかしこの問題はこれ以上深追いはしない。
次のケースを見て見よう。少年フッサールの場合。
彼もまたプレゼント(贈り物/現前/現在)を受け取っている。
晩年、弟子のレヴィナスに沈痛に漏らしたあの切れ味の悪いナイフのことである。
それをよく切れるように研ぎ澄まそうとして
刃金の部分を擦り減らし使いものにならなくしてしまったプレゼントの問題。

擦り減る現在の瞬間の痛みは、
フッサールの現象学の方法論的探求の
絶えず駄目になって再びやり直さねばならなくなる
悲劇の永劫回帰を物語るものだった。

優しい弟子のレヴィナスは
師匠のこの擦り減る現在の瞬間が、
擦り減りながらも無くならずに再生する魔法の瞬間であることを、
そしてその瞬間の漸消が逆に主体の主体化の条件である
位相転換(基体化)を可能にするものだということを
『実存から実存者へ』の中で証明する。

現在というこの不可思議なプレゼントのなかで、
常に失われたものは甦らねばならないのだ。

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 エルサレム、一九九三年一月。あの世界で最も美しく痛ましい都市を訪れたとき、異邦人であるわたしはその壁の遺跡に縋って泣いた。

 拙い祈りと願いのことばを書きつらねた小さな紙片を灰色の壁石の間に差し挟んだとき、わたしは無言の神の足元に縋り付く、小さなみすぼらしい無力な子供のように孤独だった。胸の中からこみあげてくる苦く熱い涙をせき止めるものは何もなかった。おまえの祈りを聞き届けたと言ってくれる神のやさしい手のぬくもりほの明るい声や息もわたしにはかからなかった。

 そこには神はいなかった。神は全くそこにはおらず、ただ孤独なわたしがいた。孤独に閉じこもって答えぬ壁に頭を打ち付け、さまざまな祈りをそこにおいてゆく他の孤独な人々がいた。

 神はいない。人々が置き去りにしてゆく祈りだけがそこにある。そして祈りの紙片はやがて壁石の間で朽ちてゆく。紙片に書き連ねられた文字は風化し、色あせて、やがて黙した時の砂漠のなかにうっすらと消えうせてゆく。そのとき祈りはかなうのだろうか。そのうすよごれた文字が忘却の白さのなかに透き通って消えて行くとき、一瞬きらめく風のひらめきのなかで、神よ、あなたは、そのきわめて微かな臨在の光芒をわたしたちにお示しになるのだろうか。

 奇妙なことだった。その思いがかすめたとき、そこに決していらっしゃらない神の御心とわたしの心が触れあった。きらめき、限りない彼方での風のきらめき、風のなかできらめく限りなく小さな砂粒の上で、わたしは神とすれ違った。このすれ違いが出会いだった。その顔は見えなかった。けれどもその体のふしぎな感触をわたしは生涯決して忘れることはないだろう。

 その一瞬のきらめきのなかでのかぎりもなく静かな邂逅。消えうせるその邂逅のなかで、わたしは知った。あなたを愛している、わたしはあなたを永遠に愛しているということを。あなたが誰であるか永遠に知ることはないけれど。この命も体も魂もあとかたもなく風前の塵に消えうせてしまっても、きらめき、わたしが消え、あなたが消える、その無のひらめきのなかで、わたしはあなたを永遠に愛するだろう。

 これは信仰でもなく、知識でも、確信でもない。神秘ではなく、法悦も恍惚もない、そこには全く何もない。

 では、この奇妙な神の体験は一体何を意味するというのだろう。一体何がそのときわたしの身に起こったのか、今もってわたしには分からない。分からないのに、そのとき、その不可思議などこでもない場処を姿もなく通り過ぎていった神はかぎりもなく美しいものだった。美しいものがきらめいて過ぎ去っていった。わたしは神を通り過ぎ、神はわたしを通り過ぎる。その間に切り結ぶものは何もない。対面もなければ契約もない。取引もなく、そして、交わす言葉もありえなかった。

 それは、見渡すかぎり何もない明るい砂漠を旅する途上で、姿すらもみえぬふしぎな遠い蜃気楼か陽炎のような人影と、まるですれ違ったというその感触じたいが錯覚であるかのような微かさで、すーっとすれ違ったかのようなものだった。

 お互いに顔を見合わすこともない。相手に顔があったかどうかさえわたしは知らない。わたしは呼び止めようともせず、相手がわたしの遠い傍らを通り過ぎるにまかせた。向こうがこちらに気づいたかどうかさえわたしにはどうでもよいことだ。たがいに全く無関心で、無関係に、まったく別々の道を歩み、何の接触もなく、相手のことにはまったく構わず、すれ違うだけ。

 そのときに、わたしは感じ、そして知った。わたしは自由である、と。神とわたしの間にあったのは完全に自由な関係だけであった。わたしには彼に罪がないように、彼もまたわたしにどんな罪もない。それがわたしのような異邦人との間にありうる唯一の奇妙な〈契約〉であるのかもしれない。

 そこには厳しい掟や戒めはない。復活と救済の恩着せがましい愛の呪縛もない。あるものは美しいひとすじの髪の毛より細いきらめきだけであった。しかし、このきらめきの契約は、それ以上にすばらしい、最も神聖で最も至高の契約であった。このきらめきの意味は、友愛である。自由で、透明で、虚偽のない友愛である。

 その友愛を受け取ったとき、わたしは深い真実の慰めと幸福感に満ちた感動を覚えた。神はわたしにかぎりなく美しく大きな恩寵を下さったのだ。彼はわたしにこう約していたのである――あなたを、いかなるかたちでもわたしは支配しない。あなたがわたしを愛するように、わたしもあなたを永遠に永遠に愛している。あなたに平安あれ。

 そして、あなたにも平安あれ、すばらしい神よ。わたしはあなたに会ったことを永遠に永遠に忘れないだろう。さようなら――さようなら。

 このようにして、祈りのつくりだした不可思議な空間が尽き果て、そして、祈りの尽き果てる彼方の時が永遠のなかに消えうせたとき、わたしのなかに、わたしを完全な許しのうちに過ぎ越していった神の痕跡が、三つのやさしく美しい言葉として残った。それは、〈愛〉〈平和〉〈永遠〉というたった三つの単語である。

 それが自由な友愛の契約のすべてを構成し、かたく結び付いてクリスタルのように透明にわたしの心に結晶していた。それは生きていた。それはわたしのいのちであった。わたしのいのちは神に吹き込まれた息によって生きていた。それは神のくれたいのちである。その命を生きよ、あなたの生命を生きよ、あなたがあなたを生きるとき、神はあなたを生きる、あなたは神を生きているのだ、神があなたと共にいることを忘れてはいけない。

 わたしはわたし自身の心臓に驚いていた。わたしの心臓は透き通ったクリスタルのように透明で美しく、その中心に神の火が熱く燃え、知性あるもののように、わたしにそう話しかけているように思われた。それは幻聴でも何でもない。わたしの鼓動が聞こえたに過ぎない。だがわたしにはその心臓の動悸の意味する優美で崇高な意味が、ふいに、頭の中で解けたのだ。

 わたしは長い死の眠りから醒めた者のように目を開き、周囲を見渡した。泣き濡れた頬の涙痕を、びっくりしたように眺めている眼鏡をかけた髭の長い正統派らしい黒っぽい服を着たユダヤ人男性の目を丸くした怪訝に首を傾げた心配そうな顔が最初に見えた。

 神など別に信仰しているような風情のない得体の知れない東洋人の、見るからに不真面目な風体の(わたしは黒いショットの皮ジャンに黒いロンドンスリムのジーンズという余り聖地にふさわしからぬロック青年風のスカした格好をしていた)物見遊山の観光客が、誰も泣かない嘆きの壁で、ふいに何かに憑かれたように壁に抱き着いてシクシク泣き出したことが、感動的だったというより、たんに不可解で奇怪だったのだろう。彼はヘブライ語なのか下手糞な英語なのかよく分からないことばで、多分「おいおい、大丈夫かい」という程の意味なのだろう、何かわたしに話しかけ、両手を不器用に差し出して、困ったような顔をしていた。
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 パルメニデスは哲学史上最初に〈存在〉という観念が、
蒼白く冷たく暗い陰気な〈一者〉という不毛な幽霊に帰着することを、そして〈私は私である〉或いはA=Aという自同律の真理性がどれほど愚劣で嘲るべき無価値なものに過ぎないかを洞察し、それを実に闊らかなヒューモアをもって表現した賢者だったと考えた方が良い。
 私はパルメニデスという〈人間〉と〈一者〉とを安易に同一視する愚かなプラトニスト達の見解には賛成したくない。彼は〈存在〉の賛美者ではなくて、逆にその観念に対する一番辛辣な批判者であったのだと考えた方がクレイジーではない。
 彼は自同律や存在という人間の思考が一番陥りやすい真理という名前の甘い罠がどれほど無意味で莫迦げた嘘に過ぎないかをヘラクレイトスよりも鋭い言葉で水破抜いた人間である。
 彼が運動の不可能性を主張した逆説家で有名なエレアのゼノンの師であったことはよく知られている。そのことが告げる意味を見失うべきではない。
 逆説家の師は必ずや逆説家である。ゼノンが〈運動〉の不可能性を表現したように、パルメニデスは〈存在〉の不可能性を表現したのである。エレア派の哲学が根本的に価値を置いていた概念は〈存在〉ではなくて、むしろ〈不可能性〉の方である。

 高邁な彼らにとって、不可能性というのは実は全く否定的なものでもなければ忌避すべきものでもなかった。私はエレア派のパルメニデスの実在を信じる。
 それはプラトニスト(特にプロティノスのような新プラトン主義)のパルメニデスではない。存在(それはある)の哲学者パルメニデスではなく、不可能性(それはありえない)の哲学者パルメニデスの方が尊いのである。

 彼は自同律(AはAである)等という人間であるならどんな莫迦でも子供でも知ってもいれば信じてもいる程度の常識的な論理のイロハをわざわざ殊更新しげに疑うべからざる明証的な思考の原理として人に教えようとしたのでは決してない。
 そんなことを主張する人間はパルメニデスは白痴であると主張しているのに等しい。
 彼は自同律や存在の思想を主張したのではなく、逆にそれがパラドクスに陥ることの不可避性を指摘して厳しくそれを批判したのである。

 パルメニデスは恐らく恐ろしく誤解されている。
 自同律や存在の観念の最初の批判者が何故かその正反対の白痴の悪霊の代名詞に変えられてしまったのは実にグロテスクな話である。

 存在が存在し、非存在が存在しない、あるものがあって、ないものはない、ということは、アキレウスは亀よりも足が速いという程度の常識的な見解であって誰もそれに異を唱えることのないものであるに過ぎない。
 或いはまた、私が私であるということは自明であって、それを疑うような人間はまず滅多にいるものではない。
 パルメニデスは逆にだからこそそれが間違いだということを告発しようとしたのである。

 ゼノンは運動概念を批判したが、それで歩くことをやめたのではない。
 同様にパルメニデスは、存在が真に存在するというならそれは〈一者〉のような球体で虚空に独在しているに違いないと主張したが、自分がその〈一者〉なのだと主張した訳ではない。
 本気でそんなことがあるなどと思っているとしたらただのバカである。
 それではまるでヘーゲルではないか。

 パルメニデスという男は、その弟子のゼノンと同じく、風流な男である。
 もしも〈一者〉みたいにヘンなもの(ここで爆笑)しか存在しないのだとすれば、パルメニデスは自分は存在しない(そんなことはありえない!)ということを主張していることになる。
 つまり彼は自分自身の非存在「私はいない」ということを論証しているのである。

 しかし、それは経験的事実と反する。
 経験的事実は逆に、存在ではなく全く非存在こそが実在しているということを告げている。
 それはパルメニデスが現実離れした男だからではない。論理というものが現実離れしているのである。

 パルメニデスが存在の自同律のパラドクスを語ることで示そうとしたのは、自分が幽霊であるということ(プラトニストの見解)ではなくて、〈存在〉こそが全く不毛な幽霊でしかありえないということである。

 エレア派の哲学の本質は徹底的なリアリズムにある。
 それはソクラテスの弁証法(産婆術)よりも怜悧な刃物で論理や観念のつくもっともらしい嘘を切断する思想である。

 例えば、ゼノンは現実の運動を批判したのではなく観念の運動を批判したのである。
 自分に向かって飛んでくる矢に止まれといって矢が止まることをゼノンは現実に要求しているのではない。
 彼が要求したのは、お話しの中にしかありえない観念の矢を現実の矢に置き換える巧妙な「説明」または「解説」という子供騙しな作り話を語って、まことしやかな観念の矢に怯えるような催眠術をかけて人心を操作しようとする嫌らしい自称リアリストと称する不純な動機の観念論者の政治的なその狡賢い口の運動が止まることである。
 ゼノンは飛んでいる矢は止まっていると言うことによって、実は観念の矢を観念論者の舌に向かって撃っているのだ。
 観念の矢が現実の矢と同じものだというのなら、観念論者はそれに当たって死ななければならない。
 もし死なないのだとすれば、観念論者は自分が何故死なないのかを説明してみせねばならない。
 答は一つしかありえない。観念の矢は結局虚妄の矢であって現実の矢ではないからだ。
 更にいうなら観念論者の言っている〈現実〉は、その権利もないのに勝手に〈現実〉の名を騙っている観念に過ぎないのだということである。

 経験的現実を楯にとってそれをもっともらしげに引証して〈現実〉を捏造することは易しい。
 しかしそのように捏造された〈現実〉は結局は〈可能性〉でしかない。
 そして結局〈可能性〉でしかない〈現実〉を真の現実に置き換えることはどんな人間にも不可能なのである。

 エレア派の精神が素晴らしいのは、何かがありえないからあってはならないということを現実に対してではなく、観念に対して、特に観念を用いる人間に対して要求するところにある。
 現実にはありえないことがあってもいいと彼らは非常に寛容に考えているのである。

 パルメニデスは〈存在〉の立場に立って〈非存在〉を退けた〈一者〉の哲学者なのではない。
 むしろ真の争点は別のところにある。
 彼は〈不可能性〉の立場に立って〈可能性〉の無意味さ、またはその無価値さを論証しようとしたのである。

 〈存在〉から〈非存在〉を生成することは出来ないということは、現実的な生成変化の背後に観念的な基体を想定することを拒絶するということである。
 それは生成変化を基体に帰属させないということであり、現実を観念に従属させないということである。それは現実的な生成変化の実在を否認するということではない。観念的な実在が現実的な生成変化を支配するという不健全な考えを排除するということなのである。
 エレア派は現実と観念の間を切断するために逆説を用いる。
 それは現実と観念の間を巧妙に媒介し、連続させてゆく生成変化という安易な論法を難破させるためである。

 他方で「万物は流転する」などといって恰も実在世界の生成流転を称揚しているかに見えるヘラクレイトスは、実際には「私にではなく、ロゴスに聞いて、万物が一者であることを認識するのが智というものだ」というような非常に安易な「ロゴス」及び「一者」の観念の信者であったという面の方が鼻につく。
 ライプニッツの非常に評判の悪い観念論的な予定調和説(吐気のするような弁神論)は、むしろヘラクレイトスのこうした不徹底さから出てくるのである。
 また「思慮は全ての人に共通だ」という、柄谷行人などに言わせればそれこそ独我論(私に妥当することは全ての人に妥当するかのように想定されている思考)の起源であるとしかいえない言葉を残している。
 ヘラクレイトスを実在論や経験論や唯物論の祖と考えること程に恐らく愚かしいことはありえるまい。そうではなくて逆に彼こそが一番たちの悪い観念論者(自称リアリスト)の典型なのである。
……という風に見る事もできるのである。
 もっとも、私自身はヘラクレイトスという人をパルメニデスとはまた違った意味で大好きなので、そういう風にいつも見ているわけではない。ただ通常、人が安易に賞賛してしまっているヘラクレイトスのイメージについていうなら、それは逆に大嫌いであるので、これくらいボロクソに言ってやっても構わない、と思っているだけである。

 さて、問題は、「存在」を語るか「生成変化」を語るかにあるのではない。
 「存在」に「生成変化」を帰属(植付け)させてそれを支配させるかさせないかにあるのである。
 ヘラクレイトスは全てがそこに含まれる全一者を想定して、全ての個物の個別性をそこに抽象的に還元してしまっている。
 そのこと自体は悪ではない。問題はその先にある。
 ヘラクレイトスはそうすることで人間を宇宙の奴隷に変えてしまう。
 それは非常に残酷な非人称的意識への融即を強いる世界だ。
 彼は実におぞましいことを言っている。
 「智はただ一つ、すなわち、全てのものが全てのものを通じて如何に操られるかについて、真の判断を心得ることだ」というのだ。
 それは(もちろん見方にもよるのだが)人が運命の糸に操られるがままになっている神の玩具に過ぎないことがいいのだという超高度管理社会の情報操作やマインドコントロールを肯定するような思想である、とも読めてしまうのだ。

 埴谷雄高は「自同律の不快」ということを言っているが、私にはまさにこのような生成変化=大規模操作の思想こそが不快である。埴谷雄高の「自同律の不快」は「事物の(生成)変化の原動力」と考えられたが、それは何より操られるがままになっていることへの不快に端を発している。
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 パルメニデスは存在の自同律の自明な真理性が避けがたくパラドクスに陥ることを示した。
そのパラドクスは、形式論理的な決定不能性を帰結するエピメニデスの自己言及性のパラドクス「全てのクレタ島人は嘘つきであると一人のクレタ島人が言った」とは性質の違うものである。
 パルメニデスの自己同一性のパラドクスは実在的なパラドクスであり、論理的な真理「存在は存在する」が実在的な虚偽「そのような存在は実在しない」を帰結するということを示している。
 これは全く異なるレベルで起こっている。
 それによってパルメニデスが明らかにしようとしたのは、論理それ自体が虚偽を含んでいるという恐ろしい事実である。

 パルメニデスが自同律の真理性の主張者であるという通説は単に間違っているというどころか愚劣でさえある。
 彼は自同律や存在の観念に実在的パラドクスによる致命傷を負わせたその最も痛烈で辛辣な批判者に他ならない。
 弟子のエレアのゼノンが運動の観念の不可能性を論証したように、パルメニデスは存在の観念の不可能性を論証したのである。
 それは裏を返せば、可能性の形而上学の批判の意図をもったものである。
 それは不可能性こそが価値ある実在的真理なのだという現実主義的な不可能性の形而上学がエレア派の根本思想にあったのだということを窺わせるものである。

 エレア派の強烈な反現実主義的観念論は、逆に強烈な現実主義的実在論に裏打ちされているものである。
 それはプラトニズムの祖先であるというよりそれとは全く相容れない異質なものであり、逆にプラトンのアカデメイア学派に対する痛烈な批判者だったアリストテレスの実直な現実主義にこそ通底するような感性に根付いている。
 パルメニデスはプラトンが出現する以前にプラトニズムを批判していた。
 アリストテレスとパルメニデスはちょうど挟み撃ちのような仕方でプラトンを追い詰めている。
 そしてまさに両者のプラトン批判の論点は、分有(関与)説に対する痛罵という点において一致する。

 それは「第三の人間」のパラドクスとして知られるものであり、プラトン自身もそこに自分の思想の致命的欠陥があることを対話編『パルメニデス』において素直に認めているのである。

 「第三の人間」というのは、例えば、イデア的実在である人間自体(一般性・類概念)と個別的実体である個々の人間(個別性・このもの)のどちらでもないがその両者を媒介する形相=種差(エイドス)としての人間(特殊性・種概念)のことであると考えてよい。これはいわば論理的虚構(イデア的真実在)のなかに現実的実在(個物。アリストテレスの言う意味での第一実体)を誘拐するための罠のようなものである。

 『パルメニデス』はちょうど十七歳の若きアリストテレスがアカデメイアに入学した紀元前三六七年前後に執筆された作品であるという。そして、非常に不思議な話だが、この作中にもやはり若きアリストテレスという同名異人が登場する。そして、この同名異人のアリストテレスが若きソクラテスと共にエレア派の二大哲学者、老パルメニデスとゼノンに会うという設定になっている。

 この対話編はしかし異様である。
 プラトンのヒーローとしてイデア説を振り回し、常にソフィストたちの揚げ足を取って一方的に論破しては弟子どもの賛美感嘆のまなざしを一身に浴びていたあの無敵のソクラテスが、まるで赤子の手をひねるように老パルメニデスにコテンパンにやっつけられてしまうのである。
 それも打ち破られるのはプラトンの自慢の所説であるイデア論そのものなのである。
 ちょうどこの紀元前三六七年はプラトンの第二回目のシシリア旅行の年にあたる。

 彼は生涯三回シシリアに旅行し、彼の理想である哲人王政治を実現しようとしたが、その度にロクな思いをしていない。この点においてプラトンという人は誰もが認めている通り、現実の政治にはまるで疎い哀れで愚かなただのお人よしのバカモノである。

 同じ堅苦しい理想主義者で、やはり生涯、聖人君子(哲人王)政治の実現を求めて、動乱の中国を放浪して回った孔子にもまた同じように悲しい程に愚かなところがある。
 実際プラトニズムにせよ儒学にせよロクでもない狂った理想主義であるという点で非常に似通ったところがある。どこか根本的にバカなところがあるのだ。それはヒューモアのなさである。

 けれども、これは私の好みの問題かも知れないが、孔子にはプラトンとは違う人間的な魅力がある。
 彼は自分の弱さも愚かさも素直に晒す正直で気取らないところがあるのだ。
 彼は恐らく自分が決して世に容れられないことを知っていた。
 儒学にはヒューモアというものがないが、孔子という人間にはそれがある。
 それはその人柄の芯から滲み出るような品のよい慎ましさである。
 プラトンの人柄には何かが確かに欠けている。
 孔子なら三回もシシリアに旅行して三回も惨めで愚かな救いがたい道化を演じるようなバカな目には遭わないで済んだだろう。

 この二度目のシシリア旅行の散々な結果にはさすがのプラトンも相当に落胆したようである。
 『パルメニデス』にはプラトンの凄まじいやり場のない自己嫌悪がぶちまけられているように私には思えてならない。
 当時六〇歳にして未だに青臭い己れを呪うように、彼は自分の師ソクラテスを若造の姿で登場させ、老パルメニデスの仮面を被って散々にいたぶっている。
 なんと根のクラい男だろう、と思うのである。
 パスカルは、デカルトを「無益にして不確実なデカルト」というかなりひどい言葉で評している。

 だが、パスカルは理解していない。彼が「この無限の宇宙の永遠の沈黙が私を恐れさせる」といったその無限を、デカルトは恐れもせず、それをただ敬虔に〈神〉のために、それを神の名のために取っておくといったのだ。
 僕は、パスカルを嫌いではないが、彼は自分がそうであると思ったのと正反対に、哲学的思考の厳格さのみならずその敬神の精神においてすら、デカルトに遥かに劣った人間、迷信のうちに畏怖するだけの人間でしかなかったのだと最近、思うようになった。

 人間は決して考える葦などではない。
 
 偉大にして荘厳な神は、人の心を恐怖によって縮減することはしないし、自ら卑しめるように考える事を決して望んではいない。

 陰鬱にして不明瞭なパスカルには、そもそもデカルトが発見した、神によって創造された生き生きとして美しいこの現実の確実性の意味するもの、その奇蹟の果実(知恵の実)の甘美さ自体がまったく見えなかったのだ。

 陰鬱にして不明瞭なパスカル、哀れな。
 お前には分かっていない。
 原罪をキリストに頼らず、自らを供物にして贖ったデカルト、この神に愛でられた人こそが、エデンの園に帰ることを許されたのだということが。
 お前には何も見えていない。

 デカルトを包んでいるその叡智の光だけが、彼の周りに、真の意味での神の国を顕現させていたのだということを。