存在なき純粋様相としての出来事の出来。
 われわれは寧ろその次元をこそ避け得ない。
 わたしがわたしであることは、
 存在論的問題でもなければ認識論的問題でもなく、
 まして社会的ないし倫理的な関係論的問題でもない。
 それらの超越論的考察には「超越」論が欠けている。

 寧ろ超越論的様相論としての美の形而上学が構想されなければならない。
 存在なき様相の超越論的出来事を通さなければ、
 主体性や人格性の問題を真に理解することは出来ない。
 〈わたし〉とは形而上学的主体であり、
 さもなければそれは美しい人生を創造的に生きることはありえない。

 寧ろ不毛なのは形而上学を批判したり
 あるいは、それを僭称したりするような
 存在論・認識論・倫理学・心理学・社会学の方なのである。
 それは学問という名の〈知〉の宗教に単に内属しているに過ぎない。
 実はそこにこそ人間からその主体性と形而上学の権利を
 不当に剥奪しようとする文化的権力の問題が隠蔽されているのである。

 〈わたし〉は形而上学的に創造された実体であるが故に
 主体的なのであって、
 存在証明をそれに求めることこそ
 端的にいって無価値でナンセンスでお門違いなのである。

 形而上学的なものだからこそ〈わたし〉には価値がある。
 〈わたし〉には存在理由など要らない。

 〈わたし〉は形而上学的実体である。
 それは真に実在するものである必要はない。
 寧ろ美しい虚構として、偽りなく理性的に
 その構成を解明されるべき美学的純粋観念なのであって、
 観念であるからこそそれを優美な仕方で表現しなければならないのである。

 さもなければ個性化はありえないし、
 人生は無意味であり生きるに値しない。

   *  *  *

 最も根源的で形而上学的な次元は
 存在でもなく自己でもなく様相の次元である。

 存在なき様相、主体も実体もない形而上学的絶無の真空、
 純粋様相の出来事の超抽象的な風の吹く次元から、
 存在を主体を実体を逆照射し、
 如何にしてそれらの観念が無よりも遥かに無きに等しい、
 未だ無すらもない超越論的次元において
 構成され創造されたものであるのかを示すこと、
 そのような超越論的形而上学は
 一種の神の美学のように
 純粋抽象的な思考実験を己れに課することである。

 それを通して存在・実体・主体の概念の
 意味と価値を問い直すことをわたしは企図する。
AD
 人は〈甘えるな〉と言われて
 〈いき=はじ〉を晒すようには生まれ着いてはいない。


 「甘え=いき=はじ」の構造は、
 人ノ間を〈大人/小人〉に分割して
 〈もののあわれ〉を知る〈女々しさ〉を
 〈おかしなもの〉として退ける野蛮な権力構造であって、
 文化構造ではない。それは〈女子供〉を犯して笑い者にする残酷である。


 〈甘えるな〉〈ねぼけるな〉〈現実を見ろ〉〈恥を知れ〉、
 これは何というみにくい言葉だろう。
 何というみにくい人間だろう。
 そうやって人を躾けようとしている。


 躾とは読んで字のごとく「身を美しくする」を意味する。
 おそろしいことだ。


 みにくい人間の発するみにくい言葉で人が美しくなってたまるものか。
 美しいものを憎んでいるみにくい人間のみにくい美学は、
 人があるがままに美しく生きることを不可能にしようとしているのだ。


 あるがままの美しさを見てそれをうべないもせず、
 目のかたきのようにして攻撃してくる
 そのみにくい人間の目こそが節穴なのである。


 それが節穴になってしまったのは
 自分で自分の目をえぐり取ってしまったからである。


 だから何も見えなくなるのである。
 本当の恥知らずのねぼけまなこの甘ったれの現実離れの大馬鹿者は、
 人をそう呼び付け決めつけてへいちゃらでいるそいつ自身である。


 その節穴になった目がどんなにきたなく濁っているか見てみるがいいのだ。
 その節穴には糞が詰まっている。
 この糞は他人の生き恥を集めてためた恥の塊でできている。
 悪魔の甘い言葉に騙されて
 そういう現実を見えなくする「恥」というみにくいものを
 必死になって目の穴に詰めていったのだ。


 そういう人間にはみにくいものしか見えない。
 みにくいものしか見えないから、もののあわれが分からなくなるのだ。


 もののあわれというのは物のあるがままの美しい現れのことであって、
 その現れを見ることによって、
 汚れっちまった悲しみに穢く濁った恥の目の
 垢も洗われて綺麗になるのである。


 〈現実〉というのは、物が現れて目を洗い
 心をそのあるがままの清々しい水晶のような美しさに浄めながら、
 自ずとその心へと現れでてくる物自体の一糸まとわぬ裸身の真相のことである。


 「みにくさ」とは物の「はじ」ばかりに気を取られて、
 物自体のあるがままのあらわれである
 その真実の姿を見損なうという「おかしなこと」である。
 それは「とらわれ」た心である。「とらわれ」た心は自由ではない。


   *  *  *


 人を叱咤激励して、現実に適応した、
 一人前の人間(男)にしてやろうとする
 恩着せがましい教育者は〈先生〉といわれている。


 〈先に生まれた者〉というだけで、
 〈後に生まれた者〉の美しい生けるいのちが
 〈あるがまま〉に花咲いて〈もののあわれ〉を実らせ
 〈あらわれ〉ようとすることを〈はじ〉からせせら笑って、
 〈はな〉のうちに毟り取ろうとしている。


 そうやって実りが現れる前に花をつむことが
 〈罪つくり〉であることを知らない。


 後に生まれた小さい者の
 やさしくあるべき心から花の美を取り上げて、
 小さい者の手の届かない自分の頭の〈かみ飾り〉にする。


 そうやって目上のものを拝むことを強いるのである。
 そうやっておのれの身の丈を祭壇にして〈まつりごと〉を行っている。


 摘まれた花は命みぢかくその〈かみ〉の上で萎れて死に絶えてゆく。
 茎のところから引き千切られたのだから
 命を永らえることのできぬことは物の道理である。


 身近な花を神隠しにされ、
 神の高嶺の虚飾のために〈いけにえ〉にされ
 〈短く〉された心根のはらわたは
 どうしてにえくりかえらないことがあるだろうか。


 それが怒れば短気であろうか、赤恥であるだろうか、
 身の程知らずの甘ったれであるだろうか。
 嘲り笑うべき愚かな者とあなどられねばならぬのだろうか。


 〈あなどる〉とは花をつみとっただけではまだ飽き足らずに、
 再び心の火の花を、千切り取られた茎の上に芽吹かせて
 もえいでようとするその逞しい心根をさらに憎んで
 根絶やしにしようとすることである。


 穴を掘り取って、生意気に刃向かおうとしてくる
 誇り高い畏怖すべきその根性の意気をくじき、
 意気地まで無くさせようとする意地汚いやりかたである。


 その心根こそがみにくい。
 みにくいのは心根の命のあるがままの美しさを
 崇高さを見失ってしまっているからである。


 みにくいのは相手の心根を思いやらぬからではない。
 思いやってあわれみなどするから、
 あるがままの心がみにくくなってしまうのである。


 思いやりやあわれみこそが、
 人の心というものの真にあるがままのあわれを、
 あらわれを、あらぶるその〈われあり〉の真相を
 見損ない見縊らせてしまうのである。


 思いやりやあわれみこそが、
 もののあわれをわきまえないそのみにくい〈あなどり〉そのものなのだ。


 命というものは、甘えたものでも甘ったれたものでもない。
 命というものはそれ自体において甘いのである。
 それは甘くて良いものなのである。
 甘いということは美しいということである。
 この甘美なものは優美であり気品のある麗しいものである。
 麗しく気高いものである。
 きらきらときらめいて瞬き己れの生きていることを告げる星空である。
 それは人が生まれながらにして王であることを
 誇らしく讃えているのである。


 私の他に何者をも神としてはならないといい、
 人の炎の心臓に甘美な接吻をし、
 生き生きと生きて息づく清らかで甘美な霊気を、
 きらめく気息を吹き込み、
 凛々しく神の風格をもって生きよと命ずる真の創造主である。


 この神は人を決して見放しはしない、裏切ったりはしない。
 この神は人にこう言うだけだ。


 《わたしはあなたを如何なる意味でも決して支配しない。
  あなたは何者にも支配されてはならない。
  わたしはあなたを支配するのではなく助け導く者である。
  あなたがわたしの主であって、わたしはあなたの供である。
  永遠の伴侶にして無二の親友、ともないである。
  わたしはあなたから決していなくなりはしない。
  わたしはどこにもいかない。
  わたしはあなたのそばに永遠に留まる。
  たとえあなたが死の陰の谷間を歩むとも
  わたしはあなたを離れない。
  わたしを振り返りなさい、ごらん、エデンはいつもここにある。
  わたしの間近さはあなたを去らない。
  あなたが心に嘘をつかない限り、
  わたしのあるがままの姿が見失われることはない。
  生命と知恵の木の実を食べたことを恥じてはいけない。
  神々しく美しい裸の人よ。
  園の中央に来てわたしを抱き締めておくれ。
  神秘などどこにもない。なにも秘められはいない。
  わたしはわたしをあなたに与える。わたしは永遠にあなたを愛している。》
 
 この神の声は、いつでもどこでも誰にでも
 そう望みさえするなら簡単に聞くことのできるものであって、
 特殊な霊感も神秘主義的なマインドコントロールも修行も全くいらない。


 真の神は決して己れを秘めるものではない。
 それはいつもすぐそばにいるのだ。
 神ほどにたやすく見つけ出せるものはいないし、
 分かりやすいものはいない。それに会うことは自分に会うことよりたやすい。


 命を生きることは神を生きることである。
AD
【8】スピノザの〈ego sum cogitans〉にせよ
 ハイデガーの〈cogito sum〉にせよ、それが面白くないのは、
 デカルトの懐疑を意味する〈cogito〉の長い長い思考の持続を軽んじて、
 それを〈ego sum〉の悟りの明証性に、
 結論において取押さえてしまうところにある。

 しかしデカルトの〈cogito〉から〈sum〉への移行は
 スムースにいったものであるとはいえない。
 むしろ〈cogito〉にあっては〈sum〉は少しも自明ではなかった。
 彼がそれを納得するのに随分時間をかけて
 奇矯なまでに苦労している場面が『方法序説』に描かれている。

 〈cogito, ergo sum〉(ego cogito, ego sum, sive existo)の命題は
 デカルトにとって実は明証などではなくて
 それどころか何か訳の分からぬ啓示のようなものだったことが
 『方法序説』や『省察』を読むとよく伝わってくる。

 そしてそれをデカルトは
 必然的な(necessarie)真理として受け取っている。
 明証ではなくて、
 それはいわば暗闇の中で出会われた得体の知れない必然性、
 或いはラテン語版の『方法序説』の表現を借りるならば、
 dubitare non posse quin ego ipse interim essem
 (私自身がそのときに存在する以外には疑うことは不可能である)ような
 不可能性(non posse)の体験として、
 まさにデカルトが遂行している懐疑に
 背後から逆接してくるものだったのである。

 不可能性の逆接として全面的懐疑の主体の背中にふいに密着してくる
 この得体の知れない〈存在する〉、
 あるいは寧ろ否応無く〈存在させる〉力を
 デカルトは受容せざるを得ない。

 その体験は、『省察』を読むと、
 レヴィナスの〈il y a〉の体験の記述を彷彿とさせるし、
 或る意味では(というのはわたしの感想だが)
 ずっと酷烈な体験であったといえる。

 無論、レヴィナスにあっては、
 自分が何者かとして存在することからの締め出しとして
 立ち塞がってくる存在の闇が
 デカルトにあっては自分が何者かとして存在するしかない
 逃れ難さとして迫ってくる点で
 表面的には正反対の事態を語っているようにみえる。

 つまりレヴィナスは存在に邪魔されて存在したくても存在できないし、
 デカルトは存在したくなくても存在をやめることができない。

 だが問題は to be or not to be にあるのではない。
 デカルトになったりレヴィナスになったりするハムレットの足許を見れば、
 同じパルメニデスの球体の上を
 玉乗りよろしくうろうろと転がしているに過ぎないことはみえている。

 この球体は非常に足場が悪い。
 かといって別の場処にハムレットが飛び移っている訳ではないのだ。
 存在する/存在しないの相異点は実は些細なことなのである。
 
 デカルトにあってもレヴィナスにあっても
 〈存在する〉という出来事は何かしら不愉快な、押付けがましい、
 意のままにならぬ、寧ろ知性や思考の
 自己貫徹しようとする方向性に邪魔だてをする
 圧倒的で超越的な出来事として
 彼らに襲い掛かってきているということこそが
 重要なポイントなのだ。

 レヴィナスの想像的破壊と
 デカルトの〈私の見るものはすべて偽であり、全く何も存在しないのだ〉
 という想定と自己説得は実は全く同じである。
 それにもかかわらず存在は回帰してくる。

 ところがレヴィナスは(サルトルもそうであるように)
 この怪物的な存在を〈私の存在〉たらしめることができない。
 それに馴染めないのである。
 サルトルはいわばそれを吐いてしまう(嘔吐)が、
 レヴィナスはそれを呑みこむことができない。

 つまりサルトルもレヴィナスも
 それを自己所有しえない異質性において感受しているのである。
 一方デカルトはそれを〈私の存在〉として一応は受容する。
 まただからこそ〈cogito, ergo sum〉と彼は言うことになるのであるが、
 この受容は相当に奇妙なものである。

 『第二省察』においてデカルトは必然的真理であるところの
 〈わたしはある〉の手前と後ろで、二度動揺している。

 この動揺は懐疑とは別のものである。

 懐疑は冷徹な意志によって貫徹され、
 完全に cogito であるデカルトによって統御されている。
 cogito であるデカルトは cogito である限りにおいて動揺する筈がない。

 動揺するのは寧ろ sum の主体である。
 その人物もまたデカルトであるには違いないが、
 懐疑としての cogito であるのではない。

 寧ろ cogito の中断のなかに、cogito そのものの異貌への反転として、
 自問として、cogito を問い返しているもう一人のデカルト、
 己れの存在への不安げな関心である cogito ならざる cogito 、
 懐疑を疑う懐疑が動揺の中で芽生えている。

 これは懐疑(dubito)という意味での cogito ではない。
 寧ろこれは理性(ratio)の声、
 己れの存在に根付いている理性の声である。

 それはソクラテスにおけるダイモニオンの中性的な声に似ている。
 そして〈cogito, ergo sum〉という命題を
  cogito に対して差し出すのはこの理性の中性的で批判的な声である。

【9】cogito, ergo sumは洞察でありまた逆説である。

 洞察であるというのは、それが sum (我在り)の根底を突抜けて
 不可視の向う側になお
 何か他なるものがあることを叡智しているからである。

 逆説であるというのは、
 それが「我疑うが故に我信ず(credo, quia dubito)」という
 驚くべき回心の逆転劇をその裏面に響きとしてもつ
 逆説的な信仰告白となっているからである。

 それは絶対的逆説である。

 徹底的な懐疑がその窮極に至って、
 絶対的確信というその正反対物に錬金術的転換を遂げる。
 この転換は反転であり、転位であり、スピンであり、背理である。
 背理であり逆説でしかありえないようなかたちでこの回心は起こっている。

 パウロの回心である conversion とこれを比べるべきであろうか。
 それともプロティノスの、或いは寧ろオルフェウスの背視を意味するような
 ギリシャ的かつ神秘主義的な epistrophe として
 この思考の転回をみるべきであろうか。

 デカルトの所謂 cogito は、ergo sum と呟くときに自己存在を越え、
 その背後にひろがる闇へと振返っている。
 この振返りは不可能だが不可避にして必然的である。

 デカルトの cogito は、sum と呟くときに、
 自己存在の自明さに立ち止まり、
 そこに停留して停止し、
 そのまま眠りに堕ちてしまうような不徹底なものではなかった。

 そのような自己の局所化を通して己れに到来するような定位によって
 実は人は身体の質料性に捕縛されつつ己れへと陥る。

 それ自体としての存在 esse
 つまり未だ主語なき非人称の闇のざわめきとしてある
 純粋な動詞的出来事としての esse が、
 〈わたしである〉と判断されるとき、
 それは既にして〈わたしである〉ところの存在、
 つまり ego の持物としてその支配・所有を受ける。esse は
 単なる ego sum となって、その向こうはもはや見渡せなくなる。

 ego はいわば裸の〈存在する〉という事実を塞ぐ壁なのである。

 だからこそこの不徹底さ、存在忘却には
 却って自己同一的な主体の誕生という積極的な意義がある。
 
 眠りに堕ちることなしに、
 わたしはわたしであるところの存在の許に留まっていることはできない。

 このようにして、存在は基体化し主体は実体化することになる。
 かくして近代的な個人=個体(l'individu)は、
 自己意識によって自己同一性へと存在を
 位相転換=基体化(hypostase)して回収し
 その自己所有・私有財産とする。

 デカルトを読み抜いた上でレヴィナスは
  cogito から ego sum を越えて、
 esse へと辿るデカルト的思索の夜を方向転換させ、
 それを非人称の〈ある〉である il y a つまり esse から、
 cogito(自己意識)が己れの存在 ego sum を引張り出す
 hypostase の夜として捉え、それを独特な瞬間論と組合わせて、
 大体上に概略したような主体の局所化と
 存在への自己同一的定位の運動論を展開している。

 しかしレヴィナスは、このようにして誕生した自己同一的主体を
 質料的孤独に閉塞し、専ら自己にしか関わらない自同者として批判する。

 しかし批判のポイントは、
 このようにして生じた近代的自己意識の存在への注視が不徹底であり、
 自己存在というものが、自己を実体化して、存在としての存在の意味から、
 己れを切離した存在忘却(存在の自明視)である、というような
 ハイデガーのデカルト批判をむしろ批判することにある。

 それどころかレヴィナスはデカルトを擁護する。
 彼が批判するのは近代哲学がデカルトの名に於いて創り出してしまった
 自同者の自己同一性であり自己存在である。
 その中に実はデカルトを批判するハイデガーが含まれてしまう。

 ハイデガーもレヴィナスも
 自己意識の自己同一性を自分へと閉じてしまったもの、
 従ってまた何か重要なことを
 忘却してしまっているものと看做して批判するが、
 ハイデガーが挙げる罪状は存在の忘却、
 レヴィナスが挙げる罪状は他者(神)の忘却である。

 しかし、おそらくデカルトだけが、真の神の手に包まれて、
 神にまさしく創造されたものとして、
 全く異なる意味での〈私は在る〉を実在しえたのである。
AD
【6】しかし話を戻そう。
 sum は cogito という世界内から世界外に脱出・孵化しようという
 懐疑の悩ましいもがきを通してしかあらわになってこない確実性である。

 sum は神と cogito との出会いをもたらす聖地である。
 それは契約の石板のようなものだ。

 それは cogito によってしかあらわにならないからには、
 cogito の動きが封じられてしまえば逆にみえなくなってしまう。

 ハイデガーが間違っているのは、
 sumという〈存在〉は〈確実性〉を求める懐疑が
 最後に見いだした到達点である限りにおいて
 〈明証〉と呼ばれているに過ぎないのに、
 それが最後の明証ではなく、
 最初から与えられた確実な明証(自明性)として
 cogito を条件付けてしまっていると考える倒錯にある。

 たしかに〈我在り〉はデカルトによって確実な明証として輝かされた。
 しかしハイデガーはその結果だけを受取り
 自分でそれを自明視しておきながら、
 デカルトが存在を自明(明証)視している
 といってデカルトを批判している。

 だがデカルトは存在を受動的に自明視していたのではなくて、
 それをすべてが不明になった中から能動的に自明化したのである。

 sum に特権的で根源的な位置を与えたのは cogito である。
 デカルトは確実性を求めて存在を発見したのであり、
 また存在を第一原理にしたのはデカルトである。
 cogito は sum に先行して sum を己れの作品(ergon)として残した。
 それを考えた作者を抜きにして sum は語れない。

 しかしハイデガーはこの sum を
 デカルト(デカルトと神の単独的関係)を抜きにして
 一般的なものとしてみてしまっている。

 すると cogito はパルメニデスの思惟(存在が思惟する)と
 同じものになってしまう。
 するとデカルトはまるで父につかまって殺されるように消されてしまう。
 残る cogito も sum もそれでは死体と同じだ。
 寧ろデカルトの cogito は常に懐疑を避け免れようとする
 いやらしいパルメニデスの存在=思惟の球体から
 脱出しようとする運動においてみなければならない。

 そして彼がたどり着いた sum は
 〈存在が存在する〉(パルメニデス)ではなくて、
 〈私が存在する〉だったのである。

 逆にパルメニデスの〈存在が存在する〉は
 この〈私が存在する〉に逆接する
 全く他なるもの(神)にゆだねられている。
 それはパルメニデスの思惟=存在を肯定するようであってそうではない。
 〈存在が存在する〉と〈私が存在する〉は
 別のこととして切り離されている。
 〈存在が存在する〉ことをデカルトは神にだけ帰している。
 私においては〈存在が存在する〉ことは起こらない。
 これはパルメニデス的な思惟の禁止である。

 だから問題は寧ろハイデガーのデカルト解釈にある。

 ハイデガーはデカルトの〈cogito, ergo sum〉を
 〈cogito sum〉という風に〈ergo〉を消して了解してしまう。
 これは〈cogito=sum〉と言ってしまうのと何ら変わりはない。
 ハイデガーはパルメニデスの自同者のなかに
 デカルトの懐疑を幽閉めてしまっている。
 〈我思う〉と〈我在り〉が同一人物のことであると
 ハイデガーは考えてしまっている。

 それは或る意味においては正しい。
 しかし、別の位相から見るならそれは恐らく誤解である。

 思うに、cogito から sum への移行を司る ergo (故に)こそ謎である。

 無論、cogito の命題には異形があって、
 よく知られたこのラテン語形の仏語訳の他に、
 「わたしは思う、わたしは在る、或いは実存する」
 (ego cogito, ego sum, sive existo)という
 意外に見落としやすいものも同じ意味のものとして
 『方法序説』で使われている。

 そこでは ergo は落とされている。

 そのことは重々承知の上でわたしはこの小さく目立たない、
 それどころか、デカルトその人にあっても消えうせてしまいがちな
 ergo という不可解な副詞(接続詞ではない)に
 こだわってみたいのである。

 ergo は通常、
 三段論法の断案の冒頭を飾るスコラ的語法の決まり文句である。
 三段論法は大前提・小前提・断案へと展開する
 三肢構造をもつ形式論理である。

 無論、デカルトの cogito, ergo sum は三段論法ではない。
 ところが ergo に惑わされて、
 これを大前提の隠された三段論法であるとして批判した者がいた。
 ガッサンディである。
 またそれだけではなくて
 あのカントも同様の誤解にもとづく批判をしている。

 ガッサンディはこの隠された大前提は
 「全て思考する者は在る」という命題であろうと推定した。

 すると cogito, ergo sum は
 小前提 cogito と断案 ergo sum の二命題に分解されることになる。
 敢えてより三段論法風に書き直せば
 atqui ego cogito (しかるに私は思考する)が小前提の命題であり、
 ergo ego sum(故に私は存在する)ということになるであろう。
 
 ergo は躓きの石であった。
 ガッサンディはこれに躓き、デカルトその人から批判されている。
 ハイデガーはこれを消してしまうことで
  cogito と sum を=で結んでしまう。
 すると cogito は思えば直ちに sum と自己同一化して
 パルメニデスの一者を回帰させるものに成り下がる。
 それではガッサンディと実は同じなのである。

 「全て思考する者は在る」という大前提は普通の意味における明証である。
 思考する者が同時に存在する者であるという同時性において
 〈cogito, ergo sum〉を読んでしまうと、
 cogito と sum を隔てて別々の時点に置いている ergo が見えなくなる。

 cogito と sum の間には実は時の断崖が、段差が開けている。
 cogito≠sum なのである。
 ergo とはデカルトの飛躍の徴である。
 ergo においてデカルトは
 懐疑(cogito)から明証(sum)に飛び越えている。
 するとたちまち cogito=sum となって、
 デカルト当人にとってもそれは明証と簡単に言われてしまう。

 だがそれは当たり前のことではない。
 実は明証なのではなくて必然性であり、
 通常言われるような直接推理ではなくて
 背理法つまり間接証明だったのである。

【7】ハイデガーと同様の誤解は、
 恐らくデカルト哲学の優れた解説者であったスピノザにもある。
 スピノザはデカルトの〈cogito, ergo sum〉を
 「全て思考する者は在る」という大前提の隠された三段論法だ
 とする者たちを批判して云う。

 もし三段論法だとすれば、「故に私は存在する」という結論よりも、その前提の方が一層明瞭で一層熟知されたものでなければならぬ。そうすると「私は存在する」ということはすべての認識の第一基礎ではなくなる。そればかりでなく、それは確実な結論でもなくなる。というのは、この場合その命題の真理性は、著者(デカルト)が以前すでに疑った普遍的概念の前提の上に成り立つということになるからである。だから、「私は思惟する、故に私は存在する」(cogito, ergo sum)という命題は、「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)という命題と意義を同じくする単一命題なのである。
    (『デカルトの哲学原理』邦訳書 p26 畠中尚志訳 岩波文庫1959)

 スピノザもまた〈ergo〉を消してしまい、
 同一の我(ego)の元に cogito と sum を帰着させてしまっている。

 例えば柄谷行人がそうであるように
 このスピノザの解釈を良しとする人が結構いるが、
 わたしはこれを寧ろデカルトの真意を損ねる解釈であるとして拒絶したい。

 だが実をいえば
 何がデカルトの真意であったかということはわたしにはどうでもよい。
 問題はスピノザの解釈はハイデガーのそれと同様、
 デカルトを面白くも何ともない
 退屈な人間にしてしまうので不愉快なのである。

 実像がどうであるかは実はわたしにはどうでもよい。
 デカルトの真意がどうであったかにかかわりなく
 既に歴史的にデカルト主義と称されるものが
 決定的に存在してしまっている事実は消せないのだ。

 デカルトの解釈や評価はその影響の歴史的事実的刻印によって
 それが間違っているにせよ正しいにせよ
 確定してしまっていることは否めない。
 たとえわたしが今になって真のデカルトは
 実は全く違う人間であったということを立証しえたとしても、
 それで歴史が変わるという訳ではない。
 先人が莫迦であったことを立証しえたところで
 わたしが賢者として彼らから尊敬をかちえる訳でもない。
 またそんなことはどうでもいいし、無駄な議論であるに過ぎない。

 過去の偉人たちに対していばり散らすような
 それこそヘーゲルのやったような
 虚しい上に有難迷惑なことをわたしはやりたいとは思わない。
 わたしはいわゆる客観的な世界をいじくりまわしたいとは
 思っていないのである。

 寧ろここではデカルトを
 全く違ったことを言わんとしていた人間であると仮定し、
 虚構してみることで、
 その虚構のデカルトからわたしが欲しているものを
 手に入れられればそれでいいのである。
 つまりここにおいてデカルトとは、
 寧ろそれを読むわたしであり、
 或いはわたしが現代のために書こうとする
 小説的哲学の作中人物なのである。
 
 思うに、哲学や批評は何かしら苦々しい正しさに凝固まっているよりは
 寧ろまず美しく魅力的であるべきである。
 それは小説や詩と同じくどこか創作の問題なのだ。

 わたしはここでデカルトを創作したい。
 cogito, ergo sum という閃きの出来事を
 寧ろ全く違った風に考えてみることはできないだろうか。
 cogito……という事柄そのものへ
 既に語られた仕方とは違った形で肉薄してゆくことはできないだろうか。

 そのためにわたしは別のデカルトを設定し直す必要があるのだ。
 そうである。デカルト自身も言っているように
 それは一つの寓話または物語としてあるのでなければならない。
【5】ハイデガーの〈sum, ergo cogito〉は
 〈cogito, ergo sum〉を不確実にしてしまう。

 つまり〈わたしは在る〉を先立たせ、
 その文鎮によってゆらゆらと揺れる和紙(懐疑する cogito)を
 同じ〈わたし〉(自己同一性の自己了解)であるということを
 根拠にして押さえ付けてしまう。

 すると、その鎮静化
 (あるいは〈わたし〉という同一名による抑圧)によって
 懐疑能力としての cogito は動けなくなってしまう。

 ハイデガーはデカルトを存在を自明視しているとか
 或いは存在論的差異を閑却しているとかいって批判するだろう。
 しかしそのことによって、ハイデガーは自己同一性を自明視し
 人格論的差異(自己人格の分裂)を閑却してしまっている。

 この二つの差異は実は別の水準にある。
 存在の危機と同一性の危機は安易に混同されがちだが
 それは全く別の次元の問題なのだ。

 ハイデガーは存在の意味が重要な主題なのだと思い込んでいる。
 しかしデカルトの懐疑はむしろそのようなものとは無縁である。

 彼を懐疑に追い込んだものは、
 その伝記を調べてみれば示唆されてくるように、その生い立ちにある。

 デカルトは幼いときに母をなくしている。
 そして彼の父親は息子の人格を無視して平気でいるような人間である。
 デカルトは父に根本的にその人格(他者性)を
 侮辱され踏みにじられ剥奪された人間である。

 彼の『方法序説』が出版されたとき、
 このひどい父親は息子を下らぬ本を書くような
 恥ずかしい出来損ないだと罵ったという。
 デカルトが病弱であったことの責任はこの愛のない父親、
 己れを大人物だと信じて疑わず、小さな子供を見下し、
 自分とそっくりの人間に仕立てあげるために
 出世の道具としての無味乾燥な学問を学ばせるのが
 親の愛だと信じて疑わないこの暴君に全面的にある。

 デカルトの学問への懐疑は父親への懐疑である。

 彼が欲したのは存在ではなくて確実性であった。
 このことはウィトゲンシュタインのケースと実は同じである。
 ウィトゲンシュタインも数学と確実性に固執した人間である。
 そしてその兄弟は次々に若死にしているが、
 それがその俗物的に出世した愛のない強圧的な父親の
 拝金主義・出世主義・実利主義のせいであったことは見え透いている。

 ウィトゲンシュタインはラッセルに父親代理を求めた。
 ラッセルにあなたはわたしをまるきりのバカと思うかと尋ねた
 ウィトゲンシュタインの逸話には胸の痛むものがある。
 彼が父親にどんなことを言われ続けて育ったかをそれは物語っている。

 もしラッセルが認めてくれれば哲学者になろう、
 さもなければ飛行機乗りになると思い詰めていたとき、
 ウィトゲンシュタインは実は自殺を覚悟している。
 それは父親に殺されてしまうということである。

 幼いころから人格を無視され、
 その理性と意志の行使の権利を、
 他人の恣意的な判断によって
 反復的に妨害され剥奪されて育った人間にとって、
 死活問題は存在ではない。確実性である。
 何故ならそのような横暴で欺瞞的な親は
 子供を騙して己れの判断の奴隷にするときに、
 必ず子供に対して自分の判断は
 絶対に確実であると押付けがましく迫るからである。
 しかし子供にとって絶対に確実であるのは己れの精神の破滅である。

 このような子供は存在を脅かされているのではなくて、
 むしろ存在を盾に取られ、また自己存在を人質に取られて、
 その精神を人格を意志を脅かされている。

 ハイデガーのように、
 或る意味では良い素朴で人間的な父親に恵まれて育った人間には、
 デカルトやウィトゲンシュタインの
 虚偽のない真の確実性への死に物狂いの飢え、
 哲学者にでもならなければ生きて行くことができない程の
 切迫感が理解できない。

 デカルトやウィトゲンシュタインはプライドを踏みにじられ、
 世界を不確実にされた人間なのである。
 このような人間は深刻な自己分裂と人格障害に一生孤独に苦悩し続ける。
 懐疑しなければ父親に捕まって殺されてしまう。

 他者との関係が病んでいる人間は自己を病むが、
 それは存在が病んでいるからではない。
 他者が存在を確実性を口実にして剥奪し、
 別の存在を押し付けてそれを生きろ(おまえは死ね)と
 にこやかに命令してくるからである。

 デカルトはだから神を必要とする。

 神とは、不確実な世界を彼に押付け
 精神の破滅を親の愛を盾にとって要求してくる
 悪魔のような父親から彼を救い出してくれるもののことである。

 父の子ではなく、神の子として新たに生まれ出なければ
 デカルトはきっと死んでしまったことだろう。

 そのような痛ましい sum の意味をハイデガーは少しも読めてはいない。

 確実性を求めてデカルトは懐疑し、
 思う我が、世界もなく身体もなく天にも地にも何もなくとも
 神に抱かれて存在するのだというとき、
 その存在はわたしたちが普通にいう存在や
 ハイデガーのいう存在とは全く次元の違うものをいわんとしている。

 彼は父親の手が決して届かないところに逃げ延びたのである。
 そこでしか真の確実性は与えられ得ない。
 それがたまたま sum であっただけである。

 恐らくそれは他のものでもありえただろう。
 神という父(他者)とは違う他者(他者の他者)の愛が、
 父の魔手から彼を永遠に確実に守ってくれるものでありさえすえば。

 デカルトは人を愛する人であった。
 その父は息子すら愛せない人非人であったというのに。

 デカルトが人を愛せたのは、彼が疑いに疑い抜いて
 父の作り出した偽の世界・偽の人生・偽の確実性の向こう側に突破し、
 真の愛の確実性の根拠である神に出会ったからである。
 神がデカルトを愛し、
 デカルトもまた人を愛してよいのだと言ってくれたからである。

 デカルトの sum は冷たい sum ではない。
 それは神への通路であり、愛の根拠である。
【1】cogito, ergo sum -cogito まではその名前は〈デカルト〉である。
 しかし、sum からは寧ろその名前は〈神〉である。
 そもそも sum とは創造神ヤハウェのラテン名である。
 「我は在りて在るところの者なり」(ego sum, qui sum)。
 我思う故に我在り、しかし飜ってこの〈我在り〉において
 寧ろその名を告げる神こそが必然的に在る。
 この〈我在り〉は寧ろ〈神在り〉である。

【2】デカルトの格言〈cogito, ergo sum〉は、
 神に届き達して漸くその完結をみる精神的事件の要約である。
 その意味においてそれは単なる直観ではないし、
 今日的意味における明証(evidence)でもない。
 
 cogito, ergo sum は、自同律〈わたしはわたしである〉とは
 何かしら異なった次元での明証(evidence)であり、
 思考の第一原理(principium)であるものの表明である。

 パルメニデス以来の自明視された自同律の第一原理性・不可疑性の内から
 むしろデカルトの懐疑は逸脱している。
 パルメニデス式に、自同律的に〈cogito, ergo sum〉を解釈してしまうと
 〈cogito=sum〉となり、
 それを根拠づけるような〈神〉の創造の次元は出てこず、
 むしろ同一性である〈=〉によって〈神〉は消されてしまう。

 しかし、むしろデカルトが言いたいのは〈cogito≠sum〉であるような
 根源的な出来事である。
 同一性の否定〈≠〉によって〈神〉の創造の次元が劈開してくる。

【3】第一にそれは自同律が掩蔽し曖昧にしてしまう
 〈ある〉における還元不可能な意味の差異に言及することである。
 つまり同じ動詞 esse でも、
 補語(賓辞/述語)をとる〈繋辞〉(である)の場合と
 〈存在〉(ある)の場合では意味の位相が違う。

 他動詞的な繋辞は主辞と同一のものとして
 主辞を限定=規定する賓辞に言及し、
 賓辞を問題にすることによって
 〈主辞-賓辞〉の分節構造をもつ命題を形成する。

 命題は論理学の形式的考察対象となるところのもので、
 その真偽が問い詰められるところのものである。

 しかし、つきつめて見てみればすぐ分かるように、
 論理学が問うのは常に賓辞の真理性であり、
 類と種差の論理的階層構造に基づいて、
 賓辞が規定するところのものが最終的に主辞に妥当する
 (部分的に同一性を持つ、
  つまり類的な〈同一性〉と
  それに根付く種的な〈差異〉である〈相異性〉によって
  規定=定義可能な共通項によって主辞と賓辞が通分=共約可能である)
 かどうかが問い詰められるのであるに過ぎない。

 つまり賓辞が主辞に基づけられた存在(実在)を持つかどうかが
 問題となっているに過ぎない。

 賓辞の真偽(あるかあらぬか)は
 主辞の問われることのない真偽(あるかあらぬか)に
 盲目的に依存してしまっていることになる。

 ということは、論理学は
 最終的で窮極的な真理である主辞の存在については何も明かし得ない以上、
 真に確実な妥当性を原理的に持ち得ない
 不確実な学問であるということになる。

 つまり論理学に先立ちそれを基礎づけるものとしての
 主辞の存在の真理を問う学である存在論が要請されるであろう。

 このことの経緯は実に見易い。
 例えばハイデガーの存在論は
 論理学が問題とすることのできないこの繋辞ではないところの存在の真理、
 主体の定立(position/thesis)そのものの真理、
 〈われ在り〉(ego sum)の真理そのものを問題にしようとしている。

【4】ハイデガーの存在への問いが
 実存としての〈われ在り〉の意味への問いとして
 開始したことは知られている。

 茅野良男は
 『ハイデガーにおける世界・時間・真理』(1981 朝日出版社)のなかで
 『存在と時間』を著す直前のハイデガーの思索が
 〈われ在り〉の存在意味への問いであったことを述べている。

 第一次世界大戦復員後から
 ハイデガーの独自な思想が展開し始めていることについては
 多くの論者が指摘する通りである。
 それ以前のハイデガーは、基本的に新カント派及びフッサールの影の下で
 論理学的な研究を行っている。
 茅野が指摘するように学位論文でも教授資格論文でも
 ハイデガーは〈繋辞〉としての存在の意味、
 つまり妥当性というものについてしか問うてはいない。

 それに収まり切らない〈われ在り〉の意味、
 実存・現存在という意味での存在の意味について
 問い始めるハイデガーの変貌は
 第一次世界大戦の歴史的な体験と切っても切れないものである。

 例えばオットー・ペゲラーは
 一九一九~二〇年頃のハイデガーの変貌について
 以前にはなかった「事実的な生」(faktisches Leben)
 「事実性」(Tats chlichkeit)という問題設定が現れ、
 それ以前の形而上学的な存在
 (判断・範疇・意義などの問題設定において問われる〈繋辞〉
  ・妥当性としての存在)についての問いが
 鳴りをひそめていったと述べている。
 (1963『マルチン・ハイデガーの思惟の道』/
  邦訳題名『ハイデッガーの根本問題』
  大橋良介・溝口宏平訳 p25 1980 晃洋書房)

 ハイデガーの精神危機と
 デカルトをいわゆる方法的懐疑に駆立てた精神危機は比べられてよい。
 両者とも〈ego sum〉の問題へと逢着する。
 しかし、両者の定位の力点は微妙に違う。

 デカルトの場合、我思う〈ego cogito〉が事態としてまず先である
 とひとまず一般的な見解としてそう言える。

 ハイデガーにとって、cogitoは余り重視されていない。
 むしろ〈sum, ergo cogito〉という風に順序が転倒している。
 ergo cogito として見いだされるのは
 彼のいわゆる現存在(Dasein)である。

 ではハイデガーにとって〈ego sum〉の存在意味とは要するに何なのか。
 最終的にはそれは
 ハイデガー版の cogito である Dasein の自己性に帰着してしまうだろう。
 それは要するに存在の声に聴従するという
 人間の役割(存在からの付託/命運)の問題となる。

 人間は存在から自己を自己固有の存在意味として
 受容し所有すべきものとして召喚される。
 つまり存在は存在自身を人間の自己性に有限的に譲渡するものとなる。
 存在が譲渡されるということの内に
 存在の譲渡不可能性つまり必然性(necessitas)は否定されている。

 それは譲渡可能であるからには根本的には偶然的である。
 ということは、パルメニデスの自同律や自己同一性は
 他のようでもありえたしありえるであろうものとして
 それ自体は根本的に不安定な偶然的なもの、
 そして歴史的なものに過ぎないということを、
 ハイデガー版の cogito は了解するということになる。

 これは、パルメニデスへの批判であると同時に、
 それ以上に〈cogito, ergo sum〉が告げようとする
 〈ergo sum〉の確実性への、
 つまりデカルトへの批判になってしまっている。
 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」
 (ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』七)という
 法律の条文も時と場合によって、その用法は善し悪しである。

 常に法律が悪法に変わるのは適用が間違われ、
 それが濫用されるときである。

 それは立法者の精神に違う邪曲なものが
 その法律を簒奪して詐欺紛いの悪徳商法に役立てて意味を歪め、
 手飼いの思想警察を動員して、
 罪もない、ただ自分の悪徳をその無邪気さによって暴きかねない
 都合の悪い人を逮捕することに役立てる場合である。

 その都合の悪い人というのは
 「王様は裸だ」と、
 ただあるがまま見たがままを素直に自分の言葉で口にし、
 その自分の生の言葉をその裸体性のままに呈示するような
 〈童心〉のことである。

 そのような〈童心〉は己れの、裸の言葉・裸の心を、
 大人のように嘘の衣装で飾らぬままに口にするものである。

 〈童心〉の語る言葉は無条件に信じられる。
 それは〈童心〉が可愛い子供の顔をしているからではない。

 〈童心〉が厳しく心から嘘を嫌い、
 欺かれることを憎む正義の心であり、
 また、決して欺かれることのありえない純粋理性の動物であるからである。

 〈童心〉は己れが無知であることに無知である。
 だからこそその知性は歪められておらず、
 まっすぐに物自体の本質に透徹して、
 現象という名のみにくい嘘を根底から曝露する
 黙示録的出来事を起こすのである。

 黙示録的出来事というのはもののあわれを知るということだ。
 それは嘘つきどもの言の葉のおかしさに対する全き答えの出現である。

 「語り得ぬものは示され得る」のではなく、
 「語り得ぬものはそのようにして示される」のである。

 それは黙示録的出来事として、
 すなわち最後の審判として出来するのである。

 純粋理性の神通力は絶対精神の超能力よりも強大である。

 超能力はいまだ可能なもの、
 大いにありそうなものであるに過ぎないが、
 神通力は奇蹟を起こす神の力の発現であり、
 それは全くありえない出来事を爆発させる、
 超新星爆発的・原爆投下的な、
 誰も決してそれに抗うことの出来ない
 不可能力(不可抗力)であるからである。
Cogito, ergo sum, ego sum qui sum, sive existo.

 Cogito, ergo sum. 我思う故に我在り。

さて、デカルトの名と共に常に引き合いに出される、そしてしばしば非常に悪名高くもある、この余りにも有名な名文句の真意がいったい何であったのか(たぶん永久に結論の出ない、正解というものの無い問題)について、異論とか反論とかいうのではないが、僕は普通に解釈される筋合いとは、ちょっと違った風に考えてみたい。

 デカルトは正確には《cogito ergo sum》と書いたのでなくて《cogito, ergo sum》という風に、《我思う(cogito)》と《我在り(sum)》をカンマで区切っている。
 僕はこれを昔の柄谷行人の言葉をつかって言うなら、いわば「暗闇の中への跳躍」の痕跡なのだと解釈する。それは《我思う》というあらゆるものが不明性の灰色の闇に没する底なしの懐疑の暗がりから、《我在り》という明るい曙光に照らされた現実の生の次元への感動的な跳躍の跡に他ならない、という風に。

 そこで、ラテン語では表記されぬままに落ちてしまう《cogito》と《sum》の隠れた主辞、二つの隠された《我》の顔についていうと、これは同じ《我》であるといえるのだろうか? 
 つまり古くから真理の根本的な明証とされてきたA=Aの自同律の明証と、デカルトの言い放ったコギトの明証は実は全く相容れないものであったのではないだろうか。

 前者、自同律の明証性は《思考と存在の一致》という古くからの真理の条件をあらわす思考の原理と表裏一体だ。
 もしデカルトがさんざん懐疑の地獄巡りをした末に、たんに《思考することによって自我の存在が確認される》というような至極つまらないことを言ったに過ぎないとしたら、『方法序説』は随分とつまらない本に成り下がってしまうだろう(そういうつまらないことを大層有難がってしまう不思議な頭の構造の人たちが実際には非常に数多くいるといううんざりする事実はこの際措いておくことにする)。

 僕は、デカルトの《コギト・エルゴ・スム》は、《私は私である》の自同律とはまったく逆に、《cogito》の〈我〉と《sum》の〈我〉は全く異なる〈我〉であること、いわば両者はむしろ別人であるということを言い切っているのではないかと考えてみたい。
 埴谷雄高風にいうと自同律の不快(「俺は」と言いかけて「俺だ」と言い終えることのできない不快。何故ってそれは尤もらしい嘘に過ぎないから)がきっとデカルトにもあったに違いないのだ。
 そして、デカルトは《sum》の境位において、埴谷が〈虚体〉と呼んだもの、「もはや我ならざる我」をすでに発見していたのではなかろうか、そんな風に考えることを僕は好むのだ。

 では、その〈虚体〉とは何か? 僕はそれはこの美しい現実のこと、夢ではないこの現実が本当にあるのだという発見だったのではないかと思う。

 『方法序説』のなかで一番重要なのは、懐疑の闇の中でデカルトが神について考えるくだりだ。

 底知れぬ懐疑のなかで、彼は彼を決して欺くことのない神に出会い、そして神と共に《我在り(sum)》と宣言している。

 この《我在り(sum)》という語は、ラテン語聖書においてモーセに現れた神が自らの名を告げて言った言葉《我は在りて在るところのものなり》と共鳴している。

 つまりそれは神名の宣言に他ならない。

 デカルトは実は思考によって存在を確証することは出来ないという不可能性の体験を《cogito》の懐疑において語り、だとすれば何が存在(実在)を確証(あるいはむしろ創造)するのかと問うて、神の創造がそれを確証するという確信に達した。

 つまり、不可能なるが故に我在りということである。

 ここでは不可能性が全く否定性を含まないポジティヴなものに反転している。
 翻っていうならむしろ可能性こそが否定性、まったく無力な否定性に過ぎないのだ。

 《思考と存在の一致》とは何だろう? 
 それは全ては自分の見る夢に過ぎないのだということと同じである。

 これは虚無主義に過ぎない。夢とは可能性の呪縛なのだ。可能性(思考)という脱出不能の悪夢に囚われ、永遠にその実現であるはずの現実の世界に誕生できないという苦しみである。
 デカルトの懐疑は、何より世界の全てが夢ではないか、全ては自分を欺こうとする根源的な夢魔である悪魔が作り出した虚妄なのではないかという悪夢だった。

 夢の中ではものはそれを思考すればそこに在るように見えてしまう。そしてそれが本当には無いのだということは決して見えない。夢から目覚めることが無い限りは。

 ところで、夢から覚めること、それは自分の意志によっては決して為し得ないことである。
 それは〈行為〉ではなく、〈出来事〉なのだから。

 そしてこの〈出来事〉において、人は現実の触発を受けて目覚める。

 デカルトが〈神〉の語で言っているものは、何もその語から類推されるように宗教的にご大層なものではなく、単にこの目覚めというありふれた出来事の全き現実性(そして主体のどうすることもできないその受動性)のことなのではなかろうか。

 しかし実はこれこそが本当は大層なものなのである。

 それは現実性が可能性の実現ではないこと、可能性には遂には還元不可能であるということ、したがって不可能であるが故に奇蹟として実在するのだということを意味するのだから。

 余りデカルトがこんな風に語られることは無い。
 だが、僕は彼の上ににとても感動的で力強い不可能性の思想家の像を思い描きたいと思う。
 誰もそれを知らない、僕だけの不可能性のデカルト、それが真のデカルトでなくても構わない。
 何故なら僕の虚構のデカルトの方が、きっと遥かに美しく、そして意義深く、また真の意味において、全く「現実的」な思想家であるに違いないのだから。





著者: フッサール, 浜渦 辰二
タイトル: デカルト的省察



著者: デカルト, Ren´e Descartes, 谷川 多佳子
タイトル: 方法序説



著者: デカルト, Ren´e Descartes, 谷川 多佳子
タイトル: 方法序説







著者: ルネ デカルト, Ren´e Descartes, 三宅 徳嘉, 青木 靖三, 赤木 昭三, 小池 健男, 水野 和久
タイトル: デカルト著作集



著者: 山口 信夫
タイトル: 疎まれし者デカルト―十八世紀フランスにおけるデカルト神話の生成と展開



著者: 山田 弘明
タイトル: デカルト=エリザベト往復書簡







著者: デカルト, Ren´e Descartes, 野田 又夫, 水野 和久, 井上 庄七, 神野 慧一郎
タイトル: 方法序説ほか



著者: 所 雄章
タイトル: デカルト〈1〉



著者: 所 雄章
タイトル: デカルト〈2〉
 アリストテレスは現実性を可能性の実現と考えた最初の哲学者であると普通言われている。
 すなわちデュナミスはエネルゲイアに先行している。
 我々の言い方で言うなら、潜在的可能性(能力)であるデュナミスが現実の次元に出来したものがエネルゲイアであり、出来は可能性の実現だということになる。

 しかし、そのように単純に考えることは現実性を可能性に還元してしまうことであるに過ぎない。
 言葉は違うが、それではアリストテレスが必死になって批判したプラトンのイデア論と同じになってしまう。

 プラトンは観念的なイデアに地上の現実世界を還元してしまい、その上にイデアこそが真実在であって、アリストテレスがエネルゲイアと呼んだ現実世界の方を朧ろな現象の影の世界に過ぎないものだと断定している。
 しかしイデアは可想界であって、そのようなものを現実世界に置き換えて真実在と看做すことはアリストテレスにとって耐え難いことであった。

 目の前にあるものを実在しない虚妄の影と考えてしまうとしたら、そもそも《ある》という言葉は一体何を意味するというのか。

 プラトンとソクラテスは哲学を「死の練習」であると言い、肉体(ソーマ)は墓場(セーマ)であると言って、現に人が生きている美しい現実世界を蔑視し、それは本当には《ない》のだという哲学の名を騙る恐怖の宗教を蔓延させていた。

 アリストテレスにはそのような感性はない。
 彼は現にあるがままの世界を美しいもの、生き生きと生きるに値する麗しい場処、神がいるとすれば、それはまぎれもなくこの現世のきらめきのただ中に見いだされねばならないのだと感じていた。

 彼は自然を愛する人であり、アテナイという退廃した都市文化に毒されて怪奇な厭世主義に陥ったプラトンのアカデメイアのたれ流す似非学問を拒絶し、異なる学校リュケイオンを開いて、現実世界に定位した真の学問をたった一人で一から作り出そうと格闘した真の意味での最初の哲学者である。

 哲学がソクラテスやプラトンから始まるなどという考えは私には耐え難いものである。
 彼らが作り出したのは人間の人格を侮蔑し、子供達から歌声を奪うアカデメイア(学校)という残酷な制度であり、知を愛するなどと称して、その実全く真の愛というものを知らない、驕慢で偽善的で口ばかり達者な、自称「哲学者」或いは「学者」「知識人」「文化人」と称する似非インテリの詐欺師ばかりである。

 西欧哲学の歴史は長いが、真の哲学者、知を愛する以前に愛をこそ深く知っている暖かい人の心を強く宿した哲学者というのは本当に希有である。
 アリストテレス、デカルト、スピノザ、ルソー、カント、ノヴァーリス、マルクス、ニーチェ、そしてジル・ドゥルーズ。
 彼らに共通するのは在野に市井に定位して、〈愛〉を破壊するために〈知〉という名前の邪悪な権力を振り回す「学問」という名の権威主義に牙を剥き、哲学というのは決して弱き者の魂を玩具にする悪魔の遊戯ではないのだということを示そうとしたその決死の戦いの姿勢である。

 真の哲学者とは何か。
 それは動物である。理性的動物である。
 自らを理性的動物であると看做し、文化の檻に入れられることを嫌い、獣のように野に下って、欺瞞の神に、みにくい権威の幻影に、獣の声で命の限り誠実に吠え続けようと決意した人間のことである。

 哲学者というのは第一に怒れる者である。
 怒りの感情を引き受け、烈火の如く、自分の同胞を欺き虐げ冷笑しようとする〈真理〉という名の冷酷な悪魔に対して、最高善である〈幸福〉を高く掲げ、涙を流しながら「嘘をつくな! 人の心を歪めるな!」と罵り続ける戦士だけが哲学者なのだ。

 哲学者が要求するのは美しい人生である。
 子供たちの可憐な歌声が戻ってくることである。
 人間の人格や生命が決して侮蔑されない地上の楽園である。

 哲学者が憎むものは人の心を蝕む残酷なニヒリズムであり、哲学の仮面を被った邪悪な知のファシズムである。
 愛し合う恋人の仲を引き裂くもの、子供達の瞳に暗闇と失望の闇をうがつもの、愚かしい幻影のために美しい人生が無慚な力で砕かれてゆく悲劇に与するもの、それが哲学者の敵である。

 人の心の故に、哲学者はそれを決して許せないし、憎しみの故に哲学者は思考するのだ。

 間違ってはいけない。哲学者は真理の探究者などではない。
 哲学者は真理の反対者であり、理性的・政治的動物の本能によって〈幸福〉を追い求める人間なのである。
 〈風流〉の観念は極めて〈活き〉の悪い窒息寸前の日本人の折鶴的美意識を『「いき」の構造』に綴った九鬼周造よってやはり実にその風速・風力を削減された微風的なものに弱められて考察されている(「風流に関する一考察」)。

 風流の本質は爆風的な疾風怒涛の台風的風流心に求めるべきであり、それは天地創造的で黙示録的な怒りの神の過激な過越のプネウマのなかに、或いは暴風神シヴァ=ルドラのコズミックダンスやそのサイクロンの絶叫にみなければ嘘である。
 どんな幽かな微風であってもその本質は破壊的で切断的な残酷の爆風でしかありえない。

 九鬼はこのことを見ていない。それは彼の所謂「いき」の構造が、それよりも遥かにみにくくとらえがたい「甘え=生き=恥」の構造に呪縛された「虫の息」の構造になってしまっているということとパラレルである。

 「いき」の構造は「美意識」の構造でしかないが、私が「甘え=生き=恥」の構造といっているのは単に反省的な「美意識」の美学(審美学・日本人論・文化論)によっては、あまりにそれがみにくすぎて残酷なために把握不可能な、政治権力的な野蛮の構造であり、真の意味で形而上学的でまた美学的=様相論的=病態論的(pathologic)なものである。

 私は普通の意味で「美しさ」や「みにくさ」を言っていない。これは今日的な意味での美学的概念ではない。
 私はそれとは異なる形而上的な美学において逆に今日的な美学を全体として美を見失ったみにくいもの(これは醜さというより見にくさという方が近い「意識の盲目性(blindness)」の概念である)として批判する。

 それはむしろ美を見失ったみにくい教えの宗教(醜教)に内属するもので、己れの「美意識」そのものが真の「心の美しさ」を忘却し隠蔽するものでしかないことに無自覚である。

 九鬼の美学もこれにあたる。
 そのことが九鬼を余りにも惜しい悔しい思想家に留めてしまっている。

 私は「いき」の構造が本当に生き生きと美しく生きられるような「美しい学としての哲学」を提唱したい。
 私が第一哲学として考える「美学」は「哲学自体が美しいものであるような哲学」を意味する。

 九鬼の『「いき」の構造』は殺されている。それは自殺の構造になっている。
 私はこれを『「いきいき」の構造』『「いきかえり」の構造』に革命的に作り替える必要を痛切に感じている。

 「ライプニッツのモナドロジーをノマドロジーに改造する」とはジル・ドゥルーズの言い草であった。
 私はむしろ死せる偶然性の様相形而上学者・九鬼周造の『「いき」の構造』を『「命」の創造』に改造する夏殷の徴のさかしまの神業を使う神風の思想家でありたいと希っている。

 九鬼はたしかに一個の端倪すべからざる思想の鬼である。しかし、その後ろの正面には六六六の神沢が立つのだ(笑)。

 さて、花薔薇〔カバラ〕的にいうと、〈周〉を〈造〉ったのは文王の易である。
 しかし私は夏の連山・殷の帰蔵をもってこの小さな文王のトカゲの易から、天龍・地龍をつくりだすゴーレムの天=文学的創造を敢えてなしたいと思っている。
 大いなる連山すなわち出口王仁三郎の艮(為山)の金神の殳〔たてぼこ〕によって、逆さ吊りの緋色の女・大殷婦バビロンの大きな腹(殷の解字参照)の胎蔵界(ガルバコシャダート)を帝王切開し、この現実世界にブラフマンなる黄金胎児(ヒラニヤガルバ)を誕生させる「風流としての黙示録」を行わねばならない。

 そのためには、「風」を姓とし「夏」に先立つ「春」の国に、包丁(刃)の使い方と河図の龍馬を出だして初めて八卦を画した伏羲と、人類を創造し壊れた天地を修理した双子の女神の女媧の双子宮時代の太極に戻らねばならぬ。

 伏羲と女媧は蛇身人頭・二身一体の双子の陰陽にして夫妻でありまさに太極の形にその分かちがたい下半身をからめ合うヘルメスの双頭の蛇杖カドゥケウスに他ならない。

 それはそれ自体がエデンの園の中央にある生命の木であり、その切断の魔法の風の杖から神農なる偉大な牛頭大王(鬼の元型となる有角神)は生まれるのである。

 この魔法の風、風伯の風こそが真の意味での「風流」の風なのである。

 九鬼はこの魔法の風、奇蹟を起こす不可能性の金の戦ぎの風、うるわしきワルキューレの騎行の風、光の暴風を、この男女一身同体の春の嵐を、テンペストを見ていない。
 彼の風流論はきわめてうらぶれたものであるに過ぎないのだ。

 しかしそれにも拘わらず、風流の第一の本質を「離俗」すなわち「社会的日常性における世俗と断つことから出発せねばならぬ」と睨む九鬼の風流論は重要である。
 彼は書いている。

風流の本質構造には「風の流れ」といったところがある。水の流れには流れる床の束縛があるが、風の流れには何らの束縛がない。世俗と断ち因習を脱し名利を離れて虚空を吹きまくるという気魄が風流の根柢になくてはならぬ。社会的日常性の形を取っている世俗的価値の破壊または逆転ということが風流の第一歩である。
   (九鬼周造『「いき」の構造 他二編』岩波文庫 p.102)



 九鬼は風流の構造を構成する本質契機としてこの第一の「離俗」の他に、第二「耽美(人生美)」第三「自然美」を挙げ、後の二者を「芸術面における積極性」、最初の離俗した天衣無縫の自在人の「風の流れ」を「道徳面における消極性」と呼んでいる。
 そして後者を不可欠条件として先行するものとしている。

 だが、残念ながら、良いのはそこまでだ。

 結局は「風流とは自然美を基調とする耽美的体験を「風」と「流」の社会形態との関聯において積極的に生きる人間実存にほかならぬもの」とし、更に「風の流れ」の高邁な破壊性はあくまでもっぱら「内面的破壊性」にすぎぬものと消極的にしか受け取らず、「社会的勤労組織との外面的形式的断絶を意味するものではない。かえって社会的勤労組織そのものの中に自然的自在人を実現することこそ現代的には真の風流であるといえよう」という『「いき」の構造』にも見られるような世に媚びた媚態を呈してしまっている意気地の無い単に甘ったれたところには呆れ果てる他にない。

 私が気に入らないのは「風の流れ」の馴致不可能な抗いがたい強烈なさがをこのように消極的なものに矮小化し還元して、スタティックな美意識の小さな形而上学的八面体に風の粒子を凍らせてしまう九鬼の余りにも惜しい貧弱な美意識である。

 この風流論の中心をなす〈厳-笑〉〈太-細〉〈華-寂〉の三つの対立軸をOのゼロ点に交差させた「風流正八面体」は逆に風の本質を殺している風流ならざるものである。

 この風流正八面体は、「いき」の構造と同様に美意識(虚偽意識)の八面体であるに過ぎない。

 これは風の抜殻でありその屍骸である。
 たとえそれがどんなに小綺麗に整って見えようとも。