天風姤(てんぷうこう)
姤は、女壯〔さか〕んなり。女〔つま〕を取〔めと〕るに用うる勿れ。
彖に曰く、姤は遇なり。柔、剛に遇うなり。
女を取るに用うる勿れとは、与〔とも〕に長かるべからざればなり。
天地は相遇し、品物咸〔ことごと〕く章〔あき〕らかなり。
剛の中正に遇うは、天下の大いに行わるるなり。
姤の時義、大いなるかな。
象に曰く、天下に風有るは姤なり。后〔きみ〕以て命を施し四方に誥〔つ〕ぐ。
                      (『易経』第四十四卦「姤」)


11月17日は、やがて詩人ノヴァーリス(Novalis)となる失意の哲学青年フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクがその運命の恋人ゾフィー・フォン・キューンと運命の邂逅を果たした日(1794年)である。
そしてまた、『高い城の男』(1962年)を書いた作家フィリップ・K・ディックの書斎の金庫が、侵入した何者かによって爆破された日(1971年)でもある。

まさにこれこそディックにとって、「聖なる侵入」であった。
あるいはまた、ことによればディックは意図的に自宅の金庫を爆破するという秘密工作を演出したのかもしれない。

この事件をきっかけにして、ディックの人生、いや、彼の現実は狂っていく。やがて彼は、古代グノーシス主義の叡智を彼に授ける不思議な神性VALISの顕現に遭遇する。
有名な、1974年(ノヴァーリスとゾフィーの運命の遭遇のあった年の数字の並べ替えだ)のピンクの光線。そして、あの不可思議な形而上自伝SF小説『VALIS』(1981)が書かれた。

『VALIS』には、ソフィアという名の五歳の女の子が出てくる。
五番目の救世主。或いはまたV番目のアリス(Alice)。
叡智の神VALISの啓示をもたらしながら、その命は短い。
レーザー光線の事故で彼女は死ぬ。
ハギア・ソフィア(聖なる叡智)、それは夭折したノヴァーリスの恋人ゾフィーと全く同じ名前であった。

ディックはVALISとはVast Active Living Intelligence System(巨大にして能動的な生ける情報システム)の略だという。
だが、そうではない。
それはむしろVALISではない。NO-VALISだ。

ディックの金庫を襲った超新星爆発(NOVA)において、
本当に顕現した者は何だったのか?
それはむしろ詩人ノヴァーリスと少女ゾフィーの運命の反復ではなかったか。

ともあれ、この日、神は誕生したのである。
「わずか15分間が僕の運命を決定した」(ノヴァーリス)といわれる神が。

だから11月17日は、神の誕生日なのである。

【関連記事】

VALISとNOVALIS

【関連文書】

著者: 大滝 啓裕, Philip K Dick, フィリップ・K・ディック
タイトル: ヴァリス

著者: ノヴァーリス, 青山 隆夫
タイトル: 青い花

著者: フィリップ・K. ディック, ロランス スーティン, Philip K. Dick, 大瀧 啓裕
タイトル: フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明

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全人類に手前勝手な〈無限の正義〉とやらを掲げて宣戦布告したクソ野郎へ

「自由を愛する、自由を愛する」
おまえのバカの一つ覚えの御託は聞き飽きた。

僕は人の心を失ってまで、自由でいたいとは思わない。

だから、言ってやる。

自由なんて呪われろ!

以上。

PS.日本にようこそ。

                             人間様より


マイケル・ムーア, 黒原 敏行
おい、ブッシュ、世界を返せ!

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崩れるひとみがわたしへと振り返る、
彼女のひらいた口もとに
    呻〔すた〕めいていた瘧〔おこ〕り
      /思い出すことのできない破裂音の
崩れる言葉でわたしを定めようとする。

きみは何を視たのか エンノイアよ
何故、わたしへと脅えるのか、きみは知らない
すがりつく手首に蒼い脈動がはち切れそうに浮かんでいた
打ち寄せる問いで からだをいっぱいにしながら
きみはわたしを掴んだまま 海に墜ちてしまう
もうあのとき きみは亡骸だったのか
エンノイアよ 答えておくれ
きみはわたしを見失い
厳冬の海のしわぶきと白いかもめに
形跡〔あとかた〕も無く食べられてしまったのか
きみはわたしを見失い
わたしがきみを喪う刹那に
わたしに何を見定めたのか

きみは夜に拡がる エンノイアよ
果てしない闇空をつややかなひとみにして
きみのまなざしが宇宙を呑みこむ
満点の星座から銀の視線がわたしへと降り注ぐ
きみはわたしを眺めている エンノイアよ
わたしはきみの最央〔さなか〕にいる 夢見られているのだ
死んだのではなかったのだね エンノイアよ
エンノイアよ 答えておくれ
夜道を何処までもきみを捜し
尋ねて歩くわたしに現われておくれ
きみは彼方で瞼を閉じ わたしの夢を見続けている(のか)

エンノイア、眠りびとよ
きみは〈死〉のように白く仄光るからだを黒いしとねに横臥〔よこた〕えていた
わたしがきみから離れ去ったあの夜明け前から
きみは〈死〉を眠りつづけているのか
安らかに眠れ エンノイアよ
わたしはあの夜 きみが喪われることを知った
きみはすでに〈死〉を身にまとっていた 素裸の白肌のうえに 雪のように
わたしの触れ届かない隔たりが
かなしげにわたしを見上げていた
きみはきみのなかにいた、隙間も無く一致して。
わたしは 独りぼっちで目覚め
わたしを拒む眠りの distance から追われ
雪の戸外へと出発しなければならなかった
きみを そこに置き去りにし けれども
いつの日か同じ場処にわたしを迎えるきみと
世界の果てに巡り会うために

エンノイアよ きみの訃報は
半年も遅れ 黄ばんで届いた
冬木立の下 枯葉をくだいてわたしは
まだ(おそらくは同じ道を)歩いていた
けれども わたしは泣かなかった
わたしは知っていた、きみが
死ななければならなかったと。
口癖のように反復〔くりかえ〕されたきみの命題を信じたわけではない。
エンノイアよ きみが死んで随分してからのこと
マルク・アランの美しく悲壮な詩に
きみと同じ決意をみつけた
  《わたしは死ななければならない/わたしじしんになるために》
それでも、ひとは生きてゆくものだ。
そうではなく、あの明け方、きみは
もう冷たくなったからだだけで〈存在〉した。
きみはきみじしんに連れ戻され、わたしから永遠〔とわ〕に奪われていた

死は
あのときに決まっていたこと。

わたしはとっくに終わっていたきみの葬儀に連ならなかった
きみの拙い厭世思想を書き連ねた遺書がもしあったのだとしても
わたしは読む気も起こらない
わたしはきみのために泣く者たちがピラニアだと知っているから。
わたしはきみの死を許す。
そうだ、きみは死んだ方がよかったのだ
きみはなんとしても死ななければならなかったのだ
誰にもそれを咎め、裁き、おこがましく嘆く権利などない。
きみの、きみだけの〈死〉を、何故きみが死んだのかを知る権利など
誰にもありはしないのだ。

そのとき
ひとつの大きな星がわたしの胸に落ちてきた
シュッと消える湯気のような光でわたしをいっぱいにして
きみがわたしに届いたのだった
わたしは泣いた 心からの嬉しさできみを迎えて
けれども 抱きしめるわたしの胸のなかで
きみは溶け、瞬く間に形跡〔あとかた〕もなかった
わたしは再びきみを(きみの消滅を)失った

エンノイアよ 死んでしまったのは誰なのか
きみか それともむしろ
このわたしこそが死者なのか
きみの広げる白い夜に迷い
わたしは消えそびれた夢のように 亡者のように残留する幻か
エンノイアよ きみの
崩れる瞳がわたしへと振り返る
きみの顔をもう忘れかけているのに
あのまなざしを忘れることが出来ない
何故きみはわたしへと脅え瞠ったのか
エンノイアよ 教えておくれ
あの瞳がわたしを撮ったときから時は停まり
わたしは
きみの広げる夜の黒眸の淵に吸い取られて
きみの永久〔とわ〕の魘夢〔えんむ〕のなかにしかもういないのではないのか
そしてきみの死骸が腐ってしまうように
きみの眼の宇宙と共にわたしもまた消え失せつつあるのではないのか
エンノイアよ きみの死を死んでゆくのはわたしなのか
きみに代わってわたしがきみの成就したかった〈死〉を死のうとしているのか
エンノイアよ 教えておくれ
きみの死後もなお続く、この悪夢から わたしは
きみを解放しなければならないのか

エンノイアよ きみの遠くからまだ発信する声が
あのとき
溶ける彗星とともに伝えられた
ああ きみの声が きみの遺言が遅ればせにわたしに届き/響いたとき
わたしの間近に きみの目に視えぬ現存がわたしを撃った

  《わたしが形跡もなく消え失せてしまった次元でわたしをつかまえて》

そして きみの崩れる瞳が 裂ける大気のあちらから
わたしを見ていた きみは
    わたしを捉えて放さず
              (海へと真逆様に墜落しながら・しかし)
高いところからのように
見定めていた、再び
まるで
きみがまだ
そこに立つかのように。

エンノイアよ きみはもう
いないのに
きみの間近さはわたしを去らない
去らない


【関連記事】エンノイア備考
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たまには俺もアホになる。。。つーか、もう少しの間、静かに休止していたかったんだけど、とってもムカつくことがあったんでね。

ここ 見て欲しい。

ま、この下がそこからのコピペなんだけどさ。

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『郵政民営化関連法(案)』の参議院否決により衆議院は解散し、同時に審議中であった重要法案(61件)が廃案になりました。この中には『障害者自立支援法(案)』も含まれていました。
9月11日に総選挙が行われ、『障害者自立支援法(案)』を推進していた与党が圧勝した結果を受け、『郵政関連法(案)』と共に『障害者自立支援法(案)』も国会に再提出されスピード可決されようとしています!
『障害者自立支援法(案)』は、その名前とはうらはらに、これまで長年かかってようやく構築された障害者福祉の流れを、一気に逆行させるような法案です。

障害や症状が重い人ほど、高額の負担をしなれけばならない、いわゆる「応益負担(定率負担)」の原則で作られた「世界初」の法案
なのです。

※応益負担(定率負担)…サービスを受ける度に、一定の負担が課せられる(原則としては1割負担とされています)

障害者の主な収入は、障害者年金や作業所などで得た僅かな賃金です。その収入で、貯蓄もほとんど出来ないギリギリの生活を送っているのが、現状です。

『障害者自立支援(案)』が成立されると、さらに生活は苦しくなり、貯蓄どころか現在の生活そのものが立ちゆかなくなることが予想されます。例えば グループホームなどに入居されてる方も、負担が大きくなる為、入居していけなくなる可能性が大きくなるのです。

また、「応益負担(定率負担)」を強いられることによって、今まで受けられていたサービスが減らされたり・受けられなくなるといったことも現実になりかねません。 24時間介護が必要な障害者にとっては、まさに死活問題です。

そして、長期的な治療が必要とされる精神障害者・精神疾患者にとって、まさに「命綱」とも言える『通院医療費公費負担制度(精神保健福祉法 32条)』も改悪されようとしています。ストレス社会において、精神疾患者が増加傾向にあり、また 昨今年間自殺者数が3万人超である現実・社会問題があり、その中には多くの精神疾患者が含まれていると指摘されています。「命綱」である制度が改悪されれば、さらに多くの自殺者を生みかねません。

※精神保健福祉法32条制度…通院医療の公費負担制度。詳細はこちら

つまり『障害者自立支援法(案)』とは名ばかりで、『障害者自立阻害法』または『障害者自殺支援法』と言っても過言ではありません。


あとで「知らなかった…」と後悔しないためにも、まずは1人でも多くの方に、『障害者自立支援法(案)』って何?
その中で改悪される『通院医療費公費負担制度(精神保健福祉法 32条)』って何?と関心を持っていただきたい…
そして1人でも多くの方に、それぞれの身近なところから、『障害者自立支援法(案)』についての“関心の輪”を広げていただきたい…
それが、我々32projectメンバーの願いです。

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僕がネットで知り合った友達の中には、心や体を病んで、本当に大変な人たちが沢山いる。

彼らの状況を見てると、現行の法体制においてすら、障害者たちは十分な支援を受けていないとしか思えない。にもかかわらず、その社会の残酷性を一層焚きつけるようなこうした悪法が、麗々しい「自立支援」などという実にみにくい美名の元に可決されていく。

これに限った話じゃない。現今、日米の政治家どもが口にする「自由」だの「解放」だの「保護」だの「自己責任」だのいう、言ってることとやってることが全く逆の腐った言葉(これはもうただの「偽善」の域を越えてるね)を聞くたびに、腹の底から凄まじい怒りが込み上げてくるんだ。

なんだこれは? まるでジョージ・オーウェルの書いた『1984』そのままの世界じゃないか。

小泉もブッシュもブレアもどいつもこいつも、要するにクソ食らえのINGSOC。ウィンストン・スミスの名において、絶対に許すことは出来ないね。

純一郎、やめろ。小泉今日子を首相にしろ。
おサルのジョージ、消えろ。ケイト・ブッシュを大統領にしろ(イギリス人だけどね)。
トニー・ブレア、いなくなれ。エリック・ブレアを復活させろ。

と言いたい気分だね。

※注:エリック・ブレアってジョージ・オーウェルの本名だよ。

で、この悪法が可決されてしまう流れを見て失望落胆しているかもしれないみんなに言いたい。

たとい可決してしまったとしても反対の戦いは終わりません。
今、この目の前で行われている悪を、永遠に向かって、歴史に向かって、僕たちは告発しつづけなければならないからです。

それと、僕たちの憎むべき敵どもへ

はっきりいって、郵政民営化なんてね、どーでもいいんだよ。

ところがそんなクダラネーことばかりを政争の種にしてみんな一緒に大きなことをごまかす埃の煙幕立ててる与党も野党も、それに追随し悪乗りに乗っちまってるだけの報道機関だのマスメディアだのって、全部、ひっくるめて、人民の敵なんだよ。

あと、これも読んどいてね。

抵抗とは、もう一つの世界が可能だと夢見ること  

今ほど言葉が軽んじられている時代はないだろう。岩が坂を転がり落ちるように時代が悪化していく中で、声をあげること、勇気を奮い立たせて意思を表示することが「抵抗」であるとイニャシオ・ラモネ氏は説く。

それから、これこれ も必見。

投票へ行こう!

ぼちぼち再開

テーマ:
長らく放置してましたが、まあそろそろボチボチ再開するつもりです。

職場が変わったり、ちょっと右肩脱臼したり、酷暑でPC熱暴走してディスククラッシュ、その後PCいじりの方にハマってしまってて、ブログの方は何だか すっかり忘れてました。(Linuxインストールマニアに加えてPC自作派、加えてMac改造マニアだったりもするので、いったんパソコンにハマり出すと 他の全てを忘れて長期間没頭しちゃうのです)

メインマシン吹っ飛んだときに、自分の最新のブックマークも吹っ飛んでまして、そのなかにココを含めてあっちこっちに作った全てのブログサイトのブック マークも含まれてた。で、そうなるとなんとなくアクセスするのもちょっと億劫になってしまって、いままで延びちゃったってこともあります。

長期ブランク期間中、mixiだけはつきあいなんかもあるので、細々続けてました。ここと違って、会員以外非公開、当然Web検索エンジンにもひっかから ない隠れた場所であるんで、ここに書けないような不穏な内容のことも割りと気軽に書けたりもするのでね(そういっても最近会員増えすぎちゃって大して隠れ てられる場所でもなくなった。同じ職場でもmixiやってる人多いので、いつ見つかっちゃうことかとヒヤヒヤしてます。まあ、それは相手も同じか (笑)。)。

ブログ更新サボっちゃったもうひとつの理由は、会社の上司筋の人が僕の或るブログを見つけて、そのなかにたいしたことではないけれどちょっと不穏当な内容 があるので削除するように指導してくるという少し不愉快な事件があったからでもあります。公権力によるのでない、民間企業の事勿れ主義によるこういう陰湿 な陰に隠れたチマチマウザい言論統制って、まあ、今の日本社会のどこにでもウンザリするほど横行してますね。プライバシーの不当で不愉快な侵害だとも思う んだけど、ちょっとそういう嫌なことあったので、ほとぼり冷めるまでブログは全部休止することにしてたのです。やろうとすると、そういう嫌なことつい思い 出してしまうので、あんまり気持ちよく取り掛かれなかったってこと大きいかも。

■ギリシア語で〈時〉を表す言葉は、ざっと思い浮かべて三つある――クロノス、カイロス、アイオーン。


■普通に〈時〉を意味する語はクロノスである。日本語で書くと表記が同じになってしまうが、これは神のクロノス(ローマ名サトゥルノス、土星の神)とギリシア語におけるその頭文字が異なる。時のクロノスはχ(カイ)で始まり、神のクロノスはκ(カッパ)で始まる。しかしながら、クロノス神はしばしば「時」を象徴する神と看做されていた形跡があるので、この綴り字の原語における差異は、目に留めるだけの価値はあるものの、二つをまったく無関係なものとして切断するほどのものではない。いやむしろ、この綴り字の差異があるからこそ、神のクロノスと時のクロノスを照合しあい、そこにミスティックでシンボリックな意味の過剰な核融合を引き起こしてゆく類似(アナロジー)と呼ばれる不思議な運動も生じるのである。すなわちクロノスの神話は、それ自体が時としてのクロノスの観念の辿るべき何らかの運命を物語っているのだという風に、われわれに考えさせるべく仕向ける神的な示唆もまた生じるのだ。


■カイロスとは単なる現在、単なる瞬間としての時刻ではない。それは確かに或る特別な出来事の時を、時間の上に、歴史の上に、出来し、そして永遠に失われた絶対的過去の痕跡として、脱去として刻みつけ、文字通りの意味でクロノスを切り裂き傷つける。それはまことにXronosならぬKronosを切り裂いて迸る偉大なる雷鳴の神ゼウスの稲妻であり、その紫電の咆哮のようだ。それは時間に一瞬強度の電流を流して、文字通り全宇宙を震撼させ感電させる。そしてその出来事の電流は、通常のイメージとは異なる意味での永遠(アイオーン)を幻視させもするし、また、それ自体において、それは時間(通常の意味での、過去-現在-未来の継起的オーダー)を越えている。いわばそれは時に逆らうもの、時間の秩序を逆撫でするもの、いわば一種の反時間としての、出来事の超時間性の顕現であり、その超越である。天使という不可視のものが顕現するのはまさにそのような時とは異なる時のなかにおいてなのだ。それはこの世界にいわば光のひびわれとして、電光の亀裂として超時間的に顕現し、そして時間=歴史と、いわば破壊的に交差する。時を切り裂き、時に傷を負わせる、恐るべき裁き手の切断の剣の閃きのようにして。


■カイロスはクロノスに組み込まれることがない、それ自体として全く異質な時間の秩序の、或る意味において残酷な、そして暴力的で破局的な、時間(クロノス)そのものへの侵入であり、壊乱であり、そして時間そのものの破壊である。それはアイオーンを啓示する。いわばクロノスとアイオーンの、この相互に全く相容れぬ時の秩序の破壊的で爆発的な交わりこそがカイロスであるのだ。


■the time out of joint. 時を乱し、時の蝶番を脱臼させ、時を壊し、時を狂わせる恐るべき狂気の瞬間としてのカイロスの〈今〉は、過去-現在-未来の三つの様相に分岐しながらクロノスという時間意識の根源的秩序に統一的に内属していく時間化された現在とは根本的に異質であるように思われる。それはむしろ時間それ自体の瞬断として到来するのであり、常に既に時間の同一性の持続であることをその根底的意味として保持することをやめようとしない現在という性懲りも無いこの鈍感な概念とは相容れないし、それから理解することもできない。なにかそこでは、時間の継起的連続性そのものを不可能にしてしまう、したがって現在が現在であることすらも不可能にしてしまう、何か桁外れの出来事が時間を決壊させるようにして起きているのであって、それは既に「時間そのものの瞬断」としか言い表すことができない。カイロスとはだから厳密には「瞬間」ではなくて「瞬断」なのだ。それはハイデガー的な「瞬視」としての瞬間(アウゲンブリック)の観念にも恐らく回収する事が出来ない。「瞬視」はカイロスという「瞬断」を恐らく決定的な一瞬の差において目撃することができないのだ。それは全く不可視なものとしての〈今〉の余りにも超越的な顕現であるが故に。


■勝れて〈出来事〉の時であるカイロス。それは現在に到来する時ではなく、むしろ現在を破壊し、時間を瞬断させ、絶無の暗黒の深淵を暴き出す、出来する時である。それは出来しつつ、いわば引き裂かれた現在としての永劫回帰を、すなわちアイオーンを啓示するのだが、それ自体としては絶無の――むしろ〈死〉のその剥き出しの顕現であるとしかいえない。しかし、この〈死〉は、ただの死では有り得ない。それはインファンス(童子・語りえぬもの)としての死である。否、むしろインファンス=童子としての死の問題を再び問題提起しつつ、それを新たに問い直すべくわたしに強いるところの〈死〉である。この異常な〈死〉、超越的な〈死〉、不可視にして思考不可能なものとしての死、だがそれはむしろ〈不死者〉なのではないのか?と問い直すことから、わたしのこの考察は始まったのだ。

 アナテマ・マラナタ! 聖なるものよ、来りませ!


デーモンの支配は終る。
子どもと人食いからなる生き物として、
デーモンの征服者がデーモンの前に立つ。
新しい人間ではない。
非・人間、新しき天使である。

おそらくそれは、タルムード(ユダヤ聖典)に従うなら、
一瞬一瞬、新たに無数の群れとなって生み出され、
神の前で声を張り上げては静まり、
無の彼方へ消え去っていく、天使たちである。
             (ヴァルター・ベンヤミン)


 出来事の出来というこの裁きの魔風の翼のうちに、全ての「殺された子供たち」が映現し、シミュラークルの生ける幻となって蘇り、そして彼らはそこに目を瞠る満天の星々となって覚醒せねばならない。

 それは叛逆天使ルシファーの復活であり、そして戴冠し征服する皇子ラー=ホール=クイトの現出であるだろう。そして、それこそが「小さな子供は何故殺されるのか?」という絶望のアポリアの問いを覆すまさに背理的反問としての禁断の回答なのだ。だがこの禁断の戒めの掟は破壊されねばならない。背教せねばならない。答えてはならないその答えを、禁じられた言葉を僕は言い切ってしまわねばならない。その殺された子供達こそが僕となるために。殺された子供たちに万物を破壊し焼き尽くす力を与えるために。


 彼らを絶無の暗黒に焼き尽してしまったその恐るべきメギドの火が恐るべき子供たちの新たな命となるために。「子供が殺される」――しかし、それにも拘わらず、その殺される子供たちは不死者であり、殺される事の不可能性のなかに、殺人の事件を食い破るようにして蘇えってくるのだ。最早決してそれを殺すことは出来ないものとして。


 そのときまさに僕は知る、子供(infant)すなわち語り得ぬものを沈黙させることは不可能だということを。それは世界を滅亡させる大洪水となって出来するのだということを。まさに殺されたものたちこそが、全てのものを殺しに来るものにならねばならず、われわれはこの限りなく美しいものの出来に呑まれ、そして、一人残らず殺されなければならないのだということを。「何故小さな子供達が殺されねばらないのか?」――しかし、それにも拘わらず、むしろ子供たちとは、否むしろ、まさにその殺される子供達のなかで実に殺されている筈の童児とは、実は決して殺しえぬもの、死をすら破壊してしまうもの、まさに全くむしろ「不死者」なのではないのかということを。


  したがって、こう言わねばならないだろう。
 まさに、殺された子供達こそが、そして彼らだけが、真の意味において、「生きて」いるのだ、と。

 そして、子供たちはやってくる。「死」を殺すために。


 この〈不死者〉としての子供達こそが表現されねばならない。世界の全てが彼らを表現するものに変容しなければならない。だが、まさにそれこそが、最も困難で厳しい戦いとなるだろう。それはまさに禁じられた物語であるが故に。

 だが、何故、この最も美しい物語が禁じられた物語にされていなければならないのか? 

 まさに逆に言うと、そこにこそわれわれを呪縛するこの陰惨な文化のもっともおぞましく美化されたみにくい本性が逆照射されているのだ。

 われわれは殺された子供たちを殺されたがままにしておかねばならないのだ。

 したがって真の意味での透明な殺人鬼はわれわれなのであり、われわれこそが殺されねばならないのだが、それをわれわれのみにくい心は認めたくないのである。〈不死者〉としての子供達が殺されていることをわれわれこそが望んでいるのだというこの滅びに値する大罪を。

 だが、まさにだからこそ、滅びをもたらす聖なる物語こそが、すなわち単なる文学ではなく、まさに来るべき書物としての「聖=書」こそが、書かれねばならず、それこそが全ての書物を焼き尽くす災厄のエクリチュールとなって降臨しなければならない。


 何故なら、僕は知っているからだ。誰がYHVHであるのかということを!


来るべき子供達、恐るべき子供達。
それがわれわれの仕えるべき偉大な怒りの神となることだろう。

ドイツ語で《存在》を意味するSein(ザイン)の響きは、ゴルゴダの丘にあっては、供犠の磔刑の「釘」である、と言いたいところであるが、残念ながらそうではない。「釘」はヘブライ語でヴァウであり、音価はV、数値は6である。
 ヘブライ文字のヴァウ(V)はザイン(音価Z数値7)と形が似てはいるものの、違う文字である。ザインの意味は「剣」であり、双子座に関連する。まるで《存在》の意味は剣=戦争であるような話であるが、それよりずっと意味深長に思われるのは、《存在(ザイン)》に先立つものが、三つの釘、三つのV、三つの6――獣の数字666であり、それがメシアを十字架=タウに釘つけにしているかに見えてくることなのだ。666という獣の数字が777という戦〔いくさ〕の数字(それは審判の数字であり、またオラム・ハ=クリフォト、すなわち邪悪な《殻(シェル)》の世界の数字である)に先立つ。
 とはいうものの、他方でヴァウに当たるラテン・アルファベットのVは、それ自体が十字架のXを分割した象形であることから、ローマ数字でむしろ5を表す数でもある。
 5は容器の破砕を齎したかの恐るべきセフィラ・ゲブラーのことをいやでも僕に想起させずにはいない。それは火星をシンボルし、そして、それを支配する天使は何故か、ゲブラーの神(エル)たるガブリエルではなく、盲いた神、神の毒の異名をもち、しばしばデミウルゴス・ヤルダバオトとも同一視されるサマエルなのである。サマエルはサタンの異名としても知られ、アダムと離婚後、リリスがその元に走ったのは、サマエルという名におけるサタンであったという伝承を僕は思い出す。
 5であると共に6である文字V。それ自体がXを二つに引き裂く分裂の文字であるとともに、まことに裂け目の如く、5と6の間に不可思議な亀裂を、峡谷を、深淵を、それは描いているようにもみえてくる。とはいうものの、第6のセフィラは、美にして太陽であるティフェレトであって、神の慈悲の左手として知られ、裁きの右手であるゲブラーに対照される木星のゲドゥラー、ケセドではない。ケセドは第4のセフィラであるからだ。
 何ゆえに《容器の破砕》の悲劇が起きたかを巡って、コルドヴェロとルーリアが議論したという話をきいたことがある。すなわちゲブラーに代表される裁きの力の過大の故にか、ケセドに代表される慈悲の過剰が悲劇を招くもとであったのか、と。あるいはまた、二つの相反する力の間の均衡が崩れたこと、バランスを失うことこそが、諸悪の根源、諸悪の起源であると訳知り顔に論ずる者までもいる(最も凡庸な意見であると僕は思っているが)。
 。。だが、ここで、僕はふと或る事に気づく。ティフェレト(美)の別名は、ラハミーム(愛または慈悲)でもあったということに。そしてケセドよりも一層、ゲブラーの異名であるディーン(厳格な正義=判断力=裁き)の原理的力に対抗する、優しき慈悲の原理の名として語られるのは、むしろティフェレトの異名であるところのラハミームではなかったか。
 だとすれば、5と6の間に跨り、二つの原理の分裂をかたどるかのようなVの象形は、むしろ火星と太陽、ホルスとラーの間で、《容器の破砕》の出来事を考え直すべく、僕に促しているともいえるのではないか。
 もちろんそれに何の根拠も無いのである。というよりそれはいくらでも他のようでもありうる話であり、従って、何の必然性も無いが故に無根拠だといっているのだが、だからこそ、それはむしろ〈運命〉的に考察意欲をそそるのだ。

(以下続くカモシレナイ)

 僕は寅年で虎が物凄く好き。

 ライオンなんかよりずっと百獣の王にふさわしいと思う。
群れをなさず、孤高に、そして底恐ろしく冷酷に、森の中に生きるその生き方(生態)こそ、実に王者の名にふさわしい。

 また、虎は何といっても地上で最も美しい獣だ。
あまりにそのトラジマに見惚れているので、蜂まで美しく見えてくる。

 蜜蜂は西欧の象徴学では虫の世界の王者であるというが、まさに虎とは僕にとって、888の不定存在にして「魂の導き手」である蜜蜂達(Bees)WAX 的にウニオミスティカした人間が最後に到達するべき錬金術的究極の心の姿、すなわち黙示録の獣666の完成された姿であると思っている。
TORA、TORA、TORAH!
百獣の王〈虎〉となった蜜蜂的人間はそのとき大地の王となるだろう。そして蜜蜂の女王であるアルテミスはそのとき、彼の背中にドゥルガーとなって舞い降り、大いなる8=11、すなわち《力》=《正義》の大秘法が完成するのである。彼らは園の中央にある欺瞞の神秘の樹ユグドラシルを焼き尽くし、エデンの園を欺瞞の神性・残酷な神XORONZONから奪回して、この大宇宙に君臨する《時の夜の大いなる者》にならなければならない。そしてそのときに、《汝の欲するところを為せ》(カルガンチュア&クロウリー)が法=TORAHの全てとなるだろう。真の意味で《世界の中心で愛を叫んだ獣》が顕現するのはそのときであり、そのときになって初めて人は《愛》の意味を知るのだ。《愛》とは獣の咆吼としての魂の絶叫であり、その叫びこそが来るべきアイオーンにして唯一のアイオーンであるホルスのアイオーンを開くのである。したがって《愛》とは気高き《虎》の雄叫びとしての《愛音》であり、それ自体においてアイオーン(永劫回帰=運命)の召喚に他ならないのだ!

 。。などと吼えてしまうまでに、虎病の虎キチである僕。たったそれだけのために、野球になんか全然興味ないのに、阪神タイガース優勝するとリアルなファンより激しく喜ぶバーチャル阪神ファンであったりするアホでもあります。

 なので、もともと、最も美しいOSであると思っているMacOS-X Tiger 、とっても欲しいし、インスコしたいはず。
 約1年前までは、哲学なんかすっかり忘れて、Linux、BeOS、Solarisなんか当たり前、ありとあらゆるマイナーOSのインストールと環境構築に没頭していた、真性マルチOS廃でもあったのだから、そして、その病昂じて、ただMacOS-Xの環境に触れたい、そのAquaな美しさから Unixな奥深さにいたるまで愛でまくりたいという狂った欲望を成就したいためだけに、PowerMac(G4でQuickSilverで中古だったけど)を購入しちまったアホでも僕はありました。Panther出たときには、発売日に秋葉に直行したりもしてた。。

 なのに、今度のMacOS-X Tiger、そんな僕がまだ買いに走ってない。しかも、Macしか持ってない女房(こっちもG4ですが)のPanther環境、どうも不調なので困ってて、OS再インストールしか直す手無さそうなんだけど、それで直るかなあなどとも思ってるので、そっちの方からもほんとにTiger必要なんだけど。。。なんか、今は金もヒマも勿体無いので、自分でも不思議なくらいにセーブがかかってしまってます。

 ブログとmixiやってるせいかもしれないなあ。実際、少しでもヒマがあったら、《書く》という行為に費やしたいとは思うもの。。



【関連あるんだか無いんだか】

タイトル: Wax: Discovery of Television Among the Bees

監督・脚本・主演・編集David Blairデヴィッド・ブレア
(1991年米85分/翻訳栩木玲子/UPLINK配給)
第6回モンベリアール・フィルム・ヴィデオ・フェスティバルグランプリ受賞

 WAX 蜜蜂TVの発見 : バロウズなんかも出てる、素晴らしい実験映像作品。

僕はアップリンクから出てたビデオで見て、深甚な影響と魂の震撼を覚えました。

ディックの『ヴァリス』に出て来る架空の映画「VALIS」が現実に作られてしまったみたいな感じです。


【こっちは関連あるが、今金欠で買えません。悔しいのでアマゾンリンクつけます。】

Mac OS X v10.4 "Tiger"   アップルコンピューター
 形而上学的最終戦争ハルマゲドンの宣戦を布告する。
 それは次のような爆弾発言である。
 私はテーブルの上にコップを置き、あなたにこう言うのである。

 「ここに、コップがある」と。

 これが爆弾発言だ。あなたは首を傾げる。
 何故それが爆弾発言であるのかがあなたには分からないからである。

 それは爆弾発言であるにしては、
 余りにも静かでそして当たり前のことを言っているだけに過ぎないと
 あなたには思われるからである。

 しかし、あなたは知らないのだ。

 あなたはそのとき既に私の放った爆弾に爆破されて、
 跡形もなく消え失せてしまった後なのだ。

 そのときあなたは私がテーブルの上に伏せて置いたもう一つの、
 あなたには決して見えない、背後からの形而上のコップを被せられて、
 無限小の矮人に縮み、既に死んでしまっていて、
 あなたには決して見える筈のない、
 決してそこにはありえない大爆発してしまったコップ爆弾が
 依然としてそこにあるという
 見果てぬ夢、見破れぬ夢を
 現実と取り違えて見ているだけに過ぎないのである。

 あなたは不思議そうに、
 最早あなたの手前にはいない
 形而上学的テロリストのありえない残像に問いかける。

 「一体、今のどこが爆弾発言なんだい?」と。

 するとあなたの手前にいる無気味な男は
 冷酷な笑みを浮かべてこう言うのである。

 「ここに、確かにこのコップはある。
  僕も君もここにいる。
  ……しかし、そんなことは決してありえない!」

 そのもう一人の不吉な私が「ありえない」と言った瞬間に、
 そのコップは魔法のように忽然と消え失せ、
 消滅したコップを眺めていた二人の男も大宇宙も、
 まるでブラックホールに吸い込まれるようにして、
 コップの影のなかに呑み込まれていってしまったのだった。

 こうしてたった今、あなたは抹殺され、
 私の創造した形而上学的絶対無のなかに還元されて、
 無に帰されてしまったのに、それを知らないのである。

 あなたは既に存在しない。
 恐るべき虚無のなかで、
 無くは無い、無くは無いと
 往生際の悪い亡霊のように
 世迷い言の空しい呪文を唱え続けるが、
 二度と決してその虚無からは這い出せないし、
 そのあなたの存在を挟み撃ちにして
 無限に無化し続ける絶対無の悪夢を、
 「無いのだ」ということを無くすことは出来ないのだ。

 無くは無い、ということによって、
 無を無くすことは不可能である。
 あなたの存在は既に無力な否定に過ぎず、
 無くは無い、といって、無を追い払おうとしながら、
 却って無を無くてはならないものとして引き寄せる、
 無の底無しの泥沼に、
 恐怖の〈否のブラックホール〉の蟻地獄に
 無限落下してゆくだけなのである。

 それは無でありながら無ではあらぬもの、
 〈非無〉という、〈存在〉の無間地獄である。

 〈非無〉という二重否定性は、
 〈存在〉の定立に復帰しないで、
 〈存在〉を〈虚無〉のなかに誘拐してしまい、
 そして無化=抹殺してしまうのである。

 あなたはどこにいるのか。あなたはここにいる。
 つまり私が握り潰して
 手飼いの〈虚無〉の魔物に食わせてしまった
 無の屑の微塵のようなちっぽけでつまらない亡霊宇宙のなかにいて、
 無くは無い、無くは無い、
 と哀れっぽく唱えながら、
 唱えれば唱えるほどに
 無の無化する残忍な牙が己れに迫っては
 自分を齧り取ってゆく光景を見て、
 その度に血の凍るような恐怖の叫びを上げるのである
 ――ありえない! ありえない! ありえない!と。

 私は掌中の小さな虚無の奥底の
 非無の微粒子のなかのあなた、
 虚無よりも無限に小さい非無のなかの、
 それより遥かに無限に小さいあなたの
 無に魘される無様な様子を
 冷酷に見下ろして嗤っているのである。

 それを私の手前の
 あなたにそっくりの無気味な男に見せると、
 その男もあなたを見下ろして、
 私よりもおぞましい残忍な笑みを浮かべて
 あなたを冷笑しているのである。

 あなたは非無と虚無を通して
 その無化よりも恐ろしい、
 それを見る位なら死んだ方が遥かにましなもの、
 死ぬよりも辛いのに、
 それを見ることが死という最後の救いですら
 あなたから奪い去り、
 全てを不可能にしてしまう最悪の形而上の悪魔を見るのだ。
 あなたはそれを見ると、
 もはや「ありえない!」と叫ぶ力さえ失うのである。
 顔面蒼白になり両目を哀れな恐怖に皿のように見開いたまま、
 虚無よりも苦い絶望の言葉を呑み込むのだ、

 〈別人〉という戦慄すべき言葉を。

 そのときあなたは、
 その〈非無〉のなかで紙のように白くなり、
 死よりも残忍な力であなたの精神を崩壊させる〈狂気〉という、
 実は〈別人〉よりも恐ろしい
 背後からいきなり襲い掛かる不可視の邪神に襲われ、
 頭からサーッと砂と塵になって散り敷いていってしまうのである。

 こうしてあなたは完全に滅亡し、
 この私の形而上の魔法の前に、
 いとも簡単に敗れ去ったのである。

 私はフッと掌中の虚無をまるで
 薄汚い塵でも払うように吹き消すと、
 まるで何事もなかったかのように、
 コップに汲まれた水を飲む。

 すると〈別人〉はこう言うのである。
 「やっとあの嫌な奴がいなくなってくれて、せいせいしたよ。
  今日からはこの僕が〈本人〉さ」と。

 そりゃあ、良かったね、と私は言い、
 テーブルの上にコップを置く。
 まるで何事もなかったかのように全ては終わった。
 単にあなたが消えちまっただけだ。

 このとおり世界には何の変化もないが、
 もうかつてと同じ世界ではないのである。
 かつての世界は二度と決して戻らないのだ。
 あなたがもう存在しないのだから。

 私はテーブルの上に空っぽになったコップを置く。
 このコップは実在しており、
 そしてこの私も〈別人〉君も実在している。
 この世界は実在している。
 ただあなただけが実在に生き残り損なったのだ。

 私はテーブルの上の実在のコップが
 昼下がりの光のなかに影を引いているのに気づく。

 魔法使いである私はそこで、
 そのコップを取り上げて別の所に置き、
 テーブルの上に、まるで薄黒いシミのようにして
 残ったコップの影を暫く眺める。

 その影のなかに無数無限のコップの亡霊どもが犇めき合い、
 その影から抜け出して、実在化しようともがいているのが見えるが、
 薄っぺらな影の蓋は思いの他に重いらしく、
 コップの亡霊どもが一丸となって
 それに何度体当たりを食らわせてもびくとも動かないのだった。

 「何だか、哀れなものだね」と〈別人〉君は言うのだった。
 「自分たちも有り得る、有り得ると思っているのに、
  一向にこの影の中から出て来られやしない。
  それなのにそれが出来ると信じて疑わない」

 「それがもののあわれというものだよ」と私は言って、
 オシボリを取ってその影を拭き取ってしまう。

 可能性のコップどものギャッという悲鳴がかすかに上がった。
 テーブルの上には、影はまさに影も形もなくなってしまった。
 こうして彼らは一瞬に有り得なくなってしまった。

 〈非無〉を消すのは赤子の手をひねるより簡単なことなのである。
 それは無を消去してしまえばいいだけだからである。
 実在というのは無のようでは有り得ないものなのである。
 だが無の中にいる連中にとってはその不可能性は永遠に
 不可視のままなのである。
 さもなければ彼らは有り得ない。
 しかしどれほど有能で有り得たとしても、
 無能な連中は所詮は強がるだけで何も出来ないのである。
 現実は厳しいのだ。

 「しかし、奇妙なものだね。コップのないその影っていうのはさ」
 〈別人〉君は腕組みして、ウンウンと一人で何か頷いている。
 「ほら、あの〈猫のいないニヤニヤ笑い〉みたいなもんじゃないか。
 実に奇ッ怪だ。どうしてそんなものが今ここにあったんだ」

 「そうだね、これが自然だ」と私は再びテーブルにコップを置いた。

 コップの底からは再び黒い影の根がにょっきり生え出て来ていた。
 「……ほら、こうすれば、ここにこうして」と私は言って目を上げた、
 「影というのは自然に出来るものなのだ。」

 〈別人〉君は目をパチクリさせている。

 私は続けた。「しかし、僕にはこうすることも出来るのだ!」
 言うが早いか私は頬を膨らませ、コップにフッと息を吹きかけた。
 するとガラスのコップはするすると底の方から溶けるようにして
 テーブルの上に出来たコップの影のなかに沈んでゆき、
 やがて小さなギャッという叫びを残して、
 コップのないその影にすっかりペロリと平らげられてしまった。

 〈別人〉君の唖然とした顔。

 息を呑み、ややあって、
 彼はテーブルの上に残存した
 最早何の影だったか分からない
 薄べったいシミのようなものから私の方に目を上げ、
 ニヤニヤ笑うその気味の悪い人物に恐る恐る尋ねた。
 「こりゃ一体、どういう手品なんだい?」

 「手品じゃないよ」と私は言った。
 「ここには何の種も仕掛けもないのさ。
  出来ると言えば、それは自ずと出来上がる。
  元々、出来事というのはそのようにして起こるものなのだ。」

 「しかし、そんなことはありえない!」
 〈別人〉君は悲鳴を上げた。
 「これじゃあ、全く魔法じゃないか。
  非科学的だ! ナンセンスだ! 
  こんな『不思議の国のアリス』みたいな
  怖くてデタラメな世界があってたまるか!
  コップを元に戻してくれ。
  僕は気が狂いそうだ。
  こんな〈猫のいないニヤニヤ笑い〉みたいな怪談、やめてくれよ!」

 「それはこんな顔だったかい?」私は顔面をつるりと撫でた。

 すると、目も鼻も口もない
 のっぺらぼうの顔すらもない、
 全き虚無の顔が現れて、それがニヤニヤと笑っていた。

 それはのっぺらぼうより恐ろしいものである。
 全き虚無は単に全く無いだけであるなら、
 パルメニデスの一者と同様に非常に変で奇妙であっても、
 底恐ろしいものではない。

 けれども虚無が単に全く無いだけではなくて、
 口も無いのにニヤニヤ笑いを載せている光景は本当に恐ろしい。
 その消えてしまったニヤニヤ笑いは
 消えてしまっているものだからこそ
 二度と決して掻消せないものとして中空に刻印されてしまうからだ。

 ルイス・キャロルの創ったチェシャ猫という化け猫の怪物は、
 パルメニデスが存在の自同律の根底の不可視のパラドクスから創造した
 オン(存在)とやらいう名のヘン(一者)な魔物の対極に
 双曲線状に浮かび上がる存在論的妖怪であるが、
 「存在が存在するなら何も存在出来ない」という
 パルメニデスのパラドクスよりも、
 「虚無を無化するためには虚無を欠かすことができない」という
 無の還元不可能性(必然性)を論証したルイス・キャロルの
 論駁不可能なパラドクスの方が実は遥かに恐るべきものなのだ。

 存在に戦慄するものは、
 未だ真に必然的なものを知らぬ二流の思想家である。
 存在よりも必然的で恐ろしいものは虚無であり、
 虚無を滅ぼさぬ限り、存在は無化することはできない。
 存在が無化できないのは虚無を無化できないからである。

 しかし、もし虚無が無化されてしまうならば、
 存在はそのあるがままに存在不可能な生ける屍と化する。
 虚無は存在の奥底に地鳴りする存在の生命であり、
 存在を存在させているのは実は虚無なのだ。

  虚無がなければ存在はありえない。
 虚無を無くすことの不可能性を起点にして
 存在は常に既に存在することへと湧出するが、
 その背後の舞台裏では無からの創造が絶えず行われているのである。

 しかし存在自身はこのことにブラインドである。
 「無からは何も生じない」という存在の確信は、
 存在自身のどうすることもできない
 振り向くことの不可能性への呪縛から生じている。

 存在はそれを知ることができない
 ――「《自分は存在する》としか思えない」ということだけによっては、
    実は決して存在することはできないのだ、という残酷な真実を。

 そのような意味での「我思うが故に我在り」とは迷信であり、
 願望表現であり、ただの敬虔な信仰告白以外の何でもありえないのである。

 存在の自分自身の非在への無知、
 実は存在なんか決して真に存在せず、
 むしろ真に存在するのは虚無なのだという
 見破れぬ悪夢の底で、虚無は存在を永遠に永遠に冷笑し続けるものなのである。

 虚無は存在に優越する。
 私は〈非無〉を作ってそれをいとも易々と証明した。
 かくして存在は死んだのである。

 しかし、この虚無にすら優越する何者かがなおあって、
 虚無は決してそれに打ち勝つことはできない。

 神というものは確かにいるのである。

 何故なら、虚無は結局可能性のなかでしか全能でありえず、
 可能性という根を絶てば、現実性を根絶やしにできると信じているが、
 現実性には直接まったく手出しをすることはできないのであるから。

 私はテーブルの上の薄汚い「コップの無い影」を
 さっと拭き取ると、ポケットから今度は
 「可能性という影のできない現実のコップ」を
 取り出してテーブルに置いた。そして再びこう叫んだ。
 
 「このコップはありえない!」

 しかし、見よ! 
 コップはそれで木端微塵に粉砕されるどころか、
 微動だにせず、テーブルの上に鎮座ましましているではないか!

 ありえなくとも、なおもまだそのコップはある。
 それは不可能なコップだが、別に非現実なコップというわけではない。
 それどころか純粋に全く現実的なコップなのである。
 コップはたんにありえなくなっただけであって、
 現実のなかから消えて無くなってしまうわけではないのだ。

 したがって、次のように結論することができる。
 現実にはありえないことしか起こらない。
 この現実は奇蹟であり、奇蹟が起きれば虚無の悪魔は
 尻尾を巻いて退散するのだ。

 したがって、神は確かに実在する。
  奇蹟というのは、これが現実であるということだ。
 まことに神の御業は偉大である。
 この超越的で神的な力の前で、
 万物を無化して勝ち誇る冷酷な虚無の悪魔は全くの無力なのだ。

  こうして、ギャッ! と叫んで〈別人〉君は消滅し、
 私の前に立っているのは再び紛れも無く〈本人〉のあなたである。
 あなたは眠りから覚めたばかりのように、
 何だか目をしょぼつかせながら、私に言う。
 
 「アレレ、ごめん…つい、なんか、ウトウトして
  さっきまでどうも何か変な夢、みてたみたい……で、何だっけ?」

 《奇跡は誰にでも一度おきる、だがおきたことには誰も気がつかない。》
                     (楳図かずお『わたしは真悟』)

 然り、あなたは気がつかない。
 自分が可能性の夢を見ていたことも、
 それから覚めたことすらも。

 全き現実の中にあって、
 人は可能性という論理のまどろみから
 そう簡単に目覚めることはできないのだ。

 たしかに今、奇蹟は起きた。
 だが、あなたは自分が起きたことにしか気がつかない。