くらやみの色は黒くなく、
 白くなく、また灰色でもない。
 その色は無色でやや蒼白い。
 そのような闇を顔のなかに引き寄せる。
 おまえはその闇を麻薬のように吸い込む、
 おまえのつむられた両瞼の下、眼窩の骨のうちがわに不吉にひろがる虚無、
 その虚無におまえは〈来て〉と呼びかける。

 おまえの変貌のはじまるとき、
 そのかたえで、わたしは声をとめ、目を瞠り、
 そして不安な窒息の狭さへと押しやられる。
 退却を強いられる。わたしが消えうせる。
 おまえの変貌がはじまるとき、
 わたしはおまえの前からいなくなってしまう。

 おまえがわたしに強いる、わたしの消滅。
 その消滅をうけとめるのはわたしだ。
 おまえはわたしに押しつける、わたしの消滅を。

 その消滅はするどく、わたしの胸を刺す。
 虚無がわたしを刺す。熱い痛みにわたしが傷つく。
 冷酷な虚無の針の尖端、黙した恐怖の鋭角がわたしを抉じ開ける。

 そのおそるべき穴、死に続く黒い弾痕のなかで、
 わたしは灼けつく影に変わる。
 虚無の弾丸にわたしが射殺される。
 それは不意を襲う狙撃ではないのだが、わたしは逃げられない。
 殺される、と思ういとまもなく、
 火のように熱い死がひろがって、わたしを焼き尽くして黒い影に変える。

 黒い影、燃え尽きた、とてもちいさな黒い影、
 ちいさな黒く干からびた嬰児の、胎児の、
 中絶児の焼死体のような無残な黒い影、
 いや、焼死体さえ残らない、いっさいが焼き尽くされたのち、
 残るものは黒く焼き付けられた影の痕跡に過ぎない。

 〈過ぎない〉とはいっても、
 それは無視してよいようなことがらではない。
 それどころか或る凄まじい出来事を刻印している。
 この影は刻印だ。そこでわたしは完全に消え失せてしまっているのだが、
 わたしのその消滅の痕/徴の方は永久に消え失せない。

 それは掻爬できない痕跡となる。
 というのは、それは掻爬それ自体が痕跡に変貌してしまうような、
 異常で、あともどりのできないおそるべき無の、
 実体なき影そのものの、永遠不滅の創造だからだ。

 焼き尽くす影、拒むこともできず押し付けられる烙印のように熱く、
 わたしを消滅させ、蒸発させてなお、
 その影へと呪縛するような、焼き尽くし、みずからを焼き付ける影、
 その黒い火は消えず、燃え尽きることはない。

 この火、このメギドの火が、わたしを〈定義〉している。
 〈定義〉とは〈呪縛〉である。
 わたしを定義するおまえに呪縛されて、
 わたしはおまえの影に変えられてしまう。
 おまえの黒くひろがり全てを覆いつくすその恐るべき影が、
 目を瞠るわたしの上にかぶさるとき、わたしは消え失せる、
 その黒く大いなる影のなかに。

 全てを覆い、全てを覆す、おまえのくらやみのオーヴァーシャドウ。
 わたしが感知した、その迫りくるものの巨大な機影の不吉なかたち
 あれははたしておまえなのか、死の翼がわたしの頭上にひろがるのだ。

 死の翼、くらやみの影、焼き尽くすメギドの火、
 そして、黒焦げの人体の痕跡。わたしを転覆するホロコースト、
 通り過ぎるなにかしら残忍なものの横顔をわたしは見たと思った。
 わたしにはキノコ雲など見えなかった。
 閃光も見えず、そしてプラズマの恐るべき灼熱も覚えなかった。
 覚えたのは胸に刺さる虚無の一瞬のスティング、
 ほとんど痛みともいえない痛み、限りなく小さなもの、
 ただそれだけに過ぎない。

 過ぎないがそれはその極微の一点に正確に焦点を合わせ
 一撃でわたしを致命させる刺客だ。
 わたしの急所を、盲点の中心をそれは狙撃し、
 完全にわたしを破壊してしまう。
 黒い影のシミに過ぎないものに変えてしまう。

 〈過ぎない〉とはその影の上で
 もう時間が永遠に過ぎ去らないということだ。
 〈過ぎ去らない〉、わたしはその影を過ぎ去れない。
 畏れと慄きがその影を永遠にそこに痙攣しつづけるものに変える。

 影はわたしが永遠に立ち入れない焼け爛れた聖地と変わるが、
 かといってその廃墟からわたしは永遠に立ち去れるわけではない。
 影はわたしを立ち止まらせ、その場に釘付けにする。
 黒く痙攣し震顫するミイラの手がわたしを掴む。
 わたしは影に桀けになり、
 黒い十字架の徴のなかにわたしの復活すべき肉体は
 すっかり黒く塗り込められて逃れられなくなる。

 呪縛とはそのようなもの、
 復活もなく解脱もない、救済もなく涅槃もまたありえない。

 怖ろしいおまえの愛、おまえの圧倒的な覆い尽くす影、
 途方もなく巨きく、迫りきてわたしを拉し去り、
 おまえの創りだした真黒な影のとりこに連れ去ってしまう魔王のマント、
 それは凄まじく、万能の意志と無敵の威厳で、
 〈神〉のごとく断固として、全てを退ける。

 何という強靭な翼、その撥ね除る力、
 そのはばたきが起こす凄まじい風は、
 右にキリストを、左にはブッダを撥ねつけ撃破して、
 すばやく飛来し、一瞬に獲物をかすめとってしまう。

 誰がおまえに勝利できよう、おまえの圧倒的な〈定義〉の手前、
 おまえが滅ぼすと定め、また選び取った者の帯びる凄まじい〈徴〉、
 この黒い、肉体なきスティグマの焼跡には、
 〈神〉であるおまえだけが立つだろう。

 黒く燃えるメギドの火であるおまえ、わたしの創造主よ。
 おまえの居丈高なかんばせの前に誰が立つことができよう。

 わたしはおまえの玉座となり、焼け爛れた王国と変わる。
 それはおまえが支配する場処、
 わたしとおまえの火の契り、永久に断ち切れぬ聖婚の約束だ。

 この影の王国の至聖所には誰も立ち入れず、
 そこに灯る永遠の呪わしい火は、近寄るものを許さない。
 この闇の神殿に置かれる真黒な天の石は、
 カーバ神殿のそれのように他の如何なる神も許さない。
 
 それは全宇宙に崇拝を強いる黒い火の結晶だ。
 キリストを跪かせ、またあの傲慢なブッダを、
 天上天下唯我独尊と嘯いたあの男の膝を砕いて屈させ、
 万人万物万象を奴隷の縄で繋ぎ、
 その上に君臨する恐るべき〈神〉の専制帝国だけが存在する。

 広島で、長崎で、そして遠い昔、
 おそらくソドムとゴモラや、
 マハーバーラタの戦争で起こったのと同じことが、
 そのとき、信じられないほど静かでひそやかな仕方で、
 わたしの身に起こったのだ。

 天の火がふりそそぎ、そして人は一瞬に黒い影に変わる。

 〈神〉がその影を押し付ける、人の上に、
 拒みがたく有無をいわさぬ、押し付けがましい仕方で。
 死の影を押し付ける、影の下に押し潰す、
 人間を抹消して、影を焼き付ける。

 地の上に、なぞめいた黒焦げの人文字が記されるとき、
 〈神〉は地にそのおそろしい意志を、謎のことばを書く。
 人間を焼き尽くす〈神〉のレーザープリンタ、焼き付いた文字は消えない。

 〈神〉は書く、おまえは書く、
 書くとは現実を滅ぼすこと、
 人間を焼き尽くすこと、
 すべてを黒い影に変えることだ。
 その凄まじい意志に全てを従わせることだ。

 万能の意志が、〈神〉を存在させる。
 〈神〉を世界のなかに創造するのではない。
 創造神が天地を創造する恐ろしい瞬間、
 大宇宙に恐るべき中断が裂ける。
 突然、虚無が出現し、世界はそのとき全く存在しないのだ。

 意志が世界を中断させる。その間隙は恐ろしい。
 〈神〉はそこに顕現する。彼は全くの無だ。

 だがこの虚無は人の顔を帯びている。
 人間の顔をした虚無、それが〈神〉だ。

 〈神〉は人の顔のなかに顕現する。
 同じ人が全くの〈別人〉に変貌する恐るべき時、
 〈神〉は虚無となって炸裂し、それまでの天地を破壊し尽くす。
 万能の意志が溢れだし、
 天地創造が虚無の爆弾投下によってなされる刹那は
 一瞬に過ぎ去るが、もとの世界は二度と帰ってこない。
 世界は一見前とそっくりそのままでありながら、
 しかし全てが完全に違ったものに置き換えられてしまっている。

 天地創造というのは、
 永久に存在する世界をそっくりそのままにすげ替えることだ。
 愚か者にはそのとき何がなされたのかがわからない。
 彼には〈神〉の閃く異貌が視えないのだ。
 〈神〉は宇宙の捉え処ない死角に潜み、死角から世界を呪縛する。

 だが、わたしは何も異常な、常軌を逸した、
 神秘的で宗教的な出来事をものがたっているのではないのだ。
 寧ろこうした出来事は日頃ありふれていると言う方が正しい。
 〈神〉は決して馴染み深いものとはならないのだが、
 かといって、決して感知不可能なものではないし、
 また物珍しいものでもない。
 それどころか、〈神〉はいたるところ、
 どこにでもいて、世界を狂わせるいたずらを働いているのだ。
 〈神〉は、まったくのところ、
 人間界のいたるところであなたを待ち受けているものなのだ。