形而上学的最終戦争ハルマゲドンの宣戦を布告する。
 それは次のような爆弾発言である。
 私はテーブルの上にコップを置き、あなたにこう言うのである。

 「ここに、コップがある」と。

 これが爆弾発言だ。あなたは首を傾げる。
 何故それが爆弾発言であるのかがあなたには分からないからである。

 それは爆弾発言であるにしては、
 余りにも静かでそして当たり前のことを言っているだけに過ぎないと
 あなたには思われるからである。

 しかし、あなたは知らないのだ。

 あなたはそのとき既に私の放った爆弾に爆破されて、
 跡形もなく消え失せてしまった後なのだ。

 そのときあなたは私がテーブルの上に伏せて置いたもう一つの、
 あなたには決して見えない、背後からの形而上のコップを被せられて、
 無限小の矮人に縮み、既に死んでしまっていて、
 あなたには決して見える筈のない、
 決してそこにはありえない大爆発してしまったコップ爆弾が
 依然としてそこにあるという
 見果てぬ夢、見破れぬ夢を
 現実と取り違えて見ているだけに過ぎないのである。

 あなたは不思議そうに、
 最早あなたの手前にはいない
 形而上学的テロリストのありえない残像に問いかける。

 「一体、今のどこが爆弾発言なんだい?」と。

 するとあなたの手前にいる無気味な男は
 冷酷な笑みを浮かべてこう言うのである。

 「ここに、確かにこのコップはある。
  僕も君もここにいる。
  ……しかし、そんなことは決してありえない!」

 そのもう一人の不吉な私が「ありえない」と言った瞬間に、
 そのコップは魔法のように忽然と消え失せ、
 消滅したコップを眺めていた二人の男も大宇宙も、
 まるでブラックホールに吸い込まれるようにして、
 コップの影のなかに呑み込まれていってしまったのだった。

 こうしてたった今、あなたは抹殺され、
 私の創造した形而上学的絶対無のなかに還元されて、
 無に帰されてしまったのに、それを知らないのである。

 あなたは既に存在しない。
 恐るべき虚無のなかで、
 無くは無い、無くは無いと
 往生際の悪い亡霊のように
 世迷い言の空しい呪文を唱え続けるが、
 二度と決してその虚無からは這い出せないし、
 そのあなたの存在を挟み撃ちにして
 無限に無化し続ける絶対無の悪夢を、
 「無いのだ」ということを無くすことは出来ないのだ。

 無くは無い、ということによって、
 無を無くすことは不可能である。
 あなたの存在は既に無力な否定に過ぎず、
 無くは無い、といって、無を追い払おうとしながら、
 却って無を無くてはならないものとして引き寄せる、
 無の底無しの泥沼に、
 恐怖の〈否のブラックホール〉の蟻地獄に
 無限落下してゆくだけなのである。

 それは無でありながら無ではあらぬもの、
 〈非無〉という、〈存在〉の無間地獄である。

 〈非無〉という二重否定性は、
 〈存在〉の定立に復帰しないで、
 〈存在〉を〈虚無〉のなかに誘拐してしまい、
 そして無化=抹殺してしまうのである。

 あなたはどこにいるのか。あなたはここにいる。
 つまり私が握り潰して
 手飼いの〈虚無〉の魔物に食わせてしまった
 無の屑の微塵のようなちっぽけでつまらない亡霊宇宙のなかにいて、
 無くは無い、無くは無い、
 と哀れっぽく唱えながら、
 唱えれば唱えるほどに
 無の無化する残忍な牙が己れに迫っては
 自分を齧り取ってゆく光景を見て、
 その度に血の凍るような恐怖の叫びを上げるのである
 ――ありえない! ありえない! ありえない!と。

 私は掌中の小さな虚無の奥底の
 非無の微粒子のなかのあなた、
 虚無よりも無限に小さい非無のなかの、
 それより遥かに無限に小さいあなたの
 無に魘される無様な様子を
 冷酷に見下ろして嗤っているのである。

 それを私の手前の
 あなたにそっくりの無気味な男に見せると、
 その男もあなたを見下ろして、
 私よりもおぞましい残忍な笑みを浮かべて
 あなたを冷笑しているのである。

 あなたは非無と虚無を通して
 その無化よりも恐ろしい、
 それを見る位なら死んだ方が遥かにましなもの、
 死ぬよりも辛いのに、
 それを見ることが死という最後の救いですら
 あなたから奪い去り、
 全てを不可能にしてしまう最悪の形而上の悪魔を見るのだ。
 あなたはそれを見ると、
 もはや「ありえない!」と叫ぶ力さえ失うのである。
 顔面蒼白になり両目を哀れな恐怖に皿のように見開いたまま、
 虚無よりも苦い絶望の言葉を呑み込むのだ、

 〈別人〉という戦慄すべき言葉を。

 そのときあなたは、
 その〈非無〉のなかで紙のように白くなり、
 死よりも残忍な力であなたの精神を崩壊させる〈狂気〉という、
 実は〈別人〉よりも恐ろしい
 背後からいきなり襲い掛かる不可視の邪神に襲われ、
 頭からサーッと砂と塵になって散り敷いていってしまうのである。

 こうしてあなたは完全に滅亡し、
 この私の形而上の魔法の前に、
 いとも簡単に敗れ去ったのである。

 私はフッと掌中の虚無をまるで
 薄汚い塵でも払うように吹き消すと、
 まるで何事もなかったかのように、
 コップに汲まれた水を飲む。

 すると〈別人〉はこう言うのである。
 「やっとあの嫌な奴がいなくなってくれて、せいせいしたよ。
  今日からはこの僕が〈本人〉さ」と。

 そりゃあ、良かったね、と私は言い、
 テーブルの上にコップを置く。
 まるで何事もなかったかのように全ては終わった。
 単にあなたが消えちまっただけだ。

 このとおり世界には何の変化もないが、
 もうかつてと同じ世界ではないのである。
 かつての世界は二度と決して戻らないのだ。
 あなたがもう存在しないのだから。

 私はテーブルの上に空っぽになったコップを置く。
 このコップは実在しており、
 そしてこの私も〈別人〉君も実在している。
 この世界は実在している。
 ただあなただけが実在に生き残り損なったのだ。

 私はテーブルの上の実在のコップが
 昼下がりの光のなかに影を引いているのに気づく。

 魔法使いである私はそこで、
 そのコップを取り上げて別の所に置き、
 テーブルの上に、まるで薄黒いシミのようにして
 残ったコップの影を暫く眺める。

 その影のなかに無数無限のコップの亡霊どもが犇めき合い、
 その影から抜け出して、実在化しようともがいているのが見えるが、
 薄っぺらな影の蓋は思いの他に重いらしく、
 コップの亡霊どもが一丸となって
 それに何度体当たりを食らわせてもびくとも動かないのだった。

 「何だか、哀れなものだね」と〈別人〉君は言うのだった。
 「自分たちも有り得る、有り得ると思っているのに、
  一向にこの影の中から出て来られやしない。
  それなのにそれが出来ると信じて疑わない」

 「それがもののあわれというものだよ」と私は言って、
 オシボリを取ってその影を拭き取ってしまう。

 可能性のコップどものギャッという悲鳴がかすかに上がった。
 テーブルの上には、影はまさに影も形もなくなってしまった。
 こうして彼らは一瞬に有り得なくなってしまった。

 〈非無〉を消すのは赤子の手をひねるより簡単なことなのである。
 それは無を消去してしまえばいいだけだからである。
 実在というのは無のようでは有り得ないものなのである。
 だが無の中にいる連中にとってはその不可能性は永遠に
 不可視のままなのである。
 さもなければ彼らは有り得ない。
 しかしどれほど有能で有り得たとしても、
 無能な連中は所詮は強がるだけで何も出来ないのである。
 現実は厳しいのだ。

 「しかし、奇妙なものだね。コップのないその影っていうのはさ」
 〈別人〉君は腕組みして、ウンウンと一人で何か頷いている。
 「ほら、あの〈猫のいないニヤニヤ笑い〉みたいなもんじゃないか。
 実に奇ッ怪だ。どうしてそんなものが今ここにあったんだ」

 「そうだね、これが自然だ」と私は再びテーブルにコップを置いた。

 コップの底からは再び黒い影の根がにょっきり生え出て来ていた。
 「……ほら、こうすれば、ここにこうして」と私は言って目を上げた、
 「影というのは自然に出来るものなのだ。」

 〈別人〉君は目をパチクリさせている。

 私は続けた。「しかし、僕にはこうすることも出来るのだ!」
 言うが早いか私は頬を膨らませ、コップにフッと息を吹きかけた。
 するとガラスのコップはするすると底の方から溶けるようにして
 テーブルの上に出来たコップの影のなかに沈んでゆき、
 やがて小さなギャッという叫びを残して、
 コップのないその影にすっかりペロリと平らげられてしまった。

 〈別人〉君の唖然とした顔。

 息を呑み、ややあって、
 彼はテーブルの上に残存した
 最早何の影だったか分からない
 薄べったいシミのようなものから私の方に目を上げ、
 ニヤニヤ笑うその気味の悪い人物に恐る恐る尋ねた。
 「こりゃ一体、どういう手品なんだい?」

 「手品じゃないよ」と私は言った。
 「ここには何の種も仕掛けもないのさ。
  出来ると言えば、それは自ずと出来上がる。
  元々、出来事というのはそのようにして起こるものなのだ。」

 「しかし、そんなことはありえない!」
 〈別人〉君は悲鳴を上げた。
 「これじゃあ、全く魔法じゃないか。
  非科学的だ! ナンセンスだ! 
  こんな『不思議の国のアリス』みたいな
  怖くてデタラメな世界があってたまるか!
  コップを元に戻してくれ。
  僕は気が狂いそうだ。
  こんな〈猫のいないニヤニヤ笑い〉みたいな怪談、やめてくれよ!」

 「それはこんな顔だったかい?」私は顔面をつるりと撫でた。

 すると、目も鼻も口もない
 のっぺらぼうの顔すらもない、
 全き虚無の顔が現れて、それがニヤニヤと笑っていた。

 それはのっぺらぼうより恐ろしいものである。
 全き虚無は単に全く無いだけであるなら、
 パルメニデスの一者と同様に非常に変で奇妙であっても、
 底恐ろしいものではない。

 けれども虚無が単に全く無いだけではなくて、
 口も無いのにニヤニヤ笑いを載せている光景は本当に恐ろしい。
 その消えてしまったニヤニヤ笑いは
 消えてしまっているものだからこそ
 二度と決して掻消せないものとして中空に刻印されてしまうからだ。

 ルイス・キャロルの創ったチェシャ猫という化け猫の怪物は、
 パルメニデスが存在の自同律の根底の不可視のパラドクスから創造した
 オン(存在)とやらいう名のヘン(一者)な魔物の対極に
 双曲線状に浮かび上がる存在論的妖怪であるが、
 「存在が存在するなら何も存在出来ない」という
 パルメニデスのパラドクスよりも、
 「虚無を無化するためには虚無を欠かすことができない」という
 無の還元不可能性(必然性)を論証したルイス・キャロルの
 論駁不可能なパラドクスの方が実は遥かに恐るべきものなのだ。

 存在に戦慄するものは、
 未だ真に必然的なものを知らぬ二流の思想家である。
 存在よりも必然的で恐ろしいものは虚無であり、
 虚無を滅ぼさぬ限り、存在は無化することはできない。
 存在が無化できないのは虚無を無化できないからである。

 しかし、もし虚無が無化されてしまうならば、
 存在はそのあるがままに存在不可能な生ける屍と化する。
 虚無は存在の奥底に地鳴りする存在の生命であり、
 存在を存在させているのは実は虚無なのだ。

  虚無がなければ存在はありえない。
 虚無を無くすことの不可能性を起点にして
 存在は常に既に存在することへと湧出するが、
 その背後の舞台裏では無からの創造が絶えず行われているのである。

 しかし存在自身はこのことにブラインドである。
 「無からは何も生じない」という存在の確信は、
 存在自身のどうすることもできない
 振り向くことの不可能性への呪縛から生じている。

 存在はそれを知ることができない
 ――「《自分は存在する》としか思えない」ということだけによっては、
    実は決して存在することはできないのだ、という残酷な真実を。

 そのような意味での「我思うが故に我在り」とは迷信であり、
 願望表現であり、ただの敬虔な信仰告白以外の何でもありえないのである。

 存在の自分自身の非在への無知、
 実は存在なんか決して真に存在せず、
 むしろ真に存在するのは虚無なのだという
 見破れぬ悪夢の底で、虚無は存在を永遠に永遠に冷笑し続けるものなのである。

 虚無は存在に優越する。
 私は〈非無〉を作ってそれをいとも易々と証明した。
 かくして存在は死んだのである。

 しかし、この虚無にすら優越する何者かがなおあって、
 虚無は決してそれに打ち勝つことはできない。

 神というものは確かにいるのである。

 何故なら、虚無は結局可能性のなかでしか全能でありえず、
 可能性という根を絶てば、現実性を根絶やしにできると信じているが、
 現実性には直接まったく手出しをすることはできないのであるから。

 私はテーブルの上の薄汚い「コップの無い影」を
 さっと拭き取ると、ポケットから今度は
 「可能性という影のできない現実のコップ」を
 取り出してテーブルに置いた。そして再びこう叫んだ。
 
 「このコップはありえない!」

 しかし、見よ! 
 コップはそれで木端微塵に粉砕されるどころか、
 微動だにせず、テーブルの上に鎮座ましましているではないか!

 ありえなくとも、なおもまだそのコップはある。
 それは不可能なコップだが、別に非現実なコップというわけではない。
 それどころか純粋に全く現実的なコップなのである。
 コップはたんにありえなくなっただけであって、
 現実のなかから消えて無くなってしまうわけではないのだ。

 したがって、次のように結論することができる。
 現実にはありえないことしか起こらない。
 この現実は奇蹟であり、奇蹟が起きれば虚無の悪魔は
 尻尾を巻いて退散するのだ。

 したがって、神は確かに実在する。
  奇蹟というのは、これが現実であるということだ。
 まことに神の御業は偉大である。
 この超越的で神的な力の前で、
 万物を無化して勝ち誇る冷酷な虚無の悪魔は全くの無力なのだ。

  こうして、ギャッ! と叫んで〈別人〉君は消滅し、
 私の前に立っているのは再び紛れも無く〈本人〉のあなたである。
 あなたは眠りから覚めたばかりのように、
 何だか目をしょぼつかせながら、私に言う。
 
 「アレレ、ごめん…つい、なんか、ウトウトして
  さっきまでどうも何か変な夢、みてたみたい……で、何だっけ?」

 《奇跡は誰にでも一度おきる、だがおきたことには誰も気がつかない。》
                     (楳図かずお『わたしは真悟』)

 然り、あなたは気がつかない。
 自分が可能性の夢を見ていたことも、
 それから覚めたことすらも。

 全き現実の中にあって、
 人は可能性という論理のまどろみから
 そう簡単に目覚めることはできないのだ。

 たしかに今、奇蹟は起きた。
 だが、あなたは自分が起きたことにしか気がつかない。
AD
出来事は出来する。それは世界にアイオーン(永劫回帰)を刻む。

恐らく、永劫回帰が天地創造される瞬間というものがあり、そのとき一個の世界、一個の宇宙は稲妻のように走る出来事の閃光によって天と地とに引き裂かれる。

実にそのときにこそ神が世界に侵入する(聖なる侵入)のだといえるだろう。
すなわち虚無からの創造という不可能な事件こそが永劫回帰するのであり、同一的なもの・可能的なものが永劫回帰するのではないのだ。

意志から生じた運命が、世界の運命を狂わせて震わせ、既にある世界の上に全く異なる天地の創造が行われるとき、その恐るべき容器の破砕それ自体がいまここで起きるとすれば、それは天地創造であると同時に一個の宇宙を粉砕する峻厳苛烈な最後の審判でもあるだろう。

従ってYHVHの神、創造と破壊をもたらすこの最も恐るべき超越の神、怒りの神こそが永劫回帰しなければならず、従ってまた超越論的永劫回帰というべきものが構想されなければならないであろう。実にそれこそが、カントの単なる「判断力批判」を越えて、われわれが野蛮に求めねばならない二律背反の解なき解であり、それ以外には如何なる救済もありえないのだと知らなければならない。

重要なのは、まさにこの二律背反という大宇宙の裂傷を、塞ぐことのできないこの亀裂を、すなわち西欧高等魔術が〈深淵〉の名で名指している大宇宙の還元不可能な形而上学的根源悪を、聖なる神性分裂そのものを、世界の表面に浮き上がらせ、抹消する事の出来ない光の瘢痕として描き出してみせることなのだ。

救済とはこの傷だらけの世界を傷だらけであるがままに抱きしめてみせることである。それが魔術の目的であり、そしてまた、哲学のとりうるその最後の姿であるだろう。
AD
 不可能性の問題は、九鬼周造の『偶然性の問題』の〈後ろの正面〉に伏在する形而上学的悪魔の問題であるという風にも考えられる。

 この形而上学的悪魔は、『偶然性の問題』と同じ1935年に出版された夢野久作『ドグラ・マグラ』の有名な巻頭歌に、いわば〈恐れイリヤの鬼母子神〉として生々しく表現されたものと別ではない(cf.レヴィナス『実存から実存者へ』等:非人称のイリヤ il y a)。

 《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》と夢野は書いている。
 『偶然性の問題』と『ドグラ・マグラ』が同じ年に出版されたのはただの偶然で済まされる問題ではない。

 『ドグラ・マグラ』が黙示録的に曝露するのは、〈偶然〉などは「有り得ない」という〈悪魔の必然性〉としての不可能性の問題の削除不能なその伏在であるからだ。


    * * *

◇〈宿命〉と〈運命〉の差異について

 それは〈宿命〉の問題であると換言してもよいかもしれない。まさに〈胎児〉は〈母〉に〈命〉を〈宿〉す存在様態であるからである。

 〈宿命〉と〈運命〉は異なる。
 〈運命〉というのは基本的には偶然性の問題である。偶然は〈命〉の種を〈運〉んで、運命を輪廻する運搬=業(カルマ)の問題である。命の種の運搬業者である偶然性は運命の物語を紡ぐものである。運命は宿命への諦念なしには生じない。しかし、宿命はこの運命というものを塞いでしまう。

 諦念とは換言すればエポケーである。エポケーは括弧に入れて自らを切り離すことにおいて生じる(例:現象学的還元)。それはいわば臍の緒を切ることである(自立・誕生)である。
 
『ドグラ・マグラ』巻頭歌はその臍の緒を切ることの不可能性、つまりエポケーの不可能性を表現している。巨大で不可視の母を胎児は到底〈括弧〉に入れることはできない。逆に〈括弧〉に入れられて宙吊りになり首「括」りにされてしまうのは胎児の方なのである。

 不可能性の問題は、ここでエポケーの挫折の宿命の問題としてある。それはどういうことかというと、〈意識〉というものが「成り立たない」ということを意味するものだ。
 〈意識〉は不成立である。逆に成り立っているのは〈籠絡〉であり〈幽閉〉である。柄谷行人の表現でいうなら、それは〈夢の呪縛〉である。


    * * *

◇不可能性と偶然性の大小対当

 不可能性とは悪魔の必然性である。これは「無の必然性」という九鬼の表現を言い換えたものである。これに対して偶然性(無の可能性)は、悪魔の可能性であるということができる。

 けだし、悪魔的なものとは、否定的なもの、死を告げるもの、そして、「おまえは存在しない」「これは現実ではない」などとして、非存在或いは虚無のぞっとするその冷たい体に触れさせるものではないだろうか。

 悪魔の必然性とは、否定の必然性、虚無の必然性、虚偽の必然性、非現実の必然性、非在の必然性、悪の必然性、死の必然性、と呼び変えても構わない。悪魔というのは古くからの無の異名である。

 さて、こうして、偶然性も不可能性も悪魔的な様相概念であるといえる。だが、偶然性の胎児は、所詮、大悪魔(Archdemon)である不可能性の鬼女に操られ踊らされる小悪魔でしかありえない。

 《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》という夢野久作の黙示録的で絶望的な「嘲笑」を僕はそのように読み解く。

 けれども、勿論、こうした解釈はそれ自体が余りにも悪魔的だ。
 それは、夢野にとって母とはどういうものであったのか、九鬼にとって母とはどういうものであったのかを僅かにでも知るものにとって、それを思えば実は深い心痛なしには、そして心を〈鬼〉にすることなしには決して語ることも触れることもできないことなのだ。

 さて、アリストテレスの対当の方形によれば、不可能性(E・全称否定)と偶然性(O・特称否定)は大小対当の関係にある。

 大小対当というのは、

【1】全称命題(大)が真であるとき、特称命題(小)も真である。
【2】特称命題(小)が偽であるとき、全称命題(大)も偽である。

 という関係式である。

 これには含みがある。更に、

【3】全称命題(大)が偽であるとき、特称命題(小)は真偽不定の宙吊りにエポケーされる。
【4】特称命題(小)が真であるとしても、全称命題(大)が真であるとはいえない、それはなおも偽でありうる可能性の余地を残している。

 ではここで、真偽を善悪、または神・悪魔に置換え、偶然性の胎児と不可能性の母との関係を読み取ってみよう。
 すると、上記それぞれの場合に対応して〈胎児の夢〉の中身がどのようになるのか、次の四つの様態が考えられることになる。


    * * *

◇〈胎児の夢〉の四つの様態

【1】童心
 不可能性の母が本当に善意ある慈母であるなら、偶然性の胎児は善意ある仔羊として〈幸福〉な夢を見る。この胎児は安心して生きてゆくことができる。私はこの様態を〈童心〉と呼ぶことにする。〈童心〉においてのみ、〈神〉は正しくそのあるがままの美しさで顕現し得る。換言すれば、これは〈神通〉である。

【2】悪魔
 偶然性の胎児が嘘つきの小悪魔であるなら、不可能性の母は善意ある慈母の偽善の仮面をかぶったおぞましい魔女である。夢野のいう「母親の心がわかっておそろしい」という身の毛のよだつイリヤの〈恐怖〉はこの場合に該当する。〈悪夢〉の〈認識〉はまさにここにおいてのみ断言することができる。自ら〈悪魔〉とならなければ、決して〈夢の呪縛〉を見破って背後に隠れた大悪魔の正体を暴くことはできないのである。したがって、次のようにいうことができるだろう。
 〈悪魔〉は〈悪魔〉によってのみ識られ得る。

【3】意識
 不可能性の母が善意ある慈母のふりをしているだけだとすれば、偶然性の胎児は逆に母親の心がわからなくて、〈不安〉のなかに宙吊りになる。〈意識〉はまさにここに発生する。

【4】呪縛
 偶然性の胎児が優しい母に愛されている〈幸福〉な夢を見て安穏と暮らしていたとしても、胎児は単に欺かれているだけなのかもしれないという〈愚かさ〉の可能性は排除しえない。この場合も母親の心はやはりわからないのである。
 実は、この最後の〈平和〉が最も陋劣で白痴的な〈最悪〉の〈政治〉の光景である。柄谷のいう〈夢の呪縛〉はまさにここにおいて見いだされねばならない。
 実にこれこそが〈絶望〉である。

    * * *

◆後記:背教の定位・アポスターズ論に向かって

 ところで、運命の物語を紡ぎ出す胎児の能動的諦念としてのエポケーは、最初の〈童心〉の場合でなければ生じない。それは虚無(悪魔)という宿命から脱することである。
 このとき〈胎児〉は虚無の宿命の内に塞がれているのだとしても誕生しているのだといえる。
 つまり〈胎児〉はもはや〈胎児〉ではなく、力強く生誕の産声を上げる〈嬰児〉であり、〈童児〉に変容しているのだといえるだろう。

 運命の物語とは童話(メールヒェン)であり虚構(フィクション)である。
 しかしそれは愚かなものでは決してない。
 宿命を脱することとは、宿命を全的に引き受けることと一つにしてのみ出来する奇蹟であるからだ。

 それは産婆術(弁証法)を撥ね除けることである。己れを間引かせないことである。
 自らを決して「仮説的偶然」(九鬼周造「偶然性の問題」参照)にしないことである。
 そもそも、〈if〉(もしもの仮定)などというものがあるから、無限なるものの〈畏怖=恐縮〉(cf.収縮=撤退 zimzum[イツハク・ルーリアのカバラ]、縮限 contractio[クザーヌス&レヴィナスの語る無限者の自己収縮論])などという莫迦げた有限化が起こるのである。
 〈畏怖する人間〉は必ず〈IFする人間〉である。(cf.マクベス、愁いの王、柄谷行人)

 〈童心〉は自らを母胎に依存的に定位しないで母に憑依して一挙に自らを生み出させる。
 私はこれを〈帝王切開〉と名付けたい。それは或る意味では、排中律の逆転位である。
 存在でもなく非在でもないもの(不可能存在)こそが実在する。
 しかもそれは全く媒介を必要とせず直接的にここに出来するのである。
 したがって、ここにヘーゲルの弁証法のつけいる余地は全くないのである。
 絶対精神は死んだのだ。そしてそれは金輪際復活しないであろう。

 Credo quia impossibile est. 不可能なるが故にわれ信ず(テルトゥリアヌス)。

 〈童心〉の意味するのは、いわば〈超悪魔〉としての〈神〉である。
 カントが二律背反について語ったとき、彼は確かにこの超悪魔としての神が何であるのかを知っていたのに違いない。二律背反というスーパーパラドクスは否定的な不可知論というより以上の積極的な意味をもっている。まさにその二律背反の裂け目こそが〈神〉の全く顕現する場処なのである。真の意味で実存するとはそれである。
 この二律背反に帝王切開的に立つときに、観念の魔王に神隠しにされた全世界が一斉に息吹を上げて蘇生するのである。
 まるで火山が爆発するかのように。

【参考資料】

◆対当(oppositio)
古典形式論理学の基礎概念のひとつ。主語と述語を同じくし、量と質において異なる4種(A=全称肯定・I=特称肯定・E=全称否定・O=特称否定)の定言命題間に成り立つ関係をいう。

 全称肯定(A): すべてのXはYである。
 全称否定(E): すべてのXはYでない。
 特称肯定(I): あるXはYである。
 特称否定(O): あるXはYでない。

対当関係の種類および性格は次の通り。

(1)〈矛盾対当〉(contradictoriae)は、A-OおよびE-I間の関係であって、いずれか一方の命題が真なら他方は必ず偽であり、かつ一方が偽なら他方は必ず真である。

(2)〈反対対当〉(contrariae)は、A-E間の関係であって、一方が真なら他方は必ず偽であるが、一方が偽であるからといって他方が真であるとは限らない。

(3)〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らない。

(4)〈大小対当〉(subalternae)はA-IおよびE-O間の関係であって、全称命題が真なら特称命題も真であり、また特称命題が偽なら全称命題も偽である。

【姉妹記事】
ドグラマグラと悪魔の空間性

【関連文書】


著者: 大峯 顕, 大橋 良介, 長谷 正当, 上田 閑照, 坂部 恵
タイトル: 九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』







著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (上)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ (下)



著者: 夢野 久作
タイトル: ドグラ・マグラ








著者: E. レヴィナス, Emmanuel L´evinas, 西谷 修
タイトル: 実存から実存者へ








著者: 柄谷 行人
タイトル: 畏怖する人間
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死臭

テーマ:
 愚かしい観念の他者性に目の眩んだ人々は、エマニュエル・レヴィナスの素晴らしいテクストを読んでさえも、現実の他者の他者性を塞ぐ虚妄で残酷な〈他者〉という語の空念仏しか言わない。〈他者〉という言葉を語るその口だけが実に〈お達者〉なのだ。

 偽善と感傷の毒に心の奥底まで蝕まれた人々の考えること、行うこと、語ることはとても無残である。そして無様である。そういったみにくい世界が社会を覆って、もう何年になるのだろうと思う。きらめきを無くし、虚妄な批評のたわごとと化してしまった思想の空間。語ること、議論すること、意味しようとすることの全てが、あらかじめ実に嫌味な幻滅に先立たれている世界で、ただ仕合せそうにしているのは、自分が内心小馬鹿にしているオタク文化とやらをポストモダンとやらいう最も下らない知のクリシェと結びつけて、安っぽく解説することに何か社会的意義があるかのように思い違いしているニヤニヤとやにさがった中年の青二才どもだけだ。彼らは生ける思想がことごとく見るも無残な死相の墓場に帰してしまった、記号論的ニヒリズムという最低最悪の〈知〉の衆愚制の世界にのみ嬉々として出る虚妄な幽霊であって、まことに幽霊にこそふさわしい貧相でうすっぺらな御託を永遠の繰言として繰り広げる以外に何も行ってはいない。このため、全く虚妄で幻滅的な《ご教養》としての哲学ブーム(例えば『ソフィーの世界』とか)は起こっても、若者たちの目を野蛮な光でキラキラさせる本当に異常な出来事としての生ける思想は言説の世界でその命脈を絶たれてしまって久しいのだ。

 なんと嫌味なことだろう。思想表現の自由が許されているのは死人たちだけである。死の思想、このとても嫌味なものだけが、世界を陰鬱に覆っている。その陰鬱な世界を装飾するのに実に似合うのはまさに空虚な歌であり、まさにそれこそJ-POPとかいう愚劣極まりないものである。一時はヴィジュアル系ロックがそれに牙を剥いて、世界に真の命を呼び戻そうと闘争したのだったが、それも結局は資本制という妖怪の餌食となった。僕は気分が悪いので、この二十年、あまりレコード店にも本屋にも長居することができなくなった。そこには死臭がするからだ。

 文化のみにくさに発するこの死臭は、経済の不景気の結果ではなくむしろ原因となっている。不景気なのはまず心であって、金の世界はさほどではない。それどころか金の亡者どもには、今日のように陰気な社会ほどにのびのびと生き易い世界は多分無いだろうと思う。彼らが一番好きなのは、貧しき人々のまさに嘲るべき不幸で惨めな姿を見て、それ見たことかと高みから冷笑することであるからだ。そしてこの社会の文化は現在、結局この最もみにくい連中の最も蔑むべき悪趣味に仕えているとしか思えない。
火苺の前で口もとが減少する
詳らかにならないatomosphereの彎曲また
しずかな痙攣/サイレンの通過するとき
あなたの瞬視に無果実/一陣の紫電が擦行する
刺し通す魔刻を連ね、群青の
ナンバーを痛んでゆく速度を
迷いの水表すれすれに掠め
月輪の短夜から食み出る小白みを避けてゆく
身動ぐ松明の橙燭光をブラウンに愁わせ
わたしの肋骨のあいだに縮〔すく〕まるもの
萎靡する意味/意欲の息継ぎ絶え絶えに
暗紅色に電図する衰弱のカーブは暁を希釈し
白樺の痩躯について解釈する語々の解剖学
紫蘇の草叢から蜃気楼するもの
幻妖魔の震えるからだを導き
ありもせぬものについての予感を
語りえぬものについての決り文句の沈黙に
あざとくとも充填する詐術の手練を見透かし
《語るな、語るな》
嫌悪するもの/シニフィアンスのフィアンセ
詩的言語のエンゲージ
記号批評のランゲージ
不安多実苦なco-ontologiqueの
ゾルゲ/ゾルレン
そのネバナラヌが有らしめる
ワレなる偶像を捏ねあげ祀らねば
ネバナラヌのか/おお、neverならぬ
《見るな、触るな》
もう読むな
火苺の上で口もとが現象するとき
消滅が止揚するニマニマ猫の顔立ちを立ち
昇らせるな
 隣の硝子の円形テーブルに肘ついて交わされる青い服の少女と痩躯の青年のあいだの外国語の談笑が燃える花を話に咲かせている。

 燃えることばの炎色反応もやはり青い篝火〔かがり〕を昼の陽最中なのに付き合わせている。

 どうやら今夜は十五夜らしいねとあなたは流眄〔ながしめ〕戻し脣を歪めながらわたしに言う。

 ちがうわ今夜は十六夜の月よとわたし言い返す。それがどうしたのとあなたまだにやにや笑ってる。君、酔ってるんじゃない?そんなこと俺に言うなんてさ。

 ちがうわわたし呑んでなんかいないわそんなつもりじゃないどうしてそんなこというのどうしてもさ、とあなたは藍色のデミタスから濃い珈琲啜って薄嗤い浮かべ、立待ちの月、居待ちの月、臥待ちの月、更待ちの月と数え嘯いて指追ってゆく。

  *  *  *

 青い軌道に乗ってリコリスの噂が匂やかに届けられる。

 奉書紙を転げ落ちる水銀の小毬を那由他劫から阿僧祇劫にかけて鞍坐型めくベルトラミ擬球面の斜面〔なぞえ〕/肌〔はだえ〕に滑らせ、わたしは疲労空間を好もしくベッドメイクする。

 プラシーボが連れてくる草臥れ休息の芝生の波打ちに横たわりながらソフトな曲率をつくりだす音色に寝入る/薄目のなかで積木じみた甍〔いらか〕と矩形の群らがいがトフとボフのミルクの海を/渾沌のスープを渺〔はる〕かから浮游〔およ〕ぐようにしてわたしに達するとき/わたしは睡る/植物のようにして。

 遠巻きに燃えるもの/ゴグとマゴグ。そのようにして世界が甘く柔らかに腐蝕してゆくとき、香りだけがある。軽鬆土〔けいそうど〕が凍原〔ツンドラ〕を煖かに覆い、しろく煙のようにわたしは茎を伸ばし一輪の罌粟に灯り、うっすらと咲いている。昼のなかに。冬の終わりをわたしは擬態する。

 作りものの日溜りに泊まり黙って翅を窄める紋白蝶のように――いやむしろアルビノの麝香揚羽のようにおとなしくして。

 そのわたしの翅は低温の炎で出来ている。その翅は軽い。
 わたしをなかだちにしてゆるゆるとめぐる雲靄〔もや〕のもうもうの胚珠。この未分化のどんよりとした流体を纏わせ経巡る透明なけむりの渦巻きにわたしを暈かし、幽〔かす〕む暮れ色のグレイのなかへと言い淀むわたしを層へと分離するように身を引きわたしへと身籠るやいなや湯垢のようにしなしなとへたりこむ肉の衣が何かの自ずさへと坐るようにして畳まれてゆくバナナのような瞬間。

 しかし剥きとられた皮膚から露出される果肉はなく、ただそれらしい香りだけを残して空虚を醸し、わたしは黄黒い疲労へと既に腐り溶肉してしまったにちがいない。

 それだからペラペラの肌色のまだ湿り気を帯びた蛻〔もぬけ〕のしたに筋組織も骨組みもなく、ただ揮発性の臭気だけがかたちをとりかねながら、愚図愚図寝呆けて「わたし、わたし」と譫言〔うわごと〕を呟き、呟きながら、わたしを定められぬその漠然をむなしく咀嚼しつつその口元で益々わたしがガムのようにただ非定形へと捏ねられ続けるに過ぎないのだ。

   *  *  *

 アモルフな〈虚〉に脱げて床に落ち、虚妄に陥るわたしの衣装、様々なる意匠。王様の新しい衣装などどこにもなくそれはゴグとマゴグ、マゴグの王ゴグのドグラマグラの虚幻術に透明に融けてゆくだけの偽りの解脱術であるしかない。
 消え透く空ろへと虚ろに移ろう気味悪いわたしの幻影―透明な白い影が薄ら笑いとなってブランクのおもてに広がる、広がる気味悪さのきみの人の悪い笑いの意地悪い悟りの薄笑い。

 消えるのね、いつもそうやって、きみは―わたしはわたしから消えてその〈虚〉のなかに〈虚〉を繰り広げて透けてゆく。

 透けて見え透くそのとてもみにくい虚妄の現実。みにくい、とてもみにくいあらゆるもののあらわさのなかにわたしだけがいない。

Mithology ZERO :<非>

テーマ:
いまを コプコプと溺れ くだってゆく すためきおちてゆく時の 溜飲の譬喩 のように 右回りの咽喉を右巻きに絞られ 窄んでゆく 絹色の しなやかな水の維管束の紙縒り のそとまわりの縦皺をふかめ 褶曲するせまい襞の 渓〔たに〕 を潤みながら その委細を ひとつひとつ ていねいに 擦〔なぞ〕り 削り 研磨する 溶液の流沙を 艶めかせ しなり うねやかに 婉曲円滑の経路を辿って くねり スパイラルに おりてゆく のみこんでいく 青いうすさへと消え 透いてゆく水の細胞のふるえは ひとつぶ 塩の かすかな結晶を銜〔ふく〕み ちからない虚数の精子の繊毛と ゼロの 白夜へと とおく翳〔かす〕んでゆく 緋の 痛みの卵子のようなひずんだ涙滴を ちいさな宝毬へとくるみ くるくると水銀の微球面をまわって わたしの 眸の蒼を溶かしてゆく漆黒の圓窗〔まるまど〕に射映〔うつ〕り受映〔うつ〕されながら 何処を転げてゆくのか

わたしの虚眼のうつろなこころの しずまる墨の泉にうつる 静かに やわらかな迷儚〔まよい〕を孕んで 悩みのように撚〔ひね〕られる おまえの やさしいからだを思惟〔おも〕う おまえの軟体をつよく搾りあげる くいちがいの気圧に 圧し殺される斜めの ほのじろい叫びのように身をよじり 声もなくひねられる 骨盤の尖った腰と ほそく括れこんだ しろく蛍光する腹から 臍の窪みから転がり出〔で〕 わたしを封じこめた真珠の時の素粒子が 流産〔るざん〕のように体表をかすめ 愛撫のように 負の 藍色稜線を辿って 黒の 微熱に幽んだおまえの鼠蹊部へと下る 溜め息のように だがこみあげる噎〔むせ〕びのすためきのようにゴブゴブと 呼吸をもとめて泳ぎあがる気泡〔あぶく〕のように 咽喉の瀑布〔たき〕を駆け遡〔のぼ〕ろうとすることば

ゴボゴボと気息〔いき〕へと弾け ゴブゴブと水を飲み呑まれ 溺れながら 上下する嚥下の漏斗を 右巻きに輪廻〔まわ〕り 渦巻き 夜天〔よぞら〕に粒星銀河を繁吹〔しぶ〕かせ 宇宙の白い裏面へと 排水口に吸われてゆく 右回りの時計盤〔とけい〕の眩暈の向うで 消え失せたコルク栓の浮標〔ブイ〕が流回する軌跡に沿い 左様〔さかしま〕な 天球儀の円周に ふわり 義眼の水星〔メルクリウス〕をうきのぼらせる 無言の うたごえの凝結を瞠る わたしの まだふるえ揺らいでいる瞬間〔またたき〕の残映のように

承前


■Pは80→8に縮減しながら周易「易経」第八番目の大成卦〈比〉を指し示す。
 それは、意味深長にも、アリストテレスからハイデガーまで連綿と続いて、西欧形而上学の主張低音と成り続けた「存在の類比(analogia entis)」の思想を、この余りにも出来過ぎた偶然の魔法によって召喚してみせてくれている。

 偶然、それは九鬼周造も言うように、他のようでも有り得ることである。

 すなわちその〈他〉の様態は、ここにあるこの様態の背後に〈比〉として伏在しつつその背後に共示されているのだ。

 偶然とは、たしかにそれは一見その通りであるものの、実はその裏側において、むしろ全く他のようでこそあるのだということを背後に黙した真実として示すからこそ偶然なのである。

 そして「存在の類比」そのものにまさに比べるべきものこそが、より一層意味深長に〈運命〉的に重要な意味をもつ。

 そう、〈偶然〉がその秘められた真実を暴いて背後に翻るとき、もはやそれは〈ただの偶然では済まされないもの〉として〈運命〉を啓示するのである。

 PKDのシミュラークルの問題において運命的な余りに運命的なそのもの、つまり「存在の類比」そのものに比べるべきものとして「対比」されるのはドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の思想であり、まさにそれこそ『差異と反復』においてドゥルーズがスコラ哲学の古本の闇から自らの生き生きとしたその思想の中に召喚してきた魔法の怪物に他ならない。

 シミュラークルの世界を解放するのはまさに「存在の類比」の宇宙それ自体を破壊する「存在の一義性」の観念だからである。

続きは明日、また書くカモシレナイ。

PKD― それはシミュラークルの思想を巡る不可思議で魔術的なイニシャルであり、それ自体が余りにもシミュラークル的である。それは、フィリップ・K・ディックのことなのか、それともピエール・クロソウスキー&ドゥルーズのことなのか忽然と判然としなくなり、双方が魔術的に溶融してゆき、分身化しながら、更に深遠な暗合を、そして刺激的で考察をそそるエニグマを作り出していく奇妙なキアスムだ。しかもそれはシミュラークルというそれ自体が非常にイカガワしく無気味で思わせぶりでSF的な観念を巡って生じてきている偶然の一致であるだけに、運命的なものさえ感じてしまう暗合だ。ドゥルーズは、こういう事態に遭遇したら、それを積極的に肯定して狂ったファンタズムを掻き立てろと僕に教えている。なので、彼のススメに従うことにしよう。


■PKDは何を意味するのか? とりあえず、何も意味しない無意味な暗合を強制的に意味ありげにしてしまう一番便利なツールが花薔薇(カバラ)である。PKDはとりあえずペー・カフ・ダレトということにすると、定番のゲマトリアでは80+20+4=104の数値となる。


 げろげろ! これってSDM=ソドムの数値と同じでねーの(爆)。

 あー、やだやだ。やっぱりやだねえ、花薔薇って、ろくなこと言わない。

 ウチのブログペットと大して変わらんわ(笑)。


■花薔薇が引いてくれたSDM=ソドムの数値の104はとりあえず、メモしておくことにする。で、次。

 ふっふっふ。花薔薇が駄目ならば桃太郎に訊くことにする。これ、占いの常道(なわけないかなー)。

 桃太郎というのは、兆の木であるカバラの生命の樹をスケールにしてタロウつまりTAROTの札を引くというワザのことで、そのスジの方なら誰でも知ってるジャルゴン。。。な訳ねーだろ、嘘つけ。


 で、桃太郎さん曰く、〈塔〉〈運命の輪〉〈女帝〉と来ましたな。さもありなん。

 僕はこれをすぐにバベルの塔、永劫回帰、大地母神としてのアルテミスと強硬に、こじつけがましく読んでしまう。


 でも、何だかなあ。。これじゃあ、あたりきしゃりき過ぎてちとつまらんです。

 そんなシンボリズム、とっくに先刻承知だもの。。もう、見え見えカモシレナイ。


■なんのッ! 花薔薇も桃太郎も使い物にならなくば、8×8=64、周易六十四卦にお出まし願うという超強引なウラワザもあるぞ! しかし、80 は64より大きいので、8+0=8という数秘術定番の間引き足し算かましてやる(※当然、何の根拠もあるわけないわな。わはは)。
 すると、

  P 80=8 水地比 人の和
  K 20  風地観 物の見方
  D 4   山水蒙 物心つかぬ幼児


 という風に、なんか意味ありげなのがでてきたぞ! さすが易経! 後は、例によって例のごとく、ただひたすら意味ありげで意味不明な卦辞と彖伝と象伝を読めばいいのさ!


 。。で、今夜の瞑想というか夢占のネタができた。じゃあ、そろそろ「易経」めくりながら寝ることにする。。。ということで今夜はおやすみなさい。

続きはまた明日書く、カモシレナイ。