[承前]


【1】出来事は出来する。そして〈わたし〉は起きる。それは〈怒りの神〉の生誕である。
 しかし、それにもかかわらず、まず〈笑い〉がある。小さな子供の弱々しく微笑む顔が風のなかに忽然と現れる。これが〈花〉である。〈花〉である小さな子供の微かな〈笑み〉は、風にこぼれて、風にひろがる。崇高で峻厳なものではなく、可憐にして優美なものが、すなわち〈鬼〉ではなく〈花〉が、まず風の真上に咲きこぼれねばならない。それは〈神学〉ではなく、〈美学〉がまず生まれ出なければならないということと別ではない。

【2】〈花〉とは〈風〉の化したものである。
 しかし、それは風化したものではない。風化したものは、必ずや一方で石化したものである。風化と石化のあいだには、まさにそれこそが〈死〉であるような引き裂かれた時間がある。或いは時間それ自体が実は分裂に他ならないような、宇宙に開いたカマイタチの裂傷、暗黒の真空の断崖なのだ。それは〈深淵〉である。或いはむしろ〈深淵〉であることをその本質として顕現するような〈瞬間〉の問題なのだ。
 ドイツ語で〈瞬間〉はアウゲンブリック、すなわち〈目〉を開いて凝視することと呼ばれている。風化と石化の分裂した〈時〉のあいだの裂傷のなかに開かれるのは〈目〉であって〈花〉ではない。けれどもそれは出来事の擦過によって〈わたし〉に最初に起きること、すなわち、ねむりからの目覚めである。〈目〉とはそれ自体がむしろ〈目覚め〉という名の出来事なのである。
 〈目覚め〉のなかで、わたしは起きる。それは〈目〉のなかにわたしが起き上がるという事件であり、出来事である。この出来事において、何よりもまず留意しておくべきことは、それはまだ〈見ること〉も〈見えること〉も起きていない間に起きることであるということだ。

【3】ここに〈風〉といい、〈花〉というのは、いずれもがそれ自体としては形而上学的〈様相〉の概念である。形而上学的な〈様相〉の概念を、或るときは〈風〉、或るときは〈花〉と言い表すことのなかで、わたしは思考それ自体を違った風に、すなわち異なる様相へと転移し変異せしめようとしている。そこで遂行されているのは、概念をその出来合いの勿体振った哲学用語の裡への呪縛から解放して、生き生きと生きてうごめく言の葉の運動空間へと翻訳していくことであり、それと同時に、わたしたちのこの生を異なる仕方で表現しつつ、やはりみにくく勿体振った大衆的語調の支配によって息苦しく塞がれている文化の呪縛の閉塞から解放しようとする、思考の闘争の実践に他ならない。したがって、ここにはその一見それがあるかのように紛らわしく錯覚されるであろう〈詩学の製造〉は本当は為されていない。つまりここには詩人は全くいないのだ。ただ、まるで詩人であるかに見えてしまう哲学者が、〈詩学〉をそのうちわから打ち砕き、混乱させ、そしてついには粉微塵に粉砕するために、あらゆる詩作を不可能にするために、実はきわめて物騒な〈美学〉という名の爆弾テロの破壊工作を着々と進めているに過ぎないのである。
 しかし、この詩とは全く異なる思想の詩は、それにもかかわらず、戦略的に詩を擬態するし、詩と錯覚されたままに読まれて人の心に侵入することをこそ期待するものである。そうすることを通して、わたしは、いわばイメージやシンボルのカプセルに包んだ概念を読み手の心のもっとも深いところに伝え届けようとしているのである。この概念はしかしそれを摂取したからといって、物がより一層わかりやすくなるような〈答〉の様相の概念ではない。逆にそれは物や世界を一層わかりにくくしながら、実は逆にわかりやすい解説によって著しく損なわれてしまっている、その本来あるべきいきいきとした尽きせぬ謎のきらめきに満ちた心の宇宙を取り戻すための〈問い〉の様相の概念、生ける世界の全体を問い直して、全てが全く他のようでもありうることを、いつの日にか、その心の全域に対して啓示するための〈問い〉の照明弾を身内に含むものである。


【4】〈物の現れ〉である〈もののあわれ〉を見て、アウゲンブリックはギョッと目を剥く。それは、事物を出来事を白眼視すること、睨むこと、そして〈死〉の様相においてそれを捉えようとすることである。そのような存在の無気味性(Unheimlichkeit)は、しかしそれ自体が味気無いもの、無味乾燥なもの、無意味なものであるに過ぎない。何故というに、まさにその意味するものは〈無〉(das Nichts)だからだ。
 哲学の始まりにある形而上学的驚嘆(タウマゼイン)は、このようなドイツ観念論の悪霊である〈虚無の悪魔〉とのゴシックホラー的出会いとは、実はまるで異なる次元、異なる感性において描き直されねばならない。
 そして全く異なる哲学の言葉が、存在論の恐怖に凍った重苦しい思考の氷山を打ち砕き、真に驚嘆して目を瞠るべき春の美しい花園を描く言葉として召喚され直されねばならない。
 〈もののあわれ〉を異形の観念の怪物として無骨に描き出すことで、観念論は世界の全てを彼が〈絶対精神〉とやらいう、冷え冷えと冷え切った、黒く凍った〈知〉の冷蔵庫にフリーズドライしてしまっただけである。
 わたしは、むしろ幼稚なロマン主義で行こうと思う。物々しくご大層な議論を積み重ねるだけで、一向に、生き生きと生きてうごめくきらめく現実を、その〈知〉の無駄口の重圧から解氷しようとしない哲学という名の名ばかりの悪趣味にほとほとウンザリしてしまったからだ。
 わたしは彼らの重苦しくて騒々しいだけのブサイクな知の悪趣味なファッションセンスが心底大嫌いなのである。それは単に無様で滑稽なだけだ。きらめくヒューモアも鋭いウィットも片鱗も見られない。要するに〈ダサい〉のである。
 むしろ、幼稚なロマン主義こそが〈いき〉である。何故なら、哲学の始まりにある形而上学的驚嘆を能く為し得るのは、〈もののあわれ〉を見て暗くメソメソ泣いた揚句に全てを惨めで哀れにするだけのアイロニーの感傷主義に毒された大人の〈絶対精神〉などではなく、むしろ〈もののあわれ〉に出会ってそれを〈可笑し〉と思い、まずキラキラと笑ってみせる小さな子供のきらめくまなざしだけだからだ。
 〈風〉の真上にふわりと現れる妖精のような〈花〉の微笑みは、そんな小さな子供の顔である。それは〈汝殺す勿れ〉と叫ぶレヴィナスの大きな〈顔〉のイメージに代わる、凛々しくきらめく小さな〈顔〉である。それは〈顔〉のもうひとつの異貌、純粋理性の顔である。
 純粋理性は〈童心〉である。〈童心〉は破壊を好む。それが破壊するのは、世界を巧妙にその否定性の内なる財産に死蔵して、そうすることの実にみにくい罪と恥を知らない、厚顔無恥なる〈知〉の信者どもの、生気を無くした観念の帝国なのだ。

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Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-8 水上の夢の城

[承前]


 このときの帰省にはもうひとつの重要な意味があった。
 これを機にして娘ははっきりと意志表明して真壁家を出、黒崎の父の家に復帰する肚を決めていた。


 かつて母が亡くなったときにも、真壁家との間で娘を正式に父の籍に戻すかどうかを巡って話し合いがあったが、それはそのときには実現しなかった。
 母の遺言なるものを真壁家は盾に取って、父の申し出は退けられた。娘は一人で母の残した莫大な遺産を相続していたので、真壁家は後見人の座を譲りたくなかったのだ。
 その遺言では娘が自分の意志を主張できる大人になるまで真壁家を後見人とすることになっており、当時まだ幼かった娘は話し合いの席から外されていた。


 無論娘は成人と見なされるにはまだ足りなかったが、遺言状の文面を額面どおりに受け取るなら自分の意志をはっきりと宣言できるだけには成長していた。
 真壁家に対して自己主張し、娘が二十歳になるまでの財産の管理権は真壁家に委ねることを条件に、真壁籍から抜けることを承認させる話し合いに娘は出陣してきたのである。


 父に対しても条件があった。
 黒崎の籍に入る代わりに戸籍名も呼び名もどちらも『有理』には戻さない、娘の名前は『黒崎真理』、つまり死んだ姉と完全な同姓同名にすること、これであった。


 さて、母が亡くなった当時の話し合いの席での父の味方は麟太郎伯父だけだった。
 伯父は自分の妹が離婚してしまった後も父に財政的援助を惜しまず、父が成功し始めてからは、寧ろ益々巨額の金を渡して、美術品の蒐集に当たらせた。
 将来建設する予定の美術館に飾るための絵画の選別は殆ど父に一任され、そのための金には糸目はつけなかった。
 名望家のこの伯父の美術館建設事業は中央政界進出への布石を狙った欲得づくのものであったが、その事業の実現には、《龍》三部作によって突然画壇の第一人者となり、内外の美術界に顔が利くようになった父の名声を利用することが不可欠だった。
 麟太郎はまたずっと昔から父のパトロンでもあった。
 妹の結婚相手に父を祖父に推薦したのも彼だったのだ。


 この伯父についてついでに話すと、麟太郎は、権力欲と名誉欲の権化のような政治家である点で、わたしの母とよく似た性質の人だったが、母よりもまた真壁家の妖怪といわれた祖父よりも、わたしの父の才能にほんとうに信を置いていた。
 父の他にも多くの画家の卵や音楽家の卵を見つけては金に糸目をつけず出資していた。
 芸術作品が分かる人とはお世辞にも言えぬ俗物であったが、ふしぎと芸術家という人間には鼻の利く人で、作品には盲らでも人を見れば才能が本物かどうかを見抜く奇妙なインスピレーションに恵まれていた。


 この点において伯父は世間でもかなり有名な奇人であった。
 美術館だろうと演奏会だろうと、この人は必ず退屈そうにしていてすぐにウトウトと眠気を覚える。
 その癖、側に〈才気〉を発する人がいると感じると突然パッチリと目を開け、相手が貧乏学生だろうと乞食だろうと興奮して話しかけ、名刺を差し出してパトロンになってやろうと申し出る。
 しかも音楽会で画家の卵を、美術館でロックスターの卵を、絵筆を握ったこともない路上の浮浪者に未来の天才イラストレーターを発見するのだった。


 相手が自分の才能の真の分野を誤解している場合も多く、伯父はそんな場合には熱心に相手を説得して道を変えさせた。そして実際に彼らは伯父の言った通り見事に才能を開花させてしまったのだった。


 まだ早々と小さな兄に高価なストラディバリウスのヴァイオリンを買い与え、わたしに画集と水彩絵具のセットをプレゼントしてくれたのもこの伯父だった。
 姉の真理には携帯ビデオカメラと操作のやたら難しいプロ用の写真機材を買ってきて、母を非常に困惑させた。


 母は自分の兄に不平を鳴らした。こんなもの小さな子供にどうやって扱えというの? 


 だが伯父は大真面目に、そして興奮ぎみに予言してみせた。


 真理ちゃんは凄い才能を持っているんだ。わたしには分かっている。彼女は映像の分野でとにかく凄い成功者になる筈だ。大天才だ、いいかね、何十年に一回しか出ない大天才なんだよ。


 母は嘲った。カメラマンならともかく映画監督なんて無茶よ。この子は声が出ないんだから、どうやってメガホンを握れというの?


 伯父は憮然とした。


 声はいつかきっと必ず出るようになる。それにきっとすごくいい声をしている。
 なろうと思えば歌手にもなれる。大スターだ。彼女はきっと凄い美人になるし、センスもいいし、踊りだってうまいだろう。それから映画に出て大女優になり、最後には映画監督になって賞を総舐めにするのだ。音楽は稔君が作り、美術は有理ちゃんが作るんだ。素晴らしいじゃないか。


 伯父がまるで見て来たことのように大袈裟に語ったので、母はますます呆れかえったそうだ(この話は父から聞いたものだ)。そして実際にそう指摘した。
 すると伯父はますます憮然として言ってのけた。


 そうだよ、そうだとも。わたしは見たんだ。
 わたしは未来に上映される彼女の映画を予知夢に見た。
 全部は覚えていないが、タルコフスキーの映画によく似ていて、とにかくあっちこっちが水浸しになるんだが、とても綺麗な画面で、一度見たら忘れられない。


 題名は『オフィーリア』だった。話はどんなものだったか何分夢なもんだから場面がバラバラで完全には掴めなかったが、とにかく白い髪の少女が歌いながら水に沈んでゆく場面が圧巻で、それから後で死んだ筈のその少女が真っ青な神秘的な夜の場面でまた現れてくる。


 取り残されたその少女の恋人がどこか中世のヨーロッパみたいな幻想的な森と湖のあるところに庵を作って修道士みたいに暮らしている。そう、もうすっかり老人になっているんだ。


 そこへ死んだ筈の少女が蘇ってきて、それからふたりで夜の、うすぼんやりとした光をたたえた沼の上にボートを漕ぎ出していく。
 お堀なのかもしれん。霧の彼方に城の影が聳えていた。永遠なるものの城だよ。
 その白い髪をした不思議な少女は昔の恋人であった老修道士の魂を幽遠な冥府の古城へと連れて行く。あの世からお迎えにくるんだ。
 男は長い年月の孤独なそして清純な愛が報われて、その城の城主となり永遠に最愛の人と暮らす。


 いやあ、漕ぎ出してゆくボートが霧のなかにひっそりと消えてゆくラストシーンがこれまた圧巻だった。わたしは本当に感動したよ。目覚めた状態でこれまでに見たどんな映画よりもそれは凄かった。


 そこでキャプションが流れ出して、わたしはそれが真理ちゃんが監督した映画だと分かったんだ。
 稔君も有理ちゃんも協力していた。無論、音楽と美術でだ。
 ひょっとするとあの女優は真理ちゃん自身だったかもしれない……だとしたら本当に凄い話だ。
 彼女はそりゃあ綺麗で、まだまだ若かったんだ。
 どんなにメイキャップしてたって三十歳以下でなきゃあ無理だ。
 するとそんなに若くして大監督になってるということになる。


 凄い。わたしは夢の中で感激して拍手喝采していた……で、実際に拍手していてハッと目が覚めたんだが、物凄くリアルだった。
 まさに天啓、紛れもなく予知夢だ。
 わたしは泣いていたよ。素晴らしかった。
 あの映画を世界中の人に見てもらいたいと思った。
 こんなことは生まれてこの方一度もない体験だったよ。
 忘れられない。心が洗われるような深い深い場面だ。
 とても宗教的で……祈りがすみずみまで染み渡っていた。深いテーマが横たわっていた。
 話はとても素朴で慎ましいんだが……でも、奥が深い。


 あれは、全世界の死と再生をとても精神的に描いた作品だ。
 水に沈む少女は一つの宇宙を丸ごと象徴していて、彼女の死と共に全世界を滅ぼす不思議な洪水が始まる。すべてが水浸しになるのは、重い絶望が世界中にのしかかり、それがつまり世界を覆う不可思議な『死』を象徴的に表しているのだ。
 最後にひっそりと漕ぎ出してゆくボートはノアの方舟なんだ。
 神秘的な世界の甦りの希望が小さなボートには満載されている。
 つましい、ほんとうにつましいけれどその小さなおんぼろの寂しいボートに人類の神聖な希望が凝縮されている。
 古城は『月の城』という不思議な名前で呼ばれていて、孤独な修道士は運命の試練を強い忍耐で克服したので、神からそこの王になるべく選ばれたのだ。
 この修道士がノアになって、人類滅亡後の新しい時代が始まることが暗示されている。


 素晴らしい。夢に留めておくだなんて本当にもったいない。
 あの映画をどうしてももういちど現実にも見てみたい。
 でも真理ちゃんがきっとそれを作ってくれるんだ。そしてそれをみんなが見るのだ。いや、世界中の人がきっと見るし、それに、どうしても見なければいかんのだ。


 今のわたしたちは何かとても大切なことを忘れてしまっている。
 あの映画はそれを思い出させてくれる。簡単なものじゃない。とても言葉では言い表せない……とても深い深い何かを。神の確かな手触りなのかもしれん。わたしたちの手をそっと引いてくれる神の優しい手だよ。


  *  *  *


 それから淡々とした時間が始まった。
 父はずっと優しかったが、娘が二人の間に置くことを望んだ冷淡な距離を越えては決して踏み込んでこようとはしなかった。自分の手前で厳しく閉ざされたドアをノックしようとして、それでも途中で諦めて手を降ろし、力なく暗い廊下を帰ってゆく人のように。
 娘の葬式のとき、父の顔に、はじめて娘を《真理》と呼んだそのときと同じ表情が掠めているのをわたしは認めた。父は娘の死に余り衝撃を受けている様子はなかった。


 わたしは覚えている。その娘に、あなたは素晴らしい秘密を打ち明けた。
 その美しい水瓶の底にけぶる青冠湖〔ケペレシュ〕の無限の、清らかな水のおもてに、どうやってエロヒムの霊が舞い降りてきたのかを。あなたの最初の記憶だというその夢の話はきっと本当のことなのだ。
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Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-7 火龍の造り手

[承前]


 わたしは覚えている。あれ程愛した息子がいなくなったのに、父は穏やかにそれに耐えていた。
 そのとき冷たい人だと思ったのは娘自身が冷たい娘だったからだ。
 父は兄がいつかいなくなってしまうことをずっと予感していたのだろう。


 わたしの片目の父もまた不思議な雰囲気と力を持ったひとだった。
 あの暗い方の目でどんな悲しい未来も見通していたのではないだろうか。
 その娘が冷たい娘で、やがて親不孝にも自殺してしまうという宿命にあることも見抜いていたのではないか。そして定めというのは変えることができないということも。


 父は何もかも知っていて辛く耐えていたのかもしれない。
 娘の葬式のときも父は淡々としていた。
 打ちのめされてはいなかった。まるで予期していたように。
 こうしてわたしの父はとうとう独りぼっちになってしまった。


 父は大変な変わり者。偏屈というのではないけれど、世間の人達の喜怒哀楽の示し方とは非常にズレたところがある。誰も彼のことを理解していない。
 生前、母は父をとても悪く言い、あれは冷たい人なのだと、非常に小狡く分かりやすいイメージの型に押し込め、切り刻んで単純なマンガに変えてしまった。
 けれど、母には人物を描く画才が根本的に欠けていた。
 よく恥ずかしくもなくあんなことを言えたものだ。母には人を見る目がなかった。とても簡単なことなのに、母はそもそも人を見ていなかった。
 盲らのまま人を頭ごなしに決め付け、トゲトゲした才気を見せびらかしながら酷評する。
 そんなとき、子供心にも母はとても醜い人に見えた。
 大変華やかな美人で、華やかにチェロを弾き、華やかな拍手喝采のなかで彼女は終始高慢に生きた。


 でも、わたしには分かる。今の世の中で、クラシック音楽の豪華な演奏会に出掛けるようなご身分の人達は、本当の音楽も芸術も分からない高慢ちきな俗物ばかりだから、母のような醜い人の奏でる冷たくて意地悪な音を褒めそやすのだ。
 母は芸術家などではなかった。
 たとえ生前、世界的な音楽家として名を馳せていたとしても、あの人の作り上げる音の世界は狭隘で独りよがり、高度なテクニックを弄んで、真似のできない人を震え上がらせる残酷さと、耽美趣味の自惚れのつよい香水の匂いがプンプンしている。
 真壁家に生まれ、何不自由なく上流階級にどっぷり浸かり、成金のその父親の芸術のパトロンぶりたがる偽善のお先棒を担ぎ、評論家たちのお追従に守られて、いつも女王気取り。
 本当の芸術を求めたため、いつも口ばかり達者でその目がひどい乱視だということを隠しおおせている批評家たちに妨害され、苦労し続けた父のことを見下げていた。


 父は誇り高い人だった。せっかく真壁の縁者となったのに、その政治力を利用することを決してしなかった。芸術は貧しい人、苦しんでいる人のところに降りてゆくものでなければならないと信じていたのだ。
 父は心が片輪で教養のない人達のために、それでもそんな人達にこそ曇りのない感受性があると信じて、いつも馬鹿気たものを描いていた。批評家たちから嘲笑されたのはそのせいだった。
 その上、無教養な人達からも相手にしてもらえなかった。彼らには逆に父の描く絵が高尚すぎてみえたのだ。これが悲劇だった。
 今でこそ、父の名前を画壇で知らないものはいない。だが、わたしたちが幼かった頃はひどいものだった。母は父を自分の名誉を損なう汚点を見るような目で見ていた。


 父も若い頃には天才画家として華やかなデビューを飾った人だった。
 だから祖父がそれに目をつけ、利用しようとして母の結婚相手に選んだ。
 母もまた虚栄心を満足させるにはまたとない相手だった。
 純真な父は騙された。だがまた、母も祖父も騙されていた。
 父は期待に反して本物の芸術家だったのだ。
 世間から勝ち得ていた高い評価に疑問を抱き、新しい境地を開こうとして、直ぐに地位も名声もなげうってしまった。画商にも評論家にも見捨てられ、やがて妻にも見捨てられた。


 認めてくれたのは高野山の怪しげなお坊さんたちだけ。
 タロットカードを作らないかと持ちかけられて、お金にもならない仕事のために、沢山の訳の分からない本を買い込み、大勢の怪しげな人達と交わり、やがて絵筆を握るのも忘れて、頭を抱えるようになった父を、母は冷ややかな目で見ていた。
 ダリは有名な一流画家だったからタロットを作ってもそれが売れた。
 タロットの絵なんかを描いてから有名になった画家なんて聞いたことがない、と母は父を冷笑していた。父は憮然とそれを聞いているだけだった。


 でも、それが結局はよかったのだと思う。
 画壇にぐうの音も出ない程の報復の打撃を浴びせ、父を逆転大勝利の画壇の帝王にしてくれた《天龍》《海龍》《地龍》の三作は、まだ描いていない最後の大作《火龍》をもって完成する、西洋の四大エレメントを表そうとした壮大な四部作の一部。
 それは父のはた目には馬鹿みたいにみえたタロットカードとオカルティズムへの真剣な探求から生まれたのだ。


 父のところへよく訪ねてきたとても体の大きな不思議なお坊さんのことを覚えている。
 青い目をしたその人のことを母はとても嫌っていたが、わたしたちは好きだった。


 落ち込んでいる父をいつも励まし、まだその頃は生きていた真理姉さんや稔兄さんやわたしと一緒に遊んでくれた。お姉さんが死んだとき、身内でもないのに、そしてお坊さんの癖に、お葬式でおいおい泣いてくれた。鬱病になってしまった父と自閉症になって石のように黙り込んでしまった兄を庇って、彼らを冷たく見放そうとしていた母を思い留まらせようと一生懸命だったアレックス=鳳来さん。
 暖かい大きな手をしていた。その手は、父の手よりも優美だった。


 父は画家とは思えない程無骨な指をした人で、手だけ見たら労働者にみえる。
 それは父の飾らない真面目で実直な性格を表していた。
 小さい頃、その大きな手は何だか怖かった。黒い眼帯をした顔も薄気味悪かった。


 だが、あの兄の失踪事件の報を受け、娘がダイモスの寄宿学校から慌ただしく一時帰宅したとき、娘――いや、寧ろこのわたしを抱いてくれたその手はとても暖かく優しいものだと分かった。
 年老いた父の顔をわたしはそのとき本当に間近から初めて見たように思う。


 その目は兄の目よりも綺麗だった。父は本当に画家だったのだ。
 人の心の深い所まで見透かしながら黙ってすべてを許してくれる瞳。
 父がわたしを見たとき、彼の身中に広がる不思議な宇宙の闇にすうっと吸い込まれそうな気がしたものだ。


 その瞳の底には確かに痛みがあった。
 羽田空港のロビーで長年遠く離れ離れに暮らしてきた娘を迎えようとして、わたしを認め、腰を上げ、名を呼ぼうとしたその時、娘の顔に何を読み取ったのだろう、和みかけた表情全体に一瞬急ブレーキをかけ、中腰の姿勢のまま、父は凍りついていた。


 開かれた口は音声を発さないまま再び苦しげに閉ざされる。
 娘もまた全身を僵らせ、メドゥーサがその犠牲者を凝視しながら、自らも石像と化すように、硬い視線で父を見ていた。


 もし彼が《有理》と呼ぶなら答えないつもりだった。


 無言のまま、娘は父を試みていたのだ。父はその苦い瞬間に耐えなければならなかった。
 噤んだ口と閉じたまなこが再び開かれ、静かな深い声が魔法の呪文を唱える。


 《真理》という神秘の名前、娘が待ち望んだその名前を父が口にしたとき、一瞬の気まずい沈黙が解凍され、時は戻った。


 娘の顔はそのとき喜びに輝いたのだろうか、わたしは覚えていない。
 覚えているのは、言い終えてなお、父の優しい顔に寂しげな蔭りがあったことだ。
 やっと手に入れた娘を再び失ってしまったというような表情がなおも暫く揺らめき、揺らめいては消えていったのを覚えている。
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Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-6 盲いた仏陀

[承前]

 


 稔は、実は娘があなたに言った程恐ろしい人ではなかった。


 彼は寧ろ穏やかな人で、娘にも優しかった。
 長じるに随ってその静かな人柄が分かってきた。


 わたしたちの母が過度に彼を嫌い恐れていたので、娘までそれに鋭敏に反応して、やがて恐怖と嫌悪が感染してしまっただけのこと。
 思い出してみれば、悪魔というのは余りにもひどい。ひどいばかりか正反対といってもいい位だ。
 不思議な力は持っていたけれど、稔は聖者が悪魔を抑えるように、その内なる魔性を静かに治める術を心得ていた。
 彼は孤独を好み、人中を避けて少し後ろに下がるところがあったが、それは彼が長く盲人であったためだけではないと思う。
 憐れみ深く思慮深そうなその顔立ちは、まだ若い少年のものとは思えない位に内に多くの襞を秘めていた。


 彼のもつ雰囲気も独特のものだったが、あなたが激しく恐るべき光の虎だとしたら、兄は穏やかで知恵深い老いたる闇に蹲る黒い龍のようだった。
 実際彼はどこか老人のようにも見えた。
 年齢を越えた神秘的な知恵と慈悲深さを漂わせている。
 とても目立たない人だったが、それは気配を消していることを好むためだった。


 兄は明らかに傷ついていた。口にはしなかったが、母に嫌われていることを非常に辛い諦めの思いで受け止めていたのだろう。
 あの不思議な性格はそのために生まれたのだ。
 兄は非常に無口でいつも何処か悲しげにみえた。
 引きこもって静かにしていることを好んだのは、自分を周囲から守っているというより、己れの内なる悪魔の力から周囲の人々を庇うためだったのではないかと今では思われる。
 誰よりもその異様な力で傷ついていたのは兄だったのではないかとわたしは思う。


 そしてあの恐ろしい事故で、本当なら死んだかもしれない父と姉を救ったのはまだ小さかったその盲らの少年だったのではなかっただろうか。


 あなたが、娘の言葉に抗してわたしたちの兄に同情したのは、ミノルというその名の不思議のためだというより、今ではやはり当然のことだったのではないかと思う。


 兄さん、わたしの可哀想な兄さん。今では姉の真理のことより、あなたの方が愛しい。
 わたしは最後に会ったときのあなたを思い出す。
 母が亡くなって角膜の移植を受けたあなたの目の繃帯が取れた日のこと。わたしは初めてあなたの開かれた目を見た。永遠にその目の貴い美しさを忘れることはできないだろう。


 それはとても澄んだ深い泉のような瞳で、優しい悲しげな光を湛えていた。
 目が見えるようになったことを喜ぶというより、目をくれて死んだ母のことを愛し悲しむ瞳だった。


 あれ程あなたを嫌った母なのに。


 父の取り計らいがなければ母はきっとそのあなたの瞳を潰したままにして、他の人に目をあげてしまったに違いない。


 思えば最後までどこか我儘で独りよがりな人だった母。
 母には確かに少し冷たいところがあった。


 悪いことは何もかも父やあなたのせいにして、都合の良いときだけ利用する。
 あの日もそうだった。


 わたしは覚えている。あの日、美術館の落成式であなたはとても美しい曲を奏でた。
 それは《生まれざるものに捧げる哀歌》、別の名前を《存在のエレジー》という不思議な曲。
 ヴァイオリンを奏でるあなたは小さなオルフェウスのように見えた。
 あなたは周囲をよそに、その決して見開かれぬまなこを益々深く冥府の底のような自分自身の暗闇へと沈潜させ、本当に心の籠った、生涯忘れられぬあの暖かい優しい曲を弾いていた。


 それは、美術館に集められた、現実に生まれることのできなかった美しい夢や不可思議な幻想の形たちに捧げた曲として披露されたけれど、わたしは知っている、あなたはあの日、もうひとりの真理のことを思って、死の水に沈んだあの白髪の娘のためにだけ、一心に調べを捧げていたのだ。あなたのエウリュディケー、そして娘のオフィーリアのために。母の愚かしい偶像のために。


 その日、わたしは泣いた。あなたの演奏を聞きながら、娘も涙が止まらないでいた。
 あれ程あなたを嫌っていたのに、あなたの思いを込めた弓の運びがが娘の心の頑なな琴線をも震わせたのだ。
 その時、娘は初めて、《愛》というものを教えられたのだ。


 娘はその日、姉の真理への愛に目覚めた。
 それをあなたの魂を込めた演奏から学んだのだ。
 そんなあなたのことを『悪魔』であるだなんて……悔やまれてならない。わたしは恥ずかしい。


 兄さん、何処かで生きていてほしいと思う。
 生前、あなたの妹は無情に過ぎた。


 父を独り占めしているようなあなたにきっと嫉妬していたのだろう。
 実際にはあなたは父よりもずっと大人で、愚かな父を優しく窘めるようにいつも距離を取ろうと苦労していたことが今では素直に分かってくる。
 あなたは家族に捨てられたその老人を哀れんで支えていてくれたのだ。
 父があなたを愛したのも当然だろう。画家の父には人を見る目があったのだ。
 目の見えないあなたは闇のなかで全てを見通し全てを許すことのできる聖なる子供。小さな盲いた仏陀だった。父にはあなたが持って生まれた運命の影もその特別な淨い魂も見抜く力があったのだ。

 

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-5 海月なす苦い海

[承前]

 

 あなたのお母さんは、とおい昔、まだ大学生だった頃、当時つきあっていた男子学生の子供を孕み、ひそかに中絶手術を受けていた。その後すぐその無責任な相手は彼女を捨ててしまう。嘆いた彼女は冬の海辺で睡眠薬を飲み、海月〔クラゲ〕だらけの冷たく陰気な潮に入って死のうとした。
 ちょうどそこを通り掛かり、死の海に帰ろうとしていた人魚姫を助けたのが後にあなたのお父さんになる人だった。

 

 

 その海辺は本当に海月だらけだったという。
 波間をユラユラと漂う半透明の薄気味のわるい生き物は、実際生き物というよりはそれじしんが霊魂じみたゼリーのお化けだ。
 半死半生の彼女は冷たい海のなかで、この奇妙な浮遊物体たちと一緒に波の揺籃に抱かれていた。
 そのとき、海月の仲間になりたいとぼんやり思っていたという。
 それは堕ろされ捨てられて海に流された数多くの《水母》ならぬ《水子》の魂たちで、彼女も自分が中絶した子と一緒に生まれる以前の原初の海に戻ってゆけると思っていた。
 死にたいというのとは少しばかり違っていたらしい。


 その海月なす漂える海はけれども結局彼女を受け入れなかった。
 大勢の海月たちと一緒に波打際に吐き捨てられた。
 海に這い戻る力もない足萎えの海月たちはやがてしぼんで空気の中に跡形もなく蒸発してゆき、本当に常世の国に帰ってしまうが、その死屍累々たるゼリーの墓場のなかでお父さんが発見した眠り姫にはまだ息があった。


 体にはあちこち海月に刺された痕がついていた。
 水子たちの意地悪な復讐の跡だった。


 この話をあなたは精神科医から聞き出したのだという。
 精神科医の方は、あなたのお父さんから聞き出していた。
 医者の話では、このとき海月と共に生死の境を漂いながら、結局刺されて死の海への帰還を拒まれた体験が、お母さんの心に辛くかなり後々まで疼きを残す深い深い傷となったのだという。
 彼女はそれを妊娠中絶の罪に対する厳しい罰であると受け取っていた。
 水に入るまでは自分が小さな命を《殺した》などとは思っていなかった。
 海月に刺された傷の痛みから、《罰》の観念が生まれ、それから《罪》の意識が生じた。
 これはたちの悪い倒錯論法だった。
 《罰》の痛みは《罪》の意識からの出口の試練で、終われば苛まれた心は許される。
 ところが彼女は《罰》から《罪》を作り上げてしまった。
 出口から入ってしまった訳だ。すると《罪》の迷路から彼女は出られなくなる。
 そこを迷ううちに《罪》は《夢》となり、いっとき彼女をファンタジー作家にしてはくれるが、慰めにはならないままに、やがてそれは《狂気》に至ってしまった。


 あなたは『昼子』というのは、その最初に中絶した子供のことだろうと言う。


 それはもう《実〔ミノル〕》でもぼくのことでもない。
 だから話のなかで女の子になっているんだ、とやや恨みがましそうに冷たく言った。


 母は何もかも忘れて、都合のよい忘却の海に行ってしまった。
 《昼子》とは言うまでもなく《水蛭子》のこと、得体のしれない海月の化け物だ。
 母は、名もないその胎児の亡霊に連れ去られてしまったのだ。
 ぼくを、死んだ兄の生まれ変わりだと信じてくれた訳ではない。


 あなたはやや蒼ざめて下唇を強く噛む。母の裏切りを許すことができないという風に、こわばった怒りの表情が、その能面のようにはりつめたあなたの美しい無表情から、白く薄い色の皮膚の底に微かに透けてみえる。


 母は忘れてしまった、とあなたは言う。
 何もかも忘れてしまったのだ。
 《実》のことも、ぼくのことも、彼女を助けた父のこともすっかり忘れてしまった。
 ぼくたちはみんな捨てられてしまったのだ。何という愚かしく恐ろしい狂気だろう!


 でもそう言ったときのあなたの方が娘には少し怖いと思えた。
 今も同じ。わたしも怖いと思う。


 あなたにはとても優しいところがある反面、どこかぞっとする程底恐ろしいところがある。
 まるで深い海の底の冷たい水に触れるよう。


 だが、娘もわたしも、寧ろそのあなたのうちに潜む冷厳で凶暴そうな、黒く巨大な殺意にも似た恐ろしさにこそ強く魅かれていた。
 それはあなたが寅年のせいなのだろうか、ときどきあなたが優美だが獰猛そうな白く気高い虎のように見えることがある。
 近寄るものを容赦なく殺してしまうようなあなたのその内に秘めた激しさがわたしたちは好きだった。


 あなたの美しさはきっとその尖耳畸型種〔ハーフエルフ〕やアンドロイドの人達とも見まがう器量の整いや肌のすべやかな美しさや幻想的なまでに中性的な容姿の高貴さだけから来るのではない。
 そういったものを内側から強く輝かせる、全くひとと違うアウラの光をあなたは持っている。
 きっとそれは内に秘めたその猛虎の本質にあるのだろう。


 あなたの《神》という名前に本当に相応しい神聖にして畏怖すべき威厳をたたえた、その強い獣の性にわたしは今でも憧れている。


 今までそんな人を見たことはなかった。わたしたちの兄の稔を除けば。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-4 消された復活

[承前]

 

 そうだ、あなたは確かにそこにいた。ベツレヘムの不思議な重なる星の奇蹟が、一度死んだあなたを蘇らせていた筈。あなたの母は、実〔ミノル〕を失ったので現実を失った。でも、実〔ミノル〕は本当はいたのだ。彼女の後ろにいつもいたのだ。実〔ミノル〕の『実』は『真実』の『実』でもある。それは、あなたの真実でもあった筈。

 どうして教えてあげなかったの? 
 お母さんだって待っていたでしょうに。どうして呼びかけられることだけを待ち、泣いている女に話しかけ、名乗りを上げずに放っておいたのだろう。
 あなたにはそれができた筈だ。

 イエスは、自分の空っぽの墓の前で恋人の遺体が隠されたと思って泣くマグダラのマリアに話しかけた。マリアには確かにその人が誰なのか分からなかった。園の番人に違いないと思い込んでいたのだ。どうしてか分かる? 両目が涙で一杯でまともに物が見えなかったからだ。でも、イエスは話しかけたのだ。名乗りを上げはしなかったけれど、彼女の名を呼んであげた。だから、マリアにはそれが愛しい人だと分かったのだ。

 確かにそのすぐ後で、イエスは縋りつくマリアを振り払った。

 《Noli me tangere(わたしに触るな)》、ああ、何と冷たい言葉だろう! 

 でも、マリアはイエスがそこに蘇っていることを見ただけで満足だったのよ。
 抱き締められなくとも良かった。彼女はきっと喜びに溢れて、あのひとが生き返ったとみんなに知らせに行ったのだ。
 その足取りはどんなにか軽やかであったことだろうに。

 あなたにもう少し奇蹟を行う勇気があったなら、ああ、あなたには簡単なことだった筈でしょう? 一言言ってあげるだけのこと、それだけで、苦しみの膜に塞がれた哀れなその女の目は開かれたことでしょうに。お母さんもそれを望んでいた筈、本当は実〔ミンル〕と呼びたかった。だって、それこそあなたの本当の名前、死んでまた生まれ変わってきた神の子に一番ふさわしい名前だったのだ。

 だから、あなたの名前を嫌って呼ばなかった。
 だから『昼子』を書いた。
 或いは、嫌ったから呼ばなかったのではなかったのではないだろうか。
 願いを叶えてくれた神への大きな感謝と畏敬の念から、その聖なる名を深く尊んで敢えて呼ぶまいと思ったのではないか。
 お母さんこそ、わが子が神であることを本当に健気に敬虔に信じていたのだ。
 嫌ってなどいなかった、とても深くあなたを愛していたのだ。
 気も狂わんばかりに。

 どうしてそれが分からなかった? あなたこそ、お母さんを、そして自分自身を裏切っていたのではないか。

 奇蹟を嫌い、ミノルを死んだままにしておきたかったのはあなた。
 あなたはそのことで本当にミノルを殺してしまった。
 まるで水瓶を荒々しく打ち砕くように。

 あなたは厳しすぎる――自分にも他人にも。そしてそのことが分かっていない。
 あなたが、お母さんを裁いて、狂気に追いやってしまったのだ。

 恐ろしい神様、どうして信じることが罪なのだ? わたしには分からない。

 冷酷な現実を自分の回りに作り出し、その重い氷の下に全てを圧し潰そうとして、一体あなたは何を求めているのだ。
 あなたの創造は水瓶の破壊。あるがままの美しい世界を殺すために、あなたは雹と氷を、恐るべき冬を創造する。

 でも、あなたが神であってもいいではないか。あなたが実であってもいいではないか。狭隘な現実という幻想を無理やり作って、自分は神ではない、自分は実ではないと言い張っているその姿そのもののなかに既に、気高い創造神の素性は隠しようもなく現れてしまっている。

 自分に嘘をつかないで。
 あなたが神様であるなら、尚更のこと。
 神様が神様はいないと言ったら、人間は何を信じたらいい? 
 またもし、神様が神様がいないことを証明しようとして自分を殺し、無に変えてしまったら、この世界はどうなってしまうのだろう。ばらばらに解けて、消えてなくなってしまうのではないか。

 どうか気付いてほしい。あなたが神様ではないという証拠なんてどこにもないのよ。もしそうであるとしたら、今のあなたがどんなに恐ろしいことをしていることになるか、一度でもそんな風に考えてみてくれたことはあるのかしら。

 でも、あなたはそれを認めない。あなたが信じたのはもっと別の苦い話。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-3 よみがえる娘と生き返らない息子

[承前]

 

 

 『昼子〔ヒルコ〕』だ、と娘は答える。それはあなたの母の代表作、そして最後の作品だった。

  *  *  *

 若い母親は、幼くして死んだ娘を葦船に乗せて海に流す。
 娘がいつか帰ってくることを祈願して。
 やがて彼女は待ち切れなくなり、自分自身も船に乗って、遥かな、死者が蘇るという魔法の国エジプトに旅立つ。

 その国で死者の王オシリスの神に出会い、彼女の訴えに心打たれたオシリスは、息子のホルスに命じて、一時だけ彼女の願いを適えてあげようとする。
 ナイルの上流にある青く麗しいケペレシュという名の湖に行って、その真ん中で太陽に祈るようにと母親に告げる。

 その湖の真下には真っ白な古代の神殿が沈んでいる。
 母親はその水に沈んだ神殿の真上に漕ぎ出し、オシリスに言われたとおり、正午、天頂に輝く太陽に祈る。

 太陽は彼女を見て深く哀れみ、ホルスの目の形となって彼女のために一粒の涙を落とそうとして、その潤んだ目を微かに閉じようとする。

 そのとき天地は暗くなり、太陽は黒く異様なその本当の姿を取る。
 紫のコロナの翼が真横に長く伸びて荘厳に燃え、蘇りの鳥といわれる不死鳥〔フェニックス〕が忽然と現れるのだ。

 太陽の涙はその皆既日蝕の大きな黒い瞳から白く円くこぼれおちて、曾てインドでシッダールタ王子を母のマーヤーに運んだとされる神聖な象を出現させる。
 象に不死鳥の翼が与えられ、その象が彼女の処に羽撃いてやってくる。

 彼女は歓喜して象を迎える。
 何故ならその象の背には、彼女が慈しんだ愛児の昼子の小さな姿が乗っていたのだから。

 だがそれは太陽が自分自身に魔法をかけた一瞬だけに許されたこの世での逢瀬だった。

 若い母親は愛児を抱き締めた瞬間に命を落とし、昼子を連れて来た象の背に乗って、子供を抱いたまま黒い太陽のなかに姿を消す。
 太陽が再び暖かい日差しでケペレシュのおもてを照らすと、澄んだ水の上にもう誰も乗っていない小さな船だけがいつまでもいつまでもユラユラと揺れている。

  *  *  *

 そのケペレシュというのは、むこうの言葉で《青い冠》を意味するのだ、とあなたは娘に教えた。それはファラオが戦いのときにつける冠なのだよ。

 それから何故かとても悲しそうな顔をして付け加えるのだった。

 そのナイル上流のヌビア地方にある青冠湖は、昔ナセル湖と呼ばれ、今では海のように大きく広がった水の底にふたつの原初の丘が沈んでいる。
 ひとつは、ナイルの真珠と謳われたフィラエ島、そしてアブ・シンベルだ。フィラエの方には昔イシスの神殿があった。アブ・シンベルからは神殿は二度も別の場処に移された。ダムが幾つも作られたので、二つの島はすっかり水に沈んでしまったのだ。その移った先のアブ・シンベル神殿に父がちょうど学者仲間と皆既日蝕の観測に出掛けて留守だったとき、青冠湖の外れ、少しそこからは下流にあるアスワンの街に程近い、エレファンティネ島でぼくは生まれた。
 そこには牡羊の頭をし、轆轤を回して人間を造ったというクヌムの神の神殿やローマのトラヤヌス皇帝の神殿の遺跡がある。その辺りは古代の伝説で、どこかにオシリスのふくらはぎが埋まっているとされ、また、昔ナイルの水源があったといわれている。
 フィラエ島から移転されたイシス神殿のレリーフを覚えている。ナイルの女神であるハピが二つの水瓶から水を川に流し込んでいるとても古い図柄。ハピはときに男の神で、オシリスとも同一視されていたそうだ。
 ぼくの見たレリーフは、やがて水瓶座の象徴となり、古いタロットの17番目の大アルカナに写された。その札は《星》と呼ばれた。女神はときにネフティスとも呼ばれ、頭上にはベツレヘムの不思議な星が描かれている。水瓶座とはまた、『ルカ福音書』に出てくる水瓶を運ぶ者でもある。最後の晩餐に向かうイエスの一行をその謎の人が導いたという。

 母はその話の通り、日蝕の異様な太陽を見て産気づいた。
 そのとき、その象の幻も見ているんだ。

 でもね、彼女はその象を本当はとても怖がっていたんだよ。それはとても恐ろしい象で、彼女を踏み潰す程巨大で、とても獰猛そうだった……ちょうど虎か何かのように。

 その母の見た幻にひとり喜んだ父は、学者仲間からも何か吹き込まれたらしくて、いい気になって、ぼくのこの名前をつけたんだけれど、母はとても嫌がってたんだ。

 本当は《実〔ミノル〕》にしたかったのかもしれないが、何より、彼女の見た象が余り不吉な感じがしていたものだから、それが《神》などであるとは決して思いたくなかったんだよ。

 母はだからぼくの名がとても嫌いで、またぼくがその象の魔物に殺されるのを恐れて、こっそりコプト教会に行って洗礼させ、父の涜神の罪の許しを主なる神に乞い願い、そのときつけてもらったダニエルという洗礼名でいつもぼくを呼んで、ぼくの本当の名を決して口にすまいとしていた。

 また、ぼくに女の子の服を着せ、象の悪魔の目を欺こうとさえしていたんだ。その頃は優しかったけど、日本に帰るとさすがにもうダニエルとは呼びにくくなって、かといって本名では呼べず、やがて何が気まずくなったのか、殆ど口もきいてくれなくなった。そして、ぼんやりしたり、また、突然思い出したように、『実、実』と兄の名を呼んで泣き出すことが多くなった。そして、とうとう……。

 ふいに声が咽び、あなたは顔を覆った。

 ぼくは……一度でいい、『実』と呼んで欲しかった。

 あなたは泣く、あなたはそのとき、本当に体を震わせて泣いていたのだ。
 ハピの神の両の水瓶から溢れ注いでやまない愛の水のように。

 あなたに分かってほしい。その涙の真実をうべなってほしい。
 涙が溢れ出すのは、心が溢れ出すからだ。

 その悲しみを憎まないで。それをどうか受け入れてほしい。
 何も失われはしないのだ。女神の持つ水瓶が涸れ尽きることはないだろう。どんなに溢れ出しても甕の底には無限の水を涌き出すことのできる泉がある。その泉がどんなに綺麗か、あなたに見せてあげたい。

 その泉こそあなたの心、あなたの命なのだ。
 水瓶を塞がないで。そのなかにいるのはあなた自身だ。
 あなたとは愛だ――無限の愛の海に生まれたひとよ、どうか水瓶を砕かないでほしい。それはあなたじしんを壊すことでしかないのだから。

 

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-2 裂かれた家族

[承前]

 

 あなたは娘の本当の名前が《有理〔ユリ〕》であることを知った。
 彼女は画家と音楽家の娘で三人兄妹の末っ子だった。
 多くの身の上は物語らなかったが、物心ついたときには、兄が盲人で姉の真理が唖者であったことを告げた。

 姉の真理はあなたと同い歳で、不思議にも同じ誕生日だったこともそのとき打ち明けた。そのことが何より彼女に深い印象を与えていた。
 その姉は口が利けない上に、すっかり白髪だった。白子〔アルビノ〕だった訳ではない。 彼女が生まれて間もない頃、体が回復するとすぐ母親は演奏旅行に出掛けてしまった。未熟児だった彼女はまだ病院のカプセルのなかにいた。
 あるとき、父は兄と姉を連れて当時の銀座に買い物に出掛けた。電車に乗っていたときだった。あの恐ろしい地震が東京を襲った。

 列車は横転し、崩れる高架線から下の道路に転落した。
 多くの死傷者を出した恐ろしい事故で、三人の命が助かっただけでも奇蹟としかいいようがない。
 同じ車輛に乗り合わせていた乗客の殆どが死んだという。
 それでも、全く無傷という訳にはいかなかった。
 二人の子供を庇おうとした父親は右の眼球を硝子の破片で損傷して失明、子供は体こそ無傷だったが、心に二度と直らぬ深い傷を負った。
 事故のショック、何より父親の片目を抉った硝子と夥しく流れた血が、姉の髪の色と声とを奪い去ってしまった。
 髪は二度と黒く生え変わることはなかったと娘はあなたに語った。

 兄の目が見えなくなったのも、その事故のせいだったのかとあなたは尋ねる。

 いいえ、兄は全く無傷だった。

 娘はあらぬ方を睨みながら、顔を背け、不機嫌に暗くなった声で言う。

 兄さんは、恐ろしい人……。
 兄の目はとうの昔に見えなくなっていた。
 信じられるかしら、兄には悪魔の力が備わっていたのよ。
 だから、あんな事故に遭っても擦り傷ひとつ負わなかった。
 その目が暗く盲いることになったのも、その恐ろしい力を弄んだ結果だった。
 まだ言葉も碌に話せぬ小さな子供だった癖に、兄は鏡のなかからきっと悪魔を呼び出そうとしたのだ。
 悪魔が出てきたとき、鏡は細かな塵となって割れ、その呪われた塵を両目に浴びたために、兄の角膜はボロボロになってしまったのだ。

 それからも、兄が泣いたり、怒ったりする度に、家のなかのものが壊れたり、炎を上げたりした。
 宙に玩具を漂わせてグルグル回す無気味な遊びをしてはしゃいでいた。

 元々無気味なものの好きな変わり者の父は、そんな兄を却って溺愛したが、母はそんな怪物が我が子に産まれたことを嘆き、兄にすっかり脅え、またひどく嫌っていた。
 研究所の者だという変な医者のような連中がいつも家に訪ねてきて、兄と姉とわたしが――それでも小さい頃には仲良しだったから――一緒に奇妙な遊びをするのを観察し、父と胡散臭くて気味の悪い話をするのも母の悩みの種だった。

 父とその人たちは、時々兄を何処かに連れていって、何か恐ろしげな如何わしい実験をしていた。ずっとそうだった。
 姉が死んでしまった後も、そしてわたしが母に連れられてその家を出た後も、父は兄を異常に愛し、相変わらず異常なことにかまけていた。

 あの恐ろしい地震も、きっとあの兄が大きな悪魔を呼び出そうとしたからだ。
 あの人はとても恐ろしい人だから。

 それはきっと念動力〔サイコキネシス〕というものだと思う、とあなたは言った。
 俄かには信じがたい話だけれど、時々そんな超能力を生まれながらに持っている人がいるという。
 よくTVでもやっているスプーン曲げの物凄く発達したものだ。
 その程度のものだったら、別に 珍しいものじゃない。尖耳畸形種〔ハーフエルフ〕の人たちのなかには色々小さな力をもった者が特に多いという。
 ぼくの大学の友人の女の子にも尖耳畸形種の人がいて、よくスプーンをぐにゃぐにゃ曲げておかしなオブジェを拵えて遊んでいる。タロット占いがよく当たるので新銀座でもちょっと評判の娘だ。勘がいいのかカードの裏側を透視できるのか知らないが、余りに強すぎるので、誰も彼女とトランプをやりたがらない。
 でも、そんな力はとても小さなもので、大地震を起こすような規模のものは考えられない。ありえないことだ。

  あれが念動力というものだということはわたしもよく知っている、と娘が言う。
 母は兄の名前に『念』などという字が入っているから、あんなことになってしまったのだと自分が名付けてしまったその名のことをひどく悔やんでいたのだから。

 あなたは一瞬苦しそうに顔を僵〔こわば〕らせる。
 それから、ぼくの名も母はとても嫌がっていたのだと辛そうに告げた。

 娘には不思議だ。あなたの名前はとても素晴らしく、高貴で美しいものに思えていた。本当に神々しい、それに華やぎというものがある。

 

[続き]

 

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-1 甦るオフィーリア

 

[承前]

 

hutari

 女の部屋には、大きなラファエル前派の絵画のポスターが飾ってあった。
 小川に落ち、野の花を流れる澄んだ水のおもてに撒き散らし、歌いながら狂い溺れてゆくオフィーリアの姿。19世紀末ヴィクトリア女王時代の英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの有名な作品だ。
 父親が画家だという彼女自身が画学生で、部屋では時々ヌードモデルをさせられた。
 時には彼女の服を着せられ、化粧をし、花束を持ち、スカートを履いて、女に扮した姿を撮影されたり、デッサンに写されたりしていた。
 女は、女装した姿を大層気に入り、ほれぼれとこちらを眺めながら、綺麗ね、本当に綺麗ねぇと言いながら、機嫌良さそうにコンテを走らせる。
 そういう彼女自身が人形のように綺麗な顔をしていた。


 女に成り済ましたまま、よく二人で外に出掛けた。街に出ると、彼女は非常に無邪気にはしゃいだ。普段は余り笑わない、少し陰気な娘だったが、人が変わったように生き生きする。
 まるで夢のようだといい、歌を歌い、踊るように回りを歩き、抱きついてキスをする。
 周囲から変な目で見られようとお構いなしだ。
 馬鹿な男たちが騙されて、お茶を誘いにくる。笑いながら二人で逃げる。大勢のいるメトロのホームで抱き合う。偶然知り合いに見られるかもしれないというスリル。
 レスビアンだという女性が話しかけてきて、余りの明けっ広げさに感心したと言う。
 事実を話して三人で大笑いする。


 時には姉妹に間違えられることもあった。
 あるときのこと、鏡面仕立のビルのウィンドウを覗いて、二人の顔を並べ比べてみると、成程、化粧の加減なのだろうか、彼女に面影の似たもうひとりの見知らぬ女の顔があってドキリとする。
 メイクはいつも彼女が施していたから、器用な画学生の離れ技で、他人の顔の上に巧みに自分の自画像を描いてみせていたのかもしれない。
 そう言うと、女は、その突飛な意見をとても面白がって笑い、それから真顔に戻って低く声を落とした。


 いいえ、はじめてみたときから、あなたはわたしにとてもよく似ていると思っていた。
 そして、わたしよりも、わたしの姉に面影が似ていると思ったので、好きになった。
 わたしの綺麗なひと。きっと、姉が生きていたらあなたそっくりだったでしょうに。
 わたしは姉さんを愛しているの。ずっとずっと小さいときから、姉さんを愛してきたの。
 ああ、お姉さん……。女は顔を覆い、こちらの胸に体を預けてさめざめと涙を流していた。


  *  *  *


 わたしは今から《わたし》と言うことにしよう。
 わたしは真理、わたしは今、あなたの物語を書こうとしている。
 どこから書いているかは問わないでほしい。
 わたしはあなたにあなたとこれから呼びかけることにしたい。あなたにわたしは話しかけたい。
 でも、あなたにわたしの声は届かないだろう。わたしは生きている。あなたのなかに生きている。
 わたしはあなたと共にいる。あなたに分かってほしい。
 わたしがあなたを愛しているということを。


 あなたがそのとき抱いてくれたその娘はまだそのことを知らなかった。
 わたしはその娘をわたしとは呼ばない。
 その娘が死んだとき、わたしは生まれたのだ。


 わたしはあなたを愛している。もう、姉に囚われてはいない。
 その娘を脱ぎ捨てたとき、わたしは姉の呪縛からも解放された。
 わたしは自分が姉となったことを悟った。
 わたしの姉、真理の名前がいま本当にわたしの名前になったのだ。


 そして、わたしはあなたの花嫁となったのだ。
 わたしは真理、だがもう、黒崎真理ではない、わたしの名前は有栖川真理。


 わたし、真理は、その娘のなかにいて、そのときからずっとあなたを愛していた。
 或いは、寧ろわたしはあなたのなかにずっとはじめからいて、その娘を通してあなたに愛を捧げ続けていたのかもしれない。


 いずれにせよ、その娘の死がきっかけとなり、わたしは目覚めたのだ。
 ここに――あなたの心の底に。そこでわたしはわたしになったのだ。 


 ああ、あなた、わたしの哀れな神様。
 あなたに分かってほしい、あなたは知らないだけだということを。わたしがあなたを愛しているということを。そして、あなたもまたわたしを愛しているのだということを。


 あなたに教えたい、どんなにあなたが深くこのわたしを愛してくれているのかを。
 あなたとは愛そのものなのだ。それなのにあなたにはそれが分からないのだ。
 あなたを救ってあげたい。その恐ろしい大きな誤解から。わたしにそれができるものならば。


 あなたの心を、あなたから隔てる、この分厚くどす黒い氷層の岩盤をどうすれば溶かすことができるのだろう。


 わたしの背後から、誰かが見ている。
 大きな闇のなかに座ってその姿も見定められない、何か恐ろしいものがいる。
 わたしにはあれが分からない。重々しい視線でこちらを見ている。
 脅すようでも襲い掛かってくるわけでもなさそうだが、わたしはとてもそれが怖い。
 あんな得体の知れないものが、どうしてあなたのなかに棲み着いているのだろう。


 あれもまたあなたが作り出したものなのだろうか。
 それともまたあれこそがあなたを操っているものなのだろうか。
 あなたはあれを知っているのだろうか。あれは本当にいるものなのだろうか。
 ここには、あなたとわたしの他に、まだ誰か他の者が隠れているというのだろうか。


 まあ、いい。いずれわたしにも分かるときがくるだろうから。
 眺めるままに眺めさせておこう。
 わたしはわたしのすることを続けよう。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-8 死んだ女の名は真理

[承前]

 

 

 ――ふん、行為の結果を心配するカントなどより、神秘主義者のクロウリーの方が余程、現実的な意味でも賢者だよ。きみらはきっと相手にしないだろうが、偉大な思想家だ。
 己れの欲することを為すこと、常識がぼくらを騙してその反対のことを妄想させるのに反して、実は最もこれこそが困難な業であることを認めるべきじゃないか。
 カントは偉そうな口調で言うが、奴の言う通りにするなんて馬鹿でもできる。
 全てを諦め、何もせずにいればいいのだ。
 意志も思考も捨てて、万人とやらいう幻想で脅してくる権力の操り人形になっていれば、誰も文句など言うまいさ。カントこそ正しさを装う詭弁家だ。
 ふん、カントはスウェデンボルグの神秘主義を批判し、続くヘーゲルは、その大著『精神現象学』で、ロマン主義者だけではなく、人相学だのメスメリズムだの当時流行のオカルト神秘主義を糾弾するために大きく紙幅を割いているが、全く、近代哲学の理性の法廷というのは、中世の魔女狩り宗教裁判の異端審問を見事に引き継いでいたのだ。
 ソクラテスやプラトンにはまだ敬虔で神秘主義的な処もあっただろうが、中世神学は魔女を、近代哲学はオカルティズムを、目の敵にしてきた。
 ハッ、そうやって脈々と排除されてきた魔術的思考こそ、ついにやっつけるものがなくなって自己審問を始めたヘーゲル以後の哲学にとって、最後に残された自分自身に対する最もラジカルな問いを誘惑するものではないのかね。
 ハイデガーは芸術と技術、この二つの『術』について考察を巡らしたが、当今これだけオカルトが蔓延しているのに、未だにどんな偉大な哲学者が敢えてこの魔術を真面目な問題として真正面から考察の俎上に上げる勇気を示しただろう! 
 きみら哲学者は本当は魔術が、いつも自分の流れの脇に無気味に流れ続けてきたこの別の知がとても怖いのさ。
 魔術、それは立派にひとつの思想であるというのに、きみたち哲学者はそれに神秘主義のレッテルを貼っていつも葬り去ろうとするのだ。
 だが、ぼくは、きみたち、常に《何故ならば~だから》なる偶像にお伺いを立ててしか行動できない迷信家どもに対し、マイスター・エックハルトの福音を伝えたい。
 《何故なき生》こそ至純の生、至純の自由、至純の神のいます処である、とね。
 まさに賢者とは、クロウリーやエックハルトのような人をいうのであり、カントのような輩をいうのではない。
 カントやヘーゲルこそ理性の神秘主義者だ。
 だからこそ、クロウリーやエックハルトを誤って神秘主義者と言って罵るのだ。
 それこそ理性の法廷とやらいう愚昧な異端審問の正体だ。
 しかし、世界は法廷ではない。ただ裁くことにしか脳の働かない小人が多いだけだ。
 だが、誰が裁いて欲しいとお願いしたというのか。
 誰がおまえが裁かないなら俺がおまえを裁いてやると言ったというのか。
 このような愚劣な法廷茶番劇は必ず賢者をソクラテス裁判して死刑にするだろうが、そんな法廷への愚弄もまたソクラテスよりエックハルトの方が一枚上手だった。
 彼は異端審問官どもに語った。
 《これらの言葉を間違って理解する人がいる場合に、正しいこれらの言葉を正しく語る人間は、それに対して何をなすことができるだろうか》と。
 無論、何もできはしない。そして世の中というのはそういうものだ。
 エックハルトはそのことをよく知っていたが、カントのように自分の口から勝手に出てくる真理に却下の蓋をしなかったのさ。
 何故ならカントにとっては、《できる・できない》だけが問題であったのに対し、エックハルトは、そんな《できる・できない》とは無関係に生きていたのだから。
 だからこそ、彼は他者に「何をなすことができるだろうか」を教えて貰うまで黙っていい子にしていはしなかったのだ。
 賢者というのは、決して《万人》とか《一般》とかいうありもしないものに向かっては語らないものだ。
 賢者の言うことは声の風だ。
 それはいつもこのように呼びかける――聞く耳あるものは聞くがいい、と。
 つまり、人は言いたい放題のことをただ言うだけだということだ。
 聞きたいように聞き、語りたいように語ること、汝の欲する処をなせ、勝手にしろ、それこそが法の言葉であるべきだ。
 ふん、哲学者とは思想の最低の敵だ。
 彼らの行動は総て、知恵と賢者に対する卑しい怨恨に発する。
 彼らに心なんかありはしないのだ。人間の屑だ。
 賢者〔ソフィスト〕のことを哲学者どもは《言葉を愛する者(フィロローグ)》と呼んで蔑んだ。
 しかし、これは自分の影を賢者に投影していたのに過ぎない。
 哲学者は《知恵を愛する者(フィロソファー)》などでありはしない。
 彼らは自分がいかに知恵〔ソフィア〕という女に愛されているかについておしゃべりをするのを好む人種であって、自分より知恵に愛されているかもしれない他人がいると嫉妬して押し掛け、人の恋路の邪魔をする下品な連中に過ぎなかった。
 彼らの関心は常に《われわれのなかで誰が一番賢いか》ということにあるだけだ。
 決して自分と知恵の水入らずの関係に耐えることのできない輩なのだ。
 だが、知ることは喜びであり、愛なのだ。
 ダサい口説き文句で人をクドき落とすことにのみ済々としている見下げ果てた軟派野郎にそんな真心などあるものか。
 彼らは甘い言葉で知恵をクドき、騙すことしか考えていないのだ。
 だが、そんな連中に真の愛は永久に齎されることはないだろう!

 

 すると、森は苦しそうにやや横を向いて言った。

 

 ――きみはまるで恐ろしく厳しく冷たい北風のような言葉を吹き付ける。
 確かにきみは無慈悲なボレアスだよ。彼女をぼくから攫っていった。
 だが恨み事をわざわざ言いにきたんじゃない。何を今更、そんな無益なことを……。
 確かに恨んではいたけれどね。

 

 ――だが、きみはその北風を探しにきたのだろう? 
 風の行方については既にぼくこそが、不幸な博識をひけらかしてみせた筈だ。
 だが、オレイテュイアはこのボレアスの処にも、ほら、見ての通りもういやしないぞ。
 ソクラテス、きみはぼくが幸せだとでも思っているのか?

 森は陰気に沈黙した。

 

 ――まあ、待ち給え。北風は目につくが、つかまえようとしても、さっきの通り、得体の知れないことを語って行方も知れない。
 それが風の言葉というものだ。
 だが、そこに居合わせたのは、ボレアスやソクラテスだけじゃない。
 だれが結局オレイテュイアをつかまえたのか? まだもうひとりいたんだ。
 きみはあっさりパイドロスを退去させてしまったが、追い払う前にもっとパイドロスの言葉に耳を傾けるべきだった。
 疑り深いソクラテスもこのソフィストも足りぬ知恵を競う下衆な明き盲に過ぎない。
 ふん、哲学者もソフィストもこの同じデルポイの暗く深い穴のつまらぬ狢だ! 
 そこで男のことばかり考えるから、女を取り逃がすことになるんだ。
 だが、ニーチェの言い草じゃないが、まさに、《真理は女なり》だ。

 

 思わず口から転がり出たこの台詞に、森はクスッと少しだけ笑った。
 僅かに気まずい雰囲気が和んだのは、女の名が実際、《真理〔マリ〕》だったからだった。

 

 彼女は確かに真理と呼ばれた。
 だが、それは本当の名前ではなく、後からすげ替えられたものだった。
 森もそのことはよく知っていた筈。
 真理という娘は、彼女が死ぬよりずっと昔に既に死んでいた。
 思えば、女は死人の名を既に名乗っていたのだった。
 或る意味で、つまり、その意味では、彼女ははじめから死んでいた。
 われわれ二人は真理という見知らぬ死者と付き合い、それに振り回されていたのかもしれないと、そんな考えがふわりと過ぎった。

 では、彼女の遅きに失したその自殺は、誰の死を本当は成し遂げたのだろうか? 
 その死のなかで、誰が死んだのだろう? 
 死んだのは誰なのか? 
 その死に誰の名前がつくのか? 

 

 奇怪な疑問が、既にその日からやや熱に重く浮かされかけた頭の回りで、次々に騒ぎ出していた。

 そして、そのとき、苦しみが始まった。

 

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